5月1日、日本人民軍がデイン領日本の敦賀に到着した。日本人民軍はガロイン海軍の護衛を受けつつ、揚陸艦に乗り込み、日本に上陸したのである。途中、海上でデイン軍の襲撃を受ける心配もあったが、なんとか無事に来れた。
「もうかれこれ5ヶ月か」
日本に上陸した時の真北の第一声である。
「よし、すぐに中国軍が用意してくださったあの歩兵戦闘車とヘリに班ごと分かれて乗れ」
と、上官が指図すると、兵士達はみな歩兵戦闘車に乗り込んだ。
敦賀はちょうど3日前、米中軍によって奪還されたのである。日本人民軍兵を乗せた歩兵戦闘車60両とヘリコプター10機は、中国軍の護衛を受けつつ、滋賀県へと南下していった。
その頃の大津、やはりデイン軍と米中軍による熾烈な市街戦が繰り広げられていた。するとデイン側から謎の黒服集団が現れた。その近くからその集団の指導者と思われる男が現れた。男は拡声器を出すと
「愚かなアメ公と支那どもに告ぐ、貴様らはデイン親衛隊には勝つことができない。逃げろ」
そう、その黒服集団とはデイン親衛隊のことであり、その指導者とはスタルヒンのことであった。スタルヒンは親衛隊員らに突撃の号令を出す。すると親衛隊員は敵兵を次から次へと倒していった。
「ぐはぁっ、なんて奴だ」
あまりの戦闘力の高さにうろたえる米兵。程なくしてその米兵に親衛隊員の魔の手が伸びる。
「死ねっ」
「ぎゃぁっ」
一瞬にしてその米兵は絶命。他の米兵たちも反撃に出ようとするも忍者のような素早さとステルス性を持った親衛隊の前では全く歯が立たない。
「はっはっはっはっ、苦しむがいいさ」
スタルヒンは高笑い。
一方、日本東部戦線では、アメリカ軍が名古屋を占領。西部側は東部からの援軍が来るまで何とかして持ちこたえなければ厳しい。
5月2日、日本人民軍は滋賀県の高島に突入。狭い歩兵戦闘車の兵員室で真北と中原が語っている。どうやらこの班の班長は真北である。
「せっかく故郷滋賀に来ようというのに外が見えないというのは寂しすぎる。」と、真北が言うと。
「確かに、それは辛い」と、中原が返す。
「でももうすぐで否応無しに外に出なければならないだろうな」
「そうだな」
「まずデイン軍には堅田、比叡平に大規模な砲台がある。そこにはロケット砲やSAMが多数ある。そこを叩くことを我々は要求されるであろう」
「でもそういう重要な場所でこそ親衛隊が潜んでいるのでは」
「だから心して戦わなければならない」
日本人民軍を乗せた歩兵戦闘車部隊はそろそろ堅田に到達しようとしていた。
「展開地点に到着。兵を降ろせ」と、無線で上官から命令が下される。
「よし、行くぞ」真北、他の班員に告げて扉を開け、外に出る。真北が外に出るとそこは激しい戦闘が行われている事を示すライフルの銃声が聞こえてきた。
真北は班員全員が降りたことを確認すると、すぐに砲台のある方向へと向かった。他の班員も続く。
上官から突撃の喇叭が鳴らされると、真北は「うーやーたぁーっ!」と威勢のある声を叫び、デイン兵を怯えさせる。
程なくして銃撃戦が始まる。真北の鋭い銃撃の前にデイン兵は次から次へと倒れていく。真北は念仏を唱えつつ、砲台へと向かっていく。
中原も播磨王としてバトロイの舞台で戦っているくらいの機敏さで敵を蹴散らしていく。
30分後、真北を先頭に日本人民軍の兵たちは砲台への階段を登っていく。砲台の扉からデイン兵が現れて不意打ちを喰らい、二人倒れるも真北は動じることもなく出てくるデイン兵を蹴散らしつつ、階段を駆け上がっていく。階段を駆け上がるとそこは塹壕で、デイン兵が6人程度現れるも、真北はそれをも予測し、空手で一蹴する。
別の方向へと向かった仲間たちも、順調に進んでいく。真北はその仲間達に手を振る。
真北班はついに砲台の内部に入り、内部のデイン兵を次々と追い払っていく。そして砲を一門ずつ機能を停止させていく。こうしてその日の夕方までに、堅田の砲台は完全に停止され、砲台にいたデイン兵はみな中国軍の捕虜となった。しかし、日本人民軍側に50人ほどの死者が出てしまった。真北たちは散華した50人の冥福を祈りつつ、次の拠点に向かうべく、再び歩兵戦闘車やヘリコプターに乗り込んだ。
一方、そのころのデイン軍大津基地、ここは、かつて真北のいた大津駐屯地だった。そこにはデイン軍の参謀たちがいた。彼らは軍部では大元帥であるアシュナードの次に偉い。
「なに!?堅田がやられた!?」
「しかも日本人民軍って何者だ?」
みな驚愕。それも無名の軍隊によって重要拠点が奪われたのである。
「でもそうはいかんぞ、見てろ、まだこの中には多くの親衛隊員がいるんだぜ、」
果たして、戦いの行方は。
続く
最終更新:2009年01月13日 21:54