輪廻の主体は?
転生(再生誕)スレ1: 19 :*5*:2008/11/09(日) 03:16:53 ID:FvelUyeD
さて、仏教における輪廻思想の問題点をまとめておこうと思うのですが
基本的な思想として仏教には「人間は悟らなければ、何度でも生まれか
わり、生の苦しみを味わうことになる。これから抜け出すには解脱し
輪廻を断ち切るしかない」 というのがあります。また一方には「無常」
すなわち、永遠不滅のものはないという思想があり、これが輪廻思想と
矛盾してしまうのです。 というのは、輪廻転生思想というのはAという
個が消滅した後、生じるBという個との間に何らかの関連性がなければ
そもそも概念自体が崩壊します。AからBへと連鎖するもの、その名前は
何でも良いのですが、例えば霊と言おうが魂と言おうが、あるいは実体が
あろうが、なかろうが、そんなことはどっちでも良いのです。
その属性として唯一はずせないのが、他との識別可能性なわけです。
すなわちAからBへと連鎖したものが、CからDへと連鎖したものとは異
なることが、わからなければ輪廻思想の概念自体がなりたちません。
言い換えるとBには必ずAの干渉が見出されなければならないわけです。
しかし、この連鎖するものがたとえどのようなものであろうとも
個から個へと受け継がれていく限り、その継続性は「永遠不滅のものは
ない」という思想に矛盾してしまいます。この二律背反の論理的矛盾の
解消に多くの仏教家たちが挑んできましたが、現在までそれに成功した
ものは皆無です。
日本においては明治期に西洋的合理主義の洗礼をうけ、この輪廻思想を
否定する見解が一時、広まりましたが、各宗派の仏教学者たちの激しい
反発のすえ、現在ではこの問題を正面きって論じようとする動きは見られ
ないといいます。
転生(再生誕)スレ1: 20 :*5*:2008/11/09(日) 03:23:39 ID:FvelUyeD
では、輪廻肯定論者たちは、どのように捉えてるかといいますと「いったい
何が輪廻するのか?」 と言う問いに
1.それは霊魂である
2.それは実体のないもの(あるいは、言葉では表現できないもの)
3.それは心である
のような答え方をします。
1.>これは最近の科学の進歩により、以前に比べると少なくなったと
おもいますが、まだまだ、ありますね。この回答の利点としては
霊、魂などを想定しますと前世、来世などもイメージしやすく
業、カルマなども説明しやすいということが、あげられますね。
2.>これもよくある回答です。無常思想との整合性をもたせようと
形而上化したものです。「では、それはどのようなものか?」
と、重ねて突っ込んでいきますと、必ずどこかで破綻します。
それも当たり前のことで「転生」という形而下のことを観念論
で説明しようとしても結局は信仰の領域に入ってしまいます。
3.>これは10であげられていたスマさんの説ですね。しかし、スマさん
も非常に抽象的な表現にとどめ、「記憶」の連鎖については言及さ
れていませんでした。結局、何が連鎖し、そしてその連鎖したもの
がAからCにではなくBに連鎖したのであることを何をもって識別
するのかについては、何も語っていません。
転生(再生誕)スレ1: 22 :*5*:2008/11/09(日) 03:40:01 ID:FvelUyeD
また、輪廻否定論者の言うように「輪廻などはない」と言い切ってしまうと
別の問題が生じます。
「苦を滅する」ことが仏教の目的なわけですが、「死ねば全て終了」という
ことにしてしまいますと、現在の生における苦を死をもって終了させること
も選択肢の中に入ってきてしまいます。大変な修行をして解脱により苦をな
くすよりも、死をもって簡単に苦から逃れることが可能になるわけです。
そして、死んで全てが終わるなら、生きてるうちに楽しんだもん勝ちじゃん
という考えにつながっていきます。
さて、どのように解決しますか?
アートマン・スレ1: 13 名前: 一在家通りすがり Mail: 投稿日: 2009/04/25(土) 19:26:52 ID: /0ol12Q/
「仏教要語の基礎知識」水野弘元著より
「外教が説くような常住の実体としての霊魂は仏教では
これを説かないが、人格の主体として業を保持している
霊魂は三世を通じて存在するものとして、これを認めている。
それは不生不滅でなく、輪廻の主体として、業や経験に
従って常に変化しつつ連続する有為法である。」
アートマン=霊魂と置き換えて読んで見れば、このレスの
命題に近いと思い紹介致しました。
誤解です。水野先生が「不生不滅でなく、輪廻の主体として、業や経験に従って常に変化しつつ連続する有為法である」と明記しているように恒常な実体としてのアートマンではありません。
霊魂と言っても仮設されるだけの名称です。例えばアーナンダという呼称によって、
同一性を持った人格として仮設され指示されますが、それは世俗の習慣に従った呼称であり、
本来は縁起して連続して見えるだけで、無常であり、無我であり、空です。
それと同じように霊魂(ヴィンニャーナ)などと呼ばれますが、
縁起して連続しているものをそう仮に呼ぶだけで、無常であり、無我であり、空です。
同様に輪廻の主体も縁起して連続するだけで、識(ヴィンニャーナ)自相続などと呼ばれますが、
仮に呼ぶだけで、無常であり、無我であり、空です。
このことを明解に説いたのが
『勝義空性経』です。
最終更新:2009年06月06日 16:54