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問い
転生(再生誕)スレ1: 7 :*神も仏も名無しさん <mailto:sage>*:2008/11/08(土) 12:04:52 ID:4c9cUuc/
日本語の使用法の問題になるが、「転生」、「再生」、「後生」、「後有」、「次の生」、
は同じ意味、同じことを言っていると考えてもいいのだろうか?
特に、スレタイに用いられている「転生」という語は、その一般的語義・印象として、
仏教内で用いるのにふさわしいのだろうか?(チベット密教系は一先ず措く)
個人的には、『仮に、仏教がその教義内に「来世」を想定していた(採りいれていた)としても』
それは「転生」ではないのではないか、と思ったりしている。
転生(再生誕)スレ1: 8 :*5*:2008/11/08(土) 12:23:23 ID:HD5yxLNL
まず、この輪廻転生がどのようなものであるのか、というところから論じて
いく必要があるとおもいますが、この思想は
「死後の存在を肯定し、死後においても現在の自己となんらかの関連性を
もつ存在を認める。転生、いわゆる、生まれ変わり信じ、現世での行いが
来世へ影響をおよぼす。(業、カルマ)」
一般的な概念としては、このようなもので良いと思われます。
このような思想がいつごろ成立したかと言いますと、釈迦以前にインドの
土着思想として広く信じられていました。この思想は初めはアーリヤ文化
の担い手であるバラモン階層にあったものではなく、土着思想を非アーリヤ
民族の王族階層が取り入れ、それをバラモン教が吸収していき、(五火説、
二道説)教義としていったようです。(ウパニシャッド)
そして、そのような中で釈迦が生まれ、仏教をきづいていくわけですが、
まず認識しておかなければいけないのは、釈迦の在世当時のインドでは
この輪廻転生思想は常識、当たり前のこと、これを否定すれば会話のなり
たたない異常者とみなされてしまうくらい普遍的な思想だったということで
す。
転生(再生誕)スレ1: 100 :神も仏も名無しさん:2009/01/25(日) 09:55:42 ID:qeS8aKHX
いままでの議論を私なりにまとめてみます。
まずもって
「(業報)輪廻思想は原始仏典において確実に前提とされていますよ。
だれもそれを否定していない」
だそうです。()をつけたのは解釈が異なるためで、これはデンパさんと思われる人の説。
さすがに原始仏典に「輪廻」の語は無いという人はいない。
次に仏教において「輪廻」は苦であり、厭うべきもの解脱すべきものとされ
その意味では「否定的」に見られても「肯定的」に見られることは無い。
これも共通認識。
まして、「輪廻」が「真理」であり「事実」であると主張する人もいない。
しかし、なにを勘違いしてか「検証」「実証」と叫ぶ輩も後を絶たない。
問題は「輪廻」という語の解釈です。
次に「輪廻」の解釈をめぐって
①業報輪廻・・・今日行ったわるいことは、明日かそれ以降に報いがある。
人間存在とはそのように業の積み重ねによって苦しむ性質のものである。
*ここで順後次受が説かれていない点がミソ
②輪廻転生・・・・ 業報を死後の生まれ変わりに求める。
(282 神も仏も名無しさん [sage] Date:2007/10/31(水) 14:03:21 ID:K2u3Mk10)
この二つに分ける説(デンパさんたち)と、分けない説(私もそう)があります。
前者において
①業報輪廻は「生死」とも読みかえておられます。
「生死とは生老病死の四苦をまとめていったことであって、
生まれ変わり死に変わりではありません」デンパ説?
しかし、そのように「生死」を限定する典拠は未だ提示されていません。
更に②を「生死輪廻」「生死流転」と読み変える人もいます。
この場合の「生死」は上記の「生死」とは異なるようです。
転生(再生誕)スレ1: 101 :神も仏も名無しさん:2009/01/25(日) 09:58:44 ID:qeS8aKHX
そして、この二つを分ける典拠、原典の提示を求めると
日本の学者がそのように区別していることをあげ、終には
「根拠は必要ありませんね。
輪廻は経典や論書に現れる言葉、輪廻転生は表れない
だから、この両者は違うものとして取り扱わなければならない。
よく理解できませんが・・・、結局「根拠」はないようです。
その一方でデンパさん?は(A)「仏典には生死輪廻はあっても、輪廻転生はありません」
と 断言しています。生死輪廻がいわゆる輪廻転生なんですが・・・
どうやら、仏典で説かれる「輪廻」は①のみで②では無いという主張のようです。
また②を否定する理由として、
ブッタは「形而上」を取り扱わなかったことをあげていますが、扱ったか否かで論争中です。
その一方で(B)「輪廻転生を主張することに対する批判ですよ。
同じく、輪廻転生は無いと主張するひとも批判しますがね。」
との主張もあり同一人物なのかどうか?
あきらかに矛盾してます。
転生(再生誕)スレ1: 102 :神も仏も名無しさん:2009/01/25(日) 09:59:09 ID:qeS8aKHX
また
「私の言う前提とは「執着を否定するために採用された輪廻思想」と言う意味です。
つまり、当時の宿命論的な業報輪廻について(の執着を)否定するために前提として採用され、
否定されたということです」
ともデンパさんは述べます。
「宿命論的な業報輪廻」とは「前世においてこういうことをしたから、今の状態がある」とい
うことでしょう。
するとそれは「彼らの意味するところの②輪廻転生」ということになり(A)と矛盾します。
結局「輪廻への執着を否定する」とは「解脱」「厭離」と意味するところは
同じであり「輪廻」がどのようなものであれ「関知しない」彼らの用語で
「捨て置く」ということのようです。
つまり「毒矢の喩え」あるいは「如来の後有」を
「衆生一般の後有」と解し、「無記」であるという主張です
(後者の理由が正しくないことはすでに述べられています)。
否定されるべきものは「執着」ということでしょうか。
結論としていわゆる輪廻否定派「輪廻」の定義にぶれが見られるうえ、
①と②に分け②を否定したり否定しなかったりと、
各者に違いが見られますが、
「毒矢の喩え」の態度は私も大いに肯うところです。
ただ
「毒矢の喩え」を「輪廻」に適応すれば
「輪廻の有無」ではなく「輪廻のプロセス」が捨て置かれるべき
ものとも解釈できますが・・・
虚空は存在する
しかしその辺際は問わない・・・のように。
転生(再生誕)スレ1: 105 :神も仏も名無しさん:2009/01/25(日) 10:41:27 ID:VwGgTiZl
100-102
よくまとめていただきました。
有難う御座います。
>ブッタは「形而上」を取り扱わなかったことをあげていますが、扱ったか否かで論争中です。
以前にも申し上げましたが、
そもそも「形而上」「形而下」という概念がインド哲学、仏教にはない。
ゆえに、「仏陀は「形而上」の問題を取り扱わなかった」という主張は成り立たない。
もし、「形而上の問題を扱わなかったと仮定する」と解脱や涅槃、菩提は形而上の問題ではないのか?
形而上の問題ではなければ、輪廻の場合と同じようにそれらを実証しなければならない。
しかし、輪廻を否定するものも、それらが有ると無批判に主張する。
答え
転生(再生誕)スレ1: 10 :*神も仏も名無しさん*:2008/11/08(土) 12:56:46 ID:x1EPflHm
>まず認識しておかなければいけないのは、釈迦の在世当時のインドでは
>この輪廻転生思想は常識、当たり前のこと、
はい、わたしもそのような理解にあります。
しかし、これについてさえも全く異なる見解もあるということを知り、
とても驚かされています。
「仏教、ジャイナ教などで見られるような輪廻転生の概念はVeda聖典の時代でなかったのです。
(Orthodox)正統派(主流)のVeda伝統(Brahmanic or Vedic traditionと言います。)と違った
(hetorodox)異統派の宗教思想のなかでのみ輪廻の思考が見えます。 仏典でも、Jaina聖典でも
ごく当たり前の思想として輪廻のことが語られています。
仏典では六師外道だと名付けられている六人の中に三人が、輪廻・業の思想に自分の解釈をし
ています。ですから輪廻の話は正統派のVeda伝統の課題ではなく異統派の宗教家の課題です。」
「文献の設立年代から考えて見ると仏教思想の後になるのです。とにかくバラモン人が輪廻転
生を信じていたと釈迦尊が知らなかったのです。バラモン教に驚くほど詳しい釈迦尊が知らなかった
ということは何を意味しますか?当時ではバラモン人の思想の中で輪廻転生なんかは発展してい
なかったということです。」
(輪廻の解釈について/輪廻の理念-日本テーラワーダ仏教協会)
http://www.j-theravada.net/qa/qahp22.html
根拠
反論
最終更新:2009年05月08日 16:25