「―――――おはよう。」
何処かの星、灯らない何処かの国、活気のない廃街。
もっと遠く離れた辺境の地、静かな海に面した灯台の中で
小波とカモメの心地よい音色に包まれながら、僕たち二人はひっそりと暮らしていた。
光のない真っ暗な空間、焚火の炎と夜空に浮かぶ星、そしてそれらの光に反射して輝きを帯びた海だけが輝いていた。
「おはよう。良い匂い、お腹空いた…」
僕らはもともと一人だった。そしてお互いに生まれた星が、世界があった。
僕たちは星に誘(いざな)われた、理由なんて誰も知らない。
だけど、こうして二人が出会ったのは運命以外何でもなかったのだと、ありふれた言葉を思い出して気がついたら笑い合っていた。
僕らは何もかもが違う。性格も、種族も、身長も、考え方も、好きな食べ物も、得意なことも…
それでも…いや、だからこそ、お互いに惹かれあうものがあった。まだ僕は彼女の全てを知らないし、彼女も僕の全てを知らない。
それなのに僕たちは、互いのことをよく知っているかのように、今日も笑いあっていた。
「大きいのが釣れたんだ。夜はごちそうだよ。」
顔の無い僕と、色が見えない彼女――――
それでもお互いの声はしっかり届いていた。だから不便じゃなかった。
僕のような種族はもともとこんなものだったから全然不自然じゃなかった。
でも人間である彼女は生まれつき多くの障害を抱えていた。
薺の茎みたいにか細い腕と艶を失った栗毛色の髪、痣だらけの足にもう二度と動かない右腕…
そして最近、色を見ることができなくなってしまったようだ。
初めは、遠い国から風に乗ってきた毒ガスのせいだと僕は思っていた。
でも彼女は自分のことを気にしなかった。きっと僕を思ってのことなんだと思う。
「見たことないお魚だね。自然の恵みに感謝して、いただきます。…………おいしいね。」
街には医者も誰もいない。僕たちは遥か遠くに見える黒い雲から逃げる様にここへやってきた。
彼女を守るために何度もボロボロのナイフを振り続けた。それでも彼女の身体は蝕まれていくばかりだった。
この星で何が起きているのか僕たちは未だ理解できていない。
彼女は見たくないものは見なくていいと言って、僕と共に逃げることを決断した。
あの街から離れて数ヵ月が経つ。あの輝かしい街で、車椅子に乗った彼女と散歩に出かけた日々は戻ってこない。
それでも僕たちは不思議と笑い合っていた。あの頃から変わらず、笑顔を絶やさず。
きっとお互いにいられるだけで幸せだったんだ。
「……うん、おいしいね。」
でも、もう、本当は気づいている。そんなことは思いたくもなかったけれど、決して目を反らすことができない。
僕は彼女に死期が迫っていることに気づいた。でも彼女はもっと早くから最期を迎えることに気づいて、覚悟していたようだ。
前夜、実は激しく泣いた。あの海よりも青く、深く、大きな涙を何度も何度も零しながら。
一体何度彼女の名前を叫んだろう。そしたら彼女は「まだ生きているから」と優しく笑った。
今夜は僕らにとって最後の晩餐を。暁鐘と共に彼女は僕の前から姿を消すだろう。
この後またあの涙を流して泣き疲れた僕の背を優しくさすって、深い眠りについた僕が目を覚ます前に、彼女は海へ身を投げ出すだろう。
最後の最後まで一緒にいたかったのに、彼女は泣き虫な僕のために魚の餌になると言ってそうすることを決めた。
「…今度はお魚になって戻ってくるね。」
思えば彼女は一度も涙を零さなかったし、それどころか悲しげな顔さえ浮かべなかった。
「死ぬことを望んでいたのか」と聞いた。そしたら「死ぬのは怖い」と返ってきた。
だけど彼女は続けてこう言った
―――――― " 死んだ私を思い出す君に、ずっと笑ってた私を残したいから " ――――――
僕は何も言い返せなかった。彼女は覚悟を決めていた。だからそれを否定することなんてできなかった。
否定したところで、どうにかなるわけじゃないことも、本当は分かっていたのだけど。
「…………どんな色をした魚になるんだろうね。」
こんな思いを抱くくらいなら、初めから出会わなければよかったと後悔した昨日の自分がいる。
今でも少し後悔している、でも、何処かで彼女の最期を見届けたいと願う自分がいた事も忘れてなどいなかった。
「……君の"目"に映る世界の色が、どう見えているのか…私も見たかった。」
僕は彼女を抱きしめた。強く抱きしめた。彼女は痛がってたのかもしれない、けれど、彼女を"確か"に感じたかった。
言葉を交わしても、手を繋ぎ合っても、それでも感じ取ることのできなかったものを感じ取れる気がした。
でも実際に感じ取れたものは彼女の身体の冷たさだけだった。悔しくて泣いた。気が動転としていたんだ。
僕は泣く、彼女は笑う、そうして時間だけが過ぎていき、その後何か語り合うこともなく僕らは抱きしめあったまま深い眠りについた。
朝だ。
彼女はいなかった。
手紙も残さなかった。
彼女の香りが潮のと混じって部屋に残っていただけだった。
急いで灯台を出た。
暁が眩しかった。
カモメは鳴いている。
小波の音がする。
潮風が頬を伝う。
瞳を閉じる。
笑う彼女、笑い合う僕ら。
一緒に見た雪のような火山灰。
一緒に触れた咲かない桜の木。
一緒に感じた冷たい太陽の光。
一緒に歩いた枯葉の絨毯。
すべてがまざまざと蘇る。
すべてが灰一色に見えた彼女の景色。
僕はその景色に色を付けていった。
そうやって二人で生きてきた。
何度も息をしてきた。
言葉を交わし。
手を繋ぎ。
笑う。
彼女がいなくなった朝は何故か清々しかった。
僕は泣きたかった、でももう泣けなかった。
彼女がいなくなった世界はとても静かだった。
こんな時は二人で作った歌を口ずさんだ。
彼女がいなくなった景色は色褪せていた。
今なら、この海が彼女にはどう見えていたのかがわかりそうだ。
立ち尽くしていたら日は暮れていた。
僕は彼女を追いたくなった。
でも僕は彼女の言葉を忘れなかった、だからできなかった。
僕らはこれまでと変わらず生き続けることにした。彼女がそう望んでいてくれたから。
街へ戻った。黒く焼け焦げた街へ。そして国を出た。
彼女のように命を落とした人たちは世界中にたくさんいた。
どれも輝かしい命だった。彼女がいなくなった、あの朝に見た暁のように。
噂を聞いた。奇跡を齎す星の話を。絶対に叶えられない夢を叶えてくれる星の話を。
初めは信じなかった。なのに僕はその星に惹かれてしまった。
何が何でもその星に行かなければならないと、見えざるもう一人の僕が静かに囁いた。
どうせ行くところなどなかった。だから決心した、その星へ行くことを。
お気に入りのレインコートを羽織って、あのボロボロのナイフを持って、行こう。
――――――― 夢を叶えよう、もう一度夢を見るために ―――――――
最終更新:2016年01月08日 21:45