真紅の薔薇は殺戮の味

君に新しい意味を与えてくれよう


その一文字こそが君の過去を葬り

君を新たな旅へと誘う



『新しい君だ』




 身を裂くように冷たく、凍て付く風が頬を撫でて過ぎ去ってゆく
 身体が鉄の塊のように重く、そして氷のように冷え切ってとても寒い、
そして焼け付くように痛い、まるで休むことなく持続するこの感覚は、
明らかな悪意を持って僕の身体を蝕んでいた

 漣の音が、塩をたっぷりと含んだ重々しい水の塊が岩盤に打ち付ける音が、
今の僕のこの有様をあざ笑うかのように絶えず繰り返し響き渡る…ただそれだけが耳に届いてくる

 視界はすっかり濡れ切った砂の灰色だけ
 うつ伏せに寝そべっていることが容易に想像できる、僕は今、身体全体が重力によって縛り付けられるかのように、
この海岸と思しき場所の砂浜でただ一人動けなくなって、ポツンと打ち捨てられているに違いない

 このままでいれば間違いなく死ぬ
 身体は思うように動かず、言うことを聞かない…誰かの助けなくしては立つことは愚か、
こうして意識を繋ぎ止めて重たい瞼を開けているのがやっとなのだから。
 けれどもそれも終わりが近いようだ…
 目覚めてそうそう、カゲロウのように運命付けられた短い生涯に幕を閉じることを、僕は既に悟り、
ただこうして遠くに感じる激痛を第三者の事のように隣にしながら、目前の死を見据えて待つだけなのはわかっていた

 けれども何の感慨も湧かない、ましてや悲しみや絶望など悲哀に満ちた感情など有りはしない
 何故なら、この世に置いて行く物は何もないからだ
 有ったとしてもそんな記憶は無い、在るのは今、こうしてここでのたれ死ぬという事実と実感のみ
 どうして喪失感など在ろうか、どうして無念など在ろうか、ここで素直に終わりを受け入れれば、
失うものを得ることなく終われる、ある意味至高な、一瞬の人生ではないか
 存在意義を知らない僕はこの死を『幸福』と呼ぶ…

 僕の意識は再びまどろみの中へと暗転した




 あの世はどういう場所か、そんなものに興味はなかったし、想像した事もなかった
 ただ、此処が死後の世界ではないという事だけは確かなようだ

 頬に触れ密着する妙に暖かいこの感触は既にあの砂浜の物ではなかった
 動物の毛…いや人工的な布なのだろうか、温かくて乾いていて、あの場所とは対象的な、
安らぎを与えてくれる妙な心地よさが僕を包み込んで放さなかった

 黒一色だった視界に裂け目が入り、楕円状に開けて光が射し込む、
初めはぼやけていていたが、ようやく色を識別出来るぐらいにまで視力が回復すると、
最初に認識できた対象物は紅色に輝くシャンデリアと、それを吊るしたベージュ色の天井だった
 首を捻って右の方へと視線を逸す。
 頭が転がる際、何か細かい物の集合物が潰れ擦れる音が聴覚へ直に響き、それが羽毛の枕である事に気付いた
 視線の先には壁がある、壁と言ってもそこに行き着くまでにまず紅色のカーペットが敷き詰められた床が存在し、
僕の近くには、布団、いやベッドと思わしき白い床の段差があった。
 壁には明るい色調の木製ドアが在るが、そこへたどり着くまでには結構な距離があることから、
此処はそこそこの広さが在る何処か広い敷地の建物の一室だろうと推測する

 さっさと起き上がって状況の把握へ出たい処だが、今の僕の身体は意識を取り戻す前、
海岸らしき場所に倒れていた時と変わらず重く、力すら入らなかった
 首から下から指の先に至るまで感覚が麻痺しているようで、しかも何かにのしかかられているかのように重い

 のしかかられている、違う、そんな比喩的表現では済まされない、何かが乗っかっているんだ


「っ……?」


 悲しいかな、上体を動かすことすら叶わないこの有様では【そいつ】が何者なのか確かめられないというのか
 体温が在る、寝息のようなものを立てて身体が僅かに、一定のリズムで動いている、
接触部位は膝の辺り、猫のように身体を丸めている、いやもしかしたら本当に猫かもしれないがやけに重い。
 人間の少児ぐらいが妥当な重さだろうか、だとしたら僕を担いでここまで連れてこれるだろうか?
 答えは思考するまでもなくNOだ、多分、彼、もしくは彼女以外にも成人が居たに違いない
 偶然そこに居合わせたのか、どういう経緯なのかは存じないけれども、個々へ辿り着くまでに、
他者の干渉が無かったなんて事は有り得ない。

 だとしたら、僕はその人に会わなければならない。それは礼なんてもののためじゃない、

何故僕をあのまま放って置いてくれなかったのか

ただそれを問い詰めたい、圧倒的な嫌悪を持ってしてこの問を投げつけてやりたい

 壁に掛けられた時計の針、分針が八週を終えた頃、枕に付けた耳がかすかな振動から足音を汲み取った
 靴は厚底のブーツ、人数は1、体重、いや歩幅からして成人男性、痩せ型
 遅れてテンポが桁違いに早い足音が反響してくる
 今度は複数人、全員軽く、うざったいぐらい無邪気に駆けている、間違いなくお子様だ

 温かな輝きで魅了するシャンデリアへ某然と視線を注いでいたが、
言葉の通じる奴が来たのなら何でもいい、立て続けに質問をぶつけてやる、
嫌なら出て行くか、僕をつまみ出すか好きにすればいい

 扉が風で仰ぐかのような勢いでけたたましい音を立てて開く

「起きたー?起きたー?
「怪我大丈夫?痛くない?」
「何処から来たの?お名前は何ていうのー?」

 迂闊だった、逆に歓声にも近い肉声の騒音がドッと雪崩のように押し寄せ逆に質問攻めにされてしまう
 子供は無邪気で正直だ。知っての通り病人の部屋だっていうのに御構い無しに跳ね回り、
埃を巻き上げて無我夢中で走り回っている。
 耳鳴りがした、別段子供は嫌いじゃないし、悪い気もしないが今は勘弁して欲しい

「皆やめないか!彼は怪我人なんだぞ!」

 子供達より遅れて部屋へ駆け込んできたのは最初の足音の主であろうと思われる男だった
 整えられていない黒でボサボサの髪は肩まで有り長く、黒縁の丸眼鏡が男の気弱そうな目を囲んでいる
 予想通り痩せ型、というか骨皮で頼りない印象が前述の要素も助けて全面に浮き出ており、
典型的な保護者、それも子供に振り回されるタイプだと認識させて貰った

 僕はその子供達と男をどういう目で見ていたのかは覚えていない
 特に何か意識していた訳でもなかったが、多分、とても不愉快な目付きをしていたんだと思う
 ほどなくして彼と彼、彼女等が動きをピタリと止めて一斉に首を回して僕の目
特に僕の目の奥にある心境から期限を伺おうと猛獣を見るような面持ちでこちらを眺めていたのだ

「ゴホン……済まなかったね、起きて早々騒がしくして」

 男は傾いたシーソー並にすれている眼鏡を整えて直し、片腕を上げて、
切って貼ったような作り笑いを浮かべて僕に歩み寄り話しかけてきた
 傍では彼の足に隠れながら物怖じしつつこちらを見つめる少年少女が二人、
そして彼の背後で横一列にまとまりの無い配列を作って並ぶ少年少女が八人程

「……別に、気にする程じゃない」

 嘘だった
 正直言って僕は雑音が嫌いだ、毛程も、そう大嫌いなんだ、何時でも言ってやる、大嫌いなんだ
 記憶こそないが、漠然とこういう人が集まって騒ぎ立てる会話の影には人を傷つけるような、
それこそガキの振り回す包丁のような危なっかしい言葉が平気で飛び交うものだと認識している
 冗談であったとしても人が不快な思いをするような事を遊びのつもりで振り回すのも振り回されるのも嫌だ、

そういう奴こそこの世から根こそぎ消さないといけないんじゃないかとさえ考えてしまう


「本当に大丈夫です…本当に」

 僕の中に記憶は無い、けれども自分がどういう人間で普段どういう人間だったかという漠然とした認識は在る
 今の僕の思考は、漠然としたそれに基づかない、確かなズレがある
 僕は自分自身からそうするように、彼等から顔を背けて糸切れのように細々とした声で囁き、
返答を待つことなく枕中に両面を埋めてだんまりを決め込んだ

「そうかい、なら良いんだ、うん」

 男の発する言葉はぎこちなかった
 妙に余所余所しく、話しかけてくる癖に一定の間合いを図りそれを越えない、会話しにくいタイプだ

「それより、まずは僕の上に乗っかってるそいつ、退かしてくれませんか。話はそれからです」

「へ……凉里ィ!?何をやっているんだ降りて!早く降りなさい!」

 男が視界の届かない足元へとスリッパを片方残して駆け出す
 凉里と呼ばれたそいつは、身体を猫のように丸めている黒髪和服の少女で、
眠ったまま男につまみ出されてソファーに投げ飛ばされてしまった

「やーすまないね…ここの子達は悪い子ではないんだが、時々居るんだあーいうのがね」

 男は再び僕の目の前に立つと頭をかきながら何度も何度も繰り返し頭を下げてきた
 そういうのは良いからちゃんと会話させて欲しい、切実に

「いい加減頭を上げてください、聞きたい事があるんです」

 男の頭が上下する動作が丁度頭を下げたタイミングでピタリと止まり、眼鏡を整えながら上目遣いで僕を見返す
 物怖じしている目つきだが、かすかに口元が動き、出かかった言葉を足踏みさせているようだった
 今自覚したが、僕自身もまた質問される立場に在るらしい。それもその筈だ、
僕は今の今まで訳もわからず海岸に打ち上げられていた身元不明の人間……の筈だからだ
 しかしここで躊躇していては埒が明かない、何しろ相手はこちらが言葉を発するのを待っている

「まずは僕が貴方が何者なのか、
 自分はどういった経緯でここにいるのか、
 ここが何処なのか、この3つだけは確認させて欲しい」
「経緯……君、何も覚えていないのかい?」
「…何も?」
「いや……そうか、覚えてないのか…」

 男は目を丸くして僕からの申し出を聞き取り、暫く阿呆みたいに保うけていた…
 記憶など無いのだから何も覚えちゃいないのは当然だが、海岸で意識を失って以降の事も知らない、
あの後から今に至るまでの間に何かがあったとでもいうのか

「おっと、質問で返すのは失礼だったね。私はヘレン・テーラー
 そして此処は月見浜町、この建物はワークハウスだ」

 月見浜にワークハウス、何れも聞き慣れない単語だった
 ワークハウスとは即ちこの施設の名前、そして月見浜とはその施設の所在地だろうが

「月見浜…?」
「なんだ、ワークハウスはともかくとして街の名前も知らないのかい
 まあそれも仕方ないか…君は此処とは違う場所から流されてしまったんだね…何処に住んでいたんだい?」

 どうやら月見浜の海岸に僕は打ち上げれていたようだ、何故それでこのワークハウスに連れてこられたのか、
あの子供達を見ていればだいたい想像はつく、つまりここはそういう場所なのだ
 そして僕はそういう場所にこれから世話になるかもしれない、何故なら…

「……」
「?…何か気に障ることでも言ってしまったかな」

「…覚えていません」

 悩んだ末にやっと絞り出した言葉がそれだった
 嘘は付いていない、僕は本当に何も知らない、何も覚えていないのだから、
答えを用意することなんてできるはずがないんだ

 流石に信憑性が低い回答だったのだろうか、さっきまでの恵比寿のように柔らかい表情が引き締まり、
疑る目でこちらを凝視してくる

「すみません、本当に何も知らないんです。気が付いたらあの海岸に倒れていただけ、
 それしか、今の僕の口から説明できることはありません」

 自分でも気が確かなのか疑う告白だった。それは言葉の直接の意味合いではなく、
何より驚いたのはこの悲観するべき事実を淡々と自白できてしまうことだった
 失ったものが何なのか、それすらも知らない内はまだ幸福なのかもしれない、
生まれてきて、まだ何も持たない赤ん坊が笑っていられるのもそういう事なのだろうか

 テーラーも、後ろの子供達も顎が外れたのかぽかんと口を開け目玉を大きく見開いて驚愕し石化している
 正直言って僕も驚きを隠せない。今更だが…

僕は僕の事を何も知らないのだ




して、それからその子供は

酷く混乱してますな。記憶喪失のようで、とてもああなるまでの経緯は説明出来るような状態で無いかと

ほほー?もしかしたら、嘘はついてたりしませんかね

嘘なんて言う理由でもありますかねぇ…そうは見受けられませんが

兎にも角にも、この事は町長に知られる前に真相を明確にしないといけませんな。強硬策を取ってもいい

ご冗談を、得体が知れない『生物』とはいえまだ子供なんですよ?

あなた事の重大性を認知していないからそんな事が言えるのですよ。何故ならアレが見つかった場所は…

…例の噂ですか。わざわざ立ち入り禁止区域にして…馬鹿馬鹿しい





 身体は大分軽くなった。まともに動けるようになるまで二日程経過し、ようやく開放感を得られると思うと、
このまま思考停止してても良かったのと退屈から逃れられるのとの二つで複雑だった

 しかしそんな鬱積した思考はある事実の発覚によって月まで吹っ飛ぶ勢いで消し飛ぶこととなった
 それは僕自身、そう僕そのものがそうさせたのだ

「なん…ッだこれはあぁぁァァァアアアァァッアアアァァァァァツ!!」

 木だ!腕そのものが木のような質感になっている!
 ニスで丁寧に磨かれた木製の家具のような不自然な滑らかさと硬質化、木製の義手なのか?
 違う、上着を乱暴に脱ぎ捨て腕の付け根を確認すると、継ぎ目らしいものはなくグラデーションのように肩から左腕にかけて、
肌色からダークブランへ変色しており、これが僕の腕そのもの、人の身体と一体化した植物の腕である事を理解した
 爪はマニキュアを塗ったように赤いが光沢が鈍い、花びら、硬質化した薔薇の花びらが爪となっている

 腕だけではない、身体の部分部分、細かいが植物化している箇所がある
 僕は気が動転してベッドから転げ落ちている事に気付く
 いや冷静にそんな事に気付いただけまだ冷静なんじゃないか?呼吸はまるで定まらないし瞬き一つ出来ないが

 ひとまず上体を持ち上げて立ち上がる
 これまたまか不思議で不気味なんだが、足の感覚は普通だ、何の相違点も無いし立っているという自覚も触覚から得られる
 他の生身の部位と全く同じように相違点無く動かせるのだ、むしろ精密性に至っては生身を超えるかも知れない
 何故なら爪の先まで感覚があるからだ、爪で物に触れたという感触はあるし指先の指先にまで力が入る、
糸通しとか裁縫とか器用さを要する作業には申し分もない筈

 二三歩前へ踏み出すと鏡がタンスの上に設置されていて自分の姿と部屋の様子、やわらかな風に煽られるカーテンなど、
その空間に存在する全てが鮮明に映し出されている
 僕と思わしき人物は灰色の半ズボン以外は何も身につけず背中まで有る桜色の長髪をそよ風に揺らし、
金色と緑が入り乱れた瞳が僕を真っ直ぐに見つめ視線を投じていた

 髪が時々強くなる風に煽られる旅に、薔薇の花びらへ変異し抜け落ちては生えるを繰り返している
 花はカーペットの上に舞い落ちると瞬く間に萎んで消えてしまった

 ようやく漠然と把握出来てきた…僕は植物人間なんだ







「おはようございます」
「おはようございます」
「おはようございます」
「お、おはようございま…」
「おはようございますッ」



 僕の寝ていた部屋は二階
 なるべく植物化している部位を隠せるよう、大きめの服とシルクの手袋をクローゼットから拝借し一階のラウンジへ降りると
一昨日の子供達の他に体格から僕と同年代(とすると僕は10代なのか)の女性も混ざって挨拶を交わし合っていた
 どうもこういう事例に適応できないのか返事をする僕の声はおぼつかず、言い終えるのを待たない女性の声の大きさに気圧される

「もう動いて大丈夫なの?」
「ええ、お陰様で何とか…」

「そう、それは良かった。ナタリア・レナードよ。よろしくね」

 その女性ナタリアはやや内巻きのミドル黒髪で、何処と無く大人というか誠実さと頼り甲斐の有る雰囲気を持ち合わせた女性だった
 声の大きさと遠慮抜きにした行動を除けば…の話だ

「ほらぼーっとしない!握手握手!」

 突き出すように差し伸べてくる左手、半ば強引に僕は仕方なく握手を交わす事になる…

…しまった、左手だ


「硬いわね、あなたも義手なの?」
「あなた…もだって?」
「ええ、私もね、右手がこんななのよ」

 ナタリアはやけに長めで口の広い上着の袖を捲る。 中から現れたのは鋼の義手、
球体関節人形の腕のようなシンプルでなめらかな曲線を描く右腕だった

「ココの子供達は皆訳ありなの。勿論私もね」
「は、はあ…」
「だから、さっき気まずそうな顔してたけど気にしなくて良いのよ」

 そうとだけ言い残して会話らしい会話もせずナタリアはさっそうとキッチンへ駆けて行ってしまう、僕を置き去りにして
 どうやら僕が此処へ連れてこられた理由は、こういう事だったのかもしれない





 一週間、という時間が経過したらしい
 僕にとってはこの植物化した身体を見られないように神経が張り詰めていたのと、この施設に慣れていないのもあって
時間の経過があっという間というか弾丸のように過ぎ去った気がする

 いざという時に頼れそうなのは結局ナタリアだけだった
 訳ありの子供が多いとの事だったが義手など肉体的な意味で問題を抱えた子は少なく、
他の子供達はだいたい親なし子だったりで精神的には普通の子供なのだ、つまり僕は完璧にお化けとかの部類だろう
 その点ナタリアの存在はとてもありがたい、何しろ彼女は何が起きても動じない変わった人だからだった
 彼女がうっかりヤカンをひっくり返して足に軽い火傷をした事もあったが、
軽傷とはいえ高熱の湯を被ったにも関わらず普段の底抜けなく明るい表情が無表情になったぐらいで、
「あらあら」と呑気ながらも冷静な対処を実行していた辺り、鈍いか芯の強い女性なのだろう

「両親?母さんは私を産んでポックリ。父さんは直ぐに此処へ私を捨てたそうよ」

 と聞かせてくれた際も彼女は至って以前変わりなかった
 次第に僕は彼女に次第に心を許すようになる
 警戒し続けるのはいい加減疲れてたし、まあ案外すんなりとそうしていた、多分此処を居場所として馴染める日は近いと思う
 彼女が、僕の存在を許してくれれば…の話だが



我々の新たな同志、【XIV】に目覚めが訪れた

さあ、迎えに行こう

そして【自覚】させるのだ

己の果たすべき役割を

存在意義を




 一週間と一日。僕があの施設で寝泊まりを始めてからようやく外出の許可が館長のテーラーから出た
 ナタリア程度に、なので門限は6時までとの事だが身体は普通に動くし、別に制限なんて鬱陶しいだけなのだが、
同行してくれるナタリアは体力的に弱いため丁度いい外出時間ではあった
 彼女はせっかく月美浜町に来たんだから名所を回るといいっと言って誘ってくれた
 ワークハウスを出て彼女は両足を交互に繰り出し一歩一歩歩むごとに名所の名前を箇条書きで読み上げる、
例えば物を【物を埋めてはいけない場所】とか、何故埋めてはいけないのか、
それは限られた人間しか知らず、少なくとも僕等のような一般人は必要ない事のようだ
 学校、というものもあるらしい。記憶こそないが既に概要は粗方把握している、早い話が教育【施設】だ
 とザックリ言ってしまうと「やだー怪しい研究所みたいじゃない!」と吹き出してしまった、事実を述べただけなのに…
 リディアはとっくに学校へ通う事を辞めていたらしい。理由は言わずともがな、
【義手】と【義足】だ。ナタリアは生まれつき右手両足が無い、父親がワークハウスへ捨てた理由も、
学校で他の子供からからかわれたり、悪戯で義足を外されるのも、全ては【普通】ではないというだけの理由だろう

「どう?この辺りかな?」
「あの日は曇ってたからな。ちょっとよくわからなけど多分違うと思う」

 彼女は潮風と冬の澄んだ日差しを背に受けエプロンを靡かせて問う
 場所は浜辺、バックにある海は比較的穏やかで海猫が飛び交っている、絵に描いたような喉かな海だ
 降り注ぐ陽光は暫く屋内で暮らしていたせいか慣れなかったが、頬を撫でる潮風と漣の音色が心地良い

 僕はナタリアと共に、僕自身が打ち捨てられていた砂浜を探しに出ていた
 この月美浜町は土地の位置関係状三方向海に囲まれており、更に岸壁などで区切られているため浜辺なんていくらでも有るそうだ
 今ナタリアが案内し自分の姿を投じて一つの絵になる光景にして見せてくれた光景は、どうもあの場所とは異なるようだった
 ナタリアの居る風景はそれだけで綺麗に見える、けれども綺麗であることにそこまで価値を見出せない、
少なくとも今目的を果たせない内はずっとそうだろうな、この風景画はあの場所と違って賑やか過ぎた 

「もうだいたいの浜辺は見て回ったかな…。一応観光スポットなのに昼間は全然人いないね」

 ナタリアは月美浜町全体の地図に赤サインペンで現在地に印を付ける。すると月見浜町が×印で囲まれているかのような構図になった

「?…此処は浜辺じゃない?」

 僕が指すのは今いる浜辺とは丁度町を挟んだ対局的位置関係に在る場所
 何故か赤い点線で囲われているが、海に面しているようだし港という表記もない

「あーここ?ここは確かねー…結構昔に町長さん、
 とは言っても今の町長さんの祖父だけどその人が立ち入り禁止区域に指定しちゃったのよ」

 立ち入り禁止区域か…紙面を見る限り、これといった問題は無さそうだが…
何か地質上の問題でもあるのか?それとも……
 僕は紙面の一点に射抜く眼差しで視線を落としたままこう囁く

「そこ、行ってみることはできないかな」
「ええ?」

 言いたいことはわかる、確かにわざわざ立ち入り禁止に行くのは普通ではない、
特にそこに何があるという確証があるわけではないのに
 けれども、そこには可能性として何か知られたくない事があるんじゃないか?
 此処へ訪れた時、大人から感じる妙な余所余所しさ、あれは隠し事をする時のものだ
 何かがあるんだ…観光スポットの一つを立ち入り禁止にする理由が
 それに、消去法で行くと見に行っていない浜辺は一つだけなのだ

「僕は浜辺に打ち上げられていたんだろ? だったら立ち入り禁止だろうと何処へ流れ着いてもおかしくはない」

 無論、町民であるナタリアにとっては難しい要求かもしれない
 僕なら万が一の事態が発生し責任を追求されてもこの街から追放されれば良いだけの話だ。それについて何も問題はない
 けれどもナタリアはそうはいかないだろう、ワークハウス以外の場所で居場所を見つけるのは困難だろうから

「ふーん…ま、一理あるかもね」

 けれどもナタリアは顎に手を当て数秒思考しただけで快く承諾し、微笑して頷いてくれた

「わかってると思うけど、ここから結構距離あるからそこ行ったら今日はもう帰らないとね、わかった?」

 彼女の生身の指が僕の鼻を指して軽く小突く。やや上目遣いで白い歯を覗かせ悪戯な笑みを浮かべる
 直に触れて貰えた。記憶こそないが、何故か、胸の奥が暑くなる気がした
 僕はその時、0から歩き出したあの日、目覚めてから始めて笑った気がした

「ああ、約束する。君に迷惑はかけないよ」





あなたは選ばれた人間。あなたの居場所はそこではない、あなたには相応しくない
自覚させてあげるわ。そうすればこんなくだらない世界との決別もできるでしょう
みんな消えてしまえば良いのよ





 巨大な岸壁に沿うように舗装された一本道の道路
 岸壁の頂上を見上げれば木々が生い茂り、左手側を見渡せば海、地平線の彼方遥か向こうまで続いているであろう、
穏やかな海が今日の晴天と陽光を反射しサファイアのように光り輝いている
 岸壁が大きく競り出ている辺りは道が大きくカーブしており、かなり曲がりくねった道が延々と続いていた

 風景も似たような物が続くばかりで足を動かしているにも関わらず退屈な事極まりない
 けど、退屈と言うよりかはのどかで、とても安らぐ気もする
 退屈とは何もないこと、何もないとは平和であるということ
 祝福しろ、何でもない日を。ただ祝福するだけでいい…日々の平穏を感謝しよう
 そして僕もまた感謝しなくてはならない、その平穏を誰かと共有できるということを

「ここら辺ほんっとになんにもないね!笑っちゃうぐらいにさ」
「それもいいさ。何にもしないっていうのも必要だよ」

 目的地まで後2キロ半。要所要所に現在地を記す地図が有り、そこから推測するにそれぐらいの距離だろう
 僕達はこの地図を区切りに腰を降ろして足を休めることにしていた
 歩いている最中はナタリアが岸壁の下に時々ある観光名所や、ここ特産品の蟹などがよく取れる場所などをガイドしてくれたし、
頭上を通り過ぎる鳥の名前を当てっこしたり、時々通りすがる地元の人を見つけてはその人が忙しくない限りは言葉を交わしていた
 けれどじっくりと会話を嗜みたいなら一つの場所に落ち着いて騒がしくもなく、そうリディア曰く『まったり』と、
お互いの表情や仕草を確かめ合いながら言葉の一つ一つを味わってお話ししたいな、と思う

 ナタリアはガードレールにもたれ青海を眺める、髪が潮風に揺れ、丸みを帯びた横顔が大人びて見えた

「君ってさ」

 ナタリアはあらぬ方を見据えたまま口を開く

「まだ名前…思い出せてないんだっけ」

 彼女は僕の方から始めて視線を逸らす。いつもは真っ直ぐにこちらを見つめて言いたいことを押し留めずに言うたのだが、
何を思ったのか、靡く黒髪の間から深海を思わせる暗い瞳の色を覗かせていた

「ん…まあね。でも別に困ることはないよ?」

 彼女の始めて見せる顔持ちに言い知れぬ不安を抱いたが心配する様子を見せてはいけない、
僕は何時もの、明るく真っ直ぐなナタリアでいて欲しい、
だからこういう時、僕だけでも何時もの彼女のようにしなければならないんだ

「……でも、いつまでも君を名前で呼べないのは…友達として少し寂しい」

 伏せ目がちにこう告げるナタリアの表情には影が落ちて、本人が言うようにとても寂しげだった

 そうなの?
 率直に言わせてもらえば疑問だった。今僕はとても満足している。自分の存在を少なくとも今、
君が許してくれるだけで満足だ。と言いたかったが勘違いされそうだからやめよう

「だったらさ…ナタリアが好きに呼んでくれていいよ」
「え?」
「どうせ覚えちゃいないんだ。名前なんて呼べれば良いんだよ、でしょ?」

 小首を傾げ問うてみるとナタリアは面食らったように目を丸くして驚愕していた
 多少暴論だったのか困惑し戸惑いがちに問い返す

「で、でも…それは君の過去を否定する事にならない?」
「平気平気!過去なんてお荷物でしかないのさ!僕はこれから始まるんだと思うな」
「……そう、かな」

 次第に顔を上げ僕と再び目を合わせてくれるようになった
 まだ吹っ切れない様子で瞳には戸惑いの色が見え隠れしていたが、しだいにそれも薄くなり、口元が微笑む

「私が、名付けても…いいのかな?」
「あなたに付けて頂けるなら!」

 僕はとびっきりの笑顔で返したつもりだ
 薄ら笑いだったナタリアもそれに答え、いつも通り、いや何時もより輝いて見える笑顔で返す

「ありがとう…!」
「ありがとう?」
「だって…私にこんな大事な事任してくれるなんて…思わなかったから」

 思えばナタリアも不安定な精神状態に陥って何ら不思議ではない生い立ちなのだった
 僕は彼女に救われてばかりだと思っていた、事実彼女に頼り切っている節もあったし、
それは事実だと思う…けれど、そうしてナタリアを信頼する事が、彼女の自信に繋がったのかもしれない

「クス……ねえナタリア」

 頬に手を添え、少し乾いた硬い髪を撫でて耳元で囁いた。リディアの頬は少し赤みを帯びた気がした

「僕は君のお陰で安心してあの場所にいられたんだよ
 そろそろ、君にも秘密を打ち明けても良いと思ってるぐらい、信じてるから」

 側に居て欲しい、僕のこの行き場のない空虚感が消えるまで、誰か信じられるものが欲しいんだ
 時々予感めいた何かに駆られることがある、左手は足がざわつき、自分があの場所から遠ざけられるような気がした
 だからこのままナタリアを捉えていたい、名前という存在意義を彼女から貰って、繋がったままでいたいんだ
 けれどもナタリアが何かを言おうと、口を開きかけた時……そんな望みは砂上の城のように崩れる音がした

「くだらない」
「!?」

 それはか細い少女の声だった
 声の主の少女は、金色の光を讃えた虚ろげな瞳でこちらを真っ直ぐ凝視し、長い銀髪を靡かせていた
 その少女の姿を見るや否や、ナタリアの表情には暗い影が落ちている、
僕の場合は、敵意を剥き出しにした嫌悪感を抱く人間の目だったかもしれない

「華菜…」

 彼女の名を囁く僕等の声は決して穏やかではない
 華菜という名の少女はワークハウスの住民の一人だ
 人集う場所につきまとうように現れ、ただ傍観しているだけかと思えば、冷淡な口ぶりで会話に割って入り、
時にはわけもわからず『気まぐれで』暴行を働き、鼻で笑うような女
 無表情だがその仮面の裏では常に人を見下しているのだろう

「…………卑しい人達ね。そんなごっこ遊びをしてないと落ち着けないのかしら?目も当てられない」

 いつもこうだ
 一体何をしたくてこいつは人に付きまとうのだろうか

「行こうナタリア」

 関わるだけ無駄なんだ、無駄無駄。こいつと何度か会話をしてわかったことだが、こいつは絶対に自分の非を認めない、
悪いのは周囲、全てが気に入らず常に毒を吐きちらかさなけらば落ち着かないんだろう
 僕は構わずナタリアの腕を引いて奴の肩を透かし通り過ぎようとした
 その刹那、そう余韻すら残さない一瞬

「あなたには相応しくないわ、こんな女」

 ナタリアが、確かにこの手でしっかりと手を繋いだはずの彼女が……『消えた!』

「!?……ッ…!?…ナタリアッ!」

 居ない、右にも、左にも、何処を見回してもナタリアの姿が痕跡を残さず消えている!
 あるのは、自らの銀髪を撫で、初めて見える悪意に満ちた反吐が出そうな微笑みを浮かべ、
背に潮風を浴び学生服を靡かせる華菜のみ

「テメェ……!」

 腑が煮えくり返りそうだ、拳を握りしめ、手袋には血が滲み始めている
 歯を食いしばっていると聴覚に直に骨の軋む音が頭の中で反響し、抑えきれない衝動で頭がどうにかなりそうだった

 これが『怒り』だ、今の今までこの高慢な女に抱いていた『殺意』だ!



「ナタリアを何処へやったアアアァァァァァァッ!!」





←To be continued….

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最終更新:2013年03月19日 17:48