南宋・金・元


確定者(9名)

宗沢

岳飛 1103年-1141年
宣和年間に募兵によって参じる。
宗澤のもとに配属され、その勇猛さ、兵法、運用の妙を絶賛される。
宗澤が死んで後、汜水関において金将を討ち、その軍を大破。
精鋭300を伏せては金軍を夜襲し、潰走させる。
王善ら賊軍、合して50万には、わずか800で撃破した。
金の南下によって、高宗が逃げ回っている最中、金軍の後方にあって、その軍と6戦戦い皆勝ち、多くの将帥を捕らえた。
金軍が常州に再度やってきたときも4戦皆勝ち、清水亭での戦いでは敵の屍が15里にわたったという。
南宋が杭州を確保でき、政府として機能できた戦功の第一は岳飛。 これは張俊が奏上している。
華南の賊軍討伐に奔走したあと、襄漢を平らげ完顔宗弼の南下に伴いくだんの朱仙鎮の戦いで完顔宗弼を撃破し開封に追い返した。 朱仙鎮は開封から目と鼻の先だった。
結局開封奪回は、岳飛をおそれた金の謀略(と予想)と秦檜の横槍で実行できず。
民衆に慕われ、食料など進んで提供されている。
~4スレ目>>132より~

完顔宗望(オリブ)

孟珙(キョウ) ?-1246年

伯顔(バヤン) 1236年-1294年
対宋戦にて総司令官に任命される。
その際、鄂州、常州、無錫、湖州などの都市を陥落させる。
南宋の都、臨安府を落とし、宋の恭帝ら皇族を捕縛。
南宋の武将、趙文義、范興を討ち取る。
南宋の宰相、賈似道を撃破。
~4スレ目>>42より~

拖雷(トゥルイ) 1192年-1232年

阿朮(アジュ)
兀良合台の子、速不台の孫にあたる。
両淮を平定し、汴、臨安を陥とし、二十数州を降し、六十七県を支配した。23年、昔刺木の叛乱を平定に北伐し、翌年凱旋。
のち征西にも参加したが、まもなく病没した。享年54歳。河南王を追贈された。
阿朮は士兵に対して温厚であったが同時に厳格であり、部下が無辜の民を傷つけるのを厳しく禁止した。
~4スレ目>>50より~

速不台(スブタイ) 1176年-1248年

察罕帖木児(チャガン・テムル) ?-1362年
字は廷瑞。
代々河南に定住するナイマン出身のウイグル人で、至正十二年に紅巾軍に対して自衛軍を結成。
李思斉とともに羅山の紅巾軍を打ち破り、朝廷に帰順して華北を確保し、その功により汝寧府達魯花赤に任ぜられた。また河北河南で幾度となく紅巾軍を撃破し、功により河北行枢密院事へと累進。
十七年には陝西に援軍として馳せ参じ、鳳翔で紅巾軍を撃破、関中を平定する。
十八年に軍を率いて京師に入りし、兵を晋南・太行の隘地に分屯させた。
陝西行省右丞・陝西行台侍御史・同知河南行枢密院事となる。
十九年、梁の大宋紅巾軍を攻め、開封を陥落させて紅巾軍の統一を崩壊させた。
二十一年、山東の紅巾軍の内紛に乗じて、兵を五路に分けて進撃し、田豊・王士誠らを降す。
二十二年、山東を転戦し益都包囲中の最中、田豊・王士誠に刺殺される。
~4スレ目>>191より~

候補者(6名)

海山(カイシャン)

張弘範

郭侃
丞相史天沢に見出されその家で教養を学ぶ。知勇兼備し二十歳のとき百戸長となった。
金の伯撒が衛州を侵すとここを守り、大勝して敵軍4万を潰走させる。金主を襲い閼伯台を破った。
速不台の節度下に入り汴を攻め金の元帥・崔立を降す。のち再び史天沢の節度下に戻り太康に屯する。
フビライ即位後中国に戻る。国号を定めること、都城を修築すること、尚書省、御史台の設置、学校その他の創建、そして宋伐戦の方略などを上奏する。
宋伐戦の方略はやはり荊州、襄陽地方の攻略を要とするもの。中統二年、江漢大都督府理問官となる。
翌年、益都の李壇と徐州総管李杲哥の叛乱平定に出陣、李杲哥を殺す。南宋の夏貴が辺境を脅かすとこれを攻め破り軍民1万余を奪う。夏貴が3万の軍勢を率いて再度辺境を騒がすとこれを迎撃、1千余を斬り殺し、戦艦2百艘を奪った。 至元五年、呉乞児と道士・胡王の乱を平定、七年、改めて白馬に駐留して僧侶・臧羅漢、彰徳の趙当驢の叛乱を鎮める。
功績により万戸長。阿朮の襄陽攻めに従軍、襄陽・樊城が落ちた後、長江を渡って江南を平らげた。
寧海州の知州とされる。功績により千戸長とされた。
~4スレ目>>47より~

阿里海牙(アリハイヤ)

張俊
南宋の高宗の時代にに活躍した武将。字は伯英。
元匪賊で朝廷に帰順後、抗金戦にて戦功を立て岳飛、韓世忠共に抗金の三大将軍に数えられている。
苗伝・劉正彦が乱を起こすと、韓世忠・呂頤浩らとともに鎮圧。
建炎元年、御営司統制官となり、三年には明州城を守り、金兵の来攻を阻止し、高橋にて勝利する。
その後、完顔宗弼が大軍を率い南下してくると、城を放棄逃走。
紹興初年、江淮招討使に任命される。 各地にて叛乱を鎮圧し、叛将李成を討つ。
紹興五年、淮西を宣撫し、斉の劉猊を打ち負かす。
十年には、部将の王徳を北上させ、亳州に勝利するも、高宗・秦檜の意を迎えて軍を引き帰させる。
紹興十一年、劉?・楊沂中と合流して、淮西を援護し、柘皐で金軍を破った。
同年には和議に賛同し、軍権を返上し、枢密使に任ぜられる。
晩年には清河郡王に封ぜられ、太師に上っている。
高宗に寵愛され、死後に循王に追封される。
優れた戦術家だったものの利に敏い処があり、将兵の略奪を禁止しなかったり、劉?を排斥や後に秦檜と結託し岳飛を讒言して逮捕の要因を作った。
~4スレ目>>172より~

拡廓帖木児(ココテムル)

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最終更新:2007年07月13日 02:32