「はぁっ、はぁっ、はぁっ…」
クロウ・エリュシオンは、未だビルからビルへと跳び移り、走り続けていた。
夜の闇の中、空を黒雲が多い、暴風と横殴りの雨が街中を吹き荒ぶ。
そんな中、彼はどこへ向かっているのか自分でも分からないまま進んでいた。
ただあのアパートの屋上から逃れたい一心で、ひたすらに走る。
そして、再び跳ぼうとした瞬間の事だった。
「っ…!?」
首からスカーフが、飛んだ。
いつの間に緩んでいたのか、スカーフはクロウの首から離れ、暴風の中を飛んでいく。
次のビルへと飛び移り、そうしてから取りに行けば良かったのかもしれないが、そんな冷静な判断力は今のクロウには残されてはいなかった。
彼は体勢を崩しながらも振り向いて、懸命に首から離れたスカーフに手を伸ばす。
指先に触れたスカーフは、しかしそのままクロウの指をすり抜け、飛んでいった。
それを目にしたのを最後に、クロウはビルの谷間へと堕ちていった。
相当の高さから落ちたクロウだったが、生きていた。アーマーとヘルメットのお陰だったのだろう。
彼はしばらく地面に横たわっていたが、ようやく身を起こすと、ビルの壁面を背にして座る。
雨は土砂降りとなり、暴風も吹いていたが、今の彼にはそれを気にする心の余裕さえ無い。
しばらく、クロウはそのまま虚ろな眼で佇んでいた。
不意に、彼の耳に足音が聞こえた。
ビルの谷間に木霊する足音。クロウは足音の聞こえる方へと視線を向ける。
いつか夢に出てきた、全身を黒い布で覆った人物が、そこにいた。
クロウは記憶を辿り、その人物が自らを『アバター』と名乗っていたのを思い出す。
普通の夢ならば、時間が経てば記憶から消え去るものだったが、不思議とその夢はクロウの記憶に残り続けていた。
普通ならば驚愕する状況だが、今のクロウの心には何の感情も沸かない。
それでも彼は、口を開いた。
「俺を殺しに来たか」
また一歩、アバターはクロウの方へと近づくと、言った。
「…いいえ」
ならば何をしに来たのか。そんな問いさえ浮かばず、クロウはアバターから視線を外すと、再び俯く。
そこで、今聞いた声が聞き覚えのあるものだった事に気が付いた。
「お前は…何者だ…」
聞き覚えがある。だがどうしても思い出せない。
その声は紛れも無く、女性の声だった。
鈍い頭痛がしてきた。最初は軽い痛みだったものが、時間と共に激しい痛みに変わっていく。溜まらず、クロウは片手で頭を押さえた。
まるで走馬灯の様に、『覚えの無い記憶』がクロウの頭に甦り始める。
草原の上に立つ孤児院。
畑と痛みの記憶。
果物を取りに行った森。
黒豹。
「思い出せない?」
その声で、クロウは我に返った。
ゆっくりと、再びアバターへと視線を向ける。
ただただ驚愕に染まったクロウの瞳を眺め、アバターは呟いた。
「いいえ。ただ…目を背けているだけ」
また一歩クロウへと近づいたアバターは――頭を覆った黒布を、片手で取り払った。
そうして、その視線をクロウへと向ける。
「もう…逃げてもいい時間は、無くなったんだよ」
長い金髪。白い肌。青い瞳。16、7ほどの年齢に見える優しそうなその顔立ちは、クロウの記憶と全く同じだった。
その女性の顔を目にして、クロウは自然と甦り続ける記憶に抗えなくなる。
そして、その名を口にした。
「…レノア…」
その女性は微笑んだ。クロウの記憶にある通りの、優しい笑顔で。
「その絶望もまた、世界を創るものの一つだよ、アラン」
最終更新:2012年01月22日 00:11