秦・前漢


確定者(9名)

◎韓信 ?-紀元前196年
紹介・推薦文上がるまでもなく文句なく確定

◎項籍(字は羽) 紀元前232年-紀元前202年
項羽は、傑出した個人的な武勇が、特異なまでに戦術的勝利にという結果を出した希有な例でしょ。
実際、秦の命脈を絶ち、一時的にとはいえ中国の覇権を握っている。
(と同然だろとの突っ込みもありそう)
ただ、君主としては、その判断基準が理や利ではなく、情であったことが欠点で、最後には滅亡している。
個人的には、珍しい例ての名将で良いと思う。
(其ノ弐>>661より)

項羽は確定入りでいいと思う。
もう何人も言っているが、あれだけ欠点・錯誤・失敗を大量に抱えて、それでも
局地戦の勝利で優勢を何年も保たせたという例は、戦史上滅多にお目にかかれるものじゃあない。
「戦術でなく個人的武勇」という意見もあったが、逆に戦術を凌駕する個人的武勇の凄みを感じるのみ。
君主としてリーダーとして落第というのも同意だが、このスレは名君列伝ではないしな。
(其ノ弐>>671より)

項羽は武勇ばかりじゃなく、それなりの戦術眼と用兵を心得て戦ってるでしょ。
個人の武勇だけで数倍や数十倍の戦力差を覆せるわけでもないし。
鉅鹿や彭城で顕著だけど、相手の急所を迅速に衝き、強襲をかけて突き崩すと
徹底的に戦果を拡大させて甚大な出血を強いる手法を採ってる。
不利な状況での短期決戦では特に秀でた用兵といってもいい。
どちらかというと武勇ばかりにモノをいわせているのは固陵の戦いとか最後のあがきでなんじゃないかな。
(其ノ弐>>672より)

◎霍去病 紀元前140年-紀元前117年
紹介・推薦文上がるまでもなく文句なく確定

◎衛青 ?-紀元前106年
紹介・推薦文上がるまでもなく文句なく確定

◎趙充国 紀元前137年-紀元前52年
武、昭、宣帝の三代に仕えた西漢王朝随一の将軍にして政治家。
若くして羽林に入り、騎射にすぐれて頭角を現した。沈着にして勇猛。智謀あり、
若い頃から将帥の品格と態度を備え、好んで兵法を学び、周辺少数民族の事情に通暁していた。
弐帥将軍李広利の副軍司馬として匈奴征伐に随行するも匈奴の騎兵隊に包囲された。
食糧は断たれ馬は疲れ果て、死傷者は莫大。趙充国は壮士100余人を率いて囲みに突撃、
身に二十あまりの傷を受けながら道を開き、この奮戦によって李広利は命を拾った。
昭帝の時武都の氐賊が反乱を起こすと、趙充国は大将軍護軍都尉とされて出撃し西祈王を捕らえた。
中郎将、水衝都尉、後将軍を歴職、のち大将軍霍光と共に宣帝を擁立し、功により営平候に封ぜられた。
本始年間(前73-前70)、蒲楼将軍の肩書きを与えられて匈奴征伐に出征、凱旋後再び後将軍、少府。
元康、神爵年間(前65-前58)にかけて、対羌族問題の第一人者として活躍、
基本的に『戦わずして勝つ』を至上とし、示威と慰撫とを使い分けて漢に服属させる策をとった。
ところが義渠安国が羌族の指導者30人と兵士1000人を無駄に殺したので羌族は叛乱、
匈奴と手を組んで侮れない大勢力となる。前61年、匈奴の虚閭権渠単于が10万余の騎兵を率いて
南方をふさぐいだがやってきた将軍が趙充国と知ると戦わずして兵を返した。
ようやくにして朝廷は羌人の脅威を認め、これを鎮定するのが急務とされた。
宣帝は御史大夫邴吉を遣わして趙充国に諮った。『羌族平定の任務には誰を将軍とすべきか?』
趙充国はおのれが高齢であることも連続作戦の辛苦も顧みず、
『老臣以上に適任なものは誰一人としておりません』と自薦した。宣帝はまたこうも問うた。
『反乱平定にはどれほどの軍隊が必要であろうか?』趙充国は答える。『百聞は一見にしかず。
はるか遠くの軍情を推定するのは非常に難しいものです。私は迅速に金城に赴き、
実地の地図を描いたうえで作戦方案を決定し、その上で主上に上奏しようと思います』前61年現地入り。
目の前の軍功を追い求めるものではなく、謀によって辺境の長期安寧を求める策を選んだ。
叛乱の首魁である先零羌だけを攻撃し、叛乱に随従させられた罕羌、幵羌ら諸羌の罪は不問とした。
慰撫工作のみならず戦術的にも意を用い、常々斥候を放って遠く離れた場所を偵察させ、
行軍の際には下士官と同じように戦闘準備をし、宿営を張るときには自分で陣を張った。
自らに勤労を課すことこと謹厳で、士卒を愛護し下士官をいたわった。
このようなので、彼が金城に到着するやたちまち士気は上がり、威望は遠くとどろいた。
彼と一緒に対羌族戦を任されて出戦したもう一人の将軍、辛武賢はこの戦略に不満を持ち、
速決速戦を唱えて出陣、宣帝もこれを許し、趙充国に彼の部下として働くよう下命した。
趙充国は辛武賢の策が危険であることを悟っていたので前後三回にわたって自らの計画を反復説明し、
同時に宣帝の問いにも明快な回答を返した。
毎度書を奏し、宣帝はそれらすべてを公卿・大臣たちの間に諮り、議論を交わした。
趙充国を支持する大臣は最初全体の十分の三にすぎなかったが、後には過半数を数え、
最終的には百人中八十人の大臣が趙充国の戦略に同意した。
詔書を得た趙充国は先零羌を攻撃、大勝をおさめた。
漢軍は羌人が遺棄した馬、牛、羊10万余頭と四千輌の車を手に入れた。
趙充国は罕羌、幵羌の地に兵を進めた。漢軍は軍紀厳明、秋毫も犯さず、
命令に背くものは斬ったので、罕羌、幵羌らは漢軍の威徳に感じ、戦わずして帰服した。
趙充国は奏書の中で屯田による十二の利点と戦における追撃がもたらす十二の危険を列挙し、そのうえで屯田策は軍費を省き労役を軽減し、さらには人民から農業を奪うことなく、また武備を以って『戦わずして勝つ』方策であると強調、一例としては騎兵を養うことの無駄を挙げ、騎兵を解除すれば支出をどれほど節約できるかを説いた。彼の屯田策は実際に成果を上げ、国庫は以前に比べて大いに潤った。
趙充国は屯田策をもって叛羌を威服せしめ、その短い任期において非常に大きな成功を収めた。
前六十年時点で漢に降伏したもの三万一千二百人、黄河あるいは湟水に溺れて死んだもの及び飢餓により餓死したもの五、六千人、斬首されたもの七千六百人、南山に盤踞する叛羌の残党四千人。
この年秋、羌族の若零、离留、且種、児庫らが叛首・先零羌の大豪族、犹非、楊玉らを殺し、残党四千余人を率いて帰順した。ここにいたって羌族の叛乱は徹底解決を見た。
のち老齢をもって致仕するが、異民族問題が持ち上がるとそのつど召されて機密に参与した。
前51年卒。享年86歳。謚は壮侯。
(其ノ弐>>633、634より)

◎陳湯 ?~紀元前6年
字は子公、書を好み学問に通達し、文章を作ることに巧みであった。
貧乏で貪欲、郷里では嫌われ者。長安に行き、富平侯・張勃の推挙で官を得る。
西域に出たいと強く望み、甘延寿の副将として西域に出た。
建昭三年、甘延寿とともに再び出陣、知略をもって1518人を斬り、
145人を生け捕って郅支単于を斬ったが、独断専行の行為があったとして自ら弾劾した。
元帝はその態度を潔しとして嘉したが、陳湯に鹵獲物着服の罪があったため恩賞が与えられることはなく、逆に罪に問われた。
宗正・劉向が弁護したので赦され、黄金百斤を賜り関内候とされる。
射声校尉となるが以前の鹵獲物着服の罪が蒸し返され、投獄された。
太中大夫の谷永の上奏により獄から出され、一兵卒に。
段会宗が烏孫の兵に包囲されたとき、
「援軍は不要、まもなく吉報が届くでしょう」と述べ、実際その通りになった。
従事中郎となり、以後軍事に関わることの一切が陳湯の意見で定められるようになる。
人から代価をもらって上奏文を作るアルバイトをし(その中には簒奪者・王莽もいた)、
また、虚言を奉って衆を惑わした罪が露見して、辺境に送られる。
しかし議郎の耿育が陳湯の無実を上奏し、「深きをさぐり遠きをきわめて国威を掲げ、国家積年の恥をそそいだ」功があるとして庇いだて、それにより許されて長安に還った。同地で没す。
没後、王莽が新を建てると、旧恩に報いるため破胡候の爵位を追贈した。
郅支単于を破った天才的用兵家ながら俗欲にもあふれる人間臭さをもって推薦。
(其ノ弐>>693より)

(李広、范明友、陳湯ら匈奴討伐、遠征組は趙充国に比べるとかなり見劣りな感じがする。)
に対して陳湯を弁護。
陳湯は郅支単于を斬っただけと違って段会宗が自ら囲みを解いて勝利することを予見、
先見の明によって元帝期の軍事行動の全権を任されるに到ったわけやし、
それで(軍事的には)ヘマこいたこともない。
単純に現場で戦った李広・范明友ほかとは戦略眼のレベルで格が違う。
やや見劣りするとはいえ趙充国にそれほど水をあけられてるとは思わんのやが、どうか?
(其ノ弐>>708より)

◎周亜夫(周亜父とも) ?~紀元前143年
紀元前159年冬、匈奴の兵3万が上郡に侵入し、また別に3万が雲中郡に侵入した時、
文帝は軍の駐屯地に向かい、将兵の労をねぎらい、また視察した。
その際、劉礼、徐悍の陣は文帝一行を素通りさせたが、
周亜夫の陣は文帝が割り符を見せ周亜夫の許可があるまで
軍中に置いては皇帝の命令でも将軍の許可があるまで従うことが出来ないと拒否、
文帝一行を陣内に入れささなかった。
この視察を通して、文帝は劉礼、徐悍と比べ、軍令が非常に整っていることを評価し、
周亜夫が優秀な軍事的人材であるとことを認めた。
文帝、景帝の時代、何度も北方の匈奴の侵攻を撃退し、
文帝から「真将軍」と賞賛され、景帝も周亜夫に丞相の位を授けた。
将軍としての胆力、冷静さは呉漢、岳飛と共に高く評価されています。
(其ノ弐>>647より)

周亜夫を十傑に推したい
彼が呉楚七国の乱で勝利を収めることができたのは、相手のミスに乗じ続けたことが挙げられる
逆に漢軍の方は、ミスを犯さないようにひたすら防勢に徹していたわけだが
ここで、皇族の梁軍をおとりにし続けた根性が凄い、かなりイイ性格している
(実質、この戦略を採用したことにより、呉楚の補給線は野放図に拡大・長期化することになった)
そして、呉楚の攻勢が限界点に達しても、ひたすら防勢+補給線分断
相手が苦し紛れの決戦を挑んできて、無難に撃破
勝つべくして勝った戦だが、これだけ堅実で失敗を犯さないで戦えたのは、
偏に周亜夫自身の将器の賜物と言っていいと思う
呉楚七国20万+匈奴+南越 VS 漢軍(推定30万以上かな?)
漢軍の動員兵力が不明なんだが、三輔地域メインでの動員だから、そこまで多くはないでしょう

天下分け目の合戦を制している手腕はもっと評価してほしい
(其ノ弐>>793より)

◎章邯 ?~紀元前205年
章邯は確かに囚人を見事に精鋭に仕立て上げ、周文、田臧、張賀、伍除ら陳勝率いる
反乱軍を撃退してるし、候補に挙がっている項梁をわざと油断させ、夜襲にて見事に撃退してるしな。
援護の要請さえ通っていれば項羽にすんなり降伏しなかっただろうし、
かなりハンデのある状態であれだけ見事な活躍をしたんだから凄いと思うぞ。
韓信には敗れているがそれはまあ仕方ないよな。
(其ノ弐>>691より)

章邯はもし援軍が速攻でやってきたら項羽に勝ってしまったかも知れん将才の持ち主だけに
個人的には高評価。まぁ降伏せずに最後まで戦って散ったらもっとかっこよかったんやけど。
(其ノ弐>>711より)

章邯が後盾も無く囚人ばかりの軍隊で連戦連勝したのは凄い
一度として万全の体制で戦いに臨めた事は無いからなぁ
韓信に負けたのもそもそも項羽の人心を読まない配置が最大の理由だと思うし
悲劇の名将として一票
(其ノ弐>>780より)

◎灌嬰 ?~紀元前176年
今度は灌嬰の武勲。
二千石のものを擒らえること二人、
城を降すこと四十六、国を平定すること一、郡は二、県は五十二、
将軍を擒らえること二人、柱国・相国各一人、二千石以上のもの十人。
数字だけ見ると曹参の方が上やね、明らかに。
まぁ作戦活動の困難さとかいろいろ条件があるけんが、数字だけでは計れんわけやが。
(其ノ弐>>801より)

灌嬰は郎中の騎兵を率い 陽の東で楚の騎兵を撃破、
別部隊、別将として項冠、南燕の西で魯で王武、王武の別将桓嬰を白馬の城下で打ち破っている。
更に韓信が斉王となった後、楚将某を魯の北で打ち破る。
項声、薛公、 公を打ち破って傅陽などを平定。  呉・予章・会稽の三郡を平定。
匈奴の騎兵を武泉で燕・趙・斉・梁・楚の車騎をあわせこれを率いて匈奴の騎兵をサ石で撃破。
B.C177辺境の吏騎85000で匈奴を討ち退却させている。
車騎将軍として燕王臧荼を韓王信を代にて討っている。
(其ノ弐>>812より)

灌嬰と曹参が本当はどちらが上かは分からないが、灌嬰はまだ当時、年が若く武将として
とりたてられるのが遅かったため、統一時の戦功が曹参が上になった可能性がある。
自分なら、どちらを選べといわれたら、北へ南へ各地で勝利を重ね、先見の明で呂氏排除を
行い(名将の条件からは外れるが、的確な判断もプラス要素にはなる)
大軍を率いて、匈奴に引き返させた灌嬰を選ぶ。(無様な指揮ならば、匈奴に破られ、国力に
甚大な被害を与えた可能性もある。戦わずして一応の目的は果たしたということでプラス材料にはなる)
(其ノ弐>>838より)

候補者(4名)

○劉邦 紀元前247年(または紀元前256年)~紀元前195年
秦末の混乱期に軍事的能力で頭角を表し、項羽と並んで楚懐王より秦攻略を命じられるまでになり、
相手の主力が項羽と戦っている隙だったとはいえ、調略なども駆使して秦本国を落としている。
対楚戦では項羽を抑えながら別の軍が諸国を下すという戦略の一つの核として項羽と対峙を続け、
かなり危険な時も乗り切って抑え役を果たしている。敗走しても兵を韓信から吸収したり
ゲリラ活動をしつつ軍を再編成するなど、判断力や行動力は優れている。
統一後も多くの戦いを親征して反乱鎮圧をこなしている。
彭城や白登の大敗が印象的で、負けてばかりなどとも言われるが、
それらを差し引いても充分過ぎる実績じゃないかと思う。
(其ノ弐>>664より)

一度でも敗走したら名将と呼べないというなら別だが、
劉邦は敖倉を巡って項羽と対峙し続け、命さえ危険になるギリギリまで粘っている
打ち破られてもゲリラ的行動や速やかな再編成で戦場に戻り、
相手が項羽でなければ楚軍(曹咎など)を圧倒している
また、負け続けといっても劉邦は中原への進出を食い止められているだけであり、
項羽は劉邦の侵攻があるからこそ韓信に手が回らなかったのだから、
劉邦自身が項羽にとってかなり脅威だったのは間違いない
項羽の方が上というのは分かるが、負けているからといって能力が無いとは限らない

また沛公から頭角を表し秦を征服するまでの実績は否定しようがないと思うのだが
張良の策、レキ食其の策…とか言い出したらキリがないよ
実質的に決定権が劉邦にあったのなら、劉邦の功績でしょう

晩年の反乱鎮圧は確かに国力の差もあるだろうが、
長期化させることなく平定した手腕は認めてもいいんじゃないか?
(其ノ弐>>738より)

「将の将」は別にしても、沛公になってから劉邦は転戦に転戦を重ねて兵を増やし、
項梁や項羽と共に章邯や三川守李由を破り、楚懐王の下で短期間で項羽に続く地位を得ている
武関から秦を攻める別動隊の将となったのも、彼の「長者」という評判だけでなく、
劉邦なら出来ると思われたからに違いない(そして期待を裏切らなかった)
項羽との戦いの中でも、項羽には苦戦や敗走を重ねてるが、神出鬼没の動きで項羽を翻弄したり、
項羽が去ると守将を破ったりと、かなり嫌らしい
目の覚めるような奇計や猛烈な勢いこそないし敗北も少なくないが、
本人の軍事的な能力も高く評価していいと思うんだがねえ
(其ノ弐>>776より)

○曹参 ?~紀元前190年
沛の人。劉邦決起当初からそれに従う。
将として胡陵・方与を撃ち、秦の泗水の軍を攻めて大いに破った。
東に進んで薛を降し、泗水軍守の軍を薛の城郭西部で撃ち、
ふたたび胡陵を攻め取り、方与を守った。方与が叛いて魏につくとこれを撃つ。
秦の司馬尼の軍を碭で打ち破り、碭・狐父および祁を獲った。また下邑以西、虞にいたるまでを攻め、
秦将章邯の車騎を撃破、その他諸々の戦いで先陣の功があった。
ふたたび章邯を破り、陣を陥れてこれを追い濮陽に至り、定陶を攻め、臨済をとる。
劉邦に従って東郡の都尉を攻め、これを城武の南で打ち破り、
秦将王離の軍を成陽で撃ち、王離と再戦して再び大敗させた。
敗走する秦軍を追撃して開封にいたり、秦将趙賁を破る。
西のかた秦将楊熊の軍を打ち破り、秦の司馬および御史一人ずつを捕獲した。
再び趙賁を破り、南陽の郡守・齮と戦って陣を落とし、宛を取って齮を生け捕る。
秦の郡を藍田で攻め、夜襲をかけて秦軍を大破させる。
三秦を平定、咸陽を落として新城と名を改める。三秦の将・章平を撃破。
項羽と劉方が袂を分かつと章邯・竜且・項他らをたてつづけに撃破、
碭・蕭・彭城を取る。劉邦の将軍として項羽を撃つが大敗した。
しかし潰滅することなく、外黄の王武、燕の程処が叛くと急行して悉く平定した。
高祖二年、劉邦の別将として韓信の下につき出陣、魏の五十二城を落とす。その他戦功赫々。
竜且と上仮密で戦い、これを大敗させ、竜且を斬って斉を平定、70余県を得る。
項羽死後、天下が平定されると右丞相から斉の相国に任ぜられる。
英布が叛くと車兵騎兵十二万余を率いて劉邦の軍と合流、英布を破る。
生涯に二百二十二間を降し、王二人、相三人、将軍六人、卿・司馬候・御史それぞれ一人を捕らえた。
蕭何死後丞相の位を継ぐ。蕭何の定めた法を曲げず、無為無策とも呼ばれたが天下はよく治まった。
・・・まぁ、特に推すわけでもないけど。
(其ノ弐>>799より)

○彭越 ?~紀元前196年
彭越も得意のゲリラ活動で項羽の思惑をたびたび打ち砕き、軍の命である兵籠を奪い、
漢軍にそれを提供、その為項羽は何度も劉邦を仕留め損なったんだよな。
彭越の活動も韓信と同様、漢王朝樹立に大きく貢献したんだし、
決して只のオヤジではないんじゃよな。
(其ノ弐>>691より)

秦末期の戦乱の中で大盗賊として活躍。劉邦の幕下に入ってからは後方撹乱などに戦功を挙げた。
劉邦が秦の首都・咸陽へ向けて進軍する途中で魏の領内にある昌邑を攻め、
彭越はこれに協力して昌邑を攻め落とした。
劉邦が項羽と対立するようになった時、彭越は梁で暴れ周り、都市をいくつも落とした。
斉王田栄が背き使者を送って彭越を将軍に任じ済陰より南下させ楚を撃たせた。
討伐に来た蕭公角率いる楚軍を彭越は大いに撃ち破った。
漢王の三年彭越は常にあちこちと任来し漢の遊軍となり楚を撃ち、
梁の地において楚軍の背後の糧道を断ち切った。
その為に項羽軍には食糧不足が続き、主敵であるはずの劉邦へ全戦力を向けることができず、
結果何度となく劉邦の窮地を救うことになった。
漢王の四年、漢王と項羽がケイヨウで対峙した際に彭越はスイ陽、外黄など十七城邑を攻め落とす。
漢王の五年、彭越はまたも昌邑一帯の20余城を降し、10余万斛の兵籠を入手、これを漢王に供給。
垓下の戦いに参戦楚を打ち破った。
(其ノ弐>>695より)

史記には魏豹と共に卑しい身分の出身であったが千里の地を席巻し南面し、
弧と称し敵を殺し勝に乗じて名声は日ごと高まったとある。
韓信にやや劣るものの漢に対する貢献度では負けてはいないはず。
後方での撹乱行動は項羽にとってイジメどころか寧ろ嫌がらせに近いと思うな。
(其ノ弐>>749より)

○鄭吉 ?~紀元前55年
車師を破って西域南道を征服し、匈奴の日逐王を降伏させた。
後に西域北道を征服し、初代西域都護に任命された。
(其ノ弐>>729より)

鄭吉は、当時の地図からして鳥塁から張掖までの範囲で、匈奴・大月氏
などの勢力と対抗しながら、西域三十六国を武力で統治し続けたと推測されます。
具体的な戦功や統治した年数が明確になれば、名将に挙げてもよいかと思います。
(其ノ弐>>768より)
最終更新:2007年07月14日 13:30