五代十国・北宋・遼


確定者(10名)

◎李存勗 885年-926年
 幼名、亜子。唐朝廷から晋王に封ぜられ、河東節度使に任じられた李克用の息子。後唐荘宗。
 西暦907年、唐帝国を宣武軍節度使の朱全忠が簒奪し、代わって後梁国を建国した。父・李克用はその前年からも朱全忠と敵対していたが、病床に臥し朱全忠討伐を李存勗に遺言した。李存勗はそれを守り、後梁討伐のため出兵する。
 ながらく後梁軍に包囲されていた潞州を先制攻撃で救出したことを手始めに、各戦線で後梁軍に連勝する。後梁皇帝・朱晃(朱全忠)をして「子を持つならば、李亜子のごとくあるべし。我が子など豚か犬」と嘆かせた。
 後梁との戦線が一旦収まると、李存勗は矛先を転じ、幽州、滄州を得て大燕皇帝と称していた劉守光を討った。そのうちに後梁皇帝・朱晃は崩じ、後梁には揺るぎが生じた。後梁から離反した朱友謙を援護した李存勗は、後梁の大将・康懐貞を撃破し、魏州に軍を進め、ここにて後梁の名将・劉鄩と対決する。
 晋陽を直接狙った劉鄩は、長雨のためやむなく退却し、貝州にて持久の構えを取った。それに対し李存勗は偽退却によって劉鄩をつり出し、突出したところを三方からの挟撃でこれを大破した。
 李存勗は魏州の精鋭「銀槍効節都」を己が親軍に編入し、さらに軍を進め、西暦918年、黄河南岸に渡り、麻家渡から胡柳陂に出た。後梁軍は賀瓌を大将とし迎撃させた。
「胡柳陂の戦い」は両軍ともに総力戦となり、最終的には晋王軍が勝利したが、大将の周徳威を失うなど、犠牲も多大だった。そのため、数年は後梁に対しての攻勢は一進一退となったが、鎮州の騒乱を鎮め、ようやく西暦923年魏州にて皇帝即位を宣言したので、ここに後唐国がはじまった。
 同年、後梁の大将・王彦章を撃破して、ついに後梁を滅ぼしたのである。
 洛陽に都を置いた李存勗は唐制への回帰と伶人(芸能人)をそばに置き、狩りや演劇に熱心となり、また唐末期の害悪であった宦官を復活させ、その讒言によって建国の功臣たる郭崇韜を殺すなど、明らかな失政がめだった。さらに建国後、親衛軍を冷遇したため、それが昂じて鄴都において李嗣源擁立という事件が発生した。西暦926年流れ矢に当たった李存勗は、「水、水」と言って息を引き取ったという。

◎柴栄 921年-959年
 ケイ州竜岡県の新興地主層出身。父は柴守礼、叔母は後の後周太祖郭威の夫人、諡されて聖穆皇后といった。
 沈着にして寡黙な人となりで、秀でた容貌をしており、騎射をよくし、史書に通じた。
 後唐荘宗が斃れて明宗がたったおり、荘宗の後宮に入っていた聖穆皇后は明宗により故郷へと帰された。その帰路、風体みすぼらしい郭威が通り過ぎ、その首元にあった雀のかたちをした黒子が目を引いた。それが貴人の相ということで、聖穆皇后はさっそく結婚した旨を告げたが、父である柴翁はあきれて「お前は皇帝の後宮に入っていた身分なのだから、相手は節度使こそ相応しいというのに、あんな貧相な男がいいとはなんとした」と反対したが、聖穆皇后は押し切って郭威と婚姻したという。
 二人の間に子があったかなかったか、聖穆皇后は実兄柴守礼の子をいたくかわいがっており、養子に迎えることとした。これが柴栄である。当時郭威はまだ侍衛親軍(禁軍)の下級武人だったので家は貧しく、ために若い頃の柴栄は行商人に連れられて各地を旅し、郭家の家計を助けた。一方で、聖穆皇后の教えを受け、学問や兵法の勉強に励み、騎射を習った。郭威は家が貧しいにも関わらず酒の量を控えることができず、いつも家計を圧迫しては聖穆皇后にたしなめられたという。その聖穆皇后が若くして死去して後も、柴栄は郭家の子として残った。ひとつには、当時の社会現象だった仮子制度の影響と思われる。

 郭威について。(後唐明宗期、ベン州において朱守殷が挙兵したおり、石敬トウに侍衛親軍の指揮権が与えられ討伐の任がくだされた。そのとき郭威は石敬トウらと面識を得、特に劉知遠と親交をもったと思われる。後、後晋朝が始まってすぐギョウ都留守の范延光が挙兵したとき、討伐の任には楊光遠を充て、その麾下に郭威は配属される人事となっていたが、「楊光遠ではおれを使いこなすことができない。それができるのは劉公(劉知遠)だけだ」といって断ったという。やがて劉知遠は太原に出鎮することになり、郭威はそれに従った)

 やがて劉知遠が即位し後漢が開かれると、郭威は累進して枢密使となり、柴栄もその麾下にあって左監門衛大将軍とされ、郭威軍閥の中核を任された。後漢隠帝期、功臣の勢力を恐れた隠帝が郭允明、後匡胤、李業らとはかって郭威や柴栄の家族を皆殺しにし、郭威らをも亡き者にしようと企んだので、郭威は魏において起ち、軍を率いて後漢を滅ぼし、広順元年(951)1月、後周が建国される。
 後周朝が開いても、柴栄はセン州にて北への備えの任にあり続け、養子でありながら京師に上ることは許されなかった。それは郭威が、もと同僚で兄と慕う枢密使・王峻の意向を拒否できずにいたからだといわれる。王峻は柴栄を警戒しており、理由をつけては上京を許さなかった。
 このセン州節度使時代、柴栄は前妻を後漢隠帝によって殺されたので、後妻を迎えた。それが有力節度使、符彦卿(李存審の四男)の娘、符氏、後の後周宣懿皇后である。また柴栄の治める領内は常に静粛で盗賊も出没しなかったという。

 驕った王峻は、やがて郭威により左遷され、ようやく都入りした柴栄は開封府尹として手腕を発揮し、顕徳元年(954)1月、郭威の死を受け即位した。後周の世宗である。
 即位早々の不安定を衝いて、北漢が攻めてくると、廷臣の反対意見を押しのけて自ら軍を率いて親征した。澤州高平において激突した後周軍と北漢軍は、後周軍の右軍が敵前逃亡するに及んで北漢の優勢となった。《五代史補》「世宗誅高平敗将」によれば、このとき優勢で安堵した北漢の皇帝劉崇は、本陣で部下と酒を飲んでいたところ、50騎ほどを従えた柴栄に本陣に乗り込まれたと書かれている。それを見た趙匡胤は兵を揃えて突撃し、目覚しい活躍をしたので、北漢軍はたまらず潰走したのだった。
 北漢の名将・張元徽を討ち、必敗を覆した柴栄は、その勢いをもって北漢討伐に移ったが、北漢を助勢した契丹軍と補給不足に悩まされて撤退に追い込まれた。
 顕徳2年(955)5月、後蜀に獲られていた秦、鳳、階、成の四州を奪還するため、向訓と王景を遣わした。後蜀将・李廷珪らのために攻略戦がうまくいかず、撤退の気運が高まったが、柴栄はさらに韓通を援軍として派遣し、趙匡胤をして攻撃強化命令を伝えさせた。
 そして同年11月、南唐の勢力を殺ぐため、淮南攻略を発動した。枢密使・李穀を先鋒にして電撃的に淮河を越えさせた柴栄は、禁軍大将・李重進を急行させ、南唐将・劉彦貞を撃破し、趙匡胤をもって清流関~ジョ州の皇甫暉を討たせた。また韓令坤を揚州に向わせ、寿州以外の淮南主要部を手中にしたが、肝心の寿州の劉仁贍が粘り、年が明け、やがて雨季となったので、南唐軍の反撃が強化された。
 一旦開封に戻った柴栄は、翌顕徳4年(957)2月、急建造した闘艦を中心とする新水軍をもって再び淮南にたった。自ら甲冑を着込んで陣頭指揮し、紫金山に陣取る南唐軍5万のうち4万を壊滅させた柴栄はその勢いで寿州城もついに陥とした。再び開封に一旦帰り、同年10月には三度淮南にたった。
 南唐の各所の抵抗をすべて排して揚子江の制水権をも手中にし、南唐をして国号、帝号を去らせ、従属国とすることに成功したのだった。顕徳6年(959)3月、たびたび侵略してくる契丹、北漢軍を叩くため、燕雲十六州に対して親征をおこなった。北伐に水軍をもって臨んだ後周軍に契丹軍は驚き、風を望んで降るものが相次いだ。益津関、瓦橋関の抵抗を粉砕して、瀛、莫2州を回復した柴栄は幽州を指呼の間に臨んだが、病を発して斃れた。開封に帰還し、同年6月19日、39歳にして世を去った。諡号は睿武孝文皇帝、廟号は世宗。


◎趙匡胤 927年-976年

◎楊師厚

◎狄青

◎李存審

◎狆(チュウ)師道

◎楊延昭

◎李継遷

◎耶律徳光 902年-947年

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最終更新:2008年05月30日 19:28