山縣有朋

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{{日本の内閣総理大臣 |[[第1次山縣内閣|3]]・[[第2次山縣内閣|9]] |山縣 有朋<br/>(やまがた ありとも)<br/>[[画像:Aritomo Yamagata 3.jpg|200px]] |[[1838年]][[6月14日]]<br/>([[天保]]9年[[4月22日 (旧暦)|4月22日]]) |[[長門国]][[阿武郡]]川島村<br/>(現・[[山口県]][[萩市]]) |[[松下村塾]] |[[元帥 (日本)|元帥]][[陸軍大将]] |[[内務大臣]]<br/>[[司法省|司法大臣]] |世襲ではない([[#系譜|系譜]]を参照) |第1次:<br/>[[1889年]][[12月24日]]|[[1891年]][[5月6日]]<br/>第2次:<br/>[[1898年]][[11月8日]]<br/>‐[[1900年]][[10月19日]] |- |- |- |[[1922年]]([[大正]]11年)[[2月1日]] }} {{Infobox 軍人 |name=軍人としての山縣有朋 |lived=[[1838年]][[6月14日]] - [[1922年]][[2月1日]] |placeofbirth= |placeofdeath= |image=[[画像:Ymagata,A.jpg|200px]] |caption=晩年の山縣 |nickname=日本軍閥の祖 |allegiance=大日本帝国陸軍 |serviceyears=1868-–1898 |rank=[[元帥 (日本)|元帥]][[陸軍大将]] |commands= |unit=[[奇兵隊]](幕末期) |battles=[[戊辰戦争]]・[[西南戦争]]<br />[[日清戦争]]・[[日露戦争]] |awards=[[従一位]]・[[菊花章|大勲位]]・[[金鵄勲章|功一級]]・[[公爵]] |laterwork=[[内務大臣|内務卿]]<br />[[内閣総理大臣]]<br />[[元老]] }} '''山縣 有朋'''('''やまがた ありとも'''、[[1838年]][[6月14日]]([[天保]]9年[[4月22日 (旧暦)|閏4月22日]])- [[1922年]]([[大正]]11年)[[2月1日]]は、[[日本]]の[[政治家]]、[[軍人]]。幼名は辰之助、通称は小輔、後に狂介と改名。[[明治維新]]後は有朋の[[諱]]を称した。 [[奇兵隊]]を率いて倒幕で活躍。明治新政府では日本陸軍の基礎を築いた。晩年は陸軍のみならず政界の[[黒幕]]として君臨し、「日本軍閥の祖」の異名をとった。第3代、第9代[[内閣総理大臣]]。[[元老]]。位階勲等は[[元帥 (日本)|元帥]][[陸軍大将]]・[[従一位]]・[[菊花章|大勲位]]・[[金鵄勲章|功一級]]・[[公爵]]。また、[[イギリス帝国|大英帝国]]の[[メリット勲章]]も受章している。 == 経歴 == === 幕末期 === [[画像:Aritomo Yamagata.jpg|thumb|left|180px|若い頃の山縣]] [[萩城]]下近郊の[[阿武郡]]川島村(現・[[山口県]][[萩市]]川島)に、長州藩の[[中間]]・山縣有稔の長男として生まれる。将来は槍術で身を立てようと少年時代から槍の稽古に励んでいた。 [[久坂玄瑞]]の紹介で[[吉田松陰]]が主催する[[松下村塾]]で学び、山縣自身は生涯「自分は松陰先生門下である」と称し誇りにしていた<ref>ただし、現存する資料から山縣の在塾期間が極めて短かったことが判明しており、実際に松陰からどの程度の薫陶を受けたかは不明である。</ref>。松陰の文章における山縣の初出は、[[1857年]]([[安政]]4年)9月26日付の[[岸御園]]宛書簡である。同書簡中、「有朋の如何なる人たるかを知らず」とその人物を岸に照会していることからも、来塾前の山縣が松陰と一面識もなかったことを知ることが出来る。 その後[[奇兵隊]]で[[尊皇攘夷]]運動に参加した。奇兵隊のリーダー[[高杉晋作]]は身分に囚われなかったため、元の身分が極めて低かった山縣が世に出るきっかけとなった。[[1863年]]([[文久]]3年)[[高杉晋作]]が[[教法寺事件]]の責を負い総督の任を解かれた際には三代目総管[[赤根武人]]とともに[[奇兵隊]]軍監に就任、赤根武人が出奔した後は事実上実権を握った。[[1866年]]([[慶応]]元年)四代目総管に就任し、[[長州征討]]で[[高杉晋作]]と共に活躍、[[戊辰戦争]]では北陸道鎮撫総督・会津征討総督の参謀となった。 === 明治維新後 === [[1869年]]([[明治]]2年)渡欧し、各国の軍事制度を視察する。翌年帰国した後は暗殺された[[大村益次郎]]の遺志を継いで軍制改革を行い、[[徴兵制度|徴兵制]]を取り入れた([[徴兵令]])。[[1872年]](明治5年)、山縣は陸軍出入りの商人、山城屋和助に陸軍の公金を不正融資して焦げ付かせる。いわゆる[[山城屋事件]]である。山城屋の証拠隠滅工作により山縣に司法の追究は及ばなかったが、責任を取る形で辞職。[[1873年]](明治6年)に[[陸軍省#陸相・内部部局|陸軍卿]]となり、[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]の設置、[[軍人勅諭]]の制定にかかわった。 [[1883年]](明治16年)には[[内務大臣#歴代内務卿|内務卿]]に就任して、[[市制]]・[[町村制]]・[[府県制]]・[[郡制]]を制定した。 [[1889年]](明治22年)に内閣総理大臣に就任。[[超然主義]]をとり軍備拡張を進める。第1回[[帝国議会]]では施政方針演説において「主権線」(国境)のみならず「利益線」(朝鮮半島)の確保のために軍事予算の拡大が必要であると説いた。[[1891年]](明治24年)に辞任<ref>第1回帝国議会での予算案審議に際し、[[自由党 (日本)|立憲自由党]]議員の一部を買収して予算案を通過させたことに対する批判の責任を取ったもの。</ref>し、[[元老]]となる。[[日清戦争]]や[[日露戦争]]では戦争遂行の指揮をとったが的外れのものが多く、日清戦争時は「[[天皇]]に軍情報告せよ」という名目で第一線から呼び返されたこともある。 [[1898年]](明治31年)、[[第2次山縣内閣]]発足。 [[1899年]](明治32年)、[[文官任用令]]を改正<ref>省庁、特に[[内務省]]の高級官僚から[[憲政党]]などの政党員を締め出し、子飼いの官僚を多く配置するためである。この努力も、のちに[[原敬]]によって押し戻される結果になる。</ref>。[[文官懲戒令]]、[[文官分限令]]を公布。 [[1900年]](明治33年)[[3月10日]]、政治結社・政治集会の届出制および解散権の所持、軍人・[[警察官]]・宗教者・教員・[[女性]]・未成年者・公権剥奪者の政治運動の禁止、[[労働組合]]加盟勧誘の制限・同盟罷業([[ストライキ]])の禁止などを定めた[[治安警察法]]を制定し、政治・労働運動などの弾圧を進めた。 続いて[[3月29日]]、[[衆議院議員選挙法]]を改正し、選挙権を地租または国税15円以上から10円以上に緩和(さらに、国税は過去3年間から2年間に緩和。地租は1年間で変化無し)すると共に、[[小選挙区制]](一部完全連記制の中選挙区制)から[[大選挙区制]](一部小選挙区)に改めた。市制を執行している自治体はそれぞれ独立した選挙区とし、都道府県の郡部でそれぞれ1選挙区とした。このため、東京・大阪・名古屋などを除く大部分の都市は人口が少なく、定数1の小選挙区となった。また、[[記名投票]]を[[秘密投票]]に改め、小学校教員の被選挙権を禁止した。山縣は[[政党]]政治を嫌い、議会勢力と一貫して敵対した([[超然主義]])。 小選挙区制は強大な政党が生まれやすいことから、大選挙区制に改め、小党を分立させれば議会の懐柔がしやすくなるという計算があった。また、政党が農村部で発達し始めたことから、選挙区の組み替えや国税納付の資格を緩和することで、これまでの地盤を破壊し、政府や都市部の意向を反映した議員を生み出しやすくする狙いがあったといわれる。もっとも、小選挙区が残ったこと、政党そのものが発展途上の時期であったことなどから、大選挙区制の下でも、むしろ議席は大政党への集中が進んだ。同年10月辞任<ref>政敵である[[伊藤博文]]が[[立憲政友会]]を設立し、総裁に就任したことに伴うもの。辞任に際して後任に伊藤を推薦した。政友会設立直後のため体制が整っておらず混乱することを見越してのことである。</ref>。 === 陸軍のドン === 以後は、陸軍・内務省・宮内省・[[枢密院]]などにまたがる「山縣系官僚閥」を形成して、陸軍では[[桂太郎]]や[[寺内正毅]]、官僚では[[清浦奎吾]]や[[平田東助]]らの後ろ盾となって政治に関与するようになる。日露戦争では[[参謀総長]]として日本を勝利に導いたこと(ただし明治天皇は、山縣より桂を信頼しており、山縣の頭越しに桂へ諮詢することもあった)、[[伊藤博文]]が[[暗殺]]されたことにより、明治末期から大正初期にかけては山縣の発言力は増大した。 だが、桂の自立([[大正政変]]を参照)、[[大正デモクラシー]]や[[社会運動]]の高揚、[[第1次世界大戦]]など、山縣は次第に時代の変化に追いつけなくなり、桂の死後には寺内や清浦らも独自の道を歩みだすようになる。そのような中で[[政党内閣]]の時代を迎え、やがて[[宮中某重大事件]]を巡る対応の拙さから山縣の政治的な権威は大きく失墜した。 宮中某重大事件の後、ほどなくして山縣は失意のうちに逝去する。{{享年|1838|6|14|1922|2|1}}。 == 山縣への評価 == === 周囲の評価 === [[画像:山縣有朋墓1.jpg|200px|thumb|[[護国寺]]内 山縣有朋墓]] [[画像:山縣有朋墓2.jpg|200px|thumb|左が有朋の墓。右が夫人の墓]] [[画像:Kokian.jpg|right|200px|thumb|晩年を過ごした[[古稀庵 (小田原市)|古稀庵]]<br /><small>([[神奈川県]][[小田原市]][[板橋 (小田原市)|板橋]])</small>]] 自由民権運動の弾圧や、[[大逆事件]]を積極的に推し進めたこと、[[宮中某重大事件]]での宮中への必要以上の容喙等から山縣の人気は生前から低かった。山縣の権威が失墜した宮中某重大事件は[[西園寺公望]]が山縣に相談したことをきっかけに山縣が動き始めたものであったが、世間では[[藩閥]]間の対立ばかりが強調されて捉えられて、結果的に山縣一人が「悪者」となった側面もある。しかし、この事件をきっかけに山縣を追い落とそうとした勢力が強かったという事やそれを後押しした世論が大きかった事を考えれば、山縣に反感を抱いていた人がいかに多かったかを示した事件との見方もある。 その死に際しては、維新の元勲として[[国葬]]が行われたが、参列したのは陸軍や警察の関係者がほとんどで、一般の参列はあまりなかった。これに対し、ほぼ同時期に行われた[[大隈重信]]の葬儀は、同じ首相経験者であり維新の[[元勲]]であったのにもかかわらず国葬にならなかったものの(「国民葬」とされた)、各界の著名人が出席し、一般参列者によってごった返すなどあまりに対照的だった。当時、新聞記者だった[[石橋湛山]](後の首相)は山縣の死を「死もまた、社会奉仕」と評した。また、別の新聞では「民抜きの国葬」と揶揄された。 皇室でも不人気だったらしく、[[明治天皇]]は山縣に「[[キリギリス]]」というあだ名をつけていた。明治天皇は、陰険な山縣よりも、明朗快活で冷静であった[[伊藤博文]]や日露戦争を指導した[[桂太郎]]、幼馴染であった[[西園寺公望]]を信頼していた。また、[[大正天皇]]は、山縣が宮中に参内したとの知らせを聞くと、側近達に「何か、山縣にくれてやるものはないか?」と、尋ねることがしばしばであったという。言うまでもなく、何か参内の記念になるものをやって、さっさと帰らせようとしたのである。 また山縣がもつ異常なほどの権力への執心、勲章好きについて[[原敬]]は「あれは[[足軽]]だからだ」という一言で述べ、軽蔑の意を込めていた<ref>原敬は[[盛岡藩]]の[[家老]]家出身である。</ref>。 現在[[東京市|東京]]中心部の[[道路]]は狭いといわれているが、明治期の基準ではむしろ異常なほど広い道路だった。この広い道路は将来の発展を考え、山縣が周辺の反対を押し切って作ったものである。これは彼の功績と言ってよい。 [[茶道|茶人]]として知られ、和歌も好んだ。また[[日本庭園|庭園]]好きとしても知られ、京都の[[無鄰庵]]、東京の[[椿山荘]]は、山縣が7代目[[小川治兵衛]]を抜擢して築かせたものである。他に[[大磯町|大磯]]の[[小淘庵]]、[[小田原市|小田原]]の[[古稀庵 (小田原市)|古稀庵]]がある。ただ、これらも謂わば[[成金趣味]]として眉をひそめる人が多かったと伝えられる。 === 軍内部に与えた影響 === 山縣の元[[長州藩]]出身の軍人ばかりを要職に就かせる手法は[[長閥]]と呼ばれ、嫌う者も非常に多かった。また近代日本初の大掛かりな[[汚職]]疑惑に絡み、一旦は辞職もしている([[山城屋事件]])。とはいえ、明治の[[元勲]]だけあって、軍部への影響力は計りしれないものがあった。 [[1912年]](大正元年)に起きた「陸軍二個師団増設問題」において、[[第2次西園寺内閣]]の[[陸軍大臣]]であった[[上原勇作]]に辞表を提出するように意見書を出している<ref>実際に送られた書簡を[[インターネット]]で閲覧できる。[http://www.ndl.go.jp/modern/cha3/description01.html 3-1 2個師団増設問題]([[国立国会図書館]])参照。</ref>。 陸軍内部でもこの問題への賛否が分かれていたが、最終的に辞表は提出された。そして、山縣の思惑通り、新たな陸軍大臣が推薦されることはなく、内閣は総辞職<ref>当時は[[軍部大臣現役武官制]]が施行されており、陸軍が新たな陸軍大臣を推薦しない限り、[[内閣総辞職]]をするほかなかった。</ref>して、[[第3次桂内閣]]が発足するに至った<ref>ただし、山縣自身は倒閣までは予期していなかった。西園寺内閣の総辞職とその後の桂の大命降下には、山縣により宮中に押し込められ、政権復帰を目指していた桂の策謀によるものが大きい。[[大正政変]]を参照。</ref>。これも[[寺内正毅]]と共に長州びいきを推し進めた結果である。しかし、寺内の死後、その勢力は急速に衰退し、山縣の死をもって長閥勢力の終わりは決定的となった。 しかし、昭和天皇は軍人として山縣のことを高く評価していたようである。[[昭和天皇#敗戦観|昭和天皇]]の項目を参照。 == 栄典 == * 明治10年11月2日:[[勲一等旭日大綬章]] * 明治17年7月7日:[[伯爵]] * 明治28年5月26日:[[元勲|元勲優遇]] * 明治28年8月5日:[[勲一等旭日桐花大綬章]]、[[金鵄勲章|功二級金鵄勲章]]、[[侯爵]] * 明治31年1月20日:[[元帥]] * 明治35年6月3日:[[大勲位菊花大綬章]] * 明治40年9月21日:[[大勲位菊花章頸飾]]、功一級金鵄勲章、[[公爵]] * 大正11年2月9日:[[国葬]] <!--従一位になったのはいつだろう?--> == 系譜 == [[山縣氏]]は[[清和源氏]]多田氏の流れと言うが明確ではない。家名はその祖が[[安芸国]][[山県郡_(広島県)|山県郡]]今田村に住んだ事からとされる。父は蔵元付中間。母は[[武家奉公人|中間]]岡治助の娘。[[家紋]]は丸に三つ鱗。 有朋には跡継ぎが無く、姉の壽子と[[勝津兼亮]]の次男[[山縣伊三郎|伊三郎]]を[[養子縁組|養子]]として迎える。伊三郎は[[枢密院|枢密顧問官]]・[[逓信省|逓信大臣]]・[[徳島県]][[知事]]等を務める。有朋の姉、雪子は[[森山久之允]]に嫁す。伊三郎の子[[山縣有道]]は宮中に仕え[[侍従]]・式部官を務める。また、有朋の娘・松子と[[船越光之丞]]の三男[[山縣有光|有光]]を養子に迎え、山縣家分家として[[男爵]]を授爵された。有光は陸軍[[大佐]]・第21飛行団長。有道の子[[山縣有信]]は[[栃木県]][[矢板市]]長を務めた。 <pre>            (旧姓中村氏) 吉左衛門━吉左衛門尚政=三郎有稔┳有朋=伊三郎━┳有道━┳有信━━有徳━━有成                 ┃  ┗松子↑ ┃   ┃                     ┣壽子     ┣清子 ┣美枝子                  ┃ ├─伊三郎 ┃   ┃                 ┃勝津兼亮   ┣三郎 ┗美智子                 ┃       ┃                 ┗雪子     ┣吉朗                         ┃                         ┣壽美子                         ┃                         ┣五郎                         ┃                         ┣有光(船越光之丞三男、男爵)                         ┃                         ┗七郎                          </pre> == 脚注 == <div class="references-small"><references /></div> == 関連項目 == * [[第1次山縣内閣]] * [[第2次山縣内閣]] * [[超然内閣]] * [[選挙方法]] * [[舞姫]](登場人物である天方伯爵のモデルは山縣と解釈されている) == 外部リンク == * [http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/208.html 山県有朋 | 近代日本人の肖像] * [http://www.general-yamagata-foundation.or.jp/ 山縣有朋記念館] * [http://www007.upp.so-net.ne.jp/togo/human/ya/aritomo.html 山縣 有朋略歴] * [http://www.mmjp.or.jp/askanet/ending_yamagata_family.htm 山県一族の墓]  * [http://www.hakaishi.jp/tomb/05-29.html 日本の墓:山県有朋] * [http://episode.kingendaikeizu.net/14.htm 系図でみる近現代 第14回] * [http://www.fourseasons-tokyo.com/garden/guide/ フォーシーズンズホテル椿山荘東京庭園] * [http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1333.html 山県 有朋:作家別作品リスト]([[青空文庫]]) [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年6月26日 (木) 16:24]     

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