難解用語、アイデンティティ
「難しい言葉だよな。アイデンティティってのは」
「ボーン・アイデンティティ!」
「たしかに、その映画で広められた感は否めないが……社会とかの教科書に載ってるから、学生をやってると一度は出会う用語なんだよな」
「妹紅さんは一度じゃないですよね?」
「うるせぃやい。出席日数が足りないだけだ!」
「まぁ、私は中退ですけどね!」
「……それでだ。アイデンティティってのは、いまいち明確な定義が無くてテストで困るわけだ。自己同一性だとか、自己の存在証明だとか、これまた難解な言葉で説明してやがる教科書が悪いと言ってやりたいところだが、おそらく出版社側の人間もわかってないだけだから許してやってほしい」
「私は奇跡の力でテストなんて余裕でしたよ」
「チートは退学です。よってあなたは黒」
「おう、いらっしゃい。堅物なあんたがここまで来るとは珍しい」
「サボリ魔がこの辺りに潜伏しているとの情報が入ったのです。決して、そう決して、焼き鳥を食べに来たワケじゃありませんよ」
「だったら帰りな。冷やかしは黒だぜ?」
「う……それもそうかもしれませんね。では、ねぎまを一本」
「あいよ」
(このプレッシャー……まさか! 彼女がヤマーン=カーン!? いや、そんなわけないですよね……)
「それでだ、アイデンティティーってなんだろうって話をしてたわけだが……私が思うに、周囲に『こいつだ!』と認識させる部分のことじゃないだろうかね。トレードマークってわけじゃないが、その人であって別の人ではないと見分けさせる部分」
「それだと一つの言葉にするのは難しいですねー」
「もっきゅもっきゅ……」
「ただ、このもにゃもにゃしたアイデンティティーってのは、小説を書く上では欠かせないものだな。人物にこのアイデンティティがあって初めて、一つの人物として認識されるんだから。これがなかったらそいつはノーバディ(顔のないもの)……つまり、書き割り(背景のこと)とたいして変わらない存在になってしまうんだ。着ぐるみは誰かが入っていても、区別が付く程度の特徴がないと認知されないってことだな。プーさんのデザインがただの熊と一緒じゃダメなんだよ」
「つまり、伝言ゲームや伝絵ゲームで伝わらなかったらダメってことですね?」
「そうそう。ノーバディが主要キャラの小説や漫画はだいたい駄作だ。様々な人に変身する怪人ですら、アイデンティティは強すぎるほどに持ってるだろ。ピカレスク小説がかっこいいのは、このアイデンティティが他より強烈だからだと思うぞ」
「悪が主人公なだけに、敵はさらなる極悪で外道の極致……だからおもしろい。って菊池先生も言ってましたね」
「もっきゅもっきゅ。悪は、んぐ、地獄に堕ちますよ」
「こういう人物(↑)には、主人公に自分と対話させる機会を与える効果がある。どれだけ善人な主人公にも、対抗勢力ってのは必要なんだ。絶対に。みんなが主人公に賛同してたら話が進まないし、おもしろくもない。よく読者に嫌われる『俺最強野郎』『万能人間』ってのは、ここが欠けてるんだ。そりゃムカツクわな」
「でも、キラ=ヤ○トみたいに自分を見つめ直す機会を与えられても無視する馬鹿もいますよね」
「また危険な発言を……でもまぁ、そりゃ脚本家がダメなんだよ」
「自覚のない悪は、最も醜い悪です。地獄に堕ちるばかりか、地獄でも誰も助けてくれないでしょう」
「へぇ。地獄でも助けてくれる人っているんだな」
「もののたとえ、というものです。そもそも本当に地獄に堕ちるような人間は、誰にも助けてもらえませんよ」
「違いないな。で、さっきも言ったが、アイデンティティってのを小説、つまり文章で作り上げるのはなかなか難しい。まず、ざっと見た目を説明してしまうのは、読者のイメージ化を助けるから有効だな。あえて想像に任せるという手もあるが、それは数人にしておいた方がいい。それ以上はただの手抜きだ」
「サボリはいけませんよ。読者にそれが伝われば、すぐに読むのをやめてしまうでしょう」
「あとは、口調。ここみたいに会話文だけが続く場合、区別を助けるのは口調と言い回し、あとは考え方だが……一番やりやすいのが口調での区別だろうな。もちろん、こんなのは外側を埋めてるにすぎないから、単体でやっても付け焼き刃でしかない。そこで、第一回でやった『キャラの内側』から、こんなとき、こいつならこう言うだろうって思えるセリフを言わせていくといい。あの名作、ジョジョはそういったセリフ回しを含め、アイデンティティが強烈に確立されてる。だからセリフがすさまじいパワーを持ってるわけだ」
「だが、断る」
「地の文だと、仕草は相当重要だな。笑い方一つ取っても性格が現れる。私みたいに口の端をつり上げて笑うのか、朗らかに笑うのか、どこぞの馬鹿みたいに嫌味ったらしく笑うのか。印象が全然違うだろ?」
「にぱー」
「それはちょいと腹黒そうだな」
「黒、ですね」
「おまえさんは部下相手に青筋立てて笑うのはやめた方がいいぞ。美人なのが台無しだ」
「よよよ、余計なお世話です! それが私のアイデンティティなのです! って、あれ? なぜ下を見るのですか」
「……だとよ? もういいぜ。出てきな」
「いやぁ、世話になったねぇ。今度いいお酒でも持ってくるとするよ」
「あッ! こんなところに隠れていたのですか!?」
「あはは……サボリ癖はあたいのアイデンティティってことで。これにて失礼いったしました〜!」
「こらぁ! 待ちなさぁーーーーい!」
最終更新:2009年10月09日 10:46