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新・後漢


確定者(9名)

◎劉秀 紀元前6年-57年
後漢の光武帝、廟号は世祖
紹介・推薦文上がるまでもなく確定したが、一時確定から外す議論もあった

思いきって光武帝を外してみるのはどうでしょうか?
確かに昆陽の一戦等でみられるように光武帝は優れた将ではありますけど
全国統一の過程における功績は配下の将達の貢献が大きいと思うし
呉漢や馮異等を選出しておけば敢えて光武帝自身をランクインさせる必要も無いかなと

その案、いいかもしれませんね。
劉秀自身も有能な将なのですが、雲台28将を
上手く使いこなした、名君として扱い、あえて外してみる提示案を
みんなで検討してみるのも一つの手だと思います。

しかしなぁ… 皇帝に即位した後も、賈復や馬武らよりも真っ先に敵陣に斬り込み、
敵兵を斬りつつ陣頭指揮するあたり、項羽を彷彿とさせる統帥ぶりを発揮しているしなぁ…
これは劉邦や劉備らと違い、紛れもない名将の証明なんだけどなぁぁ
(其ノ弐>>845、846、847より)

◎馮異 ?~34年
光武帝の挙兵後、潁川で配下に加わり多くの苦労をともにする。
兵士の信頼の厚く、読書家で春秋左氏伝、孫子に通じ兵法に明るく、
温和な性格で、兵士に戦場以外では他の部隊の後ろにいるように命じていた。
また軍の規律が高く、掠奪行為をしなかったため敵にも慕われ、
投降した兵士たちは馮異の部下になりたいと願ったほど。
戦功を立てたが、謙虚な人柄で決して自分から発言せずに
一人離れて大木の木陰に座って休んでいたので、大樹将軍とあだ名された。
戦歴としては偏将軍として河北で戦い、孟津将軍として河内を守っている。
河内にて寇恂らと蘇茂を大破し洛陽に迫り、
陽夏侯に封じられ、七尺の宝剣を賜る。弘農郡を降伏させる。
征西大将軍となり、禹に代わって赤眉と戦いこれを破る。
延岑と戦いこれを討つ。
公孫述の将軍程焉と戦い破り、その為咸陽王と呼ばれた。
隗囂の将軍行巡と戦いこれを破り、隗囂と隗純を撃退。
公孫述の将軍趙匡と戦い斬るも陣中にて没する。

人柄の良さ、古典・兵法に精通、且つ戦上手、光武帝の腹心中の腹心で軍師格。
馮異こそ名将の鏡だと個人的には思う。。。
(其ノ弐>>871より)

◎呉漢 ?~44年
目立った紹介・推薦文上がらず(岑彭との比較)

◎耿弇(エン) 3年~58年
字は伯昭。生来学問を好み、上谷太守にして黄老の学を修めた父・況に学んだ。騎射を
見てこれに傾倒し、将帥の道を歩む。
劉秀が廬奴にいると聞くとはせ参じて拝謁し、「漁陽太守は南陽宛(劉秀の地元)の人、
上谷の太守はわが父です。この二郡から騎兵1万人ずつを発せば、邯鄲なぞ恐るるにたり
ません」と進言、劉秀は「君は北道のよき案内役だ」と笑うもたまたま薊で乱が起こり南征。
耿弇は上谷に帰って父に進言、寇恂、景丹らとともにそれぞれ騎兵2千、歩兵1千を率いて
出陣、漁陽の兵と合流して南進し、王郎の大将、九卿、校尉以下4百余を斬り、兵卒3万人の
首級を挙げた。涿郡から河間の22県を平定し、劉秀に再閲。劉秀は大いに喜び、将帥らに
「まさに上谷、漁陽の士大夫とこの大功をともにすべし」と発破をかけて邯鄲を抜いた。
偏将軍を叙す。父・況は大将軍・興義候とされた。
更始帝が劉秀の勢力拡大をおそれ、軍を解除して召し戻そうとしたとき、劉秀に「弇願わくは
幽州に帰り、益々精兵を発して以って大計をなさん」と述べて劉秀自立の覚悟を決めさせた。
劉秀は幽州の全兵力を発して南進し、耿弇は常にその先鋒を務めて銅馬・高湖・赤眉・青犢を
破った。尤来・大槍・五幡を追撃、呉漢ら12将軍とともにこれを追い、ついに平谷でこれを
大破、首級3万余を挙げる。劉秀即位後、建威大将軍とされた。驃騎大将軍景丹・強弩将軍陳俊
らとともに厭新将軍劉茂を破って降す。建武3年(27)、延岑・杜弘の軍と戦って大勝。斬首
三千余、将士50人を生け捕りにし、杜弘を投降させた。5年(29)、呉漢とともに富平、獲索の
賊を討ち、降るもの4万余という大勝を飾る。
詔を受けて張歩を撃ち、虚報と謀略(ホントはここが耿弇伝のキモなんやけど、割愛)とを駆使して
大いにこれを破る。光武帝は自ら車賀でこれをねぎらい、「その功は韓信よりも高い」と絶賛した。
耿弇はさらに張歩を追い、投降させ、ついでに五校の残党も平らげて、斉の地を悉く平定した。
生涯に平らげた郡は46、陥とした城はおよそ300。一度の敗戦すら経験することがなかった。
建武13年(37)、大将軍を辞めて政治顧問となり、“四方の異議あるごとに、すなわち
召し入れて籌策を問われた”らしい。永平元年(58)年、56歳にして没。謚は愍。
情報戦の巧妙さと寡を以って衆を破る精緻な用兵は雲台28将の中でもトップクラス。また、
戦時が終わって文治の時代が来ると剣を書に持ち替えて政治顧問となる適応力の高さも推薦理由として挙げたい。
(其ノ弐>>854より)

◎樊崇
赤眉軍の実質的な指導者。勇猛で名が知られ、決起後、すぐに数万人の勢力をつくる。
新軍を各地で破り、太師・王匡率いる新の大軍にも勝利をおさめ、新の権威を地に落とした。
その後、緑林の更始帝に降伏するが離反。長安を目指して進軍する。
その過程で更始帝軍に連戦連勝した。兵が集まり、三十万に達する。
ここで読み書き、計算ができない樊崇は劉盆子を立て、自立し、御史大夫となる。
その後、ついに更始帝を降伏させ、長安を占領する。
だが、政務が乱れ、統治ができず、食料が足りなくなり、長安の西を攻める。
略奪を繰り返し、その際、兵を大勢、凍死させる。
その時、光武帝配下の鄧禹が長安に来て、公称百万の大軍で攻めかかるが、これを大破する。
再び、長安を手に入れ、南にいた延岑を討伐させるために、
副将格の逢安に十数万の軍で攻めさせる。
その虚を鄧禹が再び攻めるがまた撃破する。
逢安は敗れて逃げ帰り、長安は食料が全くなかったため、二十数万を率いて東に帰る。
途上、鄧禹にまた襲われるがまた撃破。しかし、馮異に敗れる。
退路を自ら来た光武帝と耿エンに阻まれ、やむを得ず降伏する。後に謀反をおこして処刑される。
ポイント
(1) まだ、有力な山賊に過ぎなかった頃、新の官軍を精鋭をうち破っている。
  新の与えた打撃は光武帝にも匹敵する。
(2) 武将としては弱くはなかった(一応、天下はとった)
  更始帝陣営の武将たちを破り、更始帝を降伏させている。
  更始帝陣営に内紛を起きていたが、その原因を作ったのは赤眉軍自身の勝利である。
(3) 内政では失敗しているが、『名将』としてなら大きな減点にはならないはず。
  それより、光武帝二十八将の筆頭・鄧禹を三度も破っているのは大きい。
  鄧禹はこのせいで名将としての評価は低いが、
  凡庸ならば、光武帝がここまで重任を担わせるはずはないと思える。
  鄧禹は馮異たちの劣らぬ武将であった可能性もありえる。
  少ないとも良将ではあったのではないか。
  それを不利な状況で三度も破ったのは賞賛に値する。
(4) 部隊が寄せ集めの雑軍である。これを数十万を統率し、
  戦いにおいては勝利に導いているのは評価できる。
(其ノ弐>>857、858より)

◎班超 32年~102年
目立った紹介・推薦文上がらず

◎段熲(ケイ)
泰山、琅邪の賊の東郭竇、公孫挙三万余人を
大いに破って斬首すること万余、これを鎮圧した。
焼当、焼何、当煎、勒姐等の八種羌が隴西、金城を侵したため、
一万二千騎を率いてこれを撃破。首二千級を斬り、捕虜数万を得た。
羌が張掖を侵すと、大帥を斬り、千六百人を殺し、さらに首三千余級を斬った。
勒姐、零吾種が允街を囲んだため、救援に向かい、数百人を斬った。
羌五六千人が武威、張掖、酒泉を侵すと、護羌校尉となって三千余戸を降伏させた。
万余の兵を率いて勒姐種を撃破し、その酋長を斬り、四千余級の首を得た。
復た勒姐種を撃ち、四百余級の首と二千人の捕虜を得た。
当煎種を湟中で撃ち、首級数千を得た。
西羌と戦って斬首すること二万三千級、捕虜数万、家畜八百万頭を得て、
万余戸を降伏させた。
(其ノ弐>>891より)

◎馬賢 ?~141年
護羌校尉、弘農太守として141年に戦死するまでの間、先零羌の叛乱平定を皮切りに
20年以上にわたって三輔地域から涼州にかけての諸羌の叛乱を討伐し続けた
(皇甫規、張奐、段ケイよりも戦績は凄いと思う)

主な戦績
三輔、益州を領有し趙魏に国境を接していた、零昌(シ眞零の子)率いる先零羌の別種を
任尚の指揮下で大いに破り、三輔、益州を快復する
馬賢派遣前に、羌族鎮圧に任じられていた鄧隲、任尚率いる官軍は先零羌に手も足も出ず
河東、河内まで侵入を許してしまう体たらくであったが
馬賢派遣以降は一挙に反撃に転じ、先零羌を遂には瓦解に追い込んでいる
またその任期中に、隴西、安定、北地、上など、諸郡を諸羌から快復している

まあ、戦死がマイナスか
(其ノ弐>>840より)

◎曹操 155年~220年
目立った紹介・推薦文上がらず

候補者(2名)

○岑彭 ?~35年
信義を守る義士で、規律高い軍隊を率いて電撃戦を展開、秦豊を滅ぼす、
呉漢が隗囂に破れた際には殿軍として奮戦、公孫述討伐に活躍した。
その軍の規律は高く兵士は精鋭、行軍速度が速く、
長駆敵の予想しないところにあらわれて攻撃し、数倍の敵を打ち破った。
(其ノ弐>>979より)

○周瑜 175年~210年
孫策が暗殺され、その遺言で孫家陣営の軍事責任者となる。
赤壁の戦いに於いて曹操の南下を受けると抗戦を主張し、それが決まると全権を委ねられた。
水軍に長けている孫権軍の長所を最大限生かし、
曹操軍を完全に押さえ込み、曹操軍の軍船を焼き払う。
この戦いで、初めて曹操を撃退した武将として天下に轟いた。
江陵を攻め曹仁・徐晃らを撃破。牛渚の合戦、呉郡の戦い、黄祖討伐に参戦。
(其ノ弐>>979より)
最終更新:2007年07月15日 16:31