小ネタ:すこやん編

―― 小鍛治健夜の朝は遅い。

低血圧な彼女にとって布団と言うのはまさに楽園だ。
自分の身体から放たれる熱をしっかりと閉じ込めるその場所はとても暖かで心地良いのだから。
放っておけば何時迄も夢見心地から帰ってこず、微睡みを続ける。
けれど、彼女はそれでも自分で目覚ましをセットした事と言うのが殆どなかった。

「義姉さん。入るよ」

そんな彼女の部屋に入ってきたのは一人の少年だった。
子どもから大人への過渡期にあるその姿は15.16程度に見える。
それは彼の顔立ちが幾分、幼くも見える事が関係しているのだろう。
時に女性にも見えるほどに整っているその顔は、182cmと言う長身がなければ中学生に見えてもおかしくはない。

「…ってまた寝てるのか」

その肩を呆れるように上下させながら、彼はそっと呆れるような仕草を見せた。
勿論、彼とて、健夜の義姉になって既に十年が経過しているベテランである。
色々な意味でだらしない彼女の性質は理解しているし、体感もしていた。
それでもそうやって彼がつ呟いてしまうのは既にそれが日課になっているからだろう。
義姉と生活するようになってそれなりに時間が経っているが、彼女が自分で起きたところを彼は殆ど見た事がなかった。

「(でも…起こさない訳にはいかないよなぁ…)」

チラリと彼が時計 ―― アラサーの女性には似つかわしくないファンシーなキャラ物である ―― に目を向ければ、そこには7:00と刻まれていた。
普通の社会人であれば、そろそろ起きだして朝の準備をしている頃だろう。
だが、目の前の義姉にはその気配はまるでなく、心地よさそうに規則的な寝息を立てていた。
すぴーと幸せそうな顔で眠る健夜を起こすのは少し気が引けるが、けれど、今日の彼女は仕事があるのである。

「…義姉さん」

そう心に言い聞かせて、彼はそっと義姉の身体を揺すった。
ユサユサと脳を揺さぶるその刺激に「ぅぅん…」とアラサーの身体が身動ぎを返す。
けれど、彼女から帰ってくる反応はそれだけで、ソレ以上のものは何もない。
分かっていたとは言え、起きる気配のない義姉に彼は肩を落としながら、ゆっくりとその布団をめくった。

「ひゃ…あぁ…」

瞬間、彼女を包む朝の冷気に小柄な身体が縮こまる。
フルフルと小動物めいたその仕草は庇護欲を擽るが、さりとて、義弟は手を緩めたりはしない。
親同士が再婚してから十年間、義姉を起こすのは彼の役割だったのだから。
この程度で健夜が起きるはずがないと分かっているのもあって、すぐさま次の手を打った。

「ほら、義姉さん。朝だよ」
「ぅー…やらぁ…寒いぃ…」

そう言って彼の手は健夜の身体を強引に起こす。
グイっとベッドから引き起こそうとするそれに健夜の口から抵抗の言葉が漏れた。
それは彼女の脳が半ば覚醒を始めている証なのだろう。
それを理解している義弟はさらに手に力を入れて、ゆっくりと彼女を抱き上げた。

「ん…♪」

瞬間、身体を包む暖かさに健夜はかすかに声をあげた。
心地よさそうにも満足そうにも聞こえるそれは朝の冷気とはまるで違う体温に包まれているからだろう。
彼女にとって義弟の暖かさというのは布団のそれに並ぶくらいの心地良さを与えてくれるものなのだ。
こうして抱きあげられる安堵感と安心感を感じてしまうくらいに。

「起きた?」
「…起きたぁ…♪」

その安心感をより確かなものにしようと彼女の瞼がそっと開く。
瞬間、健夜の目に映ったのは愛しい義弟の顔だった。
朝の日差しに負けないくらいキラキラと輝くその髪は男性らしく短く切りそろえられている。
鼻筋はしっかり通って、目元も温和で優しいものだ。
彼女を見下ろすその瞳もまたクリクリとした愛らしいものである。
そんな瞳と唇に自分を慈しむようなものが浮かんでいるのだから、免疫のないアラサー女が耐えられるはずがない。
その両腕をスルリと義弟に絡みつかせながら、彼女はほぅと安堵の息を漏らした。

「じゃ、降ろすよ」
「…嫌」

どうやら本格的に起きたらしい義姉を、彼はそのまま床の上へと降ろそうとする。
しかし、それにすぐさま拒絶を示す健夜は絡みつく腕にギュッと力を込めた。
まるで意地でも義弟を離すまいとするそれに彼は小さく肩を落とす。
しかし、そこには呆れるような感情はなく、ただただ諦観だけが浮かんでいた。

「…義姉さん、そろそろ卒業しないと」
「卒業なんか…しないもん」

勿論、それはこうしたやりとりが毎朝のものだからだ。
彼がこうして義姉を起こすやり方を確立してからずっと続いているのである。
しかし、義姉も味を染めたのか、コレ以外のやり方で起きようとはしない。
例え起きても延々と眠ったふりを続けて彼の手を煩わせるのだ。

「…それとも京太郎は嫌?」
「嫌じゃない…けど…」

そんな彼女を降ろすにはある儀式が必要である。
しかし、それは普通の姉弟でやるような行為ではないと彼 ―― 須賀京太郎も分かっていた。
その意味も知らなかった小さい頃ならばともかく、今の彼はもう青春まっただ中の高校1年生なのだから。
性教育も済ませ、人並みに異性に興味のある彼にとって、それは中々に踏み越えづらい一線だ。

「…ん♥」
「ぅ…」

けれど、そんな京太郎の逡巡も気にせず、健夜はそっと瞼を降ろす。
それは眠る為のものではなく、ただ瞳を閉じる為の仕草だ。
そのまま微かに唇を突き出す彼女の頬は緩やかな紅潮を見せ始めた。
熟れた桃を彷彿とさせるその優しい色に、彼の口から小さな呻き声が漏れる。

―― 一秒…二秒…三秒…四秒…

それだけ経過しても尚、その仕草を義姉は崩さなかった。
まるで自分の望むものが必ず来ると分かっているように目を閉じ続ける。
そんな彼女に惹かれるようにして、京太郎の顔がゆっくりと近づいていった。
牛の歩みよりもさらに遅く緩やかなそれは、しかし、止まる事はなく、数秒後、義姉の唇と触れ合う。

「ん…♥ふぅ…♪」

それに満足気な吐息を漏らした瞬間、健夜の身体がブルリと震えた。
まるで抑えきれない喜悦を示すようなその仕草に、けれど、京太郎の身体は揺るがない。
腕の中にすっぽりと収まったそれが大切な宝物であるかのようにしっかりと抱き上げ続けている。
そんな義弟の逞しく頼りがいのある姿に身体だけではなく心まで震わせながら、健夜は一つの言葉を胸に浮かばせた。

「(幸…せぇ…♥)」

トロンと胸の奥が蕩けるような独特の幸福感。
それは決してあって良いものではないと彼女も理解していた。
なにせ、彼女と彼は義理ではあるものの姉弟であり、年齢差だってかなりのものなのだから。
こうして京太郎のキスを強請っていた健夜とて、それがどれだけみっともなく、はしたない事か自覚しているのだ。

「(でも…止められ…ない…♥)」

それでも健夜は自分の感情をどうしてもコントロールする事が出来ない。
それがどれだけいけない事であり、世間から後ろ指刺される事だと理解していても、こうしてキスされた瞬間、全てが吹き飛んでしまう。
道徳観や倫理観を纏めて吹き飛ばすその幸福感はいっそ中毒めいた危なさを含んでいるのだ。
お陰で健夜は最初のキスからずっとこの感覚の虜になってしまっているのである。

「ふぁぁ…♪」
「…っ」

そんな健夜の唇からゆっくりと京太郎の唇が離れていく。
触れ合っていたのは十秒にも満たない時間 ―― 回数はその半分程度だろう。
ぎこちなく続いたバードキスは終わり、健夜の瞼もゆっくりと開いていった。
その奥から現れた瞳は欲情とも幸福感とも言えぬもので甘く濡れている。
テラテラといけない感情を滲ませるその瞳は紅潮した頬と相まってとても愛らしく、義弟の胸を微かに掴んだ。

「えへ…♥」
「…もう良いだろ」

それを出来るだけ表に出さないようにしながら、京太郎は義姉に突き放すような言葉を向ける。
それに蕩けた笑みを浮かべていた健夜が微かに不満気なものを滲ませた。
しかし、それを言葉にはせず、彼女はゆっくりとその腕を解いていく。
そのまま離れる義姉の身体をゆっくりと絨毯の上に立たせて、ようやく彼の仕事が一つ終わった。

「…じゃあ、京太郎、次は着替えさせてくれる?」
「それは駄目」

だからと言う訳ではないが、彼は義姉の言葉をきっぱりと断ってみせた。
勿論、それは健夜の手伝いが面倒だという理由だけではない。
幾ら義姉であり、アラサーであるとは言え、彼女の顔立ちはとても整っているのだ。
京太郎と同じく童顔である義姉は到底、アラサーだとは思えない。
その肌のきめ細やかさや身体のラインも20代前半から一切、崩れる事はなかった。
そんな彼女の肢体を間近で見ても尚、自分を律し続ける理性があるとは京太郎には思えなかったのである。

「…意地悪ぅ」
「はいはい。それじゃ意地悪な俺はとっとと下に降りてるからな」

そんな京太郎の切実な感情に気づく事もなく、健夜はそっと頬を膨らませる。
何処か子どもじみたその仕草も義姉に似合っていると思いながら、彼はそっと背を向けた。
そのまま振り返る事なく部屋を出て行く義弟を見送りながら、健夜は小さくため息を吐く。

「(…私ってやっぱり魅力ないのかなぁ…)」

小鍛治健夜と言う女性は今までろくに男性との付き合いがなかった。
小中とあまり積極的ではなかった彼女はそのまま女子校へと進んでしまった事も無関係ではないのだろう。
引っ込み思案な性格を治す事もなくそのままプロ入りし、慌ただしく日本を飛び回った彼女にそんな暇はなかった。
そんな生活に嫌気が差して実家に戻ってきてからも異性との出会いはなく、結果、健夜は正当に自分のことを評価する機会に恵まれなかったのである。

「(…まぁ、京太郎から見たらもうおばさんだもんね…)」

頬を膨らませたり子どもっぽい言葉遣いをする彼女でも、自分の年齢の事くらいは分かっている。
最早、若くない事に対する自覚はあり、義弟との年齢差は常に意識するものであった。
彼女の愛しい義弟はまったくそんな事を思っていないのだが、しかし、そんなもの彼女に分かるはずがない。
今まで異性との付き合いがろくになかった健夜にとって、義弟の性的興奮の混じる目を判別する事は出来なかったのだ。

「(…お母さんももうちょっと後に産んでくれれば良かったのに…)」

そうしたらこんな風に悩まなくても済んだはず。
そんな風に思いながらも健夜が母に恨みを向ける気にはなれないのは、母の再婚のお陰で京太郎と出会えたからだろう。
彼女の人生の中で誰よりも身近に【来てくれた】義弟の存在に、健夜は数え切れないほど救われていた。
最初から【居た】母ではなく、信頼と尊敬を持って近づいてくれた京太郎がいなかったら、今の自分は間違いなく存在しない。
そう思うほどに彼の事を重視している彼女にとって、母とは恋のキューピッドも同然であった。

「よいしょっと…」

そんな事を考えながら健夜は軽く着替えを済ませる。
ファンシーな動物が描かれたパジャマから黒いミニスカサロペットと灰色のシャツへと。
胸の下から背中までを紐で結ばれたそれは彼女にとってお気に入りの一つである。
胸下辺りに上品なレースの入ったそれは京太郎と一緒に選んだものなのだから。
他にも彼に選んでもらったり買ってもらったものは沢山あるが、ラフで気軽なその服はその中でも特にお気に入りなものだった。

「(ん…大丈夫かな?)」

既に何度も着ているのでその組み合わせがどんな風に映るかは知っている。
それでもクルリと健夜が鏡の前で回るのは、この姿を真っ先に見るであろう義弟が愛おしいからだ。
出来るだけ見栄えが良く有りたい、義弟に可愛いと思って欲しい。
彼が来るまでは自分には無縁だと思っていた感情が、今、彼女を突き動かしている。

「(ついでに笑顔の練習…)」

とは言え、それが決して成果として現れるかはまた別問題である。
鏡の前で頬を釣り上げて笑おうとする彼女の表情は、とてもぎこちないものだった。
ギリギリとそんな機械の軋みさえ聞こえてきそうな表情に、健夜はそっとため息を漏らす。
義弟の前では自然な笑顔が出てくるのに一体、どうして自分は愛想笑い一つ上手に出来ないのだろう。
それに自嘲を覚えた瞬間、彼女の鼻孔を芳しい匂いが擽った。

「…う」

そのままグゥと鳴るお腹は正直者だ。
美容と健康の為に寝る六時間前から一切の食事を絶っている健夜にとってその匂いはあまりにも効果が高過ぎる。
寝起きの身体が思い出したかのように空腹を訴え、彼女の意識をそちらへと向けさせた。
それに引っ張られるようにして健夜の身体もフラフラと歩き出し、そのまま匂いの源へと進んでいく。

「ふっふふんふんふーん♪」

そんな彼女が行き着いたのは階下のキッチンであった。
二人の親が再婚してからリフォームされたそこには上機嫌で鼻歌を歌う義弟の姿がある。
スラリとした長身にエプロンを纏うその様は意外なほどに様になっていた。
一見すれば軽いタイプにも見えるはずのその表情も心から嬉しそうに輝き、リズムよくフランパンを揺すっている。

「あ、義姉さん、おはよう」
「ぅ…ん。お…はよ…ぅ」

いっそ幼く見えるくらいの優しい表情を浮かべる義弟はそのままニッコリと振り返る。
瞬間、義姉の胸がトクンと脈打ち、表情がぎこちなくなった。
しかし、それはさっきのように無理をして笑顔を作ろうとしていた時とまったく違う。
寧ろ、その奥にある感情を何とか堪えようとするが故に、言葉も尻すぼみになっていた。

「(…はぁ、京太郎君…今日も素敵…)」

もう何年も感じてきた事ではあるが、こうして毎朝、彼に微笑まれる度にそれを実感する。
勿論、健夜とてそれが恋する乙女が故の贔屓目である事くらい分かっていた。
けれど、それを一々、訂正するような理性が初恋をそのまま義弟に捧げているアラサーにあろうはずもない。
彼女にとって義弟と言うのはそれだけ素晴らしい存在であれば、世間がどう思おうとまったく関係ないのだ。

「すぐ出来るから待っててくれよ」
「うん。でも…あんまり急がなくて良いからね」

義弟の言葉にうなずきを返しながら、健夜はそっとリビングの椅子に座る。
そのままキッチンで動く京太郎の姿を見るのが、彼女はとても好きだ。
出張なども多い両親に代わって須賀家の台所を長年、預かっている彼の仕草はとてもてきぱきとしている。
動作一つ一つが流れるようにも見えるそれはさらに強まる美味しそうな匂いと相まって、期待をそそられるくらいに。

「(…一応、私も出来るけど…京太郎君には敵わないなぁ)」

それを脳裏の自分の様子と重ねあわせて、健夜は内心ため息を漏らした。
再婚した当初、まだまだ幼かった京太郎の代わりに料理を作っていたのは健夜である。
それはあまり出来が良いものではなかったものの、義弟はキラキラと顔を輝かせて喜んでくれたのをよく覚えていた。
そんな彼の顔を見るのが嬉しくて、その勉強を始めた健夜も一応、人並み以上には料理が出来る。

「(…就職さえなければ…)」

しかし、それもプロ入りまでの事。
インターハイからその片鱗を見せていた大型新人は一年目から大忙しだったのである。
結果、家で料理を作ってあげる暇もなくなり、その腕も幾分錆びついてしまっていた。
勿論、それからドロップアウトして、地元に貢献している今であれば出来ない訳でもないのだが… ――

「(今はもう京太郎君の方が上手だし…)」

多忙な両親や姉に代わってその台所を引き継いだのは他でもない彼であった。
勿論、最初は失敗ばかりだったものの、数年も経てば様変わりもする。
元々、そういう才能もあったのかメキメキと料理の腕をあげた義弟はあっという間に健夜の腕を追い越していた。
そんな彼に自分の料理を振る舞うというのは何とも気恥ずかしく、物怖じを覚えてしまう。
元の性格があまり活動的でない事も相まって、葛藤を覚えながら健夜は中々、義弟に料理を作ってあげる事が出来なかった。

「出来たよ」
「わぁ…」

そんな自分への情けなさも目の前に差し出された朝食を見れば吹き飛んでしまう。
健夜の好きな半熟トロトロのベーコンエッグに、玉ねぎや人参の浮かんだコンソメスープ。
切り揃えられたソーセージから浮かぶ湯気の向こうには小麦色に焼きあがったパンが並んでいる。
その横には手作りのジャムが並ぶ光景など、一般家庭ではそうはお目にかかれない。
それもこれも義弟が人に喜んでもらうための努力を惜しまないタイプだからだろう。

「いっただきまーす」
「はい。どうぞ」

そして義姉はそんな義弟の努力をムダにしないタイプだ。
朝食としてはかなりのランクに入るそれに萎縮する事はなく、すぐさま手を合わせる。
そのまま手を伸ばすのは白身の上にトロトロとした黄身が乗るベーコンエッグだ。
ベーコンの油と塩コショウだけで味付けされたそれをゆっくりと口に運ぶ。
瞬間、口の中に広がる旨味は素材の味を活かした優しいものだった。

「どう?」
「美味しいっ」

最低限の調味料ながらもしっかりと健夜の味覚にヒットする味付け。
それを少ない言葉で賞賛しながら、彼女はまた別の料理へと手を伸ばす。
ベーコンエッグによって完全に食欲を刺激された健夜の動きは止まらない。
あっという間に一人前をたいらげて、その口から満足気なため息を漏らした。

「ふぅ。ご馳走様」
「はい。お粗末さまでした」

そんな挨拶を交わしながら、京太郎はクスリと笑った。
勿論、彼は既に朝食を終え、義姉の目の前でホットミルクを飲んでいる。
幾ら食欲をそそられたと言っても、健夜の食事は元々遅いのだ。
小動物のように小さく削って、反芻するようにゆっくりと味わっているのだから。
食事だけで数十分掛かるのも決して珍しくはない。

「(…でも、悪い気はしないよな)」

勿論、人に尽くすのが好きだと言っても見返りがなくてはやってはいけない。
須賀京太郎と言う人物は普通よりも人が良いタイプではあるが、決して聖人君子ではないのだから。
人並みに欲がある以上、どうしても報われたいと言う気持ちはある。
そんな彼にとって目の前で美味しそうに食べてくれる義姉の姿は最高の報酬だ。
それが見たくてついつい毎朝の食事の準備も頑張ってしまうくらいに。

「んじゃ…そろそろ俺も行くよ」
「…うん」

とは言え、あまりそんな風にのんびりはしていられない。
彼がまだ高校生であり、今日が平日である以上、学校へは行かなくてはいかないのだから。
朝は比較的余裕があるようにしているが、それでも食べるのが遅い義姉に付き合っていると時間もなくなる。
時計を見ればそろそろ登校を始めなければ危ない時刻を指していた。

「あ、昨日も言ったけど…今日は遅くなるかもしれないからさ」
「うん…分かってる」

そんな彼が自宅へと帰ってくる時間は夕方過ぎになる。
それは京太郎が高校生になってから部活を始めたからだ。
自他ともに認めるシスコンである義弟は義姉のようになりたくて麻雀部に所属したのである。
これまで家族麻雀で鍛えあげられていたとはいえ、一年は一年。
周りが女子ばかりなのも相まって、雑用ばかりやっているのを義姉もまた知っていた。

「ちゃんと歯を磨いてから出ないとダメだぞ」
「もう…そこまで子どもじゃないよっ」

その情報によって浮かぶ暗い感情を誤魔化すように健夜は全身で怒りをアピールする。
そんな義姉にイタズラそうな笑みを向けながら、京太郎はそそくさと玄関へと消えていった。
数秒後、ガチャンと言う音が鳴り、健夜に扉の開閉を知らせる。
その瞬間、小さくため息を吐いてから、健夜はゆっくりと義弟が残してくれたコーヒーに手を伸ばす。

「…ん」

健夜の好きなミルク2にシロップ1が混ぜ合わされた甘いコーヒー。
それに舌鼓を打ちながらも、心の中の苛立ちはどうしても消えなかった。
勿論、それは義弟が原因という訳ではない。
常日頃から尽くしすぎるくらいに尽くしてくれている彼に、義姉は一切の不満はなかった。

「(…京太郎を…良いように使って…)」

勿論、京太郎がそうして人に喜んでもらうのが好きである事を彼女も知っている。
おそらく麻雀部でも自分から率先して雑用をすると言い出したのだろう。
しかし、それによって愛しい義弟との時間を削られている彼女にとって、見知らぬ麻雀部の面々は敵と言っても良い存在だった。
ぶつける場所のない苛立ちを向けても問題もない ―― さらに言えば大義名分もある ―― そんなある種都合の良い相手だったのである。

「(…ううん。一人だけ…知ってるっけ)」

そんな麻雀部の中に新入りが生まれたらしい。
健夜も何度か顔を合わせている宮永咲という少女。
彼女からさらに輪をかけて臆病で引っ込み思案なその少女の事を京太郎は気にかけていた。
それはどことなく彼女が義姉に通じる雰囲気のあるからではあるが、そんなもの健夜が知る由もない。
健夜にとって大事なのはその少女が自分から京太郎を奪いつつある存在であるという事だけだ。

「(京太郎君は…私のものなのに…)」

それがどれだけ自分勝手で無茶苦茶な思考であるという事くらい彼女は理解している。
その感情がどうであれ、二人は姉弟であり、結婚など出来るはずもない。
ましてやその感情を彼にぶつけた事もない以上、自分のものだなんて口が裂けても言えないだろう。
だが、そうと分かっていても、行き場のないその感情を理性で押しとどめる事は難しかった。

「(私が…一番、京太郎君の事を理解してる…想ってるのに…)」

それは人並み以上に健夜が京太郎の事を理解していると言う事と無関係ではないのだろう。
長年、彼と一緒に生活してきた義姉は世界で一番、彼のことを理解していると言い切る事が出来る。
世界2位になっても尚、自信を持てなかった麻雀よりも遥かに自信を持って宣言出来るのだ。
それがどれだけ異常で、普通ではあり得ない事か、健夜は自覚してはいない。
義弟の心奪われた彼女は、彼の事以外に対してはあまりにも疎くなってしまっているのだから。

「(…だから、京太郎君は…私と一緒にいるのが一番なんだ…)」

そう結んだ瞬間、彼女の心に寂しさが湧き上がる。
それは健夜が自分の近くに義弟がいない事を自覚してしまったからだろう。
何時だって自分の事を照らし、暖めてくれる太陽のような存在。
それがいないというだけで健夜の心は冬が訪れたかのように凍え、暖を求めようとする。

「(…京太郎君…)」

その感情のままに健夜はゆっくりと立ち上がる。
その手にはまだ湯気が立ち上るコーヒーがあったが、彼女はそれを省みる事はなかった。
勿論、それは彼の入れてくれたコーヒーでも、その凍えるような寂しさはなくならないからである。
どれだけ熱く、暖かな飲み物でも、今の健夜を癒やす事は出来ない。
それが出来るのは他でもない義弟の存在だけなのだ。

「…ん…♪」

そんな健夜が向かったのは京太郎の部屋だった。
部屋中に京太郎の匂いが満ちるそこは彼女にとっての楽園である。
大きく息を吸い込めば、肺の中から京太郎に満たされた気がした。
それだけで幾分、気分も落ち着き、ほっとため息が飛び出る。

「…はぁ、私…何をやっているんだろう…」

けれど、それは自嘲と共に漏らされたものだった。
健夜とてこんな事をする自分がおかしいという自覚はあるのである。
しかし、それでも感情はどうしても止まらない、いや、止まれない。
分かっていても尚、愛情がそのまま裏返しになったような寂しさには抗えないのだ。

「(…このままじゃ私…おかしくなっちゃう…)」

最初は勿論、こうではなかった。
決して頼りがいがあるという訳ではないが、それでも義姉としてそれなりに上手くやっていけたのである。
だが、それが義弟への恋へと転じ、それが深まっていく中で、心もまた変貌していった。
自分の中にそんなものがあったなんて思えないほどのドロドロとした独占欲混じりの感情が少しずつ勢力を強めていっている。

「(…怖いよ…助けて…京太郎君…)」

自分が自分でなくなっていくような薄ら寒さ。
しかし、何より恐ろしいのはそれが良いと思う自分が日に日に大きくなっていく事だった。
義弟との時間が少なくなっている今、その自分勝手な自分をどうしても止める事は出来ない。
それを止める事が出来るのは何時でも健夜に暖かなものをくれる最愛の義弟ただ一人だけなのだ。

「(ダメ…そんなの…ダメだよ…)」

それを大義名分にしておかしくなろうとする自分。
おかしくなるのを食い止める為に仕方ないのだと思うその感情を健夜はなんとか歯止めを掛けた。
そのまま意識の奥底へと沈めようとする義姉に、しかし、意識そのものが抗う。
独占欲という猛毒に半ば支配されたそれは最早理性ではどうにもならないのだ。

「……えい」

それを自分一人でどうにかするのを諦めた健夜はボフリとベッドに身体を沈める。
勿論、それは自分のベッドではなく、普段、義弟が使っているベッドだ。
自然、そこに染み付いていた京太郎の匂いが、抗う意識をゆっくりと鎮めてくれる。
お陰で今日もまたダメな自分を封印できたと一息吐いた瞬間、健夜の胸に甘いものが満ちた。

「あぁ…♪」

京太郎の匂いは義姉にとって最高の媚薬だ。
その残滓を感じるだけで胸が疼いてしまう自分にとって、今の環境はあまりにもまずい。
そう思いながらも彼女の身体は京太郎のベッドから離れる仕草すら見せなかった。
それは勿論、その場所が起きたばかりの健夜に微睡みを与えるほど心地良かったからである。

「…きょぉたろう君…♥」

瞬間、健夜の口から漏れ出る甘い声。
義姉ではなく女としての声に彼女の背筋がゾクリとしたものを訴える。
同時に腹の底から沸き上がる甘い衝動に義姉は微かに肌を震わせた。
自分の内側を滴り落ちていくようなそのもどかしさに手がゆっくりと動き出す。
義弟のベッドという最高のシチュエーションの中、それは彼女の服の中に入って ――

ブルルルル

「ひゃう!?」

それが中断されたのは突如として割り込んだ振動の所為というべきかお陰と言うべきか。
彼女自身分からないままに肩を震わせ、声をあげる。
まるで天敵と鉢合わせてしまった小動物のようなその仕草に、しかし、振動の源はまったく構わない。
ブルルと機械的に震えて、健夜に何かを伝えようとするままだった。

「…はぁ」

今から自分を慰めようとしていたのに水を差された所為か、或いは自分の痴態が今更恥ずかしくなったのか。
ため息の理由を考えることを放棄しながら、健夜はゆっくりとポケットから携帯を取り出す。
数年前に義弟と一緒に選んだ携帯 ―― 今ではガラケーと呼ばれて区別されるそれを開けば、ディスプレイに見慣れた名前が浮かんでいた。
仕事で何度も組み、プライベートでも話す事の多い相手 ―― 口には出さないけれど友人だと思っている彼女の着信に健夜はボタンを押して応える。

「はい。もしもし」
「あ、すこやん。起きてたー?」

そのまま耳に当てた携帯から伝わってくるのは明るいハキハキとした声。
どれだけ勢い任せで話していても、彼女がアナウンサーである事を知らせるその声に健夜はほんの少し嫉妬を感じる。
引っ込み思案な自分とは違ってハキハキと言いたい事が言える彼女のようであれば、こんな気持ちに振り回される事もないのに。
八つ当たりめいたその思考を理性が再び意識の底へと沈める健夜の耳に再び相手 ―― 福与恒子の声が届いた。

「アラフォーだから起きれないかと思ってた」
「アラサーだよ!?」

そんなお決まりのネタを交わす度に健夜は思う。
もうそろそろこーこちゃんもアラサーの仲間入りじゃないか、そうなったら何時か絶対に弄ってやる、と。
勿論、彼女自身もそんな姿は想像出来ないし出来るとも思わないが、鉄板ネタとは言え多少傷ついているのは確かなのだ。
ましてや日に日に三十路というある種の境が見えてくる立場であれば尚更である。
それを笑って許しているのは相手のキャラと、それなりに仲が良いと言う自負からだ。
それがなければ今すぐ上に掛けあってコンビを解消するように言っているだろう。

「今日も愛しい弟ちゃんに起こされたの?」
「…うん」

とは言え、そんな仲の良い相手でも流石にキスで起こしてもらいましたとは言えない。
それは彼女にとっても義弟にとってもトップシークレットであり、決してよそに漏らしてはいけないものなのだ。
友人としてはそれなりに信頼しているものの、福与恒子は些か勢いで話しすぎる傾向が強い。
言ったところで明確に関係が変わったりはしないと思うが、秘密を漏らす可能性が否定しきれない以上、話す訳にもいかなかった。

「良いなぁ。私もあんなイケメンで献身的な弟が欲しいなぁ」
「…あげないよ、絶対」

そんな彼女に応える声は自分でも驚くほどに冷たいものだった。
まるで相手に明確な敵意を向けているようなそれに健夜自身も驚く。
だが、同時にそれは当然だと思うのは、彼女にとってその立場がとても大事なものだからだろう。
義姉と言う立場がなければこんなに悩みはしなかったとはいえ、それは愛しい義弟に尤も近い居場所なのだから。
それを奪おうとする相手の言葉に ―― 例えそれが冗談だと分かっていても ―― 底冷えするような殺意を向けてもおかしくはない。

「じ、冗談だって。ホントすこやんは京太郎君の事となるとマジになるんだから…」
「…それで用件は何?」

否定も肯定も出来ない恒子の言葉。
それに応える事を諦めながら、健夜は話を本筋に戻そうとする。
幾ら彼女がお気楽そうに見えるとは言え、朝から自分をからかう為だけに電話をしてこないだろう。
気持ちを切り替える為にも早くその用件を聞いて、通話を切りたい。

「あ、今日の収録なんだけど…打ち合わせがちょっと前倒しになったらしくて」
「え?」
「そろそろ出ないとまずいかなーって思って連絡したんだけど」

恒子の言葉に部屋の時計を見れば、そこには確かにまずい時間が刻まれていた。
と言うか、今から出ても、ほぼ遅刻確定である。
焦る焦らないの問題ではなく、物理的に間に合わないようなそんな時間。

「わ、私聞いてないよ!?」
「私もさっき聞いた…ホント、社畜って辛いよね…」
「うん…ってしみじみしてる場合じゃないよ!?」

放送枠の都合やトラブルによって往々にして出演者にしわ寄せが行く事を健夜も理解している。
その事でお金を貰っているのだから、今更、文句をいうつもりはない。
しかし、なんでもうちょっと早く言ってくれなかったのか。
後十分早ければまだ何とかなったかもしれないのに。
根が真面目な小鍛治健夜はそう思いながら、ガバリとベッドから立ち上がる。

「と、とにかく!準備するから…!」

そう言い逃げするように通話を切りながら、健夜はキョロキョロと周囲を見渡した。
勿論、そうやって見回したところで彼女がいるのは自室ではなく、準備するものは見えない。
それでもこうして見渡してしまうのは彼女自身が困惑しているからだろう。
普段であればそんな健夜をフォローする義弟や恒子がそばにいるのだが、今の彼女は一人だ。
すぐさまやるべき事が思い浮かばず、どうしようとそんな言葉だけが思考を滑っていく。

「……ぁ」

そんな彼女の思考を現実へと引き戻したのは机の上に置いてある義弟の写真立てだった。
小学校の頃に彼が図工で作ったその中には義弟と義姉のツーショットが入っている。
彼が小学校を卒業した時 ―― はにかむ義弟とそれに並ぶ自分の姿に頬が緩んだ。
今の自分と同じ頬を緩ませて嬉しそうにする過去の姿に活力が湧いてくる。
今日も一日、義弟の為に頑張ろう、そんな言葉が思い浮かぶくらいに。

「……うん。大丈夫」

今はまだ大丈夫。
その言葉の意味を健夜は正確に理解していた。
義弟の心は今まだ誰のものではなく、自分を第一に思ってくれている。
机の上の写真立てもそうだし、携帯の待受も自分と選んだものだ。
愛しい ―― けれどその感情に身を任せる訳にはいかない相手のそれは何時だって健夜の心を安定させる。
どんな状況からでも前に進む活力と気力を、義姉に与えてくれるのだ。

―― …でも、もしそれがなくなったら?

「……」

何時かは義弟も彼女を作るだろう。
彼の顔立ちは惚れた欲目は脇においても整っているのだから。
性格も義姉とは違って積極的であるし、何より献身的だ。
恒子はそんな彼を冗談めかして欲しいと言ったが、本気でそう思っている相手は間違いなくいるだろう。
少なくともその魅力を誰よりも良く知る義姉にとって、それは疑いようのない事実であった。

―― その時、自分はどうなってしまうのか。

今もこうして自分を落ち着かせてくれた写真立て。
その中に自分ではない女の写真が入っていたら…どうなってしまうのだろう。
自分と一緒に選んだ義弟の携帯が突如として最新機種に変わり、その待受が別の女になっていたらどうなってしまうのだろう。
今のまま踏みとどまれるのか、或いは足を踏み外して狂気へと堕ちてしまうのか。
分かりきっているその答えを出すのが健夜は無性に怖かった。
それはその現実がヒタヒタと足音を立ててすぐ側まで迫っている気配を感じているからである。

「……私は…」

何時まで義姉で居られるかは分からない。
きっと何時かはこの狂気に足を滑らせ、義弟をそこに引きずり込もうとするだろう。
いや、それだけではなく、彼を傷つける事だってあるかもしれない。
その前に義弟の前からいなくなるのが正しい。
健夜の理性は間違いなくそう訴えていた。

「…お仕事しよう」

だが、それをどうしても認められない心は問題を先送りにする。
何時か破滅が待っていると分かっていても尚、それを一分先一時間先一日先へと流していくのだ。
勿論、そうやっていても解決する事なんてない事くらい健夜も分かっている。
だが、そうして先送りにしていたらその分、義弟の側に居られるのだ。
愛しくて愛しくて…おかしくなりそうな彼の側に、義姉と言う結ばれない関係ではあれど、いる事が出来る。

「(…他には何も要らない)」

退廃的なその思考を、けれど、健夜は止める事が出来ない。
既にその心は須賀京太郎と言う猛毒に侵され、崩れてしまっているのだ。
依存と言っても良いくらいに傾倒している自分を誇らしいと思うくらいに。
小鍛治健夜にとって彼はもう空気や水と同じレベルで必要不可欠なものになっている。

「(…だから)

だから、今日も頑張るのか、だから、堕ちても仕方ないのか。
自分でもその言葉をどう繋げるつもりであったのか健夜には分からない。
ただ、彼女の胸にあったのは前向きな活力と、それと同じくらいの暗い活力であった。
心の奥底にねっとりと溜まり続け、使われる事を待ち続けるそれから彼女は目を背ける。
代わりに差し迫った問題をまずは解決していこうとその足をゆっくりと踏み出して ――



―― 小鍛治健夜が崩壊するまで後 X日
最終更新:2014年02月04日 20:23