樺太(からふと)は、日本列島最北端、北海道の北に位置する樺太島(露:Template:lang?(サハリン)、中:庫頁島(クイェとう、ピン音Kùyè))を指す地域名称である。また、この名称は、日本領有下において南樺太及びその付属島嶼を指す行政区画名として使用された。現在はロシア連邦が自国領である北サハリンに加え、南部も実効支配しているが、ソ連はサンフランシスコ講和条約に調印しておらず、日本政府は国際法上、南樺太は所属未定地であるとしている。また、太平洋戦争において日本本土最後の地上戦が行われた。
この項目では、原則的には、日本が敗戦により行政権を失う前について記述する。それ以降についてはサハリン州の項目も参照されたい。
「からふと」の名は、一説には、アイヌ語でこの島を「カムイ・カラ・プト・ヤ・モシリ kamuy kar put ya mosir」と呼んだ事に由来すると言う。これはアイヌ語で「神が河口に造った島」を意味し、黒竜江(アムール川)の河口から見てその先に位置することからこのように呼ばれたとされる。
江戸時代は北海道を指す「蝦夷地」に対して、「北蝦夷」と呼ばれていた。のちに明治政府が北海道開拓使を設置するにあたり、北蝦夷地を樺太と改称、日本語に樺太の地名が定着した。
「サハリン」または「サガレン」の名称は、清の皇帝が3人のイエズス会修道士に命じて清国版図測量中に黒竜江(満州語名:サハレン・ウラー)河口対岸に島があると聞き、満州語で、サガレン・ウラ・アンガ・ハタ(黒竜江の対岸の島)という名で呼んだことに由来する。ただし、清は樺太の存在を認知したが、清国領とは見做さなかった。
なお、日本が南樺太を領有していた時代には、単に「樺太」と言えば南樺太を指したため、区別の必要から北樺太を薩哈嗹(サガレン)と呼ぶ場合も少なくなかった。
樺太島は、面積76400km²で、北海道よりやや小さい島嶼である。
日本列島最北端に位置し、南の北海道とは宗谷海峡で、西のユーラシア大陸とは間宮海峡で隔てられており、東はオホーツク海に面している。なお、2万年ほど前には海水面が低下し、今日のユーラシア大陸・樺太・北海道は地続きだったと考えられている。 江戸時代までは、樺太・北海道・千島列島の総称が蝦夷地であった。
樺太島は、ポーツマス条約による分割によって北緯50度線を境界として、北のソ連領と南の日本領に分断された。この記事では以下、北緯50度以北を北樺太(北サハリン)、以南を南樺太とする。
北樺太(北サハリン)は、樺太・千島交換条約以来のロシア領であり、ロシア帝国時代は沿海州、ソビエト時代は当初ハバロフスク地方、その後はサハリン州に属し、ロシア連邦となった現在も引き続きサハリン州に属している。代表都市はオハやアレクサンドロフスク・サハリンスキーなどである。
南樺太は、日本施政下においては樺太と呼ばれる行政区画であった。地方行政官庁として樺太庁が設置され、太平洋戦争中の1942年に、外地から内地へと編入された。人口は1945年当時、約40万人であった。当時の主要な産業は漁業、農業、林業と製紙・パルプなどの工業、石炭・石油の採掘業などであった。
南樺太では樺太庁の置かれた豊原市が中心都市。
氷河期には大陸と陸続きだった。日本(間宮林蔵など)やロシア(帝国)の到達以前は南部にアイヌ民族、中部にウィルタ民族(アイヌ民族はオロッコと呼んだ)、北部にニヴフ民族(ニヴヒとも)などの北方少数民族が先住していた。
1855年、日露和親条約が締結され、樺太は「界を分たす 是まて仕来の通たるへし」と、日露混住の地と決められた日本政府外務省は日露和親条約では、樺太は日露混住の地と決められたと説明している(出典:外務省国内広報課発行『われらの北方領土2006年版』P6)。
1867年、日露間樺太島仮規則が締結され、「カラフト島は是迄の通り両国の所領」とされた『北方領土問題資料集』南方同胞援護会発行(昭和41年6月)P4。
1875年、樺太・千島交換条約により、樺太全島はロシアの領土となった。
1904年2月8日、日本は清国旅順港に展開中のロシア艦隊を奇襲攻撃、日露戦争が勃発した。1905年6月、米国大統領 セオドア・ルーズベルトの講和勧告を日露両国が受諾表明した後、日本は樺太作戦を決定し、7月7日、樺太に侵攻し樺太全島を占領した。9月5日ポーツマス条約が調印され、北緯50度以南の樺太が日本に割譲された。
1907年、日本は樺太に樺太庁を設置し、1942年にはいわゆる「内地行政」への編入を行った。
1945年8月9日、ソビエト連邦は宣戦を布告し南樺太に侵攻。9月2日、日本が正式にポツダム宣言を受諾し降伏すると、マッカーサーは一般命令第一号を発令し、樺太をソ連占領地とすることを命じた。これは1945年2月、米英首脳がソ連に対してナチス・ドイツ降伏3カ月後に対日参戦することを条件に、南樺太を返還し、千島列島を引き渡すという密約を与えたヤルタ協定に基づいて行われたものである。
1946年1月29日、GHQの指令SCAPIN-677が日本政府に通達され、日本の行政権が停止される。同年2月2日、ソ連は南樺太・千島列島を南サハリン州とし、これをロシア共和国ハバロフスク地方に編入した。
1952年、カイロ宣言やポツダム宣言に基づき作成されたサンフランシスコ講和条約第二条に「南樺太と付属島嶼の放棄」と記載されている。これに基づき、日本は南樺太の領有を放棄したが、その後の南樺太の領土帰属に対して、日本とロシアの主張に差異がある。
日本政府は、サンフランシスコ講和条約にソ連は調印せず、その後も南樺太の領有に関する条約や協定等が締結されていないため、「国際法上南樺太の帰属は未確定である」との立場を取っている。一方ロシア側は、ソ連はサンフランシスコ講和条約に調印しなかったが日本は国際条約で領有権を放棄している、ロシアの南樺太領有は戦争の結果であり、また既にソ連国内法により編入されているとの立場を取っている。
一方、日本国には南樺太の領有権問題を主張する人も存在するが、上記の通り日本が領有権を放棄したことについては日本とロシアの主張に差異が存在しないため、一般的に議論の対象になることは少ない。
なお冷戦下の1952年3月20日にアメリカ合衆国上院は、南樺太及びこれに近接する島々、千島列島、色丹島、歯舞諸島及びその他の領土、権利、権益をソビエト連邦の利益のためにサンフランシスコ講和条約を曲解し、これらの権利、権原及び権益をソビエト連邦に引き渡すことをこの条約は含んでいない、とする決議を行った。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月1日 (木) 10:27。