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 目を覚ますと暗闇だった。頭が重いのは二日酔いでもブラックジャックで殴られたせいでもない、ただの睡眠
不足だ。カーテンを開け、部屋に光を入れる。朝の陽当たりは悪い部屋だが、身支度をする程度には明るく
なった。欠伸をしながら髭をあたり、背広に袖を通す。昼間の仕事というのは、こんな風に始まるものだ。


 出社前に一度家を出て、近所のコーヒーショップのチェーン店まで歩いた。朝ならコーヒー一杯に、無料で
トーストと茹で卵が付く。独り暮らしのサラリーマンとしてはそれでも少々贅沢な朝食だが、まあ、気晴らしの時間だ。
 席に通された俺のところに、元気のいい若いウェイトレスが注文を取りに来た。コーヒーを頼む。

「今のお時間ですとモーニングサービスとしてトーストと茹で……」

「ああ、頼む」

「卵の茹で加減はいかが致しますか?」

俺が密かに楽しみにしている瞬間である。俺は人差し指を立て、答えた。

「ハード・ボイルド」

隣のテーブルの紳士がコーヒーを噴き出す。仕方ないだろう、人生でハードボイルドを注文できる場面など、
茹で卵を頼むときの他に無いのだから。だが、この日は様子が違っていた。

「は?あの、卵の茹で加減なんですが……」

この娘は新人らしい。

「よし、それじゃハードボイルドを日本語に訳してみよう」

「えっと、ハード、固い?ボイ、ぼい……?」

彼女は困り果てている。

「オーケイ、わかった、悪かった。……半熟で頼む」

隣のテーブルの紳士はまたコーヒーを噴き、今度は激しく咳き込んでいる。

「かしこまりました!」

ウェイトレスは必死で取り返そうというように元気よく応え、厨房に引っ込んでいった。もう少しでいい、英
語を勉強しておいて欲しい。


「あれっ、波的さんまだ歯磨きしてたんですか?さっきからもう20分くらい経ってますよ」

 昼休み、会社の給湯室で歯を磨いていた俺に話しかけてきたのは庶務の女の子だ。確かにさっきもすれ違っ

た。高卒で2年目だから、まだ未成年?その若さが眩しい。俺は泡を吐いてから答えた。

「そりゃそうさ。セールスマンは歯が命だからね」

「へぇ、そうなんですかぁ。たしかに歯が白い人ってグッときますよねぇ」

ガムのCMのパロディだったのだが、わからなかったようだ。思えばあのCM、何年前だ?

「それに、8020って知ってるかい?」

「え、何ですかソレ?」

「80歳過ぎても自分の歯を20本残そうっていう標語だよ」

「あ、聞いたことあるカモ……アハハ、波的さんお年寄りみたーい」

「俺はまだ30過ぎだよ。だいたいそんなの、年寄りになってからじゃ遅いだろ?」

「それもそうかぁ。私も気をつけまーす」

「それがいい」
                    ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 
彼女は行った。80歳まで20本。せめて歯くらいは残したいものだ。もっとも、そんなに長く生きられると

は思ってないが。


 午後は外回りとなる。サンプル品の入った段ボール箱を抱えて駐車場に入ると、隅に停まった真っ黒な車が

ヘッドライトを点滅させ、ドアロックが解除されるカタンという音がした。俺の接近を感知して自動で反応したのは
俺の愛車にして相棒、サンライズ号だ。この齢で愛車に名前をつけるのはいささか照れが入るが、こいつの
場合名前が必要になる事情がある。
 しかし外回りは社用車と決まっている。手前に止まっている白いワンボックスのドアを開け、段ボールを放り
込むと、再びドアをロックする音が聞こえた。


 午後八時、仕事を終えた俺が昼間と同じように駐車場に入ると、相棒はドアを開錠しなかった。俺はポケッ

トから鍵を出し、自分で開けて乗車した。この所毎晩この調子だ。

「おい、ヘソを曲げるなよ」

発進させながら俺は言った。独り言ではない。

『自動車が臍を曲げるなどということがあるわけがありません』

答えたのは俺の相棒――そう、愛車サンライズ号そのものだ。相手が喋る車では、名前も必要になる。

「じゃあ何で鍵を開けない?」

『暗かったのであなたに気付かなかっただけです』

「お前は俺を顔で見分けていたのか?俺にはもっと機械判別向けな特徴があるぞ」

『……そんなに白いハイエースが好きなら、それで通勤すればいいんです』

これだ。一般道なら自律運転さえこなすドリームカーは、ある種のケアが非常に面倒だ。

「俺はサラリーマンなの。仕事は社用車と決まって……」

『そんなことより、今日はどちらに?』

「繁華街だ」

『コウジ、毎晩毎晩遅くまで……私は酔っ払い(ドランカー)を運転席には乗せませんよ』

「一人で来て酒を飲まない客なんて目立っちまうだろ」

『知りませんよ、そんなことは』


 ライムジュースの水割りの後店を変え、軽食屋でスコッチの代わりにスコッチエッグを頼み(こいつは頼む

までも無くハードボイルドだ)、中華料理店で遅い晩飯に五目ラーメンを食べたが、探している情報は見つか

らない。更なる裏通りを目指して、俺は細い路地に入った。ネオンサインや電飾看板は急速に減り、街灯すらまばらになって、俺は俄かに薄闇の中に放り出された気分になる。そのときだった。

「おい兄ちゃん、誰の許可得てチョロチョロ調べまわってるんだ」

振り向くと、一目でやくざものとわかる四人の男がいた。声をかけてきたのはNo.2と見える、特に目つきの悪い男だった。

「この街じゃ人探しにも仁義を通さなきゃいけないのか?俺はあんた達の商売の邪魔はしてないつもりだが」

面子を潰す、商売の邪魔をする。そういった実害がなければ、こういう連中だってそうそう絡んできたりはしないものだ。だが一番年長の、髭の男がぐっと顔を近づけてきて言う。

「何処のもんだ?」

「誤解ですよ。俺はカタギです」

髭の男が顎をしゃくると、ひょろりと背の高い蛇のような男が素早く後ろに回り、俺の両腕を取った。

「本当のカタギはな、俺達にそんな口の聞き方はしねえんだよ。独りでバーに来てジュース飲みながら、機族

について聞いて回ったりもな」

最初から見られていたわけか。髭が言うと、今度は一番若く、一番生え際がヤバイ奴が前に出てきた。いつで

も殴れる、というように腕をぶらぶらさせながらにやついている。

「わわっ、ちょっと待って、顔は許して。商売道具なんだ」

「何だ、兄ちゃんジゴロか何かなのか?」

「いえ、セールスマンです。女性用下着の」

「やれ」

 間髪いれず、若いののパンチが俺の鳩尾にめりこんだ。同時に後ろの蛇男が手を放してくれたので、俺は素

直に体をくの字に曲げてうずくまる。背中や脇腹に次々に蹴りが降ってくる。俺は頭だけは両腕でかばいながら、ひたすら耐えた。

「許してくださぁい、本当にただのセールスマンなんですぅ」

悲鳴を上げても、キックの雨は止む気配がない。どうもこういう場合は黙っている方がいいようだ。俺が反応

しなくなると連中も飽きたのか、雨はまばらになってきた。髭男がうつ伏せになっている俺の腹に足を差し入

れてひっくり返すと、思い切り俺の顔を蹴った。俺はそのまま転がってごみ袋の山に突っ込み、崩れてきた山に埋まる。

「これに懲りたら、つまんねえ探偵ごっこはよすんだな、下着屋」

 それでお開きになり、連中は帰っていった。結局顔を蹴りやがった。まったくひどい奴らだ。ごみの山から

起き上がり、血の混ざった唾を吐く。顔が腫れているのが自分でわかるが、歯は折れていないようだ。腕や足

なら何本折ってもらっても――もし折れるならだが――構わないが、「俺の体」をこれ以上欠けさせるような

事があったら、連中を生かしておく自信がない。そして、俺は人殺しになるのはごめんだ。
 さて、怖いおじさん達の言うことに、その日のうちから逆らうでもあるまい。良い子はそろそろ寝る時間だ。
俺、良い子。もう一度赤い唾を吐き、大通りに出て、サンライズの置いてある駐車場に向かった。


『私はドランカーは乗せないと言いましたよ』

「パンチ・ドランカーってか?せめて飲んでたら連中に目を付けられなかったかもしれないんだぞ。いいから

乗せろ」

サンライズは無言で運転席のドアを開けた。エンジンをかけ、安全運転を心がける。スピード違反ででも捕ま

ったら、飲まなかった意味が無くなってしまう。

『コウジ、大丈夫?』

「ああ、顔に一撃もらった以外は、背中で受けたからな。ただ、明日の仕事どうするかなぁ……この顔」

『……ごめんなさい』

「素直になるなよ。おかげで俺は今日二つのことを学んだよ。一つ、やくざと話すときはビビらなくてはなら

ない」

『もう一つは?』

「取っ掛かりが無いときは、目立つのも悪くないってことだ」

 上手くごまかしたものだが、俺を襲ってきた理由はうやむやのまま――うやむやにしなければならない理由

があるという訳だ。尻尾を掴んだ。その尻尾はあっという間に俺の手をすり抜けていったが、別に構わない。

近くに尻尾があることがわかれば、今日のところは十分だ。


「波的、お前その顔どうした!?」

 いつも通り定時ぎりぎりで出社した課長は、それまで誰も訊けなかったことを甲高い大声で尋ねてくれた。

まったくこの遠慮の無さが今は皮肉でなしに大好きだ。同僚のみんなは気になって仕方ないくせに誰一人話し

かけてこないのだから。

「街で暴漢に襲われました」

「マジか!それで……大丈夫か、仕事は?」

彼が心配しているのはそこだ。半端に優しい振りをしない所が素晴らしい。

「お得意さんに納品くらいは大丈夫でしょうけど、この顔ですからね、飛び込みは無理じゃないかと……」

「だろうな。今日は早退にしてやるから、納品終わったら帰れ。どうせまだ医者にも行っとらんのだろ」

「そうさせてもらいます」

「養生しろよ。顔の良いのだけがお前の取り柄なんだからな」

まったく俺は上司に恵まれたものだ!



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最終更新:2011年12月08日 11:53