第3章
02-877 :腹黒ビッチ 3章(前) 1:2009/11/24(火)18:06:08 ID:c+rdRhZe
 パチン。
 随分温まってしまった携帯を、片手で閉じて握りしめる。机に向かうにも、予習は
終わってるし、世界史の記述も採点を済ませたところだ。英作文は寝る前にやる習慣
を変えたくない。手持無沙汰に、なおさら携帯が気になってしまう。もう一度だけ、
と携帯を開こうとした。
「りかー、ここ教えてー」
 向かいで勉強していた佳奈子がぐでっと机に突っ伏す間際の態勢で、私に助けを求
める。
「わーがーんーなーいー」
「わかったから、さっさと見せなさいよ」
「ベクトルなんて死んじまえばいいんだー」
「ベクトルね。はいはい」
 学校で配られたセンター対策のだな。ベクトルならそんなに難しくない。
「ああ、途中まで解けてるよ。こないだ教えた方法使えてるし」
「空間は無理ー」
「考え方は同じだから。ほら、これとこれ使えば出てくるじゃない」
「うんうん」
「で、(1)の使ってみて。これのベクトル出てくるから。あとは自分で考えて」
 佳奈子にテキストを返し、ノートに数式を書きだすのを見て、また携帯を見る。着
信ゼロ。分かっているけど、もう一度開いてみる。いつも通り、待ち受け画面のプリ
クラが光っているだけだ。
 はぁ。ため息をついて、またパチンと携帯を閉じる。だけど気持ちがおさまらなく
て、また携帯を開き、メールを打つ。
「りかー、まだ一宮に連絡つかんの?」
「うん」
「どうしたんだろね」
「……うん」
「ま、だいじょぶじゃね?どうせいつも通りなんだから」
「……そうだね」
 そう、いつも通り。昼ご飯は克哉君と一緒に食べて、普通に授業受けて、放課後は
こうして佳奈子の家庭教師。それからバイトに行って、帰りは克哉君が駅まで迎えに
来てくれる。
 いつも通り。だけど、克哉君からの先に帰るよっていう連絡がない。それだけと言
えばそれだけだけど、でも胸騒ぎがする。
「それにしても、りかって変わったよねー」
 はい、と解き終わったノートを採点してくれと差し出して、佳奈子がしみじみ言う。
「私の処女は高く売れるのよ!とか言ってた頃が懐かしいよ」
「今だって変わんないわ。一晩二十万は堅い」
「ぎゃははは、じゃあ、一宮は二十万の男?」
「さーね」
「ほら、やっぱ変わったじゃん。男は奢らせてナンボって言ってたくせにぃ。男ころ
ころ変えて、しょっちゅう遊びに行って、そのくせエッチはさせなかったりかが、あ
の一宮に落ちるなんてありえないよねー」

02-878 :腹黒ビッチ 3章(前) 2:2009/11/24(火)18:06:36 ID:c+rdRhZe
 中学からの付き合いってこれだから嫌だ。
「別に落ちてないわよ」
「ふーん?別にどーでもいいけどさー」
 毎日のように渋谷に繰り出したり、夜中に集まってバカやってた仲間で、同じ高校
に来たのは佳奈子だけだ。おかげで、昔からの言動や蛮行はすべて知られている。他
は全員バカ高を選んだのに、佳奈子だけは『りかと一緒だとおもしろいからー』なん
て言っていた。おかげで、佳奈子の親には絶大な信頼を受けている。大学受験を控え
た今も、放課後二時間見てあげるだけで一日五千円もらっているのだ。さすが金持ち。
「吉中さんとか、まだりかに未練あるらしいよ。あれだけ散々振られたのにねー」
「あー、直人のこと?車しか取り柄ないじゃん。あれ以上はつきあっても無駄」
「ひっでーの!K大お坊ちゃま君捕まえてそりゃないわー」
「それくらいゴロゴロいるわよ。あれでヤらせろなんて、分をわきまえろって」
「麻美が聞いたらキレるよ……」
「直人のセフレやってんのは麻美の勝手でしょ。私は知ーらなーい」
 はっと鼻で笑って、紙パックのジュースをすする。
「てか、麻美はこれからどうすんの?」
「『マミ、しゅーしょくなんてめんどくさぁいしー、頭わるいしー』って」
「直人って、大卒以上は人間じゃねえとか言ってるバカ男なのに……」
「バカ同士でお似合いなんじゃない?」
 じゅるじゅる、とストローが嫌な音を奏でたところで、採点終わり。ほとんどマル。
このままなら、佳奈子の方は志望校に受かるだろう。
「さて、今日はこんなもんかな」
「終わったぁーつっかれたーかえろー」
 机をガタガタ元に戻して、カバンを取る。教室の時計は六時半を示している。連絡
ないな、とため息をつきかけたその時、手のひらで携帯が振動した。
「もしもしっ、克哉君?」
「有華ー?克哉君じゃなくてママだけど、もうこっち向かってる?」
「……あ、ママ」
 ママ、と言っても本当の母親じゃない。バイト先であるクラブのママだ。
「今からそっち行くとこです」
「そう?ごめん、氷切らしちゃって、途中で買って来てくれない?あとポッキーも無
いから。いつものとこでお願いねー」
「分かりましたぁ。三十分くらいで着きますねー」
 用件だけで、すぐに切られる。もしかしたら早めにピークが来ているのかもしれな
い。買うものリストを頭で作りつつ、教室を出る。
「絢さんから?」
「うん」
「りかも大変だねー、受験生なのにバイトして」
「でも国立に変えたし、なんとかなりそう」
「はー。私立一本だと気楽でいいわー」
 佳奈子とは校門で別れた。じゃあねー、絢さんによろしくー!という佳奈子に手を
振るだけで返す。卒業したら絢さんの店で働くって、本気なんだろうか。
 店は新宿にあって、電車で一本だ。駅までの道すがら、何度も携帯を見るけれど、
やっぱり連絡がない。克哉君は私と同じ大学に入りたいからとかなり必死に勉強して
るから、最近は絶対部屋にこもってるはずなんだけど。

02-879 :腹黒ビッチ 3章(前) 3:2009/11/24(火)18:07:13 ID:c+rdRhZe
 克哉君と付き合うようになって、確かに私は変わったかもしれない。佳奈子のから
かうような口調を思い出す。
 中学に入ってから、男は一か月以上切れたことがない。初めは流されたように同級
生と付き合っては、三か月未満で別れていた。周りもみんなそんな感じで、付き合うっ
てことが大事で、キスしたり手をつないだりそんな段階で別れていた。
 そんなある日に、三歳年上の彼氏ができた。相手は高校生で、バイトしててお金が
あった。色んなものを奢ってもらって、買ってもらった。母子家庭で裕福じゃない家
庭に生まれた私には、新鮮な経験ばかりだった。カラオケに行ったり、ゲーセンに行っ
たり、ビリヤードしてみたり、クラブにも行った。そうして一か月くらいですっかり
遊びを覚えた頃に、彼氏と二人でカラオケに行った。
 押し倒された。
 はじめて、おちんちんというものを見た。
 舐めてと言われ、あまりのグロテスクさに叫んで、彼氏の股を蹴り上げて、逃げた。
 逃げた道中の混乱を、今でも覚えている。なにあれなにあれなにあれキモいキモい
キモい。あんなの舐めるとかありえない。自分で舐めてろ!キッモ!キッショ!!
 家に帰って、冷静になっても、大体考えることは同じだった。だけど男と付き合う
と、奢ってもらっていっぱい遊びに連れてってもらえるというのは捨てがたかった。
だけどその引き換えにペニス舐めろと言われても、絶対嫌だ。
 しばらくうんうん悩んでる内に、彼氏に呼び出された。当たり前だが怒っていて、
今にも物陰に連れて行かれて強引にされそうだった。何も反応しない私の腕を引いて、
抱き締めようとする男を前に、ふと思いついた。
『いやっ』
『有華?』
『ごめんなさい、私、怖いの……っ』
『何言ってんだよ、お前』
『だって、私、お母さんに、結婚するまでエッチしちゃダメよって……』
『……ハァ?』
『ケンジのこと、好きだけど、でも、そんなことしたら、結婚できなくなっちゃうの』
 名づけて、結婚するまでピュアなの大作戦(そのまま)。うるうるの目で見上げて、
怯えたウサギのように体を震わせるのだ。この時ほど、自分が清純派で可憐系の顔で
よかったと思ったことはない。
 彼氏は憤慨しかけたけど、私があまりにも怯えるので、諦めた。
『ケンジと結婚したら、私の処女、あげるねっ』
と言って落とした。誰がお前なんかと結婚するかバーカ、というのは心の声だけど。
 その場をどうにか切り抜けるためのはずの嘘は、後々、意外な効果を生んだ。ます
ます彼氏が私に入れ込んだのだ。可愛くて一途な女の子は、この子を大事にしなきゃ
という気を起させるし、本命にしたくなっちゃうらしいのだ。
 遊びに行くたびにお金出してもらって、ご飯食べさせてもらいながら、私は悟った。
これは使える、と。
 そして三ヶ月くらい付き合った後、彼氏とはあっさり別れた。結局彼も高校生、ヤ
りたいお年頃。その頃にわざと軽そうな友達を紹介したら、面白いくらいさっさと手
を出した。そこで、もう信じられない!とでも言って平手でも打ってサヨナラした。
 あとはそれ繰り返し。彼氏は切れないけど、それは恋愛体質だからじゃない。いか
に奢ってもらって美味しい思いするかの勝負なのだ。ただ、セックスは結婚する相手
に取っておく、というのも本当だ。いつか玉の輿に乗った暁には、お礼の意味も込め
て処女を捧げるつもりだ。

02-880 :腹黒ビッチ 3章(前) 4:2009/11/24(火)18:07:57 ID:c+rdRhZe
 いい男は、いい環境にこそ存在する。中学の時点で私は知っていた。ナンパで捕ま
る男なんて、たかが知れている。中学までに付き合った男は中の下レベルの高校か大
学で、決まってそんなに金も持っていなかった。
 だから中三あたりで遊ぶのには一旦見切りをつけて、猛勉強を始めた。友達はみん
なバカじゃないのー遊んでた方が楽しいじゃんと鼻で笑ってたけど、そんな奴らを私
こそが鼻で笑っていた。そのレベルの男で満足してればいいんじゃない?私はもっと
ハイレベルの男掴まえるけどね。
 結構なレベルの進学校に入って、それは確信になった。制服だけで、寄ってくる男
が違う。それに可愛い女の子の顔が乗っていたら、効果は抜群だ。反面、高校に入る
と体の関係を迫ってくる男も増えた。結婚するまでピュアなの大作戦は、限界に近づ
いてくる。本当に結婚しようと迫ってくる男が出てきやがったのだ。
 あーめんどくさい。どこかにそんな女慣れしてなくて、性欲も薄そうな男いないか
な。草食系バンザイ。
 そんな頃に会話に出てきたのが、一宮克哉、だった。

「あら早かったわね、有華」
「おはようございます、これ、頼まれてたものです」
 業務用スーパーの袋を台に置く。それからブレザーを脱いで、ネクタイを店用の黒
に付け替えて、エプロンをつける。
「あ、有華ちゃん来たんだー」
「おはようございますー、瑠奈さん」
「こんな時間から団体さんはいって、今大変なのお」
「そうだろうなーと思って、早めに来ました」
「さすが有華ちゃんだね。いい子いい子」
 香水の匂いをぷんぷんさせる瑠奈さんに、にっこり笑いながらオーダーを確認する。
ママもがんばっていたみたいだけど、大分たまっている。
「今日、私フリーっぽいから、時々私も厨房入るね」
「大丈夫ですよー。それに瑠奈さん人気だし、すぐ指名入りますってば」
「お世辞はいいわよ」
 うふふ、と上品に笑う瑠奈さんは、こんなに気さくで偉ぶらないのにナンバー3だ。
大体、ナンバー入りの人が厨房に入ることなんてまずないのに。
「もうすぐ卒業でしょ?そしたら有華ちゃん、私のヘルプ入ってね。楽しみにしてる
から」
「あははは、どうなんでしょうねー」
 手を振って、瑠奈さんはまたホールに戻って行った。さて、とオーダーの一番上の
アイスクリーム盛り合わせにかかる。ディッシャーは、普通の店のよりかなり小さい。
大粒のブドウくらいの大きさで、これを何個も積むと可愛いんだけど、店内用はたっ
たの四つに、ウエハース二枚。これが800円に化けるんだから恐ろしい。私なんか裏で
めちゃくちゃ食べてるのに。
「大変お待たせしました、アイスクリーム盛り合わせです」
 話に盛り上がってるのを邪魔しないように、静かに置いて、さっさと厨房に戻る。
それが私の仕事だ。飲み物は氷とお酒の準備だけ。あとは女の子がやってくれるから
楽だ。これで時給が1800円。簡単な仕事だけど高いのは、一応ここが夜のお店だから。
ホステスよりは当然安い。それでもコンビニのレジでひーひー言うよりはよっぽど割
にいいから、もう二年も働いている。
「有華、次ピザやってくれる?」
「はーい」
 忙しいのかこちらを見ないママに、返事だけしてオーダーを確認。マルガリータ。
後で私も食べよっと。

02-881 :腹黒ビッチ 3章(前) 5:2009/11/24(火)18:08:28 ID:c+rdRhZe
 ピークを過ぎるのが十時頃で、その前後で私も上がりになる。三時間程度しか働か
ないで済むんだけど、やっぱりちょっとは申し訳なくて、残業することも多い。まあ
ママが残業代を弾んでくれるからなんだけど。上がっていいよーとママに言われて、
すぐにカバンの携帯を確認する。けど、何の連絡もない。
 さすがに、おかしい。迎えに行くよという連絡がないのは、これが初めてだった。
「有華ー、なんか食べてくー?」
「いえ、帰ります」
「また克哉君?」
「はい」
「いいわねえ、ほほえましくて。じゃあね、また明日」
「はい、お先失礼します」
 ママはそう言うと、ホールに帰って行った。エプロンを外して、ブレザーを着る。
水仕事で荒れやすいから、ハンドクリームを塗る。だけど指先は冷たい。このまま待
とうか迷ったけど、待つよりは駅に向かう方がいいと思って外に出た。
 繁華街のある駅から最寄駅までは十五分ほど。六本木で働いていた母が通勤に楽な
ようにと選んだアパートに、もう十年も住んでいる。克哉君の家とは駅と反対になる
けど、徒歩二十分と近い。だから朝はランニングするって言う克哉君に付き合って、
一緒に学校に行くことだってできるのだ。
 いつも、克哉君は最寄り駅で私を待っていてくれる。夜道は危ないからと言って。
だけど克哉君の姿は、今日はそこに無かった。
 胸騒ぎが、どんどん酷くなる。なんでだろう。どうして、連絡くれないんだろう。
 もやもやする胸を晴らすために、私は自分のアパートでなく、克哉君の家の方へ向
かった。誰もいないようだったけど、私はもうほぼ顔パスだったから、おじゃましま
すとだけ告げて中に入る。二階の克哉君の部屋を、ノックする。返事はない。
 その先は、真っ暗な闇の中だった。

02-882 :腹黒ビッチ 3章(前) 6:2009/11/24(火)18:08:49 ID:c+rdRhZe
 一宮克哉という人間は、きちんと認識していた。クラスにいる、暗い奴。それくら
いに思っていた。他人に関わろうとしない。本当に空気だった。誰かに視線を送るで
もなく、不気味に独り言を言うでもなく、ただぼんやりと彼はそこにいた。
 最初は好奇心だった。金があるのになんであんなにダサくなれるのか分からない。
女の子と付き合ったこともなさそうだし、完全に自分が優位になれそうだと思った。
性欲も薄そうだし。今まで付き合ったことのないタイプだったから、試しに付き合っ
てみようかな。将来結婚する時に、こういう無害そうなタイプだったら、手綱をとれ
ていいかもね。その実験台として。三ヶ月ほど付き合って、慣れたら捨てよっと。そ
れくらいに思っていた。
 そうして三ヶ月経ったけど、別れる気が不思議と起こらなかった。その時は、他に
いい男が今はいないからだと思った。
 冬が来ても、私はいつも克哉君の傍にいた。一途に私のことを思ってくれて、努力
してくれる姿に、情がわいたのかなと思った。
 春が来て、いつの間にか処女がなくなってた。必死でそういう空気に持っていこう
としている様子を見てたら、まあいいかな、と思ってしまったのだ。
 そうして、一年が経って。結婚するまでなら一緒にいてもいいかな、と思った。レ
ベル低めの大学に入って特待生になろうと思ってたのを、同じ大学に行きたいからと
志望校を変えた。
 自分が変わったなんて、意識したこと無かった。むしろ虚勢や嘘をつかなくていい
分、そのままの私でいるつもりだった。日々が穏やかだった。それを楽しむだけで、
十分だった。
 今以上を望まなくてもいい、等身大の毎日。そして誰かが想ってくれることに、
笑って応えることが、どれだけ幸せなのか。
 私は気付いてなかった。

 ボロボロの身なりで、どうやって帰ってきたのか覚えていない。手切れ金だと言わ
んばかりに投げられた万札は、途中のどこかで捨ててしまった。体の芯まで冷え切っ
ていた。いつもの慣れた動作で鍵を開けて、扉を開ける。
 バタン。静まりきった空間に、冷たく響き渡る。靴を脱いで、服を脱いで、シャワー
を浴びる。冷たい水が頭にかかるけど、我慢する気も逃れる気も起きないままぼんや
りとしている内に、冷たさが和らいできた。頬を伝う温水は、塩辛くもなんともない。
涙はあの部屋に置いてきてしまった。
 くぷ、と膣から漏れ出した精液が、太ももを伝う。避妊されなかったんだな、でき
たらどうしようかな、と思った。
 ルーチンワークとしての入浴はできても、それ以外のことはできない。いつもどお
りに体を洗って、外に出るしかできなかった。部屋着に着替えて、そのまあベッドに
倒れ込む。英作文は、もう寝る時間だから、出来ない。
 目を閉じたら、そのまま眠れる。眠くてたまらない。はやく眠ってしまいたい。こ
んなこと忘れてしまいたい。
 赤ちゃんできてたら、どうしようかな。眠りに落ちる寸前で、ぼんやりと考えた。
 まあ、できてないんだろうな。明日から生理だったことを思い出したからだ。
 できてたら、よかったのに。なんでそんな馬鹿なことを思ったのか、分からない。

 生理痛で一日休んで、そのまま週末を迎えて、学校に行くと空気が明らかに違った。
克哉君とのことは、クラス中に知れ渡っているらしい。鼻で笑ってやろうか、前の私
ならそうしただろうけど、そんな気力が湧いてこない。克哉君を、視界に入れないよ
うに気を付けた。きっと今は、耐えられないだろうから。
 白い目で見られるのには慣れていた。小学校時代はずっとそうだった。母がお水だ
からって、友達には馬鹿にされたし、先生にも目をかけてもらえなかった。中学に
入って小学校時代の友人関係がリセットされて、立て続けに先輩やら同級生に告白さ
れてからようやく、自分がどうやら人より可愛いことを知った。
 その頃を思い出せば、やっていける。そう、自分に言い聞かせる。この間まで仲が
良かったクラスメイトが、遠巻きに私を見て、冷たい目で噂する。誰にも気づかれな
いように、ため息をついた。これからは、ギリギリで学校に来ないと。

02-883 :腹黒ビッチ 3章(前) 7:2009/11/24(火)18:10:41 ID:c+rdRhZe
 昼休みのチャイムが鳴り、コンビニで買ったパンを手に立ち上がった。廊下に出る
と、佳奈子が一人でそこにいた。
「よっ、りか」

 屋上は秋風が吹きすさび、はっきりいって寒い。寒いけどここしか場所は思いつか
ない。その内、特別教室でも探さなければ。
「犯人、うちのクラスの田辺だって」
「ふーん」
「なに、シメないの?」
「どうでもいい」
「どうでもよくないっしょ」
「どーでもいーの」
「どーでもよくない!」
 珍しく、佳奈子の大声。顔を上げると、想像したよりもずっと、佳奈子は怒ってい
た。
「りかがせっかく、まともに恋愛してんのに!ぶち壊すなんて、許せない!」
「まとも?」
「そーだよ!恋愛不信のりかが、やーっと本気で恋したのに、田辺の奴……!」
「私、恋愛不信なんだ」
「自分で気付いてなかったの?」
 はは、と生笑いで返す。言われてみればそうかもしれないなーくらいの実感しかな
い。
「りかはさ、男なんて信用してないでしょ。小学校ん時、男の先生に相手にしても
らってなかったし。しかも通信簿に酷いことばっか書かれて」
「よく知ってるねー」
「あと、中一ん時に付き合った奴ら。みーんなりかのことつまんないって言ってさっ
さと別れちゃって」
「あー、でもそれ否定できないなー」
「そんで、年上の彼氏全部!エッチしたいエッチしたいってお前ら猿か!!」
「まぁ、男ってそんなもんじゃない?」
「しかもりかんちのおばさん、男追いかけて北海道行っちゃうし」
「子ども生まれて幸せならいいじゃん。見る?こないだの、晋くん二歳の写メ」
「ほら、りか、達観しちゃってるでしょ。これが恋愛不信だっていうのよ」
 言われてみれば、そうかもしれない。風でさらに固くなったメロンパンにかじりつ
く。どこにメロン果汁が入ってるのかさっぱり分かんないのがメロンパンのいいとこ。
「しょうがないよ。金目当てだって、本当のことだったんだし」
「最初はそうだったんだろうけど、違うでしょ」
 うん、違う。違うんだよ。克哉君。
「私、気付いてなかったけど、克哉君のこと好きだったんだね」
「それも気づいてなかったのかよ……」
 あはははは。乾いた笑いが、風にさらわれる。
「好き、だったんだ」
 やっぱり涙はあの日流し切って、もう泣き方すらも思い出せない。
 恋の仕方も知らないくせに、知ろうともしなかった。克哉君はいつだって私を大事
にしてくれてたのに、私はただをそれを甘受していただけ。そもそも前提が最悪なの
だ。ばれなきゃいいなんて、そんなの、ばれて当たり前だ。
 そうして全部なくなってから、やっと分かった。これが、恋だったんだと。
「りかのバカ」
「うん、私、バカだね」
「バ―――――カ!」
「もー、佳奈子が泣かないでよ」
「バアアアアアアアカ!一宮のバアアアアアアカ!!」
 うわああああん、なんて豪快に泣いてマスカラ取れてる佳奈子に、化粧ポーチを膝
に乗せてやる。友情に免じて、綿棒一本貸したげよう。
「これから私といると、佳奈子も悪口言われるよ」
「知るか。私はりかがいないと大学受からないんだもん」
「だったらうちおいでよ。どうせ誰もいないし」
「むしろうち引っ越してこいよ!うちのママ、りかのこと気に入ってるし」
 断る私をよそに、佳奈子は勝手に「これからは二人で飯食うぞ!」と意気込んでい
る。やめときなよと言ったけど、本当は嬉しかった。

02-877 :腹黒ビッチ 3章(前) 1:2009/11/24(火)18:06:08 ID:c+rdRhZe
 パチン。
 随分温まってしまった携帯を、片手で閉じて握りしめる。机に向かうにも、予習は
終わってるし、世界史の記述も採点を済ませたところだ。英作文は寝る前にやる習慣
を変えたくない。手持無沙汰に、なおさら携帯が気になってしまう。もう一度だけ、
と携帯を開こうとした。
「りかー、ここ教えてー」
 向かいで勉強していた佳奈子がぐでっと机に突っ伏す間際の態勢で、私に助けを求
める。
「わーがーんーなーいー」
「わかったから、さっさと見せなさいよ」
「ベクトルなんて死んじまえばいいんだー」
「ベクトルね。はいはい」
 学校で配られたセンター対策のだな。ベクトルならそんなに難しくない。
「ああ、途中まで解けてるよ。こないだ教えた方法使えてるし」
「空間は無理ー」
「考え方は同じだから。ほら、これとこれ使えば出てくるじゃない」
「うんうん」
「で、(1)の使ってみて。これのベクトル出てくるから。あとは自分で考えて」
 佳奈子にテキストを返し、ノートに数式を書きだすのを見て、また携帯を見る。着
信ゼロ。分かっているけど、もう一度開いてみる。いつも通り、待ち受け画面のプリ
クラが光っているだけだ。
 はぁ。ため息をついて、またパチンと携帯を閉じる。だけど気持ちがおさまらなく
て、また携帯を開き、メールを打つ。
「りかー、まだ一宮に連絡つかんの?」
「うん」
「どうしたんだろね」
「……うん」
「ま、だいじょぶじゃね?どうせいつも通りなんだから」
「……そうだね」
 そう、いつも通り。昼ご飯は克哉君と一緒に食べて、普通に授業受けて、放課後は
こうして佳奈子の家庭教師。それからバイトに行って、帰りは克哉君が駅まで迎えに
来てくれる。
 いつも通り。だけど、克哉君からの先に帰るよっていう連絡がない。それだけと言
えばそれだけだけど、でも胸騒ぎがする。
「それにしても、りかって変わったよねー」
 はい、と解き終わったノートを採点してくれと差し出して、佳奈子がしみじみ言う。
「私の処女は高く売れるのよ!とか言ってた頃が懐かしいよ」
「今だって変わんないわ。一晩二十万は堅い」
「ぎゃははは、じゃあ、一宮は二十万の男?」
「さーね」
「ほら、やっぱ変わったじゃん。男は奢らせてナンボって言ってたくせにぃ。男ころ
ころ変えて、しょっちゅう遊びに行って、そのくせエッチはさせなかったりかが、あ
の一宮に落ちるなんてありえないよねー」

02-878 :腹黒ビッチ 3章(前) 2:2009/11/24(火)18:06:36 ID:c+rdRhZe
 中学からの付き合いってこれだから嫌だ。
「別に落ちてないわよ」
「ふーん?別にどーでもいいけどさー」
 毎日のように渋谷に繰り出したり、夜中に集まってバカやってた仲間で、同じ高校
に来たのは佳奈子だけだ。おかげで、昔からの言動や蛮行はすべて知られている。他
は全員バカ高を選んだのに、佳奈子だけは『りかと一緒だとおもしろいからー』なん
て言っていた。おかげで、佳奈子の親には絶大な信頼を受けている。大学受験を控え
た今も、放課後二時間見てあげるだけで一日五千円もらっているのだ。さすが金持ち。
「吉中さんとか、まだりかに未練あるらしいよ。あれだけ散々振られたのにねー」
「あー、直人のこと?車しか取り柄ないじゃん。あれ以上はつきあっても無駄」
「ひっでーの!K大お坊ちゃま君捕まえてそりゃないわー」
「それくらいゴロゴロいるわよ。あれでヤらせろなんて、分をわきまえろって」
「麻美が聞いたらキレるよ……」
「直人のセフレやってんのは麻美の勝手でしょ。私は知ーらなーい」
 はっと鼻で笑って、紙パックのジュースをすする。
「てか、麻美はこれからどうすんの?」
「『マミ、しゅーしょくなんてめんどくさぁいしー、頭わるいしー』って」
「直人って、大卒以上は人間じゃねえとか言ってるバカ男なのに……」
「バカ同士でお似合いなんじゃない?」
 じゅるじゅる、とストローが嫌な音を奏でたところで、採点終わり。ほとんどマル。
このままなら、佳奈子の方は志望校に受かるだろう。
「さて、今日はこんなもんかな」
「終わったぁーつっかれたーかえろー」
 机をガタガタ元に戻して、カバンを取る。教室の時計は六時半を示している。連絡
ないな、とため息をつきかけたその時、手のひらで携帯が振動した。
「もしもしっ、克哉君?」
「有華ー?克哉君じゃなくてママだけど、もうこっち向かってる?」
「……あ、ママ」
 ママ、と言っても本当の母親じゃない。バイト先であるクラブのママだ。
「今からそっち行くとこです」
「そう?ごめん、氷切らしちゃって、途中で買って来てくれない?あとポッキーも無
いから。いつものとこでお願いねー」
「分かりましたぁ。三十分くらいで着きますねー」
 用件だけで、すぐに切られる。もしかしたら早めにピークが来ているのかもしれな
い。買うものリストを頭で作りつつ、教室を出る。
「絢さんから?」
「うん」
「りかも大変だねー、受験生なのにバイトして」
「でも国立に変えたし、なんとかなりそう」
「はー。私立一本だと気楽でいいわー」
 佳奈子とは校門で別れた。じゃあねー、絢さんによろしくー!という佳奈子に手を
振るだけで返す。卒業したら絢さんの店で働くって、本気なんだろうか。
 店は新宿にあって、電車で一本だ。駅までの道すがら、何度も携帯を見るけれど、
やっぱり連絡がない。克哉君は私と同じ大学に入りたいからとかなり必死に勉強して
るから、最近は絶対部屋にこもってるはずなんだけど。

02-879 :腹黒ビッチ 3章(前) 3:2009/11/24(火)18:07:13 ID:c+rdRhZe
 克哉君と付き合うようになって、確かに私は変わったかもしれない。佳奈子のから
かうような口調を思い出す。
 中学に入ってから、男は一か月以上切れたことがない。初めは流されたように同級
生と付き合っては、三か月未満で別れていた。周りもみんなそんな感じで、付き合うっ
てことが大事で、キスしたり手をつないだりそんな段階で別れていた。
 そんなある日に、三歳年上の彼氏ができた。相手は高校生で、バイトしててお金が
あった。色んなものを奢ってもらって、買ってもらった。母子家庭で裕福じゃない家
庭に生まれた私には、新鮮な経験ばかりだった。カラオケに行ったり、ゲーセンに行っ
たり、ビリヤードしてみたり、クラブにも行った。そうして一か月くらいですっかり
遊びを覚えた頃に、彼氏と二人でカラオケに行った。
 押し倒された。
 はじめて、おちんちんというものを見た。
 舐めてと言われ、あまりのグロテスクさに叫んで、彼氏の股を蹴り上げて、逃げた。
 逃げた道中の混乱を、今でも覚えている。なにあれなにあれなにあれキモいキモい
キモい。あんなの舐めるとかありえない。自分で舐めてろ!キッモ!キッショ!!
 家に帰って、冷静になっても、大体考えることは同じだった。だけど男と付き合う
と、奢ってもらっていっぱい遊びに連れてってもらえるというのは捨てがたかった。
だけどその引き換えにペニス舐めろと言われても、絶対嫌だ。
 しばらくうんうん悩んでる内に、彼氏に呼び出された。当たり前だが怒っていて、
今にも物陰に連れて行かれて強引にされそうだった。何も反応しない私の腕を引いて、
抱き締めようとする男を前に、ふと思いついた。
『いやっ』
『有華?』
『ごめんなさい、私、怖いの……っ』
『何言ってんだよ、お前』
『だって、私、お母さんに、結婚するまでエッチしちゃダメよって……』
『……ハァ?』
『ケンジのこと、好きだけど、でも、そんなことしたら、結婚できなくなっちゃうの』
 名づけて、結婚するまでピュアなの大作戦(そのまま)。うるうるの目で見上げて、
怯えたウサギのように体を震わせるのだ。この時ほど、自分が清純派で可憐系の顔で
よかったと思ったことはない。
 彼氏は憤慨しかけたけど、私があまりにも怯えるので、諦めた。
『ケンジと結婚したら、私の処女、あげるねっ』
と言って落とした。誰がお前なんかと結婚するかバーカ、というのは心の声だけど。
 その場をどうにか切り抜けるためのはずの嘘は、後々、意外な効果を生んだ。ます
ます彼氏が私に入れ込んだのだ。可愛くて一途な女の子は、この子を大事にしなきゃ
という気を起させるし、本命にしたくなっちゃうらしいのだ。
 遊びに行くたびにお金出してもらって、ご飯食べさせてもらいながら、私は悟った。
これは使える、と。
 そして三ヶ月くらい付き合った後、彼氏とはあっさり別れた。結局彼も高校生、ヤ
りたいお年頃。その頃にわざと軽そうな友達を紹介したら、面白いくらいさっさと手
を出した。そこで、もう信じられない!とでも言って平手でも打ってサヨナラした。
 あとはそれ繰り返し。彼氏は切れないけど、それは恋愛体質だからじゃない。いか
に奢ってもらって美味しい思いするかの勝負なのだ。ただ、セックスは結婚する相手
に取っておく、というのも本当だ。いつか玉の輿に乗った暁には、お礼の意味も込め
て処女を捧げるつもりだ。

02-880 :腹黒ビッチ 3章(前) 4:2009/11/24(火)18:07:57 ID:c+rdRhZe
 いい男は、いい環境にこそ存在する。中学の時点で私は知っていた。ナンパで捕ま
る男なんて、たかが知れている。中学までに付き合った男は中の下レベルの高校か大
学で、決まってそんなに金も持っていなかった。
 だから中三あたりで遊ぶのには一旦見切りをつけて、猛勉強を始めた。友達はみん
なバカじゃないのー遊んでた方が楽しいじゃんと鼻で笑ってたけど、そんな奴らを私
こそが鼻で笑っていた。そのレベルの男で満足してればいいんじゃない?私はもっと
ハイレベルの男掴まえるけどね。
 結構なレベルの進学校に入って、それは確信になった。制服だけで、寄ってくる男
が違う。それに可愛い女の子の顔が乗っていたら、効果は抜群だ。反面、高校に入る
と体の関係を迫ってくる男も増えた。結婚するまでピュアなの大作戦は、限界に近づ
いてくる。本当に結婚しようと迫ってくる男が出てきやがったのだ。
 あーめんどくさい。どこかにそんな女慣れしてなくて、性欲も薄そうな男いないか
な。草食系バンザイ。
 そんな頃に会話に出てきたのが、一宮克哉、だった。

「あら早かったわね、有華」
「おはようございます、これ、頼まれてたものです」
 業務用スーパーの袋を台に置く。それからブレザーを脱いで、ネクタイを店用の黒
に付け替えて、エプロンをつける。
「あ、有華ちゃん来たんだー」
「おはようございますー、瑠奈さん」
「こんな時間から団体さんはいって、今大変なのお」
「そうだろうなーと思って、早めに来ました」
「さすが有華ちゃんだね。いい子いい子」
 香水の匂いをぷんぷんさせる瑠奈さんに、にっこり笑いながらオーダーを確認する。
ママもがんばっていたみたいだけど、大分たまっている。
「今日、私フリーっぽいから、時々私も厨房入るね」
「大丈夫ですよー。それに瑠奈さん人気だし、すぐ指名入りますってば」
「お世辞はいいわよ」
 うふふ、と上品に笑う瑠奈さんは、こんなに気さくで偉ぶらないのにナンバー3だ。
大体、ナンバー入りの人が厨房に入ることなんてまずないのに。
「もうすぐ卒業でしょ?そしたら有華ちゃん、私のヘルプ入ってね。楽しみにしてる
から」
「あははは、どうなんでしょうねー」
 手を振って、瑠奈さんはまたホールに戻って行った。さて、とオーダーの一番上の
アイスクリーム盛り合わせにかかる。ディッシャーは、普通の店のよりかなり小さい。
大粒のブドウくらいの大きさで、これを何個も積むと可愛いんだけど、店内用はたっ
たの四つに、ウエハース二枚。これが800円に化けるんだから恐ろしい。私なんか裏で
めちゃくちゃ食べてるのに。
「大変お待たせしました、アイスクリーム盛り合わせです」
 話に盛り上がってるのを邪魔しないように、静かに置いて、さっさと厨房に戻る。
それが私の仕事だ。飲み物は氷とお酒の準備だけ。あとは女の子がやってくれるから
楽だ。これで時給が1800円。簡単な仕事だけど高いのは、一応ここが夜のお店だから。
ホステスよりは当然安い。それでもコンビニのレジでひーひー言うよりはよっぽど割
にいいから、もう二年も働いている。
「有華、次ピザやってくれる?」
「はーい」
 忙しいのかこちらを見ないママに、返事だけしてオーダーを確認。マルガリータ。
後で私も食べよっと。

02-881 :腹黒ビッチ 3章(前) 5:2009/11/24(火)18:08:28 ID:c+rdRhZe
 ピークを過ぎるのが十時頃で、その前後で私も上がりになる。三時間程度しか働か
ないで済むんだけど、やっぱりちょっとは申し訳なくて、残業することも多い。まあ
ママが残業代を弾んでくれるからなんだけど。上がっていいよーとママに言われて、
すぐにカバンの携帯を確認する。けど、何の連絡もない。
 さすがに、おかしい。迎えに行くよという連絡がないのは、これが初めてだった。
「有華ー、なんか食べてくー?」
「いえ、帰ります」
「また克哉君?」
「はい」
「いいわねえ、ほほえましくて。じゃあね、また明日」
「はい、お先失礼します」
 ママはそう言うと、ホールに帰って行った。エプロンを外して、ブレザーを着る。
水仕事で荒れやすいから、ハンドクリームを塗る。だけど指先は冷たい。このまま待
とうか迷ったけど、待つよりは駅に向かう方がいいと思って外に出た。
 繁華街のある駅から最寄駅までは十五分ほど。六本木で働いていた母が通勤に楽な
ようにと選んだアパートに、もう十年も住んでいる。克哉君の家とは駅と反対になる
けど、徒歩二十分と近い。だから朝はランニングするって言う克哉君に付き合って、
一緒に学校に行くことだってできるのだ。
 いつも、克哉君は最寄り駅で私を待っていてくれる。夜道は危ないからと言って。
だけど克哉君の姿は、今日はそこに無かった。
 胸騒ぎが、どんどん酷くなる。なんでだろう。どうして、連絡くれないんだろう。
 もやもやする胸を晴らすために、私は自分のアパートでなく、克哉君の家の方へ向
かった。誰もいないようだったけど、私はもうほぼ顔パスだったから、おじゃましま
すとだけ告げて中に入る。二階の克哉君の部屋を、ノックする。返事はない。
 その先は、真っ暗な闇の中だった。

02-882 :腹黒ビッチ 3章(前) 6:2009/11/24(火)18:08:49 ID:c+rdRhZe
 一宮克哉という人間は、きちんと認識していた。クラスにいる、暗い奴。それくら
いに思っていた。他人に関わろうとしない。本当に空気だった。誰かに視線を送るで
もなく、不気味に独り言を言うでもなく、ただぼんやりと彼はそこにいた。
 最初は好奇心だった。金があるのになんであんなにダサくなれるのか分からない。
女の子と付き合ったこともなさそうだし、完全に自分が優位になれそうだと思った。
性欲も薄そうだし。今まで付き合ったことのないタイプだったから、試しに付き合っ
てみようかな。将来結婚する時に、こういう無害そうなタイプだったら、手綱をとれ
ていいかもね。その実験台として。三ヶ月ほど付き合って、慣れたら捨てよっと。そ
れくらいに思っていた。
 そうして三ヶ月経ったけど、別れる気が不思議と起こらなかった。その時は、他に
いい男が今はいないからだと思った。
 冬が来ても、私はいつも克哉君の傍にいた。一途に私のことを思ってくれて、努力
してくれる姿に、情がわいたのかなと思った。
 春が来て、いつの間にか処女がなくなってた。必死でそういう空気に持っていこう
としている様子を見てたら、まあいいかな、と思ってしまったのだ。
 そうして、一年が経って。結婚するまでなら一緒にいてもいいかな、と思った。レ
ベル低めの大学に入って特待生になろうと思ってたのを、同じ大学に行きたいからと
志望校を変えた。
 自分が変わったなんて、意識したこと無かった。むしろ虚勢や嘘をつかなくていい
分、そのままの私でいるつもりだった。日々が穏やかだった。それを楽しむだけで、
十分だった。
 今以上を望まなくてもいい、等身大の毎日。そして誰かが想ってくれることに、
笑って応えることが、どれだけ幸せなのか。
 私は気付いてなかった。

 ボロボロの身なりで、どうやって帰ってきたのか覚えていない。手切れ金だと言わ
んばかりに投げられた万札は、途中のどこかで捨ててしまった。体の芯まで冷え切っ
ていた。いつもの慣れた動作で鍵を開けて、扉を開ける。
 バタン。静まりきった空間に、冷たく響き渡る。靴を脱いで、服を脱いで、シャワー
を浴びる。冷たい水が頭にかかるけど、我慢する気も逃れる気も起きないままぼんや
りとしている内に、冷たさが和らいできた。頬を伝う温水は、塩辛くもなんともない。
涙はあの部屋に置いてきてしまった。
 くぷ、と膣から漏れ出した精液が、太ももを伝う。避妊されなかったんだな、でき
たらどうしようかな、と思った。
 ルーチンワークとしての入浴はできても、それ以外のことはできない。いつもどお
りに体を洗って、外に出るしかできなかった。部屋着に着替えて、そのまあベッドに
倒れ込む。英作文は、もう寝る時間だから、出来ない。
 目を閉じたら、そのまま眠れる。眠くてたまらない。はやく眠ってしまいたい。こ
んなこと忘れてしまいたい。
 赤ちゃんできてたら、どうしようかな。眠りに落ちる寸前で、ぼんやりと考えた。
 まあ、できてないんだろうな。明日から生理だったことを思い出したからだ。
 できてたら、よかったのに。なんでそんな馬鹿なことを思ったのか、分からない。

 生理痛で一日休んで、そのまま週末を迎えて、学校に行くと空気が明らかに違った。
克哉君とのことは、クラス中に知れ渡っているらしい。鼻で笑ってやろうか、前の私
ならそうしただろうけど、そんな気力が湧いてこない。克哉君を、視界に入れないよ
うに気を付けた。きっと今は、耐えられないだろうから。
 白い目で見られるのには慣れていた。小学校時代はずっとそうだった。母がお水だ
からって、友達には馬鹿にされたし、先生にも目をかけてもらえなかった。中学に
入って小学校時代の友人関係がリセットされて、立て続けに先輩やら同級生に告白さ
れてからようやく、自分がどうやら人より可愛いことを知った。
 その頃を思い出せば、やっていける。そう、自分に言い聞かせる。この間まで仲が
良かったクラスメイトが、遠巻きに私を見て、冷たい目で噂する。誰にも気づかれな
いように、ため息をついた。これからは、ギリギリで学校に来ないと。

02-883 :腹黒ビッチ 3章(前) 7:2009/11/24(火)18:10:41 ID:c+rdRhZe
 昼休みのチャイムが鳴り、コンビニで買ったパンを手に立ち上がった。廊下に出る
と、佳奈子が一人でそこにいた。
「よっ、りか」

 屋上は秋風が吹きすさび、はっきりいって寒い。寒いけどここしか場所は思いつか
ない。その内、特別教室でも探さなければ。
「犯人、うちのクラスの田辺だって」
「ふーん」
「なに、シメないの?」
「どうでもいい」
「どうでもよくないっしょ」
「どーでもいーの」
「どーでもよくない!」
 珍しく、佳奈子の大声。顔を上げると、想像したよりもずっと、佳奈子は怒ってい
た。
「りかがせっかく、まともに恋愛してんのに!ぶち壊すなんて、許せない!」
「まとも?」
「そーだよ!恋愛不信のりかが、やーっと本気で恋したのに、田辺の奴……!」
「私、恋愛不信なんだ」
「自分で気付いてなかったの?」
 はは、と生笑いで返す。言われてみればそうかもしれないなーくらいの実感しかな
い。
「りかはさ、男なんて信用してないでしょ。小学校ん時、男の先生に相手にしても
らってなかったし。しかも通信簿に酷いことばっか書かれて」
「よく知ってるねー」
「あと、中一ん時に付き合った奴ら。みーんなりかのことつまんないって言ってさっ
さと別れちゃって」
「あー、でもそれ否定できないなー」
「そんで、年上の彼氏全部!エッチしたいエッチしたいってお前ら猿か!!」
「まぁ、男ってそんなもんじゃない?」
「しかもりかんちのおばさん、男追いかけて北海道行っちゃうし」
「子ども生まれて幸せならいいじゃん。見る?こないだの、晋くん二歳の写メ」
「ほら、りか、達観しちゃってるでしょ。これが恋愛不信だっていうのよ」
 言われてみれば、そうかもしれない。風でさらに固くなったメロンパンにかじりつ
く。どこにメロン果汁が入ってるのかさっぱり分かんないのがメロンパンのいいとこ。
「しょうがないよ。金目当てだって、本当のことだったんだし」
「最初はそうだったんだろうけど、違うでしょ」
 うん、違う。違うんだよ。克哉君。
「私、気付いてなかったけど、克哉君のこと好きだったんだね」
「それも気づいてなかったのかよ……」
 あはははは。乾いた笑いが、風にさらわれる。
「好き、だったんだ」
 やっぱり涙はあの日流し切って、もう泣き方すらも思い出せない。
 恋の仕方も知らないくせに、知ろうともしなかった。克哉君はいつだって私を大事
にしてくれてたのに、私はただをそれを甘受していただけ。そもそも前提が最悪なの
だ。ばれなきゃいいなんて、そんなの、ばれて当たり前だ。
 そうして全部なくなってから、やっと分かった。これが、恋だったんだと。
「りかのバカ」
「うん、私、バカだね」
「バ―――――カ!」
「もー、佳奈子が泣かないでよ」
「バアアアアアアアカ!一宮のバアアアアアアカ!!」
 うわああああん、なんて豪快に泣いてマスカラ取れてる佳奈子に、化粧ポーチを膝
に乗せてやる。友情に免じて、綿棒一本貸したげよう。
「これから私といると、佳奈子も悪口言われるよ」
「知るか。私はりかがいないと大学受からないんだもん」
「だったらうちおいでよ。どうせ誰もいないし」
「むしろうち引っ越してこいよ!うちのママ、りかのこと気に入ってるし」
 断る私をよそに、佳奈子は勝手に「これからは二人で飯食うぞ!」と意気込んでい
る。やめときなよと言ったけど、本当は嬉しかった。

02-928 :腹黒ビッチ 3章(中) 1:2009/12/10(木)16:27:44 ID:jHuB5AQ7
「ありがとうございましたぁー、またお待ちしてますねー」
 本日三人目の指名をこなし、お見送りまでしっかりにっこり。長い時間粘ってくれ
たもので、この客で今日は店じまいだ。というわけで、もう笑顔は作らなくていい。
 ひくっと笑顔が崩れ、脱力感そのままに控室に向かう。
「あ、おっつかれぇ、レイちゃあん」
「おつかれさまですーミリちゃーん」
 わざとらしく呼び合う佳奈子と私。レイが私でミリが佳奈子。にっこにっこして二
人で見つめあって、お互いはぁっとため息をつく。
「あー尾道さんうざかったぁー」
「湯浅社長、相変わらずのヘビースメル……」
「ちょーお尻触られたよあのエロ親父ー」
「尾道様いいじゃない。ちょっと手がおイタするだけで」
「そんなこと言ったら湯浅さんいいじゃん!紳士じゃん!」
「はいはいだらけてるところ悪いけどねー、他の嬢が待ってるからやめろよー」
 ぼわん。せっかく盛った髪を、上から叩かれる。見上げると、ヒゲ面の野崎チー
フ。
「ちょっ、チーフ!なにするんですか!」
「もう終わったからいいだろ。オラ、はよ着替えろ」
「はいはいー」
 疲れた体とさすがにぽわぽわと酔った脳みそをなんとか動かし、ロッカーに向か
う。佳奈子はしゃきしゃきと着替えを終わらせ、ばたばたと無駄に手を動かして私
を待っている。まったく、ザルは得だ。そんな佳奈子を見て、瑠奈さんがくすくすと
笑う。
「レイ、ミリ、今日ご飯行く?」
「どーする、りか」
「帰る」
「りかはいっつもそればっかだねぇ。たまには私と親交を深めようとは思わんのか」
「今更佳奈子と何を深めろと……」
「これ以上深めたらレズだね」
 そう言いつつ、私が帰る時はつまんないからと一緒に帰ってしまう。佳奈子こそ
他の嬢との親交を深めなくていいのか。
「レイ、来ない?たまに来てくれないと私も寂しいなぁ」
 癒し系の瑠奈さんにそう言われると、私でもついはい~と言ってしまいそうにな
る。これで男を落としてきたのか!と問い詰めたくなるくらいの、強烈な癒しオーラ。
今や店のナンバー1だ。
「すいません、明日の予習するんで」
「大学生って大変ねー」
「大学生が全部りかみたいなのだと思われると、私の立場がないんだけど」
 瑠奈さんは、ものすごく残念そうにほほ笑む。申し訳ないとは思うんだけど、勉
強時間をこれ以上削るのは明日の負担になる。
「それじゃ、二人とも今度のお休み前は行こうね。約束」
「あ、はい」
「じゃあ、おやすみー」
 二人で手を振って瑠奈さんを見送る。ほわーんと振ってる手に、はっと我に返る。
「し、しまった!つい約束しちゃった!!」
「やられたねー、りか。さすが瑠奈さんパワー」
「だって瑠奈さん、ウサギのような目でお願いしてくるんだもん」
「そりゃ仕方ないよ、だって瑠奈さんさぁ……」
「おーいお前らー、さっさと帰るぞー」
 扉の向こうの野崎チーフの声に、佳奈子と二人で揃って声を返す。
「はーい!」
 カバンを持ち、立ち上がる。そして佳奈子と二人で視線を交わす。
「瑠奈さんに申し訳ないよねぇ」
「瑠奈さんのラブラブ光線は、あからさまだからねぇ」
 はぁっとため息をつきつつ、控室を出た。野崎チーフは私達の方面の送迎担当で、
瑠奈さんとは真反対なのだ。私達が食事に行くと大抵チーフも一緒に来るので、瑠
奈さんが私達を誘うのも仕方ない。野崎チーフに想いを寄せる瑠奈さんには悪いん
だけど、こっちも事情があるのでそう毎回食事に行くわけにはいかない。

02-929 :腹黒ビッチ 3章(中) 2:2009/12/10(木)16:29:03 ID:jHuB5AQ7
 最初の方は五人ほど乗ってるけど、最終的には私と佳奈子と池内チーフの三人に
なるのが常。だけど、
「んじゃねー、ありがとございましたー」
「おう、またな」
「じゃあね、佳奈子」
 それも佳奈子を先に降ろすから、最後は私とチーフだけ。
「有華ー、どっか飯でも行くかー」
「やです」
「まあ、そう言うな」
「こっちは忙しいんです。明日遅刻しちゃう」
「ん、責任取って送ってってやる」
「い・ら・な・い。さっさと帰って。ママに言いつけますよ」
 信号待ちを見計らって、野崎チーフはミラー越しにこちらを見つめる。その視線の、
熱っぽさ。
「この時間までやってるカレーうどん屋が美味しいんだってよ」
「や、だ。てかマジで早くアパート送って」
「泊まらせてくれるんならいいぞ」
「だったら今すぐおります。ありがとうございました。じゃあまた明日」
「おいおいおいおい、信号青だから!待て、ちゃんと送る」
 これ見よがしにため息をついてやる。
「はー、有華は難攻不落だな」
 このうさんくさい軽い男の、一体どこがいいんだ。佳奈子は渋くてカッコイイよね
と言ってるけど、私にはこうアグレッシブで濃い人はもうお腹いっぱいだ。
「有華、大丈夫か」
「何がですか」
「体調とか」
「オカゲサマデ元気デス」
「これは真面目な話。心配してるんだよ」
「大丈夫です。もうすぐテスト終わりますから」
「そうか」
 ほっとするチーフに、居心地が悪い。大体、他の嬢には源氏名で呼ぶくせに、なん
で本名で呼ぶのか。チーフは「ミリのが移った」っていうけど、佳奈子が呼ぶのは
昔っから「りか」だ。中学の入学式で、私の名前と顔見て「あんたリカちゃん人形み
たいだね」と言ったのが由来で。
「本当に無理すんなよ。辛かったら俺頼ればいいんだからな」
「はいはい」
 ムートンコートを着ていても外は寒い。特に首筋。ワゴン車の扉を勢いよく閉める。
視界の端にひらひらと、チーフが手を振るのが見えるけど答えずにアパートの階段
を昇った。車のエンジン音は消えない。急いで鍵を開けて、部屋に逃げ込む。薄い扉
から、やっと車が遠ざかる音が聞こえた。
 受け入れるつもりなんてないから、冷たくしてるつもりだ。なのに、なんでこの人
は諦めないのか。もう一年半もこんな調子で、いい加減疲れてきてる。でもママは
私が心配なのと、野崎チーフを気に入ってるのとで、絶対に送迎のローテーション
を変えてくれない。
 さっさと瑠奈さんがチーフ落としてくれないかな。そしたらローテーションも変わる
し、一石二鳥なんだけどなー。

02-930 :腹黒ビッチ 3章(中) 3:2009/12/10(木)16:30:20 ID:jHuB5AQ7
 テキトーに大学に行って合コンで男引っ掛けようなんて思ってたのに、今や司法試
験を受けようとしてるなんて。自分でも信じられない。
 動機は不純だ。何も関わりが無いより、ほんの少しでも克哉君との糸を繋げていた
いから。ただそれだけの理由。それをきっかけに、キャリアウーマン目指そうかなと
か、弁護士ってお金儲けてそうだしなとか、企業弁護士にでもなってやろうかなとか
色々考えたりもする。だけどそんなの全部、後付けの理由だ。
 諦めはついている。嫌われているし、復縁なんてありえない。
 でも、少しでも接点が欲しかった。遠くから少しだけでも見るだけで、胸がときめ
く。盗み見る自分にあきれるけど。
 苦しくて辛いのはどこに行っても変わらない。だったら離れるより何倍も苦しくて
も、近くでこっそり好きでいようと腹をくくった。
 幸い、勉強に打ち込んでいれば、何も考えずに済む。その時間だけが癒しだった。
二時に寝て、七時に起きる。一時間で支度して、大学へ。一コマ目の民法総則の授
業後、教室を出ていこうとすると、和田教授に呼び止められた。
「今日、所属ゼミ発表だろう。空いてる時にまた面接するから、伝達しといてくれ。
空いてる時間ならいつでも構わん」
 感情表現の乏しい和田教授が、いつものように淡々とした口調で言う。はあ、と言っ
ても、自分以外のメンバーは誰も知らない。
「じゃあ先生、私はいつにしますか」
「君の面接なんて今更やっても意味無いだろう」
「それもそうですね」
 用件だけ終わると、雑談をするような人でもないので、和田教授は講義室をさっさ
と出て行った。

 掲示板近くには、学生が溢れかえっている。そこをかき分けて入って行くのが嫌で、
しばらく人の波が消えるのを待つ。だけど午後の授業前で混み合う廊下は、人が減
るどころか増えるばかりだ。遠巻きにぼんやりと、すれ違う人たちを見ていると、見覚
えのある集団が外からやってきた。
 克哉君、だ。
 彼は私に気づいていないらしく、友達とわいわい言いながら掲示板を見ていた。
克哉君はどのゼミなんだろうな。一緒だったらいいのにな。まともに喋れることなん
て無いんだろうし、そんな資格ないけど。
 意を決して、掲示板に向かった。克哉君の近くに行くと思うと、胸がドキドキする。
でも隣に立つ勇気はないから、ちょっと後ろから掲示板を見ようとした。男ばかりで
壁になっていて、何も見えない。でもそんなことどうでもいい。ドキドキしながら、
克哉君の背中を見ていた。……我ながら気持ち悪い。
 そんなことしてたら、集団の一人がこちらに気づいて振り返った。細目の男とばっ
ちり視線が合った。
「あ、斎藤さん」
 あんたなんで私の名前知ってるのー!克哉君が気付いちゃうじゃないバカー!!
「掲示板、見てもいい?」
 ごめんなさい!今どきます!と、細目男はざざざっと大げさに場所をどいた。い
や、私こそ本当にごめんなさい。愛想なくてごめんなさい。がっちがちに緊張しなが
ら、掲示板を見る。えっと、何だっけ。そうそう、ゼミをちゃんと覚えとかなきゃい
けないんだった。だけど文字がきちんと頭に入らない。神田?村瀬?葉山?誰それ。
一宮。ああ、それは分かる。一宮。一宮。
 お な じ ゼ ミ !
 うわーどうしよー!!やったー!同じゼミだー!同じ大学受かったって分かった
時くらい嬉しいー!
 でも克哉君は、嫌なんだろうな。少しだけ克哉君を見ると、視線をそらして、苦り
切った顔をしていた。
 ああ、やっぱりな。ぎゅっとカバンを持つ手に力がこもる。分かってる。私が嫌わ
れてるってこと。私が近くにいるだけで迷惑だってこと。
 少しでも近寄りたいって思うのと同じくらい、これ以上嫌われるのは辛い。踵を返
して、掲示板から離れた。

02-931 :腹黒ビッチ 3章(中) 4:2009/12/10(木)16:32:12 ID:jHuB5AQ7
 思っていた通り、というか思っていた以上に、新学期は辛いものになった。体力的
な意味じゃない。
 勘弁してよと思うのは、ゼミの時間。最近ではゼミ以外は図書館にしか行っていな
いのに、それでも大学に行くのが憂鬱になるくらい参っている。
 ゼミに行くと、必ずコの字型の席につかされる。おかげで、克哉君の姿が絶対に視
界に入ってしまう。それだけならむしろ嬉しい。だけど、克哉君の隣には、いつも同
じ人がいた。
 別所愛美。バラ色の頬と唇、栗色に染めた髪をくるくると遊ばせて、にっこりと砂
糖菓子のように笑う、フランス人形みたいな女の子。屈託がなくて、素直で、明るく
て。私みたいにガリガリ図書室で勉強してるようなのにも、物怖じせずに話しかけて
くるような、とっても「いい子」。しかも巨乳。
 別所さんが克哉君は、誰が見てもお似合いだった。背が高くて、顔もクセがなく
さっぱりしてて、嫌味が無く話題も豊富で、優しげな雰囲気を醸し出している克哉君
に、別所さんのような甘くてふわふわした空気はよく溶け込んだ。ゼミの誰もが、い
つくっつくのか、むしろなぜくっつかないのか、いつも注目しているようだった。
 ゼミに行く度に、悔しくてたまらない。このまま、いつか克哉君と別所さんは付き
合うだろう。だって克哉君、惚れっぽいし。女に免疫なかった分、話しかけられるだ
けで意識しちゃう人なのだ。それを利用した私が言ってるんだから間違いない。
 悔しいと思うと同時に、それが克哉君の為だとも思う。別所さんみたいな可愛い上
に、私と違って性格もいい子と付き合うのが、幸せに決まってる。
 克哉君は、私を見る度に眉を寄せる。私を嫌いだと言うように睨みつける。そして
、苦しい、と訴えかける。
 私のせいで克哉君についた傷を目の当たりにするたびに、謝りたくなる。だけど私
が謝っても、克哉君はあのことを思い出すだけだ。
 克哉君には、私のことを忘れてほしい。忘れて、幸せになってほしい。克哉君の辛
そうな顔を見るくらいなら、どれだけ私が辛くてもいい。
 その為なら、克哉君と別所さんが付き合ったっていい。私のことを忘れてくれるな
ら、なんでもいい。私が傷つけられてもいい。なんだってする。
 別所さんでも誰でもいいから、克哉君を幸せにしてほしい。
 私は遠くで見てるだけでいい。我慢するのは、昔から慣れてるから。

 拷問のような葛藤の時間を終え、去ろうとする私を、教授が呼びとめた。
「斎藤さん、ちょっと」
「あ、はい」
「君、今日発表だろう。どうだったんだ」
「……あ!」
 正直ゼミのことで精いっぱいで、忘れていた。大事な大事な、司法試験の短答式の
合格発表を。
「今から、確認してきます」
「どうせなら研究室のパソコンを使いなさい」
「あ、はい」
 正直、受かっている気がしない。数問さっぱり分からなかった所もあるし。今年は練
習とはいえ、自分の番号が載っていないのをわざわざ確認するのは憂鬱だ。教授の
後をついていこうとすると、ちょうど教室を出ていく克哉君と別所さんが目に入る。仲
よさげに、この後どこでデートしようかなんて言っている。
 これでいいんだ。そう自分に言い聞かせたけど、やっぱり辛い。

02-932 :腹黒ビッチ 3章(中) 5:2009/12/10(木)16:33:01 ID:jHuB5AQ7
 正直このままパソコンの前で倒れこんでしまいたい位の気持ちだったけど、教授に
ちゃんと結果を言わなきゃいけない。のろのろと指を動かして、法務省のホームペー
ジへ。旧司法試験 短答式合格発表の表示を、暗い気持ちでクリックする。
 どうせ無いんだろうなー。いいんだよ、別に来年受かれば。ふんだ。いじけながら、
自分の番号のあたりを見る。
「―――あった」
 あんなに手ごたえ無いテストなんて、生まれて初めてだったのに。ゼミの上級生が
「何があったのー?」とか言いながら勝手にパソコンをのぞき込んでくる。
「あった、って、まさか短答式受かったの?」
「受かりました」
「うわーっ、おめでとー!すごいじゃん!」
「ありがとうございます」
 肩つかまれて揺さぶられてるけど、心ここにあらず。睡眠時間三時間に削ってがん
ばった甲斐があった。バイトを週一に減らした勇気は報われた。ハイリスク・ハイリ
ターンというのはまさにこのことだ。
 私より名前も知らない先輩の方が騒いでいて、その場にいた人たちがみんな騒ぎ
を聞きつけてパソコンの周りに集まり出した。
「三年で受かるなんて、何年振りだろうね」
「もうみんな院進前提だからなぁ。でも去年も和田ゼミから旧試の現役合格出たらし
いよ」
「いやー、でもさすが斎藤さん。やっぱ出来が違うわー」
 受験番号を見直しても、やっぱり自分の番号だ。ほっと密かに息をつく。和田教授
に報告しなきゃ。
「教授のとこ、行ってきます」
 人だかりを抜けて、向かいの和田教授の部屋をノックする。
「失礼します」
「斎藤さんか、待ってたよ」
 何か書きものをしている教授が、ちらりとこちらに視線を移す。
「受かってました」
「そうか」
 頷いて、一旦ペンを置く。まだ少し夢心地だった私は、和田教授の視線にぴしりと
背筋を正す。
「論文試験は一か月後だろう」
「はい」
「これから毎日、過去問を一問ずつ解いて私に見せなさい。メールでもいい」
「はい」
「それじゃあ、行っていい」
「はい、失礼します」

02-933 :腹黒ビッチ 3章(中) 6:2009/12/10(木)16:34:03 ID:jHuB5AQ7
 数日後、ちょうど佳奈子と出勤が重なった。二人目の指名を終えて控室に戻ると、
佳奈子はメール営業に精を出している。いつものように隣に座って私も携帯を取り出
すと、佳奈子が思い出したように声をかけてきた。
「りかー、試験どうだったん?」
「は?なにが?」
「名前覚えてないんだけど、なんかベンゴシなるやつー」
「司法試験ね」
「受かったん?」
「受かったけど、短答式だけ。まだまだあるの」
「よくわかんないけど、とりあえずおめでとー」
「ありがと」
「今まで見たこと無いくらい勉強してたし、すっげームズいんでしょ?」
「うん、受かると思ってなかった」
「りかがそう言うくらいだから、超ムズいんだね。んじゃ、ちょーおめでとー」
 そう、超おめでたいはずなのだ。なのに、あまり現実味が無い。
「なんでりか嬉しそうじゃないの」
「はは、克哉君に彼女できたからかな」
 ぽつりと克哉君の名前を言うと、携帯の画面から顔を上げなくても佳奈子が顔を
歪めているのが想像できた。
「へー。それマジで?」
「うん、多分そうだと思う」
「……りかさ、一宮のことなんて忘れちゃえよ」
「無理、かな」
「努力してみろっつの」
「克哉君ほどの人いないよ」
 ははっと、自嘲の笑みがこぼれる。
「なんか、私ダメなまんまだね」
「……りかは、ダメじゃないよ」
 真面目に、諭すように佳奈子が語りかける。
「りかがそう思ってるだけだよ。一宮のことさえ忘れたら、楽になるんだよ」
「忘れられないよ」
「いい加減に目ぇ覚ましなよ、りかは何も悪いことしてないじゃん!」
 びりびりと、部屋全体が震えるくらいの大声だった。びっくりして顔を上げる。他
の嬢も何事かとこちらを見ていた。
「浮気した?金せびった?プレゼントねだった?そんなの一つもしてないじゃん!手
作りのマフラーまであげるんだよ。そんなマメなこと、私一つも彼氏にしてあげたこ
とないよ」
「でも、きっかけが最悪でしょ」
「それだって、りかは何も言わなかったのに!何にも言わないりかより、あいつは、
知らない女の一言を信じるんだよ。言い訳一つも聞かないなんて、サイテーだ!」
 佳奈子は延々と克哉君の非を連ねていく。克哉君にも、悪いとこはあったかもしれ
ない。だけど私が圧倒的に卑怯だということに変わりはない。
 結局、誰が私を許したって、克哉君が私を許してくれなければ意味がない。克哉君
の傷の深さを見れば、そんなの不可能なんだっていつも思い知らされる。
「ありがと、佳奈子」
「感謝するより、早く元気になれ」
「うん、佳奈子の声聞いてたら元気になってきた」
 それは決して嘘じゃない。笑ってみせると、佳奈子は顔を歪めつつ、はぁっとため
息をついた。
「今日もうピーク過ぎたし、りかんち行く?話聞くよ」
「んーん。課題たまってるから。勉強しなきゃ」
「無理すんなよ」
「分かってる」
「目の下のクマ、隠しきれてないっつーの」
 心配顔の佳奈子を、軽く笑ってごまかす。何度も同じことをループしてるのに、佳
奈子は毎回真剣に私の相談にもならないただの愚痴に乗ってくれる。その時、タイミ
ング良くノック音が部屋に響いた。すぐに扉が開いて、チーフが顔を出す。

02-934 :腹黒ビッチ 3章(中) 7:2009/12/10(木)16:34:53 ID:jHuB5AQ7
「レイ、2番テーブル指名」
「はいはい」
 腰を上げると、少し立ちくらみがした。誰にも悟られないように机で体を支える。
佳奈子は幸い気がつかなかったようだ。が、チーフが渋い顔をした。
「……大丈夫か」
 ぼそりと、耳元に低い声。
「大丈夫です」
「これ終わったら帰れよ。送ってく」
「いりません。普通に帰ります」
 無表情はここまで。ホールに一歩入ってからは、男を喜ばせることだけ考える。そ
の為の笑顔が、磨き抜かれた柱に映る。少しやつれた顎のラインを、見ないふりした。





「りかー、起きなーりかー」
 揺すられて、はっと目を覚ます。ここがどこか分からない上に、周りは真っ暗で混
乱しかける。
「……ここ、どこ」
「私んちの前だっつの。もう起きとけよー」
 生ぬるい空気が首の周りにまとわりついて、佳奈子が苦笑しているのが見えた。あ
あ、送迎の車の中か。
「んじゃ、まったねー」
 佳奈子が手を振って、ワゴン車のドアを勢いよく閉めた。エアコンの空気が再度廻
り始める。車が走り出すのと一緒にまた眠りかけるけど、ずっと枕にしてた佳奈子の
肩が無いとどうにも安定が悪い。
「……車乗ってから記憶が無い」
「ずっと寝てた」
「やっぱそうですか」
「このまま寝てたら、俺のマンションに直行しようと思ってた」
「ふざけんな」
 軽口をたたく野崎チーフに、絶対零度の視線で返す。チーフはこっち見てないから
意味無いけど。
「疲れてるみたいだな」
「そーですね」
「でも試験終わったんだろ?」
「終わって無いです。まだ三個目あります」
「まだあんのかよ」
「二個目も受かったらね」
 そう、まだあるのだ。つい四日前に二つ目の論文式を終え、燃え尽きている暇はな
い。

「―――有華」
 妙に神妙な声で、名前を呼ばれる。
「今日ママに聞いたけど、お前辞めるんだって?」
「うん」
 つい二日前、ママに店を辞めたいと告げた。残念ね、とは言われたけど引きとめら
れなかったのは、私が切羽詰まっているとママが知っているから。ここ最近は週に一
回も店に出ていなかったから、なんとなく予想はしていたみたいだ。

「試験いつおわんの」
「二個目が受かってたら、十月の終わり」
「まだまだ、先だな」
 呟くように言って、チーフはそのまま黙りこむ。私は眠気と格闘しつつ、カバンの持
ち手をいじる。早く着かないかな。
「今言ったら、お前迷惑か?」
「はい?何が」
「だから、告白」

02-935 :腹黒ビッチ 3章(中) 7:2009/12/10(木)16:38:12 ID:jHuB5AQ7
 告白するような口調じゃなく、さらりと言われた。
「迷惑なら、試験終わってからでいいけど」
 それってほとんど告白してんのと一緒じゃん。
「今で良いですよ。さっさと終わらせた方が楽」
「少しは考えろっての」
「考える必要もない。彼氏なんていらないし」
「忙しいからってわけじゃ無く?」
「いらない」
 アパートじゃないところに車が止められる。しまった。眠気に揺れる頭が、徐々に
危険を悟って覚醒していく。
「俺の何が足りない?収入か?年か?顔?それとも、こんな職だから?」
 はっきり言って、そんなのどうでもいい。本音を口にしたら付け入られるから言わ
ないけど。
「……忙しいんです。男の相手なんかしてられない」
 一番の理由じゃ無いにしても、これも真実だ。
「傍にいられるだけで良いよ。邪魔はしない。連絡が来なくても文句言わねーって、
……なんか情けないけど」
「そんなの付き合ってる意味無いですよねー」
「俺は、有華を支える人間になりたい」
 フロントガラスから入り込む街灯の光が、野崎チーフの輪郭を浮き上がらせる。闇
に慣れた目が、彼の真剣なまなざしをとらえる。ヤバい。後ずさろうにも、背もたれ
が邪魔をする。
「やめて」
 腕を掴まれて、声が震えた。
「有華が、安心して笑ってる顔が見たい」
「やめて」
「俺を好きじゃなくていい。利用してくれていい。他の男が好きでも」
 エアコンのよく効いた室内で、チーフの体温がとても熱い。掴まれた部分に、徐々
に血が通っていくのが分かる。頭が痛い。喉が引きつる。
「いやっ」
「お前は、もっと甘えていい」
「そんなの、いらない」
「いいんだよ。俺が許す」
「いらない!!」
 振り払おうとしても、チーフの手が離れようとしない。熱が体中に伝わっていく。
鳥肌が経つほどの嫌悪感。体の中のマイナスの感情の全てをこめて、睨みつけた。
「あんたの許しなんて必要じゃない」
「一人で我慢するな。俺が、半分引き受けるから」
 感動的なセリフ。渾身の口説き文句。だけど私の体が、心が、全てが拒否する。
「勘違いしないで。そんな権利、あんたには無い」

 男に真剣に愛を告げられて、改めて分かる。私を理解されてたまるものか。私の一
部分でも、他人に与えるものか。勝手に解釈して、干渉して、浸蝕して、私に受け入
れさせようとする。訳知り顔で私の範囲に入りこんで、優しい振りをして私を変えよ
うとする。思い通りにならないと、今度は屈服させようとする。私の世界を、土足で
踏みにじっていく。
 男なんてみんな同じだった。タカシも、ユウイチも、ケンジも、マモルも、ヤスハル
も、ナオトも。
 克哉君だけだ。支配されてもいいと思ったのは。克哉君だけが、私から奪うだけ
じゃなく、自分を差し出してくれた。
 私が許したのは克哉君だけだった。
 だから、私を許す権利があるのは克哉君だけ。
 でも、許されるはずがない。私は、狡猾で、打算的で、虚栄心の塊だから。それが
醜悪なものだと分かっていても、私は私を変えられない。
 だからもう、解放されたいなんて思わない。苦しくてもいい。このままでいい。克哉
君のことを好きでいたい。
 それ以上のことは望まない。私じゃ不釣り合いだから。でも、せめて、好きでいさ
せてほしい。

 別所さんに呼び出されたのは、その次の日だった。

03-319 :腹黒ビッチ 3章(後) 1:2010/10/13(水) 03:49:29 ID:qnaR5QS3
 まばたきするのが辛い。手を動かすのも辛い。息をするのは、もっと辛い。
 目が覚めて考えるのは、そんなことばかり。今何時だろう。チカチカと青く点滅す
る光を見つけて、手に取るまでに数十秒かかった。着信とメールが溜まっている。
 午後三時。起き上がろうとしたけど、体がギシギシときしんだ。もう起きる気力も
萎えた。
 カーテンの隙間から、光が差し込む。子供の声が聞こえる。こんな風にぼんやりと
何もしないのは何年振りだろう。手持無沙汰になると克哉君のことを考えてしまうか
ら、無理矢理勉強して思考から追い出すのが普通になっていた。
 克哉君。
 最後に会った時の、怒りと悲しみをないまぜにした顔が、そのまま浮かんだ。
 全身を襲う絶望感に、息が苦しい。ベッドの上で、自分を抱きしめる。それでも消
えない寒気にがたがたと震える。
 消えてしまいたい。何も考えたくない。
 おかしくなってしまう。その恐怖に叫びそうになったその時。
 ピンポーン。
 間の抜けた音が、私を現実に引き戻した。震えが止まり、顔を上げる。
 ピンポーン、ピンポーン。
 二度三度とチャイムが私を呼ぶ。起き上がれないまま玄関を見つめていた。その内、
どんどんと扉が直接たたかれた。
「ありかー、開けろー」
 こっちに確実に私がいるのを確信して、延々と声は続く。もぞもぞと起き上がる。
のぞき見で一応確認する。スーツ姿の野崎チーフがそこにいた。

「いるんだろ、分かってんだぞー」
 ドンドンドンドン。近所迷惑だと分かっていてやっている。チェーンと鍵をガチャ
ガチャはずす音が聞こえたら、ようやく止めたみたいだけど。
「久しぶりだな、有華」
「……お久しぶりです。何の用ですか」
「生存確認に来た。ミリが心配してたぞ。二週間連絡取ってないらしいな」
「……生きてます。帰ってください」
「そんなやつれきった顔して、生きてるとか言うなバカ」
 そう言って差し出されたごつごつした手が、私の頬のラインを確認する。
「痩せすぎだろ。食ってんのか」
「……食べました」
 昨日の昼に冷凍庫に残ってたピラフ食べたのが最後だ、とは言わないけど。チーフ
のしかめっ面が、さらに険しくなる。ガサっという音と共に、袋が差し出された。
「これ。テイクアウトで買ってきた。食うぞ。中入らせろ」
「……嫌です」
「絢さんが有華にメシ食わすまで帰ってくんなって言ってんだよ。オラ、はよしろ」
「嘘だ」
「本当だっつの。なんなら今、絢さんにここで電話するか?お前しこたま怒られるぞ」
 ああ、それはめんどくさい。絢さんが鬼のごとく怒り狂ったのは思い出したくない。
絢さんの説教は、横浜のクラブにいた時に培われた軍隊式なのだ。
 今思い出してもげっそりしてしまう。はー。渋々、チーフを中に入れた。

 テイクアウトの中華は、まだ作られたばかりなのかほかほかの湯気を立てている。
中華か。脂っこいな。嫌そうな顔をしていると、お前のはこっちと差し出されたのは
中華粥。なるほど。
「ほら、食え」
「……いただきます」
 チーフは、私がお粥を口に入れるのをじっと見張っている。居心地が悪い。
「食べないんですか」
「食うよ」
「……そういえば、私に食べさせるだけなら、これ渡すだけでいいじゃないですか」
「俺が、有華と飯食いたかったんだよ」
 そう言って輪ゴムをはずしながら、視線は私に定めたまま。

03-320 :腹黒ビッチ 3章(後) 2:2010/10/13(水) 03:52:03 ID:qnaR5QS3
「うまいだろ」
「……うん、おいしい」
「出来たての方がもっとうまいんだぜ?今度行こう」
「遠慮しときます」
 まだ諦めてないのか、この人。
「おう、諦めてないぞ、俺」
 人の思考を勝手に読まないでください。
「部屋に入って、一緒に飯食ってるってのも、進歩だろ」
「進歩じゃなくて成り行きです。勝手に変な解釈しないで」
「いーや進歩だよ。まあ、弱ってるとこに漬け込んではいるけど」
 反論しようと口を開いて、でも何も言葉が出てこない。空いた口に、お粥を入れる。
ほんのりした鶏がらスープの味。たしかにおいしい。

 克哉君の言葉が聞きたくなくて逃げ出した。そんな自分の弱さに弱ってる。
 他人に指摘されなくたって、汚いなんて、私自身がよく知ってる。なのに逆ギレし
てしまったのは、相手が別所さんだからだ。
『私は、一宮君のことが好きだから』
 そんなこと、わざわざ言わなくたっていいじゃない。付き合っても文句言うわけ無
いんだから。
 何不自由なく育って、顔もスタイルも私以上に可愛くて、おまけに性格まで私と
違ってまっすぐで。

 勝てるわけない。

 別所さんを見ていると、本当は、嫉妬しか浮かばない。彼らと私とは、世界が違う。
そう見せつけられているとしか、もう思えない。
 綺麗な世界に生きてる人間に、私みたいな汚い人間が関わっちゃいけない。好きに
なるなんて、身分違いもはなはだしい。
 私のこれまでの努力や意地なんて、結局は彼らへの羨望なのだ。馬鹿にされたくな
い、対等でいたい、努力すればきっと肩を並べられる、そうすればいつか、私もキラ
キラ輝く世界に行ける。そんな期待なのだ。
 そう思い知らされたところに、克哉君が来た。
 その瞬間に、私の淡い期待なんて粉々にされる。違う。私がこんなに惨めなのは、
私がやってきた行いのせいなのに。
 嬉しいはずの距離が、針のむしろに座らされたように辛かった。来る宣告を聞き
たくなくて、お願いだから忘れてくれと懇願して、去ってしまった。
 私のあさましさを、別所さんも克哉君も、気付いていたんだろう。
 遠くで見ているだけ、好きだと思っているだけ。そう言いながら本当は、克哉君が
忘れることで、もう一度はじめからやり直せたらと願っていた。
 諦めろ、と本人の口から聞きたくなかった。だから、逃げてしまった。

 大学にはあの日以来行っていない。教授には試験勉強に専念したいと言って、メー
ルでの課題提出に切り替えてもらった。夏休みのゼミ合宿にも行かなかった。後期は
授業の登録さえ行っていない。
 その間に、私は論述試験に合格していた。口述を残すのみの段階に来て、もう、私
にはこれしかないんだと開き直るしかなかった。文字通り寝食を忘れ、死ぬ気で勉強
した。この三ヶ月、最低限の買い物以外、外に出ていなかった。

03-321 :腹黒ビッチ 3章(後) 3:2010/10/13(水) 03:52:41 ID:qnaR5QS3
 食事を終えて、携帯を確認する。携帯の履歴には、絢さんと佳奈子と瑠奈さんと、
そしてチーフの名前がずらりと並んでいた。メールもまた然り。一番最新のメール
は、佳奈子だ。
『チーフが有華んち行くって。ドア壊してでも入るって言ってたから、気をつけて』
 ……ちゃんと中に入れてよかった。別に壊されてもいいけど、修理業者呼ぶのが手
間だ。私の視線を感じてか、まったり食後のお茶を飲んでいたチーフが笑う。
「なんだよ。まだ食うのか?」
「いーえ。さっさと帰らないのかなと」
「今日は休みだから大丈夫だ」
「なにが大丈夫なんですか。用事終わったらさっさと出てってください」
「絢さんに夕飯も食わせろって言われてんだよ」
「嘘でしょ、それ!」
「なんだよ。絢さんに電話するか?」
 ずずいっとチーフの携帯を差し出される。電話しても説教されるのが目に見えてる
ので、躊躇してしまった。チーフが勝ち誇った笑みを浮かべた。
「夕飯何か食いたいのあるかー」
「……別に」
「最近寒いしなぁ。あったかいもん食いたいよなー。鍋か?おでんとか?」
 チーフは、ウキウキしながら夕飯のメニューを考えている。そんなチーフを横目に、
もそもそとベッドに戻った。
 きちんとご飯を食べれば体力は戻ってきて、だけど勉強をする気は起きない。正直、
来年試験を受ける気がしなくなってきた。
 この二年半で、バイト代は十分稼いだ。本当は院に行くくらいの余裕はある。試
験を受けようなんていうのも、ただの意地だ。
 克哉君に完全に嫌われた今、試験を受ける理由も無くなってしまった。
 何もない。空っぽだ。
「昔居酒屋で働いてたから何でも作れるぞ……って、おーい寝るなー」
「おやすみなさい」
 はあどっこらしょ。毛布かぶってシャットアウト。
「有華、ありかー」
 知らん。答えん。どーでもいー。さっさと帰れー。
「……お前、男と同じ部屋で寝るとか、誘ってんのか」
 誘ってるわけ無いじゃん。
「襲うぞ」
 チーフが近寄ってくる気配がする。
 ギシッ。
 ふざけているつもりを装っているけど、低い声に色気が垣間見える。抵抗する気が
起きないのは、やっぱり弱っているからかもしれない。
 もう、何でもいい。何もかもどうでもいい。
 忘れたい。
 初めてそう思った。

03-322 :腹黒ビッチ 3章(後) 4:2010/10/13(水) 03:54:13 ID:qnaR5QS3
 夢を見た。手を繋いで、海岸を歩く夢。
 潮の匂いに包まれて、守られるように手を繋いで。
 克哉君が、穏やかに笑う。
 ずっとずっと、このままだといいのに。

 目を覚ますと部屋は真っ暗だった。時計がどこにあるかも分からない。重みを感じ
て、ふと隣を見る。すうすうと、寝息が聞こえる。
 誰だろう。克哉君?顔に手を這わせると、手のひらを何かがちくりと刺した。
 克哉君じゃない。誰。
 胃がずくずくと痛み始めた。抱き締められる腕の重みと温かさに、血の気が引く。
 頭がうまく回転しない。ぐるぐると眩暈がする。幸せな夢と対照的な、あまりに冷
たい現実だった。
 胃の底からこみあげるものが我慢できず、無理矢理チーフの腕をはがすと、トイレ
にかけこんだ。
「……うえっ、えっ……ぅ・ごほっごほっ」
 食べたものが全部便器に戻されていく。
 吐くものが無くなったら、胃酸まで。全て吐き出してもまだ吐き気がおさまらない。
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。
「うぁ……ぐ……ぅ、うっ」
 便器に縋りついて、座り込んだ。胃酸の味が口中を支配している。汚い。汚れた下
着の感触まで思い出されて、全身の寒気がさらに酷くなった。
「有華、どうした?」
 起きてしまったチーフが、トイレの外から声をかける。ぶるぶると全身が震えた。
「大丈夫か、どこか悪いのか」
「っ、こない、で」
 喉が胃酸に焼けて、声はかすれる。だけど必死に訴えた。
「来な……いで」
「有華?どうしたんだよ」
「来ないで!!」
 今チーフの顔を見たら、何をするか分からない。それくらい追い詰められていた。
「何言ってるんだ、いいから、ここ開けろ」
「来ないでよ、あんたなんか、……あんたなんか気持ち悪い!!」
 口の端を胃液が伝う。それにも構わず、頭を振り乱して、チーフを拒絶する。
「……そんなに嫌なら、なんで受け入れたんだよ!」
 ガンッ!トイレのドアを、力任せに殴る音。
「なんなんだよ、優しくしただろ。嫌がられるようなこと、した覚えないぞ!」
「っ、もう嫌。出てってよ!」
「期待持たせといて、それはないだろう!」
「嫌なの、気持ち悪いの……!」
 荒く上下する腹に、また吐き気が催される。
「うっ、……ぐう」
 げほげほと便器の中にせき込む。
「一人にして、出てって……大嫌い、顔も見たくない」
 もう一度トイレの扉が殴られた。さっきよりも力は弱かったけど、私はびくりと体
を震わせる。しばらく、はぁはぁと私の荒い息だけが響いていた。チーフはまだそこ
にいる気配がしていた。
 どれくらい時間が経ったか分からない。扉の向こうに、足音が聞こえた。乱暴に何
か取る音がして、しばらくして、玄関の重いドアが閉じる音がした。
 ずるずると、便座に頬を預けた。汚い。汚いけど、もう何もかも汚いから今更だ。
 こんなに最低な気分なのに、涙が浮かんでこない。

 全部、リセットして欲しい。
 最初からやり直させて欲しい。
 そうしたら、そうしたら―――そうしても、何も変わらない。

 苦しい。
 もう、解放されたい。

 三日後。
 合格発表欄に、私の番号はなかった。

03-323 :腹黒ビッチ 3章(後) 5:2010/10/13(水) 03:55:05 ID:qnaR5QS3
 海に行こう。小さい頃から好きだった。昔、休みの日には母親に海に連れて行って
とせがんだ。母も私も、日常を忘れてはしゃいでいた。克哉君ともよく足を運んだ。
 全部、遠い遠い昔に感じる。そういえば、もう何年か海を見ていない。
 最低限の化粧をして、財布だけ入れたカバンを持った時、携帯電話が鳴った。
「はい」
「もしもし、和田だが」
「はい」
「君、昨日口述の発表だったんじゃないか。どうだったんだ」
「落ちてました」
 淡々と結果を告げると、教授は一瞬黙り、ううんと唸った。
「まあ、結果はそう気にするな。とにかく、今後のことや単位についてのことがある
から、一度顔を出すように」
「今日、今からじゃ駄目ですか?」
「今?」
「はい、ちょうど外出するところだったので」
「ああ、私も今部屋にいる。六時までならいるつもりだから、好きな時間に来なさい」
「分かりました」
 電話を切ると、はぁ、とため息が出た。教授にはお世話になったし、お礼くらいは
言わなければ。
 持ち物が増えたわけじゃないので、そのまま外に出た。大学までは歩いて二十分。
外はからりと晴れていたが、いつのまにかもう秋も深まっていた。
 凍えそうな指先を、ジャケットの中にしまい込む。きっと海は寒いだろう。だけど
防寒具を取りに帰る気がせず、そのままふらふらと大学に向かった。

 久々に和田教授に会ったところ、まず言われたのは「痩せすぎじゃないか」だった。
そういうことに無頓着そうな教授に言われて、面食らう。クッキーを差し出され、コー
ヒーまで出され、砂糖も余分に入れられた。
「今期のゼミの単位だが、今までの個別課題で代替して成績を提出することにした」
「はあ、そうですか」
「今年は残念だったが、君なら来年受かると信じている。駄目でも院は推薦されるだ
ろう」
 適当に相槌を打っている私に、教授が気遣わしげな顔をする。
 会話は耳をすりぬけて、どこかに飛んで行ってしまう。私の意識は、ここにない。
 今となっては、全てどうでもいいのだ。
 コンコンという音が、教授の声を遮った。ドアが開く音に、教授が応える。私はぼ
んやりとテーブルの上のクッキーを見つめていた。
「一宮君?何をしている」
 びくり、と肩が震えた。教授が立ち上がって、何かを話している。
 どうしてこのタイミングで。最悪な時に。
 教授はすぐに戻ってきて、俯いてしまった私の肩を叩く。
「そう落ち込まないでおきなさい。また来年もあるのだから」
 この場から逃げ去りたい。これ以上蔑んだ目で見られたくない。早く消えてしまい
たい。ずっと、そんなことばかりを思っていた。

03-324 :腹黒ビッチ 3章(後) 6:2010/10/13(水) 03:55:36 ID:qnaR5QS3
 冬の盛りに風と一緒にかさかさと音を立てる落ち葉を、何をするともなくぼんやり
と見ている。家で一人で勉強するのは気が滅入るから、いつもこうして図書館にこ
もっていた。
 隣の椅子が、カーペットに重くこすれる音がした。試験期間でもないが混んでいる
のだろうか。そう思いながらも窓の外から視線を外すのがおっくうで、そのままでい
た。
「ちょっといい?」
 振り向くとそれは、ふわふわとした髪の毛を揺らした、別所愛美だった。



「おめでとう、今年は受かったらしいわね」
 人気の無いベンチで、カフェラテを差し出されて第一声。
「うちのゼミに、院の補欠が出たって喜んでる奴がいるわ」
「そう」
「私も、民間で内定取れなかったし、院に行くの」
「そう」
「涼しい顔ね。憎たらしいくらい」
 言葉の仰々しさに対して、彼女こそが涼しい顔でキャラメルマキアートを口に含む。
「あなたの事言ったら、会いたそうにしていたわよ」
 ひゅう、と、風が一筋、私と別所さんの周りの湯気を、一緒くたに吹き流す。喉を
通るカフェラテの暖かな甘さが、その冷たさと対照的だ。
 無言でまたカフェラテに口をつける。
「相変わらず、会わないつもりね」
「父親じゃないもの」
「会えばいいじゃない。うちの親だって、もう離婚したのよ。堂々と会いに行けばい
いのよ。まさか、認知してないからなんて、馬鹿みたいなこと言わないでよ?」
「だって、民法の見地からいって、そうだもの」
 ハッ。別所さんは、大げさに鼻で笑った。
「本当にあんたって憎たらしいわ。自分は一番苦しんでると思ってる。あんたには
あるじゃない。親の愛情も、優しい恋人も、誰よりも上を行く能力も」
 手にしていたキャラメルマキアートを、彼女は芝に叩きつける。
「なんで、あんたは私のプライドを全部へし折ってくのよ」
 視界の端にちらつく別所さんの腕が、震えていた。
「なんで、一宮君は……」
 フランス人形のような大きな瞳が、ぽろぽろと涙を落としていく。夕焼けが差し
込んで茶色に透ける髪を見ると、いつも思い出す。
 高校の教室。騒がしくざわめく空間の中、そこだけが無音なことに誰も気づかな
い―――廊下から見つけてしまった私以外には。陶器のような白い肌をバラ色に染
めて、密やかな彼女の視線の先にあるもの。

「私は、『田辺愛美』になりたかったわ」

 彼女の秘めた恋心を知って、私は彼を知った。

「父親と母親がいて、食べ物にも困らなくて、人から陰口を叩かれたりしない。
 日のあたる道を歩いてみたかったのよ」

 一宮克哉。その名前を、忘れられなかった。

03-325 :腹黒ビッチ 3章(後) 7:2010/10/13(水) 03:56:28 ID:qnaR5QS3
 午後七時二十五分。約束の時間の五分前に図書館に着くと、コートの中で身を小
さくしている有華をみつけた。口角が勝手に上がる。にやけた口のままで、手を挙
げた。
「有華」
 距離があるのに、遠目からでも反応するのが見て取れる。
「克哉君!」
 小走りでこちらに向かってくる姿が、全身で嬉しいと言っているみたいだ。通り
がかりの学生が、有華を見ては振り返る。お前ら見るな。減る。
「早いかったね、克哉君」
「ああ、採点さっさと終わらせてきたから」
「いいの?勉強忙しいのに」
 少ししょぼんとして、視線をそらす。申し訳なさそうなその頭を撫でる。相変わ
らず言い訳をしない奴だ。
「有華の試験合格祝いだろ。久しぶりにゆっくりしよう」
 にっこりと満面の笑みを浮かべて、有華は、ぎゅうっと俺の腕にしがみつく。そ
の力が、心なしかいつもよりも強い気がした。
「有華?」
 名前を呼ぶ。ん?と小首を傾げる動作はいつもと変わらない。有華が微笑む。そ
れはいつもと同じ、空気を最大限に和ませる明るさだ。
「克哉君、愛してる」
 昔よりもさらに増えた愛情表現。俺も口元を緩ませた。
「俺も、愛してるよ」

 有華の首筋は、昔と変わらない、バラの香りを纏っている。


<終わり>

最終更新:2010年10月15日 09:23