春秋戦国


確定者(9名)

◎楽毅 生没年不明
早期に確定入りして異論もなく目立った推薦・紹介文なし

◎楚の荘王(熊侶) ?~紀元前591年
国政を整備した荘王は周辺諸国を圧迫し、領土を広げた。
国を合併させること26、地を開くこと3000里。
陳の内乱に乗じて一時併合し、鄭を攻めて陳と共に属国化した。
邲の戦いで晋を撃破。
この戦い以降、晋は暫くの間低迷期に入り、楚の荘王の威光が天下を覆った。
王(しかも明君)でありながら自ら戦場に出て采配を振るった点を考慮して推薦したい。
(其ノ弐>>457より)

◎白起 ?~紀元前257年
春秋戦国時代に白起を超える将軍はそうそういないと思われる
(初代>>235より)

◎李牧 ?~紀元前229年
対匈奴対策の創始者。グレイト。
(其ノ弐>>343より)

◎王翦 生没年不明
王翦を超える統一貢献度の高い名将などいないといってみる
(初代>>207より)

王翦の凄いところは、水陸両面でオールマイティに采配を揮い、
君主の軍事的行動の要求に必ず応え、それでいて自らの生を全うさせたことだね。
(初代>>212より)

◎呉起 ?~紀元前381年
我欲が強く好色だったが、部下に対しては公平で信頼を得た。
魏に仕えて秦の城5つを抜き、しばしば威名を挙げるも、
魏の宰相公叔に疎まれ楚に亡命。
悼王の信頼を得て百越を伐ち、三晋を退け、秦を撃って
生涯64戦12引き分け無敗の記録を残す。
悼王死後・・・については語る必要ないか。さっきも書いたし。
(生涯最後のときにまでただでは死ななかった。)
(其ノ弐>>352より)

南は百越を平定、北は陳・蔡を併合、三晋(韓・魏・趙)を撃退
西は秦を伐って楚を一大強国に伸ばし上げた。
生涯成績、通算76戦64勝12引き分け、負け無し、
軍中に於いての人心掌握もまさに完璧。
(其ノ弐>>432より)

◎廉頗 生没年不明
恵文王から悼襄王まで、40年にわたって趙の宿将をつとめた大元勲。
恵文王のとき斉を破り、晋陽を取る。
孝成王のときには燕を破り、講和条件として5城を割譲せしめた。
蘭相如と深い友情で結ばれ、この二人がいるがために秦は趙を攻撃できないほどだった。
のち、長平の戦いで白起と対峙するも秦の流言に乗った王のために更迭され、第一線から退けられる。
王の信頼を得ることができず乱を起こして出奔、魏に投ずるも用いられなかった。
「再び趙の兵を率いたいものだ」と言い残して没。
(其ノ弐>>353より)

四十年にわたって趙を守護した大元勲。若い頃は楽毅の五カ国同盟軍にも参加した
(っけか? どーも確証がもてん)
蘭相如との刎頚の交わりで高名。廉頗と蘭相如が健在であるうちは
秦でさえうかつに趙を攻めることは出来なかった。
長平の戦いでもちびりちびりとやられつつも防備に専念、
白起ですらうかつに大攻勢を仕掛けることは出来なかった。
若造の趙括に更迭されたことに憤激するも、邯鄲防衛に尽力。
楚・魏の救援を得て趙は命脈を保つ。
長平で趙括が敗れた五年後、燕が趙を攻めるとこれを迎撃、主将栗原を殺し、
逆撃して燕都を囲んだ。和平の条件として五城を割譲させる。
さらに魏を撃って繁陽を攻め、ここを攻略するも孝成王が死ぬと後援者を失い、
楽乗ごときに更迭された怒りから一暴れして出奔、魏に亡命するも用いられなかった。
「再び趙の兵を率いて戦いたいものだ」と言い残して寿春で死んだ。

白起をてこずらせたことをはじめとする数々の武功、
悲劇的な晩年のエピソード。どっちも十分だと思うが足りんかな。
(其ノ弐>>464より)

◎孫武 生没年不明
功績とその後
孫武は楚の需要拠点である舒と六の二都市を占拠。
慌てた楚は勇猛な武将に精兵を率いさせ反撃に出たが、孫武の作戦は一枚上手で逆に殲滅させる。
孫武が呉に凱旋すると占領地は敵に取り返されるが、孫武が出撃すると楚軍はいつも撤退。
そんなことを数年の間に五回以上も繰り返す。
闔廬七年、預章の戦いで孫武は楚の大軍を完膚なきまで打ち破り、楚の都、郢に迫った。
その為に楚の昭王は都を捨て楚の属国である隋に逃亡、呉軍はついに楚の国都、郢に入城。
その二年後楚が水軍を率いて呉領に侵入、それに対し孫武は水軍を編成、
長江で楚の水軍を大破させ楚軍は壊滅、敗残兵を長江北岸へ敗走させた。
次期君主の夫差の早々と器量を見切り、闔廬や伍子胥の説得を退け引退を申し出た。
それを承諾した闔廬はこれまでの功績に対し孫武に富春の領地を与えた。
それ以後、孫氏一族は代々富春で細々と兵法を教え暮らす。

以上、呉越春秋、左伝、戦国策より抜粋。
(其ノ弐>>589より)

◎樗里疾 ?~紀元前300年
韓・趙・魏・燕・斉の連合軍を迎え撃ち、韓将申差を生け捕り、趙渇、韓奐を破り、八万二千の首を斬った。
曲沃、漢中を秦の版図に加えた。その他にもたびたび趙や魏と戦い、勝利した。
生涯不敗を誇り、「力は任鄙、智は樗里」と称せられた。秦の初代丞相でもある。
(其ノ弐>>356より)

樗里疾(チョリシツ)は生来滑稽(円転自在)で、知恵はたくましく、秦人は彼を智嚢(ちえぶくろ)とあだ名した。
B.C.330樗里疾は右更(爵14等)に任じられ、魏の曲沃を討ち、
邑民をことごとく追い出し、その地を秦の版図に入れた。
B.C.318樗里疾は秦恵文君の命で、韓・趙・魏・燕・斉の連合軍を迎え撃ち、これと修魚に戦って、
韓将申差を虜にし、趙の公子渇、韓の太子奐を破り、首を斬ること八万二千に及んだ。
B.C.314樗里疾は魏の焦を攻め降し犀首を走らせ、韓の岸門を破り、首級一万を斬った。
B.C.313趙を攻め、趙将荘豹を虜にする。
樗里疾は甘茂を恵文君に推挙し、恵文君は甘茂を将軍に取り立てた。
B.C.312楚が韓を攻めたため、秦恵文君の命で韓を助けて楚を討ち、
魏章を輔佐して楚将屈カイを破り、漢中を取った。その功で封じられ、厳君と号した。
B.C.309秦が初めて丞相を置き、樗里疾は甘茂とともに丞相となり、右丞相に任じられた。
B.C.308樗里疾は韓に出て、韓の宰相となった。このとき戦車100乗を仕立てて周に入国した。
周王赧は護衛兵を出して迎え、すこぶる敬意を払った。
武王が没すると、昭襄王が立ち、樗里疾はますます尊重された。
B.C.306樗里疾は再び秦の宰相となった。
秦人の諺に「力は任鄙、智は樗里」というのがある。
(其ノ弐>>538より)

候補者(3名)

○士会 生没年不明
通称范武子。濮城の戦いでは若年ながら帷幄に参与し、晋軍を勝利に導いた。
趙盾が政変を起こして霊公を立てると先蔑とともに秦に亡命、将となりしばしば晋軍を破って、
晋人を悩ませた。秦将賈季とともに西戎を撃って功あり。
晋には士会とまともに戦える将がなく、中行桓子の提案で彼を晋に引き戻す策を講じた。
いろいろあって(このあたり難しくて読めん)帰国するも、趙盾を嫌いこれを患う。
景公元年、楚が鄭を伐つと上軍の将として出陣、鄭を救う。
同三年、再び楚が鄭を犯したときには楚軍を覆滅して鄭を救った。
邲の戦いで晋軍は楚に大敗、さらに七度戦い七回敗れたが、
ただ一人士会率いる上軍だけは敗北を知らなかった。
七年、赤狄を撃破。周室の動乱を平定、周の典礼に倣い晋の国法を定める。
八年、郤克が斉に赴き、笑いものにされて帰ってきた。
その怒りは凄まじく、なにがあろうと斉人を討ち滅ぼさねば気がすまない、
という体であったので、士会は自ら上軍の将を降りて郤克に譲った。
その後も晋の重鎮として「晋に范武子在り。才徳諸卿に冠す」と称えられる。
権力に阿らず、人生における進退の潔さを特筆されている。
(其ノ弐>>551より)

○魏の信陵君(魏無忌) ?~紀元前244年
自ら率いた兵で秦を2回も敗走させて、その内一回は
候補にも挙がってる蒙ゴウを破っています。
五カ国の兵をまとめるのも大変な統率力だと思いますよ。
(其ノ弐>>590より)

○趙の武霊王(趙雍) ?~紀元前295年
胡服騎射と中山国を滅ぼしたくらいかね?あと北方に領土を拡げた。
武霊王の初期には趙は秦に負け続けなんだが、これはまだ幼君の頃だしな。
まあ、趙奢よりは有力な候補じゃないかと個人的には思う。
(其ノ弐>>545より)
最終更新:2007年07月14日 11:51