アットウィキロゴ

南北朝


確定者(10名)

劉裕 363年-422年
檀道済 ?-436年
韋叡
陳慶之 484年-539年

拓跋燾(トウ) 408年-452年
明元帝(拓跋嗣)の長男。十六歳で父が崩じて即位。
はじめ宋と修交し、華北の統一に意を注いだ。
北方の柔然がしばしば侵犯したので迎撃してこれを破る。
また親征して高車族三十余万を帰服させた。夏・北燕・北涼を滅ぼして華北を統一した。
劉宋を討つために百万と称した大軍を率いて親征、劉宋を散々に打ち破った。
なおこの南征のときに行われた殺戮はすさまじく、北魏軍の通過した郡県は荒涼を極めた。
北魏軍は瓜歩まで進軍したが、結局、長江を渡ることはなく都の平城に凱旋し、捕虜となった宋民5万余戸は、畿内に分配した。
東西両方面への八面六臂の活躍により、華北の統一に成功し、五胡十六国時代の終焉させた。
~3スレ目>>208より~

蘭欽
字は休明。
大通元年(527)、北伐して擬山城 まで進行、大都督・劉属率いる20万の兵を潰滅させた。
同年、魏の太守・ 柴集らの連合軍を破る。
彭城城主・楊目がその子楊孝?を派遣、蘭欽を攻めると逆撃してこれを破った。
ついでに?州刺史・劉海游を破り、その帰途で厥固城を抜いた。
楊目が派遣した数万の援軍も蘭欽はたやすく破り、別将・曹龍牙を斬って京師に凱旋した。
桂陽、陽山、始興の異民族叛乱もたちまち平定、天漆に盤踞する蛮族の首領・晩時得を攻め破り、衡州刺史・元慶和が叛将厳容に包囲されるとこれの救援に向かい、羅渓で厳容を打ち破った。
ついで密勅により襄陽に急行、北魏の正将・托跋勝の侵攻を撃退する。
假節を授かり光烈将軍を拝し、通生行台・元子礼を破る。
魏の大将・薛儁らと交戦、勝利して彼らを擒らえ、梁、漢中を平定。改めて持節を授かる。
魏の都督・董紹、張献が南鄭を囲むと梁州刺史・杜懐瑶の救援要請に応じ、高橋城の戦いで魏の二将を大破、斬首3000を数える。追撃に移り斜谷に入って董紹らを追い立てるも、西魏の相、 宇文黒泰より軍馬2000を送られて追撃を中止、互いに友好を結ぶ。
凱旋して仁威将軍に昇進した。広州・俚の陳文達兄弟が叛いたので、これを攻めて二人を共に擒らえた。
為政者としても有能で仁政を敷き、民衆は石碑を建てて彼の功徳を称えた。
散騎常侍、平南将軍、広州刺史とされるも、前任刺史の南安候に妬まれて毒殺された。
陳慶之とともに廉頗、李牧、衛青、霍去病らに匹敵する名将と称えられる。
~3スレ目>>204より~

斛律光 525年-572年

高洋 529年-559年
侯景の乱に乗じて梁に出兵し、淮南を奪い、郢州で勝利した。
また西魏と争って江陵を奪った。
北伐して契丹・突厥・柔然など諸民族を破り、宇文泰を撃退し、その宇文泰に戦闘の才を讃えられる。
また楊[小音]ら学者を任用するなど内外に対して国制を整えた。
酒を好んで奇行が多く淫虐を好み、非常に才能のある人で、戦闘に強く、落ち着き払って大度ある君主で『資治通鑑』には、「高洋のころ周人つねに斉兵の西出を恐れて冬に河を守って氷を砕いたが、高湛のとき却って斉人氷を砕いて周兵に備うる」と記される。
~3スレ目>>262より~

韋叔裕
高歓に包囲されたが、五十日の篭城戦の末にこれを撃退。
淮南を経略。尉遅迴の反乱を鎮圧。
~3スレ目>>214より~

段韶

候補者(0名)

最終更新:2007年07月13日 02:09