501 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/22(木) 02:20:27 ID:G6anuSEy0
お前がレスしなければ終わると何故気づかん
502 ◆RQdk7scN8s 2007/03/22(木) 20:04:59 ID:BgsEBHfT0
よくはわからないが、冒頓単于はだいぶ違うような気がする。
例えて言うなら、日本の武将として李舜臣をもってくるくらい違和感ある。
遼は唐が崩壊してのち、中国内地に新たな統一政権ができる前に、巨大な統一政権(中華政権とは違う根っこ)となっており
晋も後唐も後晋も北宋も、事実上の衛星国家であって(真の衛星国家は後晋だけ)、まぁ中華という由緒あるお国が
頭を押さえつけられていた、苦難の時代だったわけですよ。
その意味では金も元も同じことではありますが、中国内地への干渉の密度というか、期間というか
そういったものが遼には足りないかな、と。
この際、匈奴や突厥、ウイグル、南詔、吐蕃と同じと考えるのはいかが?(国史は華麗にスルーということで)
503 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/22(木) 20:07:58 ID:0wSl8cUL0
>>502
> 日本の武将として李舜臣をもってくるくらい違和感ある。
どちらかというとシャクシャイン、アテルイや薩摩藩の支配下に入る前の琉球の人物を上げられる程度の違和感ではなかろうか?
504 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/22(木) 21:10:27 ID:agkaWfz50
誰がどの程度の違和感を抱こうが自由ではなかろうか?
505 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/22(木) 21:17:32 ID:sKLTOXlHO
正史として遼史、金史、元史、清史稿があるのだから、いっそのこと
これらの王朝に属した者は対象とする。
ただし、その業績は万里の長城内の戦いや、対中華王朝との戦役のみをカウントし、
それ以外の戦いは、戦史的に重要なものであっても、一切考慮しない。
鉄木真のモンゴル統一時の戦いは、この場合はずれ、伯顔の伐宋は入る。
こんな感じ。
506 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/22(木) 21:57:22 ID:u3kHLofq0
>>502
冒頓単于はだいぶ違うどころの話ではない。全く別物。
漢代の匈奴は突厥、ウイグル、南詔、吐蕃と同じ扱いにするのが妥当。
南宋で言えばタタル、ナイマン、オイラート的存在。
>>505の提案なら問題なさそうでは?
これでダメならすっぱりと例の人に諦めてもらえばいいだけ!!
507 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/22(木) 21:58:25 ID:VZGb6AWu0
西夏はダメなの?
508 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/22(木) 22:28:55 ID:u3kHLofq0
>>507
いいとは思うけど候補に挙げるほどの武将いないでしょ?
(確か李継遷、李元昊ぐらいしか居なかったキガス )
509 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/22(木) 22:42:14 ID:9E/D5ASB0
>>505
いいと思うが、一点だけ。
「対中華王朝との戦役のみ」は「中華王朝征服の戦役のみ」とすべき。
単に中華王朝との戦いというのでは前述の冒頓単于やエセン・ハンなども入ってしまう。
これだと遼は耶律休哥を含めてほぼ除外(対象になるのは耶律徳光くらいか)
金は靖康の変以降。清は入関以降。
510 ◆oOLAqFKRB. 2007/03/23(金) 00:19:40 ID:XxeR28Vb0
別に遼を諦めるのは問題なしです。
あと、ちょいと謝る必要が出てきたんで一言。
俺答(アルタン)も也先(エセン)も正史の列伝に入ってないんやね。
これは「正史に伝があれば問題なし」という俺のスタンスに反するんで
中国武将ではないなと。
イギリス将校も《清史稿》に名前挙がってないしね。昨日は長々とすんません。
ただ、中国の史書に《遼史》はあって《朝鮮史》、《日本史》はないんやから、
同じく中国的国家作りを目指したからと言って
遼と日本、朝鮮を一緒の俎上に上げるのはちょいとナンセンスではないかと。
ま、言いたいことはそれだけ。
これ以上遼にこだわると前みたいに荒れる原因になる気がするんで、
これでスパッと諦めますわ。もとより遼にはそれほど固執してないし。
511 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/23(金) 00:47:08 ID:VqdxipuS0
>>509
>>505の基準に従うなら冒頓やエセンが入る心配はいらないと思うが。
完全に外部勢力だった匈奴やオイラートと、中国の一部を長期間支配した
遼はかなり違う。
この場合遼は長城内で戦った武将は入ることになる。
512 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/23(金) 02:20:24 ID:7Om45kvYO
>>507
名将の選考基準が、すべての時代で一定していたとは思えない。
人間がやることには限界があり、そのつど例外がある。
正史があり、後の王朝から正当な中華王朝である、もしくはそれに準ずる
政権であったと目された遼でさえ紛糾している。
西夏の人物が入るには、
①名将であることを証明する
②中国の人物であることを立証する
以上の事が必要だと思われる。
例えば西夏の景宗、李元昊は、宋に服従する父、李徳明に対し
英雄に生まれた以上、王者となり覇業を遂げて当然なのです。どうして宋室に媚びる必要がありますか
と答えたという。
彼の目指したモノは、制度的・文化的にも宋からの独立であり、
文官・武官に独自の服装を定め、人民に坊主頭にする事を強制している。
彼の本意が宋からの独立ではなく、中華征服なのであれば、入れても良いかもしれないが。
513 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/23(金) 02:20:45 ID:Hm6YJx1f0
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514 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/23(金) 20:02:54 ID:juGduEuT0
楊師厚(?~915)
潁州斤溝の人。元々は李罕之の部下で、李罕之が李克用に降ると、これに従った。
のちに罪をえて朱全忠のもとに逃れ、宣武軍押衙・曹州刺史となった。
青州の王師範との戦いで偏将八十余人を捕らえる戦功を挙げる。
また襄陽の趙匡凝を破る。
山南東道節度使・同中書門下平章事に任ぜられた。
劉知俊が長安に拠ってそむくと、これを奇兵をもって撃破した。
また晋の周徳威を蒙坑で破り。保義軍節度使に転じた。
朱友珪が立つと、天雄軍節度使に任ぜられ、
末帝が立つと、?王に封ぜられた。
後梁・太祖の遠征時には常に先鋒を務めたともいわれ、
旗下には後梁の精鋭部隊が所属していた。
五代後梁屈指の名将である楊師厚を推薦する。
あと後梁からは王彦章、王景仁を
後唐からは郭崇韜を推薦したい。
遼を入れる入れないの関係の話ばかりなのでここらで少し流れを変える為に投下してみた。
(もちろんその議論も重要なのだが)
515 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/23(金) 20:21:19 ID:1Pf0fG5D0
元が入るなら、金も遼も入れるべきだろうと思うが。
匈奴、鮮卑、突厥、回鶻、蒙古や
高句麗、渤海、後金を入れろって訳じゃあないんだから。
516 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/23(金) 20:58:05 ID:7Om45kvYO
>>515
ナニをもって中国の武将とするかの問題。
金、遼のいつからを選考に入れるのか?
それが問題。
遼将のすべてを対象にしたら、中国の範囲が広くなりすぎる。
基準はその人物、政権に、
517 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/23(金) 21:04:31 ID:7Om45kvYO
中原に覇を唱え、中華征服を狙っていたか、どうか?だと思うが、
それだとティムール入るよね?
だから線を引いて、明確な基準を作りましょう。
518 ◆RQdk7scN8s 2007/03/23(金) 21:14:48 ID:Vwh02sV40
わ~い、五代の武将キター
「?王」のところは「鄴王」だね。
銀槍効節都は後に李存勗に引き継がれたということで、実は楊師厚を引き立て役程度にしか見ていなかった…
改めて見ると、かなり有能な武将。
>>郭崇韜
軍政官、常山の重鎮、建国の第一等功臣、前蜀討伐の事実上の総司令官。
ついでに言えば、冤罪による不遇の死。
しかし、こと戦術となるとどうかな、と。
自分も推挙したものの、自らひっこめた過去があります。
よりも、ですよ。
晋~後唐の李存審が縦横無尽ですばらしい。
李存審は李克用の仮子となった人で、元の名を符存審。
李克用の仮子といえば、第一に後唐明宗である李嗣源が有名なわけですが
李存勗時代で言えば、李存審の方がインパクトあるかも、と。
李克用の十三太保の中では、順番としては9番目で、地味なことこの上ないですが。
まぁ、「十三太保」の主役は李存孝と史敬思なわけだから、それはいいとして。
戦史に残す輝かしい勝利を飾った柏郷の戦いで、周徳威が後梁の王景仁を破ったときは、李存審は晋陽の守りでした。
朱温(朱晃)が子の朱友珪に殺され、後梁内に内訌が起こったとき
河中の朱友謙(朱温の子。後、李継麟と改名)は朱友珪の討伐を受けることになった。
後梁軍は康壊貞(岐州の李茂貞を虢県の戦いで破った人)を招討使(総大将)とし攻めさせたが
朱友謙は晋に救いを求めた。李存勗は、李存審を出撃させた。
李存審は胡壁において、後梁軍5万を撃ち破った。
また、敗残兵を立て直そうと平陽に退いた康壊貞は、後詰で出てきていた李存勗と不運にも遭遇してしまい
とどめを刺される…
さらに後梁では新帝・朱友珪が遊び狂ったので、朱友貞(末帝)によって殺された。
その後すぐに、魏博天雄軍の楊師厚が卒したので、後梁はこれ幸いにと強力な藩鎮の分割を打診した。
決定を嫌がった魏州の兵たちは騒然となった。
そのとき、魏州を牽制に後梁の劉鄩が兵6万とともに黄河を渡って陣を構えたが
魏州が晋の側につき、それを助けるため李存勗は魏州にまで出陣した。
劉鄩はそのまま対晋防衛軍となった。
劉鄩は計略の多い将で、李存勗を疑兵でもって魏州に釘付けにする一方で、自身は本隊を率いて西から晋陽の攻撃へと向かった。
李存勗は動かない劉鄩を奇策があるとして警戒していたが、ついに実は晋陽を狙っているとの報告を受け蒼白となった。
しかし天は劉鄩に味方せず、このときに限ってひどい大雨となりまともに進軍もできないありさまだった。
後手に回っていた周徳威が必死に救援にかけつけ、どうにか晋陽の守りは整えることができたので
劉鄩は大きく貝州にまで退かねばならなかった。
態勢を立て直し、敵の疲れを待つ持久戦を計画したとたん、朝廷から即戦の督促状が届き、あげく
「戦わずに補給の要請とは。将軍、それは敵を破るためか、それとも財を得んがためか?」と詰問された。
さらに彼の周りの将帥も、血気にはやり勝算もなく出撃を主張した。劉鄩は
「ああ、主上は暗愚、臣は阿諛、将は驕慢、兵は怠惰。これでは一体、どんな死に様をさらすのか…」
と有名な嘆きのセリフをこぼしました。
それでもなお、起死回生のチャンスを狙って、どうにか士卒をおさえ、やがてそのチャンスがきた。
李存勗は長帯陣に倦み、自身だけ晋陽に帰ると言って一隊を率いて戦線を離脱した。
これを見てとった劉鄩は、全軍に出撃を命じ、魏州の奪回に乗り出した。
実は伏兵として潜んでいた李存審は、劉鄩が軍を動かすのを見ており、ひそかにそれを追尾した。
魏州には李嗣源がいたが、劉鄩はそれを押し、魏州を手に入れられるかと思いきや
後方から李存審に衝かれ、あまつさえ帰ったはずの李存勗が突如現れたので、完全に包囲殲滅の態勢に落とし込まれた。
後梁軍はここで、実に7万からの歩兵等を殲滅され、劉鄩は数十騎とともに逃げ帰るありさまだった。
以上、我らが不運の名将・劉鄩閣下の不勝伝説。 あれ?誰の説明だったっけ…
いったん切ります。
519 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/23(金) 22:38:54 ID:juGduEuT0
◆RQdk7scN8sさん レス㌧
楊師厚はなかなかのやり手だと思ってます!!
あと熱く語るのはいいのですがちょっと自分にはハードル高杉~w
お手柔らかにお願いしますよ(^^;
自分は後唐から周徳威、李嗣源、郭崇韜、霍彦威
後梁から王彦章、後周から王景なんかいいんじゃないかなぁ~と思ってます。
≫「?王」のところは「4王」だね。
スンマセン、ボロPCなもんでたまに変換出来ないです・・・
520 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/24(土) 09:18:14 ID:JMkQAoJSO
すいません以前レスの中に名前が登場した
後梁の康壊貞と寇彦卿、符道昭と後晋の桑維翰について教えてくれませんか?
面倒なら〇〇は××を打ち破ったぐらいでもいいです。
何しろ五代に関しては知識が皆無なものでよろしくお願いします。
521 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 00:34:13 ID:fhmvZMJPO
範囲は大陸にあった漢字一字の国の武将。でいいじゃん
522 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 00:43:34 ID:rM7USuue0
(西)夏も入るのか?
523 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/25(日) 01:16:53 ID:H//pJM0KO
>>521
つまり南宋あたりはoutで、遼はinということかい?
違うよね?
ならば、それまで中国に属してた西夏と、交[足止](ヴェトナム)の扱いは?
一時的か、そうじゃないかの違いで、この時期に共に独立を果たしてる。
号は夏と、越って考えて良いからその判断なら、選考に入れて良い?
524 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 02:14:07 ID:z1cfCt9qO
わーい挙げ足取りキター―w
>>521の意見をじゃ当然挙げ足取られてるがオチだよな
525 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/25(日) 02:51:45 ID:DFe1bYGgO
>>523
南宋も北宋も国号は宋でしょ。
東西南北前後などが付く場合は、後世の史家が便宜上付けた通称だし。
ただ、五代十国の呉越とかはどうなるの?ってはなるが。
526 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 03:10:33 ID:8yYClWNt0
李存勗時代の名将は既に楊師厚、劉鄩、李存審などが挙がっているが
ここはあえて意表をついて趙の張処瑾を
921年2月、張処瑾の親父張文礼が「趙王」王鎔を殺した。これを聞いた
李存勗は彼を討とうとするもその余裕がなく、やむなく成徳留後に任命して
その支配を認めた。
しかし不安な張文礼は契丹と梁に救援を求めるも、その文書が李存勗の
手に落ちてしまった。8月、遂に李存勗は趙将符習、及び閻宝、史建瑭に
張文礼討伐を命じる。
が、肝心の張文礼は晋軍が侵攻してきた矢先に病死し、息子の張処瑾が鎮州に
立て篭もって戦うこととなる。この後張処瑾と鎮州は約1年に渡って抵抗し、
その間晋は史建瑭・李嗣昭・李存進の3人が戦死するというかつてない損失を
蒙ることになった。
さらに鎮州が滅びれば次は自分たちの番だと思い込んだ定州の王処直・王郁親子
が契丹に通じ、これに乗じて大挙南進してくる契丹と戦うために李存勗が北に
向かえば後梁軍が北上してくるという大騒ぎに発展していく。
最終的に922年9月、鎮州は食糧が尽き内応により降伏するが、晋軍がこれに
手こずっている隙に後梁は衛州を含む澶州の西、相州の南を奪還することに成功
していた。
名将ではないかもしれないが、ある意味李存勗を最も苦しめた人物でないかと
思ったので書いてみました。
527 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/25(日) 03:37:59 ID:DZSn4ljW0
>>520
自分も完全に正史読めているわけじゃないので、いろいろ間違いあるかもなので、詳しいところはヤバイからぼかしますw
それでまず「康壊貞」。
兗州の人で、>>475にもチラっと書きましたが
朱温が汴州(開封)に拠ってから敵対した、朱従兄弟のうち兗州節度使・朱瑾の列校として配下にいた。
朱瑾はそのときも書いたけど、勇猛な人であり、康壊貞も驍勇をもって鳴る。
朱温が鄆州(うんしゅう)を平定し、朱温側の主砲のひとり、葛従周が迫ると城をもって降った。
最初は氏叔琮という、これも朱温軍にあっては主砲のひとりの部隊に従軍した。
氏叔琮が、襄州・漢州を攻めているとき、康壊貞は一軍を指揮し、鄧州(新野に近い)を陥とした。
幽州と雲州の藩鎮がそれぞれ、河東(晋陽)の李克用と対立すると、朱温は朝廷に働きかけて李克用を朝敵と認定させる。
それをもっとも熱狂的に支持したのは、宰相の張濬であり、唐昭宗は李克用討伐軍を発した。
張濬は総大将となり、晋州まで出陣し、朱温軍の驍将・葛従周らと李克用を挟撃する態勢をとった。
しかし、李存孝の神速の用兵により、朱温軍の誇る猛将・鄧季筠は一騎討ちにて敗亡し
葛従周もまた敗れて逃走した。
張濬は無謀にも野戦に撃って出たが、惨敗した。
朝廷は李克用の汚名を返上せねばならなかった。
こうして一時、河北は李克用の支配が強盛となったが、李存孝が叛したことにより、李克用勢力は不振となった。
ちょうどその頃、岐王・李茂貞(鳳翔節度使。岐王に封じられていた?)が朝廷の忌避を買い、これまた朝敵とされたが
誰もそれには参加せず、また李茂貞が罪を詫びたので沙汰やみとなった。
その頃朱温は、汴州と滑州と鄆州の三鎮を兼ね大勢力となっており、勢力不振に陥った李克用を攻めた。
しかしそれはうまくいかず、さらに河中(蒲州)を得ると、ふたたび北伐軍を発した。
そのときの主将に、氏叔琮を充て、李克用をして滅亡寸前まで追い詰めた。
(しかし李嗣源、李嗣昭ら仮子たちと、周徳威らの抵抗により止めを刺すには至らなかった)
その一方で朱温自身は、李茂貞と戦うため西進していた。
ちょうど、唐昭宗が宦官らに拉致され、鳳翔へと逃げ込んだのであり、それを奪還した宰相ら清流派が朱温の武力を恃んだからだった。
朱温は昭宗を迎えるという名分で軍を動かし、先鋒として康壊貞を起用した。
李茂貞は部将・符道昭に歩騎一万余にて迎撃させた。
符道昭は武功に陣を置いたが、康壊貞はこれをひとつ陣鼓を打ち突撃しただけで大破してのけ
六千余からの捕虜と軍馬二千を奪った。
朱温は「ここは武功という地名か。今まさに敵を討った、これぞ武功なり」(多少表現ちがいますが)と言って、康壊貞の武功を絶賛した。
逃げた符道昭はさらに大軍をもって虢県(かくけん)に至るが、朱温は康壊貞に数千騎のみで迎え撃たせた。
符道昭は康壊貞軍を寡兵とみて挑戦をこころみたが
康壊貞は夜襲、伏兵と駆使してさんざんにこれを打ち破った。
鄜州(ふしゅう)の李周彜が李茂貞の救援のために三原に陣を置くと、康壊貞はこれと戦い
梨園城塞から翟州を抜いた。
李茂貞が奉天に陣を敷くと、康壊貞は東北方面から守りの薄いところを攻めたので、戦わずして李茂貞は退いた。
そのころ、青州の王師範が部将・劉鄩を遣わして、朱温の兗州を攻め落とし、また淮南の楊行密も
これを機として宿州を攻めた。
朱温は康壊貞を急遽東進させ、これらを防がせた。
翌年、岐州攻めに戻り、劉知俊を補佐して、李茂貞の所領を削り取っていった。
朱温は康壊貞に「卿は上将の位にあり、勇は三軍に冠せり、敵、向かい来たらば破り…(なんかいいこと書いてますが、訳は??? すまん)
と、まぁ岐王・李茂貞をコテンパンにやっつけた張本人。
符道昭は、康壊貞に対するヤラレ役みたいな感じ?
そのあとは、河中において晋軍と対するものの、結構負けたりしている(相手が李存勗ではなぁ)。
後梁末帝にはあまり用いられず、終る。
末帝の諱(朱友貞)を避けて、名を康壊英としたため、列伝にはこちらで載っている。
かなり長いな… 相変わらず余計なことも書いてます。
528 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 06:06:13 ID:z1cfCt9qO
>>527
◆RQdk7scN8sさん サンクル
康壊貞ってなかなかの強者って感じですな。
いろいろと分かりやすく有難うございました。
529 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 10:23:44 ID:2qGmGLVT0
>>521
「大元」「大明」「大順」「大清」は?
530 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/25(日) 11:11:32 ID:H//pJM0KO
>>525
> 南宋も北宋も国号は宋でしょ。
だから>>523で
> つまり南宋あたりはoutで、遼はinということかい?
> 違うよね?
って断りをいれてるでしょ。
あと
> 東西南北前後などが付く場合は、後世の史家が便宜上付けた通称だし。
いや後年グェン朝が、清朝に冊封を願い出たときの国号は南越だったよ。
それが通らず越南にしたら許可がおり、いまのヴェト(越)ナム(南)の名の元になった。
自分達の領土だって思ってても、中華じゃないよなぁって場所は、結構いい加減につけられてるよ。
って、いつまでたっても話が進まないし、五代の武将の話だけだとアレだから、
とりあえず西夏からでも、ドコからでも良いから名前を出し、推薦してみる。
通る、通らないは別問題じゃね?
で、耶律休哥を推薦。
>>505をもって中国の武将として判断した。
この時代は国号は契丹だよな?とか、難しい話はこの際おいとく。
せっかくの宋弱兵の時代、唐代の国土内の王朝を対象にしたら、
それはそれで面白いかな?と。
どうせ無難な選択されるんだから、賑やかしのために
名前や業績ぐらいなら、紹介しても良いんじゃない?
その時代の直近の中華を統一した王朝の、その国土内に発生した戦いは、
すべて参考する――なんて大まかな括りをしても、
推薦する側も、選考する側も、あからさまな外国は躊躇するでしょ?
531 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/25(日) 11:21:52 ID:DZSn4ljW0
李存審のつづき。
後梁随一の名将だった劉鄩を魏州で撃破した李存勗は
(このときの劉鄩の作戦行動は、『百戦奇略』でも取り上げられている(変戦-臨機応変)。作戦の内容自体は理にかなっているということ。ただそれを上回った李存勗が戦術の天才だっただけ)
邢州・洺州など、河北の要衝を攻め落とし、また滄州(南皮)を取り、李存審をして滄州節度使とした。
晋軍が南征に狂奔しているころ、李克用と兄弟の盟約を結んでいた耶律阿保機が
晋陽の北、振武軍(朔州)に攻め入り、節度使・李嗣本を殺した。
耶律阿保機はさらに雲州を攻撃したが、それは李克用の仮子の一人、李存璋によって阻まれた。
方向を転じた耶律阿保機は東進して新州を攻め
邀撃に出た幽州節度使の名将・周徳威をも軽々と撃破してのけ幽州を包囲した。
李存勗は後梁に優越したとはいえ、未だ戦っている最中にこの腹背攻撃を受け、半狂乱となったが
李嗣源、李存審、閻宝ら諸将と謀り、周徳威の救援を決意した。
李存勗は南面して動けないので、李嗣源と李存審で一軍を指揮し、7万をもって北上した。
李存審は
「契丹は輜重が十分でないので、略奪するものがなくなればおのずと退くだろう。そこを猛追するにしかず」
と言ったが、李嗣源は
「いや、幽州は陥落寸前と聞く。周徳威は社稷の臣ゆえ、もしこれに万一のことがあってはならない。契丹が動くのを待っていては取り返しがつかない。わたし自ら先鋒となって向かおう」
そう言って、李嗣源と李存審らは易州に急行し、幽州を目前とした。
李嗣源は契丹軍は騎兵が多く、味方は歩兵が多いということから
平地ではなく山間に入り密かに軍をすすめて幽州に近づいた。
そうして一気に平地に踊り出、契丹軍の一隊と遭遇するや契丹語で叫びつつ三度突撃し
契丹の将一人を討ち取り、幽州への道を確保した。
一方、李存審は兵に木を切って逆茂木を一本づつ持たせ、平野において戦場で野戦陣をつくり
契丹騎兵の馳突を防ぐとともに、強弩を乱射して契丹騎兵をなぎ倒した(長篠?)。
さらに、幽州の契丹本営に迫ると、陣を構え待ち受けている契丹軍に対し、主力を敵の後方に伏せ
自身は弱兵を統率して火をつけた柴をひっぱり、草原を焼きながら契丹軍に迫った。
契丹軍はその煙幕のために晋軍の兵力がわからず狼狽したので
伏兵となっていた主力軍がそれに踊りかかって、大勝利を挙げた。
幽州はボロクソになったものの、無事救われ、再び晋軍は南征に専念できた。
で、大乱戦である胡柳の戦いへと続くわけですが…
また今度w
532 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 12:02:31 ID:z1cfCt9qO
>>530
>とりあえず西夏からでも、ドコからでも良いから名前を出し、推薦してみる。
>通る、通らないは別問題じゃね?
>推薦する側も、選考する側も、あからさまな外国は躊躇するでしょ?
五代は専門外だから論議には参加してないけど>>530さんの意見は最もだと思います。
清朝が許可云々はただ清朝が国号に関して知識が余り無かった為ではと
個人的には思いますし、そう言うのを反対材料にするのもどうかと思います。
(>>530さんは別に反対材料にしてはいませんが)
個人的には遼(契丹)・西夏・元・金はおKでいいのではと思います。
反対してる人の反対材料がイマイチ屁理屈に聞こえるのは気のせいかな?
533 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 12:44:39 ID:rM7USuue0
どのあたりが屁理屈に聞こえますかね?
私には逆に、遼や元(モンゴル)のファンが自分の好きな武将を範囲に入れるため
に矛盾する定義を持ち出しているように見受けられるのですが?
534 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/25(日) 12:58:05 ID:DZSn4ljW0
>>527の追記。
康壊貞は後に、かつての上官だった劉知俊が岐王・李茂貞に付き叛し、霊武等を攻略したので
その討伐のために大将として出陣した。
最初は寧州・慶州などを奪回し、三水に至っては劉知俊の攻撃を
左軍使・王彦章らの奮戦もあり、撃退したが、どうもそれは誘いの手口だったもよう
劉知俊は昇平に伏兵を置き、康壊貞が勢いに乗って追ってくると、これをさんざんに打ちのめした。
大敗した康壊貞は身一つで逃げる有様だった。
かつての上官ということで、あんまり乗り気しなかったのか、舐めていたのか…
ちょっとパッとしませんね、この戦いでは。
さらに、河中の朱友謙が晋と通じると、これを討伐に向かったが
李存審と李存勗のダブルパンチを一身に喰らい昇天した。
あとは、自領の雍州に戻って死ぬまで短い期間、どうにも冴えなかった。
535 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 13:28:16 ID:iuU/Xo9f0
>>533 同意
536 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 14:11:25 ID:VnquViRn0
>>533
「矛盾する定義」ってのがどの辺を言ってるのかわからんですけど、
遼は最初っから論争の種になって棚上げ状態のまま来てて、
含めるかどうかの明確な基準は合意されたことはないんではないですかね?
自分的には反対派が冒頓やらエセンやらティムールやらを例に挙げてるのが屁理屈に感じますね。
遼については独立の正史が編纂されている点が上記の例とは明確に異なっているので。
>>505は明確で妥当な案に思えるのだけど、反対派と思われる>>533さんや>>535さんはどう考えてるんでしょう?
537 535 sage 2007/03/25(日) 14:39:54 ID:iuU/Xo9f0
>>536
>>21 >>505 >>532 の定義で整合性がとれていないことが最大の矛盾
暫定的にせよ>>21の定義で選考してきたのに、その後、西夏を入れてい
たり、外していたりして中国を定義した意見を出してきても、自分の好きな
武将を入れるために、後出しで定義を変えようとしているように見える。
暫定的な定義の後で、明確な定義を決定していないのであれば、>>21
の暫定的な定義に従うべきだろ。
538 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 14:45:46 ID:2qGmGLVT0
清が「中国」の完成形じゃないのか?
その原型が元であり、五代以降の遼と北宋、金と南宋だと思うが。
匈奴と漢、五胡と晋、突厥と唐とは関係の性質が違うように思うが。
539 ◆oOLAqFKRB. 2007/03/25(日) 14:56:40 ID:4vpp3T0e0
>>533さん、>>535さんへ
・遼や元(モンゴル)のファンが自分の好きな武将を・・・
俺が書き込むとまた議論になってスレが荒れてしまうかもしれんとか思うんやけど、一応。
俺含め契丹(代表・耶律休哥)とか蒙古(代表・トゥルイ)とか後金(代表・阿巴泰)を入れよう
って人たちは、特別その武将(あるいは国家)が好きなわけやないと思うんよ。ただ「そのほうが
面白い」ってことで挙げてるだけで。異民族をシャットダウンしてしまうと>>530氏の言うよーに
「無難な(面白みに欠ける)選考」になると思うし。ここは前スレでどなたかが提唱した「中国
本土に根刺した国家およびその国家樹立に貢献した先行政権の武将」は中国の武将として認める
(多分こんな感じやった。ちょいと自信ないが)って定義が一番問題ないと思うっちゃけど、
どーやろ。史書にアルタンの名はなくても、耶律休哥の名はあるわけやし。
540 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 15:13:33 ID:VnquViRn0
>>537
>>21と>>505は矛盾する関係ではなくて、>>21を補完して確定させる案が>>505って流れと思います。
暫定的なまま棚上げしてきてたけど、まさにその棚上げの原因になっていた、
遼や元の線引きの問題に直面してるので明確な線引きを議論するのは当たり前では?
>>532の
>個人的には遼(契丹)・西夏・元・金はおKでいいのではと思います。
を>>21や>>505と同レベルの例に挙げるのはおかしいんではないですかね?
定義の案ではなく、明確な根拠付けすらないので、単なる個人的な意見で議論の対象外と思いますが。
541 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/25(日) 15:27:04 ID:H//pJM0KO
>>537
>>532を入れるのかw
ありゃ話が進まないから、中国の定義論争じゃなく、人物をあげようという例だよ。
遼を入れたい人は遼将を推薦してるが、西夏は?って言ってる人がいるわりには、
ぜんぜん推薦する人物の名前が出てこないから言っただけ。
>>505の基準で文句はないよ。
とりあえず人物をあげて話し進めない?
名将を決めるんであって、ナニをもって中国とするか?じゃないんだろ?
542 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 15:34:34 ID:iuU/Xo9f0
>>541
>>532 >533 >>535の流れなんだから 532が入っていて当然だろ。
前スレから西夏は?って言ってる人は、西夏を入れろと言っているので
はなくて、遼(契丹)・西夏・元・金あたりを公平に取り扱えと言いたい
のだと思うぞ。
543 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 15:37:39 ID:rM7USuue0
矛盾
>21 のような「現在の中華人民共和国領土内」とするなら冒頓やエセンやティムールも含まれる。
しかし遼やモンゴルの武将を入れろと言ってこの定義を持ち出す人は、条件に合致する冒頓やエセン
も入れろとは言わない。逆にいろいろと理由を後付で持ち出して否定する。
544 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/25(日) 15:37:52 ID:H//pJM0KO
>>532は俺の意見じゃないやw
スマソ
>>530で西夏の話したから勘違いしたよ。
545 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 15:43:51 ID:VnquViRn0
>>543
冒頓もエセンもティムールも「現在の中華人民共和国領土内に都を持ち」に適合したとしても
「支那風の国号を持つ王朝」に属してないので>>21の定義に従えば対象外。
反例に挙げること自体がまずおかしい。
それに>>21の「現在の中華人民共和国領土内に都を持ち」は
対象があまりに広すぎるので合意がとれた定義ではないと思うけどね。
546 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 15:46:31 ID:vULUf26h0
むかし世界史で習った時は、遼・元・金は中国史扱いだった気がするんだけどな。
充分漢化したわけだし、入れないほうが違和感あるんじゃない?
清と扱いは変わらないでしょう。
西夏は……どうかなあ。
547 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 17:52:03 ID:RS7UDsUr0
金は完璧漢化してたが
遼まで漢化してたっていうのは中国文明の傲慢だろ
548 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 17:58:29 ID:2qGmGLVT0
周が漢化してたか?
秦が漢化してたか?
楚が漢化してたか?
中国≠漢族だろ。
549 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 18:02:34 ID:WusCxBU/0
遼は南面北面の二重体制だから一概に言えないよな
550 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 18:11:00 ID:vULUf26h0
あー漢化はそうだね、考えるの無しにしましょう。
551 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 18:35:36 ID:z1cfCt9qO
>>548
少なくとも秦・楚・呉・越は最初は蛮夷扱いされてた‥‥
だから中国≠漢族だろとは言い難いのでは?
552 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 18:56:45 ID:RS7UDsUr0
当時世界からカラ・キタイと言われてた東の大国を中国と呼ぶのは変ですよ
553 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 19:02:49 ID:VnquViRn0
>>552
カラ・キタイは西遼でしょ?
554 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 19:06:42 ID:RS7UDsUr0
カラ抜かして
555 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 19:10:01 ID:rM7USuue0
中国というか支那という地域は、秦の統一によって完成し、その後二千年以上変化はない。
時代によっては、領土を拡大することはあったがそれは政治的な領土のことであり、支那(中国)
の範囲が拡大したわけではない。
漢や唐は一時期西域を支配したが、だからってそこが支那になったわけではない。
明は満洲を支配したこともあるが、そこが支那になったわけではない。あくまでそれぞれ
の王朝が領土を拡げただけのこと。日本は一時期朝鮮や満洲を支配したが、そこが日本に
なったわけではない(正確には、日本化しようとして失敗した)。かつて支配したことがある
からといって、そこは日本だなんてほとんどの日本人は認識しないだろう。
現在の中国の行政区画をみても、東北の三省を除けば省としている地域はほぼ秦漢の領域
と重なる。他は自治区扱い。これは唐でも明でも歴代統一王朝でかわらない。
ちなみに遼は当時の宋のひとびとは完全に外国扱いにしている。遼を北朝と呼んだり皇帝
の称号を認めたのは、それが中国の外の皇帝であると認めたのであって、中国のもう一人の
皇帝と認めたのではない。
そんな遼に仕えた武将を「中国の武将」とはみなせないでしょう、というのが私の主張です。
556 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 19:45:41 ID:z1cfCt9qO
>>554
西遼をイスラム史家はカラ・キタイ(黒い契丹)と呼んだのですが‥‥
557 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 20:27:28 ID:J0K58VTg0
Wikipediaだと遼・元・金、あと西夏も中国の歴史扱いだね。
西遼は入っていない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
絶対的な基準にはならないけど、多くの人の認識が遼・元
・金・西夏を中国としていると考えられるんじゃないかな?
>>555さんみたいに反対の人が多ければ、修正入っていた
だろうし。
558 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 20:41:14 ID:VnquViRn0
>>554
キタイ=契丹で、遼は国号を契丹と遼と、時代によって両方使い分けてた訳で、
外国からキタイ(契丹)と呼ばれることがあるのは当たり前なんじゃ?
>>555
前半部分の領土的な理由は、賛同するかは別として筋が通ってると思うけど、
後半部分の>ちなみに遼は当時の宋のひとびとは完全に外国扱いにしている。
については、漢族からしたら金・元・清も外国(蛮族)扱いなんじゃないか。
遼を除外する理由としてはこちらは不適切と思いますが。
あと>>545を無視してるのは>>543で言ってることが間違いと認めたってことでよい?
559 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 20:56:35 ID:RS7UDsUr0
国号が契丹なのは中国的国家への否定なんだけど?
560 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/25(日) 20:57:08 ID:H//pJM0KO
>>558
>漢族からしたら金・元・清も外国(蛮族)扱いなんじゃないか。
いや、それどころか五胡十六国時代、西晋が正統であるとして、わざわざ北から
移住した者もいるぐらいだから、北の王朝はぜんぶ対象外だよ。
たぶんもう一度、選考し直しを提案するはずだよ。
561 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 21:16:03 ID:z1cfCt9qO
多くの人の認識が遼・元・金・西夏を中国としていると考えられるんだから
そんなに意地になって外せと言うのはどうなのだろうか?
推進派は的外れな武将を推薦したいなんて
決して言わないと思いますけどいかがですかね? で仮に的外れな武将を推薦してきたらそれは違うだろと指摘したら良いだけじゃない?
562 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 21:23:58 ID:RS7UDsUr0
多くの人の認識が対象なら
関羽とかが百選に入ってるだろうよ、今頃
563 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 21:31:32 ID:J0K58VTg0
じゃあ多くの人が認めない名将100人選ぶ気なのかい?
後ろ向きなツッコミはやめたほうがいい。
564 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 21:34:18 ID:2qGmGLVT0
そうだな。
おまえとかでも知ってるくらいの知名度だからな。
565 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 21:47:28 ID:z1cfCt9qO
>>562
国としての認識と関羽個人の認知度とでは論点が少しずれてないかい?
566 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/25(日) 21:54:17 ID:DZSn4ljW0
で、入れるとして、結局誰を入れたいんだ?
遼、西夏あたりから、二、三人紹介して候補に入れてみればいいさ。
契丹は中華政権とは関わり無く勃興し、中華政権と干戈を交えつつ、いびつながらも共存し
なおかつ、中華政権の良いところを取り入れようとしたが、基本は中華政権とは一線を画した別の国。
西夏は、もと中華政権の一節度使が、独立してやがて国を建てたが、完全に中華政権の支配下を逃れている。
また、中華政権に対抗するため、独自の文化を持つに至り、中国との同化はなかった。
中華文明の亜流であり、当時の制度が中国のそれを深く参考にしていたので、中国の歴史には欠かせない。
遼が国史として編まれたのは、征服王朝時代のさきがけで、正当化をはかるためのものと思われる。
その風俗、習慣などは、中国と呼ぶには同化し切れていない、外国の様相を呈していると考えますよ。
まぁ、入れる入れないにしても、人物を挙げてみましょうよ。
いいかげん人物列伝を読みたいんだが。
567 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/25(日) 21:59:32 ID:H//pJM0KO
>>565
ID:RS7UDsUr0で抽出すると分かるけど、かなり苦しい事いってる人なんだよ。
唯一、反論されてないのが、>>559なんだけど、それだと
じゃ、国号が契丹の時代は外し、遼の時代は入る――で問題なし。
568 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 22:08:03 ID:rM7USuue0
>>558
たしかに、漢族からすれば金も元も清も蛮族と見ていたでしょう。しかし私が遼を除外
すべきと主張しているのは、民族を問題としているのではありません。
金も元も中華の中心部というべき中原を支配して、支那の範囲内に都を置いて統治して
いますのでもとは外国だが中華を支配する政権とみなせます。その意味では>560が言って
いるような南北朝の北を外せなんて言う気ありません。
しかし遼は最後まで関外の外国として終わりました。これを中華の政権だとはとても
言えないと考えます。だから遼の武将は外すべきだと考えているのです。
>あと>>545を無視してるのは>>543で言ってることが間違いと認めたってことでよい?
そうですねたしかに「支那風の国号」という点からすれば冒頓は対象外ですね。
しかし、エセンを始めとする明代のタタールやオイラートは後世からはともかく、当人
たちは元が北に移った政権、北元を国家として名目上は立ててます。これは支那風の国号
になりますね。
569 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 22:10:09 ID:RS7UDsUr0
耶律休哥でしょ?>入れたい武将
高梁河で趙匡義率いる宋軍を破ってるし
でも当人、宋とは和平路線を支持してたよな
民族が独立して国を作る志向を持ってるから宋は宋、遼は遼なんだけど
遼って高句麗、渤海から続く満州一帯らへんの国家だし
渤海人も多く登用されてるし、渤海人は中国とは別の国なんだけどな
まあ渤海使を遣唐使扱いしてるから遼も中国扱いする人多いんだろうけど
でも建築や官制が中国に倣ってるから中国っていうんなら、昔の日本だってそうなんだが
570 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 22:18:25 ID:RS7UDsUr0
休哥よりは斜軫の方が、南下して中国で戦ってる分中国名将に入りやすいと思うけど(事情アリとはいえ楊業破ってるし
何回か名前も挙がってるが、感じとしては休哥>斜軫な感じ
西夏は……宋側で狄青が頑張ってるしなぁ
中華外の所で国を設立するのに功績のある名将って、それは歴難の世界百選の範囲だ
571 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 22:32:13 ID:z1cfCt9qO
◆RQdk7scN8sさん
>いいかげん人物列伝を読みたいんだが。
まあそう怒らずにw
俺は善意の第三者として前々スレから擁護してるんだけで
小難しいこと抜きにして推薦したいなら推薦させてあげればと言う考え方なんですよ。
だから国号が契丹、遼の時代だろうが挙げてみればいいんじゃないかなと思いますけど。
契丹か遼かは君主の個人的な思想なんだしそんなに拘るほどの事とは思いません。
そんなに重要ですかね?
契丹か遼かで領土の位置が代わる訳でもないし‥‥
572 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 22:35:04 ID:2qGmGLVT0
>>568
中原というのは河南のことなんだろうが、
俺は燕雲近辺こそ近世中国の中原だと思っている。
だからそれを支配する遼は入選資格有り、というスタンス。
まあ遼の頃はそれほどの重要性はなかっただろうが、金元清の先駆けとして評価している。
そして統一政権は長城以南の支那を全て支配してなければならない。
北宋にはそれが出来ていない。だから俺は北宋を統一政権とは思わん。
遼は北朝だと言わざるを得ないと思うが。
573 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 22:39:05 ID:RS7UDsUr0
君主の個人的な思想で国名が変わるなんてなんていう独裁国家だw
574 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/25(日) 22:40:36 ID:DZSn4ljW0
>>571
いやいや、怒ってないです。 語気が荒くて申し訳ない。
なんかだんだん、キナ臭くなってきてたので、流れをムリに変えようと…
なんか自分のレスだけ浮いているのも寂しかったし。
歴史学として、遼や西夏は中国にとって非常に重要なんだけど、このスレ的にどうか、というのはある。
そういう意味で、いわゆる中国本土、おおかた万里の長城を北端として、という範囲で
それほど領地的に影響の少なかった、遼や西夏は外してもいいかとは思っている。
それに防衛戦とかで有能な武将は、あんまり評価しないでしょ?
ということは、耶律休哥ではダメなんですよね。耶律徳光でないと。
まぁ、それもケース・バイ・ケースで拘る気はないけど、そういうのどう考えるのだろうか。
575 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 22:43:07 ID:DQ5mmA020
>>569
≫でも建築や官制が中国に倣ってるから中国っていうんなら、昔の日本だってそうなんだが
それはちょっと話が違うと思うし、反対材料とするには無理が有るよ・・・
576 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 22:54:55 ID:z1cfCt9qO
◆RQdk7scN8sさん
>なんか自分のレスだけ浮いているのも寂しかったし。
いやいやそんな事ないですよ。
推薦したいなら取り敢えず推薦してみればつーのが
俺の考え方なだけでムキになりほどかな?と思っただけですよ。
>>573
古代から現代まで中国なんて君主の個人的な思想で物事が代わるれっきとした独裁国家ですよw
577 ◆oOLAqFKRB. 2007/03/25(日) 23:17:46 ID:Vd9KwL440
とりあえず誰やそれ、的なのを二人ほど投下。
陳昭袞
驍勇果敢でしばしば戦功を立てる。聖宗が虎に襲われたときこれを捕殺した豪傑。
耶律(韓)徳威
耶律善補ともに楊業を破る。真っ向勝負で楊家の軍を大破した遼朝唯一の大殊勲者。
こんなもんで。
578 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/25(日) 23:31:13 ID:H//pJM0KO
>>568
> しかし、エセンを始めとする明代のタタールやオイラートは後世からはともかく、当人
> たちは元が北に移った政権、北元を国家として名目上は立ててます
当人が目指したのは中華の主たる元でなく、
チンギス・ハンの末裔としての北元だと思うんだが。
エセンは山師的な所があるから、明の領土が手にはいるなら、
喜んで奪いに行ったとは思うが、本気で中原に覇をとなえるつもりはないのでは?
>>574
耶律徳光は名将だよ。
なんだかんだで最後まで遼を入れるのに反対してた人に敬意を込めて、
個人的には、あえて遼と号した時期のみ推薦したいから、
遼の太宗、耶律徳光を推す。
579 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 23:37:39 ID:rM7USuue0
>>572
燕雲が中国の中心になったのは少なくとも元以降。たしかに今の北京のあたりは
北方の遊牧文化圏と中華を結ぶ結節点として古代から栄えていたが、だからって
中心にはならない。
580 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/26(月) 00:21:56 ID:/XCFnoouO
正史二十四史、清史稿+αに載ってる人物でいいじゃないか
遼や金外すとかスケール小さくするようなことしなくても
581 558 sage 2007/03/26(月) 01:00:02 ID:SnVA8+Cv0
>>568
レスありがとうございます。
>>555の前半部、領土的な判断基準の主張まで否定するものではないので、
後半部が切り離されれば案として残すのはよいんじゃないかと思いますよ。
>>505あたりの案と比較して、どれを定義に採用するかは議論が必要でしょうが。
タタールやオイラトは元を自称してるけど、>>578さんの意見に賛同しますね。
北元はフビライの子孫がアリクブケの子孫のイェスデルに殺されて
途絶えたところで別の王朝になってるように思います。
582 善意の第三者 sage 2007/03/26(月) 01:08:53 ID:fFHC/Wd9O
>>580
いいんじゃない。だから俺は昨日>>530さんに同意した訳だし。
推薦するだけ推薦してみればいいし、落選してもそれは仕方ないと言うことでおK?
ああでもないこうでもないばっか言っても先に進まないよ。
もちろん定義を煮詰めていくのは賛成です。
583 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/26(月) 15:09:27 ID:hITodSrz0
きっちりした定義も決めず始めたり、100人にはいるとも思われない小物を長文で紹介して
悦に入ったりする奴がいたりともはや混沌としてきてるなwww
特に後者は知名度の低い名将スレでも立ててそっちでオナニーしろやww
584 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/26(月) 16:04:07 ID:0CwfyWgr0
↑このスレの住人とは到底思えないアホがいるな。
585 善意の第三者 sage 2007/03/26(月) 16:38:04 ID:fFHC/Wd9O
>>584
ID:hITodSrz0みたいなアホが三戦板の某スレ板にいるよ
(恐らく同一人物かと)
そいつはやたらとwwwを付けたがる精神病患者。
586 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/26(月) 17:08:51 ID:/AnJjCbS0
スルーも出来ないのか?情けない
587 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/26(月) 18:07:41 ID:XLkRRoMd0
>>583
そりゃ悪かったねぇ。
マイナーな時期と思ったればこその長文であって
単に、誰ソレが誰々に勝った、でわかってくれるなら説明せんよ。
勝ったはいいけど、その相手ってどうよ? ってなれば、いくらか説明いるしねぇ。
李存審の残りの部分を、簡潔にいきます(言いたいところは済んだから)。
胡柳陂の戦いにおいて、別部隊として奮闘。
最終的な勝利を得るに貢献する(周徳威が戦死したりと、むちゃくちゃの乱戦だった)。
張文礼の乱では、李嗣昭とか李存進とか主な主将が次々と戦死する中、最後に起用されて鎮圧した。
以上。
絡めて、符彦卿のことも書こうかと思ったけど、様子見ます。
588 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/26(月) 19:10:33 ID:XLkRRoMd0
もう一回、確定・候補の磔。
五代~北宋・遼
【確定組】
李存勗、柴栄、趙匡胤、楊業、狄青、(李存審)、(耶律徳光)
【候補】
周徳威、郭崇韜、王彦章、郭言、楊師厚、劉鄩、康延孝、
任圜、李神福、臺濛、周本、孟堅、張彦卿、陸孟俊、劉仁贍、張武、
王環、趙季良、蘇章、潘崇徹、銭弘佐、顧全武、張元徽、李瓊
【候補落ち】
朱温(朱晃)、郭威、曹彬
【論争中】
耶律休哥
遼は入れん、と言いつつ… 耶律徳光ならおkな無節操w
かの戎王を入れるなら、対抗馬として後晋の桑維翰も入れたいところ。
ただし、桑維翰はあくまで軍政官。前線で戦術能力を発揮したことはありません。
かなり有能な戦略家。
桑維翰の作戦指揮のもと、劉知遠、杜重威、高行周、符彦卿、皇甫大師(皇甫遇)など15節度使が大暴れ。
契丹の侵攻および青州の重鎮・楊光遠の反乱を鎮定する(テロップふうに)。
589 善意の第三者 sage 2007/03/26(月) 19:28:32 ID:fFHC/Wd9O
>>587
◆RQdk7scN8sさん まあそう怒らずに。
自分は李愬・李存審や符彦卿のこと全く知らないので詳しい人物紹介は大変有り難いです。
(教えて下さいとお願いした張本人だし)
専門外の時代を深く知るのは楽しいですし、寧ろもっと紹介してほしいです。
(恥ずかしながら漢文が全く読めませんつーか羨ましいです。)
石勒が高祖本記を読んで聞かせてもらったり、
朱全忠が耳学問で知識を得た様なつもりで拝見させていただいています。
御迷惑で無ければこれからも人物紹介お願いしたいです。
590 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/26(月) 19:45:12 ID:fFHC/Wd9O
>>588
連投で申し訳ないです
ありゃwこれ又興味津々な武将たちがww
桑維翰はともかく劉知遠、杜重威、高行周、符彦卿、皇甫大師(皇甫遇)15節度使が大暴れってなんですか?ww
青州の重鎮・楊光遠って人物も凄く気になるんですけどw
いい加減にして下さいよ。物凄く知りたくてウズウズしちゃうじゃないですかwww
591 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/26(月) 20:03:50 ID:XLkRRoMd0
>>590
今、その後晋期の契丹南下のときをまとめている関係上、ちょっと他より深く入っているんだけど
そのテロップには惑わされないでください。
詳細ではないけど、五代スレにさわりは書いてますんで。
上の中で、皇甫遇はまだ太師になっていないのに、《資治通鑑》ではずっと「皇甫太師」と尊称されb「たりします。
杜重威の腰抜けのせいで、契丹に降らなければならず、羞じて死んだが故に義士とされているわけ。
司馬光さんよwwwwワロスwwww
という感じ。
(ちなみに、「太師」の漢字が間違っていましたね。まぁ奥さんは法号を得て大師となりますが)
ところで、漢文は読めていません。眺めているだけです。
だから結構、細かいところは誤認していると思われますので、注意してください。
592 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/26(月) 20:29:40 ID:XLkRRoMd0
こちらも連投。
李存審を確定不動にしたいため、形容詞を並べます。
《舊五代史》唐書列伝八に引く、最後のほうで
「李存審は若い頃から軍中にあり、臨機応変を知り、法令は厳正、策を練り勝機を制する。功名は周徳威との双璧であり、これ近代の良将である」
多少、中抜きしていますが、概略こんな感じ。
周徳威は胡柳陂で討ち死にしたけど、李存審はまっとうしたから、選ぶとすればこちらかな。
593 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/26(月) 21:44:11 ID:aNjHA8LV0
>>581
たしかにフビライの子孫である北元皇帝のトクズテムルはイェスデルに殺され、
フビライ流の系統は途絶えました。しかしそのイェスデルもその後継者たちも
みな「中国風の国号」である元の皇帝として(北)元皇帝を名乗っているのです。
たしかに彼らは中華皇帝としてではなくチンギスの流れとして皇帝を名乗った
のかもしれません。しかしそれは今回は関係ありません。私は「中華風の国号」の
点を問題としていたからこそ、この例を出したのですから。
「中華風の国号を名乗った国じゃないだろ」
↓
「いや、名乗っているよ」
↓
「でも中華の支配者を目指したとは思えないからダメ」
これが定義の後付でなくてなんだと?
念のためにいっておきますが、私は中華風の国号を名乗ったからと言って、
遼が中国に入るとは思いません。しかし、入るといったのはそちらです。
その理由が「国号」で、その矛盾をついたら前回の論旨では言っていない
ことを持ち出して反論とういのはなんでしょう?
594 善意の第三者 sage 2007/03/26(月) 22:08:51 ID:fFHC/Wd9O
>>591
劉知遠は後漢の初代高祖ですよね。しかも在位わずか一年で崩御orz
五代随一の名君と言われる後周の世宗(柴栄)
その後周で殿前都点検(近衛軍長官)だった北宋の太祖(趙匡胤)ぐらいなら
隋・唐・五代は専門外ですが陳先生の十八史略などを読んでいますので少しなら分かります。
やはり新五代史や資治通鑑を御愛読なされてるのでしょうか?
>>593
主張が矛盾してるとお怒りはごもっともですが
支那風元号を名乗っているとは言えやはりタタールやオイラトは
遼などの場合と一緒に考えるのはちと厳しいかと思いますよ。
(自分の器量ではこれ以上貴方を納得させられませんツッコミはご勘弁を)
595 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/26(月) 22:38:37 ID:RMVpnz1GO
>>593
まず、ご自身が遼を外す理由として、漢民族ではないため、正統王朝ではないと
当時から主張されていたと言いましたよね?
であれば、五胡十六国、南北朝時代にも同じ考えの人がいたのだから、
異民族が創始した政権は除外しないと、おかしくないですか?
そっちはok、遼はNGと言うのは矛盾してませんか?
ご自分の矛盾を棚に上げ、他人だけ責めるのは、その論旨に反してると思いますよ。
いかがお考えですか?納得できるご回答をお持ちいたします。
596 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/26(月) 23:15:52 ID:OVLT3XCM0
ご要望?に応えて五代の武将を投下
霍彦威(872~928)
曲周(河北)の出身。字は子重。
梁将霍存に養子とされ、のち朱全忠に仕えて各地を転戦。
後梁が滅ぶと後唐に仕える。
荘宗(李存勗)から李紹真と賜名され、李嗣源に従ってしばしば契丹撃退で功を挙げる。
帷幄にも参画して首都反抗や即位のことを勧め、検校太尉中書令に進んで
明宗(李嗣源)の政権で重権を与えられたが在任中に没する。
◆RQdk7scN8sさん質問なんですが劉?は劉[尋卩]のことですか?
597 558 sage 2007/03/26(月) 23:39:07 ID:HQSEL59z0
>>593
自分は>>505案に賛成なので北元(タタル・オイラト含む)は対象外との考えですが、
議論の流れからすれば不適切ですね、ごめんなさい。
>>21の定義でいくということで完全に決定すれば、
合致するエセンあたりも対象に入れてよいと思いますよ。(採用されるかはともかく)
なんにしても大前提の定義が決まらないことには、遼将が入るかどうかで大違いなんで、
定義の決定を先送りにするなら確定は8~9人で止めて、後で別途議論するって形にせざるをえないのかも。
定義の話がメインじゃないし、いい加減うんざりしてる方々も多数いるようなんで、早めに決められないなら先送りですかね。
>>595
>>568の前半が質問の回答になってるんではないですかね?
598 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/27(火) 00:13:27 ID:uqsL7maX0
>>594
五代の流れなら、「馮道」がかなり面白いですね。
ある種、小説として読めますから。
資治通鑑は愛読できないです… 誰か完訳してくれないかな。
三国時代も読みたいし。分裂時代への突入の仕方が三国-五代と似ていて、いろいろ興味あるんですよね。
(三国志は演義くらいしか読んだことがないから)
>>596
そう。 開封府尹の劉ジンのことです。
この人、戦理に適った軍事行動起こすのに、いつも運に見放されてカワイソスなんですよね。
李存勗との名勝負が好きなんで、対比として出しました。
その李存勗をして「一歩に百計を出す」と言わしめた梁軍きっての名将… なのにね…
ちょっと前、世界史板に「劉ジンと苦難を乗り越えるスレ」というのがあって、面白かったんですが
その頃は、誰それ? でした。
599 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/27(火) 01:14:26 ID:KAWFH+dC0
>>595
「漢民族ではないため、正統王朝ではないと」
言っていませんよ。私は当初から、遼は中華を征服支配したわけでもないのだから、
中国の政権とは言えないと言ってきました。ですから、五胡十六国でも南北朝でも
北は外せなんて言ったことはありません。金や清は歴史的な流れから言って中原征服
を成し遂げた、あるいはそのきっかけとなった靖康の変、呉三桂による入関以降を
対象にすべきだと考えており、「漢民族ではないからダメ」なんてひとっことも言って
はおりません。あなたは何を相手にしてきたのですか?
民族がどうこうというのは、遼を入れるべきだ、元や金や清の前政権まで含めるべき
と主張する人たちの定義では他の時代に矛盾が生じるという例を説明する場合にのみ、
逆説の意味で言ったことはありますが。
で、あなたが指摘した矛盾とやらについて、私は説明しました。この説明であなたが
納得するのか、受け入れるのかは知りませんがね。また後付で別な論旨を持ち出して
の反論はやめて下さい。
600 558 sage 2007/03/27(火) 01:28:33 ID:/RU9XVRx0
>>599
既に>>558で指摘したことだけども、>>555の後半で言ってることは
「漢民族ではないため、正統王朝ではない」と受け取られるのが普通じゃないかと思いますがね。
>>568で否定してるつもりなのかもしれないけど、非を認めて発言取り下げたわけでもないし。
601 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/27(火) 03:01:04 ID:KAWFH+dC0
>>600
冒頓は認めて取り下げたけど、エセンは間違ってませんから。
602 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/27(火) 06:31:12 ID:ZgfGS8wEO
>>600の問いに対しての回答が
>>601
> 冒頓は認めて取り下げたけど、エセンは間違ってませんから。
となると>>555の後半部分は否定しないんですよね?
>>599の
>金や清は歴史的な流れから言って中原征服を成し遂げた。
という部分をもって、あなたの意見を他の時代に当てはめると、
中原征服を成し遂げたとはいえない五胡十六国の異民族政権は
選考に入れるべきじゃないと思うんです。
ご自身はその考えを否定なさってます。だから矛盾してますよ――と指摘したのですが。
私はあなたが言ってるとは、申し上げておりません。
そういう意見にならないので、矛盾してますよ、と主張してるのです。
ご自身の意見にぶれが生じてませんか?
みんな武将の確定作業に入りたいと思ってるんです。
複数人から、遼からでも、西夏からでも良いから、
とにかく名前を出してくれという意見が出てます。
とにかく話しを進めませんか?かりに選考に矛盾や無理が出たのなら、
そのつど指摘し、場合によっては、先行時代の選定にまで影響が及び、
確定した人物の落選、昇格もあるかもしれません。
その時は後日改めて話し合う――こんな感じではダメですか?
603 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/27(火) 06:59:10 ID:MYU6zSe40
一連の議論を見てみると、頑なに遼将の審査を主張している人は別に「遼将の誰某を入れろ」って訳じゃなく、
「最初から遼、西夏等を選考外にするな」と言ってるだけだと思われる。
つまり遼、西夏の資格が認められても、
選考議論の過程で振るい落とされて遼や西夏の将は一人もいない、とかあるかもね。
論議の上で落とされるなら強硬派も納得し得るだろうと思われるが、如何か?
604 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/27(火) 08:08:24 ID:MLgwmFSh0
こんなに粘る気と思わなかったんで言わなかったけど、これって「遼は中国か?」スレでも建てて
議論するレベルの話だと思うよ。何かのついでで語るには条件が複雑すぎるでしょ。
そんで遼が中国ではないと結論が出たら、ウィキペディアにも働きかけて、抜いてもらってね。
605 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/27(火) 09:01:06 ID:AT0XEXMT0
最後にそうやって無駄な煽りを入れるから終わらないと思うんだが
606 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/27(火) 09:32:10 ID:aZAw7oJN0
取り敢えず遼も西夏も認めようよと流れになってるんだから
もうあれこれ五月蝿なこと言わなくてもいいじゃん
遼も西夏も推薦したい人もこんな状況じゃ躊躇してんじゃないんですか?
第一やり合ってるの二人ぐらいの人でしょ?
いい加減ウザイよ!!!
607 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/27(火) 11:11:50 ID:KAWFH+dC0
たしかに熱くなってムキになっていたようです。この件はここで棚上げして停止、
選定に戻ることにしましょう。
不快な思いをさせてしまった方には申し訳ない。
ただ、中国の武将の定義ははっきりさせておかないと、この先も何度もでてくること
になると思います。
608 黒幕 2007/03/27(火) 13:45:48 ID:2EykxZtyO
来て、見て、語れ!
このスレを1から丹念に読み込んでみて欲しい。現代のネット世界の光と闇、新しい伝説がここにある。
http://same.u.la/test/r.so/pie.bbspink.com/feti/1162548223/l10
609 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/27(火) 16:57:32 ID:vtNm/IzHO
>>598 たびたび㌧です。
自分も馮道はかなり面白いと思います。
(つーか根回し凄杉)
あと五代じゃないですが宰相として似た様な境遇?の耶律楚材なんかも。
分裂時代への突入の仕方が五代と似ていてるなら、東晋~五胡十六国や南北朝なんかも比較的近い状態じゃないですかね?
いろんな漢族・異民族がぐちゃぐちゃに入り交じって面白いと思いますよ。
以上チラシ裏でしたw
610 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/27(火) 19:52:16 ID:L8aoC6+2O
>>592 生き残ったから確定で死んだからランク落ちっておかしくない?
周徳威自身に戦死の原因があるなら話は別だけど
双壁と称されてる周徳威の事績も紹介してその上で優劣つけてくれればありがたいが
611 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/27(火) 20:19:49 ID:aZAw7oJN0
>>610
詳しい説明は◆RQdk7scN8sさんに任せますが
楊師厚に周徳威は蒙坑で破れてるのがマイナスポイントじゃないのかな?
612 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/27(火) 23:01:39 ID:aZAw7oJN0
611の続き
またまた余計なお世話かもしれませんが
盟友(?)◆RQdk7scN8sさんの代わりに投下
(自分は前スレから共に論議に参加しています)
周徳威は李存勗に軽率を諫めたが聞き入れられず胡柳坡で敗れ戦死
耶律阿保機にも撃破されてますし、ここら辺もマイナスポイントと
とらえているのではないでしょうか?
だから李存勗>周徳威という考え方なんだと思います。
613 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/27(火) 23:13:15 ID:aZAw7oJN0
>>612
李存勗>周徳威じゃなく李存審>周徳威でしたねスマン
ホント大きなお世話だった・・・orz
614 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/28(水) 03:23:06 ID:3CY9ORIA0
>>610
おかしくはあると思いますが、このスレでは往々にして主張される事柄と思いましてね。
自分が周徳威を語ると、またまた長くなりますよ?(そりゃもう、大好きな武将ですし)
田中ヨッシの百撰でも、周徳威と王彦章は入っていますので、それなりに知名度はあると信じて
その間に夏魯奇などを交えて、ちょっと独り言を言ってみます。
王彦章、あざな賢明(子明。注:欧陽脩《五代史記》)
鄆州の出身で、後梁太祖(朱晃)に仕え、若い頃から驍勇をもってなる。
《五代史記》の列伝によれば(死節伝に収録。劉仁贍が付録…orz)、鉄でできた槍を一本もち
騎上にあって馳突するさまは飛ぶがごとく奮う。軍中は彼をして「王鉄槍」と呼んだ。
猛将でもある。
かの魏州の乱のおり(>>518)、劉鄩の麾下に配属されていたけど、魏州が晋に下ったため
彼の妻子(魏州にいた)は、晋の人質となった。
王彦章の勇猛っぷりを欲しがった李存勗は投降を促したが、王彦章は拒否した(後で家族は冷遇された?)
その後は各地の節度使を歴任して周辺防備に携わっていった。
晋が、ついに黄河を越えて鄆州を攻め、橋頭堡を得ると、後梁朝廷は震撼した。
宰相で朱全忠時代は、軍政すべての権を一身に担っていた敬翔はこれを危急存亡のときとし
自らの首を縄で縛って後梁末帝に拝謁し
「先帝(朱晃)は臣の進言をよくお取りになりました。今、我が国は累卵の危機にあるにも関わらず、
主上は我が言をお取りあげになられたことがございません。この上は無用の者として先に死を賜りとう存じます」
と言ったので、驚いた後梁末帝は、敬翔の進言を聞くことにした。
「今の状況を打開するのに、王彦章を大将とする以外に道はありません」
現在の後梁では、末帝が左右の奸臣に惑わされており、先に劉鄩が讒言によって死を賜り
胡柳陂の戦いで、どうにか痛み分けに持っていった賀瓌も死んだので
まともな将帥は王彦章しか残っていないありさまだった。
その王彦章は、後梁末帝に召され、敵を破るのに幾日かかるか? と諮問され、ただ一言
「三日」
とだけ答えた。
後梁の朝廷は、その大言壮語を笑ったが、敬翔と当の対戦相手である李存勗だけは、それを軽く見ることはなかった。
李存勗は滑州の守将・朱守殷に、「王彦章が来るから、絶対に気を抜くな」と厳命したといいます。
王彦章は滑州に至ると、晋軍を前にして陣を張り、突然将兵を集めて宴会を開いた。
晋将・朱守殷は敵軍が着陣したことを察知したが、雨が降っていることもあり
また宴会を開いていると聞いて、その日は特に備えなかった。
王彦章は宴たけなわの頃、ふいに席を立ち、数千の精鋭のみを率いて
たちまち徳勝の南城とまわりの拠点を制圧してしまった。
それは、末帝に約束した三日目のことであった。
それから日に数十回戦闘を交えるという混戦が続き、しかしその手柄はすべて同僚の段凝という将と
朝廷の奸臣である、趙巌・張漢傑らの手によって握りつぶされ、段凝の手柄として報告された。
敬翔や李振などは、段凝の害毒を末帝に説くが、末帝は取り上げようとはしなかった。
やがて段凝が王彦章に変わって主将とされると、王彦章は牙兵のみをもって力戦し、ついに捕らえられる。
李存勗が降れと言ったが、王彦章は「豹は死して皮を留め、人は死して名を留める」と拒否し、やむなく斬られた。
以上が後梁の最後の名将・王彦章。
615 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/28(水) 04:17:13 ID:3CY9ORIA0
周徳威、あざな鎮遠。幼名は陽五。
朔州の人で、李克用の幕下に入り、驍勇と騎射によって武名を挙げる。
後梁の氏叔琮が晋陽へと攻めたとき(この時点ではまだ後梁ではなく汴州軍)
「晋の要は周陽五なり。これを擒えた者には一郡をもって褒美とするぞ!」と言い
陳章という勇名を知られる者が名乗りを上げ、周徳威と一騎討ちするが、あっさり生け捕りにされた。
後梁の康懐貞が潞州を攻めたが、潞州の李嗣昭(李克用の仮子)の堅守のため
持久策を用いようとし、主将を下ろされた戦いで、周徳威は三垂崗に伏せ、翌日一気に敵軍を撃破し
長く包囲下にあった潞州を救った。
朱晃は910年11月、王景仁を大将として潞州を奪還するため編成していた8万の大軍を
趙(趙王・王鎔。鎮州成徳軍)攻略に振り向け、柏郷に陣を置いた。
趙は晋に救援を求めたので、李存勗は周徳威や易定の北平王・王処直らとともに、戦場へ急行した。
晋軍は河を隔てて柏郷の北に着陣した。
梁に比して晋は総兵力が少なく、軍中に動揺が走ったが、周徳威は
「あれは外見は華々しいが、しょせんは町人のせがれどもだ。恐れるにたりず」と言い作戦を披露しようとした。
李存勗は速戦を望んだが、周徳威は否定した。
「梁には歩兵が多く、我が方には騎兵がありますが、ここでは騎兵の戦力は十全には生かせません」
と、李存勗はふてくされて陣幕に帰ったので、周徳威は張承業に今後の作戦を説明して、李存勗を説得してもらおうとした。
張承業が李存勗を訪れると、李存勗の方でも周徳威の意見を吟味しており、その作戦を容れることになった。
梁の王景仁は河に浮橋をかけるべく作業していたが、それを察知した晋は陣を後方の高邑にまで下げた。
周徳威は精騎三千をもって、梁の陣営に近接し罵声を浴びせて挑発した。
好機とみた王景仁は全軍を出撃させ、晋軍を飲み込もうとした。
周徳威は梁軍と戦いつつ数十里後退し、ついに高邑の南にある平原に敵を誘い込むことに成功した。
周徳威は
「敵はまんまと追撃してきたぞ。きっと携帯食も持たずに来たに違いない。昼すぎには撤退を開始するだろう」
と言い、再び速戦は避けた。
やがて正午が過ぎて、梁軍は退却をはじめたので、梁の陣営から土煙があがった。
遠望した周徳威は温存しておいた騎兵に一斉突撃を命じ、梁軍を大破した。
王景仁や李思安はわずかに身をもって逃れたが、捕獲された将校は280人に上った。
梁帝朱晃は嘆いて言った。
「子を持つなら、李亜子のごとくあるべし。我が子など豚犬のみ!」
柏郷の戦いは周徳威を語る上で外せない大戦果です。
ええ、さすがに眠たいので、続きはまた今度。
616 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/28(水) 20:12:51 ID:3CY9ORIA0
夏魯奇、あざな邦傑。賜姓名:李紹奇。
燕が兵を起こし易定を攻め、晋との間に戦端が開いた晋×燕戦役で
夏魯奇は周徳威の麾下に入って、幽州攻めに従軍した。
燕の驍勇をもって自負する、単廷珪(水滸伝じゃないよ)と元行欽は、周徳威の勇名を知っており
彼を戦場で打ち倒すことを目指していた。
周徳威が幽州に向けて軍を発し、攻めかかると二人の燕将は一軍をもって吶喊してくる
夏魯奇はその前面に立ちはだかって、単廷珪、元行欽の二人を相手取って壮絶な一騎討ちを展開した。
その壮観は、周りの兵たちが戦うのを忘れて、思わず見入ってしまうほどだったという。
夏魯奇に阻まれた二人の燕将は軍を引き、燕帝・劉守光は陣を立て直すことにした。
このとき劉守光は朱晃に救援を求めたものの、梁軍は先の柏郷での大敗もあり
また李存審らに阻止されて救援できなかった。
朱晃を嘆かせること三度目となり、朱晃は健康を著しく損なったといいます。
龍頭岡においてふたたび周徳威は劉守光軍と対陣する。
単廷珪は「今度こそ、周陽五を擒えて献上いたしましょう」と言って
精騎一万をもって龍頭岡の周徳威本営を奇襲した。
乱戦に持ち込んだ単廷珪は周徳威と遭遇し、勇んで撃ちかかったが
周徳威はわずかに身を反らせただけで、その斬撃をかわし鞭を浴びせかけて単廷珪を生け捕ってしまった。
当然、主将のいない攻撃軍は潰走し、単廷珪を失った劉守光は意気消沈してしまった。
周徳威はさらに軍を進め、李嗣源と李存審の加勢を得て幽州を降すに至る。
魏州の乱のおり、李存勗が梁の劉鄩と向かい合ったとき、李存勗はしばしば百騎程度でもって
敵情視察にでた。この行動は、李存勗が自らの目で戦場を見るという癖のようなものだった。
しかし、劉鄩はそれを見逃さず伏兵を配置させて幾重にも包囲した。
夏魯奇は李存勗と行動をともにしていたので、自らは二十箇所ほど傷を負いながらも
一人で百余人は殺し、力戦して李存勗を逃がすことに成功した。
彼は王彦章とも戦い、これを擒えることに成功している。
最後は、東川で董璋の謀叛により、城中の食が尽きて自刃した。
名将ではなく、猛将?
劉秀の賈復、劉備の趙雲みたいな感じだろうか。
617 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/28(水) 20:25:04 ID:3CY9ORIA0
おまけ「胡柳陂の戦い」
西暦918年に李存勗は黄河を越えて濮陽の近郊、麻家渡に軍を進めたので、梁軍も北行台村に着陣した。
このときも李存勗は少数での偵察を行い、何度も危機に陥りその都度李紹栄に助けられた。
(李紹栄って誰? 夏魯奇は姓名を与えられて「李紹奇」と名乗ったけど。この時期、紹の輩字をもらった人が多すぎる。わけがわからんw)
あんまりの無謀さに、李存審は泣いて李存勗を諫めたが、そのときは神妙な顔していた。
李存審が自陣に戻ったのを確認すると「あの爺がいると人の楽しみを邪魔するからな!」
と言って、李存勗はまたしても軽騎で敵を挑発しに出て行った。
梁将・謝彦章は、これをてぐすね引いて待っており、李存勗はふたたび危機に陥った。
報せを受けた李存審は手勢のみで急行し、ぎりぎり無事保護できたという。
さすがに軽挙を反省した李存勗は(きっと李存審にガミガミ言われたのだろう)、百日ほど行動を起こさなかった。
その長帯陣のうちに、梁軍のほうに異変があった。
総大将・賀瓌は、かつては自分より地位の低かった謝彦章が同列にいることに不満であり
さらに、最近つとに武名があがっているのが気に入らなかった。
意見の対立から謝彦章に罪ありとして処断したので、それを知った李存勗は大いに喜んだ。
しかし周徳威は、なお速戦を戒めた。
李存勗はそれを無視して、全軍を汴州方面へと動かし、敵を誘った。
賀瓌はそれを追尾したので、両軍は胡柳陂に入った。
周徳威は陣営を固守して軽挙を戒めたが、李存勗はそもそも敵を釣りだそうとしていたので
「せっかく敵が後から追いかけてくるのだ、軍を控えてなんとする。その方、臆病風に吹かれたとみえるな」
と退け、輜重隊を前進させ、李存勗は軍を返して賀瓌軍に向かった。
李存勗の近衛軍は、かつて魏州の楊師厚が編成した「銀槍効節都」であり、その勇猛さは梁軍を恐れさせた。
梁軍の一部がそれによって突き崩され敗走していくと、晋軍の輜重隊はそれを敵襲と間違い狼狽して
周徳威の陣営に一斉に逃げ込んだ。
それによって、周徳威の陣営は大混乱し、沈静を試みるが効果は薄かった。
賀瓌は、騎兵を周徳威の陣営に突撃させ、これを蹂躙した。
周徳威はこの乱戦の中戦死した。
李存勗は賀瓌の本営を衝き、数里後退させたものの、賀瓌の陣容は堅固に見えたので
一旦、軍を退いて陣営を整えようと思った。
しかし閻宝、李嗣昭、王建及ら諸将に速戦を主張され、愕然とした。
「公らの意見がなければ、わたしは計を誤るところであった」
小山の斜面を利用して、晋軍の騎兵は賀瓌の陣営に吶喊した。
この戦いで梁は死者三万という大敗を喫したが、晋のほうでも周徳威をはじめ、
掌書記として陣中にあった王緘が戦死していたし、さらに敵軍を追撃する余裕もすでになくなっていた。
王緘は帷幄の臣であり、その補填として巡官の馮道が起用されるようになった。
618 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/28(水) 20:55:01 ID:QQ+xWEIM0
◆RQdk7scN8sさん頑張ってますなぁ。
俺も忙しい時期が一段落したことでもあるし(まだちょっと忙しいが)、
久方ぶりに人物紹介やるかね。五代では初、ってことで、
◆RQdk7scN8sさんの推す李存審とつながりが深いこの人を。
史建瑭(866-920。字は国宝)
李克用を庇って斬り死にした史敬思の息子。
光化年間、昭徳軍を任され、李嗣昭とともに汾州を攻め、真っ先に城壁を登り、
叛将李瑭を捕らえて李克用の前に突き出した。李思安が上党を囲んだときは総管、
周徳威の先鋒として李思安の包囲軍に穴を開け、上党を救った。また、史建瑭の
守る城を汴軍が挟み撃ちにし、退路を断ったときも、精騎を率いこっそり城を
出て、要所に精兵を埋伏を設置。罠にかかった敵兵から情報を引き出し、綱紀の
緩んだ汴軍の陣営に突っ込んで斬首千余人を挙げた。汴将・王景仁が柏郷に陣営
を築くと周徳威の先鋒として井陘まで出陣した。高邑の戦においては天が黄昏に
染まるまで戦い、汴軍が陣営に還ろうとする心理を見澄まして後背を突く。
史建瑭は自ら麾下の精騎を率いて突撃し、敵陣を陥とし、逃げる汴軍を追って
魏・滑の間を抜け、長躯追撃して、夜、柏郷に突入して俘虜、斬首あわせて数千人
の武勲を挙げた。凱旋すると趙州の留守を任され、汴将氏延賞が趙州の南を侵すと
伏兵をもってこれを破り、氏延賞を擒らえて李克用に献上した。
光化九年、朱温が自ら蓚県を攻めたとき、李克用は唐朝の軍を率いて幽州攻略に
向かっていた。公称50万の軍が陳州、定州を侵す。李存審が史建瑭に訊いた。
「50万の大軍で攻め寄せる敵を前に、我々はなにをなすべきか?」その後史建瑭
と李存審の相談。奇策をもって活路を見出すということに落ち着く。800人の
精騎に汴軍を挑発させつつ信都に移動させ、李存審が下博橋を扼し、史建瑭と
李嗣肱は要所で敵将を擒らえる構え。史建瑭は部下三百を五部隊に分かって要所に
埋伏させ、自らは一隊を率いて梁軍に突入、敵兵を思うさま斬りまくり、梁軍を
下博橋に誘導する。翌日、両軍が下博橋に出揃う。史建瑭は自ら幾十人を斬り、
士卒百余人を捕らえる。そして将兵に「沙陀来たれり!!」と叫ばせる。梁軍は
一気に青ざめた。その翌日、史建瑭と李嗣肱は梁軍の甲冑を着込んで敵将・
賀徳倫の塞に忍び込み、門衛を殺し、塞に火をつけ、大声を上げて混乱をあおり、
目撃者を殺して帰陣した。朱温はこの晩、陣営を焼き捨てて貝州に逃げ去った。
十二年、魏博が投降し、史建瑭は符存審とともに魏県に駐屯することとなる。
翌年、元城の戦で劉鄩を破った。澶州を取ってその刺史となり、徳勝に駐屯した。
18年、閻宝とともに張文礼を討伐し、馬軍都将とされる。八月には趙州を修復
して刺史王鋋を生け捕った。鎮州攻略の途上、流れ矢に当たって死ぬ。享年46歳。
旧五代史に載っとる武将で一番“寡をもって衆を破”ったのは
李存孝(300とか500とかの寡兵で汴梁軍1万以上を毎回破る。バケモンか)
やと思うんやけど、彼は唐末に処刑されとるけん、唐の武将だわなぁ。やから除外。
つーわけで個人的趣味により史建瑭。
李存審の後援があったとはいえ、300+伏兵で50万を破るんやから大したもんやろうと。
619 ◆oOLAqFKRB. 2007/03/28(水) 20:56:27 ID:QQ+xWEIM0
なんでやろ、名前が消えた。
多分これで大丈夫のはず。
620 ◆oOLAqFKRB. 2007/03/28(水) 22:25:07 ID:LvTTdf2T0
連投やけど問題ない?
なんか人少ない感じやし、いいか。
今度は朱温陣営から、史建瑭と同じく流れ矢に当たって死んだ名将を。
郭言(生没年不明)
黄巣を擒らえて朱温に献じ、騎将となる。
性、剛直にして権謀あり、むしろ理知的だが戦場では鬼神のごとく荒れ狂う。
家財はすべて困窮する部下のためになげうち、すこぶる将士の心を得た。しば
しば蔡、浚の地攻略に出陣、常に少をもって多を打ち破り、出戦したからには
必ず勝利を得た。朱温はかれの勇敢果断であることを称え、賓客・僚佐たちの
前で「言、すなわち我が虎候なり」と賞賛した。
当時、秦宗権とその徒党が数10万の兵を抱え、朱温の兵はその十分の一に
しか過ぎず、常々兵力の減少を遺憾に思いながらもこれを敵に回すことが出来
なかった。ある日、郭言は命を受け、数千の兵を率いて黄河をわたり洛河を越
えて、陝・虢で壮丁を募兵して兵力の充実を図った。夏に出立し冬に帰還した
ときには、兵力は1万余を超えていた。朱温はこの兵力をもって蔡討伐に出陣、
郭言もそれに従うも、とめどもなく殺戮と略奪が繰り返される戦場は勝利と呼
べるものではなかった。ともあれ秦宗権は逃走し、朱温は蔡の地を汴梁の版図
に組み入れた。その間、郭言は女性や老人などの社会的弱者を保護するために
奔走する。潼関を陥としたときも奸悪を除き弱者を救い、人々の絶大な信頼を
得る。
光啓年間、日に日に勢力を増す朱温のために、唐の天子は揚州節度使兼を贈る
とともに禅譲、汴梁皇帝朱温に位を譲る。得意絶頂の朱温は幕僚の李璠を維揚に
向かわせた。このとき郭言は李璠の先鋒として戦ったものの、民心を得ていない
土地を奪ったところで意味はないとして盱胎を攻め抜いただけで兵を還した。朱
温は郭言に、今度は東伐を命ずる。郭言の出馬となると東の諸将は万人辟易、向
かうところ捷たざるはなく、郭言の存在だけで東人の鋭気は大いに崩れた。朱温
はその戦功を見て大いに喜び、“排陣斬斫”の称號を与えた。景福初年、時溥の
軍と遭遇、郭言は大敵を前に勇躍し、自軍の精鋭を率いて自ら斬首無算という暴
れぶりを見せる。しかし流れ矢に当たって倒れ、その晩陣没した。
621 ◆oOLAqFKRB. 2007/03/28(水) 22:38:16 ID:LvTTdf2T0
書き忘れ。
郭言は東伐戦で東西千里の領土を切り取っております。
622 611 sage 2007/03/28(水) 22:52:27 ID:CpCEcV480
◆oOLAqFKRBさんお久です。
◆RQdk7scN8sさんだけじゃなく自分もそれなりに推薦文(楊師厚、霍彦威とか)挙げてるのですが…シュン
以前嫌な思いをしたのでコテもトリも付けてませんが
自分は春秋戦国からずっと◆oOLAqFKRBさんとは推薦合戦を繰り広げている者です。
(長文をもう少しコンパクトにならないですかと提案した奴と言えばわかるかと)
まあ寝言と聞き流して下さいw
では自分は後周よりこの人を推薦
王景(889~963)
莱州掖県の人。農家に生まれ、騎射を良くし、生業に就かずに、若くして従軍する。
後梁・後唐に仕え、後晋の天福初年、相州刺史に上る。
開運元年(944)、侍衛馬軍左廂都校に任ぜられる。二年、南下してきた契丹軍を威城で破り、
侍衛馬軍都指揮使に進んだ後、横海軍節度使として、滄州に鎮める。
後漢の乾祐初年、同平章事を加えられ、後周の初年には侍中を兼ね、鳳翔節度使に転じた。
世宗(柴栄)が即位すると、中書令を加えられる。
柴栄は先虚後実・先易後難の作戦方針を考え、向順と王景を派遣して
隴右に進攻させ、半年にわたり堅持させた。
顕徳二年(955)、世宗の命により後蜀を攻め、秦州・鳳州・成州・階州を奪取する。
宋代に入って太原郡王に封ぜられている。
多少はおかしい箇所もあるかと思いますがご勘弁を…
623 ◆oOLAqFKRB. 2007/03/28(水) 23:23:59 ID:LvTTdf2T0
>>622さん、気付かずにいてすいません。
短く、と気をつけながらどーしても長文になるんですわ。
つづめようとしてもいつのまにかアレ? になってしまうという駄目な俺なのです。
史書からの要点ピックアップにとどめてるつもりなんやけど、上手くいかんのですねー。
ま、そんな俺に仲間意識を感じていただけるのは非常にうれしいです。今後ともよろしく。
と、五代は皆さんに任せて俺は北宋および議論百出の遼を担当しようかなと思っとります。
現在読んでるのは嫌われキャラ、潘美。この人案外結構名将なんですよ。戦術的には曹彬の上。
この人か楊家将の息子たちの中から推薦文出して見よーかなと思っとります。
それでは翻訳に戻りますねー。
624 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/28(水) 23:43:35 ID:3CY9ORIA0
>>622 前スレで、実は◆oOLAqFKRB氏とID:CpCEcV480氏は同一だと思ってたんですよね。
で、前のとき、郭言や、台濛あたりを推挙したのはどちらさまでしたか?
>>長文をもう少しコンパクトにならないですかと提案
(どきどき…)
>>618
史建瑭とは…
こりゃ盲点でした。オヤジの史敬思については、それなりに知っているところはあったのですが。
中国古典では、李存孝とならんで英雄ですよね、史敬思。
ところで、李存孝の初名も、敬思、安敬思というんですよね。
安も史もソグド系の姓になりますね。
しかも、何かを連想させる姓… そう、安史の乱w
史敬思は、李克用が黄巣を撃破したばかりのとき、朱全忠の「悪辣な」夜討を喰らい
ベロベロに酔っ払っている李克用を、身を挺して逃がした忠良の士ですな。
この「上源駅の夜襲」は演劇の題目にも有名だとか。
李存孝は反対に、最終的には李克用に叛しましたね。
その経緯は同じ李克用の義児である李存信との確執にあるわけですが、はるかに年上な(と予想される)
李存信と、李存孝とはいろいろあわないところがあり、両者の不仲が決定的な破局を導きました。
邢州に立て篭もった李存孝は、それでも野戦では李克用には遅れをとらなかった…
というより、李克用は勝てなかった。
城の周りに塹壕を作り、李存孝を封じようとすると、李存孝は軽騎をもって出陣し飛ぶようにそれを攻撃したので
包囲軍はどうすることもできなかったという。
で、結局、李克用は弁舌達者な者に、李存孝に「邪魔をするな」と言いくるめさせました。
言いくるめられるな、李存孝よw
この辺、戦場においては鬼神もこれを避く、という知略・勇猛ぶりも微塵も感じさせないお人よし感がでています。
痴呆とさえ疑ったほどですwww
結局、城中の食が尽きてどうしようもなくなった李存孝で
それを憐れに思った李克用の夫人である劉氏は、単身城中に赴き、降伏するよう説得しました。
李存孝はただ李存信憎しのためだけに叛したと言いましたが、
「我が名誉を損ない罪をきせたのも、李存信の仕業だとでも言うのか!」
と激怒して、晋陽に連れ帰って処断しようとしました。
本心では、誰かそれを止めてくれると期待していたのに、誰も止めてくれず、結局、処断は実行されてしまったのでした。
落胆した李克用は10日引き篭もり、ために晋の兵勢は著しく損なわれることになりました、と。
(あまりの激怒っぷりに、諸将も滅多なことを言うととばっちり受けそう、とか思っていたんじゃなかろうか)
>>623
>>潘美
自分もそう思います。
人間性や人格は曹彬のほうが上ですが、こと戦に関しては曹彬、それほどでもないんですよね。
625 ◆oOLAqFKRB. 2007/03/29(木) 00:23:43 ID:vPJ4/UlR0
>>624
郭言とか台濛とか挙げたの俺ですわ。でも十国からやと呉越の顧全武になる
かな。周本にも台濛にも勝っとる。
さて、五代は◆RQdk7scN8sさん、622さんに任せて、
俺は北宋、契丹(入る入らんは別として)の人物を書いたほうがいいやろか。
一応俺、宋が専門(知識は南宋の晩期に傾いとるんやけど)ってことになっとるし。
とりあえず嫌われキャラのこの人でも。
潘美(921-987。字は仲詢)
少年の頃から大志を抱き、度量があり、漢や周の政権交代時における乱世が
やってくれば功名を立て富貴を手にしてみせると吹いて回っていた。成人する
と後周の世宗の下で将校となり、しばしば戦功を立てる。
後周の頃から趙匡胤と仲がよく、陳橋の変で趙匡胤が皇帝となると僚佐たちに
趙匡胤のいいところを吹聴して信服しない連中を宣撫したのは彼の功による。そ
ういう間柄なので太宗・趙匡胤からも信任された。
湖南平定後、人心いまだ寧まらずという状況下で宣撫に派遣され、恩威両面の
政策をもってこれを定む。乾徳二年、徳裕・尹崇珂・張継勛らとともに郴州を陥
とし、南漢討伐の準備を固めた。
開宝三年、南漢の劉鋹が降伏勧告を拒絶、宋朝は兵を動かすことを決意、その
将校の中に当然、潘美の名もある。南漢軍は賀州に兵力を集中して迎撃の構えを
見せたが、潘美は萌諸嶺を越えて一気に賀州を陥とすという離れ業をやってのけ、
破竹の勢いで南漢の州郡を陥としまくって要地、韶州に迫る。
軍事的要地に迫られた南漢軍は急ぎ10万の兵を韶州に送るが、潘美の猛撃の
前に結局は大敗。潘美率いる北宋軍は俘虜、斬首あわせて数万という大戦果を上
げる。窮地に陥った劉鋹は開宝四年、宋に投降を願い出るものの、(南漢)朝廷
からの「よく戦うはすなわちこれと戦い、戦いてすなわち守るを勧めるあたわず。
守るはすなわちこれを諭して降すあたわず、降りてすなわち死すあたわず。死は
即ち死すあたわず、ここに五者、彼に接受得ずに非ず(物凄くテキトーな訳)。」
劉鋹は絶望したが潘美にはそれを相手にするヒマはなく。南漢の文臣蕭崔らを
開封に送り、自らは大軍をもって南進を続ける。劉鋹は弟・保興に使者を派遣
して宋軍に抵抗せよと命じたが、衆寡敵せず。潘美は士卒を鼓舞し、塹壕を抜け、
各所に設置された防馬柵を破壊し、広州百二十里を踏破した。宋朝は劉鋹の抗戦
姿勢に容赦をなくし、潘美に一気呵成で広州を攻めさせた。
南漢皇帝(王?)劉鋹は甘い考えで自分の失策を認めず、最終的に虎の子の兵士
15万を険阻な地に配備、宋軍を迎え撃つ姿勢を見せた。潘美は一旦兵士たちに
休憩を取らせ、その間に間諜から敵の情報を受け取る。南漢軍が竹木で作った陣営
を構築したと知るや潘美は大いに喜び、火計を仕掛ける。大いに燃える敵陣に潘美
以下宋軍は突撃、急撃して敵軍を大いに破る。ここで劉鋹を捕らえて開封に送り、
南漢は滅ぶ。この戦役で宋は六十州、二百十四県、十七万戸を獲た。
潘美は一連の功績で忠武軍節度使、韓国公に封ぜられたが、のち北漢との戦いに
敗れて官爵を剥奪された。しかしまもなく復権。没後武恵と謚され、鄭王を追贈された。
・・・采配ミスで楊業を死なせたヘボと同一人物とは思えません。まぁ独立した
伝で悪口ばっか書かれてる人もそうはおらんやろーけど。
626 ◆oOLAqFKRB. 2007/03/29(木) 00:44:27 ID:vPJ4/UlR0
「よく戦うはすなわちこれと戦い、戦いてすなわち守るを勧めるあたわず。
守るはすなわちこれを諭して降すあたわず、降りてすなわち死すあたわず。死は
即ち死すあたわず、ここに五者、彼に接受得ずに非ず」
これじゃ意味不明なんで、現代語訳します。
「名将はよく敵と戦い、突然へりくだったりしねーんだよ。守るんなら降伏
なんか考えずに戦い抜けやボケ。降っても守ってもどっちにしても死ぬんだ
からもっと必死になれバカ。お前なんかウチに出入りする資格もないわ!!」
大体こんな感じだと思う。
さて、そろそろ寝ますわ。そんじゃ。
627 ID:CpCEcV480 sage 2007/03/29(木) 03:38:03 ID:3RygpEsm0
◆oOLAqFKRBさんと◆RQdk7scN8sさんからのお返事キタ━━━(・∀・)━━━ッ!!!!!!
まあ長文云々はホント只の寝言ですからお気になさらずw
ぶっちゃけ◆oOLAqFKRBさんと◆RQdk7scN8sさんは勝手に盟友だと思っています(ry
(特に南北朝で過疎って時は三人で乗り切った感があるし)
御両人これからもヨロ!!
≫・・・采配ミスで楊業を死なせたヘボと同一人物
ホントそうですな楊業好きな者としては憤慨物ですわw
北宋、契丹は◆oOLAqFKRBさんにお任せしますが
よかったら五代からも推薦しちゃって下さい。
(自分の知識なんて大したことないですし、契丹、モンゴルなどは容認派ですから)
◆RQdk7scN8sさん自分は前スレから参加していますが
推薦文を挙げ始めたのは春秋戦国の選考からなんですよ。
628 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/29(木) 04:31:03 ID:dq8cE7YkO
>>625
細かいですが、
> そういう間柄なので太宗・趙匡胤からも信任された。
太宗だと趙匡義ですね。両陛下が草場の陰で哭いてますよ。
629 ID:CpCEcV480 sage 2007/03/29(木) 09:53:26 ID:3RygpEsm0
>>628
馴れ合いとかまた言われたら嫌なので一応言い訳w
確かに太宗・趙匡胤となってますが
これは只の打ち間違えか慌ててただけでは?
だから敢えてツッコミは入れませんでした。
細かいのは結構ですが>両陛下が草場の陰で哭いてますよ。
せめてwぐらい付けてあげてくださいよ。
その方がマイルドに聞こえますがいかがですかね?
630 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/29(木) 13:55:48 ID:8987gU1e0
>>622
後周の王景ですか。
まさに「銀河英雄伝説」のラグナロック作戦を彷彿させる、後周の遠大な戦略の一環を見事に担った人ですよね。
これは、自分が勝手に物語と沿わしているだけで、まんまそういうわけではないけど。
その時期、大規模な伐蜀軍を派遣した後周は、それ以外の軍事行動は当分起こさないだろうと思われた。
王景や向訓らは、秦州で後蜀の李廷珪や王環らに結構粘られて、戦線は一時膠着していた。
そこへ、趙匡胤を督戦に、韓通を援軍として送り
天下の耳目を集めた隙に、枢密使・李穀を大将にして、油断している南唐へ攻撃をしかけた。
前線防備を怠っていた南唐は、やすやすと淮河を越えられ、また禁軍大将の李重進の速攻で
南唐の劉彦貞は敗死した。
清流関に拠った皇甫暉は趙匡胤と一騎討ちするが敗れ、張永徳、韓令坤らによって
淮南は席巻された。あっという間だった。
その中で、一人寿州の劉仁贍だけが、柴栄の本隊を相手に譲らず(30万とかの攻撃軍を寿州に足止め)
雨季まで粘り、南唐の反撃の契機をつくった。
結局、寿州以外の土地で連戦連勝の柴栄も、劉仁贍にだけは勝てなかった。
寿州を取れたのは、劉仁贍が病に倒れたからだった(南唐の首脳部が非協力的だったため、がんばりすぎ)。
柴栄=ラインハルト、劉仁贍=ヤン で、おk。
以上、たわごとでした。
631 国 sage 2007/03/29(木) 17:08:21 ID:c9hQ6QdH0
しかし、この時代もハイレベルですねえ。
趙宋を建てた功労者の一人、呼延賛が
十傑候補にも入らないとは(T_T)
632 ◆RQdk7scN8s 2007/03/29(木) 17:15:21 ID:8987gU1e0
再び磔
五代~北宋・遼
【確定組】
李存勗、柴栄、趙匡胤、楊業、狄青、(李存審)、(耶律徳光)
【候補】
周徳威、郭崇韜、王彦章、郭言、楊師厚、劉鄩、康延孝、
任圜、李神福、臺濛、周本、孟堅、張彦卿、陸孟俊、劉仁贍、張武、
王環、趙季良、蘇章、潘崇徹、銭弘佐、顧全武、張元徽、李瓊
【候補落ち】
朱温(朱晃)、郭威、曹彬
【論争中】
耶律休哥
有力候補として雑感。
>>514の楊師厚。
>>618の史建瑭。
補欠(w)枠で、耶律徳光。
王彦章よりは周徳威を推したいが、北宋期が全然出てないないので、保留。
郭言も、戦績を見ると普通に入りそうだけど、有力藩鎮とは戦う前に戦没かぁ…
どう評価しようねぇ。
たまに言われるバランスを考慮するなら、ここは十国南方勢力の、最後まで生き残った呉越から
それの立ち上げ時期の将として、顧全武を入れるのもいいか。
とすると、顧全武の詳しい事績を調べる必要があるわけだ…
南漢は、荊南、湖南や、もはや弱小国に成り下がった江南(南唐)に比べ、勢力としてかっちりしていたので
それを降すのに功績のある潘美は評点高いでしょうね。
633 ID:CpCEcV480 sage 2007/03/29(木) 17:35:58 ID:3RygpEsm0
>>631
呼延賛も確かに名将なのですが何げにボスの趙匡胤(太祖)と楊業が化け物じみてますから…
(趙匡胤 大、大、大好き~w)
それに後梁、後唐、後周辺りに猛者揃い杉ですからね。
>>632
◆RQdk7scN8sさん乙です
自分も十国から誰を推そうか昨日から思案中です。
ところで霍彦威、王景は予選落ち?
634 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/29(木) 18:59:02 ID:0z5HJruS0
楊師厚
開平三年、叛逆した劉知俊を劉鄩とともに討つ。長安に至った時、既に城内には岐軍が
入っていた。楊師厚は近傍の南山に急行して西門から侵入し、守将の王建は驚愕して
降伏した。
同じ年に晋が晋州を攻めたため救援に向かう。蒙坑の険で迎撃する周徳威を撃破し
晋軍を撤退させる。
柏郷の大敗の後北面招討使となり、勝ちに乗じて黄河まで進撃してきた晋軍の迎撃に当たる。
包囲された邢・魏州を助けるため前進し、晋軍は魏州から退却。漳水を越えて追撃し
邢州の囲みを解いた。
晋が燕を攻めている隙をついて十万の大軍を率いて北上し趙に侵入する。鎮州を襲ったのち東方
に進み滄・徳州を降して還る。
翌年、幽州を征服した李存勗が王鎔・周徳威・李嗣昭とともに南進して邢州に侵攻。
楊師厚もまた邢州まで進んでこれを退けた。
翌年3月死去。
楊師厚は>>514ですでに出ていますが、自分もこの人物を推します。
いけいけ状態の当時の晋軍を3度も押し返したところが高ポイントかと。
635 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/29(木) 20:40:48 ID:eD1wgc/V0
ここの住人の皆様方の知識量は凄いですね。
ほんといつも勉強になります。
だれかまとめサイトとか作ってくれないかなあ。
636 ID:CpCEcV480 sage 2007/03/29(木) 22:52:46 ID:3RygpEsm0
>>617
「胡柳陂の戦い」で
>しかし周徳威は、なお速戦を戒めた。
>李存勗はそれを無視して~周徳威はこの乱戦の中戦死した
これって街亭の戦いの折り曹魏の歴戦の猛将、張儁乂が司馬懿を諫めたにも関わらず
追撃を命じられ討ち死にした話に合い通じるものを感じますね。
(演義の中では逆に張儁乂が司馬懿の制止を聞かず討ち死にした事になってます)
>>630
田中ヨッシーの「銀河英雄伝説」ラグナロック作戦に準えた話にデラワロスwww
>>634
楊師厚の支援㌧
後梁屈指の名将ですものね。
自分も一押しの武将です。
637 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/29(木) 23:02:07 ID:8987gU1e0
>>636
そういえば似てるかも。
まぁ、その張郃の戦死について、詳しくは知らないのだけど
あれは、相手が諸葛亮という不運だったのじゃないかと思っていたり。
諸葛亮は全中国史を通じても、抜群の統率力を誇っていますからねぇ。
そうおいそれと、追撃など許さないのじゃないかと…
胡柳陂は例えるなら、第四次川中島というところでしょう。
勝つには勝ったが、大事な臣を多く失っていた、というヤツ。
638 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/29(木) 23:10:20 ID:AQSbmDXX0
アレ?何時の間に曹彬が候補落ち?
639 ◆oOLAqFKRB. 2007/03/30(金) 00:37:36 ID:bNBcckBn0
顧全武
武粛王に従い常にその左右に侍った。董昌が叛き淮南の将・魏約と
ともに嘉興の将兵を囲んだとき、反乱軍の寨二つを陥として西陵に
還る。淮南の安仁義の軍が董昌に攻められると石城を腹し、董昌の
武将徐章をとらえ袁邠を降した。董章が嬰城で帝位を僭称して蘇州・
淮南を陥とすと、武粛王の命により賊討伐を命じられた。顧全武
曰く、「越州の賊、この根本は克ちて而して棄ておいても蘇を捨て置
けば越が復するにあり。時に昌の真将、兄子、驍勇善戦。全武これを
攻めて年を逾するあたわずなり」そして董昌の裨将・刺羽の隙をついて
これを殺し、そして昌の兵を破る。全武は董昌殺害に執念を燃やし、
この戦役において城を囲むと同時に伏兵を設け、自ら真っ先に城壁を
登って陣を陥とし、伏兵を発して逃亡する将兵を悉く捕らえた。
翌年、顧全武は海道から嘉興をの奪われた版図を修復し、淮南の
18営を確保した。淮南の将・魏約を松江で破り、無錫に連行する。
また沿岸を侵す海賊を蹴散らした。また蘇州を攻めて呉の名将
台濛・周本らを相手に向かう所敵なし。遂に蘇州を回復、崑山を
陥としてその将泰裴を降した。裴は崑山に拠して呉越軍を拒んだ
ものの、顧全武が万単位の兵を投入して崑山を囲み、しばしば
交戦したのち降伏した。武粛王は千人を選んで泰裴に与えたが泰裴
は頑として固辞し、百人で十分と進言、武粛王は怒り、「軍、弱く
かくの如し。何ぞ敢えてこれを拒むや」泰裴はこれを宥めすかし、
このとき居合わせた廷臣たちは揃って泰裴の長厚を褒め称えた。
天復元年、武粛王が呉王の宝を盗んだとの嫌疑により元老・
李神福が呉越に攻め寄せ、杭州を奪い取るも、顧全武が軍を八寨
に分けて神福と対抗する構えを見せる。形勢不利と見て撤退する
李神福は撤退するが、その退路を的確に読んだ顧全武の伏兵に
よって大打撃を蒙ったうえ、李神福自身が擒らえられる。顧全武
は彼を武粛王の前に引き出すが、泣いて訴える李神福の前に武粛
王はこれを国に帰す。はじめ徐綰は呉の後援を得ての自立を考え
たが、顧全武の存在ゆえに呉の後援が得られず、結局謀反を諦め
た。その後も顧全武は呉越・武粛王時代の重鎮として武功を挙げ、
自宅で平穏に没した。没年・享年ともに不明。
>>632で◆RQdk7scN8sさんが顧全武の事跡を・・・と仰ったので顧全武。
はっきりいって訳には自身ないですわ。ウチの十国春秋は影印版で写りが悪いうえ、
字が潰れてたりしてて読むのが一苦労。せめて句読点つけろや、と言いたくなるです。
>>628さん
おっしゃるとおり。趙匡胤は太祖ですな。頭ん中では太祖って打ったつもりなんやけど、
まぁここは言い訳すまい。完全に俺のミスです。すんません。
640 ◆oOLAqFKRB. 2007/03/30(金) 00:49:58 ID:bNBcckBn0
連投でもいっちょ。今日はこれで打ち止め。
楊延昭(958-1014)
幼い頃から寡黙で沈思黙考するタイプ。軍事教練を遊戯として育ち、
楊業が出征すると常に従軍して戦場の匂いをかいで育った。雍熙三年の
北伐で楊業が応州、朔州などを陥とすとき、先鋒を担った。ときに29歳。
決して早咲きではないが朔州城下で勇戦し、流れ矢に肘を貫かれたながら
も平然と戦闘を続け、ついに朔州を陥とした。父が死ぬと抗遼の将軍としての
重責を一身に担う。
咸平二年(999)秋、遼軍が南侵。七月の間に宋朝は間諜を使って鎮州、
定州、高陽関の各部署に命令を通達、8万の兵を動員して抗遼戦の準備を整える。
九月、遼兵二十万が国境を越える。辺境は危急を告げるが間諜は戦える戦力がない
と指摘、主戦論を唱える将校は一喝されて停止した。当時、延昭は沿岸沿いの要害・
遂城を守っていたが、城には武器も糧秣もほとんどなかった。遼軍は鎧袖一触、
楽勝で城を抜こうとして猛攻をかけ、蕭太后みずから督戦して意気あがるものの、
城内も三千の兵士と城中の青年・壮年が手に武器を取って遼軍を食い止めんと悲壮な
決意を固めこちらも士気は高い。遼軍は城を囲むこと数日、突然水がかぶぜられる。
延昭は民間の井戸からといわず酒造所からといわずすべての液体を城壁にぶちまけた
のであった。翌日、遂城は冰城と化し、城壁に上ることは不可能になる。
(三国志演義で曹操がやった砂山一夜城のもとネタ)
しかたなく撤退する遼軍に今度は延昭たちが反撃する。勢いに乗って襲撃し、遼軍は
武器や鎧を捨てて逃げ去った。この戦以後、遂城は畏敬を込めて“鉄遂城”と呼ばれる
ようになる。
遼軍は遂城で敗れたものの、今度は河北定州などの地を掠めとる。宋の真宗は同年12月、
詔を降して親政し、大名で軍馬、代え馬を調達し、遼軍を迎撃する。真宗は延昭が河北で戦い
功あったことを知り、呼びつけて辺事を訪ね、はなはだ賞賛して、「延昭の父楊業は前朝の名将、
而して延昭は兵を治めて辺境を護り、父の風あり。深く嘉すべし!!」言って厚く賞与を与え、
任地に戻らせた。翌年春、遼軍は北に去る。延昭は兵を率いてその後方を衝き、易水の北まで
追いかけてその殿軍を破った。
同年冬、遼の蕭太后は遂城の敗北で受けた恥を忘れず、報復作戦を進行すべく軽騎数千で
延昭の本体を襲った。延昭は遼軍の策謀を見抜き、遂城西北の羊山に伏兵を敷く。まず遼軍
を城攻に引き込み、しかるのちに少数の騎兵で城の北側から遼軍を攻撃、戦い且つまた退き、
羊山まで誘導して伏兵を発し、遼軍を殲滅して主将を斬った。真宗はその報せを喜んで延昭
を莫州団練使に任命した。「楊嗣および延昭、みな嫡系にあらざれど、よく忠勇をもって自らい
たす。朝廷の中に彼らを忌み妬むものとても多けれど、朕、力の限り庇護し、ようやくこの地位に
到達す」この報せが届いたとき延昭は辺境にあり、父と同じく不公正(そんなこともないと思うが)
な人事を断った。
景徳元年(1004)、詔により将軍・楊延昭の軍隊が加増されて一万人とされた。延昭は本来大いに
やりがいを感じるところだったが、この年“澶淵の盟”が結ばれて彼の抗遼の壮志も一旦落ち着く。
こののち顕職を歴任したのち、57歳で没。
延昭は知勇兼ね備え、用兵に優れ、下賜された賞与はすべて部下たちをねぎらって分け与えたが、
しかし公私を混同することはなかった。軍を治めるに号令厳命、士卒と甘苦をともにし、人を待つことを
苦と思わず、敵に遇っては士卒に先んじ、功があれば部下に譲った。それが楊家軍の楊家軍たるゆえんで
あり、余人が指揮して本来の強さを発揮できるものではない。河北の辺境を守ること二十余年、
遼人は“楊六郎”と呼んで彼を恐れた。
>>639
「自信ない」を「自身ない」って打ち間違え。ホント俺は誤字が多いな。
641 ○ sage 2007/03/30(金) 00:59:31 ID:TNMRJwdr0
>>637
おっしる通り孔明が追撃など許すはずがないと張儁乂が強く主張したにも関わらず
調子ぶっこいたアホ司馬懿がイケイケと無理矢理追撃を命じたんですよ…
(おかげで死んじゃった可愛そうな張儁乂さん)
確か第四次川中島って霧を抜けたら目の前、武田だ状態wじゃなかったでしたっけ?
でしゃあないから戦ったみたいなw
(別に状況違うだろって意味じゃないてすよ念の為)
>>630
曹彬については◆RQdk7scN8sさんが上の方で理由を述べてますよ
642 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/30(金) 02:01:01 ID:frRWcZHP0
いや、遼に負けてるもの判るけど
だからといって候補落ち確定になってしまったのか?
643 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/30(金) 02:03:21 ID:G+2zz9/60
候補から落ちたんじゃなくて確定から候補に格下げになったってことじゃない?
644 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/30(金) 11:29:57 ID:UfTnwbR6O
曹彬は用兵の巧みさだけだと、わりをくってしまっているからです。
諸将を束ね、皇帝の代理人として戦地に赴き、様々な対処を致す。
確かに名将だけども、このスレの主旨に反してると思われてます。
将としての純軍事的な功績と、用兵の巧みさをあらわす逸話があれば、書き込んでください。
645 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/30(金) 16:58:12 ID:boXD/C+e0
曹彬、あざなは国華。
後周太祖郭威の夫人である張貴妃の従弟。
ために、鎮州から京師に呼ばれ、柴栄の帳下に配属される。
柴栄が起つと、潼関監軍、上閣門使を歴任し、呉越への使者として立つ。
呉越からの贈り物を一切受け取らず、すべて上納したが柴栄は曹彬に返した。
曹彬はそれを兵士の遺族らに分け与えてしまった。
晋州兵馬都監として北漢への防備軍に赴任。
そのまま陳橋の変が起き、趙匡胤が起った。
曹彬は後周の縁戚ということで中立を望んだが、趙匡胤は曹彬と見知っており、
自ら平陽に出向いて、帰参を説いた。
客省司に任じられ(客省司とは武官の重職で、主に外交や接客を担当する)、王全斌、郭進らと計って
河東(北漢)の楽県を攻めた。
王超、侯覇栄等1800人(兵士もあわせて、だと思う)を下し、1000余人捕獲した(こっちは降伏兵ではなく捕虜だな)
そして、賊将(w北漢将のこと)蔚進が来援してくると、三度戦い、みな勝った。
宋の乾徳初年、左神武将軍(近衛)となり、北漢が契丹の助勢を得て6万の大軍を起こすと
李継勲(趙匡胤の義兄弟のひとり)と共に、晋州城下でこれを大いに破った。
その功績あって、枢密承旨を兼ねることになる(枢密院は軍部の作戦本部のような感じ。その属官)。
乾徳二年、王全斌を大将に、曹彬は都監として、宋は伐蜀を開始した。
王全斌は無類の快進撃を続けた。
王全斌はかつて、後周の秦・鳳奪還戦で、大将・王景、向訓らの麾下にあって、後蜀軍と戦った経験があった。
また、柴栄に従い、燕雲十六州奪回のための北伐でも、瓦橋関を抜くという手柄も上げている。
(後周のこの北伐は「一矢も失うことなく捷つ」と形容され、遼兵は武器を捨てて逃げ去るほど圧倒的な進撃ぶりだった)
さらに宋建国時、後周の臣たるの道を貫いた潞州節度使・李筠の乱で、これを鎮圧したいう、なかなかの武将ぶり。
その王全斌が後蜀軍相手に、20余の砦を奪い、味方との分進合撃により、相手の主力を撃破し
利州を抜き、剣門をおとし、後蜀将・王昭遠の裏をかいては前後挟撃して撃破した。
そうして王全斌が思うさまに武人としての本領を発揮している一方で、曹彬は手堅く各砦を道々降し
後蜀の領土を宋の色で染め上げていった。
王全斌は調子に乗りすぎ、占領した土地では乱暴狼藉の限りをつくし、自らも子女をさらうという逸脱ぶりだった。
ために、四川には反宋感情が根付き、また新領土政策でも失敗したので(これは朝廷が)、蜀という地域は
宋という国と一体とはなりえなかった(特に貨幣問題が大きく、四川には四川にだけ通用する貨幣を、そのまま採用するしかなかったのである)。
その中で曹彬だけが廉潔を保っていた。
翻って、李継勲とともに北漢討伐に従軍し、野戦でいくどか敵をやぶり、また趙匡胤が親征してくると
やはり戦場で勝利を挙げるものの、北漢を攻めきることはできず、契丹軍の襲来で敗北した。
そのあと、潘美を大将とする南漢討伐軍がおこされた。曹彬は従軍していない。
(つづく)
646 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/30(金) 16:58:58 ID:boXD/C+e0
(つづき)
翌年、江南攻めを開始した宋は(かなり無茶な理由で戦端を開いた。李煜カワイソス)
曹彬を昇州西南路行営都統として、潘美らを下に置き、進発させた(昇州は江南国の首都・金陵城のある州。首都州)。
その征旅の前、趙匡胤は曹彬に特に念入りに
「南方のことは一切お前に任せる。人々に暴虐を加えず、かつ威信を示し、おのずと我が軍に降るよう配慮せよ。急な進撃はならんぞ」
と言い含め、御剣を与えて、「お前の命に従わないものは、これで斬り捨てよ!」と言った。
この曹彬の起用は、軍事能力に秀でているというわけではなく、衆の統率と略奪を良としない清廉な人柄を買われてのことだった。
江陵を前進基地とした南征軍は、やがて金陵を包囲したが曹彬は容易に総攻撃をしかけなかった。
1年ほど包囲を続けるうちにも、趙匡胤は小心さながらに「おい、城中の人間を絶対に傷つけるなよ?いいな、わかっているな?」
と、何度も神経質に使者をよこしていた(趙匡胤さん… らぶりー)
と、突然曹彬は病と言って臥せってしまった。
血気にはやる軍中は、どうにか速戦を命じて欲しいのに、いきなり司令官が倒れたので驚いた。
見舞いに来た諸将に
「この病気は薬では治らない。お前たちが敵の城に入城したとき、誰も殺さないと誓うなら、この病気は治るのだ…」
と、言った。
諸将はそれを承諾して、香をたいて誓約したので、曹彬は突然元気になって「治ったぞ!」と言った(おい)。
金陵の城門をぶち破った宋軍は、曹彬の統率のもと整然と隊伍を整え入城した。
江南国主李煜は群臣とともにこれを出迎え降ったのだった。
むろん、略奪暴行は一切なく、四川のときのように民衆が暴動を起こすことはなかったという。
ただし、曹彬はこの征討では昇級することはなかった。
というのも、趙匡胤は
「まだ辺境には敵がいることでもあるし、お前を最高位につけたらもう働かなくなるのではないか?ここはひとまずおあづけにして、ちょっくら太原(北漢)を取ってきてくれんか?」
と言った(そりゃないぜ)。
さすがにしゅんとして帰路についた曹彬は、家に山積みの銭箱があるので驚いて言った。
「やはり出世より、銭もらったほうがよっぽどいいのぉ」
と喜んだという(漫才ですか、この二人は…)
しかし趙匡胤はこの翌年死去する。曹彬は枢密使に上がり、軍部の最高幹部となった。
そして、太宗が即位し、北漢への征討となり、遼との戦い、ということになりますね。
647 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/30(金) 17:28:23 ID:boXD/C+e0
>>640
お、楊延昭ですか。
実は、密かにねらっていたんですよ。
楊業よりは息子かな?とか。
>>影印版
ああ、そういえば自分も注文してたんですが、(8千円くらいだった)なかなか来なかったので、キャンセルしましたよ。
版画のような白文でしょ… 趣があっていいのだけど、読みにくいのは困りますよね。
>>642
ごめん、候補すらはずれたわけではなく、候補に落ちた、という意味です。
まぁ、一応、遼にボロ負けする前の事績を書いてみましたので、判断してみてください。
648 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/30(金) 18:02:54 ID:BIemegpYO
太宗時代に入ってから負けてる宋将大杉だとオモ
足利兄弟みたく趙兄弟、軍事と政治に才能別れすぎ
649 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/30(金) 22:31:39 ID:UfTnwbR6O
>>648
> 足利兄弟みたく趙兄弟、軍事と政治に才能別れすぎ
足利兄弟もそうなのですか??
頼朝、義経の兄弟以外もそんな感じだったん兄弟もいるんですね。
650 ○ sage 2007/03/30(金) 22:58:22 ID:TNMRJwdr0
>>645-646
紹介文を読むと曹彬って南北朝の于謹に近い状態にあるような気がしますね。
このスレでは重鎮とか戦略家な人物は敬遠される傾向にあり、
実際、南北朝の于謹、唐の李建成が落選していますね。
そうなると曹彬は落選確実?
>見舞いに来た諸将に
>「この病気は薬では治らない。お前たちが敵の城に入城したとき、誰も殺さないと誓うなら、この病気は治るのだ…」
と、言った。
これまた三国志演義の中で孔明が後主(劉禅)の放蕩ぶりを嘆き、
「この病気は後主が態度を改めてくれればこの病気は治るのです」
と、言ったシーンとたぶるのですが…
(これが元ネタなのかな?)
またまた寝言言ってみましたw
651 ○ sage 2007/03/30(金) 22:59:02 ID:TNMRJwdr0
>>648
>太宗時代に入ってから負けてる宋将大杉だとオモ
これは太祖が政権安定の為、古手の将軍連中を平和裡に引退に導いた為に
有力武将が根こそぎ居なくなったのが原因じゃないかと考えています。
後に節度使の欠員には文官を充てその権限を弱めていくこととなる。
(趙匡胤自身が宋州節度使であったし、節度使が大きすぎる権力を握り
各地に割拠して国が分裂するのを恐れていたんでしょう)
この文治政策が宋の基本路線となり真宗の頃には行き過ぎとなって
後にセン淵の盟を結ぶ遠因となったのでしょう。
その逆に足利尊氏は気前が良すぎて守護大名の力を弱めることが出来ず、
その為に守護大名の権力が大きくなり過ぎ
後に応仁の乱を引き起こす遠因とすらなった訳ですし…
652 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/30(金) 23:08:34 ID:frRWcZHP0
文治制作邁進してるときに遼とやり合う太宗って一体……
653 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/30(金) 23:25:16 ID:UfTnwbR6O
>>651
> 太祖が政権安定の為、古手の将軍連中を平和裡に引退に導いた為に
> 有力武将が根こそぎ居なくなったのが原因じゃないかと考えています。
その説が正しいのなら、洪武帝による粛清後の永楽帝が、
かなり善戦してる理由が不明です。
やはりトップの軍事的才能が影響するんじゃないかと考えます。
654 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/30(金) 23:28:36 ID:frRWcZHP0
燕王には燕王の子飼いの部下が居たじゃない
建文帝が善戦したら、そういう反証はできるけど
655 ○ sage 2007/03/30(金) 23:36:42 ID:TNMRJwdr0
>>649
異母弟の直義ですね
後は有能な高師直・師泰兄弟が補佐してますし。(趙晋・コウ準みたいな感じか?)
>>652
燕雲十六州の回復は太祖・大宗の悲願ですから…
>>653
文人優遇で優秀な人材はすべて進士をめざしどうしょうもないのが「軍人にでもなるか」
と、軍隊に入ったのも多いに関係有りかと
(ごく稀に例外な人物もいますが)
それに明代と宋代では事情か違うよ。
656 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/30(金) 23:40:49 ID:UfTnwbR6O
>>654
じゃ、楊業はたいした事ないんでしょうか?
太宗の時代にろくな武将がいないとは思えないのですが。
永楽帝の子飼いが水準を越えてるとは感じません。
もしそうであるなら太宗時代の武将すべて、名将候補から外してよろしいかと思います。
657 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/31(土) 00:10:02 ID:2/goJBJE0
>>652
強幹弱枝の政策と文治主義は、唐末五代に起こった武人政治へのアンチテーゼです。
節度使や禁衛に権限を与えすぎたために(与えすぎた背景は、楊国忠等の無責任が多大)
かつてない勢いで、良民や貧民層、はては賊徒の類が、政治権力を振るうに至ったわけです。
で、その権限が地方に分散しかつ、それぞれが強大であれば(軍事だけでなく、民政権・徴税権がありましたから)
相対的に皇帝の権力が低くなるわけです。
後唐明宗(李嗣源)、後晋高祖(石敬瑭)、後周太祖(郭威)と、代々受け継がれて
皇帝権力の回復を目指していましたが、郭威はともかく、先の二皇帝は、節度使や武人との間に軋轢を生んでいました。
ために、地方反乱は続発し、王朝が短命に終った次第です。
後周世宗の代に、激烈な禁衛改変が推し進められ、かつ皇帝が最前線で槍を振るって戦うという
類の少ない苛烈さをもって将兵の信望を皇帝に帰すことに、半ば成功していました。
この時点で、中原王朝は節度使の権限がやや低下しており、対して禁軍将の権限が増していました。
柴栄が存命なら、強固な中央集権が早期になったことでしょうが、早世してしまうので趙匡胤が引き継ぐわけです。
趙匡胤も節度使の権限は無視できませんでしたが、まずは自身が所属した禁衛の将軍から
兵権を取り上げました。
で、太宗の時代に節度使は実権を持たない名誉職となります。
で、ここで留意すべきは軍事権が個人に集中せず、分散させることによって恣意的に動かすことができない体制であり
その権限は皇帝のみとされたことでした。
つまり、文治主義は皇帝以外の臣に対してのみであり、国内で皇帝以上に軍事権を行使する存在があってはならなかったのでした。
もし、そんな事態が発生するなら、その国は終焉に近いことでしょう。
とにかく、初期の段階で、皇帝親征というのは宋のあるべき姿で、燕雲十六州の奪回は、後周世宗の頃からの悲願でもあり
また、長城以南の地というのは、古来からの中国王朝土地、という認識のもと政治的にも
他国に取られたままというわけにはいかないのでした。
思うに、宋朝弱卒というのは、そういった指揮権の分散にあると思われ、文人が統率したからだけ、というわけでもないと思います。
寇準が嫌がる真宗をむりやり親征させた背景は、そういうところでしょう。
>>656
楊業は、北宋に降る前のほうが、いろいろすごいですよね。
北宋に降ると、すぐに対遼戦線が始まってしまいましたから。
明のことは知らないので、政治背景を比較して検討してみてください。
658 ○ sage 2007/03/31(土) 00:17:59 ID:aFKe3hPS0
>>656
なぜそう言う理論になるのかさっぱりわかりませんがですが?w
誰も楊業などか愚将なんて言うつもりでレスしたわけではなく
五代と比べれば優秀な人材がめっきり少なくなってしまっていてるであろう
理由を自分なりに述べただけなんですけどね… 宋に名将が居ないなんて言ってませんが…
659 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/31(土) 00:25:48 ID:sQC1J0FV0
>>656
違ってたら失礼。遼将を入れるのに徹底反対してた方ですかね?
660 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/31(土) 00:46:55 ID:hLbEGSCv0
>>657
俺も馬鹿じゃないので、そのぐらいの流れは当然知ってる
けど、それを一番知ってる当事者である宋太宗は文治政策と中央集権の結果と
遼の軍事力を天秤に架けて、勝てる線で戦争をしなければならない
つまり孫子でいうところの「己を知り」という部分で見誤ったから敗北をした
そういう宋太宗を総大将に持って敗北した宋将が、いわば宋太宗に引きずられる形で
落選していくのはどうよ?って話
661 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/31(土) 00:48:34 ID:2/goJBJE0
>>658
いや、実際制度上、名将が世に現れにくくなってはいます… と思いますw
楊家や狄青は、いわば例外でしょう。
まぁ、それだけ五代という時代が、いかに武人マンセーな時代だったか、というところです。
662 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/31(土) 01:00:49 ID:2/goJBJE0
>>660
え?
質問の内容が変化したように思うのは気のせい?
宋太宗の、親征を判断ミスとした疑問のことから、そのせいで大敗を喫し、ために属した将も過少に評価されている
に変わったでよろしいか?
曹彬の落選は、彼個人に言うほどの戦績がないからです。
重鎮、優秀な統率者(何度も言いますが、名将とは本来そうあるべき)は、このスレ的に、一段下げて扱う傾向です。
耶律休哥による大敗は決定的であるというだけで、実際、用兵手腕を発揮したのは、王全斌とか潘美らになるわけですよ。
ただ、澶淵の盟以降は、本当に将というのを探すのがやっかいになりますので、
見つければ報告もしますが、今のところ不明というのが正直な話です。
663 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/31(土) 01:27:46 ID:sQC1J0FV0
>>662
脇から割り込んで申し訳ないが、hLbEGSCv0さんが言いたいのは、
文治政策と中央集権を進めすぎて、宋軍の弱体化を招き、遼に負けるようになった。
これは大局の判断を誤った太宗のミスで、遼と戦争するなら軍隊の維持を図るべきだったし、
逆に文治政策を進めるなら遼と戦争しないで和平するべきだった。
そういう状況を斟酌しないで、遼に負けているのを理由に曹彬ら宋将が
減点されてしまうのはいかがなものか、ということじゃないですかね?
>>652と>>660で発言の趣旨は変わってないんじゃないかと思いますが。
(hLbEGSCv0さん、違ってたらごめんなさい)
北宋時代、過度な文治政策のために名将が生まれにくかったという状況は、
西漢文帝が馮唐に「廉頗や李牧がいても使いこなせない」と言われたエピソードと通じるものがあるかも?
664 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/31(土) 01:28:03 ID:hLbEGSCv0
変わったじゃなくて、はじめからそういう意図で宋太宗を貶めていた
俺は曹彬の戦績が悪いとは思わないし、統率者がこのスレ的に一段下げる傾向にあるとも思わない
遼の敗戦における一番の原因は宋太宗にあるし、他の五代の連中も
主君に恵まれなくて負けてることはあるのに、彼だけ遼に負けたからでは割食ってる
665 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/31(土) 01:36:31 ID:a+k2XnjI0
諸葛良孔明!!
666 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/31(土) 09:12:57 ID:2/goJBJE0
>>664
>>663氏のレスで主旨は了解しました。
しかし、太宗趙匡義は、北漢に対しては勝ってるんですよ。
北漢は、あの柴栄すら潰走させ、また趙匡胤も敗退している。
太宗は潘美を遣わして、契丹の援軍をあらかじめ撃退させ、みずからは前線にたって督戦しました。
これで唐末五代にかけて不落の要害だった太原は陥落したわけです。
両二帝に為しえなかったことを為しえて、調子に乗っていたのはあるでしょうが
殿前司をはじめとする宋の中核部隊は近代無比とされ、とくに遼に対して遅れをとるほど質が悪かったわけではないのですよ。
(質が悪くなりだすのは、もう少し後の時代ですね)
ところで、高梁河の大敗は太宗のミスで間違いありませんが、曹彬が耶律休哥にボロ負けしたのは岐溝関の戦いです。
二度目となる幽州攻略戦は、曹彬を総大将、潘美を別将として分進合撃の態勢で望みました。
潘美が道々手柄を上げまくっていることに焦った、本隊の曹彬隊は、必要以上に勇んだのです。
曹彬個人は抑えようとしましたが、抑えきれなかったという。
涿州のまで一気に進軍した曹彬は、そこで補給線が届かなくなり、耶律休哥の少数騎兵に遊ばれてしまったわけです。
統率しきれなかった曹彬に責めがあるでしょう。
ただし、最終的な責任は、むろん皇帝である太宗に帰しますが、それを言うなら功績もそれを取り立てた主君に帰されるものでありましょう。
667 ○ sage 2007/03/31(土) 10:03:16 ID:aFKe3hPS0
>>664
別に曹彬は遼に負けたのだけが落選の理由ではなく
曹彬個人の武功で華々しいものがないから
他の連中より厳しいものがあるんじゃないのかなと思いますけどね…
それに統率者がこのスレ的に一段下げる傾向にあるのは事実なんだし、
実際南北朝の于謹、唐の李建成が落選しています。
その時に反論、異論はなかった筈ですが…
出来れば曹彬個人の武功で顕著なものが有れば示していただけませんかね?
>遼の敗戦における一番の原因は宋太宗にあるし
しかし太宗自身は対遼戦で足を引っ張るような事をしてますか?
例えは徳川慶喜のように自身が敵前逃亡した様に自軍の戦意を喪失させる様な事や対遼戦に消極的な態度を示したり、
してれば話はわかりますがそうではないですよね?
(徳川慶喜の話はあくまで一例ですよ)
668 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/31(土) 10:30:54 ID:EZc6xv770
>>659
一応答えておきます。違います。
もっとも、>656氏がその点についてはどのような意見なのか、は存じませんが。
669 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/31(土) 11:11:54 ID:5hE98XacO
私はですね、太宗の時代の負けが多いのは、
太祖の杯酒もて兵権を釈いたことが、原因ではないと言いたいだけです。
その後も王審キや石守信、高懐徳は従軍してますよね。
太宗が負けたら、兵権を取り上げたことを持ち出し、
北漢平定のときには、そのことに言及せず太宗の功績とする。
これで誰かを説得できるなら楽ですよ。
遼が強かっただけなのではないですか?
太宗以後も負け続けたのは、文治主義政策をしていたからだと思います。
ですが太祖の杯酒のエピソードは関係ないです。
670 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/31(土) 13:17:48 ID:2/goJBJE0
>>669
ええとですね。
太宗が北漢を降したことを書いたのは、太宗個人が特にいくさに弱いというわけではないと言いたかっただけです。
その一方で、先鋒としての潘美に、かなりの功績があります。
そのことはすでに言及していますし、曹彬より上、とはっきり書いています(自分じゃないけど)。
で、調子に乗って高梁河で耶律休哥の電撃戦に負けたのは、太宗の判断ミス(戦場だけでなく、戦略全体において)。
岐溝関の戦いでは、曹彬と潘美という二大柱に軍事執行権を与えて遠征させるが、
曹彬の進撃速度が異常に速いことを危惧した太宗は、伝令でもって止めようとしました。
曹彬はできず、ために耶律休哥に負けます(これは曹彬の責任でしょう)。
臣下の兵権を解いたことで(分散したことで)、宋軍が目に見えて弱くなったのは太宗以降の話です。
和平がなって皇帝が親征しなくなったんですから。
皇帝が親征しなければ、軍は指揮権が分散し、かつベテランがいないということもあり、命令系統の伝達に
いくらか遅れがでるのは必然です。
岐溝関の敗戦以降は、太宗は和平に傾きましたが、完全になるのは真宗の代ですね。
>>遼が強かっただけなのではないですか?
まったくそのとおりですね。
戦略的な敗北というのは、突き詰めれば国力・兵勢の強弱ですから、北宋は遼に比べたら、弱小国とさえ言えたでしょう当時では。
なんと言っても、遼はそのときが一番の最盛期だったのですから。
で、文治政策を推し進めたのは、趙匡胤ですよ。
太宗は継承し、より中央集権化させたというだけで。
強幹弱枝の政策で、地方藩鎮の軍事力を低下させ、禁衛を強化し、その最高司令官を都点検ではなく、皇帝のみとした。
軍閥を解体したのは、太宗の時代ですが、武より文に重きを置き、中央軍の強化を急いだのは趙匡胤。
石守信ら古参は中央からさり地方藩鎮へと転出し、かつその藩鎮もまた牙兵が抜かれ、力を弱められた。
ここからは想像ですが
地方藩鎮の強兵を中央軍に引き抜き、兵士の質の向上に成功はしたものの
古参の将個人の裁量により、部隊を動かしていた頃と違い、最前線での現場の直感的判断が、
やはり、古参を抜いたことで鈍くなった面はあると思います。
皇帝親征により、補いはついていましたが、崩れると速いのかもしれません。
671 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/31(土) 21:35:47 ID:O7SpbD8rO
曹彬の評価の是非はともかく、于ケンや李建成扱いはどうかと?
李存恭や李文忠ならわかるけど。
672 ○ sage 2007/03/31(土) 22:46:03 ID:aFKe3hPS0
>>671
于謹・李建成については上の方のレスを読んで貰えばわかるかと
(自分で探してみてね…)
673 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/31(土) 22:50:57 ID:Gs9clL4R0
<開国名将十選>
周:呂尚
秦:王翦
漢:韓信
晋:杜預
隋:楊素
唐:李靖
宋:曹彬
明:徐達
清:呉三桂
赤:朱徳
674 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/31(土) 23:35:11 ID:Gs9clL4R0
<亡国名将十選>
戦国:項梁
秦:章邯
漢:皇甫嵩
晋:桓温
六朝:侯景
隋:張須陀
唐:李克用
宋:張世傑
明:袁崇煥
清:李鴻章
675 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/01(日) 00:03:50 ID:0mbJih4N0
李建成って殆ど語られてないし、そもそも弟に史料抹消されてるから
最初から候補外だったろ。3スレ目にして>>351でポッと名前が出ただけ。
于謹は◆oOLAqFKRBの気分で上がって下げられた感じだが。
途中で周瑜に比されてたりするけど、当の周瑜は議論中だし
その理由は活躍期間という問題で将の将だからという問題ではない。
内政・戦略も出来る統率者の五胡十六国の王猛は確定入りしてるんだけどなー
676 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/01(日) 00:14:35 ID:hcLr56bQ0
長かった書類との格闘も今日で終わり。南宋からは普通に(8時ごろから)参加できそうです。
で、五代宋初は任せると言った手前、俺も北宋中期の名将探し、一応やっとったよ。
《宋史》より
289巻、高継勛、高瓊の長子。王均の乱を平定、蜀の人々から“神将”と称えられた。
高継宣、継勛の弟。并州で募った“清辺軍”を率いて西夏軍を退けた。
290巻、張玉、狄青の腹心
郭逵、狄青の腹心。のち大将として契丹、西夏と戦う。
300巻、杜杞、農民反乱に転戦、広西の区希范を討つ。
徐的、安化州の蛮族叛乱を平定、その後もさまざまな叛乱を平定した。
301巻、梅詢、河北を侵した契丹軍を督戦して撃退。楊瓊ら反逆者を誅殺した。
303巻、田京、兵法に通暁し李元昊の宋進を撃退した。
323巻、趙振、武力あり弓馬に優れ、智謀に優れ財を軽んじ義を尊んだ。対西夏戦で活躍。
馬懐徳、寡兵をもって西夏の軍を退け、逆撃して西夏の寨10余を陥とす。
向宝、神宗から“薛仁貴の再来”と称えられた驍将。
324巻、石普、性剛強にして胆略あり、頗る兵書に通じ、契丹、西夏との戦いに功を挙げた。
張亢、しばしば西夏と戦い、“虎翼軍”を率いて西夏軍を破った。
郭遵、向かうところ敵なしの驍将。愛馬が矢を受け倒れたところを殺された。
任福、一万八千人を率いて西夏に進軍、伏兵に遇い、力戦するも戦死した。
武英、任福麾下。伏兵の危険を危惧したが皆聞かず、伏兵の前に力戦するも戦死。
334巻、林広、しばしば西夏と戦って戦功あり。蛮族乞弟と戦いこれを破る。
335巻、チュウ師道、西夏の臧底城を破る。金軍の南進にも抗戦して一時これを退けた。
チュウ師中、師道の従弟。しばしば金軍を退けるも、寿陽の戦で金軍に囲まれ、戦死。
349巻、劉昌祚、西夏相手に寡をもって衆を破る。騎射に最も優れ、《射方》を著す。
姚兕、しばしば西夏と戦い向かう所敵なし。西夏の将・鬼章を擒らえる。
姚麟、兕の弟。兄と並んで“二姚”と呼ばれる名将。
劉舜卿、姚兕らの上官。兵書に親しみ、よく敵情を計り、守辺の名将と呼ばれる。
劉紹能、順寧、破羅川の戦いで西夏を破り、戦功一等。47年に渡って辺境を守る。
350巻、曲珍、はじめ郭逵の部下。西夏と戦い勝ったり負けたり。
郭成、財を軽んじ施しを好む。忠勇にして善く戦い、その威名は辺境に轟く。
賈嵓、一矢で西夏軍の大将を討ち取る。驍勇にして善く戦う当世の名将。
王恩、徽宗時代の将。伏兵をもって西夏の大軍を大破した。
趙隆、王韶の部下。西夏の将・鬼章を擒らえ、平夏川の戦いでは軍功一等。
353巻、張叔夜、宋江の乱を平定。金の南進を阻み将軍二人を斬る。
・・・こんなとこ。詳細に関しては明日まで待ってくだせぇ。今は仕事で目がチカチカしとるんです。眠いし。
677 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/01(日) 01:19:39 ID:OHmyUdqAO
そのクラスの将軍なんてどの時代にも幾らでもいるだろ
候補入りすら出来ないような武将はいらん
678 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/01(日) 01:25:54 ID:cjZBgJWe0
知らん人物を紹介してくれるのはありがたいが
詳細については十選に入るだろうというのを選んで書いてくれればいいんじゃない
679 ○ sage 2007/04/01(日) 02:58:26 ID:Yep9d0/00
>>677
まあモチツケw
なんか北宋って建国期と一部の例外を除き名将っていないような
印象を受けるのは自分だけか…
だから後年は女真族に頼った感は否めないし…
680 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/01(日) 04:13:13 ID:mZ52tYyA0
遼も推薦可能になったし、この時代であれば外すわけにはいかないこの人を推薦。
列伝を頑張って読んでみましたが、漢文訳は不慣れなので間違いあれば指摘お願いします。
耶律休哥(字は遜寧、938?~998)
若いころから公輔の器量があった。烏古、室韋二部の反乱で戦功をあげ、
応暦年間の末に惕隠(宗正にあたる職?)になった。
979年に宋太宗の北伐に際して、遼の蕭討古らが敗れて燕京で包囲され、
耶律休哥が救援の将に抜擢される。高梁河で宋軍に遭遇して、耶律斜軫と協力して
両側面から攻撃して破り、追撃して1万ほどの首級を得る。耶律休哥は3箇所負傷していて
騎乗できず、軽車を駆って太宗を追撃したが、捕らえることは出来なかった。
その年の冬報復で満城を攻めた際、宋軍が降伏を申し出てきたが、耶律休哥は
罠と見抜いて変事に備えるよう諫言した。主将の韓匡嗣は降伏を信用してしまって聞き入れず
計略にはまって大敗してしまったが、耶律休哥は手勢を率いて迎撃し、宋軍を引き上げさせた。
この功績で北院大王となった。
980年、景宗の親征で瓦橋関を包囲したとき、耶律休哥は宋の援軍に呼応して出撃してきた
守備軍の将を斬って撃退し、さらに騎馬隊の精鋭を率いて渡河して援軍も撃退した。
景宗から「皆が耶律休哥のようであれば何の心配も要らない」と誉めちぎられ、
馬と金杯を下賜されている。
聖宗が即位して承天太后の摂政体制になると、耶律休哥は南面軍の全権与えられて
指揮することになった。耶律休哥は兵卒と同じ生活をし、法律の整備・桑の生産の奨励・
防衛体制の整備をして辺境の治安を向上させた。
986年、宋の北伐があって潘美、楊業が雲州に、曹彬、米信が雄州・易州に進出し、
岐溝関や固安が陥落した。このとき耶律休哥の兵力は少なかったので正面から戦うことは避け、
夜間は軽騎兵を率いて孤立した部隊を攻撃し、昼間は精鋭を率いて奇襲し、宋軍を攪乱した。
また林や草原に伏兵を置いて糧道を断ったので、曹彬軍は撤退した。1ヶ月ほどして
再度曹彬軍が攻めてきたが、耶律休哥は軽装の部隊で宋軍に近づいて寝食の様子を伺い、
本隊を離れる少数の部隊を変幻自在に攻撃した。承天太后の率いる軍が到着して曹彬軍は
退却したが、耶律休哥に包囲され、曹彬・米信はわずかな側近と逃亡、宋軍は壊滅した。
耶律休哥はさらに追撃して、沙河の辺で駐屯していた宋軍数万を攻撃して撃ち破った。
このとき川が死体で埋まり、流れが堰き止められたという。功績により、宋国王に封じられた。
その秋、承天太后の南征にて、耶律休哥は先鋒となり、宋軍を望都で破った。
このとき宋将の劉廷讓が数万騎を率い、李敬源の軍と連携して燕の占領を狙っていた。
耶律休哥はその動きを察知し、要所に兵を配置しておいた。承天太后の軍が到着し、
宋軍を迎撃して李敬源を殺し、劉廷讓を敗走させた。
989年、宋の劉廷讓軍が攻撃してきた。遼将が皆恐れる中、耶律休哥は単独で精鋭を率いて
沙河の北で迎え撃ち、数万を殺傷し、宋軍の輜重を数え切れないほど鹵獲して献上した。
この功績により免拝不名の特権を与えられた。宋軍はこれ以降北伐を試みることはなかった。
宋では泣く子を黙らせるのに「耶律休哥が来るぞ!」と言うようになったという。
(原文だと「於越至矣!」でいまいち意味不明だったですけどこんな感じであってますかね?)
耶律休哥は燕の民が疲弊していたため、賦役を免除し、孤児や寡婦を援助し、
兵が宋の国境を越えないよう戒め、国境を北へ越えてきた馬や牛といえども全て送り返した。
998年に死去し、詔勅により南京に祠が建てられた。
敵の動きを読み、寡兵でも変幻自在に敵軍を攪乱・撃破しているあたり、やはり名将ですね。
武将としての能力だけでなく民政の面でも有能ですし、「百戦を経て無辜の民を殺したことは
一度もなかった。」と評されるあたりもポイント高いけど、このスレ的には評価対象外かな?
681 ○ sage 2007/04/01(日) 13:26:18 ID:Yep9d0/00
>>680
そうですねこのスレ的には人格面はあまり評価の対象になってませんね。
耶律斜軫は蔚州を攻め破り、宋の潘美の軍を破り、朔州に進んで、
宋の将の楊継業を捕らえてる。
耶律休哥は宋軍を瓦橋関と高梁河で破り、
太宗の親征を始め曹淋・米信・劉廷譲を破り燕雲十六州を確保、
しかし尹継倫に敗れているね。
うーんやはり耶律斜軫>耶律休哥になるのかな?
682 ○ sage 2007/04/01(日) 13:28:26 ID:Yep9d0/00
連投スマン
遼に対抗して西夏(夏)からも推薦しないとなw
李継遷(963~1004)
西夏の太祖、光孝皇帝と追尊された。チベット系タングート族拓跋部、銀州無定河の出身。李光儼の子。
李継捧の弟と言われているが族弟とする説もあり。
李徳明(太宗)の父、李元昊(景宗)の祖父
開宝七年(974)、宋の定難軍管内都知蕃落使に任ぜられる。
太平興国七年(982)、族兄の李継捧が夏・綏・銀・宥・静の五州を献じて
宋に内属し、開封に遷ると、
李継遷は夏州の東北三百里の地に移って自立。
宋に抵抗しつつタングート族を糾合して遼に臣従した。
宋に対して叛服を常にして、在地豪族と結んで勢力を蓄えた。
雍煕二年(985)、銀川を根拠地とし、定難軍留後を自称。
後に遼に対して臣を称し、義成公主の降嫁を受け、夏国王に封ぜられる。
タングート族の勢力を結集して、宋・遼に対抗、西夏の礎を築く。
淳化初年には宋に帰順、銀州観察使となり、趙保吉の姓名を賜るがまもなく叛く。
至道二年(996)に、宋軍を浦洛河に迎え撃ち、霊州を囲む。
翌三年(997)、宋の夏州刺史・定難軍節度使となる。
咸平五年(1002)には霊州を陥れて、西平府と改称、国都とする。
景徳元年(1004)、西涼府を攻めて、吐蕃(チベット)の首領、
潘羅支に襲撃を受けて矢に当たり没した。orz
683 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/01(日) 14:13:18 ID:ZrNR2d1m0
北宋中期、太宗以降の名将その一。
賈嵓(字は民瞻。神宗~哲宗期)
若くして騎射に精通、常々“大丈夫としてこの世に生まれたからには、
自ら奮戦し名を揚げたいものだ”と発言し、家出して放浪する。神宗の
武才選考の目に止まり武人となった。
林広の夷狄討伐に先鋒として従軍、西夏の軍を明堂川で破る。ほかにも
いろいろ功があって昇進。紹聖年間、西夏の軍が数万の大軍で麟州の
神堂寨を囲むと危急にあって賈嵓は数百騎を率い、“国家が安泰のとき
おまえたちに厚い禄を食ませて養育してきたのはまさに一旦このような時
のためである。今力敵わずといえども、私は死をもって国に報いんと誓う!!”
と宣言。100騎の兵はみな感動し、速攻で屈野河まで至り、そこから五里の
北欄坡嶺に登った。賈嵓は一箭のもとに敵の酋長を射殺して敵を潰走させる。
哲宗はその戦果を大いに嘉して恩賞を下賜し、威州刺史に任命した。
賈嵓は辺境にあること20年、知略ありよく士卒を御撫し、戦えば必ず
勝って当世の良将と称えられた。濠州団練使にまでなって52歳で没。
雄州防御使を追贈された。
・・・なんか短いけど中期~徽宗までの武官はほとんど全員2,3ページしか
割かれてないんでこんなもんです。いつもは長すぎるぐらい長いんやけどなー。
684 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/01(日) 14:29:39 ID:mZ52tYyA0
>>681
耶律休哥が尹継倫に敗れたあたりの記述がどこにあるのか探してるんですけどご存知でしょうか?
尹継倫列伝や宋史本紀には将の名前までは書いてないし、尹継倫が撃退した
989年7月の遼遠征について、遼史本紀では南征したって記述だけで誰が従軍してるかわからないですし、
耶律休哥の名前は989年6月の戦勝記録以降、逝去する998年まで出てこないんですよね・・・
耶律斜軫は列伝の記述量が耶律休哥に比べて激減するのと、
戦勝はしててもここがすごいっていうのがわかる記述がないんで、
セールスポイントは無理攻めさせられた楊業をラッキーで捕らえたくらいな気がしますが。
遼から入れるとしたら、太宗は確定として、耶律休哥・耶律斜軫はどちらか一人になりますかね。
685 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/01(日) 14:58:14 ID:ERvMR/+10
>>676
モツカレ。
探してみると、結構武官いるんですね…(つうか、よくみつけましたねw)
けど、やっぱ狄青が別格かなぁ。
話の腰を折ってすまんけど、北宋中期以降、武官としてどのあたりの使職についていれば
高位な方なんでしょう?
団練使や防御使って、五代では中堅クラスですもんね…
と、唐末~北宋初オンリーの自分が訊いてみる。
686 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/01(日) 15:01:10 ID:mZ52tYyA0
中国サイトで同じような企画やってるところを発見(既出だったら失礼)
三国志に異常に偏りすぎだろ!とか突っ込みどころもいっぱいありそうですけど(笑)
細かい説明や、選外になった候補の記述もあっていい感じ。
ttp://big5.hjsm.tom.com/gate/big5/html.hjsm.tom.com/html/book/8/784/875645941,4e01.htm
このスレでの選考結果もログと一緒に、こんな感じでまとめサイトになるといいですねぇ。
687 ○ sage 2007/04/01(日) 15:08:44 ID:Yep9d0/00
>>684
Webを見てたら
統和七年(989)、宋の尹継倫に敗れて、ひじに傷を負った。
と記載されてたので参考になればと思いカキコしてみました。
◆oOLAqFKRBさん
チュウ師道は南宋・金~元の候補枠に入ってますがチュウ師道は北宋、南宋のどちらの武将になるんですか?
チュウ師道について全く知識がないもので、よかったら詳しくお教えねがえませんか?
688 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/01(日) 15:15:22 ID:mZ52tYyA0
>>687
レスありがとうございます。
おそらくそのWeb、枕流亭の人物辞典ですよね。こちらも検索かけて見つけてたんですけど、いざ史書を読んでみると記述がなくて。
>>686のサイトの耶律休哥の評見てみると尹継倫に敗けて肘に負傷した記述があるんで、見落としてるのかもしれません。どこだろう・・・
689 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/01(日) 15:28:30 ID:ZrNR2d1m0
劉昌祚
父を定川の戦いで亡くす。蛮族の酋長のもとに赴きこれを論破、
ねぎらいの言葉と賞与を賜る。帰国後、対遼戦を想定した神宗の
武才選挙に合格して舎人となった。西夏が劉溝堡に攻め込むと騎兵
2000の増援軍を率いて出陣、黒山に伏せていた遼軍の伏兵1万と遭遇し
交戦、不利な戦況の中で劉昌祚は敵の大将を射殺し、遼軍を潰走させる。
劉溝堡の将帥李師中は劉昌祚の功績を褒めちぎって朝廷に報告、劉昌祚
はそれによって昇進する。
王中正に従って入蜀、羌族を討つ。元豊四年、涇原副都総管となる。
皇帝の西征軍に総管・姚麟とともに従軍、少数民族および漢民族あわせて
5万の兵を率いる。入境後、環慶の高遵裕がはぐれたのを寡兵で探しに
出て、胡盧川で西夏軍10万に出会い、敵が隘路で思うように動けないのを
見て取って突撃、1700人を斬る。敵の食糧を奪いそのまま鳴沙川まで
進軍、霊州に迫る。高遵裕が使者を遣わして劉昌祚の先走りを諌めるが、
劉昌祚は黙れと一喝、夕方、敵軍と交戦した。高遵裕が数千の援軍を送るも、
黎明には劉昌祚の軍が敵を退けていた。翌朝皇帝に謁見、霊州城を前にして
「ひたすら攻めりゃいいんです」と進言、高遵裕が「城を囲んで兵糧攻め
すべきです」と言ったものだから劉昌祚は怒りに怒り、上官である姚麟の
兵権を奪うという暴挙に出る。翌日、環慶軍と涇原軍が大喧嘩するという
一幕があったものの一応は兵糧攻めが採択され、18日が過ぎるも降すあたわず。
逆に追い詰められた西夏軍が決死の覚悟で出城、環慶軍を潰走させる。そこで
劉昌祚が出馬し、西夏軍を叩きのめした。これによりまた出世する。
翌年、永楽が陥とされ現地士卒の士気が奮わないということで各軍の武芸を
競わせ、優勝者に名馬を下賜した。また西夏が塞門、安遠門に攻め寄せると
反撃に出て彼らを打ち負かし、総帥・葉悖麻と咩吪埋の二将を殺した。この戦い
で永楽の士卒が活躍したので、皇上は大いに喜び、宦官を派遣して慰労した。
哲宗が即位するとさらにさまざまな官職を与えられるが割愛。士卒に弓兵と
2頃の土地を与え、騎兵隊で馬を喪ったものには新しい馬を支給した。隴山の
田地で万頃の収穫があり、その経済力を持って士卒5千人を募兵。これを指揮
統率して剽悍な部隊とする。西夏との戦いに生涯を捧げ、68歳で没。
開府儀同三司を追贈され毅粛と謚された。
>>685
宮崎市定全集「宋」からの引用で自分でも確証はもてんのやが、多分で。
節度使、承宣使、観察使、防御使、団練使、州刺史の順でいいと思うです。
節度使っつーても武官の実権なんぞほとんどないわけですが。
制置使とか都統制はまた別扱いみたいでして、同時に兼ねる武将も結構おったり。
>>687
チュウ師道は一応北宋でいいかと。ほぼ西夏との戦いで前線に立っとるし、
靖康の変以前に死んでる(多分死んでたはず)から。
でも張叔夜と並んで抗金の名将のはしりみたいな存在ではありますな。
690 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/01(日) 15:42:55 ID:ZrNR2d1m0
連投やけど書き忘れ。
劉昌祚は気力満々の雄偉な偉丈夫で、騎射にかけては当時天下一等、
百歩外れた的を外すことはなく、西夏の兵は彼の射術を神業と畏れたそうな。
著書に《射法》があるが現在散逸。
>>685さんの質問に答える形で言うとこの人は節度使にまでなってます。
>>687さんへ。范仲淹、韓琦、チュウ師道の三人は北宋の候補に入れたはずが俺の
ミスで南宋になってしまっただけです。チュウ師道はほぼ確実に北宋、ということで。
691 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/01(日) 15:43:35 ID:ERvMR/+10
>>688
《続資治通鑑》の、『宋紀十五』(遼統和七年…)、六月末にそれらしい記事がありました。
>>休格食未竟,棄匕箸走,爲短兵中其臂,創甚,乘善馬選遁。
休格? 休哥でしょうね(自分のはちょっとアレなヤツですんで…)
ちなみに、尹繼倫がらみと思います。
692 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/01(日) 15:47:43 ID:ERvMR/+10
>>690
>>節度使、承宣使、観察使、防御使、団練使、州刺史
なるほど、またちょっとその辺の資料探してみようかな。
>>百歩外れた的を外すことはなく、西夏の兵は彼の射術を神業と畏れたそうな。
李克用伝説とまんま同じですね、ソレ。
韃靼が西夏になっただけという。
693 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/01(日) 16:21:53 ID:mZ52tYyA0
>>691
おお、ありがとうございます。
続資治通鑑をネットで読めるところ発見して該当部を確認しました。(いい時代になったなあ・・・)
宋史や遼史に記述がないのは、元が編纂したんで遼よりの記述だったってことなんですかね。
逆に清代に編纂された続資治通鑑だと、宋よりに捏造してないかとか疑いたくなったりしますが(笑)
休格と休哥両方で検索かけてみると、一応両方あってるみたいですね。
細かく見れてないですが、宋朝は休格と呼んでいたってことのようです。
694 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/01(日) 16:38:20 ID:ERvMR/+10
>>690
あ、そうだ。
チュウ師中の「ちゅう」は种を使ってみてください。
変換できるはずです。
>>693
耶律休格… ま、たしかにそれで記述されているわけですが
いまいちパッとしないイメージが。
ともかく、謎が解けてよかったですね。
695 ○ sage 2007/04/01(日) 19:20:08 ID:Yep9d0/00
>>689ー690
◆oOLAqFKRBさん ㌧です何度もお手間かけさせて申し訳ないです。
种師中の紹介文(?)是非お願いしたいですね。
張叔夜は済州太守か知州の文官(?)なのに
なんか宋江戦では見事な戦術を披露したみたいですね。
あと抗金戦で悲運の死を遂げた人物なんですね。
范仲淹は文官・詩人のイメージが強いので自分的には意外です。
韓世忠は金の宗弼率いる10万の大軍を相手に,わずか8000の手勢で退路に潜み追撃し打ち破ったり、
文武兼備の妻の梁紅玉ともに戦場を駆け巡ったこと人物ですね。
主に活躍したのが南宋期だし、岳飛・張俊と共に抗金の名将として有名ですし、
韓世忠は南宋でいいんじゃないですかね?ダメ?
ここでまたいつもの寝言w
韓世忠は奥さんと一緒に戦場を駆け巡ったとこなんて
北魏の楊大眼と妻の潘氏が駄ぶるのですが…
696 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/01(日) 20:44:23 ID:ERvMR/+10
种師道
&は&(半角のアンド)で討って…
ところで、南宋行ってますが、五代・北宋・遼の確定をどうしましょう。
そういえばうやむやになったけど、曹彬の件、なんか鮮烈な戦勝報告でもないもんかな。
高懐徳とかどうなんだろう。
オヤジの高行周は対契丹戦で勇名を馳せた、ガチの名将ではありますが(10人には入らんでしょうが)。
697 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/01(日) 20:58:50 ID:5sYk0nXe0
>>695
奥さんとセットでなんぼって感じだからなあ
さすがに10人には入れにくいような
698 ○ sage 2007/04/01(日) 21:54:18 ID:Yep9d0/00
>>696
>&は&(半角のアンド)で討って…
すいません◆RQdk7scN8sさん 种師道これでおK?
>ところで、南宋行ってますが、五代・北宋・遼の確定をどうしましょう。
これまたすいません(;^_^"
決してそんなつもりじゃかったんですけど、流れ変えちゃった?
推薦が落ち着いたら確定の方を決めていく方向でいいんじゃないですかね?
(西夏も仲間に入れてあげて下さい…)
699 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/01(日) 22:04:12 ID:IbwTPFXu0
今种師道の訳を進めてる最中ですので、五代~北宋はいま少し待っていただけると助かりますが。
ちなみに韓世忠、この人自分に拝礼しない部下(呼延通って言うんやけど)に
キレて徹底的にシカトしまくり、自殺に追い込んだ恐るべき男、というイメージ
が強くてどうしても好きになれん。まぁ、このスレでは関係ないのか。
700 転載 sage 2007/04/01(日) 22:31:47 ID:inohJBGt0
>217(北宋時代の軍事費も相当なものだったでしょうな)
相当どころの話ではない。宋はその国初から兵農一致の国民皆兵制を断念し、
傭兵による常備軍を保持していたため、軍事費は財政全体の8~9割を占めた。
人民は兵役を免れたものの、労役は依然として存在したし、
軍事費は主に塩税で調達されたから、結局は別の形で生活を圧迫された訳だ。
王安石が唐代の徴兵制へ回帰をはかったのも、かかる事情が背景に存したためだ。
王安石の兵農一致政策(保甲法という)は、財政面から言えば一応の成功をみた。
なにせ保甲法による軍隊の維持コストは、従来の十分の一程度の試算だったからだ。
実際はそこまで計算どおりには行かなかったにせよ、歳出削減の効果は劇的だった。
ただし、兵制改革のもう一つの重要な目的である軍隊の精鋭化は達成できなかった。
王安石は、軍隊の弱体化は傭兵の士気の低さに原因があるのだから、
外敵から自らの生活を守るという確固たる目的を有した民衆を徴兵することで
士気の高い軍隊を作ろう───と、考えたわけだが、実際そう単純なものではない。
王安石は民衆の国防意識を過大に見積もっていたのだな。
民衆にとっては、いかに農閑期とはいえ、一銭にもならぬ軍事教練などに
駆り出されるのは迷惑であろうし、また、戦争は農閑期を狙って起きるものではない。
加えて、兵士は卑しい身分であり、軍隊はやくざ者の集まりである───という、
中国独特の卑武精神もある。そうした気風は何も士大夫だけが持つものではない。
であるから、巨大な軍隊を抱えつつも、外交で平和を模索するという宋の国家観は、
実情を反映した合理的な考え方であったのだ。宋は弱腰で腑抜けた時代であると
揶揄する者も多いが、近世東アジアの超大国として、それが最も妥当なあり方だった。
最終更新:2007年07月15日 17:29