夜になったが、土砂降りの雨は止まず、それどころか益々強くなってくる。
それでも俺は、行かなくてはならない。
警備員の交代を見計らい、看護士の巡回から逃れ、俺は病院を脱出した。
肩の傷が痛む。雨の水は凍るように冷たかった。
それでも、俺は病室にあった服を病衣の上に着てコートを羽織ると、街を歩き出す。
やがて、目的の場所に辿り着いた。
何とか俺の不在が察知される前にタクシーに乗り、そして降りる事ができたのは幸いだった。
目的の場所は、幸いにもまだ明かりが点いている。
しかし夜も遅い。職員は既に帰宅したようだ。
俺は会いたい人物が一人でいる事を願い、そこに足を踏み入れた。
「よう、ボス」
「スティーブか、びしょ濡れだな」
興信所のボス、俺に探偵のイロハを教えてくれたジョン・ミルトンは、少し驚いた様子で俺を迎えた。
興信所内は、ボスの部屋の明かりしか点いていない。
俺はボスから渡されたタオルで手早く身体を拭き、そしてボスのデスクの近くにある椅子に座った。
「冷えるぞ。コーヒーでも飲め」
そう言うとボスは自分の部屋を出て、廊下の奥にあるコーヒーポットまで行くと二つの紙コップにコーヒーを入れて戻ってくる。
俺はそれを受け取ると、ボスのデスクの端に置いた。
「で、こんな時間にどうした?」
「色々あってな…依頼人を守れなかった」
俺はそう言うと、俯いて溜め息をつく。
「マフィアの連中に関わったのが運の尽きだったようだ」
「…そんな事もある。警察関係には知れているか」
「ああ。事情聴取もされた」
「そうか」
そこまで言うと、ボスはコーヒーを一口飲む。
俺はまだコーヒーに手をつけない。
「一つ、気になる事がある」
「何だ」
俯いたまま、俺は言葉を紡いだ。
「スタンリー・マクスウェイン。俺と今まで関わってきたマフィアの幹部の一人だ。こいつと初めて会ったのは一年近く前、とあるカジノの一件が最初だった」
俺の言葉に、ボスは何の反応も示さない。だが、聞き入ってはいるようだ。
「こいつは会う前に、俺に電話してきた。その時丁度俺は事務所が壊れてここに厄介になっていたんだが、俺が調査していた事柄について把握していたようだった」
「ふむ…その理由は分かったのか?」
ボスの問いに、俺は首を振る。そして話を続けた。
「ブルースが死んだ一件があったろ。あいつはマフィア絡みの一件に関わって死んだ。あいつを殺したのはマフィアとは関係の無い強盗団だったが、そもそもあいつは、自分の関わった件にマフィアが絡んでいた事を知っていただろうか」
ブルースの死には別の真相があるんだが、それは今の話とは関係が無いので俺は言わなかった。ボスの方は俯いたまま、俺の言葉に答えない。
「最初に知っていなかったとしても、あいつなら途中で気づいた筈だと思う」
やはりボスは特に反応を示さない。
「最後に今回の一件だ。俺はアンドロマリウス遺伝子研究所について調べていた。ボス、あんたのこの興信所に、建設当時の図面があった。その図面を頼りに俺は調査していた。最終的に、あの図面がマフィアとの取引に役に立ちそうだった」
一拍を置いてボスの様子を見る。ボスは依然、何のリアクションも起こさなかった。
「だが実際には役には立たず、その結果俺は依頼人を守れなかった。それからずっと、何故あの図面が役に立たなかったのか、疑問だったんだ。あの図面が本物であることは、その後の調査で分かってた筈なのに」
「…答えは出たか?」
漸く、ボスはそう問いを俺に与える。視線は俺には向けず、手前のデスクの上を眺めたままだ。
「ああ…一つだけ説明のつく仮説が立ったよ」
そんなボスを見据えたまま、俺は言った。
「俺が取引しようとしたサルヴァトーレ・マドヴィックは、あの図面が安全な所にあると確信していたんだ。だから俺の提示した条件を無視して、俺の依頼人を殺す事ができた」
ボスは答えない。
「それから、依頼人…マーガレットが死ぬ前に言った。『自分の言った事をよく思い出してほしい』と」
ボスは答えない。
「思い返してみると、彼女は確かに言っていた。俺のことは、あんたから紹介されたんだと」
ボスはやはり、答えなかった。
「答えてくれ、ボス。あんたは…マフィアの手先なのか」
話している間に、俺は右手をコートの内ポケットに入れていた。
没収されているとばかり思っていたが、警察が改めた筈のその中身は無事だった。
エリスが俺の持ち物のチェックを免除してくれたのかもしれない。
いずれにしろ、俺のコートの内ポケットには――死んだマーガレットが撃つ事ができなかった、拳銃が確かにそこにあった。
ボスは何の感情も含まれていない声で、やがて言った。
「コーヒーを飲め。温まるぞ」
「生憎、今は他人が淹れた飲み物を口にしたくない」
俺の言葉に、ボスは目を瞑る。
「中途半端に隠すくらいなら、最初からそれを使ったらどうだ」
俺はここに来て二度目となる溜め息を吐いた。ボスはとっくの昔に俺の右手が銃を握っている事を看過していたのだ。
「じゃあそうするよ、ボス」
俺は立ち上がり、拳銃をボスに向ける。
「今日は色々とありすぎて理性を保つのが難しいんだ。俺を早まらせないでくれ」
ボスは俺の言葉を聞くと、僅かに苛立ったような表情となる。
「過去の失敗を学ばぬのなら、それは畜生と同じだと…以前教えた筈だがな」
ボスは、ゆっくり立ち上がった。
そのまま、僅かの間、俺とボスは睨み合う。
突然、背後に人の気配を感じ、俺はボスに銃口を向けたままそちらを振り向いた。
「銃を捨ててくれませんか、スティーブ・ハントさん」
部屋の戸口に、男が立っていた。
スタンリー・マクスウェイン。ロワイアル・ファミリーの幹部。
金色の短髪に長身、白いスーツに眼鏡をかけている。優男といった顔立ちは以前見た時と同じだった。その手には、俺と同じく拳銃が握られ、俺に照準がつけられている。
「…そういう事かよ、ボス」
「いいや、ハントさん。あなたの推測はまだ足りない」
ボスの代わりのように、マクスウェインが喋る。
「あなたを見ていると、無知というものは罪なのだということがよく分かります」
俺はマクスウェインを睨んだ。
だがマクスウェインはその視線をボスの方に向けると、やがて言う。
「その方の名は『ルシウス・サイファー』。我々ロワイアル・ファミリーの、最高幹部の一人です」
俺は目を見開かずにはいられなかった。
『サイファー』。この街の情報網を牛耳る、ロワイアル・ファミリーの最高幹部の一人。それが、目の前にいる男の正体。
俺はボスに視線を向ける。ボスは、肯定するようにゆっくりと瞬きをした。
俺は再度マクスウェインに視線を向けると、やがて言う。
「…そうか。お前は俺と会う度に散々マドヴィックの名を出していたが、それはフェイクか」
「そうでもない。マドヴィック氏の指示に従っていたのも確かですから。ただ、私の『直属』の上司はその方なんですよ」
俺は横目でボスを一瞥し、そしてその時点で分かった事を口にした。
「つまり、マドヴィックの企みを察知して計画とリストの一部を情報屋達に流出させたのは、お前だったって事か」
「ええ。特に警察の子飼いの情報屋には念入りに、ね」
そう語るマクスウェインの表情は、妙に楽しそうだ。
俺は冷静さを保とうと努めたが。正直そろそろ限界だった。
ふざけてやがる。こいつらの下らない諍いのために、マーガレットは死んだのだ。
俺は銃を向けたままゆっくり深呼吸すると、ボスに再度視線を向けた。
「それで、どうする。俺としちゃあマクスウェインに撃たれてもあんたを撃つつもりでいるが」
「頭を撃てば銃は撃てなくなりますよ」
「黙ってろ!!俺はボスに聞いてる!!」
俺の大声に、マクスウェインは押し黙る。
ボスは、ただ沈黙したままだった。
依然沈黙したまま、ボスは俺を睨んでいる。
俺もまた、ボスを睨み続けた。
どれほど時間が経っただろう。実際にはそれほどの時間は経っていなかった筈だ。
「マクスウェイン」
急に、ボスは視線をマクスウェインの方へと向けた。
その瞬間、俺はそちらの方に気を取られる。
その一瞬が、命取りだった。
パン、という軽い破裂音。
それが消音器付きの拳銃の発砲音だと分かるのに、さして時間はかからなかった。
「…うっ…」
血が、室内の床に落ちる。
撃たれていたのは、俺の方だった。
撃ったのは、ボスだった。
その手に、いつの間にか銃が握られていた。
「救急車を呼べ」
「いいんですか?」
「ああ。今日でここは閉鎖だ」
そんな会話を聞きながら、腹からの激痛に俺はその場に倒れこむ。
それでも、銃口をボスに向けていた。だが、どうしても撃てない。
「何でだ、ボス!!」
「もうその名で呼ばなくていいぞ」
そう言い、マクスウェインと共にボスは部屋を出ようとする。
「傷口を圧迫しろ。救急車が来るまでに失血死は免れる筈だ」
そう言い残して。
「待て!!」
俺の絶叫に、ボスの足が止まる。
「ブルースは、ブルースはこの事を知ってたのか!?」
「その答えを、お前はもう知っている筈だ」
突き放すようにそう言うと、ボスはマクスウェインと共に部屋を出て行った。
代わりに、遠くから段々と、サイレンの音が近づいてくる。
暗い室内で、俺は部屋の壁に背中を預けた。
腹から、黒い血が流れ出してくる。
銃を取り落とした右手で、腹に開いた穴を押さえつけていたが、どうやら少し遅かったらしい。既に、その右手の感覚が無くなり始めていた。
俺は、ボスがマフィアの手先であるとの疑いを確かめるためにここに来た。
事実であれば宣戦布告するつもりだったが、実際には宣戦布告をしたのはボスの方だった。
俺の腹にめり込んだ銃弾は、その証だ。
これから先、街そのものが俺の敵になるだろう。
味方はいない。いたとしても即座に消されるだろう。
俺は、これからの未来に絶望した。
そして次に、自分のやるべき事を思い出し、絶望を拒絶した。
マーガレットの末期の言葉だけは、叶えてやる。
レイラという少女を助け出し、ロワイアル・ファミリーを瓦解させてやる。
俺はその決意――いや、殺意と共に、眼を瞑った。
直に意識を失うだろう。
サイレンの音が近づいてくる中、俺はそう思った。
その時不意に、俺の耳に事務所のドアを開く音が聞こえる。
マクスウェインが呼んだ救急車の隊員だろうか。いや、サイレンの音はまだ遠い。ボスとマクスウェインが戻ってきたのだろうか。
足音が聞こえる。一人分だ。
足音は事務所内を歩き回り、段々とこちらに近づいてきているのが分かった。
最初救急隊員かと思ったのだが、どうやら様子が違う。それなら複数人だろうし、こんな悠長に歩いてはいない筈だ。
そんな事をぼんやりと考えている間に、やがて足音がすぐ近くまで迫り、そして止まった。
「大丈夫ですか」
聞き覚えのない女の声。
これが大丈夫に見えるのか。そう言い返そうとして、俺は目を開ける。
だが、血を流し過ぎてしまっていたらしい。視界は霞み、目の前にいる筈の女の顔も見えなかった。
そして、それが限界だったらしい。
俺が意識を手放す前に、最後にかろうじて見えたのは。
赤い両の瞳と。
そして額にある、もう一つの眼。
最終更新:2016年05月29日 18:04