どこかの子供がそんな言葉を言っていた。かなりうろ覚えだが。
小説かなにかの一文らしいが、まぁ、実際、それは嘘だ。いくら野良猫といえど、
名前くらいは持っている。もちろん人間につけられた名前ではない名前が。
よく俺を触りに来る女―――榊といったか―――は、俺のことを勝手にかみネコと呼びやがる。
どうやら人間に対して、俺たちの言葉は通じないらしい。あいつらの言葉は
俺たちネコにはわかるのに・・・不便なもんだ。
もちろん、俺の名前はかみネコなどでは断じてない。
俺は仲間内からはグレーと呼ばれていた。毛の色がグレーだかららしい。月並みだが、
なかなかいい名前だと自分では思っている。それをかみネコなどと呼びやがって、
あの女め。
そう考えていた刹那、人間の気配と匂い。嗅覚は犬のほうが遥かにいいと聞くが、
ネコだって悪くは無い。人間の匂いくらいは楽に判別できる。
かすかに殺気に似たものも感じられる。結論は一つ、榊だ。
逃げようと思えば簡単に逃げられる。だが、できるだけ近くまでおびき寄せ、
噛み付く。神楽だか言う女が一緒にいるとひどい目にあったことがあるが、
今日は運良くいないらしかった。
いまだ!
心の中でそう叫び、女が伸ばした手に噛み付く。歯が女の手に食い込み、
少しばかり血の味がした。
苦痛に顔をゆがませながらも、女は俺の頭をなでようとしてくる。いろいろな意味で、
すごい執念とは思うが・・・。
もう片方の手が近寄ってきたのを確認すると、きびすを返して塀の上を走り去る。
遥か後方には女の姿があった。
「なんでいっつも噛み付くんですか?」
今の出来事を見ていたのだろう。黒いネコが声をかけてきた。見覚えがある顔。
名前は確か・・・クロといったか。
こちらも俺と同じような名前のつき方なのだと、ふと思う。
「何のことだ?」
即答し、はぐらかす。
「とぼけないで下さい。あの髪の長い女性のことですよ」
厳しい追及の言葉がクロの口から発せられる。
「・・・それなら、お前は憎くないのか?」
無意識だった。無意識に出た言葉が、それだった。
「俺は人間の都合で、生まれてすぐに捨てられた。お前だって、色が黒いってだけで、
忌み嫌われてきたじゃねぇか。それで、人間を憎まずにいられるのか?」
自分自身では全くといっていいほどわからなかったが、このときの口調は、
とても憎憎しげな口調で今の言葉を言ったのだろう。クロの表情から。
それとなく感じた。
「そりゃあ、人間を心の底から好き、全く憎んでいないって言ったらウソになる。
それでもグレーは、あの人に強く当たりすぎだよ!あの人は何もしてないでしょ?」
クロが、訴えるように言ってきた。一歩も引き下がるつもりなどないらしい。
俺とクロとの間に、火花が散ったように見えた。
「俺を飼ってた奴らと、同じ臭いがするんだよ。魚みたいな臭いが、な」
少し自虐的に笑い、塀の上に上った。下でクロがなにか言ってくるが、
気にしない。
「人間なんか、大嫌いだ」
俺はそういっていた。
それから数週間が過ぎた。
いなくなったボスの変わりに、俺がボスになった。
いつものように、いつもの道路を渡る。ボスになったことで浮かれていたのだろうか、
それともいつも渡っているので安心しきっていたのか。右から来る車に、
気がつかないままだった。
車はスピードを落とそうとはしない。俺の姿が見えないからか、
はたまた俺のような野良猫の命など、どうなってもいいと思っているのだろうか。
反射的に体が動く。が、間に合わない。
次の瞬間、感じたものは痛み。体中が軋むような痛み。
周りの人間が、俺を囲んでみている。だが、助けようとはとはだれもしない。
わかり切っていたことだ。
類先日起こった出来事が、走馬灯のように思い出される。
下校途中のあの女と、そのクラスメートのちよだかいう女を、
部下と一緒に追い詰めたときだ。
いきなり、目の前に何かが立ちはだかった。自分たちの似たような外見だったが、
全てが少し違っていた。
「お前ら、この人に手ぇ出したら、承知しねぇぞ!」
体中の毛を逆立てて、敵意をむき出しにしている自分たちの前にいる動物、
イリオモテヤマネコはそういった。
思わずひるみそうになったが、こらえて言い返す。
「お前みたいな種族が、なんでこんなところにいる?それに、
お前らだって人間のせいで絶滅しそうなんだろ?なんで人間を庇う?」
警戒しつつ、俺は尋ねた。俺が話している最中も、
相手の雰囲気は変わらなかった。
「そんなこと関係ない。この人は、誰よりもやさしい。それだけで十分だ。
さぁ、早くこの場から消えろ!」
敵意にくわえて、殺意が言葉に混じってくる。
「ちっ。おい!逃げるぞ!」
大声を上げると、部下はいっせいにばらばらになる。
すぐに俺の視界から、女達とイリオモテヤマネコは消え去った。
最後の最後まで、あのイリオモテヤマネコは敵意を消さなかったな。
それほどまでにあの女たちを護りたいのだろう。
『この人は誰よりもやさしい』か。いいモンだな。
視界がぼやけていく。体中が痛い。
「大丈夫か!?」
聞きなれた声が聞こえた。
聞きなれた声の主である榊の姿が、かすんだ視界の向こうにわずかばかり見える。
だが、姿がはっきりと定まらない。隣に誰かがいる。ツインテールで、
小さい・・・・。ちよ、か・・・。
榊はおもむろに俺の体を持ち上げ、走り出す。
くそっ!俺に触るんじゃねぇ!
いつものように噛み付こうとするが、体が動かない。代わりに、
痛みだけが体中を貫く。
だんだんと意識が暗闇に落ちていく中で、『絶対に助けてやる』という言葉だけが
俺の耳に届いていた。
気がつくと、そこは柔らかい布の上だった。
体中はまだ痛い。それこそ動かせないくらいに。視界が霞んでいないということは、
体調が少しは回復したということだろうか。
キィ・・・。
ドアが開いた。このとき初めて俺はここがどこかの一室ということに気がついた。
「ほれ、起きたみたいじゃ」
白髪白ヒゲの白衣を着たじいさんが顔を出し、俺を指差した。続いて、
榊とちよがこちらを覗き込む。
二人はなにか礼をいい、俺の体を抱き上げる。
必死に名手抵抗しようとするが、体中が痛くてそれどころではない。
榊は俺を抱きかかえたまま、ちよと一緒に歩く。二人は並びながら、
俺の体調や怪我などについて話し合っていた。
「大丈夫ですかねぇ?かみネコさん。」
「・・・大丈夫。絶対に、大丈夫。」
榊は俺の顔を見ながら言った。
気がつけば、俺の目の前には大きな家があった。とても大きな家。
豪邸である。
表札には『美浜』と書かれている。どうやらここがちよの家らしい。
これには流石の俺も驚きを隠せなかった。
そのまま、門を空けて家の中へ入っていく。途中では大きな白い犬が、
こちらをじっと見ていたことが気がかりだった。
榊は俺をタオルを敷いたダンボールの中へ置き、
ちよと一緒にどこか―――まぁたぶん台所だろう―――に消えた。
「ザマァねぇな。」
聞き覚えのある声。そう、忘れもしない、あのイリオモテヤマネコの声だった。
はっとして振り向くと、矢張りそこにはイリオモテヤマネコがいた。
「お前、どうしたんだ?」
答えない。無視して体を丸くする。
榊とちよが、こちらの部屋に戻ってくる。
「マヤー、今日は榊さんが泊まりますからね。かみネコさん、怪我してますから
仲良くしてくださいよ?」
ちよの口から出た言葉に、思わず自分の耳を疑う。
冗談じゃねぇ!榊と、さらにあのイリオモテヤマネコの野郎と一晩一緒だって!?
イリオモテヤマネコ―――マヤーという名前らしい―――は、
とても嬉しそうな表情をしていた。それほどまでにあの榊と一緒にいたいのだろう。
「ま、そういうことらしい。お前も怪我してるんだから、
少しは養生したほうがいいんじゃねぇか?もう気がついているとは思うが、
お前を助けたのは俺の主人の榊さんと、友達のちよちゃんだ。一度礼くらい、
言っておきな。」
顔は榊のほうに向けたまま、マヤーが言った。言い返そうとは思ったが、
全てがあいつのいうとおりなので、何も言うことが出来ない。第一、
怪我のせいで満足に動くこともできないので、養生しているしかないというのも
また事実である。
俺は観念し、目を瞑った。病院で寝てはいたが、詳しく言うと、
あれは寝ていたではなく気絶していただ。それに疲れもたまっていたので、
大分眠かった。
ゆっくりと、俺はまどろみの中へ落ちていった。
夜中に、目が覚めた。あたりは真っ暗だったが、
ネコにはそんなこと関係ないのでよく見通すことが出来る。
ふと、体が動くことに気がついた。体力が回復すると共に傷も癒えたのだろうか。
まぁ理由などはどうでもよかった。ただ、体が動くのであれば、
この家からさっさとオサラバすることができるのだ。
俺はダンボールの中から飛び出す。
「行くのか?」
不意に声がかかった。マヤーだ。
「ああ。これ以上人間なんかと一緒にいたくないんでな。」
振り向かずに答える。相手が今どんな表情をしているのか、全くわからない。
「そうか。俺には野良猫の気持ちなど分からないが・・・
人間というのはいいものだぞ。少なくとも、榊さんとちよちゃんは、な。」
マヤーが発した言葉を、一つ一つ吟味していく。
「そうか。俺には飼い猫の気持ちなど分からないが・・・
少なくとも、お前は幸せそうだな。」
言葉を真似て、言い返す。多分、このとき、おれは笑っていたのだと思う。
俺は空いている小窓を見つけると、真夜中の外へと飛び出していった。
数週間後。
俺の目の前には、矢張りとでも言うべきなのだろうか、榊がいる。ゆっくりと、
毎度おなじみの行動で、俺の頭をなでようとしてくる。
俺は榊の手に噛み付―――かなかった。
榊の手が俺の頭に触れ、恐る恐るなでていく。嬉しさのあまりか、
少しばかり呆けているように思えた。
「ったく・・・助けてもらった礼だ」
言葉が通じないのを承知でいう。この言葉は、本当に榊に対して言った言葉か、
それとも、自分自身に言った言葉か。
答えは、わからなかった。
マヤーが、「ほら、人間っていいもんだろ?」と笑っているような、
そんな気がした。
END
最終更新:2008年09月21日 19:14