Satanael Code ──Rose Side──

──悪魔を作り出すには悲劇が必要である
  悲劇には愛があれば尚いい
  それが狂愛であれば尚いい

  喪失は新たな狂気の芽を紡ぐから──








昔々、ほんの少しだけ昔
あるお屋敷に、とある男と、その娘と、彼女を守る男の子がおりました

男は軍人で、いつもお仕事で忙しく、お母様に先立たれてしまった娘は独りで広い広いお屋敷に取り残されしまっていました
家族のいない彼女を不憫に思った男の子は、いつも彼女の稜に居て、自らが引いた『従者』という一線を超えることなく、
その身を捧げ、尽くしておりました
そうすることで彼女が微笑んでくれることが、親も兄弟も居ない男の子にとっての唯一の救いだったのです
意味を持たず生を受けた彼にとっての足枷、漂ってしまいそうな自分を縛り付ける鎖

その宿命づけられたかのような彼の忠義はさることながら、
自らを重く冷たい、重厚な鎖で縛り付ける呪いのようで……──






あの日、彼に与えられた齢は5つ

騎士の家系に生まれ、両親を幼くして失ったその少年は知人の牧場主の家へ引き取られることとなる
彼自身、騎士道がなんたるか、そもそも父はいったいどのような地位を得ている騎士だったかを知らず、
ただ一つ熟知していたのは自分の進む道が、滝壺に掛けられた一本橋のように踏み外すことを許されないものだったということだ
騎士の家系に生まれたものは才能が無ければ左前され、他の道を望めば捨てられる、そのような鬼道であることを、
少年は背中に受けた無数の鞭の痕によくよく教え込まれていた

それは愛を受けないのと同じだ
彼に与えられた名前はどんな願いを込められたものだったのだろう
きっと初めからそんなものはなかった、ただの識別記号で、
甲冑を纏い剣を握り、戦場へ赴く勇姿のみが愛すべき息子の姿だったに違いない
結局のところ、自分は親にとっても社会にとっても、役割を与えられた駒でしかなかった

だからだだろうか、常闇に沈みゆく二つの棺を見送り、そして土を覆いかぶされても、
終始、涙が頬を伝うことも、悲しみが込み上げることも無かったのは

少年にとって、この両親の死は悲しむどころか喜ぶべきものだった
男尊女卑の古い思想が世襲的に受け継がれた騎士の家の当主たる父は、
押さない頃から自らが街中で出会い、自覚し、心の底から愛した文化や思想を根こそぎ怒りの炎で焼き払うからだ
レースの編み物、調理など、少年はその時代では『女性に任せればいいこと』において無類の才能を発揮し、
そしてそれが、剣術においての成果が芳しくないという事柄に対する嘆きと憤怒に油を注ぐのだった

母も母だ、父にとっては良き妻だろう…彼女が少年に対して口癖のように言いつけることは決まって
『男の子なのに』とかその手のことだった。誰一人として、反論する術を持たない少年に味方などなかったのだ
そして強大な二つの障害、両親は馬車の転倒という不慮の事故であっけなく目の前から永遠に消え去ったのだった

その事実を確かめるように、二つに並んだ墓標をカカシのように佇み乾いた瞳で、
積雪で頭髪を白銀に染めた少年を楕円形の影が覆った


『風邪を引くといけない……ご両親は残念だったが、ここにいても帰ってはこないんだよ』


一人の紳士が、傘を少年の頭上に翳して、道場の目で真っ直ぐこちらを見下ろし、声を噛み殺していた
少年は紳士を一瞥した後、墓石に視線を戻して、始めて口にしたことない憤りを今自覚したかのように零すのだった


『だったらここに居る、ここに居ればずっと帰ってこないって言うならそれがいい』

『……お父さんとは、仲が悪かったのかい』

『男の人が嫌になったよ。それに諂う母さんも大嫌いだった
 ああするべきとかこうするべきとか、
 確かに大切なことだけど、それしか頭にないんだもの、僕はもう、何で生まれてきたのかわからなくなったよ』

紳士から見て、その少年は文字通りあらゆる『意味』を失った糸のきれた人形であった
その時彼が少年に対して何を思ったのだろうか、
哀れみか?神への祈りか?それは、今となっては誰も知る術はない

『名前を聞いておこうか』

兎に角、これが、ラドウィッジ家との呪われた因果の始まりとなるとは、まだ少年は知らない




◆ サタナエルの手記





 私がエデンより堕天して恐らくは20世紀程は経過しただろうか
 初めは風前の灯火程度の断片にまで破損した魂が、転生と受肉を幾度も幾度も、
輪廻の理を無視して繰り返す内に改善され、今となっては人間の肉体に過度な負担を負荷するようにまでなった
 故に、ここ2世紀の間は、私の肉体は腐り落ちるのが早く以って50年程度しか、生命維持の叶わぬものとなった

 この手記は決まってゾロアスター教信者の神殿をそっくりそのまま移動させた協会の奥深くへ、
私の肉体の消滅と共に転送されるようにプログラムされ、
転生後の幼い私の肉体の鼓動パターンはこの手記を取り戻し記憶の修復を図るものである
 既にその時には、私には新たな名前、新たな家族が与えられていた

 そして、このケイオスへ辿り着くまでに数多の次元を乗り越えてきた
 これは、まだ誰も知らないケイオスでも地球でもない未開の知での手記だ

 その当時の私の名は────



「遠路遥々、足をお運び頂き実に光栄です、ジール神父殿」

 桜の花吹雪が舞うある春の日の庭園
 馬車から降り立った私を迎えたのはこの祝福の吹雪と、狭くも美しく退屈な深緑と桃色乱れる庭園
 そして、この花吹雪を投影したかのような髪色の少年であった

「申し訳ないね、突然押し掛けてしまって
 ところで、始めて見る顔だが……」

 見慣れない少年
 この屋敷に頻繁に足を運びお抱えの芸術家を尋ねたものだが、
 この使用人のような小綺麗な出で立ちの美少年を私は知らない
 紫色の瞳、アメジストのようだが、純水のように透き通っていて、それなのに奥を見透かすことのできない、
子供の持つ純粋さとは違った、不気味な印象をその小柄な少年は私に抱かせた


リオ・チェリッシュ。ラドウィッジ公爵様にお嬢様の護衛の任を授かり、2年程このラドウィッジ屋敷に務めております」


 『リオ』師子、ライオン『リオン』から捩ったのだろう、そして『チェリッシュ』、この鬱陶しい桜をイメージでもしたのか、
あのロマンチ公爵の好みそうな名前だ、マッチし過ぎている
 最も、この従順な従者ならば主人に与えられた名前を誇らしげに名乗ったところで何ら不思議ではない

 最も、私も人の事を言えた口ではないのだが、慎ましげに左胸に拳を当て頭を下げる少年に、
私は好奇心をそそられ、彼が抱えるであろう何らかの過去が起因した弱点を突きたくなった


「5年程か、道理で知らない訳だな
 真名を語らぬ辺り、なんとも無礼だとは思うが、ひとまずはよろしくな、リオ君」


 少年は『恐れ入ります』とだけ返し、笑顔を絶やさず踵を返して屋敷へ歩み出した
 私はその背中を見る限り、やはりこの感情を殺す動作すら必要としない、異常な従順さには、
違和感と、知的好奇心が沸き立つのを抑え切れなかったのだった


「公爵様のお部屋までご案内致します」


 一つ言えることは、彼は機械的になることで自我を保っているのだということだった







 ラドウィッジ公爵、いや、ルイスとは、私の知る限りでは絵に描いたような田舎貴族であった
 実際、彼の地位はその田舎貴族以外の何物でもなかったし、田舎でも目立つぐらいの、
お人好し領主で有名、使用人、領地の労働者からは絶対的な信頼を得ているが、
それだけでは彼は自分の領地を守りきれなかっただろう
 そこで、彼は大国の女王と親密な関係を結び、訪れる彼女を持て成して地位を維持していた
 そのせいか、女王が来ようが来まいが、月に3度は宴を庭で優雅に行うというのがこの屋敷の習わしになっていた
絵に描いたような平和さ、退屈さ、息が詰まりそうだ

 ここに拾われたあの画家は幾ら資産がなかったとはいえ他を当たるべきだったのではないか?
 特に彼、太陽の道化師『ラー・クラウン』は不定形な芸術、つまり想像と破壊でいうとこの破壊主義者で、
血生臭い抗争の絶えない城にでも務めた方がいいだろうに、悲しいかな、宗教観の無い彼は紛争地帯ではお払い箱だった

 彼のアトリエを尋ねるのは今日で7度目、会う度に痩せこけ、精神的に満身創痍となり、
身を守るようにカーテンで身も心も外気を遮断し部屋の隅に追いやれて行っていくのだが、
今の彼はまさに極限状態だった
 陽光の差し込まない、油絵具の悪臭漂い切り裂かれたキャンパスのホコリが舞う個室の隅に、
彼は顔を素手で覆い隠し、身体を抱きかかえる蹲り、小動物のように震えていた


「もう沢山だ、消えてくれ、全部…全部だ…! 私が作り上げてしまった失敗作はこの窓から見える景色だ
 この景色を放置した私はなんと怠惰な画家だろう!
 もっと早くに、庭に火を放ってさえいればこんなに栄えなかったのに!こんな駄作は仕上がらなかったのに!」


 彼の言う作品において、キャンパスと実在の風景という判別はない、
例え、この世界であっても彼の作品であって、気に入らなければ処分したいのに、
紙や布とは違うので出来ないという現実が立ちはだかるのだろう

 彼はヒステリックな叫びを上げて壁に椅子やら三脚やらを投げ付けて狂乱していた







 私の手記は手記と呼ぶには余りに雑な文体で、内容を整理しきれておらず発表できるような形状になっていない事を、
今このページで快く認めよう
 このノートは遂に53冊目を迎えた 文明の発達に連れて私も思うことも多く、
目的の達成、即ち私の余りにも長いリハビリの終わりが近く高揚しているせいなのか、
筆の進むペースは速くなり、一冊一冊に詰め込む内容も濃密になった

 さて、私自身もまたこの膨大な情報量に混乱しているところなので、
必要とそうでない人間の関係は出会いを整理しておこうと思う

 私の顔見知りで生き残っている人物は、死亡した人物の1/10を下回った
 多くの人間と出会ってきたが、引力や運命、少なくとも力を託してやってもいいと思う人間はそうそういたものじゃない



  • カーチス

 最初に、地球で出会ったある陸軍少将の話をしよう
 私があの場所を訪れた時、場所はロシア、スターリングラードの真っ只中だ
 いや、私が訪れた頃にはその戦地での戦闘は終了していた
 ヒトラーの差し向けたドイツ軍の長期戦の末の敗北、ロシアは見事祖国を守り抜いたのだった

 漂う死臭、タンパク質が空気中を漂い嗅覚に執拗にまとわりついて来て実に鬱陶しく感ぜられる
 墓標のない墓場と言うに相応しく、ドイツ軍の遺体がゴミのように転がり、野犬がその肉を貪る、
地球である事を忘れる程に、刺激的で、退屈させない風景だった

 そんな死の風景が果てなく続くのだがどうだろう、
全ての人間が横たわり、生存者の影も形もない見えないこの瓦礫の山の中で、
たった一つの人影が、夕闇の焰に抱かれて案山子のように佇んでいるではないか
 死体ではない、生きたドイツ人の将校が、膝を付き石膏像のような生気のない目であらぬ方向を見つめている

 そう、彼がカーチスだ
 部下の全てを失い、死があるが故に生があるという人間の不完全故の宿命に絶望した彼は、
この時はまだ『まともな人間の、ドイツ軍人の青年』だったのだ

 部下の喪失に耐えかね、ロシアへの憎悪を燃やす彼にとって、
私の持ち出した提案はまさに神の加護とも言うべき奇跡だっただろう
 なにしろ、不死の軍隊をくれてやると言うのだから

 今更だが、彼の思想を私は好まない、故に彼の言動は口から溢れでる悪臭だなと感ぜられた
 それ故、私は彼の得た能力に『バンダースナッチ』という名を与えた



  • ラークラウン(太陽の道化師)

 これは私がこの世界に辿り着いてからの話だ
 ちなみに地球で滞在したのはたったの200年程度、徳川300年にすら及ばない

 ついでに、私がラドウィッジを訪れた理由を述べてしまうが、
私がこの退屈な屋敷に足を運んだのは、ある展覧会に狂気を称えたキュビズムタッチの太陽を描いた作品が出品されていた
 この太陽、雨も司る万能の太陽と言うが、成る程、と私は納得してしまった
 人間の生首と類似した、いやそうとしか思えない太陽が切断部から血の雨を流し畑を耕しているのだ
 作物は皮肉にも、血の栄養素で逞しく育っているように描いていると思われる

 私はこの男の持つ狂気に感化され、彼を隔離、管理しているという屋敷を訪れる。 即ちラドウィッジ家だ
 この時はまだエリスは生まれておらず、当主夫婦共に健在だった
 領土内に居るこの危険な芸術家を飼いならすことにさぞ疲れている様子で、面会人と名乗る私を、
訝しげな眼差しで注視していたのを今でもよく覚えている

 さて、このラークラウンだが実は私は彼とは正式に同盟を結んではいなかった
 彼との関係は言わば自然発生のようなもので、勝手に友人となり、勝手に交流し、
そして、唯一利害が一致したのは『力を与えたい』と『力が欲しい』という互いの合意だった
 結局、彼は私と行動を共にする事になるのだが、ここまで何も手を加えずにこちら側に着いたのは彼だけだった

 砕け散る太陽、ハンプティ・ダンプティを与えたのは正解だったのか失敗だったのか、
彼は後に、その力を過信し自らを砕くハメになるのだが何とも皮肉な話だ


  • バイソン・クレイン

 彼程扱いやすく思考が単調な青年は居ないと思うのは私だけだろうか
 とりあえず、彼を責め立てる罪の意識を取り除き、彼の行動に正当性を持たせてやるだけで精神状態は回復し、
私の口車に軽々と乗せられ行動してくれる
 私としては軽蔑に値する人間だが扱いやすいから犬を飼っている感覚で扱えば案外愉快だった

 とはいえ、戦闘力は他とは抜き出ている事から、戦力としては重宝できる
 忠実な兵隊という意味でも、彼の能力を形容する意味でも、彼には『トランプ』という二つ名が相応しいと思う

 しかし、もう少し頭の回らないものだろうか、単純に馬鹿としか言いようがない


  • アンナ・K・ベリーチェ

 ……誰だっけこいつ
 貴婦人の能力を何となくくれてやったことぐらいしか思い出せない
 メモ帳に名前が記されてはいたが全く思い出せない
 確か元女優………だったよな、まあいいや



 彼女がサリエルの次の器を宿す母体になるとは想像も付かなかった
 最も、どの母体にせよ予想は不可能だが、こいつは好都合、
計画においてもこの役回りの適性は極めて高い、はまり役だ
 自分の娘が短命である理由も理解してはいまい、早い内に回収し、
人形へ魂を移し替えておこう
 しかし、ルシアとはまたつまらない名前だな



  • リオ

 そして、この少年
 私は彼の純粋な歪さを気に入ったようだった、彼の事は後述としておこう
 なにしろ、私のジャバウォックが最も忌み嫌う武器を、彼は手にしてしまうのだから








 跡継ぎの少女の名は『エリス』
 天真爛漫、典型的なお転婆娘だが口が悪い処か、行動の割には人に対する接し方はそこらの貴婦人よりも慎ましく、
それは教育のたまものではなく彼女の元々の本質だったのだろう
 使用人、特に帽子屋と近衛兵をやってのけるあのリオという少年と父親からは溺愛され、
人として受けるべき愛情を知り、分け与える喜びも学んだ、理想的な環境で理想的な教育を受けた少女だった
 ただ、父親が頭を悩ませたのはその独創性に他ならなかった

 例えば、今目の前にいる彼、エリスは黒真珠のように滑らかで、毛先の柔らかな軽い黒髪をそよがせ、
木の切り株に座り子供服を縫い合わせている
 さて、この子供服だが彼女には弟も年下の親戚もいない、そして彼女自身もあの服を着るには間合わないのだ
 では何のための子供服か? 私は割れ物に触れるかのように丁寧に紳士的に、一歩下がって問うてみた事がある
 するとどうだろう

「兎さんの衣装よ 早く、大勢の人の前に立っても恥ずかしくないようにカッコ良く仕立ててあげないと
 女王様のお食事会に遅れてしまうわ」

 と、こちらには目もくれず、心情風景の中にポツリと座り込んでいるであろう彼女は答えた
 今もそうだ、彼女はテラスの食事の場において、白い薔薇を赤く塗りたくる作業に没頭しているのだ

 で、この奇妙な少女の異質さを更に際立たせるのが彼女の小間使いだ
 あの少年、いやこの少年リオ・チェリッシュもまた、彼女に付き合っているのか白薔薇を赤く塗装していた

 2人は中庭の噴水にさておいて、その様子を遠目で眺める党首ルイスは、着込んだ小綺麗で、
情熱的な色合いのスーツとは裏腹に頭を抱え、肘をテーブルに付き項垂れ眺めていた

 彼は先立った母と違って、娘との接し方がわからないという
 それでも、彼女が愛する娘であることに変わりはないし、向き合っていかなければならない、
と、どの父親も言いそうな退屈な言葉を綴って薄く苦笑いを浮かべていた

「結構な事です。天の父もまた、あなたのような眼差しで我々を見守ってくださるに違いない」

 と、心にもないことを言って私は彼と適当に会話の辻褄を合わせながらこの昼下がりを、
同じテーブルの上にそれぞれの茶を並べて過ごした

 言い忘れていたが、この屋敷は茶だけはなかなか美味だった








「やあ、おはよう」

「おはようございます神父様、昨夜はさぞお飲みになれられたようで」

 午前7時、私は来訪初日の世をゲストルームで酒を嗜みながら明かし、
目を覚ますやいなや庭から楽しげに駆け回る少年少女の笑声が響いてきたので、
きっと彼だろうと思い早速会いに向かった
 案の定、少年はリオで、エリスの跨ったポニーの手綱を引き、駆け回るのに疲れたのか、
徐行しながらテラスへ戻ってきたところだった
 彼はほがらかな笑顔で応対するが私の目は誤魔化せまい、彼は私の事が苦手らしい
 それは恐らく、自分を見透かされているような感覚を覚えたからだろう、
その感覚に敏感ということは、つまりはそうして欲しくない要素があって、少なからずとも、
周囲の目を警戒し、恐れているということだ

「スクリュードライバー……ジュースのような感覚で頂ける手頃なカクテルだよ
 ………意中の女を酔い潰すには丁度いい代物だ、君もどうだ?」

 試しに真水入りのビンを見せびらかして、彼の無意識の内の情を刺激してやろうと窯かけて見た

「ええ、存じてますよ? それ故僕のような者には不相応だということもわきまえておりますので」

 彼は申し訳程度に愛想笑いを振りまき軽く会釈して丁寧に断っている
 感情のブレなど感じさせないように 

「謙遜するねぇ それならば私が先にエリス嬢を寝取ってやるか、どう思う?」

「僕にはそれを一任する権限はありませんから、お答え致し兼ねますが、
 エリス様ご本人が許されれば問題はないかと」

「ほほう?もしエリス嬢が容認したら?それでいいのか」

「僕はあくまで使用人で帽子屋、お嬢様のご意向に意見は致しませんし
 あり得ないとは思いますが、それで喜ばれるならそれで構いません」

 彼の愛想笑いは変わらずだった、終始不変的で、まるで仮面のようだ
 本当は気に入らないのだろう?私のことが、大切な大切なお嬢様に集る、
この烏のような汚らわしい悪魔が

私は知っている、この少年は自分を騙すのが病的に上手い
 エリス・ラドウィッジという少女の側に仕える理由とは、単なる忠義心とは違うはずだ、声、仕草で読み取れる
 しかしこの少年はどういう訳か自分で引いた線を踏み越えて人と接しようとしない、
自分の本心を包み隠し、そして自らもそれを捨て機械的に従者になりきり、
今の主従関係を壊すまいと必死なのだ

 私もまた、自身の異端性を熟知しているが故に微笑みの仮面を身につけ、誰とでも何不自由無い関係を築けるように心掛けていた
 だが、今の私はその仮面をことごとく脱ぎ捨てていただろう、声質は低く、冷ややかななものになっていた



「──薄気味悪いガキだな──」




「……は?」

 私の投じた言葉の氷塊は純粋な子供の水瓶に大きな歪を作り上げていた
 沈黙、木々のざわめき、小鳥の囀り、吹き抜けて行く風だけが音として存在し、
空はただ青い、それ以外に何もない、まるでこの少年の描いた自己の偶像のように

 私は丁度、面白くもないが中に何があるのかわからない箱を見る、そんな感じの目をしていたに違いない
 膝を折って彼と同じ目線で向き合って、後ずさる彼に追い打ちをかけるように顎を鷲塚んで、
ようやく『恐れ』を表し始めたその目の奥を除き込んだ

「な、何を──」

 ──もっと知りたい
   ──歪で純粋な、この圧倒的矛盾。ただ主を見ているようで何も見てはいないだろうこの瞳、
     この子供は、その目で一体何を見てきたのだろう

「なあリオ君、君はいったい何処にいるんだい
 少なくとも、今の私には君の姿が見えてこないのだよ、ただ、君の形をした何かがそこに立っているだけなのだがね」

「……質問の意味がわかりません」

「興味深いね、一体何が君をそこまで歪めたのか、
 何故、そこまで歪んだ愛情を主君へ向けられるのか?」

「────ッ!!」



 頰が冷たく濡れる、何があったのだろうか、目の前に気を取られていたせいか、
周囲の物にまで配慮が行き届かなかった
 彼はサイドテーブルの上の冷めた紅茶を咄嗟に私に向かってぶちまけたのだった
 水滴が前髪からこぼれ落ちる

 少年は目を丸くし、息を荒あげ、自分で自分のした事に、
自分の感情のブレに驚愕し、それが信じられず認識が追いつかないため酷く混乱しているようだった
 動揺で耐えきれなくなったのか、これ以上私を視界に入れたくないと言わんばかりに、
館内へ駆け出し姿を消した

 ────つくづく、面白い
     ここの屋敷の住民の中で、彼だけは生かしておけないだろうか







 エリスの誕生祝いに訪れた時に聞いた話だ、寧ろその話には前々から興味があったのだ

──ヴォーパルの剣

 私は知った、何故、私がケイオスへ都合よく堕天出来たのかを
 そう、私の断片が、私の分身が、私の魂が砕かれた際にこの地に落ち、ケイオスへ転送されていたからだ

 消さなければならない
 この一族を葬り去り、再びジャバウォックを我が手中へ、それが……今日だ
 手筈は整っている、時間は弄したが、廃人に仕立て上げたクラウンは能力を発現し、
館の住人でありながらにしてこちらの息がかかった内通者

 ラドウィッジは守備が頑丈な鋼鉄の砦として名を連ねており、高度で複雑な魔導結界が、
何層にも絡み合い、濃密に仕掛けられているため、外部からの襲撃は容易ではない

 ともなれば、内側から彼に『砕け散る太陽(ハンプティ・ダンプティ)』の能力で火を放ってもらう
 私の魂の一部が幽閉された扉を解放するのは、館内が混乱に陥ってからでも遅くはない


 ルイス=ラドウィッジの次ぐ酒は赤の葡萄酒
 その葡萄酒を受けるグラスは、新品同様のテーブルクロスの上にあるのだが、
それら全ては、この葡萄酒のように赤く染まる事となるとは、まだ知る余地もあるまい
 その証拠に、ルイスは私を旧友と認識し語りかけてくる


「君とこうして酒を酌み交わし始めてもう10年か」

「まったく、気付けばそんなか。時の移ろいとは、さながら雲のようだな」

「面白い表現をなされるな、光陰矢の如しと友人は口を揃えて言いそうなものだが、
 して、その由来は」

「……矢のようにその変化は見て取れるものではありますまい
 それはさながら、目に負えぬ程なだらかな変化、気付けば晴れ間が刺し、そして日は陰る
 雲とは我々の認識の外で、耐えず動いているものです」

「成る程、亀の歩みとも似たものを感じるな、実に面白い…君の異色な見解にはいつも驚かされるよ」

「お褒めの言葉として受け取っておこう」

 我々は互いのグラスを向き合わせ、祝杯を交わす、この館の習わしだ

 『素晴らしき何でもない日に、乾杯』

 何事もなく、いつもの日常を享受でき、’共と、家族と時間を共にする幸せ、
それを祝するのがこの館の毎日の恒例行事なのだ
 だが、残念だったな、今日は例外だろうよ

「時にルイス、私が予めそちらに寄越した手紙の内容、覚えているかな」

「ああ、『アンダーランド』の扉だったか?」

「そうそう、君達がアンダーランドと呼ぶ世界へ続く扉の事だ」

「……ロクな代物ではないと思うよ
 ここだけの話なんだが、エリスがおかしなことを口走るようになったのはあの扉に触れてからだからと言うからね」

「……確か、よく夢を見るようになったとか」

「下宿しているあの画家もそうだがね、アレに関わった人間はだいたいおかしなものが見えるようになるんだそうだ
 人ならざるもの、とかね……無論、お伽話とかイギリス人が描きそうな童話に登場するペラペッラの怪物だろうよ」

「だが、『あなた自身も』そのペラペッラの怪物がお好きだろう」

「おいおい、何てことを言い出すんだ?」

「お宅のお嬢さんは父親に『あり得ないことを3つ考えろ』、そうすれば人生は愉快だ…と教わったそうじゃないですか」

「……君には叶わないな、そうだよ
 どうもイギリス紳士のあの鋭利な視線が痛くてな、こうして真人間らしく降る無んだがどうもなぁ」

「私には打ち明けたって差し支えないだろう? 親友ではないか」

「……そうだったな、君は信頼のおける数少ない友人だったな」

「何でも打ち明けてくれたまえよ、可能な限り協力は惜しまない
 私自身、君の悩みの種には許味があるからな」



「……協力してくれるのか、『アレ』を開くのに」


────ああ、願ってもないことだ







────ジ夕火の刻、粘滑トーヴ遥場はるばにありて回儀錐穿。
 総て弱ぼらしきはボロゴーヴ、かくて郷遠ラースのうずめき叫ばん

『我が息子よ、ジャバウォックに用心あれ
 喰らいつく顎、引き掴む鈎爪
 ジャブジャブ鳥にも心配るべし、そして努燻り狂えるバンダースナッチの傍に寄るべからず』

ヴォーパルの剣ぞ手に取りて
尾揃しき物探すこと永きに渉れり
憩う傍らにあるはタムタムの樹、
物想いに耽りて足を休めぬ

かくて暴なる想いに立ち止まりしその折、 両の眼を炯々と燃やしたるジャバウォック、
そよそよとタルジイの森移ろい抜けて、怒めきずりつつもそこに迫り来たらん

一、二 一、二 貫きて尚も貫くヴォーパルの剣が刻み刈り獲らん
ジャバウォックからは命を、勇士へは首を。彼は意気踏々たる凱旋のギャロップを踏む

『さてもジャバウォックの討ち倒されしは真なりや
 我が腕に来たれ、赤射の男子よ
 おお芳晴らしき日よ 花柳かな 華麗かな』

 父は喜びにクスクスと鼻を鳴らせり

ジ夕火の刻、粘滑トーヴ遥場はるばにありて回儀錐穿。
 総て弱ぼらしきはボロゴーヴ、かくて郷遠ラースのうずめき叫ばん────



 これが、ラドウィッジ家に伝わる詩であり古の歴史、最も、古と言っても私にとっては然程昔ではあるまいが、
ああ、なんと嘆かわしい事か、私がこの世界を留守にいている間に、翼を分け合った分身は、
予期せぬ古代兵器、ヴォーパルによって首を切り落とされ、
扉の外へと幽閉されているのだというのだから

 さて、この詩に登場する『ジャバウォック【黒衣の翼竜】』とヴォーパルの剣だが、
これは紛れもなく、私が『この世界の創世時』に、民の荒廃を望んで残したものだ
 これは試練だ、強大な力、強大な恐怖、この二つが齎す困難に人類が向き合った時、
彼等は逃げ惑うのか立ち向かうのか、何れの選択肢を得て人類の進化を促すための要素に過ぎなかった

 しかしあろうことか、私の翼から生まれたジャバウォックは、私の血潮から作り出された剣により、
お互いを相殺してしまったのだ
 妙だとは思ったが、本来秩序が崩壊するようにプログラミングされたこの世界が、
今、このようにして安寧を享受しているのだ

 この世界の聖書に登場する神……即ち私は本来なら崇拝されず、命を生み出し弄んだ悪鬼として憎まれるはずだったのだが、
身分を隠して観察してみると、相変わらず善良な神として崇拝されているようだった

 これは計算外だ、過ちは修正しなくてはならない、そのためには再び、全く同じ悲劇を齎し、
0から、この世界の運命をやり直す必要がある

 私ならそれができる、私にしか成し得ない、何故なら…私がこの世界を創造したのだから



 その扉は最早私の手に負える様な構造とはまるで異なっていた
 つまり私では造れないということ、私の世界のものではないということだ
 エデンの神々、ましてやメタトロンですらこのような異質な構造の魔力回路を兼ね備えた、
『移動結界式魔道具』は何世紀という時間を費やしても創造しえないだろう、我々はこのようなものを作れるように出来ていないからだ

 そう、これは扉という形を媒介にしているため人為的に発生した物のように思えるが、
恐らくは偶発的に、いくつもの要因が重なってここではない何処かへと繋がる扉が自然発生してしまったのだ

 そしてそれをいいことに、ラドウィッジ家の先祖はジャバウォックの首をこの扉から他所の世界との狭間に幽閉し、
私が生きている限り不死身の筈のアレを葬って事無きを得たのだ

「何時見ても不気味な代物だ…息が詰まりそうになってくるよ」

 ルイスはそう愚痴を零し、本当に具合が悪くなったのか喉元を抑えて、自分の身長の4倍の高さはある、
地下室へ保管された黒金の大扉を見上げていた
 重厚な鎖が何重にも塒を巻いて捉え、今後臨在永久的に開門させまいとその扉を封印している

 なんと幼稚な発明だろうか、この扉と比較してみれば技術に天と地ほどの差はある
 結局、魔術のノウハウも知らない人間と自然界の魔術が創造した代物は別次元に存在し相反するようだ

「そうだなぁ……君の先祖も趣味が悪い、手間暇かけてこんな物をわざわざ地下に置いて置くだなんて」

「いやまったく……」

 この時私は皮肉を含めて同情した事をルイスは知らないだろうな、
何せ、二度と悲劇を起こすまいと地下へ幽閉したこの扉とその中身が、
再び猛威を振るい子孫を、その代々受け継いだ血筋を費やす事となるのだから

「さて、どうしたものかな……私としてはさっさとこんな骨董品処分してしまいたのだが」

 ああ、やはりこの一族は不運だ
 ルイスが言うにはこの扉は『城の人間にすら見つからないように厳重に保管』されていたらしく、
子孫が妙な気を起こさないようにジャバウォックのジャの字も伝承には残されていなかったのだ
 私は外部からこの情報を搾り取ったが、よもやこれを管理する一族自体が無知とは

「ああ、そうするのがいいだろうね、素晴らしい発想だ
 やはり君は私にとって最高の親友だよ『ありがとう』『案内ご苦労』」

 私がそう言い終える頃には既に、右の掌に一切の光をも受け付けず常闇のごとく黒い大鎌を取り、
漆黒の大扉を前にして高々とそれを振りかざしていた

「ルイス、人は理解の及ばない物に怯えそれを怒りに置き換えて自己を保とうとする
 だが今君達が『理解している』と感じているのはただの錯覚でしかないと考えたことはなかったか?」

 円状の大聖堂に類似した地下室
 今この空間では私が中心となり異風は私を軸にして円を描き続ける
 ルイスには私の問い掛けの真意など到底理解できなかっただろう、これを理解した人間ならば、
私に心を許すような愚行はしなかったし、この扉を有効に利用する方法を導き出そうとしただろう

 本日、この血族は消滅する

 おもむろに、私はその大鎌を振り下ろし門は開かれた


「さぁ……キリストの復活ならぬ、『サタナの復活祭』を始めようか
 酒は貴殿らの血、私は喉を潤わし歓喜に震えるだろう」






「グランド・ア!モォォォォォォッレェェェエェェェェ──ッ!!」


甲高い祝福の悲鳴が館内に児玉した
ラークランの奴が恐らく、予定位通り火を放ってくれたのだろう

油絵を何気なく飾っておき、ペインティングオイルを密かに張り巡らせておく
こうして爆薬の火力は激増、汚い花火の出来上がりっという訳だ、かいつまんだ説明だがな
地上から轟音が耐えず鳴り響き日本の空襲を思わせた

余程派手にやってくれたようだ、エリス嬢も永くはないだろう、
となると、もしあの少年だけが生き残った場合……は



「怪物が生まれてしまうな」








悲劇は終章を迎えていた
そう、これは一輪の呪われた薔薇がこの世に生を授かる物語


 ラドウィッジ庭が燃える
 女神像も、貯蔵された芸術品、家具、思い出のピースを散りばめた写真、駆け回った庭、
その全てが燃えて、灰になってしまう

「全部あなたがやったのね、人殺し!あんたなんか怖くない!パパが助けてくれるわ!」

 屋敷の屋上、火の手は既に、その上に立つエリス、そして向かい合うラークランを取り巻いて、
退路は愚か、生き残る道すら奪おうとしていた
 黄昏色に染まったラークランの顔は微笑みで歪み、しなびた金の長髪が風で靡いている

「父上には眠っていただいた、永遠にな」

 落雷は鳴動し、黒雲で覆われた空は渦を巻いていた
 道化師の提示した真実の断片はガラスの器を粉微塵に粉砕するには充分な投石だった
 それを裏付けるように、エリスの顔面は雪原であっても目立つ程の白に染まり、
瞳孔は返って一点に定まってガラス玉のように動かなくなった


「嘘よ……あり得ないわ」

「あり得ないぃ?あり得ない事を三つ信じろとお父様に習わなかったのか?」

「嘘よ!嘘!私の言う事なんて信じなくていい!魔法も何もいらない!
 お父様が死ぬなんてことある訳がない!嘘、嘘!嘘っ!あり得ない事なんて否定したって構わない!
 お父様は死んだりなんかしないわ!


 少女の悲痛な咆哮が児玉し、エリス・ラドウィッジは父の名誉に傷を残したこの道化を切り裂かんと、
 白薔薇の装飾が施された長剣を手に脇目も降らず駆け出した
 道化師との間合いを詰め、量の手で握ったこの家の誇り、聖なる剣を一心不乱に振り上げ少女は咆哮した
 しかし世の理は非情過ぎる、少女の非力な一閃は道化師には届かない、
それよりも早くに、道化師の横に振り抜いたサーベルが、少女の肩から腹部にかけてまでを切り裂き、
駄目押しと言わんばかりに腹部に靴底を深くねじ込んで呼吸を狂わせた

「おいたが過ぎるといけませんよぉ? さぁさ、姫様…こ・ち・ら・へ」

 峰で殴りつけるように振るったからか出血は全くないが、抵抗力を削ぐには充分な一撃だった
 力なく前のめりになるエリスの身体を強引に捉え道化師はほくそ笑んでいる

「かっ…は……」

 並大抵の人間の怪力ではない、高所から投石した岩をイメージさせる程の重く衝撃を伴うボディブローは、
肺と呼吸器官を圧迫し、停止させ脳に供給される酸素を著しく薄くした

「いい表情ですよォォォォお嬢様ァァァ!、新鮮な恐怖と絶望!
 ……やはり人間は生きていることに意味がありますよねぇでなければこんな至高な芸術は描け無い」

 新しい玩具を与えられた子供のように弾む言葉、
彼の言うとおり、少女は血が滲む程歯噛みし、目からは大粒の涙がとめどなく流れ、
屈辱と父への情が呻きとなって虚しく響き渡っていた

「んっんー…ホルマリンは充分…剥製にしておくに余りある程の価値がある苦悶の仮面!
 ンアアァァァァァァ…!堪らない!さあさあささぁぁぁぁぁ!寄越しなさい、その造形をおおおおお!」

 瓶詰めにされたホルマリン、それも実在するそれとは異なり青く毒々しい光を放つ液体に、
奇声を発してリズミカルにナイフを浸し、狂喜の悲鳴を上げるこの男の意図は容易に読み取れた

 少なくとも、自分はここで今から殺される、あの薬物で浸したナイフで心臓を抉られ、
身体を綺麗に縫い合わせた後死相を拝み愛でるため、保存しておくに違いない

「……!?」何ですその顔は!?

「ブサイクしか描けないど三流の画家に送る手向けよ…お気に召した?」

 ならばせめて、こいつの思い通りにはさせまいと、エリスは永遠に保管されるであろう死相を、
最期の笑みで飾って吐き気を堪能してもらおうと思い立った、最期の、惨めな足掻きだが、
思いの外効果は絶大だった

 首にあてがわれたナイフは物寂しい金属音を立てて転がり、エリスの身体は放り捨てられ、
クランは頭を掻きむしって地団太を踏んでいた

「ぎ…ぎぃぃぃっぃぃあああ!何てことを!最期の最期で!私を!失望させるだなんて!
 何ていじらしい!汚い!この豚が!豚豚豚豚豚豚ブt…」

  クラウンの形相、それは既に人のものとはかけ離れていた
 例えるなら亡者、人知を超えた何かで蘇った死者が、唯一残った理性、
槍偉に身を任して拳を振り上げる様子を思い浮かべた

「てめえ…てめえはもう終わりだアアアアァァァッ!!」

 奴が手斧を大きく振りかぶる、ああ、そうか…私は死ぬのか
 不思議と恐怖はなかった、この火の憩いではクラウンも助からないだろう、私は勝った
 最後まで抗えたのだ、きっと、お父様も誇りに思ってくれる……

 私は勝ったのだ

 本来なら、少なくとも、クラウンにとってはそうあるべきだっただろう
 彼の手斧は確かにエリスの頭蓋を砕いたのだろうが、それを握った両手は、
彼自身から切り離されて別れ、血潮を噴水のように吹き出していた

 そして、二言目を許さぬと言わんばかりに、口を開いた刹那、
クラウンの首は宙を舞い、あっけなく絶命していた
 人体切断のマジックではない、彼は血潮で尾を引き、栄える火の海へ真っ逆さまに消え入る
 今にも地獄の底よりあの道化の滑稽な喘ぎ声が聞こえてきそうな光景であった

 力をなくし、クラウンの首無しの亡骸が膝を付いて糸がきれた人形のように動かなくなった
 その後ろでは一人の少年が、先程のエリスが手にしていた剣を横に振り抜き、佇んでいる

「……リオ?」

「エリス!……ああ、エリス!」


◆ ──夢の終わり、現実の始まり──



「あんた…どうして……」

 一瞬、この世で最も凶暴な本能を秘めているであろう獣の目を垣間見させたその少年は、
エリスの目と目が出会った瞬間に花が咲いたような笑顔を見せ駆け寄り、手前まで来ると、
膝を折って間髪いれず、小さな手で必死に離すまいと抱きしめる

「良かった……!女中も執事も皆、皆死んでいたから……君が無事じゃなかったら…もしもの事があったら僕は…!」

「馬鹿!何でここにいるのよ!いざとなったら逃げろって散々言ったじゃない!馬鹿なのっ!?ていうか馬鹿でしょ!」

 胸の奥底から熱くて苦く焼け付くように痛む何かが込み上げてくる
 それに抗えば、両腕でリオを突き飛ばし、思い浮かぶ言葉の限りを吐き出していた

「……えり、す?」

 何かを乞うような目だった、丸く、小さな水の受け皿のように揺らめくそれは空虚で、
恐らくは『私のため』と宣っていても本当は『私』すら愚か、『何も見ていない』のであろうことが手に取るようにわかる

「どうしてよ!いつもあんたはそうやって…っ!自分の事を顧みないで!只の死に急ぎ馬鹿じゃない!馬鹿!ばーか!」

 不愉快だ
 彼のことが嫌という訳ではない、この広い邸宅の中で、父親よりも話を聞いてくれたのは彼だ、
そして理解を示してくれたのも、だから……本当は『愛していた』

「ば、馬鹿はどっちだ!?あのままほっといたら殺されたかもしれないんだぞ!?死にたいっていうのか!」

「私とあいつが死ぬだけで済んだ話でしょ!?
 なのにどうして!?あなただけでも逃げれば助かったのに…!この火に囲まれた状況じゃもう逃げ延びられないのよ!」

 けれど、彼は私のことを愛さない、いや『愛そうとしない』 何故なら…

「僕は!僕は君の従者だ!僕が生きていいと許される唯一の理由なんだよッ!
 二度と、絶対にそんな諦めたような事を言うな!絶対に死なせない、僕が何とかしてやる!今までそうしてきたように!」

 今までそうしてきたように? またこの子は繰り返すのか?
 エリスの脳裏に過るのは、身を粉にして自分を守ろうとし、傷を負い、時には死にかけた事もある、
強くも、心は未熟でいつも誰かに頼り、誰かに尽くさねば生きていけない哀れな少年の姿だった


「君だけは僕が絶対に守ってやる!!」


 マモッテヤル?
 違うだろ、君は守りたいんじゃない、本当は……自分の存在を肯定してくれる誰かに、
『守ってもらいたかった』だけなんだろう?

「馬鹿だな、君は本当に…本当に自分勝手」

 獅子が吠え猛る様を動物園で見かけたことがある、彼の主張は、それとは程遠い
 猫は己の力を顕示するがために虚勢を張ると言うが、この少年はまさにそれだろう
 既に精神がアンバランスになっているからだ、ただの一度でも自己を否定されれば、
人格は歪み、心の受け皿は砂塵で形を成していたように崩れ落ちるだろう


「だから、だからあんたが大嫌いなんだって言ってるじゃない!」


 耳をつん裂くような鋭く乾いた音、雷のように響く打撃
 突然の平手打ちは、ムキになって逆上する少年の心を縛り付け沈黙させ、
時間を止めてしまうには充分な破壊力だった

 衝撃故か、炎の轟音も建物が崩れる音も聞こえない、ただ、
目の前で瞳を濡らし、真珠のような大粒の涙を零す少女の姿しか見えない
 少年は頬を掌で抑え、痛みの余韻を噛み締め打ちひしがれている

「……嘘だろ?」

 慈悲を乞うようにようやく絞り出した呻きに、彼女は言葉とすら言い難い、涙に混じった声で、
あらゆる感情が鬱積した渦を吐き出すような返答で問い返した

「嘘だと思う?」

「本当に嘘だと思ってる?」

「こんなに、あなたにわかって欲しくてっ……訴えてるのに嘘だと思うの? こんな事を言われて嘘だと思うの?」

 最初ははっきりとせず、嗚咽するように音と音を歪に繋いだような口調だったのが段々と発音がハッキリとして、
湯水のように込み上げてくる激情を、入り乱れた無数の糸を一本に紡いでいくように彼女の心理がストレートに伝わるようになる

 ──ああ…… そうなんだ

 リオはずっと『聞きたくない』と、自身の過ちという漠然としたイメージを抱えてから危惧してきた言葉があった
 けれども、彼の過ちは本物だった、そしてそれが、今彼女の口からハッキリと証明されようとしていた

──エリスは怒っているんだ、こんなに怒ったエリスは見たことがないほどに
  多分もう許してもらえないだろう、僕の重ねてきた過ちは既に、修復不可能になってしまっているんだ 




「だったら……何で私がこんな嘘を言わないといけなかった考えてよッ!
 全部全部全部!『他人のせいにして』自分を痛めつけているだけのあなたが!
 誰かどころか自分にすら向き合ってこなかったあなたがどれだけ私を苦しめたかわかってよッ!!」




 雷鳴が轟くと同時に、エリスは恐らくこれまでの『全て』を叫んでいた
 雷光を背に浴び柔らかだった彼女の仮面が砕け、凍えきった少女の顔に落ちる影をさらけ出す
 悲痛に満ちた悲鳴が彼女の嘆きを全て象徴していた、それはさながら、戯曲の終焉に奏でられる弦楽器の音だった

 少年はただ、少女の前に膝を付き…天上より降り注ぐ涙の雨に晒されているより他仕方がなかった

 ただ、一つだけ理解した……自分の命をかけてやって来たことが否定され、崩れ落ちるのだと



「……”俺”が、君を傷付けたのか?」



 後悔も反省もなかった、『自分が傷つけた』という実感なんてあるはずもなかったからだ
 乾いた声で問いかけてもそれは一方通行に素通りし、何も残らない、返答などあるはずがない
 ただ、残ったのは『否定された』という自覚と『どうあっても、今まで通りの日常には戻れない』という自覚

「じゃあ……僕はどうすれば良かったんだ?」

「答えてよ……何を間違ったんだ、どこから?いつからそう思ってたんだよ?」

「答えろよッ!!」


 雨は激しさを増してゆく、火の手は弱まり、黒煙が燻るようになっていた

 エリスは曇った瞳を瞼で覆い、只首を横に振って、踵を返しリオに背を向けて歩き出した
 もう何も言うことはない、何もしてあげられない、と……言葉で言うよりもハッキリと、その背は物語っていた



          「 ご め ん な さ い 」

「  そ れ は あ な た が 自 分 で 知 る し か な い の  」



 視界が白くなって今自分が誰に叫んでいるのかわからなくなるような中で、
何を叫んでいるのかわからなくなるような轟音の中でリオは自分の出せる限りの叫びを、
腹の底から訴え、嘆くように発し膝を付いて首を垂れ頭を懺悔するように屋上のタイルに擦り付けていた

「なんでだよ!なんでだよ! 僕は、僕はどうしてこうなんだ!?
 どうして僕には『ここに居てもいい』って誰かが笑いかけてくれるような場所がないんだ!?」

 遠ざかってゆく

「家族は?友は?主は、恋人は、大切な人はッ!皆いるじゃないかッ!皆自分を受け入れてくれる人がいるじゃないかッ!」

 走馬灯のように生まれ落ちてからの記憶が巡り、全てが遠ざかってゆく

「誰か!誰でもいい!僕はここにいる、僕を見つけてくれ!僕は何処へ向かえばいいんだよ!
 生まれたくて生まれきれてきた訳じゃないんだぞ!?何かあるんだろ!?僕が誰かにしてげられる事があるんだろ!?」

 この世で唯一信じていた

「僕に生きる意味をくれ!置いていかないでくれ!助けて、助けて!エリスッ!!」

 頼っていた人の背中が、遠ざかって行った

「僕には!僕には何も残らないんだ!また0に戻るのは嫌なんだッ!」

手を伸ばしても、もう届く筈もなかった、この言葉すら届いているかもわからなかった
その時自分が泣いていたのかどうかはわからない
只、雨が降り注いでいて、凍り付いたように寒かった

「君まで僕を否定するなら僕は……どうしたらいいの? 寒い、痛い…悲しい、悲しいよエリス…」

「寂しいよ、手が、空っぽなんだ……冷たくて、何処まで行っても空虚なんだ、僕は寂しいだけなんだ……」



────ただ、側にいて欲しかった、この手を縛り付けてこの世界に縛り付けてくれる呪いがほしかったんだ



 ────……理解した、ようやくわかった、つまりそういうことだ
       この空っぽの掌を埋め合わせておきたかった、安心したかった

「エリス……」

「エリス!」

 愛してくれなくてもいい、褒めてくれなくてもいい、只それだけ、僕はそれだけで良かったんじゃないか?
 これは決して答えじゃないだろう、でも、自分の真意に気付けた今なら、やり直していけないのか?

 伝えよう、せめて伝えたい!

 少年は再び立ち上がる、涙も絶望も消えない、決して立ち直れた訳ではない
 ただ、言葉の通り伝えたいだけだった、そして、正面から向き合って耳を傾けてくれるだけで、
自分はそこから変われる気がした……
……………今でこそ、滑稽なおとぎ話だったと思う

「リオ……」

 ようやくエリスが、物寂しげで可憐な笑みを讃えてエメラルドの瞳を向け、手を差し伸べてくれた瞬間だった、
 何故あの時、再びリオを見つめてくれたのか、それは永遠にわからない、
 けれど、火の手の引いた屋上の下り階段を前にして彼女は何かを見、悟ったのかしれない、
死よりも深い絶望と、終焉を



 彼女の背を向けた先には、グレートーンの空と、それを漆黒に染め上げる、黒衣の翼、
その身体は夜そのものだった、星々が散りばめられた宇宙が、龍の形を成して牙を向き、
常闇から二つの金色の狂気が姿を覗かせていた



 「──────エリ…ッ!」

 『殺せ、ジャバウォック』



 全てが遅かった、恐らくその過ちは……彼が騎士の家に生まれ落ちた時から始まっていた
 全てが修復不可能だった









 ジャバウォックの破壊力はとても分筆で説明するのは難しい
 困難だが例えるなら、その姿を見るだけでまず、生を諦めるべきだ、といったところか

 ラドウィッジ城がどうしたって? だいたい読者諸君のご想像の通りだろう
 消えたさ、スプーンで抉ったように、幾つかの残骸と、二人の遺体を残して

 そうそう、ラークラウンの遺体はカーチスが早い手筈で回収してくれたな、彼はいい仕事をする

 さて、私はここで持論を記しておきたい、ある意味一人の少女へ送る賛美だ、
 この騒動において、勝者がいるとしたらそれは誰か?

 まず唯一の敗者はルイス・ラドウィッジ一人だろう
 言うまでもないが、ジャバウォックが扉から召喚されると同時に首を食い千切られて呆気なく死んだ
 当主だろうが人間なんて大抵そんなものだ

 なら勝者は?私ではないな、エリス・ラドウィッジ彼女のみだろう
 何故彼女を選んだのか、それは諸君のご想像にお任せし頭を使って頂きたいが、
人間のようにセンチになったからではないと理っておこう

 では、『我々はなんだ?』
 私は、私自身の事をこの時点ではまだ『継続する者』だと解釈している
 そう、この一件で生まれた因果はこれからも続いて行く、彼は私の背を追い、その中で、
自らの足で歩むということを知るに違いない




「やり過ぎだジール!どううるんだこれは、ケイオスへの扉なんて跡形もないじゃないか!」

「はは、そういきり立つな……別に、あれで行かなければならないということでもあるまい?」

「ふざけるな!私が一体何のために軍部から武装を調達したのか忘れたのか!?」

「ああ、覚えているが?お陰でジャバウォックは私の手の元へ舞い戻った
 この『シャルールブルク』の領土ごとケイオスへ転送すれば問題あるまい?」

「んな……っ」

「君はいちいち顔芸が割るな、傑作だ ……さて、と……それじゃぁまずは移動式結界の展開からだな……」

 私はジャバウォックの背にもたれ掛かり、その身体が感じ取った気配を察した
 何かが居る

 その何かは、城壁の崩れ落ちた瓦礫を突き破って砂塵を巻き上げ、手に持った剣を高々と掲げた
 その劔は、恐らくは彼自身の血で染まっており、白薔薇だった筈の装飾は真紅の薔薇となっていた

「お前は……ッ」

 その少年は、私では想像もつかない程の、怨念ではないかと疑う程の憎悪で全身を満たし、
瓦礫を踏み砕いて這い出して、ジャバウォックと全く同じ、金色の眼光を携え、
桜色の髪を乾いた旋風に揺らしていた

 カーチスが目を丸くし絶句しているm私は自然と、笑みを浮かべそれを見つめていた

「殺してやる、殺してやるッ!」

「殺してやるッ!!」

 天を裂く烈風の如き獅子の咆哮、彼の宣戦布告に私は歓喜で身を震わす
 彼の叫びを通して、彼の嘆きを聞いて取れる、なんと哀れなピエロの戯曲か

────何故僕だけが生き残った?何故?何故何故何故何故!?

 ああそうだ、殺さなくてはならない

 生かしてはおけない、死ねない、まだ死ねない!

「地獄の業火は口を開けてお前を待つぞ!殺してやる!その火に身を投じる時ラドウィッジを思い出せ!
 この呪詛をその魂に刻みつけ、永遠の苦痛n抱かれるがいい!!!」

 リオ・チェリッシュ……これが、歪な赤薔薇を生み出すがための供物になるとは期待はしていなかった

「……いいだろう、追ってくるがいい!私は彼の地で待とう!」





◆ 狭間の存在






──君は一度死んだ、名前も、身体も、全てがもう使いものにならない


──だが君はこうして存在している、何者でもない誰かとして


──意味が欲しいか?


 僕は確かに頷いた 黄昏に暮れた、何処でもない狭間の街、時計塔の前で、その男と向かい合っていた

 男が掌を翳すと、ガラス細工のように透明で薄っすらと光を放つ3つの文字が浮遊した

『REO』

そして、彼の提示した文字の内一枚の文字がその3文字に加わる、『S』…彼の頭文字だ

 そのフォントは僕を軸に渦を巻いて回転し、いつまでも目まぐるしく回り続ける
 その内、男が再び手を翳すと、眩い閃光が迸り、4つの文字からなる一つの『意味』が提示されたいた

「新しい君だ」

 僕はか細く、赤子の寝息のように静かにその『意味』を読み上げる





            ロゼ
         「──Rose──」













END…

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最終更新:2013年08月25日 19:25