463(雄略天皇7年) 吉備氏の乱
吉備上道臣田狭(吉備田狭 きびのたさ)が新羅と結託して朝廷に起こした反乱。
雄略天皇が吉備田狭の妻を田狭が任那に出兵している間に奪ったためだと日本書紀に記載されている。
朝廷は吉備田狭の子、弟君を討伐に向かわせるも吉備田狭に寝返った。しかし、弟君はその事を知った妻樟媛に殺された。反乱は失敗したが、吉備田狭は生き残った。
星川皇子の乱
その後、稚媛は雄略天皇の子星川稚宮皇子を産み、雄略天皇の死後に皇子を皇位につけようとした、星川皇子の乱を起こした。吉備上道臣らはこれに水軍40艘を率いて来援したが、皇子の敗死により引き返した。
527(継体天皇21年) 磐井の乱
朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野(おうみのけぬ)率いる朝廷の軍の進軍を筑紫国造磐井(つくしのくにのみやつこいわい)が阻止、翌528年(継体22)11月、物部麁鹿火(もののべのあらかび)によって鎮圧された戦争。
592 推古天皇即位
飛鳥の豊浦宮(とゆらのみや)に即位。のち小墾田宮(おはりだのみや)にうつる。593聖徳太子が摂政になる。
594 仏教興隆の詔
603 冠位十二階 → 聖徳太子の政治
604 憲法十七条
607 小野妹子が隋へ行く
610 曇徴が来日 → 遣隋使
614 犬上御田鍬が隋へ行く
620 天皇記、国記、臣連伴造百八十部并公民等本記を編修。
622 聖徳太子亡くなる
643 山背大兄王事件
蘇我入鹿に斑鳩宮を攻撃され自殺。
645 大化の改新(乙巳の変)
→白鳳時代へ
最終更新:2007年11月08日 22:08