the Faster
サイドテーブルの灯りが、ぼんやりと部屋を照らす。
あちこちに散らばった服や靴、テーブルを汚す、引っくり返ったシャンペンのボトルに食い散らかされたクラッカーのかけらが、薄暗がりの部屋の中に転々と浮かんでいる。
F1グランプリinスペイン。その主要宿泊所となっている一流ホテルの一室で、今日の一位と二位が、ベッドの中でつかの間の休息を分けあっていた。
「…今日は、抜かれたな」
整った眉を上げて、ポールがごろりと腹這いになった。
20歳でレーサーとなった彼は、この三年間に主だったGPをほぼ制覇するほどの天才ぶりを発揮し、それに加えて甘く整ったルックスと礼儀正しい態度で、レースに興味のない世間の人気をも獲得した希な人物だった。
そんな彼の隣で煙草を吸っているのは、今日のトップであり、新進気鋭のレーサー、ジョージだった。ポールに遅れること2年(笑)、つまり去年、突然現れて各GPを一気に駆け抜けた、若干21歳のルーキーだった。
その喧嘩早さと奔放なふるまいが問題視されていたが、太い眉に反比例する清楚な顔立ちと、それにそぐわない毒舌をふるうアンバランスさがコアなファンをつけていた。
「たまたま運が向いたのさ」
そんな憎まれ口をきいて、ジョージがポールの肩や背中に唇を這わせる。
「まだたりないの?」
呆れた声でのポールの問いに
「全然」
と、ジョージは悪びれもせず答えた。
やれやれとポールは体の向きをかえ、ジョージの手から煙草を取った。そしていたずらっぽく笑い一口吸うと、サイドテーブルの灰皿に押し付ける。
ジョージは、トレードマークになっている「片笑い」をポールに向けると、そのまま彼をしっかりと抱き締めてキスをした。
ライバルでありながらも、強い思慕で繋がる二人だが、最近、ポールはこの無邪気すぎる後輩レーサーに、正直驚異を覚えていた。
ポールの走りは、計算された上で整然と進み、そしてあざやかに勝利する。
だがジョージの走りは孤狼のような荒々しさで、がむしゃらにゴールを駆け抜ける。
今の彼と、これからの彼の可能性――それらはジョージの中で輝いている。しかしそれを思う時、ポールの心は暗い影を感じてしまう。
「どうしたの?」
ポールの反応が変わったことに、ジョージが眉をひそめた。
「…いいや」
ポールはあいまいに微笑むと、不安げなジョージの頬にそっと触れた。彼のこんな顔を知っている者が何人いるだろう。
そんなジョージの姿を見る度にポールは彼を何ものにも代えがたい、『失いたくない』人間だと思った。
そしてそう思った時、彼は自分の心を覆う憂鬱の、真の理由を知った。
見ていられないのだ。
ジョージの走りを。
確かにジョージには天敏がある。順調に伸びていけば、きっとレーシング史上に名を残すことができるだろう。
しかし、彼の走りは余りに荒っぽく強引で、一緒のコースを走っていて、ポールがヒヤリとすることが幾度もあった。
あんながむしゃらなレースを続けていたら、いつか最悪の展開に見舞われてしまう。
そうなった時、もしその場で自分も走っていたら…。
誰が事故にあおうとも、走り続け、勝ち続けなければならない世界。そんな場所にいる自分と彼。
もし彼が事故を起こしても、どうすることもできない。
また、自分が事故を起こしても、彼はきっと走り続けるだろう。
レーサーとはそういうものだ。ポールも納得していたはずだ。
しかし、今はその時を思うと、ポールはなにもかも投げ出して、レースからも、ジョージからも逃げ出してしまいたくなるのだ。
「ジョージ」
「なに?」
屈託なく答えるその声。長い睫に縁取られた、不敵な目。どこにスタミナが蓄えられてるのか不思議に思える華奢な体。
その全てが愛おしく、その全てが、うとましい。
「…俺も、走りはそろそろ引き際かもね」
寂しげな笑顔で、ポールが呟いた。
その時ジョージの表情が、一瞬こわばった。
その変化に気付かぬポールではない。
「ジョージ?」
ポールの気遣わしげな呼び掛けに、ジョージは睨みつけて返すと
「なに言い出すんだよ」
と、低い声で言った。
「どうしたんだ」
ポールが驚いて、体を起こしかけた。
しかしジョージは
「そんなこというな!」
とかぶりを振ると、強い視線をポールの大きな瞳にぶつけて、きっぱりと言った。
「あんたは、オレに負けるまで走らなきゃならないんだ!」
「ジョー?」
彼は、自分に差し出されたポールの手首を掴むと、シーツに強く押し付けた。
そして、思いつめた顔で言った。
「あんたをここから自由にするのは、オレだ! オレだけだ!! なのに…勝手にレースから降りるのか? そんなのひでえよ! 勝ち逃げかました挙句、オレから走る理由さえ奪うつもりか!?」
その言葉に、ポールは呆然とした。
決まったコースをぐるぐると、ハムスターのように回って、誰が早いか勝負する。
この、無意味で純粋な行為。
足をとめたら、滑車に飲み込まれてしまう単純で恐ろしい世界。
そんな度しがたい世界。
そこに居続ける理由を見失いかけていたポールに、ジョージが追いすがり、追い抜こうとする理由。
それが…まさか、そんな理由だったなんて。
真っ直ぐな視線を向けるジョージに、ポールは白旗を上げた。
分かったよ、ジョー。
彼は心の中で答えた。
お前の走る理由が俺だと言うのなら、俺はこれからも、お前の前を走り続けよう。
いつか俺の不安な心を、お前が振りきってくれる時を待ちながら。
俺の背中を追い掛けながら、オレの心を捕まえてくれ。
そしていつの日か、俺を自由にしてくれ。
それまでは、生きて、生き抜いて。お互いに。
ここでは、共に生きていくことすら、大きな奇跡なのだから。
だから、ジョージ。 早く、ここから逃げ出すために
早く、はやく。
誰よりも早く、
わずらわしい寂しさを追い抜いて、
哀しい予想をつらぬいて
何も考えずに、ただお前に溺れ込めるように―――。
ポールのぎっちょの手が、ジョージを誘う。
「分かったよ」
穏やかなこもった声が、激しいジョージの心をくるむ。
「ごめん」
女性的にすら見える優しいポールの顔が、静かに恋人を見上げている。
ジョージは一瞬、泣きそうに顔を歪めたが、なにも言わずにポールに溺れ込んでいった。
それは、まるでハムスターのような純粋さの中で、ふいに一人、置いていかれる恐怖とともに、駆け抜けなければならない。
そんな、果てのない世界の中で、たった一つの「楔」のように思える物。
「ジョージ」
「なに」
「早く…追い抜いて」
そういってポールは、ジョージの背中に腕を回して、祈るように力をこめた。
ふいに一人にならないように。
ふりとばされないために。
(敬称略)
発想、原作・
ミハイル
原案(イラスト)・「現・名無し」
作 ・861Hedge-hog
―the Faster―
*End*
最終更新:2009年06月11日 00:29