もしも願いが叶うなら 4

 ありがとうございましたー、の声に見送られ、【神楽】はコンビニを出た。
近くの公園のベンチに腰掛け、買ったスポーツドリンクのボトルのふたを開け
口に含む。少し落ち着いてきた。落ち着いてくると、さっき榊に言ったことに
対する後悔の気持ちが浮かんできた。
「どうしてあんなこと言っちゃったんだろう……」
 考えてみれば、自分が勝手に榊に対して無茶を言っていたのだ。榊の都合も、
気持ちも考えずに。それに、榊が承諾して代わりに大会に出てくれたとしても、
大会に出るのは自分の姿をした【榊】だ。それじゃ、どんなにいい記録が
残ったとしても意味がないじゃないか……。
「こんなことに気づかないなんて、私、バカだよな」
呟いてため息をつく。自分はいつも勝手に熱くなって失敗ばかりしている。
本当にがさつだ。熱中すると周りが見えない。この性格のせいで入れ替わる前も
入れ替わった後も迷惑をかけっぱなしじゃねーか。
 それに、榊は周りからほめられたいと言う理由だけでいい点を取ろうとする
ヤツなのだろうか。そうじゃない。詳しいことは分からないが、きっと、榊は
理由があって勉強に情熱を注いでいたのだろう。水泳に情熱を注ぐ自分のように。
もともと榊のものである手のひらを見る。この傷だらけの手で勉強、
がんばっていたんだな。私は、自分の認めたライバルを、友達を、
信じられなかったのか? なら今からでも信じねーと。信じる気持ちを表さねーと。
「榊に……謝ろう」
 それくらいしか、今の自分に出来ることはない。だが、榊は許してくれるだろうか。
(考えててもしかたねーか。もともと私は考え込むのは苦手なんだ)
 【神楽】は立ち上がり、もと来た方向に向けて歩き出した。
 コンビニの前まで戻ってきた。榊は怒って帰ってしまってないだろうか。
そう考えていると、
「神楽!」
と声がした。声の主は【榊】だった。こっちに走りよってくる。【神楽】が
謝ろうとして口を開こうとしたが、しかし、
「ごめん、神楽」
と先に謝ったのは【榊】だった。【神楽】は驚いて、
「なっ、何謝ってるんだよ! 謝らなくちゃいけないのはこっちだ!」
と叫んだ。【榊】は、
「いや……水泳にどれだけ情熱を持っていたか知っていたのに断った私が悪いんだ。
ごめん。やっぱり部活と大会には神楽の代わりに出る」
とまた謝った。
「だから、本当に謝らなくちゃいけないのは私だって! 私が榊に無理言って
出たくない大会に出させようとしたんだぜ? さっきは焦ってて気づかなかったけど、
その、そんなことされたらすごくやだよな。悪かった! 私はほんとがさつで
そういうところ気がつかなくて……自分のことしか考えてなくて……」
【神楽】はそのとき【榊】の表情に気がついた。今にも泣き出しそうだった。
榊がぽつりとしゃべった。
「自分のことしか考えてなかったのは、私も同じだ……。体育会系が嫌いだから
というのと……。夢のために大学に入らなくちゃいけないってこと、
そればっかり考えていて……」
「夢……そうだったのか。それで成績を気にしてたのか。私の水泳と比べて
どうでもいいとかそんなこと全然ねーじゃねーか! 榊、点取り虫みたいな
言い方して本当に悪かった! 榊! バカな私を殴ってくれ!」
【神楽】の言葉に【榊】はちょっと驚いたが、
「いや、そんなことはしない……それに、自分の体だし」
と言った。【神楽】も気づいた。
「ああっ! そうだった! 私ってほんとバカだなー……。バカと言えば、
榊に大会に出てもらって『神楽』で記録を残してもらったとしても、それって
実際は榊が残した記録なんだよな。そんなのにも気づかないって私はバカで……」
喋り続ける【神楽】を制して【榊】が言った。
「そんなに自分を悪く言わないでくれ……きみだけが悪いわけじゃないし。
それに、謝るだけじゃ先に進まない」
【神楽】がそれに答える。
「そ、そうだな! よし、先に進むために、何とか大会とテストの前に
元に戻る方法を考えようぜ!!」
「ああ。それを考える方がよっぽど気が楽だ」
 涙を堪え、ふと【榊】が塀の上に目をやると、一匹の猫がいた。
手を差し出す【榊】。……噛まれた。【神楽】が吹き出した。
「ぷっ……はははは……猫って中身の人間がちゃんと分かるんだなー!」
「……早く元に戻る方法を見つけないとな」
【榊】が微笑んで言った。
「早く神楽の体を返さないと……これじゃ傷だらけにしてしまうから」
 交差点まで来て【神楽】が言った。既に周囲は暗くなりかけている。
「もう今日はこんな時間だ。どっちみち誰にも相談出来ねーな。親も心配するし、
とりあえず家に帰って寝よう。日曜日は練習あるけど明日は練習ねーんだ、
戻る方法は明日一日考えようぜ。」
そして、【神楽】はダッシュしようとした。そんじゃなーと叫びつつ。
【榊】が慌てて止める。
「待って、どこに行くんだ?」
【神楽】が不思議そうな顔をする。
「どこって、家だろ」
「『榊』の家はこっちだ」
 あっ、と【神楽】が気づいた。
「そっか。じゃあ案内してくれ。よく覚えてねーからさ」
「いや……家に行ったとして神楽は私の家でうまくやれる?」
「やれるだろー。何が問題なんだ?」
「例えば私の家の習慣を知っているか?」
「どんなのだ?」
「風呂に入るときは必ず左足からだ」
「ふーん。変なの」
「他にもある。夕食は40分間、ご飯は一口20回以上噛む。お茶のおかわりは2杯まで。
おかずは毎分1回、ご飯は毎分2回のペースで箸をつける。しょうゆの量は5gが限度。
ご飯の残り量が30%を切っているときにおかずを食べるときは……」
「ちょ、ちょっと待て! そんなの決まってんのか?!」
「冗談だ」
「……」
 【神楽】は思った。珍しく言った冗談がこれかよ。しかもニコリともせずに言うし。
もっと楽しい冗談を言えないのかあんたは、と。
 黙り込んだ【神楽】に向かって【榊】は続ける。
「まあ、それはともかく、現実問題として十数年間一緒に暮らしてきた人間の中で、
いきなり入れ代わりが発生してもばれずにやって行くのは難しいんじゃないかな?」
それが言いたいんだったら最初っからそう言えよ、そう思った【神楽】であったが、
言っていることはもっともなのでうなずいた。
「じゃあ……榊か私のうちに二人で行って片方がフォローするとかどーかな?」
「いい方法だと思う……けどうちには人を泊める余裕がない」
「うちもねーなー。じゃダメか。今日だけでもホテルに泊まるってのはどうだよ?
 明日からどこで寝るかはまた考えるとしてさ」
「いくら持っている?」
「3800円。榊は?」
「639円」
「なんでそんなに少ねーんだよ」
「いや、これを買ったから……」
そう言って【榊】は榊のバッグの中から「ねここねこ・夏限定トロピカル
ハイビスカスバージョン」を取り出そうとした。この可愛さを【神楽】に
アピールし、今度こそコレクター仲間に引きずり込もうという魂胆であった。
が、【神楽】に、
「いや、見せなくていい」
とあっさり言われ、しぶしぶバッグの中に戻した。
 【神楽】が話を続ける。
「……榊、なんか今舌打ちしなかったか? まあいいや、お金がねーとなると、
お金が少なくても泊まれる所を探さねーと」
周囲を見回す【神楽】の目に、遠くの方で派手に光っているものが見えた。
普段より背が高いのでよく見える。「休憩」と「宿泊」にコースの別れている
非常に安いホテルのあるホテル街である。二人の目が合った。お互い若干赤い
顔をしている。
「へ、変なこと考えてねーだろうな!!」
「そ、そんなことは考えていない! 私にはそんな趣味はないし……かおりんの
せいで誤解され気味だけど……。それにあんなとこ女同士じゃダメなはずだ」
「よく知ってるな榊……彼氏でも出来たか? それとも耳年増ってやつか?」
「そんなのいない! ちょっと聞いたことがあるだけだ! きみこそ黒沢先生に
いろいろ聞いてるんじゃないのか?」
「そんなこと聞いてねーよ!!」
「……」
「……」
 重苦しい空気を打ち破るように、【神楽】がこう言った。
「キャ、キャンプ! うちにテントがあるんだ! キャンプしようぜ榊!!
食費以外タダだ!!」
「どこでするつもりなんだ?」
「河原とか、公園とか……」
「そういうところは夜は治安が悪い……」
二人の脳裏に、『野宿女子高生2人レイプ!』という週刊誌の見出しが浮かんだ。
二人同時にため息をつく。
 不意に【榊】が叫んだ。
「そうだ! ちよちゃんちに泊まらないか?」
「おおーっ! 榊頭いい! あそこは広いし安全だな!」
「泊めてもらう理由は、テストに備えて勉強合宿をするということでいいだろう。
これが自然だと思う」
「なるほど! さすが榊!! んじゃ、一旦それぞれの家に行って着替えとか
取ってこようぜ!」
「ああ、二人でお互いの家に行って、神楽は私の親に、私は神楽の親御さんに
ちゃんとちよちゃんの家に泊まってくることを告げるんだ。この状態が
長引いてお互いの家で暮らさなくては行けなくなったときのための
コミニュケーションの練習と思えばいい。」
「よし、さっさと行こうぜ」
駆け出そうとする【神楽】。【榊】が思い出したように声を掛ける。
「あ、勉強道具も忘れないで」
「なんでだよ。あ、そうか。勉強を理由にしてるからカムフラージュってやつだな?」
「まあそれもあるけど……」
 【榊】は【神楽】の肩にポンと手を置いた。身長差が逆になっているので
かなりの違和感を感じながら。
「神楽……もしテストまでに元に戻れない場合、きみにがんばってもらう……」
【神楽】は、うげっと小声を上げた。

「いらっしゃーい!」
ちよの顔が、門扉脇のインターホンのモニターに写し出された。
二人は首尾よくお互いの家から荷物を持ち出し、そのときに【榊】がちよちゃんに
アポイントを取っておいたのでここまではスムーズである。ちよちゃんちの都合が
悪くなくて良かった。そう思いつつ二人は敷地の中に入る。
「どーぞどーぞ。それにしても、神楽さんが勉強でうちに来るって初めてですよねー。
やる気ですね神楽さん」
玄関先でちよがこう言った。アポイントを取ったのが【榊】で、他人から見れば
神楽なのだから仕方ない。だが、ちよの言う「神楽さん」、つまり【榊】は
返事をしなかった。あれっと思ってちよが【榊】を見ると……
「忠吉さん……」
ほほを染めながら一心不乱にちよの愛犬、忠吉さんをなでていた。【神楽】が慌てて
「(榊! あんた今私なんだからそーゆーコトしちゃダメだ!)」
と耳打ちする。【榊】は名残惜しそうに忠吉さんから離れた。
「か、神楽さん。あの、忠吉さんは怒らないですから撫でててもいいですよ。
榊さんも遠慮なさらずに……」
ちよはそう言ったが、【神楽】は、
「い、いや、私はいい。そのー、私、じゃなくて、神楽も勉強がんばるみたいだ」
とごまかした。
「そうそう。私もいいかげん勉強しねーとな。E判定取りそうでヤバイし」
【榊】がさらっと言った。なっ、という顔になる【神楽】。ちよは、
「あはは……でも、がんばればきっと大丈夫ですよ。それじゃ、お二人とも
お荷物をあの部屋に置いて来られたらどうですか? 私はご飯の準備をしますので」
と言って台所に向かっていった。
「おい、さっきのE判定って何を言ってるんだよ榊! 私の姿をしてるからって
そんなこと言うなよ!」
【神楽】が抗議すると、【榊】は、
「別に、忠吉さんを撫でるのを止められたことを怒ってるわけじゃない。
ああ断じて怒ってないさ」
と涼しい顔で言った。
(めちゃめちゃ怒ってるじゃねーか!)
【神楽】は心の中で突っ込みながら部屋に向かった。

 台所に来た二人。【榊】がちよに声を掛ける。
「ちよちゃーん、何か手伝うことはないか?」
「あ、お二人は部屋で勉強されていても良かったんですのに」
とのちよの返事に、【神楽】が
「いや、何かしないと悪いし……」
と言った。【神楽】はようやく榊らしい喋り方に慣れてきていた。
「それじゃーすみませんが、和室に置いてあるお醤油とお砂糖を取ってきて
もらえますか? 和室を物置き代わりに使っちゃいけないとは思ってるんですけど、
収納庫が今手狭で置いてるんですよ」
「オッケー」
「ああ」
ちよの頼みに二人はそれぞれお互いの口調で返事をして和室に向かう。
 【榊】が和室に入り、さて醤油は、と部屋の中を見回すと、後ろからゴッ、
という音がした。
「痛ぇ!!」
【榊】が声と音に振り返ってみると、【神楽】が頭を抑えてうずくまっている。
「鴨居に注意してくれ」
と【榊】は言った。

「な、なんなんだよこれ……かもいって何だよ」
よく分かっていない【神楽】。【榊】が解説する。
「鴨居と言うのは、今きみが頭をぶつけた所だ。日本建築の場合、古い基準だと
鴨居の高さは170cmぐらいしかないから。私の背だと気をつけないと、
鴨居に頭をぶつけてしまうんだ。ちよちゃんちは基本的に高さには余裕を持たせて
作ってあるけど、和室だけは古い基準で作ってあるな。わざとそうしたのか、
もともとここにあったのをそのまま利用したのか、どこかから由緒ある和室を
移築したのかは分からないけど」
「そ、そんなことはどうでもいいよ……あー痛ぇ。思いっきりぶつけたぜ。
背が高くなってたのを忘れてた」
「私の体をあまりぶつけないで欲しい……」
そう注意する【榊】に、【神楽】は、
「これから注意するよ。しっかし、鴨居なんて難しい言葉知ってるなー」
と答えた。
「別に難しくない。それより、きみは砂糖を頼む」
 そう言って【榊】は醤油を持って出て行く。【神楽】も砂糖袋を持って
喋りながら後に続く。
「ここのこと鴨居って言うのは知らなかったな。しかし、鴨居って
どういう意味なんだ? 鳥の鴨と関係が……」
また、ゴッと音がした。【榊】はため息をついた。
「頼むから、『鴨居を避けること』だけに注意をしてくれ」

 それから、【榊】と【神楽】は夕食作りを手伝った。が、
「(……かがまねーとうまく作業できないなんて……)」
「(仕方ない、身長差があるんだから……)」
まず体の違いで困惑した。続いて、
「(ちょっ、神楽、何をするつもりなんだ)」
「(何って、ゆで卵を作ってくれって言われたんだろ?)」
「(電子レンジに卵を入れちゃダメだ)」
知識の違いで困惑した。そうやってひそひそ話をする度に、
「あのー、お二人とも……大丈夫ですか?
無理にお手伝いしていただかなくても……」
とちよに不審がられ、必死にごまかすのであった。そしてさらに困ったのが、
「(榊、これこんな皮のむき方で良かったっけ? なんか形がガクガクしてるし。
榊がやり直すか?)」
「(いや、私も不器用だからそんなにうまくできない。それでいいと思う。
一応皮もむけてるし)」
二人とも不器用で料理はうまいとは言えないことであった。

 ピンポーン。チャイムが鳴った。ちよがインターホンに向かう。
「はーい。あっ、ご苦労様です。今行きますからー。……あの、宅配便が届いた
みたいなので、ちょっと受け取りに行ってきますね」
ちよが台所から出て行く。【神楽】は、はぁっ、とため息をついて
「あー、やっとフツーの声の大きさで入れ替わる前の感じで喋れるぜ。
ひそひそ話は好きじゃねーんだよな」
と愚痴った。【榊】も、
「いや、お互いのふりをして喋っていれば別に普通の声の大きさでもいいんだけど」
と普段の声の大きさで喋った。
「だけどさぁ、疲れるじゃん。それに榊のふりって何喋っていいか分かんなくなるし」
「え……? 私ってそんなに普段何喋ってるのか分からないのか?」
「い、いや、そうじゃなくてさー、まぁ確かに榊は無口だけど。その……
喋ってることが知的じゃん?」
「そ、そうかな?」
「そうだよ。それに声も冷静っていうか……クールだよな」
「声に抑揚がないのは私もちょっとあれかなと思っている。逆に神楽の声は
感情がはっきりしているというか……正直私にはマネしづらいな」
「それはただ元気なだけだって」
「うーん。でも私の体で神楽が喋ってるとなんかすごく新鮮だな。
楽しそうに元気よく喋る私を見るっていうのは」
「私の声で冷静な喋りってのもこっちからすると相当印象変わるよなー。
てゆーか私って結構クールな喋りもイケテルかもしれねーな。
練習してみようかな」
「練習って……」
「ゴホン。勝負だ……榊……。どう? クール?」
「どうって……今は私の体なんだし」
「あ、じゃあ。勝負だ……神楽……。どう?」
「そういう問題じゃなくて、私はそれ以前にそんなこと言わない……。
まあみんなの前ではどっちみちお互いのふりをしなきゃいけないんだから、
そういう練習はしとくべきかもしれない」
「だろ? だろ? だから言ったんだよ」
「でも、私の言いそうにないことを言っても怪しまれる」
相手のふりをしなくてはいけない人前の会話と比べて、本当の自分を出せる
会話は楽しい。二人は手を休めてだんだんお喋りに夢中になっていた。
 ちよのことを忘れるぐらいに。
「それでさー、榊の場合語尾に……」
 ギイッ、という音に二人ははっとしてそっちを見た。
「……ちよちゃん」
「ち、ちよちゃん!?」
ドアをちょこっとだけ開けた隙間の後ろに、荷物を持ってちよが立っていた。
(つづく)

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最終更新:2007年10月21日 16:11