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犬カミ☆!」(2007/12/13 (木) 17:26:25) の最新版変更点

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――よし、いまのうちだ! ――ねえ、やっぱり…… ――なにいってるんだよ、クーちゃん! ――だって、イチくんがおこられちゃうよ…… ――だいじょうぶだって、みつからなければいーんだから! ――でも…… ――でももへちまもないよ、ほらっ! ――あっ……あかるい ――だろ? ちゃんとそとであそばないと、おおきくなれないんだから! ――うん……ありがとう、イチくん ――ありがとう―― 「市郎様、市郎様」 「――ん」 「市郎様、こんなところでお休みになっては、風邪をひいてしまいます」  恭しく名を呼ばれた青年は、机から体を起こした。物憂げに目をこすり、時計を確認する。 「あぁ、すまない。もうこんな時間か。すっかり居眠りしてしまった」 「何か飲むものを」 「いや、いいよ」  彼を起こした女性が書斎を出ようとするのを引き止め、脇に置いてある、すっかり温くなってしまった緑茶を飲み干す。 「……あの、市郎様」 「なんだい?」  女性は少し言いよどんだ後、 「顔色が、少し悪いように見受けられます。お辛かったら」 「辛かったら?」  女性の言葉を遮ってそう言い、後悔する一郎。彼女に当たったところで、事態は好転するはずもない。  すっかり萎縮してしまった彼専属の秘書――名は白華(はくか)という――に、なるべく優しく声をかける。 「大丈夫、少し、夢見が悪かっただけだから。心配してくれてありがとう」 「はい」  ほっとした白華の気配。何をやってるんだ僕は、と心の中でため息をつく。 「あの、それで……」  言いよどむ白華。懐から恐る恐る、上等な和紙の書状を取り出した。 「君の様子から、大体内容がわかるな」  彼女から書状を受け取る。内容がわかっていても、それがどんなに気に食わない内容であっても、読まなければならない。  彼は犬神を使役する武力集団『宮代』の当主であり、その書状は当主の輔弼機関である長老会議によって決済されたものであるからだ。  事の発端は、25年前。  ある犬神が黒い仔を出産したのだ。  宮代の犬神は例外なく白い毛皮を持って生まれてくるはずだが、その仔はまるで鴉のような、漆黒の毛皮を持っていた。  千年を越えんとする宮代の歴史でも、このようなことは例がなかった。不吉だ、呪われた仔だ――と、その仔は長老会議の手で母親ともども秘密裏に幽閉されてしまった。  その仔を取り上げた産婆も始末され、母子共に薄暗い蔵の中で一生を終えて歴史の闇に葬られた――はずだった。  18年前。当主の長男である市郎が蔵に忍び込み、1人さびしくうずくまっていた仔を外に連れ出したのだ(その頃、母親は既に死んでいた)。  幼い市郎にはなぜ女の子が蔵に閉じ込められているのかわからなかった。ただ単純に、女の子の笑顔を見たくて外に連れ出しただけだった。  お互いを“クーちゃん”、“イチくん”と呼び合うほどに仲良くなった2人だが、幸せな時間はあっという間に幕を下ろした。  大人にばれたのだ。  市郎はこっぴどく叱られ、座敷牢に軟禁された。彼はまだ良い。少女は――その頃から“黒”と呼ばれるようになった――次期当主を誑かしたとして、折檻が加えられた。  市郎は泣き叫んで座敷牢で暴れたが、程なくして「“黒”は死んだ」とだけ伝えられた。  彼の淡い恋心は、最悪のかたちで叩き潰された。 (――と、そこで終わらなかったのは誰にとって幸運で、誰にとって不幸だったんだろう)  内心苦笑しながら、市郎は書状を開いた。  筆書きで、修飾過多の長々とした文がつづられているが、要約すれば以下の文くらいの意味しかない。  宮代を恨み、宮代への襲撃を繰り返す“黒”を、これ以上跋扈させておくわけにはいかない。“黒”が決闘を申し込んできたのは良い機会だ。当主自ら赴き、討伐せよ。 (言う方は、楽だろうよ)  何度も敷地に侵入されながら、討伐隊を返り討ちにされながら、本家が出る必要なし、を繰り返してきた長老会議。ついに宝物庫に進入されて宮代の神器である御神鏡を盗まれて、宮代を賭けた決闘を申し込まれると、真っ青になって全てを市郎に押し付けてきた。 (何を今更、と、言えれば楽なんだろうけど)  書状を無造作に机に置く。  ここまで事態がこじれたのは、有体に言えば政治だ。長老会議であっちの派閥が『”黒”への徹底的な反撃』を唱えれば、こっちの派閥が『牛刀で鶏を云々』と言い出し、そっちの派閥も――といった具合。 結局最後は、本家が出る必要なし、分家を討伐に当たらせよ、に落ち着く。  しかも、長老会議への当主の発言権は無きに等しい。つまりは操り人形なのである。 (それに加え、今回はトカゲの尻尾役もやるわけだ) 「市郎様」  市郎が意識を現実世界に戻すと、白華の不安げな表情があった。 「大丈夫だ、白華」  ひどく適当な物言いであることは彼にもわかっている。それでも、白華は主の言葉で少なからず安堵しているようだから、言わないよりかはましであろう。はっ、流石は宮代当主様の言葉、ということか。畜生。  白華、しばらく1人にしてくれ。ああ、長老衆に伝えて欲しい。見送り不要。約束の前に、少し散策したいから。  白華が退出する。何か思い詰めた表情が気になったが、市郎には1人で考えたいことがあった。  なぜクーちゃんは、決闘を申し込んだ? 宮代が崩壊寸前なのは、きっとわかっているだろうに。  願わくば、僕に会いたいから、であって欲しいな。  雲ひとつない、満月の夜だった。  さらさらと夜風に揺られるススキが、蒼白い月光に照らされ波を形作る。  獣道を抜けた先にあるこの野原は、広さのわりに地元民でも知る者は少ない。  春は桜花、夏は蛍、秋は満月、冬は雪。  四季折々の素朴な、だからこそ贅沢な風情が、この野原には溢れている。 「――かわってないな」  獣道を抜けた市郎は足を止めた。  この場所を訪れたのは十年以上ぶりだが、何も変わっていない。幼い頃の、まるで宝石のようにきらきらした思い出の風景、そのままだ。 「かわってない」  もう一度、味わうように呟く。その呟きは秋風に溶け、消えていった。 「うん、かわってない」  市郎の呟きに、答える声。 「この場所は、何もかわらない。だって、わたしと君の秘密基地だよ?」  野原の中央、人の背丈ほどある大岩の上に、膝を抱えた女性が座っている。 「でも、わたしたちは変わってしまった。イチくんは宮代の親玉、わたしはみすぼらしいコソ泥」 「変わった、のかな、クーちゃん」 「変わったよ、イチくん」  2人は同時に、少し寂しげに笑った。  “黒”は――記憶の中のクーちゃんは、すっかり大人の女性へと成長していた。  おどおどしていた少女の頃の面影はほとんど無い。端正な顔に、すっとひかれた眉が印象的な、素敵な女性になっていた。  無地の白いTシャツに、薄い灰色のジーンズ。追われる理由となった黒い髪は犬耳をよけて後頭部で纏められている。が、肌はびっくりするほど白い。 「確かに、変わった。綺麗になったよ」 「イチくんは、期待してたほど格好良くならなかったかな。なにより、服のセンスが最悪」  “黒”の直球な物言いに苦笑する市郎。  彼の服装は、黒のスラックスに、黒シャツ黒ジャケット、そして、革ベルトに吊った日本刀。お世辞にもお洒落とはいえない。 「でも、昔の面影が残ってる。やんちゃで、やさしかった、イチくんの面影」 「だったら」  駆り立てられるように言葉が出たが、湧き上がる想いがそれを詰らせる。 「だったら、決闘なんてやめよう」  やっとの思いで、それだけを絞り出す。  誰にも言えなかった、心の底の本音。  “黒”が生きていた。この報告を聞いたとき、市郎はどれだけ嬉しかったか。「クーちゃんを見殺しにした」という自責の念が、彼にとってどれだけ深く突き刺さり抜きがたいものであったか。  しかし彼女は今、宮代を害するものとして、市郎の前に立っている。  こんな形の再会なんて望んでいなかった。どうせなら宮代の因習を一掃し、健全な経営と開明的な理念を持った組織へと刷新した後で、胸を張って迎えに行きたかった。  一方、今は伝統と格式にのっとった宮代家の当主である、という自覚もある。現時点では、他にどうすることもできないということも。  わかっているだけに、歯がゆい。  少しの沈黙ののち、彼女は変わらぬ調子で答えた。 「言ったはずだよ。変わった、って」  やんわりとした拒絶。 「もうね、戻れないの。わたしは反逆者。宮代に弓を引き、御神鏡を掠め取った物の怪。 で、君は?」 「……当主。宮代の」 「じゃあ、どうすべきかわかるよね、宮代市郎」  “黒”からの最後通牒。市郎は搾り出すように答えた。 「仇なす物の怪は、例外無く打ち滅ぼす」  その言葉に満足した“黒”は、岩から降りて市郎に近づいてく。 「そう。さあ、決闘だよ。刀を抜いて――」 「――と、言いたいところだけど」  不意に“黒”が歩みを止める。 「その前に、約束を守れない駄犬を叱りつけないと」  市郎は一瞬疑問符を浮かべたが、直後に響き渡った咆哮に、すぐさま事態を悟る。 「駄目だ、白華!」  焦って叫ぶが、犬の姿で野原を切り裂くように疾走する白華には届かない。  渾身の力で跳躍し、“黒”の喉に牙を突きたてる。が――。 「っ――!!」  声にならない悲鳴を上げたのは、白華の方だった。  一瞬の閃き。  反射的に顔を覆った市郎が指の間から見たものは、青白い炎に毛皮を焼かれ、身悶えする白華の姿。 「白華っ」 「――こんな簡単な術に引っかかるなんて、宮代の犬神も劣化したね」  転げまわる白華に駆け寄ろうとした市郎だが、背後からの声に足を止める。  炎の術で立体的な擬似映像を見せる。繊細な温度の調節が必要とされる高度な術だ。  いつから擬似映像にすり替わっていたのか、そもそも最初からだったのか。市郎にはにわかに判別できない。  “黒”は無表情で市郎の横を通り過ぎ、地面に体を転がしてなんとか火を消した白華の傍らに立った。 「狐火か。この恥知らずめ。犬神の風上にも置けない」  毛皮のあちこちを焦がしながら、“黒”に向かって立ち上がる白華。  火術といえば、狐。  特に妖狐とは仲が悪い宮代の犬神にとって、火術の行使は妖狐に魂を売るも同然――と、今にも襲い掛からんという形相だが、“黒”は全く意に介していない。 「やだな、これくらいの火術、狐に習わなくても使えるよ。それより――」  ゆっくりと体を曲げ、白華の瞳を覗き込む。 「何しに来たのかな、お嬢ちゃん」  明らかに侮蔑が含まれた言葉に激昂し、反射的に飛び掛かる白華。が、身を翻した“黒”に頬をしたたかに痛打され、再び地に転がる。 「もう、手癖の悪いコだね。ちゃんと質問に答えてよ」 「貴様……きさまっ」  起き上がりざま闇雲に爪を振るうが、既に“黒”は白華から距離をとっていた。 「貴様のような者に、市郎様を害されてたまるかッ」  再度“黒”に飛び掛るが、今度は逆の頬を一撃され、悶えながら地に転がった。 「やっぱり、そんなことだろうと思ったけどね。これだから忠義ぶった莫迦は始末に困るんだよ」  微苦笑を浮かべながら言葉のナイフを突き立てる“黒”。必死に呼吸を整える白華を一瞥してから、続ける。 「これは正当な――まあ、決闘なんてのに正当性があるかどうかは別にするけど、少なくとも、当人同士が同意の上での決闘だよ?」  “黒”はすっと右手を上げ、人差し指を白華に突きつける。 「お嬢ちゃんは、自分のマスターが信用できなかったの? 負けると思ったの? なんでもっと確実にわたしを仕留めなかったの? 場所も時間もわかっていたのに、どうしてこんなお粗末な攻め方だったの?」  白華は何も言えない。 「自分のマスターを信じられなくて、プライドをかけた決闘に水を差して、あげく不意打ちに失敗して。わたしだったら、恥ずかしくて死んじゃうよ」  顔を背ける白華に歩み寄り、胸ぐらを掴んで吊り上げる。 「わかってるのっ、あなたは三重の意味でイチくんを侮辱したんだよ?!」 「そこらへんで勘弁してあげてくれ、クーちゃん」  見るに耐えられなくなった市郎が仲裁に入る。“黒”は一瞬顔を強張らせたが、すぐにつまらなさそうな表情になり、白華をぽいと捨てて大岩の方へと歩いていった。 「白華、白華、大丈夫か」 「い……いち、ろ……さま……」 「しゃべらなくていい。立てるか?」  白華を抱き上げ、立たせてやる市郎。こういう時は足が4本ある方が良い。 「市郎、さま……、本当に、申し訳……」 「気にしなくて良い。それより、自分の身体のことを考えろ。もう君1人の身体ではないんだから」  驚いた表情の白華。何か言おうとするが、市郎が手で制する。 「さ、早く戻りなさい。頬、ちゃんと冷やすんだぞ?」  市郎に促され、白華はとぼとぼと野原を後にした。 「もっとましなのはいなかったの?」  白華の姿が見えなくなってから、“黒”は背中を大岩に預け、冷め切った声で市郎に問いかけた。 「彼女は良くやってくれる」 「それは公私混同ってやつだよ」  冷めた口調に軽蔑の粒か混じっていることに気付いた市郎は、苦笑いしながら弁明する。 「彼女の恋人は、他にちゃんと居るよ。君が最初の襲撃で左腕をへし折った犬神、彼だ。子どもができたことは隠してたみたいだけど、傍から見てれば」 「どうでもいいよ。そんなこと」  明らかに怒りを湛えた無表情で市郎の言葉をさえぎり、大岩から体を起こす。 「仕切りなおしだよ、宮代市郎」  “黒”の両手には大振りのナイフが握られている。  観念した市郎も、佩いていた刀を抜いた。  静寂は、長くは続かなかった。 「せいっ」  先手は“黒”。鋭く踏み込み、ふた振りのナイフを市郎にねじ込みにかかる。  対する市郎も、刀のリーチの長さを生かし、最小限の動きでナイフを捌く。  呼気と、刃物が打ち、すべる音と、草の擦れる音。  千変万化の動きで攻め続ける“黒”と重厚な構えで防御に徹する市郎のそれは、演武というよりは演舞のような、絶妙な均衡を保っている。  十数合ほど刃を合わせたところで、均衡などまったく望んでいない“黒”が大きく跳んで間を取った。 「……まったくもって宮代的だね。動かざることなんとやら、って」  呼吸を整えた“黒”がさっぱりとした口調で呟く。  彼女のナイフは幾度も市郎をかすめたが、実のところは衣服に触れてもいない。  宮代の人間にとって本当の意味での刃は犬神であり、鉄でできた刃物はむしろ防具として使うように訓練される。防御こそ、宮代の剣の本質だ。 「その刀、確か君津豊根のだね? 物の怪を滅ぼすために刀を作り続けた君津一族の、一番の名工の。よくそんなの持ち出せたね。わたしの火なんて簡単に」 「楽しそうだね、クーちゃん」  妙に饒舌な“黒”をさえぎって市郎が尋ねる。 「? そうかな?」 「復讐、って、楽しい?」  不思議そうな様子の彼女に構わず、無表情で質問を重ねる。 「――復讐は何も生まない、って言うけど、これほど心躍ることなんて滅多にないんじゃないかな」  少し考えてから、“黒”は笑顔でそう答えた。  市郎は表情を変えることなく「そう」と呟き――大きく踏み込んだ。  鋭い突きが“黒”の喉仏に突き刺さる。かに見えたが、僅かに体をひねってやり過ごす“黒”。市郎はそのまま刀を横に振るうが、頚動脈の上を滑ろうとする刀を2本のナイフでしっかと受け止められる。  先程とは打って変わり、市郎の攻めだ。“黒”のように手数は多くないが、重い一撃を的確な場所へ振るっていく。“黒”はナイフ2本がかりで市郎の刀を受け止めることに専念する。  しかし、市郎の刃も“黒”に届かない。  先程と攻守を交代しただけの、危うい舞踏。  悲鳴にも聞こえる金属の音を打ち鳴らしながら、十数合が過ぎる。  今度は市郎のほうから間合いを取った。 「……おかしいな。もうちょっと追い込めると思ったけど」  呼吸を整えて問いかける市郎。打ち込まれていたはずの“黒”は、呼吸も乱さず平然としている。 「気が乗らないみたいだね。稽古のときのほうが、もっと刃が走ってたよ」  市郎の胸に氷塊が滑る。確かに技が冴えないのは認めるが、まるで普段の鍛錬を見てきたかのような物言いだ。 「見てたんだよ、ずっと」  目ざとく動揺を感じとった“黒”は揺さぶりをかける。 「宮代の山はとても生きやすかったよ? 適度にしか人の手もはいってないし」 「……山の警備は、代々犬神の若手が」 「そんな慣習、とっくに廃れてるよ。特に当主の命令があったわけでもないみたいだし」  伝統的に、宮代所有の山は若い犬神が夜の見回りをすることになっている。が、なっていると思い込んでいた、というのが正確なところだったらしい。確かに、犬神の自発的な警備、という扱いで、歴代の当主が任務として与えたという事実はない。 「他の山まで行って山狩りしたときなんて、もう大笑いだったよ。台所からいっぱい美味しいものもらっちゃったし」  食料が紛失したという報告も聞いたことがない。天を仰ぐ市郎。 「末期だな。宮代も」 「そのお陰でわたしは生き残れたんだけどね。イチくんの涙ぐましい努力も見れたし」 「そっか。見られてたか」  大きくため息をつく。市郎の切り札は、最初っから相手に筒抜けだったようだ。 「他流派の剣術を取り入れる、ね。わざわざ長老連中の反対押し切って一刀流の師範呼んだのは、無駄になっちゃった? どっちにしろ、さっきのみたいな剣じゃ、師範のおじいちゃんカンカンに怒るよ。『市郎殿、それは当主の振るう剣ではありません』」  成功した手品の種明かしのように、嬉々として語る“黒”。丁寧に剣術師範の物真似まで披露した。 「さっきの幻影、炎じゃなくて、光を直接屈折させてるな」  流石に屋敷内まで入って覗いていたとは考えにくい。そう推理し、市郎は鎌をかける。 「半分正解。正確には、併用、だよ」  “黒”の両脇に二つの幻影が出現する。片方はやや透明がかっており、もう片方はかすかに揺らめいている。 「正直、あんまり良い出来のものじゃないんだけど――」  幻影が重なる。そうすると、月明かりの下では真贋がにわかには判別できない。 「――こう薄暗いところだと、効果は抜群。莫迦と鋏は使いよう、だよ」  重なった幻影が音もなく駆け出し、市郎に踊りかかる。市郎が刀を振るうと青白い炎が爆発するかのように広がるが、君津屈指の名工が鍛えた妖刀が持ち主を焼くのを許さない。 「さすが」  “黒”の素直な賞賛の声が届く。市郎が声の方に振り向くと、“黒”が3人立っていた。  本物に似せた幻影ではない。どれもが本物に見えなくも無い、という、ある意味狡猾な出来だ。  3人の“黒”が同時に飛び掛る。市郎は全てを同時に相手取る愚は避け、大きく下がって1人ずつ片付けにかかる。  1人を刺し貫き、もう1人を薙ぎ払い――どれも動作が精彩に欠く。全て幻影だ――最後の1人に切りかかろうとした瞬間、それが大きく膨らみ、破裂した。  市郎の網膜を青白い光が焼く。かろうじて君津の刀を盾にして炎を防ぐが―― 「駄目だよ、イチくん」  すぐ脇から“黒”の声。同時に、脇腹に焼きごてが当てられるかのような熱い感覚。  市郎が無理矢理身体をねじって刀を振るったとき、既に“黒”は距離を取っていた。彼女のナイフは血に濡れ、月光を鈍く映している。 「ぼおっとしてるから、そんなことになるんだよ」  シャツが血を吸っていく感覚に眉をひそめる市郎。  彼女の言うとおり、多少の火傷に構わず回避行動を取らなければならなかったのだ。半ば心理戦になりつつあるこの決闘で、この傷は決定的だ。 「まあ、大して刺さらなかったから、まだまだいけるよね」  “黒”は半ば勝負がついた状況でも、決闘の継続を熱望した。頬に朱を散らせたように上気し、心の底から愉しそうな、無邪気にも見える笑顔を浮かべている。 「クーちゃんが望むなら」  痛覚を無視し、笑顔を作って刀を構える市郎。 「うん、それでこそ本家、それでこそ天下にあまねくその武勇を轟かす、宮代の当主」  熱に浮かされたようにそれだけ言い、2本のナイフを構える“黒”。  既に満月は中天に差し掛かっていた。  勝負は一瞬でついた。  市郎が振るった刀が“黒”のナイフを弾き飛ばす。しかしそれは弾き飛ばしたのではなく、彼女自ら手放した結果だ。  慣性に引きずられて上体が泳いだ市郎の懐に飛び込む“黒”。体のばねを総動員し、市郎の胸元に渾身の肘打ちを叩き込む。  市郎はなすすべも無く打ち倒された。 「ちゃんと、鳩尾を狙ってほしかったな」  かすれた声で、やっとそれだけを吐き出す市郎。  “黒”の肘は、市郎の肋骨を数本へし折っていた。しかし僅かに鳩尾を逸れていたためにかろうじて意識は手放さなかった。  意を決して大きく息を吸うと、肋骨から嫌な音が伝わった。いっそのこと気絶していた方が楽だったろう。 「どういうこと」  少し震えた“黒”の声。先ほどまでとはうって変わり、醒めた無表情で市郎を見やっている。 「どういうこと、かな」  今度ははっきりと、怒りの感情を混ぜて問いかける。形の良い眉を吊り上げ、仰向けに転がる市郎へと歩み寄る。 「あの表情、どういうこと!!」  ついに声を荒らげ、市郎の胸ぐらを掴んで馬乗りになる。折れた肋骨に圧力がかかり、市郎は思わず顔をしかめる。 「負ける気だったの!?」  “黒”に懐に入られた瞬間、いや、“黒”があっけなく得物を手放した瞬間、市郎は体の力を抜いたのだ。  しかも、どこか晴れ晴れとした笑みを浮かべて。  まるでこの結果を望んでいたかのような、曇りの無い穏やかな笑顔。  胸倉を掴み上げ、詰め寄る“黒”。 「苦しいよ、クーちゃん」  市郎は脂汗さえ浮かべているが、“黒”はこの程度で追及を緩める気はない。そのために咄嗟に鳩尾を外したのだから。 「答えて、イチくん。わたしは、今日のために生き延びてきたの。あまり失望させないで」  抑揚を抑え、努めてゆっくりと問いかける。 「――宮代はもう、駄目だ」  苦痛の合間を縫って、ようやく搾り出す。“黒”が締め上げる手を緩める。 「宮代は、宮代だけじゃない、分家も含めて、もうボロボロだ。そろそろ幕を引くべきなんだよ。けど犬神たちは」  酸素を確保するためにそこで一息つき、続ける。 「犬神たちは、彼らは巻き込んではいけない。滅ぶべきは宮代であって、犬神じゃあない」 「わたしがあいつらを取り逃がすと思ってるの?」 「避難命令を出しておいた。書き置きで、即時発令永続命令の」  突き飛ばすように市郎を離す“黒”。大きく息を吐いて、表情を緩める。 「……まあ、いいや。あんな連中逃がすくらい」 「それに、どうあがいてもクーちゃんには勝てなかった。完敗だ。まあ」  無理やり笑顔を作り、おどけて続ける。 「クーちゃんに負けるのは、なかなか爽快だったよ、実際。強くなったね」 「しらないよ、そんなの。もう、宮代をどうこうするなんて話は、そんなのは本当の目的を果たしてから。あとまわし」  眉間をこねながら、どこか苛立たしげな、焦れた様子の“黒”。その様子の変化に、市郎はいぶかしむ。  言葉通りに雑事を棚に上げてしまったのなら、何に焦れているのか。  それに、本当の目的とは? 「どうしたの、イチくん。不思議そうな顔して。まさか、こんなのがわたしの望みだった、と思ってるの?」  無造作にナイフを捨てる。満月を背にしているため、表情をうかがうことはできない。 「復讐? それもあるけど、もののついで。御神鏡? あんなの、ボロ布に包んで縁の下に放り込んでおいたよ。決闘? ただの手段」  すっ、と自らの腰に手を伸ばし、ベルトに手をかける。 「クーちゃっ」  驚く市郎を尻目に、“黒”はベルトを抜いてボタンを外し、ジッパーを下げる。  スニーカーを脱いでジーンズを片方ずつ足から抜くと、しなやかな曲線を描く脚が晒された。 「わたしは、あなたがほしかったの」  下着を留めている紐を、ゆっくりと引く。 「誰に非難されることもない、堂々と、問答無用の方法でイチくんを手に入れたかった。イチくん自身でさえ拒否できないほどに」  下着もその役割を終えた。 「イチくんは決闘に宮代を賭け、わたしに負けた。宮代を、つまりイチくんをどうこうできる権利は、わたしのものになった」  ゆっくりと、ゆっくりと市郎に覆いかぶさる。その頬に両手を添え―― 「やっと、手に入った。イチくんはもう、わたしのもの」  ――自分の唇を、彼のそれに重ねた。  それからの“黒”の行動は素早かった。  丸めた下着を市郎の口に詰め、ベルトで両手首を固定し、自由を奪い取る。そのまま襟首を掴んで引きずり、大岩の上へ引っ張り上げた。  市郎はなすすべもない。緩やかになったものの脇腹の出血は続いているし、胸の打撲傷は鈍痛をひっきりなしに発し続けている。  仰向けに転がされた市郎に、“黒”がのしかかる。 「あはは、イチくん、いいにおい」  “黒”は市郎の胸に顔を埋め、けれど傷には触れないようにして、彼の体臭で肺を満たす。同時に、“黒”から発せられる甘い香りも市郎の鼻をくすぐる。 「ずっと見てるだけだったイチくんが、こんな近くにいる。ながかったなあ……」  首筋に口を寄せ、舌を這わせ、頚動脈に吸い付く。ちろちろと喉仏をくすぐってから、シャツを裂いて上半身を露出させる。 「よく鍛えてあるね。素敵だよ、イチくん」  つつ、と引き締まった胸板を指でなぞる。その愛撫ともいえない行為の、えもいわれぬ感覚につい反応してしまう市郎。  その反応に満足した“黒”は、爪で器用にシャツを切り刻んで即席の包帯を作り、脇腹の切り傷にあてる。 (――クーちゃんが、こんな表情するなんて)  彼女は薄く微笑を浮かべ、いそいそと作業している。その笑顔は間違いなく欲情からくるもので、男に対し雄になることを強要するような表情だ。  しかし、不思議と退廃的な雰囲気がない。どこか清廉な、まるで酸いも甘いも知り尽くした娼婦と神に祈りを捧げる乙女が共存しているような、アンバランスな魅力を醸し出している。 「これでよし。――ん、よかった、ちゃんとわたしで感じてくれてる」  “黒”の色香にあてられ、市郎も反応してしまう。その変化に気付き、今度ははっきりと笑みを浮かべる“黒”。 「せっかくの初めてが前立腺を責めながら、なんて、さすがに嫌だからね」  さらりと怖いことを言い、今度は乳首に口を寄せる。 「んっ……」 「んふ、そんなに反応してくれると、うれしいな」  切なそうな表情の市郎に満足した“黒”は、いっそう熱心に先端を転がしながら下半身にも手を伸ばす。  しっかりと張り出でてしまった膨らみを指でなぞられ、市郎は痛みにも構わず腰を浮かせてしまう。 「もう、そんなにがっつかないでよ。童貞じゃないんだからさ」  あきれたような声色で、苦笑しながら、でも嬉しさを隠しきれない表情に、ついと視線が泳ぐ市郎。“黒”はふくらみに気を取られ気付かなかったようだが。  さんざ嬲られた乳首は解放されたが、こんどはやわやわと陰茎を揉みあげられる。 「あーあ、こんなしみまで作っちゃって」  先端付近を重点的に撫でられる。市郎の視界では様子をうかがうことができないが、きっと塗り広げているのだろう。 「しょうがないから、出してあげる」  ジッパーが下げられる感覚と、布が弾ける音。シャツに続き、スラックスも破壊されてしまったようだ。トランクスの窓から手が差し込まれ、否応なく引き出される。 「……かわいい」  その形容はあんまりだが、どうやら彼女はそれが気に入ったようだ。二、三度手のひらでさすり、ためらいなく口に含む。 「んふ」  不意に、にゅるり、と、粘膜に包まれる。  その刺激はあっけなく市郎の限度を超えた。 「――っ」 「んぅっ!」  “黒”の口内で脈動するものを、市郎にはどうすることもできない。ただひたすら吐き出し、終わるのを待つだけ。それを“黒”は、ただ受け入れる。  お世辞にも美味といえない粘液を口に溜めるが、流石に飲み込めない。市郎が全て出したことを確認して口を離すが、処理に困って結局、手のひらに出す。 「飲むのは要訓練、だね。それより――」  精液と唾液の混合液をいまだ硬さを失っていない市郎のものにまぶし、続ける。 「イチくん、童貞?」  あまりにも直球な質問に、反論する気力もなくうなずく市郎。反論しようにも猿轡を噛まされているが。  “黒”は粘液の滴る指を伸ばし、唾液を吸って固まりになった布を取り出してやった。 「当主なら、言い寄ってくる女も多いんでしょ?」 「……むやみに抱くと、政争になる」 「犬神は?」 「彼らをそう扱いたくない」  ふーん、と気のなさそうな返事をするが、顔にはそれの対極にある表情が浮かんでいる。 「そう。それは、残念だったね」  再び市郎の口に詰め込み、愛撫も再開する。 「わたし以外の女を抱く機会は、一生なくなっちゃったんだ」  “黒”の静かな宣言。 「宮代の当主といえば、ダース単位で愛人を作るのが作法なのに。かわいそうなイチくん」  市郎の性器を撫でつつ、自らのも慰め始める。 「でも、自業自得。勝ったのはわたしで、負けたのはイチくんなんだから」  粘液だらけのお互いの性器を、あてがう。 「せいぜい、わたしで我慢するんだね」  “黒”が市郎へ、市郎が“黒”へ、ゆっくりと、最後まで沈んでいった。  暫くの間、双方共に声を発することさえできなかった。  先に呼吸を整えたのは“黒”の方だ。 「あは、は、おかしいな。バイブで十分練習したのに」  市郎はいまだ荒い息をついているが、“黒”の発言に頭を上げる。  その視線に答える“黒”。 「毎日、イチくんを想いながらバイブ使ってたんだよ。人間に混じってアルバイトして買ったんだよ? でも」  両手をつき、ゆっくりと腰を引き上げていく。当然、粘膜を通して途方もない快楽が両者に伝わる。 「んんっ、やっぱり、本物は違うね。いや、イチくんのだからかな?」  腰を下ろす。最初よりも速度がついていたため、“黒”の襞を掻き分けた市郎の杭は行き止まりまで打ち込まれた。 「……まずいなあ、これ」  お互いの襞が、雁がわかるくらいゆっくりと動いたのに、しゃれにならない程に快感が伝わってくる。本格的に動かしたら、いったいどうなってしまうのだろう。 「ごめんね、イチくん。怪我にひびくかもしれないけど、我慢できるよね?」  きっと、この快楽に身を沈めたら市郎の体を気にかけることもできないだろう。そうわかっていても、“黒”は目の前の快楽に手を伸ばさざるを得ない。 「ふぁっ」  最初はゆっくりと、確かめるように。要領を掴んでくると、得られる快感を最大限にするように。  “黒”の中は潤みきり、石みたいに硬くなった市郎のものが混ぜると、卑猥な水音が響く。普段はバイブレーターの耳障りなモーター音が聞こえるところだが、今は市郎の喉から漏れるうめき声が彼女の耳をくすぐる。  これがまぐわうということ。これが知能を持つ生命の行ってきた、崇高な使命を帯びた恋愛の確認。 「いとしい、いとしい、わたしのイチくん」  これが、イチくんとのセックス。そう考えるだけで、“黒”は痺れるほどに胸が熱くなってくる。  全ての感覚器官から入る情報が、二人の快感を押し上げるためだけに働いているようだ。“黒”の膝は岩に削られて出血しているが、それさえも今は性交の一部に感じられる。 「いちくん、またっ、おおきくなった。でるの?」  傷が開くにもかかわらず、市郎の腰が浮いてくる。“黒”は市郎の頭を抱きかかえ、耳元にささやいた。 「いいよ、イチくん。おいで」  浮いた腰を無理矢理押さえつけ、自らの最も奥に導く。目の焦点がぶれかけている市郎に、もう抵抗するすべはない。 「んっ――」  力の限り、まさに生命まで発射しているかのような感覚に、思わず意識が遠のきかける市郎。 「あはっ、すごい、びくってなったの、わかったよ?」  跳ね上がろうとする市郎の腰を押さえ込み、大量の種子を受け止めていく。一生懸命注ぎ込んでくる市郎が、“黒”には愛しくてたまらない。  ようやく吐精が終わる。絶頂後の虚脱感もあるだろうが、いい加減血が足りなくなってきたようだ。市郎の視界は段々歪み、一定にできなくなってくる。  “黒”はそんな彼の髪に指を絡ませ、ゆっくりと頭を撫でてやった。 「いいよ、イチくん。お疲れ様」  今にも意識が違う世界に飛びそうな市郎に、優しく語りかける。 「あとは、わたし一人でしてるから」  きっと今、自分は苦笑してるんだろうな、と思いながら、市郎は意識を手放した。 ――ねークーちゃん。もうあしたにしようよぉ。 ――……あとちょっと、あとちょっとだもん。 ――ほら、もうさむくなってきたしさぁ。 ――でも、あとちょっとだもん。もうすぐできるんだもん。 ――な、なかないでよぉ。 ――ほんとにできるんだもん。おかあさんにおそわったんだもん。 ――おはなのわっかつくてくれるのはうれしいけど、かぜひいちゃうよ。 ――ほんとだもん。できるんだもん。 ――ね、かえろ? またあした、ゆっくりつくろ? ――……できたんだもん。おそわったんだもん。 ――……クーちゃん。 ――……あしたは、ちゃんとつくるもん。 (そういえば、昔のクーちゃんも結構頑固だったな)  思えば、これが2人で遊んだ最後の日だった。  頬に鈍痛を感じ、市郎は目を覚ました。 「……クーちゃん、痛い」  自分の頬をつねっている“黒”を半眼で見やる。 「変な夢見てたみたいだから、起こしてあげたんだよ」  もちろん“黒”はそんなことでは堪えない。ぐにぐにと市郎の頬をこね回す。 「やめてってば」 「……ふん」  酷く機嫌が悪そうに鼻を鳴らし、最後にひとつつねって頬から手を離す。  淡い照明に照らされたそこは、市郎の寝室だった。彼の体は治療され、清められ、清潔な寝間着に着替えさせられている。 「ありがとう、クーちゃん」  “黒”は市郎の鼻をつまんで答えた。 「……機嫌、悪そうだね」 「悪いんだよ」  仏頂面の“黒”は、市郎を宮代の屋敷に連れてきたときの様子を簡潔に伝えた。  屋敷は、もぬけの殻だったそうだ。  分家頭から下働きまでそろって宮代を見限った。それどころか、金目のものもくすねて行ったらしい。  強大な武力で名を馳せた宮代の、これが最期だったそうだ。 「ほんと、尻切れトンボ。復讐譚には、ちゃんとした敵役が必要だね」  復讐が本懐ではない、といってはいたが、やはり自分を追放した張本人たちに何らかの意趣返しをしたかったようだ。 「因果応報。宮代の最期に、似つかわしいさ」  そうはいっても、市郎の顔は寂しさで翳っている。 「――そうそう、あのワンコたち」 「犬神?」 「ちゃんとイチくんの命令守ってるよ。正門の前に並んで、耳を垂らしてお座りしてる」  市郎は彼女の言っていることがとっさに理解できない。避難命令を遵守して、待ってる? 「イチくんの命令は『屋敷からの退避』だから、外で待ってたんだって。見上げた忠犬ぶりだよ」 「そう、犬神たちが――」  声が震え、喉が詰まる。使い潰されてきたといっても過言ではない彼らが、最後の最後まで宮代に奉公してくれるとは。 「わたしもさすがに呆れたよ。なんていうか、勝手にして、って感じ。いまだに外で待ってるのがあれの限界だけどね。もうどうで――」  何かに気付き、そこで言葉を切る“黒”。 「1匹だけ、勇ましいのがいるね。ハクなんとかっていうのが、わたしたちを盗み聞きしてる。さっき散々泣かしたのに」  ドアの向こうに、動揺する気配。白華だ。 「あんまりいじめないでやってくれ。彼女は生真面目だから」 「いじめ甲斐があるから、これからもイチくんにつけておこうかな」  意地悪く笑って、“黒”は立ち上がる。慌てて遠ざかっていく白華の気配。 「お風呂、入ってくる。これ以上イチくんの匂いをぷんぷんさせてると、またきゃんきゃん吠えてくるのがいるから」 「待って、クーちゃん」  部屋を出ようとする“黒”を呼び止める。彼女は足を止めるが、振り返らない。 「犬神たちに、避難命令を解除すると伝えてほしい」 「そんなの自分でしてよ」  にべもない。 「わかったよ。あと、もうひとつ……」  傷が疼いたのか、段々声が細くなっていく。ため息をついた“黒”が、市郎の口元に耳を寄せる。 「ほら、聞いてあげ」  言葉を紡ぎ切る前に、市郎の唇が塞いだ。目を見開いたまま、動けない“黒”。 「――やっと、一本取れた」  してやったりの表情の市郎。“黒”ははたと我に返り、市郎の頬を張った。 「ばか」  ぷいとそっぽをむき、振り返らずに部屋を出て行く。ドアが壊れるかと思うほど強く締める。  まるで睦言だな。痛む頬をさすり、市郎はぼんやりとそんなことを思った。

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