世界が見えた世界・10話 C

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世界が見えた世界・10話 C - (2007/09/19 (水) 21:15:10) の編集履歴(バックアップ)


 屋上の扉を貫いて外に出た。
 ほんの数日前にぼろぼろになったはずのそこは、それがまるで嘘だったみたいに綺麗になっていた。

乃愛「うん? ああ……そういうことか。ふふ……まったく」

 俺より一足先に屋上にいた乃愛さんは、フェンスの向こうを眺めながらそんなことを言っていた。

大翔「どうかしましたか?」
乃愛「いやなに。そろそろ決着かなと、思っただけだ」

 乃愛さんは無傷。余裕の表情だ。対する俺は、体力の限界が近かった。世界を相手にする。それがどういうことなのかを俺は存分に思い知らされていた。
 彼女は魔法をほとんど使わない。使う必要さえない。
 その拳は魔法を弾き、思うままに風を操り、重力など意にも介さない。彼女はまさに、世界を操る。彼女の望みが、世界を形作る。本当に、乃愛さんは自分の思うとおりの現象を引き起こす。不可視のはずの俺の魔法をだからどうしたと簡単にかわす。
 そんなの相手に、どうしろと?

大翔「んっとに、何で俺の相手は実力に見合ってないような人間ばっかりなんだ……」
乃愛「籤運が悪いというより、君はそういうものに呼ばれる性質なんだろうね」

 他人事のように……まあ実際他人事なんだが、とにかく他人事のように言う乃愛さん。
 しかしどうしたものか。勝ち目がない云々以前に、どう攻めたらいいのかもわからない。まったくの無策。その上向こうはこちらのことを熟知しているのだ。まったく、どうしたもんかね。
 乃愛さんはひとつ息をついた。腰に手をつき、聞き分けのない子供を諌めるように。

乃愛「いい加減、負けを認めてもらいたいものだ。わかっているだろう、君では私には勝てないさ」
大翔「知っていますそんなことくらい。別に勝たなくていい、ただ、あなたにこの力が届けば、それで」

 たった一度。
 この力が、彼女に届けばそれだけでいいのに、その一度があまりにも遠い。これに比べれば縁日の射的なんざ屁でもない。

乃愛「例えば、そう。君が生き方を変えることができれば、いいのだろうね。そうすれば君は、私を殺すことを決意できるのに」
大翔「それがしたくないから、こんな無茶をしてるんでしょうが」

 俺が乃愛さんにどれだけのものを貰ったのかなんて、考えるのも馬鹿馬鹿しい話だ。

大翔「あなたが親父や母さんから沢山のものを受け継いだように、俺もあなたから山ほどのものを貰ったんだ。そんなヤツがあなたを殺すなんてできると思いますか?」

 俺からしてみれば親殺しと同じ事。

大翔「この歳になるまでに出来上がった性格を今この場で変えろなんて、無茶もいいところでしょう」

 三つ子の魂百まで、ってまあ今の方向性が出来上がったのはわりかし最近といえないこともないんだけどさ。
 今更昔に戻れなんていわれても困るというか、どうしたらいいのかなんてわからないだろう、普通は。ニートにニートやめろ外に出ろって言ったところでそう簡単に変われるわけがないのと同じだ。

乃愛「やれやれ、頑固者同士で話し合いをしても結論など出るはずもなし、か」

 それもわかりきった事だ。だから俺には乃愛さんを説得するつもりなんかなかった訳だし。

大翔「そもそも乃愛さんは結局どんな結果が得られれば満足なんですか?」
乃愛「歴史の書き換え、あるいは君の生き方の矯正。そのいずれかあるいは両方、かな。君にこんな荒療治を施す機会など、後にも先にもこれっきりだろうからね」

 それだけ。本当にただそれだけのために、この人は世界を書き換える。多くの世界を巻き込んでちっぽけな願いをかなえる。
 もしも俺が乃愛さんを殺すと、本当に殺すつもりになれば、この人は抵抗しないだろう。それは同時に、俺が自分の生き方を諦めることにも繋がるから。新しい生き方を探すきっかけになるから。
 自分の幸せを自分の中に見出すきっかけになる『可能性がある』から。

大翔「その為に、自分の未来の可能性全部放り出すんですか。その為に、この世界の明日の全てをなかったことにするんですか」
乃愛「そうだ。君にとっては何よりも納得のいかないことだろうね。自分のために他人が犠牲になる、なんてことは。だから君はどこまでも私に抵抗するしかない。そしてもはや勝ち目がないとわかったときに決断するしかない。その意地を貫き未来を失うか、その意志を折り明日を手に入れるか」

 爪が手の平に食い込むほどに拳を強く、ひたすらに強く握り締める。
 まっすぐに乃愛さんの瞳を射抜く。そのどちらも選ばない。ただその意志だけを込めて。

乃愛「……まあいずれにせよ、間もなく結果は出る、時間は無限ではない」

 季節には少し早い冷たい風が間に流れた。
 空には星空。明日がどうなるかもわからないのに、世界はいつも通りに廻っている。
 明日も世界が、今日から続く世界があることに疑いを持たない。それが正しいんだと思う。それでいいんだと思う。
 こうして未来だ世界だと必死になって戦っている俺達は、今世界で一番の変わり者だ。そんな俺達にしかできないことがある。その中で俺にしかできないやり方がある。
 それが正しいとは思わない。でも乃愛さんも正しいとも思えない。じゃあ乃愛さんを殺すのが正しいのか? 俺にはそうは思えない。それで乃愛さんが救われるなんてどうしても思えない。

 不意に乃愛さんの姿が、ぶれた。
 と思った瞬間、背後で空気が膨らむ。とっさに、前へと体を投げ出した。

乃愛「ほう、早いな」
大翔「いつの間に!?」

 まさか『錯覚』か? いや、その感覚はなかった。それじゃあ、一体?

乃愛「悩んでいる暇はないぞ!!」
大翔「くあっ!?」

 風に殴られたと、床に背中を打ち付けてから理解した。完全に油断したところへの一撃。意識を保つことしかできない。
 けどんなところで眠るわけにはいかないんだよ!
 立ち上がりざまに魔法を放つ。全方位に向けて対象を限定せずに放たれた魔法により大気が、床が、一斉に貫かれた。

大翔「そこぉ!」

 その中に感じた穴――貫ききれなかった座標に向け、魔法を全方位から放つ。しかし見えない壁に阻まれるかのような手ごたえに舌打ちする。全て防がれた。あらゆる壁を貫くつもりで放ったのに、だ。強度に押されている。もっと一撃に力を込めないと。
 何もない空間からするりと現れる乃愛さん。即座に魔法を放とうとして――躊躇う。この乃愛さんは、本当にそこにいるのか? また先ほどのように唐突にかき消えはしないか? そんな疑念が生まれた。
 知るかんなこと。どうせ考えは読まれてるんだ。それなら、いくら読んだところで無意味なくらい追い詰めればいい。
 覚悟を決めてしまえば後は動くだけ。まっすぐに最短距離を駆け抜ける。
 何も考えずに、ひたすらまっすぐに。

乃愛「はははっ、なるほどそう来るか、だから君は面白い! だから君を生かしたいとつい思ってしまう!!」

 ぐっ! 面白そうな顔をしながら、問答無用で攻撃を叩き込んでくる。

大翔「くっそ、これじゃあもたな――うおわっ!?」

 ずりぃ、と足が滑りバランスが崩れる。鼻先を掠めた雷が床を抉った。

大翔「あっぶな……ん?」

 ふと、閃く。俺に乃愛さんの攻撃は避けられないし、乃愛さんに確実に当てるのも難しい。頭脳戦において彼女ほど長けた人物を俺は他に知らない。彼女は俺の動きを見ているわけではなく、俺の思考を読み自らの行動が生み出す結果を考え、その先を予想しているのだ。彼女にとって戦闘行為とは即ち頭脳労働なのだ。
 となると当然彼女の予想を覆す行動を起こせばその計算は狂うのだが、基本的にそれは無理だ。乃愛さんの魔法『錯覚』は相手の脳に直接作用するタイプのもので、相手の思考をある程度感じることができるらしい。
 それを踏まえたうえで彼女の計算が狂わせるとしたら、それはまったくの外部的要因――例えばそう、事故、とか。
 足元を見る。俺はどうやら積もった砂塵に足を滑らせたようだ。体力の低下と注意不足が要因だろう。そしてそれは、乃愛さんにとっても予想外の出来事で。

大翔「水よ――」

 意識を壁の中へ、配水管を流れる水へと巡らせる。水の流れを感じ、どこにどう配水管が配置されているのかをつかむ。
 口の端が吊り上がる。くっと喉の奥を鳴らす。

大翔「貫け」

 屋上の床のあちこちが貫かれ、その跡から噴水のように水が噴き出す。まるで雨のように。
 さあ、反撃だ。俺の無様な姿をとくと御覧になるがいい。

大翔「地は凍てつきて凍土を為せ。風は我が力を食いその意を得ずに荒れ狂え」

 立て続けに通常魔法を唱える。噴き出した水は床に触れた瞬間凍りつく。風は俺の力の続く限りに縦横無尽に暴れまわる。
 お互いにまともに動き回ることさえも困難な状況。己の動きの中にどうしても外部の要因が大きく関わってしまう。氷が張っているのも全体ではないしその厚みも均一になっているわけがない。その上、雨のように降り注ぐ水は服をじっとりと濡らし肌にまとわりつく。
 まともに戦うことさえも、俺にとっては困難な状況だ。すでに風に煽られて直立の姿勢を保つことも困難になっている。

乃愛「なるほど。己の動きを犠牲にすることで私の予測を外す……か。確かにこの状況では、いくら君の思考を追随しても意味はないだろうね」
大翔「いやぁ、一応スケートの経験はあるしそれなりに滑れるほうだとは思ってますよ、ええ」

 俺の軽口に乃愛さんは軽く笑って見せた。

乃愛「通常魔法は基本的に『武器』だというのに、あくまでそれを『技術』として捉えるその視点のあり方。やはり血だな」
大翔「親父が通常魔法を使ってるところなんて一度しか見たことないですけどね」

 その戦いの中で親父が通常魔法を単純に攻撃として使ったのは、おそらく右手で数えられる程度。百を超える攻防の中でほんのそれだけだった。
 いくらエーデルやユリアがその魔法で派手な物理攻撃を見せようと、俺が魅せられたのは結局たった一度のあの戦いだったわけだ。

乃愛「いや、それでいい。何も間違っていないさ。何しろタイヨウさんは『無剣の騎士』つまりは、剣を使わない騎士だったのだからね」
大翔「はぁ? そりゃまた、なんていうか……親父らしいといえば親父らしい話ですね。けどそれ、今関係ありますか?」
乃愛「何少し感傷に浸りたかっただけだよ。気にせずに眠るといい」

 言い終わらないうちに、鼻先の空間を一筋の光刃が切り裂く。前髪が数本ちり、と音を立て焼ける。俺は微動だにせずに前を向いていた。

乃愛「ほう。普段の君ならあと半歩は下がるところだと思ったが」
大翔「ふ、甘いですね乃愛さん。俺の足元をよく見てください」

 乃愛さんの視線が下がり――うわなんかすっごい呆れた顔された。いやまあそうなる気持ちはわかるけど。俺も実際焦ったし呆れた。
 はい、両足が氷付けになって動きません本当にありがとうございました。
 ばきばきと音を立てて氷から両足を引き剥がす。いやぁ、焦った焦った。もし今の状態で攻撃を食らっていたらその時点で終わってたね。俺は緊張感のない愛想笑いを浮かべる。

大翔「とまあこんな感じですね。長期戦になると足が動かなくなりそうだし、さっさと片付けたほうがよさそうだ」

 誰かさんの言うように、時間は無限にはないのだから。特に今この時、この世界には。
 滑る足場に気を取られすぎないように、強引に風をかきわけながら踏み出す。水に濡れた服が動きを阻害する。それでも、今までに経験がないわけではない。むしろ足元の氷にいつ滑るかの方が問題だ。
 けど、氷よりも恐ろしいものを相手にしている以上、どちらに意識をするかは明白。
 退路を断つように小刻みに牽制の魔法を放つ。いくら見えない壁で防げるとはいえ、俺の能力を知っている以上過信はできない筈。距離をつめて、一息に跳ぶ。氷上であるため全力ではないが、それでも短距離を一気につめることはできる。
 乃愛さんの顔面めがけ、全力の魔法を込めた拳を放つ。

大翔「おおおおおお!」

 硬い! そして、これは予想外だったが、再生されている! 俺が『貫抜』で貫き削るが、貫いた壁の後ろに新しい壁が生まれている。
 埒があかない!

大翔「ぉう!?」

 ばちん! ゴムのはじけるような音。壁が弾け、衝撃波で飛ばされる。
 おっと。ふぅ、やっぱり足元が凍ってると着地もバランスがとり辛いし止まり辛い。予想より少し距離が離れてしまった。まあそのおかげで追い討ちの一撃は頬を掠める程度の被害で済んだのだが。
 にしても、厄介だなあの壁。なんとなく構造は理解できたが。
 ミルフィーユという洋菓子があるが、大体あんな構造だ。幾つもの薄い壁が重なり合ってまるでひとつの壁のようになっている。一枚一枚の強度は並ではないが貫けないほどではない。しかし、貫いた先から次々に新しい壁が生まれてしまうのだ。

大翔「もっと一撃に力を込めないと駄目か……今のも全力だったんだけどな」

 出力で言えば今の一撃以上のものは出せないだろう。だから後は、その力をどう伝えるか、だ。
 今の俺は拳の面に載せて魔法を放っている。それで貫けない以上、力をさらに小さく細く一点に集めるしかないか。問題は、腕が持つかどうか。
 拳は先の衝突で血塗れになっていた。あの壁の反発力というか、触れたものを弾く力のおかげだろう。

大翔「まあ、やるしかないんだし、な」

 氷を割り砕かんばかりに踏み抜いた。襲い来る氷の刃を魔法で撃ち落とす。血のあとが筋を引いた。

大翔「二撃、必倒!」
乃愛「砕けるかな、私の意志を!」

 足を止め、体が氷の上を流れるのに任せながら構える。足を大きく振り上げ――叩きつける! 氷は粉々に砕けず、貫いた先にある床を力強く踏みしめる。
 体の中心を痺れるような衝撃が走る。自分が今確かに地に足を着いている実感。足場がしっかりしているだけで体術の威力は何倍にもなる。魔法には関係ないが、今は関係ある。関係させてみせる。

大翔「『貫抜』!!」

 魔法を拳の中央一点に全て集める。膨大な力が凝縮され、本来不可視であるはずなのに陽炎のように空間が揺らめく。その力の全てを、叩き込む!

大翔「ああああぁっ!!」
乃愛「くっ!!」

 衝撃。ぶつかった力が空間を歪める。全身が細切れになる錯覚。いや、俺は今ここにいる、ここに立っている!
 奥歯を強くかみ締める。氷がバリバリと音を立てて剥がれ、砕かれ、宙に消えていく。荒れ狂う暴風さえも、近寄れない。
 今暴風を巻き起こしているのは、俺の拳と乃愛さんの壁。
 拳の皮が裂け血が飛び散る。空間を暴れまわる力が全身を痛めつける。でも、けど――諦める理由にはならねえ!!

大翔「おおおお!!」

 全身の力を拳に乗せ、押し出す。足から腰へ、そして腕へ拳へ、力が流れるように伝わっていく。その全てを余すことなく前へ前へと進む力へ。

大翔「俺は……絶対に、負けない!」
乃愛「君の勝利即ち、誰もが望まぬ結末となることが理解できていないのか!」

 唇をかみ締める。血があごへと流れた。

大翔「けど少なくとも未来はある。未来があれば、その先を歩けるのなら、希望はある!」
乃愛「希望とは押し付けられるものではなく掴み取るものだ! それは残されたものの希望ではない、君の希望だ!」
大翔「あなたに押し付けられる新しい過去だって同じようなものでしょう!?」
乃愛「だが私はそれを誰かのためだなどとおためごかししたりはしない。私は私のためだけに今ここにいるのだ! その結果君に憎まれようとあの二人に蔑まれようとも、私はそれしかもはや取る道を持たない!」

 壁が、じり、と膨らむ。腕が押される。それでも、体は退かない。

乃愛「君はいつもそうだ。誰かのためだという理由がなくてはその足を踏み出さず、誰かのためだと口にしてその身を煉獄へ投げ出す。それが劣悪だというのだ、たまには自分のためだけに何かをやってみろ!!」
大翔「今だって十分、自分のためだけにやってるんですがね! あいつらが納得しないのはわかってても、こうしないと俺は納得できないんですよ」

 骨に嫌な痛みが走る。腕が生々しい音を立てる。

乃愛「納得するしないではない、自分が何を望むかの問題だ! 君は与えられた選択肢を選んだに過ぎない。だが本当の願いはそうじゃないだろう、選ぶものではないだろう! 聞くぞ、君は本当に、私を殺してでも生きてみたいとは思わないのか!? 彼女とこの未来を生きてみたいとは思わないのか!!」

 喉が震えた。心が叫んだ。

大翔「生きたいに、決まってんだろうがぁぁぁぁっ!!!!」

 腕が捻じ切れた。そう思った。しかし現実は、拳を捻るように突き出し、突き出された拳は壁を貫いていた。貫かれた壁は砕け散る。
 光の壁は、夜空へと溶けて消えていく。
 ああ、綺麗だな。
 星が、月が、夜空が、世界が。
 涙が出るくらいに、綺麗な世界がここに在る。
 無音の世界で、壁を貫いたのとは逆の拳に、魔法を込める。
 二撃必倒、貫螺旋。親父が唯一技として俺に教えてくれたもの。それを、呆然と立つ乃愛さんに――その奥の世界に打ち込むためにっ!?

大翔「んなっ!?」

 半歩、前に出た。その瞬間、氷を踏みつけた俺はぐるんと体を捻り、勢い良く何もない空間に魔法を撃ち出した。
 どん、と。空間が音を立て、人影が跳ねる様にそこから飛び出した。

大翔「ってぇ!」

 しりもちをつく。受身も何もあったもんじゃない。
 ったく、危機一髪とはこのことだ。
 現れた人影――乃愛さんは離れた場所に倒れていた。先ほどまで俺が戦っていた乃愛さんは、今もそこに立っている。実体を伴って確かにそこに存在している。立ち上がり、ためしに触れてみる。肌は人の体温をもっているし柔らかい。作り物なんかじゃ、ない、よな?

大翔「これは一体、なんです?」

 俺は倒れたほうの乃愛さんへ尋ねる。どちらが本物の乃愛さんなのかは疑問を持つまでもなかった。

乃愛「……世界に『錯覚』をかけたんだよ。私がもう一人存在する、という錯覚をね。礎のおかげだね。ま、たとえ礎がなくともできないことはないけれど」

 つまり自分はすごいって事を言いたいのか、この人。

大翔「そんなことができるのなら、最初から親父達もそうすればよかったんじゃ」
乃愛「駄目だな。その乃愛はあくまで私の模倣だ。それに所謂魂? がないからね、私が維持しなければそんな風に棒人間になってしまう」

 俺はもう一度二人目の乃愛さんを振り返る。顔に浮かぶ表情は無機質で、先ほどまでの人間性など微塵も存在しない。
 マネキン……ってよりは、蝋人形だな。ただ感情がなくなり生気がこそげ落ちただけでやたらと不気味だ。
 それも、さらさらと小さな粒子となって消えていった。

乃愛「それにしても、どうして私の居場所がわかったのかな? いや、その錯覚が私でないと気付いた理由を教えてくれるかい」

 あらゆる状況を予想するのがこ乃愛さんという人物だ。そりゃ、俺が壁を突破したのは予想外だったろうが、その程度の事実で自失するとは到底思えなかった。
 あと乃愛さんの居場所がわかった理由だが、あれ、偶然。まあ性格からして後ろでニヤニヤしながら見てるだろうとは予測できるけどそれがどのあたりだとかなんてとてもとても。

大翔「というわけで、まあ無理矢理氷を踏んでとにかく背後を貫くかーみたいな感じで」
乃愛「やれやれ、君も運がいい……いや、悪いのかな。それが外れていれば、君は生きるために私を殺す覚悟を決めることができたかもしれないというのに」

 そう呟く乃愛さんの表情は。
 なんというか、本当に。
 悔しそうだった。
 ああ……この人は本当に、優しい、人なんだ。
 自分の存在が世界を滅ぼすようなものになって果たしてどれだけ苦しんだだろう。その上で自分に何ができるのかを考え、自分のやりたいことを考え、その上で俺のことまで考えてくれた。真剣に悩んでくれたと思う。
 だから少し、心苦しい。
 俺は宙に浮かぶそれを――淡く薄緑色に輝く光を睨みつけた。世界の礎。こんなもんを生み出した馬鹿野郎を口汚く罵りたい。

乃愛「まったく、無茶をするものだね。世界の礎の内部機構『のみ』に干渉するなんて。君はそれを手に入れていないからわからないだろうが、今の礎はもはや――いや、何も言うまい」

 遠く、どことも知れない場所から響いてくるのは大地がその身を揺する声か。学園も少し揺れている。いずれはもっと大きな揺れが襲うだろう。
 すぐにでも礎を収めなくては。
 この身の内に。
 俺は限界の近い体を引きずるようにして、礎を目指す。ああくそ、しんどいなぁもう。けどそれももうすぐ終わりだ。永遠の終わりだ。
 そう思うと、記憶の箱がひっくり返されたみたいに色々なものが溢れてきて――それを、無理矢理押し込んだ。
 一歩一歩を踏みしめるように歩く。傷口から流れ出る血液の一滴一滴が、俺の命が流れていっているみたいで不謹慎だが、笑えた。
 それでも、歩くことをやめはしない。
 そして、後一歩で手を伸ばせばたどり着く、というところで。

乃愛「なぁ、ヒロト君」
大翔「はい?」

 その声はどこか満ち足りていたのに、酷く、悲壮な響きを持って耳に残った。

乃愛「君はそうしなければ生きられないというけれど……実際私も似たようなものだが……でも、思うんだよ。人はもっと単純に生きていけるはずだと」

 目の前の礎の光に遮られ、乃愛さんの表情は見えない。

乃愛「生きる理由に苦しむ私たちは、逃げている、目をそらしているんだね。現実から、己の見たくない世界から逃げている。私たちはこの世界にいながら、世界をまっすぐに見ることができない。とんだ不良だな、私たちは。子供なんだよ。学校に行きたくないと引きこもる子供と同じだ」

 乃愛さんの言葉は熱を帯びているというのに、冷静だった。何かを必死に伝えようとしている?

乃愛「自分の思い描いた夢の中に体を縮こまらせ、己の願いに縛られて生きている。そうすれば自分が夢見た世界だけを見て生きていられるからね。しかしそれでは、こんな風に絶対に何かを犠牲にしなくてはならない時に我々は選択を迫られる。何を捨てるか、何を諦めればより完璧な形で自分の望む世界を残せるのか、をね。いやいや醜い話だ、進歩しない人間というのは得てして無様だな」

 俺は何も答えられなかった。理解できなかったからじゃない。もしそうならどれだけよかったかな、ほんとうに。つまりは俺は彼女の言うことが理解できてしまったから、何も答えられなかった。
 ああ、そういうことなんだ。なんだよ、一番どうしようもないのは結局、俺じゃないか。
 守るだのなんだの言っておきながら、自分のためだとは自覚していたが、結局俺が守りたかったのはみんなじゃなくて俺の願い。いや、それも微妙に違うか。願いが守られる世界、それが俺が守りたかったもの。
 願いを叶えることさえ放棄してしまった、それが俺が戦う理由だった。

大翔「つまり俺は、願いが叶っている世界に浸っていたかっただけなんですかね」

 願いを叶える為じゃない、願いが叶った状態を維持したかった。なるほど、いつまでたっても進歩しないわけだ。

乃愛「私たちはそういう生き方をしてきた、ということさ。まったく、この歳になって初めてそんなことに気付くなんて私もまだまだだな」

 そのため息は何に対してのものなのか。

乃愛「ほんの少しの覚悟でよかったんだ。願いを叶えるために失う痛みを受け入れる、その覚悟があればそれだけでもっと私たちは単純に生きていけたはずだよ。生きる意味なんてね、本当は悩むようなものじゃないと私は思う。悩めるようなものでもないと思う。なんていうかね、今の私としては『知るかそんなもの』という気分だよ。打ちのめされて気が晴れたのかな、願いを砕かれたというのに、今なら何でもできそうな気さえする」

 気が晴れたという割に、声にはどこか暗いものが沈んでいた。

乃愛「ヒロト君。私が文化祭の時に言った言葉を覚えているかい?」
大翔「え? ええと……うーん、それって『私のものは私のもの~』ってヤツですか?」
乃愛「ぷっ! ああそういえばそんなことも言ったかな。まあいいさ、それも今にわかるから」

 乃愛さんの言うことがいまいち良くわからなかった。
 確かあの時期はエーデルが来て美羽がユリアと何をしているのかが気になってきてたんだっけ。それでそう、乃愛さんのところに相談にいったんだよな。

乃愛「君の魔法で、世界の礎は機能が狂ってしまっている。もはや誰かに宿らせ、その人物ごと君の魔法で打ち抜くかあるいは封印するか、とにかくそういう手段でしか壊せなくなっている」

 なぜか唐突にそんなことを説明しだした。まあ俺としては、俺の魔法で貫けるのなら問題はないんだが。

乃愛「まあ、なんだ。苦労をかけるし本当は頼めたものでもないのだが――後は頼むよ」
大翔「え?」

 頼む? 何を?
 けど乃愛さんはそのまま何も言わなかった。眠ってしまったのかもしれない、声に疲れた様子が出ていたし。
 俺はしばらくその場に立ち尽くしていたが、すぐに考えを打ち切った。
 時間はないんだ。乃愛さんが礎と同化してからすでに世界の強度は限界が近かったし、今こうして礎を放っておくだけで世界にどれだけの被害が出るのかわかったもんじゃない。
 俺が、止めないと。
 乃愛さんの残した言葉が、耳の中で響く。
 俺達はは、もっと単純に生きていける。願いに縛られず、それに固執して生きるなんて真似しなくてもいい。
 それはそうかもしれない。でもやっぱり、俺にできるのはこれしかないと思う。今俺がしないと、この世界が終わってしまうんだ。何もかもが無くなってしまう。それだけは俺の願いがどうとか関係なく許容できるものじゃない。
 だから。

大翔「ごめん、みんな」

 ああくそ、今更思う。何で俺はこんなことしてんだろ。やりたいことがないわけない。山ほどある。その全部を放り出してみんなを守る。俺にはその意志を折ることはできない。
 でも。
 それでも。
 もっと一緒に、この世界で生きてみたかったなんて、思わずには――


大翔「――あ?」


 衝撃。途端に苦しくなる呼吸。両足から揃って力が抜け、膝をついた。

大翔「いし、ず、え」

 手を伸ばす。届かない。後一歩が足りない。その一歩を踏み出せない。
 なん、だよこれ。おいちょっと、なあ。

大翔「が、ふっ!」

 喉が、何か、どろりとしたものが逆流して。あ、鼻の奥を血の臭いが。え、何これ。
 左手で胸に触れる。右の胸。熱い。光の刃が突き立っている。
 い……たい。痛いのに、痛くない。痛みが限界を通り越して感覚が麻痺している。ただ、焼けるような感覚。熱い。胸に全身の熱が集中したみたいだ。
 喀血。咳き込むと胸が痛む。あれ、だって。
 倒れた体で、首だけを、どうにか背後に。まわし――え?
 なん、で?

大翔「ゆ……り、あ?」

 血と共に吐き出されたのは、荒い呼吸を繰り返し、顔を伏せ右手を突き出した。
 月の似合う、少女の名前。

 ああくそ。
 息。できな――



――君のその生き方は、いずれ自分の大切な人と決定的に衝突することになるぞ。
ツールボックス

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