thumb|250px|国民政府が使用した[[中華民国の国旗。1928年12月17日に、「青天白日滿地紅旗」が中国の正式な国旗として制定された。]]
国民政府(こくみんせいふ)とは、中華民国における中国国民党による政府のことである。略称は国府(こくふ)。国家元首は主席(しゅせき)。ただし日本と中国では、一般的な「国民政府」の定義にそれぞれ差異がある。
国民政府という呼び名は、政府のあった場所の地名を冠して使われることが多い。したがって、国民政府と呼ばれるものは複数あるが、主たるものは、以下のとおりである。最も、1950年までの中華民国は常に政治的に混乱しており、その事を反映して一時的に2つの国民政府が並立することもあった。
今日の中華民国政府を基準に考えると、中華民国の歴史において、以下の5つの国民政府が正統な国民政府ということになる。
※南京国民政府と新南京国民政府は、特に区別しない場合もある。
※新南京国民政府の蒋介石政権は、中華民国憲法に基づいて政府組織を1948年5月20日に改編し、国民政府を中華民国総統府とした。そのため、中国ではこれ以降の国民政府を、憲法に基いた正統な政府として、「中華民国政府」と呼称している。なお、中華民国支持者は、1949年以降も今日に至るまで「中華民国政府」が存続していると主張している。
※台湾における中華民国の存在を認めない中華人民共和国は、中華民国政府を「台湾当局」と呼んでいる。
※1932年1月、南京に新国民政府が成立し(南京・広州合流。主席は林森)、行政院長に汪精衛が就任した直後(1月のうち)に、洛陽への遷都を宣言し、以降、4期2中全会などを洛陽で行った。同年12月には、南京へ遷都(還都)。洛陽に政府が存在したのが一時的であったこともあり、「洛陽国民政府」という呼び方は通常なされない。
中華民国の歴史において、「その他の国民政府」とは、上記の「正統な国民政府」以外の国民政府を指す。これらは、当時の政治的な混乱を背景として、正統な国民政府と並立しながら一時的に存在していた。
ここに挙げる国民政府主席一覧は、今日の中華民国政府を基準として、「正統な国民政府」とされる国民政府の主席を挙げている。その他の国民政府については、それぞれの項目を参照のこと。なお、国民政府の主席は、全員が中国国民党の党員である。
氏名 | 政党 | 就任 | 辞任 | 備考 |
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広州国民政府 | ||||
汪兆銘 | 中国国民党 | 1925年7月1日 | 1926年3月21日 | 中山艦事件を契機として、26年3月21日に休暇を取得し、5月11日に広東を離れる。 |
譚延闓(代理) | 中国国民党 | 1926年3月21日 | 1927年4月10日 | 汪兆銘去職後、代理主席職權、7月6日選任真除 |
南京国民政府1927年4月10日-1927年9月20日寧漢分裂、武漢南京均設立國民政府。1927年3月10日、武漢國民政府廢除主席、1927年4月28日南京國民政府仍設主席一職。(張朋園、沈懷玉、《國民政府職官年表》 | ||||
胡漢民 | 中国国民党 | 1927年4月18日 | 1927年9月16日 | |
不設主席 | 1927年9月16日 | 1928年2月 | ||
譚延闓 | 中国国民党 | 1928年2月 | 1928年10月8日 | |
蒋介石 | 中国国民党 | 1928年10月8日 | 1931年12月15日 | |
林森 | 中国国民党 | 1931年12月15日 | 1943年8月1日 | |
蒋介石 | 中国国民党 | 1943年8月1日 | 1948年5月20日 | |
前置の機関:中華民国大総統 | 中華民国の国家元首 1928年 - 1948年 | 後続の機関:中華民国総統 |
太平天国天王府跡は、中華民国臨時政府の総統府、及びに南京国民政府の総統府が置かれていた地でもある。同地には更に、明朝の歸徳侯府と漢王府、清朝の両江総督府、及び江寧織造署が置かれていた。現在の住所は、南京市長江路292号である。
1853年3月に太平天国の乱で洪秀全が南京を天京と改称し、天王府を置く。清軍により南京が陥落した後に曽国藩により天王府は焼き払われ、同治9年(1870年)に再び両江総督府が置かれる。林則徐、曽国藩、李鴻章、劉坤一、沈葆楨、左宗棠、張之洞、端方らは両江総督を務めている。
1911年に辛亥革命が勃発して清朝が打倒され、1912年1月1日に孫中山が総統府にて中華民国臨時政府の臨時大総統に就任する。袁世凱の臨時大総統就任により1912年4月に、中華民国臨時政府は北京へ移り(北京政府)、黄興により総統府は南京留守府に変わり、1913年の第二革命により袁世凱討伐軍の総司令部が置かれる。1913年から1927年の間には、江蘇都督府、江蘇督軍署、江蘇将軍府、江蘇督弁公署、副総統府などが置かれる。1927年に蒋介石により南京国民政府が置かれる。日中戦争下の1937年12月、日本軍により南京が陥落すると、傀儡政権である汪兆銘の中華民国維新政府(後の汪兆銘政権)が発足し行政院、立法院、監察院、考試院、交通部、鉄道部、日本陸軍第16師団司令部などが置かれる。1945年に日本が連合国に対し降伏したことにより、汪兆銘政権も崩壊する。1946年5月に重慶国民政府が南京に戻り、社会部、地政部、水利部、僑務委員会、主計処、軍令部、総統府軍務局、首都衛戍総司令部などが置かれる。1948年5月20日に蒋介石が総統、李宗仁が副総統を務めてからは、国民政府から総統府の名称に変わる。国共内戦勃発後の1949年4月23日に人民解放軍が南京を占領すると、総統府は同月24日に人民解放軍によって占拠される。中国共産党による南京「解放」後も、総統府には中華人民共和国の政府機関がおかれたが、1980年代には他の場所に移っていった。
1998年に総統府旧址に南京中国近代史遺址博物館の建設が計画され5年の歳月がかけられ2003年に完成する。総統府HPにて「南京中国近代史遺址博物館」が総統府の正式名称と確認できるが、入場券には「南京中国近代史遺址博物館」の文字は見当たらない。一般的な名称は「総統府」であり、最寄のバス停も「総統府」である。博物館の総面積は約9万平方メートルあり、東区、中区、西区の3つの見学区域に分けられ中区が蒋介石、李宗仁の執務室、文官長執務室、政務局がある弁公楼、中華民国に関する資料陳列館など、西区には孫中山の臨時大総統弁公室、秘書処、総参謀本部、総統府図書館、南京に現存する2つの古典園林の一つ煦園など、東区には行政院、馬厩舎、防空壕、太平天国に関する資料陳列館がある。孫中山の執務室等は見学者で混雑している。場所によっては空いているところもあるので混んでいるところは後回しにするのも良い。見学時間は少なくても2時間は欲しいところである。総統府図書館など一部区域は軍事管理区域になっており立ち入り禁止であり注意が必要である。南京城内では夫子廟と並ぶ主要観光地である。
(2004年現在の情報)
40元*閉館1時間半前に入場券の販売終了
4月15日~10月15日 7:30~18:30
10月16日~4月14日 8:00~17:30
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月23日 (火) 14:12。