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イマヌエル・カント『道徳形而上学原論』岩波文庫

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August 23, 2005

イマヌエル・カント『道徳形而上学原論』岩波文庫

読了
字面を追っただけというのが正直なところ。薄いのに。
人間精神をアポステリオリな経験的部分とアプリオリな理論的部分に分け、経験的部分を一切排した純粋にアプリオリな形而上学レベルの道徳原理を導いた後に、それを実践的な道徳法則に移行させるべきだという発想のようだ。そして、そのアプリオリな道徳法則は、人間の持つ純粋理性、「理性的存在者」の側面から自然に(他の目的のための手段としてではなくそれ自体を純粋な目的として)導かれるものでなければならない(仮言的命法でなく定言的命法でなければならない)といっている。さらに、「理性的存在者のみからなる世界」において、理性というものが(論証不能でありながらも)至上のものであることが当然の前提である以上、理性的存在者同士は相互の人格を手段ではなく目的として扱い、尊敬しあわなければならないという、「目的の王国」論が導かれるという。また理性的存在者の条件は、純粋な理性と自由と意思である、存在者を規定する原因性は、内的ないし及び自由と外的な自然必然性である、云々といった定義や命題が提示されている。
人間にできるだけ客観的・究極的に妥当な道徳法則をいきわたらせ、よりより社会(ユートピア)を実現するためのこの道徳法則の探究の中でカントが採用した方法は、世俗的な知恵とも言うべき倫理道徳をいったんすべて排除した上で、(固有の人間性すらも捨象された)純粋な理性、形而上学的論理のレベルにおいて最も根源的な倫理法則というものの存在を(実在立証不可能なのを承知の上で、いや、むしろ承知しているからこそ)仮定し、その<究極的な倫理法則>に対して、人間の「理性的存在者」たる部分は無条件にしたがうことを欲せざるをえないし、そうだからこそ、当該法則はアプリオリな道徳法則たりうる、と述べた上で、そのような純粋理性的な形而上学的道徳法則への敬意を、「理性的存在者相互の尊重」=目的の王国という主張に結びつけ、純粋理性的に道徳的たらんとする人々がお互いを尊重し合い高めあおうとするような社会像を理想化して描き出す方法のようである。
以下の2点が大きな問題点。
1)純粋にアプリオリに没経験的な道徳法則は、存在しがたいか少なくとも発見しがたい上に、著者の挙げる具体例はどれもアプリオリに普遍的な道徳法則とは到底呼べないようなものばかりである。
2)現実社会を構成する大多数の人は、「理性的存在者」たる部分が極めて乏しい上に、それを尊重しようという意欲に乏しい。このような現代社会において、彼らを啓蒙する具体的方策を示すこともなくただ理想論だけを羅列してもむなしい。
要するに、ここに書いてあることを私が実践しようとしても、具体的に何がアプリオリな普遍的な倫理法則であるのかがさっぱりわからない上に、周囲の人々を「理性的存在者」と認識し、あるいはそうでない人をそのように教化しようとしつつ自らも理性的存在者として日常生活を送ることは不可能に等しい。
この本にはそういう具体的な方法論が全く書かれていない。標榜すべき理想としては究極的であるにしても、心の中の抽象的指針という以上の有用性を持っていない本であると思った。
ウィリアム・ジェームズが「純粋経験の哲学」で叩いていたが、その理由がなんとなくわかる気がした。この両者を止揚すればちょうどいいかも知れない。もっとも、ジェームズ自身の本は「純粋経験」理論からなんらの具体的倫理則を導いたわけでもなくただ批判するにとどまっていたから比較にならないほど無用なのであるが。
この本の内容を詳細化したという『実践理性批判』にはより詳細なことが書かれているのだろうか、暇があれば検証してみよう。ただ、いずれにせよこのカントの道徳哲学、現在社会の倫理を考察する上での実際的な有用性は存外乏しいと思う。
テーマ性 ★★★★
奇想性  ★★★
物語性  ★
一般性  ★★
平均   2.5
文体   ★
意外な結末★★
感情移入力★
主観評価 ★1/2(19/50)
silvering at 22:20 │Comments(0)読書
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