ブレイクダンスについて
ブレイクダンス(breakin')はオールドスクールに分類されるストリートダンスの一つ。
ブレイクと略されたり、原語のブレイキンとも呼ばれる。B-boyingやB-girlingとも呼ばれ、このダンサーをB-boyやB-girlと呼ぶ。B-boy、B-girlの“B”はbad(不良)やblack(黒人)の“B”と認識されがちであるが、これは間違いである。頭文字のBについては一般に
ブレイクビーツに合わせて踊るダンサーからとされるが、ブレイクダンス起源のブラジル、ヒップホップ創世地ブロンクスなど諸説ある。
「ブレイクダンス」という日本での呼称は、1984年の映画『ブレイクダンス(原題:Breakin')』公開に伴い、一般に浸透した。
ヒップホップ四大要素の一つ。
起源
ブレイクダンスは1970年代にニューヨークのサウスブロンクス地区のアフリカ系アメリカ人やラテンアメリカ人の若者達によって発展したストリートダンスのスタイルである。また、遊牧民族が領土の抗争をまとめる為に銃撃戦の代わりブレイクダンスのバトルを用い、発展に繋がったと言われている。
後に、ニューヨークのロックステディークルー(Rock Steady Crew)などのクルー同士による大規模な抗争がメディアの関心を受け、これがダンスチームの急速な成長へと繋がった。ディスコクラブやテレビ番組、公のイベントなどにもブレイクダンサーは進出していった。過剰な人気は1980年代前半には色褪せ、一時下火となったが、アフリカの民族舞踊や、ガンビア共和国、マリ共和国などの舞踊、アフリカの格闘技であるカポエイラの動きなどが取り入れられ進化していくうち、後半になると盛り返した。現在ではBattle of the YearやUK B-Boy Championships、Free style session等の世界大会も行われるようになっている。
音楽
音楽はブレイクダンスにとって大切な要素である。ブレイクダンスの音楽であるブレイクビーツの元となった原曲は、1970年代から1980年代頃のジャズ、ソウル、ファンク、エレクトロファンク、ディスコミュージック、R&Bなどの間奏に見られる。これらの異なった曲をDJが編集し、1分あたり110〜135ビートに編曲されたものが用いられる。この手法はDJクール・ハークにより生み出された。 ビートの速度やパターンの条件が満たされる限りは音楽のジャンルはヒップホップに制限されず、異なった音楽のジャンル(クラシック、オペラ、ロックなど)からも使用される。
ファッション
B-boyのファッションは個性であるとともに、機能性と密接に関わっている。
まず靴としては、軽量でよりグリップ性、耐久性があるもの(主にスニーカー)が求められる。頭にかぶるものは特にヘッドスピンなどのパワームーブから頭を保護したり、動きを容易にする為にニット帽やヘルメットが用いられている。またこれらの下にバンダナを巻くことによって、髪が引っかかる不快から守っている。
1980年代のB-boyは分厚く、しっかりとした型のアディダスやプーマ、フィラなどの紐靴を履いていた。また、B-boyはより機能的でオシャレなものを身に着けるようになっていき、摩擦の少ないシャツや、フードのついたもの、個性的なものを着ていた。またアイテムとして、大型のラジカセやストリートでの公演に使う段ボールを持ち歩いていた。また、あえてこれらの外観と違った格好をして目立つ為に、ロックミュージシャンのような格好をするものもいた。 クルーでの一様性や連帯感を出すために帽子やシャツ、靴を合わせて、相手に対する威嚇や主張にも使われた。また、現在も同じようにクルーで統一するところは多い。
最近ではブレイクダンスの進化に伴って(上半身の動きが多くなり)それほどだぶだぶでない服装が一般的になってきた。
現在ではプーマやトライバル(TRIBAL)などブレイクダンスを支援するブランドもある。これらは多くのブレイクダンスイベントも後援している。
日本のブレイクダンス
80年初頭に映画「フラッシュダンス」や「ブレイクダンス」によって日本に広く知られたといわれる。その後アイドルとしてデビューした風見しんごが歌番組でブレイクダンスを披露、さらに広く認知されるようになった。この時期に活躍していたチームとしては、岡村隆史が所属していた大阪のAngel Dust Breakersなどが有名。その後The Spartanic Rockersや大阪のBronx、東京の早稲田Breakers、茨城の回転倶楽部などの活躍により徐々にシーンは拡大していき、The Spartanic Rockersが世界大会Battle of the Yearで好成績を残したことにより、2000年には日本予選であるBattle of the year Japanも開催されることになる。TV番組「RAVE2001」などもダンスの普及に貢献した。TV番組のコーナー「ダンス甲子園」などを経て、Battle of the year Japanの開催、TV番組少年チャンプルなどが放映される。
現在ではCM、PVなどで目にする機会も増え、駅構内やビル前、学校の文化祭などで見かけることも増えた。大阪のJR難波駅にあるOCATはブレイクダンスに限らず、日本のストリートダンスのメッカとして広く知られている。
しかし公共の場である駅やビル前で大音量で音楽を流したり、道を塞いだり、ゴミを散らかして帰ったりするモラルを欠いたダンサーも多く現れ、そうしたダンサーの為にダンス禁止といった看板が掲げられている駅などが増加傾向にある。またB系といった誤用が示すように、日本ではヒップホップファッションがいわゆる不良少年のファッションとして定着していることもあり、一般の人からはダンサーもモラトリアムグループと同一視されがちである。
世界のシーン
アメリカではNYC.BREAKERSなどがメディアで活躍しアメリカ国内でブームを巻き起こすも、ブームは去ってブレイクダンスは下火になる。この間ブレイクダンスはヨーロッパにも伝わり人気を得ることになる。1990年にはドイツで世界大会Battle of the Yearが開催されるまでになり、アメリカでも人気を盛り返す。90年代、現在のブレイクダンスの基礎を築いたRock Steady CrewのPrince Kenswiftの影響を色濃く受けたアメリカのSTYLE ELEMENTSはブレイクダンスを一つ上のレベルまで押し上げたと言われ、現在のシーンにも多大な影響を与えている。
2000年代に入り、今まで見たこともないムーブをするB-Boyがフランス・韓国から次々と登場し世界に衝撃を与える。韓国・フランスの代表チームは著名な世界大会のタイトルを次々と獲得し、一躍世界でも確固たる地位を築く。こうした活躍により韓国ではブレイクダンスがかなりメジャーな存在になりつつあり、プロとして活躍しているダンサーも多く、プーマのような大企業がスポンサーを努めていることもある。さらにイベント会場もクラブのようなアンダーグラウンドな場所ではなく、一般のホールなどを借りて行われることが多い。
その他の地域でもシーンの広がりはめざましく、北アメリカ、ヨーロッパ以外にも、東アジア、東南アジア、西アジア、アフリカ、オセアニア、南米など、現在ではB-boy B-girlは世界中に存在するといっても過言ではない。現にBOTY参加国も年々増加している。
最終更新:2009年02月11日 23:52