- 03-219 :海野の話 1/16:2010/07/23(金) 23:50:22 ID:xf6srHh0
- 仰げば尊しが屋上にいても聞こえてきた。
どうせならもっと流行りの歌にすればよかったのに、と思いながら、柵に腕を置く。
昨日まで大雨だったくせに、卒業式当日は馬鹿みたいに晴れていた。屋上のそこかしこに
水たまりができ、水面に青が映る。そのせいで、空の上に立っているような心地になる。
思えばいと疾し、と歌声がエコーになり、囁くような声になり、唸るように耳底に残る。
蝉しぐれのようだとふいに思い、そこで堪え切れなくなった海野の視界がにじんだ。
出会いは夏だった。
◇◇◇
ぐちゅぐちゅと音がして、唾液と先走りのまじった液体が口からこぼれる。
――ああ、たまんない。
恍惚と瞳を潤ませながら、海野は一度陰茎から口を離す。とろりと糸を引いた唇を
ゆっくりと舐め、上目遣いに男を見やる。
息も荒く熱っぽい目で海野を見つめる男に満足げに微笑んで、「あーん」と
幼い子どものように口を開けた。
ちろちろと舌を這わせながらすべてを飲みこむ。
男が震えるので、我慢しないで、と優しく囁いてやる。くわえたままなのでもごもごと
不明瞭な声の、そのかすかな振動にも快感が高まるのか、男は小さく呻いた。
途端、海野は素早く口を前後に動かす。歯をたてないようにぐちぐちとくわえ、
強く吸いつきながら離した。
散々いたぶった先での唐突な、そして圧倒的な快感に、男は情けなく声を上げる。
海野はゾクゾクと背中を駆けのぼる感覚に陶然としてしまう。
最初はどんなに強がっていても、この瞬間の男たちは皆が従順だ。体中が快楽を
ゆすっているようで、かわいいとさえ思う。
いっぱいちょうだいね、と心の内で呟きながら亀頭にやわく歯をたてた。
終わりの合図だった。
- 03-220 :海野の話 2/16:2010/07/23(金) 23:52:10 ID:xf6srHh0
- 「なあ海野先輩、いいじゃん。先輩だってやりたくなったんじゃない?」
「ダーメ。君はイっちゃったんだからもうその権利はないの」
今にも海野の腕を掴み寄せそうな男子生徒からひらりと距離を取り、
海野は教室の扉にもたれかかった。
「それより早くズボンはいたら? 人呼んじゃうよ?」
ガラ、と三センチばかり扉を引いたところで男は慌てて立ち上がる。
ズボンを引き上げたところで海野は扉を開けた。
「じゃあね。またあそぼ」
昔から男におかしな視線を向けられた。
顔が特別美しいわけではない。整ってはいるが目鼻立ちはおとなしい海野より
目立つ女はたくさんいるはずだ。
それなのに、男の視線はいつも海野に留まった。
中学でできた大親友の好きな男も、家庭教師としてやってきた大学生の男も、
数ヶ月だけ義理の父だった男も、気づけば海野を見ていた。
おかげで、同性に海野の味方はほとんどいない。母でさえ、義父が海野を見ていると
知ったときは鬼のような顔で海野を睨んだ。
悩んだり恨んだりうじうじと考え続け、しかし高校に入る頃には吹っ切れた。
自分はどうやら、男を惹きつけてしまう何かがあるらしい。それならばとことん
馬鹿な男を弄んでやろうじゃないかと、ささやかな『遊び』を始めた。
イッたら海野の勝ち。
堪えられたら男の勝ち。
簡単な賭けだ。我慢ができれば海野が相手をしてやる。果ててしまえばそれっきり。
いつの頃からか始めた遊びはひっそりと男子生徒の間に広まり、
海野は相手に困ることもなく、放課後になると遊んだ。
- 03-221 :海野の話 3/16:2010/07/23(金) 23:54:29 ID:xf6srHh0
- あの日。うだるように暑いあの夏の日も、海野は遊んでいた。
二階の一番端の空き教室。窓からちょうど桜が見えた。といっても、もう花は
とうに散っている。
毒々しいほどに鮮やかなみどりが目に痛く、海野は視界をカーテンで遮った。
「う、海野さん。ホントにいいの?」
地味な顔立ちの、クラスでもほとんど目立たない男だった。女生徒に人気のある男や
女慣れしていそうな男と『遊ぶ』ことの方が多かったが、時々こういうのにも興味が湧く。
海野はひっそりと微笑んで――そうすると儚げで妙な色気が出ることを『遊び』の中で
学んでいた――手を伸ばす。
男子生徒はぼうっと惚けたように海野を見つめながら、おずおずとその手を引き寄せた。
唇が触れ、舌が絡む。
ねっとりと口腔内を掻きまわしてやると、腰を撫でていた男の手に力がこもる。
性急にスカートの裾から太ももにもぐりこんだ手をやんわりと避けて、
海野は男の襟もとへ手を忍び込ませた。
するすると、触れるか触れないかの微妙な加減で首筋をなぞる。男の体が
ちいさく震え、海野は唇をくっつけたまま「敏感なの?」と囁いた。
「うみの、さん……」
男がうっとりと海野の髪に触れる。海野はやはり唇をくっつけたまま、そっと笑う。
男の手が胸元に伸びたそのとき、「誰かいるのか」と間延びした声が邪魔をした。
瞬間的に海野と男子生徒は唇を離す。
未だ絡みあったままハッと扉に目をやれば、のっそりと誰かが入ってくるところだった。
ぼさぼさの髪は、きっと手櫛で整えてもいない。くたびれたスーツはもちろん
アイロンがかかっているはずもないし、シャツの手首はチョークの粉で赤く汚れている。
口元は無精ひげがうっすらと覆っていた。
細い銀フレームの眼鏡だけが、彼をどうにか知的のイメージから崩さないようにと
躍起になっているようだ。
「……宮地、せんせい」
彼と目が合った瞬間、海野は思わず呟いた。
- 03-222 :海野の話 4/16:2010/07/23(金) 23:56:19 ID:xf6srHh0
- 宮地の古典は、人気か不人気かと言われれば間違いなく後者だった。
教科書を丁寧にさらいながら、訳を一文ずつ生徒に当てていく。「わかりません」と
答えても「なぜだ」と聞かれ、その場で辞書を引かされた。彼の授業は古典に
似つかわしくないその圧迫感と緊張感がもはや『ウリ』といってもいいほどだ。
おまけにその怪しげな風貌のため、まだ三十過ぎだというのに女生徒の人気も
いまひとつである。
海野は彼の授業がきらいではなかった。
もともと古典は好きだったし、彼の授業はわかりやすい。
「なぜだ」と生徒にまっすぐ尋ねる宮地の目は厳しいが澄んでいて、こっそりと
色っぽいとさえ思っていた。
これまで好印象だっただけに、今の状況は何とも言い難い。
海野がそっと目を伏せたその刹那、男子生徒が海野を突き飛ばした。
「あ」
海野と宮地の声が重なった。
男子生徒は海野をチラと振り返ったが、そのままバタバタと教室を出て行ってしまった。
あまりに素早くあっけないので、海野も宮地も、ぽかんとその後ろ姿を
追うことしかできなかった。
「……あんなに必死に逃げなくてもいいのにな、田中のやつ」
宮地は言いながら眼鏡を外し、シャツの胸ポケットに収めた。
「海野も気まずいなら出なさい。俺は眼鏡を外していたせいで、淫行を働いていた
生徒の顔も今は確認できない」
胸ポケットを軽く叩きながら、宮地があの真っ直ぐな視線を海野に向けた。
食指が動く、とはこういうことを言うのだろうか。
海野はその目に誘われるように、宮地の首筋に触れた。宮地の目が見開く。
「じゃあ、私が先生に悪いことしてもばれませんね?」
そのままシャツの内側にもぐりかけた手を、宮地が止めた。
ハッと顔を上げた海野の頭に、宮地の手が触れる。男に他意なく触れられるなど
本当に久しぶりで、そのせいか宮地のてのひらはひどく暖かく感じた。
- 03-223 :海野の話 5/16:2010/07/23(金) 23:57:45 ID:xf6srHh0
- 「そういうのは、好きな人としなさい」
つまらない男。
普段ならきっと、そう思うのに。
海野は目をみはった。せんせい、と言ったつもりがそれは声にならず、宮地の
困ったような笑顔を網膜に貼り付けているうちに頭のぬくもりも消えた。
「もう下校時刻だ。早く帰れよ」
それだけ言って、宮地は出て行った。
引き戸がガラリと閉まる音を聞きながら、海野は自らの頭に触れてみた。
ぬくもりを失った髪を宮地がしたように撫でてみせながら、「先生」と呟いた。
思えば、最初は彼に理想の父親を重ねていたのかもしれない。
◇◇◇
それからは確かめるように宮地に会いに行く日が続いた。
もともと、成績はいい方だ。授業もきちんと出席するし、授業の質問に来たと
言えば何も不自然ではない。おまけに、都合よく海野は受験生だった。
「先生、質問に来ちゃいました」
にっこり笑って小首を傾げると、宮地はため息まじりに眼鏡を押し上げる。
「海野……お前、古典は得意だろ」
「先生に会いに来てるんですよ」
「それで、質問は?」
毎度のこととなったやりとりを繰り返し、海野は参考書を広げた。
「この訳が難しいんです。選択肢のアもイも両方当てはまるような気がして……」
真面目な宮地は尋ねれば律義に答えてくれる。
あれもこれもと質問しているうちに下校時刻も過ぎ、職員室には宮地と海野以外
誰もいなくなっていた。
- 03-224 :海野の話 6/16:2010/07/23(金) 23:58:56 ID:xf6srHh0
- くるりと視線を回して誰もいないのを確認すると、海野はイスを引く。訝しげに
見やる宮地にニコリと笑んで、彼の足の間に自らの足を差し入れた。
宮地の右足を太ももでやんわりと挟む。スカートをたくしあげようとした手は
捕らえられ、しかし海野は手首を掴む長い指に唇を寄せた。
「海野」
宮地は眉をひそめるだけだ。
この反応が最近は楽しくて仕方ない。
いつになったら堕ちてくれるのかとわくわくする。
「せんせ」と甘えた声を出しながらすりよると、宮地は肩を掴んでそれを制した。
「からかうのはやめなさい」
「からかってないです。本気。私、先生にならへんなことされてもいいよ」
「変なことはしない。質問がないなら帰りなさい」
「じゃあ、気持ちいいことしましょ?」
急に立ち上がると宮地が驚いたように手をひっこめた。それをいいことに足を
一歩前に出す。座る。宮地がぎょっと目を見開いた。当たり前だ。宮地の膝に
座っているのだから。
首に手を回し、鼻の頭にちゅっと音をたててキスをする。
「ね、先生?」
さすがにこれは堕ちたかな、と思っていると、宮地の手がゆるりと持ち上がった。
カッターシャツの第一ボタンに、宮地の長い指が触れる。
もともと外してあるそれを指が一撫でし、シャツの曲線にそって第二ボタンに
触れる。指がボタンをなぞった瞬間、海野は小さく震えた。すぐに“震える”と
いう行為がひどく恥ずかしいことに思え、慌ててごまかすように咳払いする。
急に意識するなんて、おかしい。混乱してしまう。
しかし心臓はにわかに騒ぎ出し、その激しさににたちまち海野は苦しくなった。
ボタンの下、生身の皮膚までその指に触れられているような錯覚を覚え、
そのたびにゾクゾクと何かが背中を駆け抜けていく。
第二ボタンはふつ、と音もなく外れた。その拍子に滑ったシャツが肌を掠め、
そのかすかな感触に海野はそっと息をつく。思いのほか熱い息だった。
触られてもいないのに、体の奥でじくじくと熱が湧いているのがわかる。
- 03-225 :海野の話 7/16:2010/07/24(土) 00:00:12 ID:xf6srHh0
- 第三ボタンに指がかかる。指は一度、ボタンを掴んでゆるりと撫ぜてみせた。
外してもいいのかと尋ねるようでもあり、外してほしいのかと揶揄する
ようでもある。じれったい動きが海野の緊張を煽り、体の奥の熱がいっそう
上がっていくようだ。
指がボタンをつまむ。くるりと回し、あっけなく外れる。
そして空を切った指が、海野の肌、胸のやわらかな谷間の部分を
ごくわずかに掠めた。
「っ!」
大げさに肩を揺らした海野の目を、宮地の視線が捕らえた。
授業中に見せる、あの厳しくも澄んだ、まっすぐな目だった。
海野はぶるりと震える。
「ほらな。好きな人じゃないと、こういうのは嫌だろう?」
何事もなかったかのように宮地の手が離れる。そのままポンと海野の頭を
軽く叩き、宮地は微笑んだ。
――嫌じゃない。
そう言いたいのに、感情が渦を巻いて海野の心中をかき乱す。
「こういうことは今後控えるように。さあ、今日はもう帰りなさい」
宮地の言葉に促されるままのろのろと参考書を閉じる。カバンを肩にかけ、
逃げるように職員室を出た。
さよなら、とおざなりに挨拶して扉を閉める。宮地の姿が見えなくなった
ところでようやく落ち着き、海野はへたりこみそうになる。
どうしてしまったんだろう。どうして、急に。
いつの間にか下着がぐっしょりと濡れているのが、確かめなくてもわかった。
◇◇◇
宮地に一瞬だけ触れられて以降、『遊び』をしても海野はいつもどこか
上の空だった。
何となく気乗りがしないと思っているうちに『遊び』をする頻度が減り、
気づけばなくなった。
相手にされなくなった男たちは「海野さんに男ができた」と囁き合ったが、
海野の生活は何もかわらなかった。
- 03-226 :海野の話 8/16:2010/07/24(土) 00:00:49 ID:xf6srHh0
- ただ、古典の授業は前にもまして真面目に受けている。
「次、海野」
「……はい」
予習をして書き込みがびっしりと入っているノートを持ち上げ、海野は
訳を読み上げる。宮地が軽く頷いてくれると、ふしぎとノートを握る手に
力が入った。
もし。
読み上げながらふいに思う。もし、途中で「わかりません」と言えば、
宮地はまっすぐこちらを見てくれる。あの目で。
言葉がつまり、海野は慌ててノートを持ち直した。
「どうした、海野。続きは」
宮地が教科書から顔を上げずに言う。
海野の指が震える。
わかりませんと。一言。たった一言。そして目が合って、そして……。
そこでハッとする。宮地が顔を上げる寸前に、海野は続きを読み始めた。
「よし。そこまで。次」
後ろの生徒がけだるげに訳を読み上げていくのを聞きながら、海野は
そっと口を手で覆った。
何を考えているのだ。
――何を、言うつもりだったのだ。
いつの間にか真っ赤になった頬を手で冷やし、海野は自問を繰り返した。
答えの出ないなぜ、どうして、を繰り返しているうちに放課後になっていた。
秋口とは言えまだ日は高く、薄青い空には子どもが落書きしたようなうろこ雲が
方々に散っている。遠くに見える神社の、楠の群生が煙って見えた。
あのあたりだけ雨が降っているのかもしれない。
「……またやっているのか?」
声をかけられても、とっさには自分へ向けられたものだと分からなかった。
- 03-227 :海野の話 9/16:2010/07/24(土) 00:02:37 ID:xf6srHh0
- ぼんやりと振り返り、海野は飛び上がりそうなほど驚いた。
寝癖の激しい髪を掻きながら、宮地が訝しげに海野を見つめている。
海野はぱくぱくと口を開け閉めすることしかできない。
無口な方ではないし、とっさに言葉が浮かばないなんてこと、今までなかった。
本当に自分はどうしてしまったんだろう、とうろたえているうちに、宮地が
教室に入ってきた。
「待ち合わせ……というわけじゃないんだな。もう、してないのか」
「何を」とは言わなかったが、宮地の言いたいことはわかった。
海野は黙って頷く。実はまだ声がうまく出ない。
おまけに、宮地が見定めるように海野をじっと見つめるので、海野はたちまち
耳まで真っ赤になった。
「うん。それがいい。自分を大事にしなさい」
宮地が薄く笑う。海野は惚けたようにそれを見つめながら、思わず心臓の
あたりを押さえた。どうしたのだろう、脈が速い。
「じゃあ、何か悩みごとか。進路のことくらいなら相談に乗れるからな」
「……い、いえ」
ようやく出た声が裏返り、海野はまたしてもかたく口を閉じた。
宮地は海野の様子に気づかぬまま窓辺に寄り、ほう、とため息をつく。
「向こうだけ雨が降っているな」
神社のあたりだ。海野は頷く。
「あそこ、みどりが煙ったようになって、空と混じって見えるだろう。あのあたりの
色を千草色と言う」
「え」
海野の「え」をどういう意味にとらえたのか、宮地が優しげに目を細めた。
「いい色だろう。奥ゆかしい、美しい色だ」
なぜ、どうして、が頭の中でうるさく叫んでいる。
なぜ心臓がうるさいのか。
どうして顔が赤くなるのか。
なぜ自分の名と同じ色を「美しい」と言われただけでこんなに嬉しいのか。
どうして、
「先生……」
好きだと言ってしまいそうになるのか。
- 03-228 :海野の話 10/16:2010/07/24(土) 00:03:34 ID:xf6srHh0
- 手を伸ばす。宮地の手に触れる。握りしめると、宮地がいつかの困ったような
笑顔で海野を見る。
「好きな人としなさいと、言っただろう」
何も言えなくなってしまった。
急に自分の手がひどく汚れて見え、海野はぱっと手を離す。
たとえ好きだと言ったところで、宮地は応えてくれないだろう。教師と生徒という前に、
海野を信じられないはずだ。
「先生」
言い知れぬ焦燥感にかられて、海野は声を発した。
「どうした。やっぱり悩みごとか」
「ええと……あの、授業で……わからないところが、あって」
しどろもどろになりながらノートを取りだす。手は情けなく震えていた。何も言えず、
何も伝えられず、海野は曖昧に微笑むしかなかった。
◇◇◇
宮地と毎日のように古典に向き合っていたのが効いたのだろうか。
海野はそこそこの公立大学の国文学科に推薦で合格し、ぼんやりと毎日を送っていた。
正直学校に来る意味もないが、宮地の授業は受けたい。授業の質問をするくらいしか
宮地と話す機会がないのだ。
参考書を開いて、下校時刻ぎりぎりまで待つ。
何もできなくても、話さえうまくできなくても、二人きりになりたい。
以前の自分だったらもう少し積極的に何かしようとしたのだろう。しかし宮地への
気持ちを自覚してしまってから、海野は驚くほど弱気になっていた。
- 03-229 :海野の話 11/16:2010/07/24(土) 00:04:18 ID:xf6srHh0
- 何も言えない、という思いが常に根底にある。自分のしてきたことが重く
のしかかり、宮地の「好きな人としなさい」が耳底を切り裂く。
好きな人としたい。
軽蔑されていないのなら、好きな人としたい。
「あれ、海野さん」
声に顔を上げると、隣のクラスの男子生徒が立っていた。
過去に一、二度『遊んだ』ことのある生徒だ。
いやだな、と思って眉をひそめたが、男子生徒は海野の様子に気づくことなく
近づいてきた。
「何してんの? これからもしかして……」
「ううん。そういうのはやめたから」
「マジで? まぁ受験だしね。でもさぁ」
言いながら男子生徒が海野の肩を撫でる。ぞわぞわと悪寒が背中を駆け、海野は
思わず立ち上がった。
後ずさる海野の腰を男子生徒が抱く。思いのほか力が強い。顔を寄せてくるので
いやいやと首を振るが、「どうしたの」と笑うばかりで取り合ってくれない。
「どうしちゃったの海野さん。俺の、あんなにうまそうに舐めてくれたじゃん」
「もうしないの。やめて」
「ダメダメ。こういうの久しぶりだからさ、俺、止まんねーわ」
男子生徒の唇が海野の口端をかすめた。
カッと頭に血が上る。
やめてよ、と男子生徒を強く押すと、海野を見つめる瞳が剣呑になった。
「テメ……ビッチのくせに今さら清純ぶんなよ!」
バチ、と何かが弾けるような音がして、一瞬後に頬が燃えるように熱くなった。
手で押さえると、ぴりぴりと痛む。熱のせいか衝撃のせいか、涙線が緩む。潤んだ
視線で男子生徒を睨みつけると、下卑た笑みが返ってきた。
「何、痛くされたいの?」
怖い。
- 03-230 :海野の話 12/16:2010/07/24(土) 00:04:49 ID:xf6srHh0
- 必死で抵抗した。
長い髪を掴まれたので、きっと何本か抜けてしまった。叩かれた頬は未だ熱い。
きっと赤くはれ上がっているだろう。
腕をひねりあげられそうになった瞬間に股間めがけて足を蹴りあげ、どうにか
振り切った。
とるものもとりあえず教室を出、廊下を走り、階段を下り、ようやく何の物音も
しないことに気づいてほっと胸をなで下ろす。
安心すると情けないやら怖いやらで、どっと涙がこぼれ出した。
男子生徒ばかりが悪いのではない。
今までの海野が、そうやって男を扱ってきたせいのが一番悪い。
馬鹿な男を弄んでいるつもりになって、自分を貶めていただけだったのだ。
「こら、何してる。早く帰りなさい」
手で涙を拭っていると、後ろから声がした。
この声を、海野はよく知っている。知っているからこそ今はこんな状態を
悟られたくない。しかし黙って昇降口に歩き出した海野の肩を、声の主が掴んだ。
「海野か。こんな遅くまで勉強してたのか?」
顔をのぞきこまれ、声の主――宮地の顔が強張ったのがわかった。
「……冷やすから、職員室に寄りなさい」
優しく頭を撫でられ、海野はまた泣いてしまった。
「何があったかは、言えないか」
宮地に尋ねられ、海野は頷いた。
まっすぐに自分を見つめているのがわかる。だから顔を上げられない。腫れた
頬を冷やしながら、海野はぎゅっと口を引き結ぶ。
「海野は、もてるだろう」
急に脈絡のないことを言うので、思考が追いつかなかった。
「俺も噂はけっこう聞いたよ。でも、夏の終わりくらいからかな、ぱったり
聞かなくなった。やっと本当に好きな人ができたのかと思っていたが……。
その彼氏が原因なのか」
- 03-231 :海野の話 13/16:2010/07/24(土) 00:05:29 ID:vP+inuXW
- 違う、と言いたい。本当に好きになった相手は先生です、と、そう言えたら
どんなにいいだろう。
好きな人としたい。
軽蔑されていないのなら、好きな人としたい。
――先生としたい。
「……せんせい」
何も言えないと思うと、言葉が熱にすり替わった。熱は目の奥から次々に
零れ出し、頬をはたはたと濡らしては床に落ちていく。
宮地が驚いたように海野の名前を呼んだ。うろたえたように頭を撫でる
手は暖かい。きっと海野ではない誰かをあたためるためにある手だ。考えると
どうにもたまらなくなって宮地の手を取った。
握りしめた。
宮地がゆるく握り返してくれる。海野、と、宥めるような声が降ってくる。
「せん、せ……ごめんなさい。ごめ、なさ、私……」
好きです、と言った瞬間、空気が凍ったようになった。
◇◇◇
仰げば尊しが終わると、拍手が起こった。
卒業生が退場し終わったのか、下が一気に騒がしくなる。
――お前くらいの年はみんな、大人に憧れるものなんだ。
――大丈夫。春になれば忘れるよ。もっといい男と恋をしなさい。
あのとき言われた台詞が今でもぐるぐると頭を支配する。うそつき、と
罵ってしまいたかったのに、声に出すとそれは思いのほか頼りなく、甘い
響きになった。
「忘れられないじゃない。嘘つき。ずっと好きなんだもん……先生……」
零れては頬を伝う涙を乱暴に拭ったそのとき、声がした。
- 03-232 :海野の話 14/16:2010/07/24(土) 00:06:11 ID:vP+inuXW
- 「卒業式はきちんと出なさい。最後なんだから」
ぱっと顔を上げると、珍しく梳かしつけたらしい前髪が風に舞っている。
きっちりした黒の礼服は、彼をいつもよりずっと若く見せている。
細い銀フレームの奥、澄んだ瞳がまっすぐに海野を見ていた。
数か月ぶりの会話だというのにずいぶんと味気ない。
拗ねたように視線をそらした海野に薄く笑んで、宮地は海野の隣に立った。
「みんなと別れの挨拶はしなくいいのか」
「……」
「海野は公立の女子大だったな。近いんだし、何かあったら相談に来なさい」
「……せんせい」
「うん」
「好きです」
言うと止まらなくなった。ぼたぼたと落ちてくる涙をぬぐいもせず、海野は
思いきり宮地の首にしがみついてやった。
「好きです、好き、ずっと好きです。春になっても好きだった。来年だって
好きです。私のこと、信じられないかもしれないけど、軽蔑するかも
しれないけど、私、わたしは――」
「海野」
声を荒げる海野の目を、あの澄んだ視線が刺す。そうされると何も言えない。
「千草色を覚えてるか。緑がかった、奥ゆかしい青だ」
「せ……」
「俺の一番好きな色だ」
先生、と呼びたかったが、声にならない。唇から漏れたのは嗚咽だった。
苦しい息の下で切れ切れに宮地を呼ぶ。宮地が拒まないのをいいことに
ぎゅうぎゅうと抱きついて、首筋に唇を押し当てた。
「忘れじの行く末まではかたければ今日を限りの命ともがな」
呪文のようだった。
え、と聞き返すが、宮地は笑って首を振る。海野の肩を包んだ手が
やんわりと体を引き離した。
- 03-233 :海野の話 15/16:2010/07/24(土) 00:07:09 ID:vP+inuXW
- 「海野。お前はこれから今より広い世界に出る。そこで色んな人と
出会うよ。お前を好きになってくれる人にも、お前が好きになる人にも」
視界がにじむ。せんせい、と呟いた声がむなしく風に舞い、伸ばした
指が空を切った。
「ただ、もしお前が……いや。何でもない」
「先生、やだ、わたし」
「卒業おめでとう」
遠ざかる後ろ姿は、涙でぼやけてすぐに見えなくなった。
◇◇◇
「せんせ、さようならー」
通り過ぎる女生徒たちが一礼しながらぱたぱたと駆けていく。
宮地は小テストの採点をする手を止めぬまま、挨拶を返す。ふと、
視界の端に長い黒髪が散った。思わずハッと振り返る。あどけない
顔をした黒髪の女生徒が、にっこりと手を振ってくれた。
手を振り返しながら、何をばかなことを、と心中で自嘲する。
二年ほど前、自分を好きだと言ってくれた女生徒がいた。
奔放さに振り回されることも多かったが、ふと見せる真剣なまなざしが
美しかった。千草色のようにしんと深くたおやかな色でいつの間にか
絡みとられた。浮かれてしまいそうで恐ろしく、自ら離れた。
不安定な年頃だ。再会は二度とないだろう。
それでも、あの秋の日によく似た景色を窓から眺めていると、
思い出しては心臓がしくしくと痛む。
ずいぶんと引きずるものだ、と苦笑いを浮かべる宮地の耳に、
コツコツと靴音が聞こえた。
- 03-234 :海野の話 16/16:2010/07/24(土) 00:07:31 ID:vP+inuXW
- 下校時刻は過ぎている。ガラ、と教室の扉が開いたとき、宮地は
そちらを見ないまま言い放った。
「こら、早く帰りなさい」
扉を開けた主は黙ったまま、教室に入ることも帰ることもしない。
不審に視線を持ち上げた宮地は、そのまま固まった。
「先生、気づいてくれないなんてひどいです」
黒い髪はあの頃より長い。蛍光灯のひかりをうけて艶々と輝くそれを、
宮地は惚けたように見つめることしかできない。
「よくも『忘れじの行く末まではかたければ今日を限りの命ともがな』
なんて失礼なことを言ってくれましたね」
「海野……」
「言ったでしょ? 先生、大好き。ずっと好きです」
もう観念してくれますか、と小首を傾げる姿に、いつかの放課後が重なる。
いつの間にか、宮地の頬は緩んでいた。
「君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな」
「……それ、返事ですか?」
「どうかな」
「今なら、私にへんなことしてくれる?」
「……どうかな」
海野が手を差し出す。宮地がそれを取る。ねえ先生、と囁く海野の顔が
かすかに赤い。
「じゃあ、気持ちいいことしましょ?」
それに宮地がどう答えたかは、二人だけの秘密だ。
(終わり)
最終更新:2010年07月24日 07:09