701 転載 sage 2007/04/01(日) 22:34:28 ID:inohJBGt0
↑の見解はなりきり(太陽板)の「蔡京 ◆GtkPmKwSp2」氏のもの。
実に面白い。
一応、このスレの住人にも紹介しときたい。


702 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/01(日) 23:01:51 ID:IbwTPFXu0
狆師道
 子供の頃は張戴(知らんけど、多分学者)に学び、試法(科挙)に及第、
熙州の官に推され同谷知県を兼任する。同谷県では田産訴訟が二年にわたって
未判決のままであり、狆師道もこれをおしつけられて難儀したらしい。
 文官時代にもいろいろあるが、とりあえずはしょる。なんか蔡京やら童貫
やらに気に入られず不遇だった模様。でも皇帝からは気に入られた。それがまた
奸臣たちには気に入らんかった様子で、西安州の知事とされる(実質的な左遷)。
 西夏が定辺を侵し、仏口城を築城すると狆師道は兵を率いて仏口城を破壊。
兵士たちが喉の渇きを訴えると山の西麓を指し、「水はここにある」といって
井戸を掘らせ、潤沢な水脈を確保した。またいらんこと昇進するが割愛。各路
の兵士たちを督して席葦平に築城、敵が到来すると葫蘆河に退き、川辺に布陣、
戦況を見守る。夜中、偏将の曲充を小道から横嶺に出し、大声で援軍到来を
叫ばせる。敵が驚いて背後を見ると楊可世が後方から敵軍を襲い、さらに姚平仲
が精兵を率いて進撃する。狆師道軍は算を乱した敵を大敗させ、斬首50級を
挙げ、牛、馬、駱駝などの家畜たち数万を獲る。敵の酋長はわずかな供を連れて
逃げ去ったが、自分の城に還ったところで死んだ。
 また陝西、河東七路の兵を率いて臧底城を攻め、十日でこれを降せと命ぜられた。
城に近付くと頑強な抵抗を受け、敵の士気の高さが知れる。対するに官軍は怠惰で
将校の中には勝手に休息するものもいる始末。狆師道はそういう輩を斬り捨て、
軍門にさらして「今日この城を抜けなければこうなるぞ」と言って綱紀粛正。
士卒は恐怖にせきたてられてわれ先に城に登り、瞬く間に城を落とした。
八日目のことだった。皇帝に報告するとまたも昇進。割愛。
 都統制、保静軍節度使となった童貫は、燕回復の謀を立てる。狆師道以下の
諸将はいかにも嫌がり、狆師道が代表して「それは盗人のやることだ」と反駁、
しかし童貫はそれを黙殺して白溝まで出陣、遼軍に察知されて宋軍は多大な
損害を蒙る。狆師道が自ら身を挺して兵士たちを収容したおかげで大敗には
いたらずに済んだ。
 遼からの使者が女真族挟撃をもちかける。童貫が返答する前に狆師道が
「そう言うやり方は義にもとります」と諌めたのだが童貫はこれをまた無視、
狆師道の官位を落とし、代わりに劉延慶を起用した。劉延慶は盧溝で大敗、
帝は「やっぱり狆師道じゃのう」とか言ったが実権を蔡京、童貫に握られて
いるのでなにも出来なかった。ちなみに貶められた狆師道の官職は憲州刺史、
環州知事、保静軍節度使で、案外高位なままだったりする。文官だからか。
 金軍が南下すると朝廷は大慌てで狆師道を呼び、たっぷり官職を授けてから
金と戦ってくれと懇願、狆師道は姚平仲とその麾下7000騎を率いて出陣、洛陽
にいたり、京城に向かうオリブに対峙する。朝廷に「敵の勢い盛ん、今しばらく
汜水に駐屯するのが万全の計かと」と呼びかけつつ、部下たちには「我らは寡兵
といえどもだからといって遅疑し進まぬことのないように。事情がばれれば一気に
やられるのだ。鼓を撃って前進し、きゃつめらに我らの虚実を見抜かせないよう
にするのが重要なのだ。京城の人、我らを見れば自然と意気振るう。なんぞ
敵人を憂慮することがあろう!!」とアジる。彼は行く先々でビラをまき、
种少保危急と知った人々が集まって100万の大軍となる。汴京に至り汴水の南に
兵を進め、敵の陣営に兵力を直撃させると、金軍は大いに恐れ、戦わずして
北に還った。
 当時狆師道といえば“种老”と呼ばれるほどの有名人となり、欽宗皇帝もよく
その意見を聞くようになった。欽宗曰く、「今ウチの国ってヤバくない?」
狆師道「女真族なんぞ兵法を知らんイノシシばかりでござる。孤軍他国を侵略
するほどのことは出来申さん」と頼りがいのある返事。欽宗「講和したんよ」
狆師道「軍旅のことは私めにお任せを。しかし講和はまずかったですな」という
ほのぼのトーク。ちなみにこの間も狆師道はまたまた出世したんやが、それより
副官の姚平仲が都統制に出世したのが大きい。



703 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/01(日) 23:02:45 ID:ERvMR/+10
>>700
転載にレスするのもなんだけど

>>軍隊の精鋭化
後周の世宗柴栄が、禁軍の改変を大々的に行ったことは有名なことでした。
当時、中原の王朝というのは、後唐から後周に至るまで、同一勢力からの派生ということで
皇帝直属の親軍たる、近衛がほとんど入れ替えられることがなかった。
しかも、後唐荘宗李存勗の親軍というのは、かの楊師厚が編成した銀槍隊であり、
銀槍隊は、楊師厚という節度使の牙軍(節度使に密接に関係した兵)であったので
傭兵的性格を色濃く持っていた。

それは、給金をしぶると不満を抱き、厚遇すればつけあがるという、とんでもないものだった。
しかしその武力に頼らなければ、いくさにも勝てないし、皇帝権力の維持も難しい時代だった。
後唐明宗が、侍衛親軍を創設して、一旦分散はしたものの
後晋、後漢と、侍衛親軍に属する将兵に、大きな異動はなく
良く言えば古強者、悪く言えば老弱兵が多数在籍していた。

後周太祖郭威はそれを慮って、新たに殿前軍を創設するも、改変する前に死去。
後周世宗柴栄は、即位直後の「高平の戦い」において、この不安定な殿前軍と老兵およびつけあがりの侍衛軍を
率いて戦わねばならなかった。

侍衛親軍の馬軍と歩軍の指揮使(大将)が、北漢の猛将張元徽の攻撃にビビり、敵前逃亡を図ったため
後周軍右翼は潰走。
柴栄は中軍本隊の先頭に踊り出て自ら敵兵を切り伏せることで士気を保持させ
張永徳、趙匡胤に命じて、敵の中央突破を成功させた。

北漢には野戦で勝利したものの、太原攻めには失敗し(自身の判断ミスで)、大敗してしまったが
それを置いても、敵前逃亡した将兵に腹立ちと改変の必要性を痛感した。
侍衛親軍に属する老兵はすべて解雇され、新たに募った壮丁をもって補充し
殿前軍には趙匡胤に特別審査を行わせ、武芸に秀でた者を登用していった。
これによって、禁衛軍の総兵力は減少したものの、近代無比と言われる後周禁軍が誕生した。

と、何が言いたいかというと、柴栄の言葉にある
「およそ軍隊というものは、数が多ければよいというわけではなく、その質こそ肝要。今、農家百人で一人の兵を養うありさまだ」
ということで、北宋もいつの間にか、そういった根幹を忘れて、軍隊を肥大化させてしまったのだろうか。
ま、建国期と統一状態が何年か続いたときとでは、比較にはできないけどね。

これはチラ裏だけど、一応、柴栄確定の根拠の一つとしてトリビアにでもしてもらえれば幸いです。



704 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/01(日) 23:03:34 ID:IbwTPFXu0
狆師道の2
 ときに狆師道、病を得て、皇帝から拝謁の礼をとる必要なしと赦される。堅物の
狆師道は腰が曲がらんなら膝をついて拝謁しようとしたが、欽宗は笑ってそれも
必要なしと説く。この時期すべての門が閉ざされ、市に新しい野菜が入ることもなし。
狆師道は皇帝に請うて西と南の両門だけを開くよう頼んだ。
 金に馬忠という偏将があり、彼の前軍隊が遮ったという罪で6人ほど斬る殺人嗜好者だった。
これに恐れをなした士卒たちが南に流れ、狆師道に附く。彼らは自分勝手な規範を作り再び金と
宋との境界線を越えようとしたので、狆師道は金を支払って彼らを郷里に帰した。黄河を扼守す
るために彼らを使おうと言う意見も出たが、狆師道はそれを黙殺した。
 种氏、姚氏はともに山西の大族姚平仲の父姚古は熙河軍に入援した。姚平仲は
功名を独占するわけには行かないと父を帰したが、この頃になると士卒が速戦
に向かず命令系統が途中で途絶えるなどの不都合が出るほどの増加傾向にあった。
李綱はそれについての議上で、城下の兵が命令を聞くようになるまで姚平仲の
節度下に置けば宜しいと述べた。欽宗は毎日人を派遣して狆師道に作戦を諮問し、
狆師道は弟の狆師中と兵を分かっての分撃作戦が可能であると上奏。8日後、
金の軍営に襲撃をかけた狆師中はみごとに敗北した。敗戦後、李邦彦に軍権の
3割を奪われたが、狆師道は紛争の種になるとしてなにもいわなかった。
 金軍が退いたのち、御史中丞の許翰が狆師道の軍権を解くよう欽宗に上奏した。
理由としては「狆公は老年であり、これ以上の任に堪えられるとは思えない。
陛下は彼を信任しすぎている」とのこと。実際は狆師道と欽宗が太いパイプで
繋がっているのが気に入らないだけなわけだが。狆師道が黙っていると許翰は
嵩にかかって、「国家危急のときに書生なんぞにまかせられぬ」とか言った。
狆師道の反論「彼は少なく我は多く、分担して結営すれば要地を守ることは
たやすい。彼の糧道を截ち持久戦に持ち込めば、必ず勝てるのです」許翰は
狆師道に心酔し、狆師道は老年と言えど往年の智謀衰えず、なお用うべきと
上奏したほどの変わり身を見せる。狆師道、太尉に。
 金兵再来に際し、狆師道は各地の軍を召集、大敵を捕退すべく出陣するも、
まもなく狆師中が戦死、姚古が敗北し、朝廷は震撼、狆師道に軍を還すよう
要請する。太原が陥とされ、とりもどすべく彼は進軍を決意する。金軍が一挙
攻め寄せてくることを警戒しつつ各個撃破、欽宗より下賜された鉾を振りかざし、
長安までを回復する。大臣たちの怯えるさまに仕方なく京師に軍を還す。京師に
たどりついたところで逝去。76歳であった。欽宗は彼を喪い大いに慟哭したと言う。
 京城の守りは喪われ、皇帝の胸に穴が開く。「狆師道の謀を用いず、どうやって
たたかえというのか!!」そしてその後、靖康の難が起こり徽宗、欽層は北に連れ
去られる。狆師道は建炎年間、少保を追贈され、忠憲と謚された。
 チュウの字が変換できなかったので狆の字で代用。すんません。


705 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/01(日) 23:28:54 ID:ERvMR/+10
>>チュウの字が変換できなかったので狆の字で代用

サブでみたら「・」になってる。
メインでは楽勝で見えているのに。
チュウは簡体字にもあって、それは「種」に対応しているんですけど、これでは漢字が違いますよねぇ。
となると、洺州(めいしゅう・シ名州)もだめか?


706 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/01(日) 23:50:08 ID:IbwTPFXu0
そーなんです。変換できんのですよ。ところどころ“・”になっとるし。
それはさておき、
狆師道も挙げたし、ここいらで五代~北宋の最終選考に移りたいのですがよろしいか?
【確定組】
 李存勗、柴栄、趙匡胤、楊業、狄青、(李存審)、(耶律徳光)
【候補】
 周徳威、郭崇韜、王彦章、郭言、楊師厚、劉鄩、康延孝、
 任圜、李神福、臺濛、周本、孟堅、張彦卿、陸孟俊、劉仁贍、張武、
 王環、趙季良、蘇章、潘崇徹、銭弘佐、顧全武、張元徽、李瓊
 耶律休哥、狆師道、劉昌祚、李継遷、賈嵓、潘美、楊延昭、顧全武
 楊師厚、史建瑭、王景、康壊貞、劉鄩

【候補落ち】
 朱温(朱晃)、郭威、曹彬

 過去最大の候補数。なんといっても魔の定義論含め300レス近くこの時代で
続いたけんね。あと、十国からは顧全武と劉仁贍の二人ぐらいでいいかもと
思うが、いかがか?


707 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/01(日) 23:52:57 ID:IbwTPFXu0
あ、楊師厚と劉鄩、すでに挙がっとったね。重複してしまった。すんません。


708 ○ sage 2007/04/01(日) 23:58:04 ID:Yep9d0/00
>>702>>704
◆oOLAqFKRBさん 乙です
>奸臣たちには気に入らんかった様子で、西安州の知事とされる(実質的な左遷)。
まあ北宋って左遷とか日常茶飯事なんですよね。
新法派・旧法派なんて互いに足の引っ張り合いしてたぐらいですし、
名前はちょっと思いだせないんですがw
最終的に海南島に左遷された後、朝廷に復帰した人物とかいるぐらいですし…

またまた何時もの寝言言ってみましたw


締切もう一日待ってもらってもいいてすか?
郭崇韜の推薦文を挙げたいのですが今日はもう寝たいです。
ダメなら諦めますが…


709 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/02(月) 00:09:58 ID:3SOpQK0D0
勿論OK。つーか俺が決めることじゃないし。
みんなで納得して決めんと、
後々(俺はこいつを挙げるつもりやったぁぁ!! ならば俺はこいつをー!!)みたいな確執が怖いしね。



710 ○ sage 2007/04/02(月) 22:13:03 ID:BY7tkA820
郭崇韜(?-926年)
代州雁門の人。字は安時。己を郭子儀の後裔だと自称した。
李克用、李存勗(荘宗)父子に仕えて中門使に至る。
李存勗が皇帝となり後唐を建国した際には、兵部尚書・枢密使とされ重用される。
後梁を滅ぼすと、論功第一に挙げられ、侍中・成徳軍節度使となる。
郭崇韜の位は人臣を極め、権勢を奪われるのを恐れて魏国夫人劉氏を皇后に立てるよう密奏し、
また「時務利害二十五条」を説いて、宦官を排斥。
後唐建国から三年後の同光三年(925)に
なかなか飛躍の機会が得られなかった宦官勢力に、絶好のチャンスが到来。
(おいおいw)
この年に王衍が割拠する前蜀政権の併合を企図した荘宗は、
太子の魏王李継岌を名目上の総大将として、
実際の指揮を郭崇韜に執らせ遠征軍を派遣。
この前蜀攻めで郭崇韜は東北面行営都招討使を勤めた。
前蜀は後継者争いのために国力が低下、遠征軍は一戦しただけで王衍を降伏させることに成功。

前蜀攻めは領土拡大と同時に
後唐は荘宗が浪費家だったこともあって財政面が苦しく、
豊な四川地方を併合し、財政の回復をさせる第二の目的を含んでいた。
王衍の降伏後に荘宗は、成都からの戦利品を心待ちにしていたが、王衍降伏後の戦後処理に
手間取った郭崇韜は遅々として戦利品を送ることができなかった。
荘宗は期待を裏切られたと苛立ちを見せ始めた。
この事態をチャンスとばかりに宦官勢力は行動を開始。
(全く宦官って奴は悪知恵だけは働くよな)
李継岌にも猜疑を受け、同時に恨みを持っていた宦官達に誣告された。
それを信じた荘宗は激怒し宦官の馬彦珪を蜀に遣わして郭崇韜・廷晦の父子を成都で処刑させた。
(ひでぇ完全に冤罪じゃん)
郭崇韜は政戦両略と王佐の才ありといわれ、郭子儀の再来と評され、
郭崇韜は李克用・李存勗(荘宗)の二代に仕え、後唐建国時に
「第一の功臣」と評されるほどの功績を挙げた彼を推薦。

東はオルドスから西は敦煌まで領土を拡大、
宋軍に勝利し、賀蘭山で遼に勝って、宋・遼・西夏の鼎立の形勢をつくった、
西夏の李元昊も推薦します。

これで自分は推薦打ち止めです。
昨日は流れ止めてごめんなさい。


711 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/03(火) 03:12:00 ID:P41V3Neb0
お、郭崇韜ですか。
○さん乙です。

さて、けちでもつけるかw(いや、冗談です)
軍政官としての力量になんの疑問もない人ですが、急速な領土拡大(河東から華北政権へと)
となる過程ということもあるでしょうが、結構蓄財に余念がなかったような面があります。
>>後唐は荘宗が浪費家
これ、建国以前にも郭崇韜は李存勗を諫めているんですよね。
李存勗としても煙たいところでもあったのだろうか。あまりに軽々に宦官の言を信じたのは
芸能にうつつを抜かしてしまった李存勗の、統治者としての決定的な資質不足でしょう。
いくさでは神がかった強さを発揮するのに、人心掌握や統治では為すところが無い。
なんか項羽を連想させます。

郭崇韜が少しでも金銭を蓄えようとした故事では任圜との確執もあげることができます。
任圜は最初、潞州(上党)の李嗣昭(李克用の仮子)の幕僚だったのですが
胡柳陂の時には李嗣昭隊の一部を率いて果敢に戦ったため、李存勗から「仁者の勇」と絶賛されます。
ただし、根っからの官僚で、荒事は苦手なタイプでした。

鎮州(常山真定)で、張文礼が乱を起こし、討伐に赴いた李嗣昭が戦死すると、その残存兵を見事に統率してのけ
また、張文礼の子、張処球をして説得し、降伏にまでこぎつけることに成功していました。
もっとも、そのときは油断した鎮州軍を、李存審が強襲したので、張処球は戦死しましたが。
戦後、鎮州の節度使として郭崇韜が赴任すると、任圜は真定尹としてその幕下に入り
この二人の黄金コンビの統治によって、鎮州の傷は癒えていくのでした。

任圜は意外に人を見る目がなく、これは、と思った人物を推官したのですが、
その男が任圜の目の届かないところで、公金横領に耽っていました。
その男は、そのことが発覚するのを恐れ、溜め込んだ私財を郭崇韜に包み隠さず報告しましたが
郭崇韜はそれを受け取って、不問にふしています。
それを知った任圜は、鎮州の行軍司馬職を辞し、工部尚書のみに専念することになります。
やや、郭崇韜との友誼に溝ができた形で。

さて、ここから本題。
前蜀討伐戦の折、郭崇韜は実質上の指揮権を与えられ遠征軍を統率しました。
任圜も、魏王付きの参軍として従軍しました。
そのとき、郭崇韜軍の先鋒を担ったのが、候補にも挙がっている康延孝。
康延孝はもとは後梁の将です。段凝という後梁の将帥の指揮下にいたわけですが、
それを脱して李存勗のもとに降ったのでした。武勇に優れていますので、李存勗は喜び
彼に姓名を与え、李紹琛(りしょうちん)と名乗らせました。

その李紹琛が、李厳という将とともに1万を率い、鳳州、固鎮、興州を陥とし、
前蜀の三招討使、王宗勲、王宗儼、王宗昱ら3万の迎撃軍を三泉の戦いで大破した。
さらに利州を陥とし、督戦に出向いていた蜀帝王衍を遁走させ
蜀軍は撤退するにあたり、民家や義倉を焼き、綿江の橋をも切って落とし、舟も沈めて李紹琛軍の
足止めを図ったが、李紹琛は李厳と相談し
「我らは敵地にあって、速戦しなければならず、橋の修理を待っていては敵に態勢を整える余裕を与える」
と言って、河を強行突破した。そのとき渡河できたもの千人、溺死したもの千人だったと言います。
鹿頭関から漢州を制圧した李紹琛は、ここで蜀の重臣王宗弼から降伏の申し出を受けました。

李厳はこの遠征軍の企画者の一人なので、その処理を行い、ここに前蜀は平らぎました。
李紹琛の功、最も大である、と史書に明記されていますが、
この人、郭崇韜や朱友謙らが冤罪で殺されたことに動揺し(誣告による粛清が相次いだ)、
西川節度使を自称して叛旗を翻します。
その李紹琛を、漢州の戦いで、あっさり撃ち破ったのが、魏王付きの参軍だった任圜。
彼は董璋に弱兵を率いさせ、李紹琛の突出を誘い、自ら精鋭を率いて、その側背を横撃しました。
李紹琛は任圜をただの文官と侮っていましたが、足をすくわれました。
漢州城に逃げ込んだ李紹琛は任圜の火攻めにどうしようもなくなって、ふたたび出陣しましたが
今度は正面から戦って破れ捕らえられました。

一体、誰が一番強いのかわからない状態ですが、前蜀戦かように入り乱れておりました。


712 ○ sage 2007/04/03(火) 05:27:49 ID:hLnQoVG30
次スレです
三国志二十四大英雄
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1175545567/



713 ○ sage 2007/04/03(火) 06:49:14 ID:L/JUw1yu0
>>712はガチで偽物
ちなみに三戦版にも同じ様なスレたってるけどな…


714 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/03(火) 16:24:01 ID:zAFfeCHo0
【みんなで】 選抜 三国志二十四大英雄 【決めよう】
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1175545567/

こうしろ


715 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/03(火) 16:43:23 ID:3AtpUj+u0
ttp://www.geocities.jp/kaysak864/n-mayuan.htm

馬援評伝。
これ面白い。
特に興味深い考察を引用しとく。

>もしも馬援がアスペルガー症候群とするなら、
>光武帝と高祖の比較の言葉も意味が違ってくる。
>そもそも馬援は光武帝と意気投合すること甚だしく、その評価もべた褒めである。
>それをさらに劉邦が上と評するのは極めて不自然であり、隗囂もその言葉についていけなかった。
>これも自閉症者の持つ言語特性と考えることで謎が氷解する。
>自閉症者の言語の特徴は含意を理解できず、言葉のそのままの意味に用いるということである。
>馬援の言葉「不如也。高帝無可無不可;今上好吏事,動如節度,又不喜飲酒。」をその言葉そのままに理解すると
>「比べられません。高祖は特別な能力はありませんから。今の皇帝は事務処理にも長け、行動にも節度があり、お酒を好みません」となる。
>劉邦は事務が嫌いで、行動に節度がなく、お酒好きだったから、この3つは光武帝が上回る点をさらにだめ押しで追加したのである。馬援は、高祖劉邦はただの凡人であって、
>光武帝と比較するのも馬鹿馬鹿しいと言いたかったのかもしれない。


716 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/03(火) 17:07:42 ID:EZmiygYlO
>>715
スレ違い乙


717 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/03(火) 19:08:57 ID:rtGwnu5o0
>>714
ここじゃなくあっちのスレに陳情しろよwww


718 ◆RQdk7scN8s 2007/04/03(火) 19:58:38 ID:P41V3Neb0
前に李晟に相当するのは、五代では誰?
という質問があって、自分は良く知りもしないくせに、テキトーに寇彦卿、とか言ったけど
これは完全な誤りでした。

似ているのは、お互いに皇帝の腹心であり、親軍の将として信頼されたところだけ。
戦場での洗練さは、李晟のほうが非常に上でした。

つうことで、「五代群雄」スレに怪しい訳とともに紹介しておきましたので、興味ある方は御覧ください。
あと、添削もできれば…


>>713
なんでいきなりニセモノが現れたんでしょうね?


719 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/03(火) 20:40:12 ID:EZmiygYlO
>>718
◆RQdk7scN8sさんご親切に有難うごさいます。
以前に李晟について質問した者です
「五代群雄」スレの方に見に行ってきます
本当に有難うごさいました


720 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/03(火) 21:12:11 ID:RlL9Cbtn0
いきなり風邪ひいて昨日からダウンしてた俺ですが、
起きたついでに唐末~宋にかける漢族と異民族間の考察をば開陳します。

 中国の歴史においては唐代にいたるまで、漢民族と北方民族の関係は比較的
単純な方式にしたがっていた。まず好戦的な北方民族がはじめは略奪、やがては
制服の意図で中国に対する侵入を繰り返す。もしも中国の社会が健全な組織を
持っているなら、中国は容易にこの侵入を撃退することができる。なぜならば
北方民族が恃みとするのは当時の戦闘に最も大きな威力を発揮する騎馬戦術
であり、遊牧民族はその出自ゆえ生来騎射に優れているので優れた軍人的
素質を持つ。それでもって中国に攻撃を仕掛けるわけだが、漢族と北方民族の
戦力を総体的に比較した場合、数において漢族が圧倒的優勢に立つ。さらには
富力の差だが、これはさらに開きが大きい。だからもし長期戦ということに
なれば、北方民族のほうが疲弊して軍を還すということになる。漢代、中国が
匈奴にさんざん苦しまされながらも最終的には反撃し是を屈服させたのはこの
良い例といえる。
 しかし、唐末五代~元までの時期にかかるとこの事情が変わってくる。
 唐末頃から北方民族と中国との関係は非常に複雑なものとなり、一筋縄では
いかなくなってきた。第一には北方遊牧民族の知力が発達したことにある。
彼らは以前よりも中国文化をよく理解し、その長所と短所を同時に見抜く力
を持つようになった。その長所を知ることは彼らに中国人民を利用しようと
いう気持ちを起こさせ、その短所を知ることは彼らに中国文化をむやみに崇拝
したり憧憬したりする態度を棄て、中国文化にないかれら自信のうちにある
美点を保存しようと言う希望を起こさせるにいたる。これは中国に対する
異民族の民族的自覚であり、いわゆる国粋保存的な政策が底から生まれる。
その結果、遊牧民族の国家の性質に柔軟性が加わり、従来のように強いばかり
で同時にもろいのと違い、弾力を持った耐久性のある国家が現れてきた。
遼およびそれ以後の西夏、金、元などの国はいずれもこの例に当てはまる。
つぎに中国人のほうでも、異民族国家に対する分析が進んでくる。中国人も
やはり異民族の弱点を見抜き、それは経済的に微弱であることだと結論した。
そこで以降の対異民族政策には多かれ少なかれ、経済が武器として用いられる。
ときにはそれが濫用されてかえってみずからの首を絞めることになることも
あるが、全体的に見て政策の進歩であることは間違いない。

 ・・・概ね宮崎市定氏の論に拠りました。まぁこの程度はこのスレ的には常識
で、いちいち言うまでもないとは思うんやけどまぁ、それ以前の匈奴やら柔然に
比べて遼、西夏や金、元が一線を画す存在であるという事を提起したかったわけ
です。つーか寝起きの独り言なんでスルーしてください。

で、五代~北宋の空き枠三名には、
五代から劉仁瞻、西夏から李継遷、北宋の劉昌祚を推します。


721 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/03(火) 22:06:27 ID:mpJSp2SR0
論に拠ったというより、ところどころ端折ったり言い換えただけでほぼそのまんまと言ってもいいよね


722 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/03(火) 22:52:49 ID:05omaE1q0
独り言ならスレに書き込むなと小一時間


723 ○ sage 2007/04/03(火) 22:56:46 ID:L/JUw1yu0
>>711>>718
◆RQdk7scN8sさん 乙&㌧です。
偽物についてなんですが多分このスレで自分がやたら
五代と三国志の比喩論を述べていたからではないかと推測しています。
>>711に李厳なんて名前あったら反応しちゃうしw
朝スレ見てたら自分の書いた憶えのないレスが載ってたのにはビックリしましたよw
で思わず憤慨しちゃいましたwww
あとですね郭崇韜と任圜についてちょっと
自分なりに意見を述べてみようと構想中です。
(◆RQdk7scN8sさんのレスと被る箇所が多々あるかと思いますが)


>>720
◆oOLAqFKRBさん風邪の具合は大丈夫ですか?
無理しないで寝ててくださいよ!!
一日も早い復帰、心よりお待ちしてます。
さて自分は西夏なら李継遷より孫の李元昊を推します。
五代なら楊師厚を北宋からは楊延昭(楊六郎)か潘美を推します。


724 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/04(水) 01:40:12 ID:6Y9RtpAAO
>>723
李元昊を推すなら推すでかまわないですが、
何をもって中国の武将とするか理由を明記してくれませんか?
李元昊が入るならば、大越(現ベトナム)の李常傑、元代の陳興道、
明代からはオイラートのエセンを推す人が出てきたとき、反論できません。

どうじに耶律休哥など国号から遼を外し、契丹のみにしてる時代の人物を推すひとは、
何をもって中国の名将であるとするか書き込むか、時代を戻して、
過去の中華風の国号をしてない北方民族も、選考の対象にするのか意思表示して下さい。

私は遼を選考から外したい人を強引に納得させ、スレを進めた人物です。
最後まで遼をはずそうとした人が、言い放った言葉を思い出して下さい。
私は、遼が中華王朝か否か?の論争はスレ違いだと思いますが
その人物が中国の名将か否か?はスレ違いじゃないと思ってます。そうですよね?
誠に申し訳ないですが、お手数をかけますが、理由を書いてもらえませんか?


725 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/04(水) 01:47:03 ID:0uxFM+xa0
李元昊
当人がもし生きてこのスレ見たら血吐いて死にそうだよなw


726 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/04(水) 05:14:00 ID:YB6QMW6K0
喉が痛くて眠れやせん。今日は朝一で病院行こう。
さて、>>724さんの言う「中国の名将か否か」ですが、
「守勢(中華からの侵略に対する防衛)ではなく積極的に
 中国本土に攻め入り、多大な武勲を挙げて自国の版図を広げた(あるいは橋頭堡を作った)」
 でどーでしょ?
 陳興道は赫々たる戦果を上げたがその戦いは元朝の侵略に対する防衛戦やったし、
 エセンは明領内に攻め入って大勝したものの結局中国本土にオイラートの領土を広げてない。
 よって上二名は「中国の武将」ではないということで。
 李常傑は・・・すんません、よく知らんわ。
 で、俺の推す李継遷はというと夏州から宋軍を撤退させてその版図を奪い、
 さらに霊州を取り、宋軍15万を全滅させるという十分な戦功も立てとるから、
 中国の名将で(最後流れ矢に当たって死んだのが間抜けやが)いいのではないかなぁと思うがどうか。
 そんで○さんの推す元昊はどーやろ? ウイグルを攻めて甘州を取ったけど、
 これは中国本土の土地にカウントされん気がする。でも宋仁宗の時代に陝西地方で37万の精兵を率い、
 当時弱体化していた禁軍100万を蹴散らしたけんが武勲は十分。けど韓琦・范仲淹に阻まれて中国の土地は奪えずじまい。
 しかも経済封鎖された挙句和睦して、その条件に「西夏は宋に対して臣下の例をとる」ことで調印しとるしなぁ。
 敦煌やら西北方面への領土は広げたけど、中国の武将ではないか? つーかそもそもこの人、西夏が漢化するのを嫌っとったし。
 ま、俺の意見に納得できん諸兄もおるやろーし、
 ここは合議制の場なんやから大勢が両者とも資格なし、となればそれに文句は言いません。


727 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/04(水) 13:40:32 ID:X6a7+FA80
「中国」の中身は長い期間の混血によって変化している。
当然、その範囲も時代によって変化していると考えた方が良さそうだ。
だからこの際、支那≠中国と考えるべきだ。
「文化に漬けられた弱い南人=漢族」で「支那の王朝だから正統な中国」の論理は見飽きた、聞き飽きた。
天命も領土も保ち得ない文弱王朝は元々正統ではないし、そもそも正統の王朝なんてものは最初から存在しない。
正統云々は時の為政者たちの都合次第。
士大夫どもがその宣伝を鵜呑みしてたただけ。
忠義の対象が一つしかなければ、そうせざるを得ない。
極東の島国の俺たちにその論理を盲従する必要性は全く無い。
狂的な漢人イデオロギーを妄信してた宋にしたって沙陀色が濃いし。


728 ◆RQdk7scN8s 2007/04/04(水) 20:57:47 ID:PeGUb0ID0
>>723
ちょっと関係ない雑談なんですけど
○さんは、五代史に関して、どんな資料を参考にしてますか?
それは岩城さんにも聞きたいのですが。

自分は基本、《五代史》、《五代史記》、《五代史書彙編》(十国春秋もこの中)、五代絡みの概説書(むろん日本書籍)
あと、『五代群雄傳』くらいなんですが。
関連論文も読みたいところですが、そういう機会はなさそうです。


729 ○ sage 2007/04/04(水) 22:45:35 ID:rYwHrifH0
>>728
企業秘密ですw(もちろん冗談ですが)
◆RQdk7scN8sさんの様に五代史、五代史記など読める環境、読解力があればいいのですが
なかなかそうもいかないのが現状です…
参考資料としては資治通鑑の注釈本、陳舜臣氏の中国の歴史などですかね。
まあ覚束ない知識ながら語らせて貰ってます。
(ちなみに漢文は大して読めませんし…)


あと海南島にまで左遷された人物は蘇軾でした。
訂正
海南島から帰って来た時は朝廷には復帰できず常州で死去してました。


730 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/04(水) 22:51:35 ID:LTCrPQz60
>>728
◆RQdk7scN8sさんへ。
俺は新旧《五代氏》と《十国春秋》のみ。
あとは《続通志》の一部に五代の人物列伝が載ってるのと、
概説書として宮崎市定教授の「五代・宋」ぐらいですか。
あ、《史治通鑑》と《通鑑紀事本末》もその都度時代を敷衍してみるには便利ですね。
偉そうに紹介文挙げたりしてる割に
実は五代は苦手というか、そんな詳しくなかったりします。
資料は喉から手が出るほど欲しいのに、どんな伝手で手に入れるかわからんという。
一応近所に官籍専門輸入書店があることはあるんやけど、ここの品揃えがあんまりよくないのですよ。


731 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/04(水) 22:54:22 ID:LTCrPQz60
>>730
変換ミス。官籍→漢籍で。


732 ○ sage 2007/04/04(水) 23:24:45 ID:rYwHrifH0
>>724
何をもって中国の武将とするかについては
取り敢えず自分>>21で示されてる定義に添って推薦しているつもりです。
あと>>726で述べられてる>「守勢(中華からの侵略に対する防衛)ではなく積極的に
中国本土に攻め入り、多大な武勲を挙げて自国の版図を広げた(あるいは橋頭堡を作った)」
自分もこの意見に近いですね。
それに西夏も一応認めることで話が進んでますよね?
なのに西夏から一人も推薦挙がらなかったら後からただ入れろ入れれと言ってたたけかよと!!
と苦情が出るかもしれないし、そう言うのも考慮してます。
李元昊は西夏の建国に前後して三川口・好水川・定川砦において北宋軍に勝利してますし
資格については問題無いと思っています。
西夏(夏)についてですが
李徳明の跡を継ぎ、検校太師・侍中・定難軍節度使となり、西平王に封ぜられた。
西夏と呼ばれてますがこれは北宋が勝手にそう呼んでるだけで本来は夏。

李元昊は現在の寧夏回族自治区銀川の興慶府を首都と定めてる。
唐始に拓跋赤辞は唐に降り、李姓を下賜され、族人を引き連れれ
慶州(現在の寧夏回族自治区内)に移住し平西公に封じられた。
唐末に発生した黄巣の乱ではその子孫である拓跋思恭が反乱平定に大きな功績を残し、
それ以降、夏国公として当地の有力な藩鎮勢力としての地位を確立した。
国の成立を見る限り西夏は中華の国として扱ってもいいのではというのが持論です。
もちろん遼・金・元も同様です。
陳興道は陳朝(大越)
モンゴル軍の自国への三度に渡る侵攻を全て撃退
李常傑は北宋軍の攻撃が始まる前に10万の大軍をもって中国領土内へ進攻し勝利したんですよね?。
それに大越(李朝)の李常傑はベトナム救国英雄と呼ばれる人物の一人ですよね?
さすがに大越(ベトナム)の武将は選外とするべきでしょう。
オイラートのエセンですがモンゴル帝国崩壊後、オイラートはケレイト、ナイマン、バルグトなどを含む部族連合集団に変容し、
後にモンゴル高原のほとんどすべての部族を制するに至ったんですよね?。
いくら元(北元)と称していても部族連合集団であり国家としての様相を呈してないので
選考基準から外れるのではないでしょうか?
以上が自分の持論です。
諸兄が李継遷・李元昊は中華の武将ではないと反対するなら自分は従います。



733 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/04(水) 23:34:51 ID:1tmtmtZF0
李元昊の夏は諸部族連合でなかったと?
諸部族連合だから国家じゃないというのなら遼や元の組織だって変わりはありませんよ?


734 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/05(木) 00:41:40 ID:0wO0KLdZO
>>732
西夏を入れるのと、その人物を中国の武将であると見なすのとは違いますよ。
だから、李元昊の名が出てもスルーされていたと感じていましたが。

ヴェトナムは唐代まで、戦乱期の一時的な時代以外は、中国の支配化にあったんですよ。
阿倍仲麻呂が派遣された話とか有名ですよね?

この時代、ようやく独立を果たしたにもかかわらず、
朝廷から贈られたのは「安南都護」でした。
李常傑の活躍で、安南国になるんです。彼ら自身は越と称してるんですけどね。
自治権は認めても、領土的には中国本土であると考えられてます。
だから後の中華王朝が度々、征伐に来るのです。

李元昊のように独自の文字を制定したわけでもなく、
独自の文字もなく、制度は中国と変わらなかった安南の
李常傑を外すのは矛盾があると思うのです。

李元昊自身も、中国の武将だと思ってないはずです。
外すのが無難かと。


735 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/05(木) 00:46:30 ID:CWGq96lM0
>>733
>>726の定義を提起した博多の岩城ですが、○さんに援護射撃。
西夏も遼・金・オイラートなども諸部族連合によって成立する国家という
点では同根だと思う。ただ、李継遷時代の西夏は自ら夏州・雲州を奪って
陝西地方に橋頭堡を作ったということで中国の王朝でありそこに所属した
武将は中国の将と愚考する次第(元昊はむしろ中華文明からの脱却を
目指したから中国武将とは言いがたいところがある)。で、オイラートは
諸族連合国家ということでは西夏と同じであるものの、南下して中国の
土地に領土を獲得したわけでないので中国の国家ではないと。翻って遼は
あらかじめ燕雲16州という橋頭堡を持ち、それを保持するために南下して
北宋に攻勢を仕掛けたこともあるので中国、というか半中原国家という感じ。
金は最初から南進してきて中国の土地を版図に加えたから問題なく中国の国家
だろうし、元というかその前身たる蒙古はチンギス即位後、ムカリあたりが
金に攻めよせて各地を獲り、転戦して橋頭堡を築いたのでこれも中国でいいかと。
これに関して>>733さんおよび諸兄の意見を聞きたいと思いますが。


736 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 01:01:23 ID:L2DsHe8+0
>>735
そうですね逆に質問します。
仮の話ですが、琉球が日本に侵攻して九州を占領した過去があったとしたら、その
時に琉球王朝は日本の一部となりますか?その武将は日本の武将と呼びますか?
さらに進んで中国・四国地方くらいは征服したが、王は那覇を離れず日本の占領地
へは代官を派遣するくらいの支配で。

現実の例だったら(たとえとしては無理があり適当でないと承知の上ですが)、英仏
百年戦争でパリを含むフランスの半分以上の領土を支配したイングランドはフランスと
なるんですかね?エドワード黒太子はフランスの武将になるんですかね?


737 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/05(木) 01:31:58 ID:CWGq96lM0
>>736
>>九州を占領した過去があったら
その場合九州の武将たちは琉球の将となるでしょう(好むと好まざると、また
支配の緩急に関わらず)。王が那覇を離れなくても一度支配した土地に派遣
した代官、将軍たちはやはり琉球王朝の臣下となるのでは? また、百年戦争
でフランスの広大な版図を手に入れたエドワード黒大使はやはりイングランド
の皇子であると思います。日本の大半を琉球王が支配した場合、やはり彼が
琉球王であるまと同じで。一番顕著な例は蒙古であろうと思いますから蒙古を
引き合いに出しますが、チンギスがムカリを中国路の王として派遣し、自らは
中国に目もくれず西方経略に本腰を入れたとして、ムカリが切り取った金の
国土はやはり蒙古の版図・橋頭堡としていいと思うのですが。
 質問の意図を間違って捕らえていたらすいません。なにぶん阿呆なので。


738 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/05(木) 01:49:34 ID:CWGq96lM0
追記。
そして完全に敵国を併呑したところで、あらたな国家を創建する問題が
でてくるのだと思います。空想の話ですがエドワード皇子がフランスを
完全支配下に置いたら古い国名からイングランド領ガリアとされたかも
しれませんし、蒙古はある程度の領土拡大を果たしてからモンゴルの正統、
元と各ウルスがそれぞれ創建されたわけですから。


739 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 02:55:39 ID:sh07ZMUM0
李克用と李存勗は親子で名将なんですね
かっこいい!


740 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 03:08:02 ID:H9XH0T7U0
>黒太子の英仏完全併合
その場合、プランタジネット家領仏蘭西で首都は巴里だと思う。
支那だって劉家領支那=漢で李家領支那=唐で愛新覚羅家領支那=清だった。


741 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/05(木) 11:58:07 ID:16153irr0
>>740さんへ
首都が遷ったにしても広大な土地を占有したにしても、根本にある国家
精神は変わらんでしょ。仮にイングランドがフランスを制圧したとして
「こっちのほうが土地広いから、今日からウチもフランスを名乗ろう」
とはならんわけで、言ってみれば居心地のいい仮住まいを手に入れた程度。
仮のさらに仮の話になってしまいますがプロイセンとかに英国領フランス
の土地が全部奪われたとしても、本当の拠点はあくまでイギリス本土
だからフランス駐留軍と国家上層部さえイングランドに帰還させれば
国家的にさほどのダメージを負う事はないでしょう。翻って中国に
当て嵌めると金だって支那の北半分を獲りながらあくまで金という国家
のままだったわけだし(現地の文化に耽溺した、というのはあるけども)、
蒙古にボロ負けして支那本土の拠点を失っても、下層階級は本来の故地
である満州の方に逃れたから、すっかり支那文化にかぶれた上層部以外は
たいした問題なく、女真族そのものは部族をまとめる巨大な統率者を
失った以外、さほど巨大なダメージを被ったわけではなかった(もとの
遊牧騎馬民族に戻っただけ)と思います。実際、数百年の雌伏ののち
新たな統率者が出て、清(最初は後金か)として復活することができた
わけだし。

・・・なんでこの時間にお前がおるんやとか突っ込まれそうやけど、
風邪が悪化して自宅謹慎を命ぜられとるんですわ。やから暇なのです。


742 ○ sage 2007/04/05(木) 14:05:02 ID:0H4+iB4c0
◆oOLAqFKRBさん 乙&援護射撃㌧です
アンタなんでこの時間に居るんや、暇でも安静にしとかんかい
と一応突っ込んどきますわw
さて李常傑を中国の武将として認めるにしても
>>726の定義に当てはめた場合、李常傑はどうなんだろう?
李常傑は北宋の進軍をいち早く察知し、逆に北宋領土へ進軍し北宋軍を撃破したんですよね?
これは先取防衛の為ではないでしょうか?
諸兄の意見をお聞かせねがえませんか?
あと李元昊を外すことに異論はありません。



743 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 17:23:24 ID:VjMOowo3O
あんまり深く考えないでさ。歴代中国、若しくそれらと実際矛を交えた国の武将と言うことでもいいんじゃね?
せっかく選んだ武将が○○に負けたのに名将かよ。プwとか思われるの嫌だし




744 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 18:15:27 ID:dy96S1BTO
>>743
そんなのでよかったら定義とかあれこれ話合ったりした意味ねーな


745 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 18:20:21 ID:Qs7ILgkC0
>>738
百年戦争はイングランド王がフランスの王位継承権を主張したわけだし
アキテーヌに領地を持ってたフランスの諸侯だったんだから
イングランド領ガリアはないよ


746 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 19:39:34 ID:H9XH0T7U0
0:フランス王
1:ノルマンディー公
2:イングランド王
3:アキテーヌ公⇒3´:ガスコーニュ公
4:アンジュー伯
5:ブルターニュ公
6:ウェールズ公
7:スコットランド王
8:アイルランド卿

所領と爵位を0~8と定義する。

ノルマン朝初代:ウィリアム1世(1、2)
ノルマン朝二代:ロベール2世(1)vsウィリアム2世(2)
ノルマン朝三代:ヘンリー1世(1、2)
ノルマン朝四代:女帝モード&ジョフロワ4世(1、4)vsスティーブン(2)
プランタジネット朝初代:ヘンリー2世(1、2、3、4、5、8)
プランタジネット朝二代:リチャード1世(1、2、3、4、5)
プランタジネット朝三代:ジョン(1、2、3、4)vsアーサー(5)
プランタジネット朝四代:ヘンリー3世(2、3´、8)
プランタジネット朝五代:エドワード1世(2、3´、6、7、8)
プランタジネット朝六代:エドワード2世(2、3´、6、8)
プランタジネット朝七代:エドワード3世(2、3、3´、6、8ほか)&エドワード黒太子(3、3´、6)
プランタジネット朝八代:リチャード2世(2、6、8ほか)
ランカスター朝初代:ヘンリー4世(2、6、8ほか)
ランカスター朝二代:ヘンリー5世(2、6、8ほか)
ランカスター朝三代:ヘンリー6世(0!、2、6、8ほか)

初期のプランタジネットはフランスのルーアンが事実上の首都。ほぼフランス人。
カペー朝に対するプランタジネット朝は後漢末の魏みたいなもの。
カペー家の殻を突き破れなかったのがおかしいくらいだ。
フィリップ2世、シャルル5世&デュゲクラン、シャルル7世&ジャンヌダルクのどれか一つがいなければ、
英仏統一王朝が誕生してた可能性が高い。
特にフィリップ2世はおかしい。なんだコイツ。
…まあスレ違いだが、たまにはいいだろ。


747 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/05(木) 19:50:31 ID:GljYhMi60
>>745さん
うあぁ、西洋史の知識がろくにないことを露呈してしまった。
でもまぁ、“フランスの王権を手に入れたとしても実際重視されるのはあく
まで英国”“フランスの肥沃な農場地帯と貴族文化、ヨーロッパ本土への
橋頭堡としての価値は魅力的だが、いざとなったらシッポ切りするのに
問題なし”という部分が言いたかったわけでして。そこが金や元における
中国本土とかぶるかな、と。
ろくな知識もなしにとくとくと偉そうなことを書き込んだこと、謝罪します。


748 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 20:12:59 ID:L2DsHe8+0
やっぱり百年戦争のたとえではずれてしまいますね、すいません。
ちなみに私個人の考えだと
金や元は中国王朝とは言いがたい(特に元)が、中国の征服王朝にはなった。
遼や西夏は中国王朝でもなく、征服王朝にもなれなかった。


749 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 20:20:33 ID:H9XH0T7U0
>>747
項羽を例に当てはめてみます。
”秦を手に入れたとしても実際重視したのはあくまで楚”
”関中の肥沃な田地と行き届いた法治支配、政敵の劉邦を四川に押し込めておく拠点としての価値は魅力的だが、他人にくれてやって問題なし”
…やはり生活文化が違うので金や元のケースとは違うでしょう。
この場合、対仏政策が破滅に直結するでしょうから。


750 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 20:28:32 ID:dy96S1BTO
>>746
>カペー朝に対するプランタジネット朝は後漢末の魏みたいなもの。
>カペー家の殻を突き破れなかったのがおかしいくらいだ。
またまたスレ違いな話だがカペー家かどこかの家宰に曹操みたいな奴いなかったっけ?

>>734
いくら自治権は認めても、領土的には中国本土であると考えられていても
やはり大越の李常傑を中国の武将とするのは無理があるんじゃない?


751 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 21:01:17 ID:H9XH0T7U0
メロビング朝フランク王国の宮宰カールマルテルだと思う。
トゥールポワチエ間の戦でイスラム軍を虐殺し、カロリング朝フランク王国の基礎を築いた男だろう。

>越南
実態は中原勢力の植民地。風俗も違ったし。朝鮮みたいなもんだと解釈した方がいい。


752 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/05(木) 21:44:37 ID:0wO0KLdZO
>>750
李常傑はあくまで喩えです。李元昊は入るとしながら、李常傑は入らないというのは
間違っているという例として出しただけです。

今の時代に生きてるから、安南=ヴェトナムだから他国と思うだけで、
中国の歴史から見たら、間違いなく中国本土であるにもかかわらず、
その人物を中国の武将じゃないというのであれば、
当然、その概念はそれ以外の人物にも適用されるんですよね
?中国固有の領土であろうと、なかろうと、外れる場合はあるんですよね?

私が問いたいのは、何をもって中国の名将であるとするか?なのです。
つまり、その条件に当てはまらない場合は、たとえ中華王朝の漢人武将であろうとも、
中国の名将とは認められない――そんな条件なんです。

>>726がそれだと言うのであれば、それはそれで構いませんが、
それだと選定作業をやり直す必要がありませんか?


753 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 22:14:48 ID:dy96S1BTO
>>751 トンクス
そうかカールマルテルだったか

>>750
それならシンプルに李元昊は外す、李常傑も入らないでいいじゃん
たとえ中国の歴史から見たら、間違いなく中国本土であっても
実際ヴェトナムの人々は俺たちの国は中国だと思っていたかな?
俺は違うと思うぞ
インドの人々は俺たちの国はイギリスと思ってたかな?
名将の定義は取り敢えず>>21にあるのでいいんじゃないかと思うけど
プラス遼・金・元は含めるそれでダメなのか?
でそりゃあ違うだとという人物は今回の李元昊のように指摘する
そんなんじゃダメなのか?
俺はそれ以上思いつかないよ・・・


754 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 22:15:41 ID:0zYnzRwq0
>>752
>私が問いたいのは、何をもって中国の名将であるとするか?なのです。
>つまり、その条件に当てはまらない場合は、たとえ中華王朝の漢人武将であろうとも、
>中国の名将とは認められない――そんな条件なんです。
なんらかの定義はできるでしょう。
しかし万人が異論ない定義が可能だと思ってるわけですか?
そもそも、自分自身の案を提示もせずにそういうないものねだりをするのは、
無駄にかき回して議論の収束を妨げてるだけにしかならないですよ。
既に出てる案にそういうものがなく、あくまで賛同できるものがないというのであれば、
ぜひともあなたの理想とするところに近い定義を提案してください。

自分は正史ベースの>>505を推します。
中国武将が何たるかなんて定義は、中国とは何かと同様で、
万人に納得できるものを作ることは不可能だと考えるので、
既に評価の確立した正史に習うのが妥当ということで。

あとこのまま収束しないようなら、少人数で定義決定する方式にしたほうがよいと思います。
それに納得できない人は、反論するに値する定義の対案を出さない限りは反論を認めない。
で、少人数を誰にするか、というところは、このスレに多数の名将を紹介して貢献度が高いと思われる、
◆oOLAqFKRB.さん、◆RQdk7scN8sさん、○さんだったら不満もすくないんじゃないかな・・・と思ったり。

どうですかね?


755 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 22:20:28 ID:dy96S1BTO
>>753
すまん遼・金・元に西夏を含めるの忘れてた



756 ○ sage 2007/04/05(木) 22:57:36 ID:0H4+iB4c0
>>754
自分はですね正史ベースの>>505はいいんじゃないかなと思いますよ。
でこれに西夏(夏)も含め
あとは推薦した人物に対し諸兄が納得してくれれば良し、
今回、自分が推薦した李元昊の時みたいに
そいつは「ちゃうやん、あかん、あかんてそいつは認められへんで」みたいに指摘してくれたらいいかなと思いますけど
こんな感じでとうでしょうか?
なんか>>754さんに博識な御両人と一緒に指名されてますが
本当に自分なんかでいいんですか?


757 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/05(木) 23:15:07 ID:HcEYfMrF0
754さん
俺が選定員に推戴されたらムカリ、トゥルイらのモンゴル武将や
ヌルハチ、アハタイら後金武将(つまり元、清の建国を担った人々)を
「正史にあるけん」の一言で平然と組み入れてしまうんで、反発派は
かなりの数に登るかと。それでいいなら選定員の一翼を担うのも
問題なしですが、「モンゴルは違うだろ」「清は入関後だ」って言う人は
今のうちに俺を潰しといたほうがいいかと。


758 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/05(木) 23:31:45 ID:HcEYfMrF0
>>757に追記
俺としては>>505案に自分で出した>>726を併せて折衷すると言う
方向で行きたいと思います。これに反対の人は俺の選定員入りを
阻んでくれると後腐れなくてむしろさっぱりします。

ところで◆RQdk7scN8sさんが沈黙を守ってますね。迷ってるんだろーか。


759 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 23:47:20 ID:H9XH0T7U0
「正史に記載されてれば入選資格有り」
このスタンスでいいだろ。
それで夷狄に椅子を奪われる程度の指揮官が名将なものか。


760 あの~ 2007/04/06(金) 00:12:36 ID:Bbv/dSjkO
>>754
実は私が>>505なんですけど。。
トリップつけないと不味いですか?

過大解釈案
この際、正史にのる戦役は全て対象として、
その戦いに参加した人物が名将であるか否かを議論する。
ただし、その人物が非中華王朝に属してる、もしくは異民族出身者の場合、
その人物が中国の名将であると、推薦者が立証する。

例えば、耶律徳光を推薦した場合、国号は中華風の遼も名乗っており、
少なくとも本人は、中国に対する憧憬と、
中国を支配下に置く意思があったと推測されるから――など。
この推薦文だと、国号が契丹だけの時代の耶律休哥は外れますね。


あと、遼を外すと主張してる人は、遼将を外すならば、誰を入れたいのですか?
ただ単に揚げ足取りしたいわけでは、ないですよね?

李元昊の代わりに李継遷を推薦します。
李元昊にくらべ、民族独立色が薄いから。
耶律休哥のかわりに、耶律徳光。理由は先に書いたので、かつあいします。

小説から、李元昊、耶律休哥に興味を持ち、資料を調べたうえで、
この人物を好きになりこそしれ、嫌いになれないだけに、
選考の対象外にするのは、非常に心苦しい気持ちでいっぱいです。


761 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/06(金) 00:40:53 ID:8gXNJR8p0
>>760さん
同じく李継遷を推す同志と勝手に呼ばせていただきますが、
むしろ元昊のほうが英雄的気概にあふれとるんですよね。
前に書き込みましたが
中華から独立して敦煌以西に自分たちの国家を作ろうとする企画力とか、
弱体化してたとはいえ陝西で禁軍100万を37万の精兵で撃破した用兵とか。
中国からの独立を望んだために中国武将ではない、という一事がなければ
間違いなく俺も継遷よりこちらを推しただろうだけに、元昊は本当に惜しい人物だと思います。
彼を推していた○さんも諦めをつけるのは断腸の思いだったでしょう。


762 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/06(金) 04:36:59 ID:iwgs9pHW0
中国の影響力が強すぎたのが全部悪い


763 ○ sage 2007/04/06(金) 06:51:44 ID:4zOHtfGs0
>>761
>李元昊を諦めたのは断腸の思いだったでしょう。
確かに李元昊を諦めたのは断腸のでした…     
では自分も◆oOLAqFKRBさん、あの~さんと同じく、
李元昊の祖父である李継遷を推したいと思います。
実際、李元昊を推した時に李継遷と李元昊のどちらにしようかかなり迷いました。
しかし諸兄の賛同を得られなかったのでそれは仕方ないかなと思っております。
(節操ねーなとか言われせうだが…)


764 ○ sage 2007/04/06(金) 13:50:04 ID:4zOHtfGs0
760
あの~さん(勝手に呼んでますがいいのかな?)
>小説から、李元昊、耶律休哥に興味を持ち、資料を調べたうえで、
>この人物を好きになり
とカキコなされてますが
その李元昊、耶律休哥に興味を持つきっかけとなった小説の題名をお教え願えませんか?
ちなみに自分は陳舜臣氏の小説十八史略にて李継遷・李元昊を
楊家将にて耶律休哥に興味を持ちました。
誠に厚かましいお願いですがよろしくお願いします。


765 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/06(金) 18:57:30 ID:0u9nFGkN0
ああ、なんかヤボ用で時間費やしている間に、すっかり話題が。

自分は遼を外そうと考えましたが、基本は正史にならうという意見ではありました。
遼を外す理由は古来からある中華政権の支配がおよぶ範囲
制度によって及ぼしていた範囲というものがあるじゃないですか。
温度差(サーモグラフィ)みたいなもので考えるとわかりやすいかな?
(京師あたりは色が濃くて、地方になれば薄くなる)
そういうところに対する、領土的な影響力というものが、遼(契丹)は薄い、というあたりを論拠としています。
まぁ、政治的な影響力は大きいのだから、別に入れることに頑強に反対はしません。
入れれば、太宗と休哥は確定するのかな?

で、李継遷ですが
たしかにコヤツが西ではねっ返ったおかげで、宋は遠征し敗れ
あまつさえ遼に援助までとりつけて引き入れ、究極的には岐溝関の敗北を招かせたようなもんですので
結構なやり手ではあります。
宗主国から独立を獲得する契機となった、というあたり後漢の周瑜に似ている節はありますが
そのあたりはどうでしょう。

と言っても、自分、拓跋思恭はわかりますが、この代になるとほとんどわかりません(をい)。
そうですね、「草原王朝特別枠」とかいって、別に設けてみるとか、そういうのはなしでしょうか。




766 ○ sage 2007/04/06(金) 21:43:35 ID:4zOHtfGs0
>>765
李継遷に似てるのは李元昊ではないでしょうか?
どうでしょうか?
二人共、始めは宋に従ってましたが
後に反旗を翻し幾度となく武力衝突を繰り返したり、遼にも対抗したりしてますし、
吐蕃(チベット)を討ってたりしますよね、
それに李継遷は霊州を陥れて、西平府と改称、国都とし
片や李元昊は河西回廊を占拠し、興慶府に都を置いてます。
ちなみに史書には李元昊が
―英雄の生は当に王覇なるべきのみ。錦綺、何をか為さん。―
と興奮した際、李徳明に向って言ったとされています。
(民族独立に対する意気込みなんでしょうね)



767 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/07(土) 12:51:23 ID:8Dz7hZN3O
>>764
井上靖の敦煌です。
そこから、この時代の異民族国家に興味をもち、図書館で調べはじめて、
耶律休哥の名を知りました。

小説としてはやはり楊家将で、この小説により歴史書の中の人物が、
血の通った人間になった感じです。


768 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/07(土) 13:00:06 ID:pG/HJowa0
このスレにいる人が楊家将読んでてちょっと嬉しいw


769 ○ sage 2007/04/07(土) 14:46:04 ID:I3JbP16L0
>>767さんご丁寧に有難うございます。 
>血の通った人間になった感じです。
全くもって同感です。
自分もですね楊家将を読んだ時、耶律休哥及び楊業に非常に人間味を感じました。
>>768さんもナカマー


あと>>760の
過大解釈案とその中で推薦文の例題として挙げられている事についてなのですが
>ただし、その人物が非中華王朝に属してる、もしくは異民族出身者の場合、
>その人物が中国の名将であると、推薦者が立証する。
>少なくとも本人は、中国に対する憧憬と、中国を支配下に置く意思があったと推測されるから――など。これですと中国を支配下に置く意思があったの部分はいいのですが
中国に対する憧憬のないであろうモンゴル武将や清初期の女真族の武将が
外されてしまう様な気がしますけどいかがですかね?
それならその人物が非中華王朝に属してる、もしくは異民族出身者の場合は
王朝樹立の際の戦闘及び樹立以降に功績のある武将は認める
しかし明らかに中華の武将として認められるのを本人が明確に表している人物は不可
(ヌル八チとかどうなんだろうか…)
建国後遼は契丹に国号を変更してる時期も認める。
こんな感じでいかがでしょう?
おかしな部分があれば手直しして頂ければうれしいです。


770 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/07(土) 15:31:08 ID:isOCtAs70
乾隆帝以後は完璧にチャイニズムに毒されてるよ。
順治、康煕、雍正の三代の遺産を食い潰す毒虫ぶりに秦始皇、漢武帝、隋煬帝、唐玄宗の風を見る。
トップの方向性が入選で云々されるなら、
乾隆帝以後の清は確実に歴代中国王朝のエピゴーネンと言えるだろう。


771 ○ sage 2007/04/07(土) 16:03:34 ID:I3JbP16L0
>>770
あのさー乾隆帝以後は完璧にチャイニズムに毒されてるのはわかってるよ。
中華思想に触れて感化されない奴なんて略いないだろう
また傍にいる漢人が染め上げようとするし。
それに定義を決めるのって当然、一筋縄じゃいかないのわかってるよね?
だからわざわざ手直ししてくれませんか?と付け加えているんだし、
文句言うだけなら誰でもできるじゃないのか!!
じゃあどうすればいいか貴方の意見をぜひ聞きたいね。


772 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/07(土) 16:12:05 ID:PaG7IIxw0
ちなみに自分も『楊家将』は読んでます。
記述の少ない楊業を、よくもあそこまで書けたものですよ。
耶律休哥も楊業に会っては、分厚い壁にぶち当たった感じで書いているのは特によかった。

って、小説の話はこのへんで。
遼(契丹)を入れるとして、じゃあ誰が確定になりますかね。
太宗・耶律徳光は、自ら親征して一気に澶州にまで南下しており
そこではじめてまともな後晋軍と対峙した。
一応、青州の楊光遠との挟撃という態勢であったが、名将たる高行周(高懐徳の父)が粘り
耶律徳光の南下を容易には許さなかった。
(高行周が出撃すると、耶律徳光は軍を退かせ精騎で中央を狙うと、晋帝石重貴がそれを迎え撃つ… など)

驚いた耶律徳光は、
「楊光遠は晋の兵は半ばが餓死したといっていたが、このように勢い盛んではどうしようもない」
と言って、一旦本国に引き上げた。
悲惨なのは楊光遠で、契丹との挟撃をもくろんでいたのに、それが崩れ取り残される形になった。
契丹は撃退できたものの、主戦論を唱えていた景延広は為すところが無く、かえって醜態だったので
地方に転出され、替わって桑維翰を呼び戻し、中書令兼枢密使として国難に対処させた。

枢密使・桑維翰のもと、河東の劉知遠、恒州(常山)の杜重威、宋州節度使兼禁軍大将となった高行周、
滑州の皇甫遇、徐州の趙在礼、孟州の符彦卿、河中の安審琦など、15節度使を
対契丹用に編成し、その南下に備えた。
桑維翰の軍略、決裁はいささかも遅滞することなく端から流れるようだったので、諸将は心服したという。

桑維翰の軍略のもと、兗州の李守貞が叛将たる楊光遠を討ち、これを敗死させることに成功した。
その年末に、ふたたび耶律徳光は南下し、恒州に本拠を置き、邯鄲まで陣を進めた。
桑維翰はすぐさま、皇甫遇や安審琦らを向かわせたので、戦線は一時膠着した。
皇甫遇が契丹軍の包囲を受け、少数で粘っているのを、張従恩等は「もう手遅れ」としたが
安審琦は「皇甫太師にもしものことがあれば、何のかんばせあって天子にまみえようか」
といって、麾下の兵だけで突撃したので、耶律徳光は晋軍が総攻撃に移ったと勘違いして
即座に恒州まで逃げ出したという。

膠着した戦線を打開するのに、皇帝石重貴は親征を決意し、開封を出発した。
勢いを盛り返した晋軍は、定州より進み、恒州を降し、ついには耶律徳光をちからづくで追い返した。
耶律徳光は幽州まで逃げ帰ると、敗戦に猛り狂い、各将たちを鞭で打ったという。
しかし桑維翰はあくまで講和論者であり、この後すぐに講和を具申するも、耶律徳光の返書に
怒りのこもった文章が見受けられたので、一時見合わせることにした。
戦勝で気が緩んだか、石重貴は桑維翰の諫言や進言を受け付けなくなった。

当時朝廷には、馮玉という奸臣がおり、皇帝の外戚だったが、桑維翰の影響下にあって発言力は低かった。
皇帝が桑維翰を疎んじていることを敏感に察し、李守貞を巻き込んで誣告した。
桑維翰は執政職を追われ、朝廷に出ることはなくなった。
馮玉らは実権を手にすると、燕雲への攻勢を実行したが、それは耶律徳光の自在の駆け引きに翻弄され
攻撃軍を担った杜重威や張彦澤といった有力者が、契丹に寝返るにおよび
契丹の大攻勢の末、開封は陥落した。

寝返った張彦澤は、耶律徳光が桑維翰を憎んでいると勘違いし、許可無く殺してしまったが
耶律徳光は「なぜ殺した」と、その遺族を手厚く遇したという。

耶律徳光の話をしていたはずなのに、また途中から違うのが出てきたな…
まぁ、耶律徳光と契丹に拮抗する軍略の持ち主、桑維翰と、それさえいなければ破竹の進撃を誇った耶律徳光
ということで、判断してみてください。
ちなみに、このときの後晋領は石敬瑭の末年から石重貴が契丹に北へ連れ去られる直前くらいまで
すさまじくひどい天災に見舞われており、国力は最悪だったということを付け足しておきます。


773 ○ sage 2007/04/07(土) 17:24:35 ID:I3JbP16L0
>>772
耶律徳光(太宗)は石敬塘の後晋建国を助け
後に後晋が遼に背くと、南征するものの、
高行周・桑維翰らの活躍で一時は敗走しましたが最終的には
後晋を滅ぼし、華北一帯を占領してますよね。
たとえ後晋が最悪の状況にあったのを加味しても
耶律徳光の功績は凄いと言わざるえないのかな?  
(確かに途中で誰のこと推してるのか分からなくなってましたねw)


774 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/07(土) 20:01:14 ID:PaG7IIxw0
【確定組】
 李存勗、柴栄、趙匡胤、楊業、狄青
【候補】
 周徳威、郭崇韜、王彦章、郭言、楊師厚、劉鄩、康延孝、
 任圜、李神福、臺濛、周本、孟堅、張彦卿、陸孟俊、劉仁贍、張武、
 王環、趙季良、蘇章、潘崇徹、銭弘佐、顧全武、張元徽、李瓊
 耶律休哥、狆師道、劉昌祚、李継遷、賈嵓、潘美、楊延昭、
 史建?、王景、康壊貞、

【候補落ち】
 朱温(朱晃)、郭威、曹彬

【確定有力候補】
 李存審、顧全武、劉仁贍、耶律徳光、李継遷、劉昌祚、楊延昭、耶律休哥


かなりカオスになってますので、この辺でそろそろ決めたいと思います。
(いい加減、南宋以降の話も聞きたいし)

顧全武はいわゆる地方政権の名将であって、地域が極限定されているので10選に入れるにはためらう部分が大きい。
劉仁贍は10選確定の柴栄や趙匡胤相手に不敗というのが大きいが、いかんせんそれだけ。
耶律徳光は中原制覇を短期間で為した。維持できなかったのは政治力の問題とするならば確定間違いない
ただし、遼のことなので、予備枠とする。
耶律休哥も確定予備枠みたいな感じとする。
楊延昭は武勲において、並ぶものなしと思える。
劉昌祚…狆師道のほうがよくはないですか?

自分が考える10選
 李存勗、柴栄、趙匡胤、楊業、狄青、李存審、狆師道、楊延昭、李継遷
 (契丹枠として)耶律徳光、耶律休哥

こんなところか。





775 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/07(土) 21:39:14 ID:isOCtAs70
>○
>>771が俺を貶める為か、自らを誇る為のものか判らぬ。
だが、そんなことはどうでもいい。
君子はそのどちらもしないのだから。
二十五史だけでなく四書五経も読んでから来い。
俺を罵倒したことが許せないのではなく、その人柄を自ら損なったことがただ悲しい。
議論を壟断したいのならブログでも開けばよい。


776 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/07(土) 21:42:29 ID:neOBtDwl0
○はスルーするに限る


777 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/07(土) 22:00:07 ID:G49b2+p90
>>774
◆RQdk7scN8sさんへ。劉昌祚より確かに狆師道のほうが適任と思います。
ただ北宋中期の武将が少なかったので一応名を挙げました。
耶律徳光と耶律休哥は燕雲以南の地を掠取していない守勢の人、休哥より
短期ながら中原を席巻した創業の人、徳光が10選入りの栄誉を受けるべきかと。
(耶律休哥は民衆から契丹最高の名将、と言われとるわけですがここは心を鬼にして)

そんでもって以前選定者の一人に選ばれたわけですが、
>>505と>>761の折衷というだけでは具体的な形が見えないのでここに概論を書きます。
・基本は正史ベース。二次資料から引いてくる場合は典拠を明らかにする。
 (資治通鑑より、とか出典・十国春秋、とか)
・異民族武将に関しては守勢(中国からの侵略に対する防衛戦)で高名な武将であっても除外、
 中国の領土を犯し、十分な土地を掠取する(あるいは侵略のための橋頭堡を作る)か、
 当時の中華国家の人々に恐怖意識を植え付けるほどの活躍をしたものを資格保持者とする。
 ただし本人が中国からの強い独立意識を持っている場合はこれに該当しても選外とする。
・征服王朝の先行政権における武将の場合、中国本土に攻め入って領土を攻め取るか橋頭堡を作り、
 そのうえでのちに来る征服王朝の樹立に貢献した武将を資格ありとする。
 ・・・こんなんで。

 俺の頭ではこれ以上波風立たせずに全員を納得させる案は立てられんです。
 ◆RQdk7scN8sさんや○さんがもっと洗練された定義案を出してくれるのを希望。


778 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/08(日) 00:45:57 ID:z/gk5cja0
2時間ばかり休憩を挟んだから、そろそろ南宋に入っとるかと思ったけど。
進んどらんね。南宋に移行するんは明日からになるんかいな?

さておき、誰も間に入らんので、柄にもなく俺が仲裁に入らせていただきます。
>>775さん、>>776さん。
人の一度の過失をそう責めんめーや。俺も前スレで場を荒らしてしまった
経験ありやけど、再度やり直させてもらった事やし。寛容を求めます。
○さんも落ち着いてカッカした自分を見つめ直そう?
一度自論を否定されたくらいで怒らんで、それこそ丸い心を保ちましょうや。


779 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/08(日) 00:57:04 ID:4I+oH72ZO
先の話だけど郭侃、伯顔、拡廓帖木児の扱いでまた揉めるんだろうな


780 770 sage 2007/04/08(日) 01:52:22 ID:/v/LzJsE0
<紀元前>
11世紀:牧野の戦(周武王)、三監の乱(周公旦)
10世紀:
09世紀:
08世紀:犬戎の乱
07世紀:葵丘の盟(桓公&管仲)、泓水の戦(楚成王)、城濮の戦(晋文公&先軫)
06世紀:邲の戦(楚荘王)、鞍の戦(郤克)、鄢陵の戦(晋厲公&苗賁皇)、呉楚戦争(闔閭&伍子胥)
05世紀:呉越戦争(勾践&范蠡)、晋陽の戦(趙襄子)
04世紀:桂陵の戦(田忌&孫臏)、馬陵の戦(田忌&孫臏)
03世紀:燕斉戦争(楽毅、田単)、長平の戦(白起)、抗秦名将(信陵君、李牧、項燕)、陳勝呉広の乱(章邯)、楚漢戦争(項羽、韓信)
02世紀:白登山の戦(冒頓単于)、呉楚七国の乱(周亜夫)、石に立つ矢桃李言わざれども下自ずから蹊を成す(李広)、対匈奴戦争(衛青、霍去病)、百聞は一見に如かず(趙充国)、
01世紀:
<紀元後>
01世紀:赤眉の乱(樊崇)、緑林の乱(光武帝)、大樹将軍(馮異)、矍鑠たる翁(馬援)、虎穴に入らずんば虎子を得ず(班超)
02世紀:鮮卑大人(檀石槐)、黄巾の乱(皇甫嵩)
03世紀:官渡の戦(曹操)、鳳や鳳や(鄧艾)、破竹の勢い(杜預)
04世紀:(王猛、慕容垂)、淝水の戦(謝玄)
05世紀:最初の可汗(社崙)
06世紀:六鎮の乱(爾朱栄)
07世紀:薩水の戦(乙支文徳)、玄武門の変(唐太宗)、(李靖)、高句麗遠征(李勣)
08世紀:タラス河畔の戦(高仙芝)、安史の乱(郭子儀)
09世紀:黄巣の乱(李克用)、五代名将(李存勗)
10世紀:南唐遠征(柴栄)、陳橋の変(趙匡胤)、千載不決の議(趙匡義)
11世紀:澶淵の盟(遼聖宗)
12世紀:方臘の乱(童貫)、靖康の変(呉乞買)、抗金名将(岳飛 、韓世忠)
13世紀:世界征服(チンギスハーン、ツルイ、スブタイ、ムカリ、モンケ、ウリャンハタイ、バヤン、郭侃)、抗元名将(完顔陳和尚、孟珙、呂文煥)、崖山の戦(張世傑)
14世紀:紅巾の乱、鄱陽湖の戦(洪武帝)、北伐(徐達、ココテムル)
15世紀:靖難の変(永楽帝)、大航海(鄭和)、土木の変(エセン、于謙)
16世紀:庚戌の変(アルタン)、万暦の三征
17世紀:サルフの戦(ヌルハチ)、寧遠の戦(袁崇煥)、李自成の乱(呉三桂)、三藩の乱(康熙帝)
18世紀:十全武功(乾隆帝)
19世紀:阿片戦争(林則徐、関天倍)、太平天国の乱(曽国藩、李鴻章)

11世紀~19世紀に区切って百の天下分け目の決戦(政変含む)を揚げ、
そこから百選を決めようと思ったが戦例を集めるのに飽きた。
「中国(史の)名将」なら二十五史に載ってればおkということで宜しかろう。
「中国(人の)名将」なら先秦以前のは明らかな夷狄以外はゆるく、
漢族成立後は拓跋、慕容、耶律、完顔、愛新覚羅等の連中を一人残らず排除すれば良い。

>>778
俺は○氏の論の何を>>770で否定し、攻撃し、批判したのでしょうか?
「(彼にとって)判りきったことを俺が言ったのが、
 彼を無知であるかのように扱うことと同じであり、
 それが彼の矜持を傷付けた」と言われても謝る気はありません。理不尽だ。
また俺に対する彼の謝罪をも求めておりません。そもそも争いになるのがおかしい。
彼自身が自分自身に謝ればこの件はそれで終りとして頂きたい。


781 ◆RQdk7scN8s 2007/04/08(日) 02:25:24 ID:BRC5l4KI0
なんか行き違いがあったようだけど、原因は>>771のレスですかね。
○氏は落ち着いてくださいね。
カッカしている理由はいまひとつ忖度できませんが、語気を強めることもないと思いますよ。
前に自分をなだめてくれたのに、らしくないですね。
また異民族枠の議論だから、>>770氏もまとめる方向の対案を示せばベターでしたね。
とりあえず、自分が契丹特殊枠入れときましたので、異論ある人はそれを外せば良いし、
また候補からこれは、と思う将を格上げすればよろしかろう。

草原王朝については、各々モチベーションも違うだろうから、よりよい妥協点を探すしかないのでしょう。
できれば、これからも論拠と対案は併せて提示いただけると助かると思います。
特に反対が無ければ、この線で南宋へと突入したいと思います。
五代に長々とつき合わせて申し訳なかったことです。


782 ○ sage 2007/04/08(日) 04:32:23 ID:m5io4n1t0
>>770さん、◆oOLAqFKRBさん、◆RQdk7scN8sさんお手間取らせて申し訳ない。
別に自論を否定されたとは思っていませんよ。
自分は皆でいろいろと前向きに思案すればいいかなと思っていますし。(念のため)
>>770さんが>彼自身が自分自身に謝ればこの件はそれで終りとして頂きたい。
と仰ってる様に自分はかなり冷静さを欠いていたのはあるかも…
>>770さん不愉快な思いをさせまして申し訳なかったです。
出来れば最初のレスに>>770さんが
定義に対する自論を提示して頂ければ有り難かった部分はあります。
(しつこいとか怒らないでくださいね)
>>781
五代に長々と~
いやー自分は五代に大した知識の無い方なので◆RQdk7scN8sさんのレスはいい勉強になりました。
雑談もかなり入れちゃいましたけどねw



783 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/08(日) 05:07:40 ID:F0HzLaWF0
最近見始めたんだけど、晋の厲公とかも入ってるんだなあ


784 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/08(日) 18:55:59 ID:FOH6MPFEO
>>777
一応、確認しておきたいのですが、>>505案であれば、
金末期の金将の戦いは入りますが、元の外征は外れます。

しかし、この案ならば、異民族の金将による自国内の戦いは入らない。
されども元の漢人武将であれば、一般的な感覚からすると中国領土外での
活躍であっても評価する――と解釈して宜しいんですか?

このスレでは基本的に、防衛戦よりも領土拡大を高く評価するので、
守勢云々は外しても変わらないと思います。

元という王朝がなければ征服王朝も含め、中国統一後の領土拡大に貢献した人物は、
戦場が中国本土外であっても、評価に入れるにすれば、
民族に拘る必要がない基準になるのですが…。


785 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/08(日) 19:59:41 ID:iqf5zjHk0
>>784さん
伝わりにくい書き方ですんません。
俺の意図としては中国領土外での活躍は除外、です。
つまり中国本土に攻め入ったトゥルイは入り、バトゥなどは西域で大暴れしてるけどもアウト、という感覚で。
あと郭侃などの両方に戦功がまたがっている人物も、基本的に中国本土での戦果のみ、ということで。
俺は民族の枷は可能なら無視したい派ですが、戦場が中国以外におかれる場合は除外と言う姿勢で書いてます。
ただ、俺なぞの案にとらわれる必要はないですよ。
>>784さんがこうだと思ったらその武将を推挙して、それについて皆で論ずればいいと思います。


786 ◆RQdk7scN8s 2007/04/08(日) 21:51:00 ID:BRC5l4KI0
あらためて読み返していて気がついたので
自分の考える五代~北宋枠の10選を訂正します。

李存勗、柴栄、趙匡胤、楊師厚、狄青、李存審、狆師道、楊延昭、李継遷
(契丹枠として)耶律徳光

楊業は息子の方がどちらかというとすごい感じ…
というか、記録が少なすぎてわかりづらい。
不確定なところがあるので、申し訳ないが息子に譲ってもらうとして
かわりに、楊師厚を入れました。
(忘れていたなんて、とても口に出して言えない…ガクブル)


787 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/08(日) 22:30:43 ID:FOH6MPFEO
>>785
スミマセン、頭の中では次の時代に移っており、そちらに意識が行ってました。
この時代の10選は私個人としては、>>786で異存がないです。



漢や唐、宋に明であれば、中国本土外の地域であってもカウントし、
中国本土征服後の清朝であっても、中国本土外の戦い、
(他国との戦い)が外されるのは、可哀想だと思うんです。

元朝の問題がうまく処理されたら、>>777案をもって
このスレの中国の武将の定義になると思ったまでです。
私としては、少しの修正、補足で、すべての時代で通用する、
定義となりえると感じたので、あえて意見させてもらいました。


788 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/09(月) 00:22:27 ID:7CdWDV6X0
>>787さん
>>777を全時代に適応できる汎用定義にすることについてアップデート。
・中国統一政権下における外征で活躍した武将もカウントする。
 唐の李靖の突厥討伐、清の策稜らのジュンガル討伐を認める、ということで。
まだまだ完全な定義足りえないのは承知ですが、そこは諸兄に任せます。
本音を言うと他の人が完璧な定義を持ち出してくれると助かるんやけど、怠慢はよくないわな。

>>786◆RQdk7scN8sさん、
 五代・北宋の10選は異議なしです。
 次はいよいよ南宋時代、いろいろと各自の自論がぶつかりそうですな。特にモンゴルがらみで。


789 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/09(月) 00:51:34 ID:rTbI/Ux70
<審査条件>
〇、其の人物が名将である。
一、其の人物が中国人である。
二、其の事跡が中国史である。
三、其の場所が中国領である。

<優先順位>
一:審査条件を全てクリア。
二:審査条件を二つクリア。
三:審査条件を一つクリア。

例えば、甲と乙が候補に残り、どちらか一つを決めるとする。
其の場合、審査条件の〇の比較で甲>乙だったとしても、
優先順位のクリアで甲<乙の場合は乙を入選とする。

これで如何だろうか?


790 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/09(月) 19:47:09 ID:TnVZNl3/0
楊延昭は名将というには実績が少ないような気がする。
潘美を入れたほうがいいように思う。


791 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/10(火) 21:40:26 ID:UAtebvBkO
流れ止まっちゃってるな


792 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/11(水) 08:25:09 ID:3jvERdIMO
どの武将も一長一短で悪く言えば小粒だから
時代もマイナーで語れる人が少ないんだよ


793 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/11(水) 09:29:51 ID:qimM40B0O
>>792
でも◆oOLAqFKRB.氏の超得意分野だろ南宋とモンゴル武将


794 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/11(水) 18:50:21 ID:FXlcrX3a0
これで
岳飛、韓世忠、孟珙、完顔陳和尚、張弘範、郭侃
成吉思汗、木合黎、速不台、伯顔、拡廓帖木児

この中から一人落として終わりだろ。


795 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/11(水) 20:35:25 ID:+N39LNeU0
韓世忠はこの中ではちょっと見劣りするんじゃなかろうか


796 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/11(水) 21:04:37 ID:6rx9YgF50
>>793
 まあなんですか。超、というか最も得意とする時代やね。
 で、俺的10選を挙げさせていただくと
 宗沢
 岳飛
 完顔宗望(オリブ)
 完顔宗弼(ウジュ)
 拖雷(トゥルイ)
 速不台(スブタイ)もしくは木華黎(ムカリ)
 孟珙
 伯顔(バヤン)
 阿朮(アジュ)もしくは兀良合台(ウリャンハタイ)

 こんな感じで。ココテムルは徐達のライバルやし、明朝頭に送るべきと
するとだいたいの10人が決まると思うわけやが、どーでしょ。あと韓世忠
入れるんやったらむしろ劉錡を入れたい。正史でウジュの拐子馬を破った
のは多分この人一人か・・・あと岳飛も野戦で勝っとるかな。
 


797 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/11(水) 21:11:15 ID:qimM40B0O
俺は南宋とモンゴル武将が超得意分野な
◆oOLAqFKRB.氏の推薦文とか読みたいし、南宋・金・元のいろいろな話とかも聞いてみたい
折角、定義について話し合ったんだし、みんなで議論しようよ



798 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/11(水) 21:18:26 ID:6rx9YgF50
拖雷(トゥルイ)
チンギスの第四子、オゴタイの同母弟。チンギスの後継者と目されたが
その座を兄・オゴタイに譲った。燕京に盗賊が出るという話を聴きみずから
取り締まりに出馬、賊十六人を斬り捨てる。

巳丑年(って何時?)の夏八月、オゴタイが京城に帰ると即位式を行う。
翌年秋、オゴタイの金朝征伐にトゥルイも兵を率いて従軍、天城堡を破り
蒲城県を抜き、金の完顔合達が西に赴いている隙を突いて黄河を渡り、
鳳翔を撃つ。引き返してきた合達に攻め立てられ不利となるがここで
トゥルイが兄を助けて奮戦、合達を斥ける。翌年春、洛陽を落とし
河中の諸城を抜いた。

オゴタイは官山に還ると文武百官、諸侯王を集め、彼らに向かって言った。
「人は言う、国家の損害は実に寇敵によってもたらされると。今、金はいまだ
倒れず。我らの敵なり。諸君、寧ろ謀はないか?」対するにトゥルイが
投降した金人の献策を紹介して強く推した。オゴタイは大いに喜び、
諸王大臣たちを呼び寄せて「(金伐は)かつて父が志し有りながら果たせなかった。
今トゥルイが能くこれを言う、これぞ真に賽因(大いに好ましいこと)なり!!」
オゴタイは即断即決、大軍を発した。

オゴタイは碗子城から南下し、黄河を渡り、洛陽を向けて進発。
斡陳那顔(アッチンナヤン?)率いる左軍を淮南経由で進発させ、
トゥルイの右軍は鳳翔から渭水を超えて宝雞経由で出陣させる。トゥルイは
小潼関を抜き、宋との国境線を通って漢水の下に出た。計画によれば翌年二月、
金の王帥が汴京に遷るはずだった。トゥルイは南宋に部下を派遣して
金朝を挟撃しようと求めたのだが、なにを血迷ったか宋の上層部は使者を
殺してしまう。激怒したトゥルイは「やつらは以前苟夢玉が結んだ同盟関係を
どう思っているのか!? 自ら喰らい(多分領土のこと。確証ないが)自ら叛くとは!!」
キレたトゥルイは兵を分かって南宋の諸城堡を攻め下し、長躯漢中まで攻め入って四川を襲い、
閬州を陥とし、南部を打ち据えてようやく軍を還した。そして金の王帥を
房州で補足、武当山で追いついて先鋒部隊三千で金兵十万の中に突撃、
均州まで奔らせる。どれほど激しい戦いぶりだったかは漢水が騎兵の死体で
埋め尽くされたという記述から類推できるかと。トゥルイは部下に千人を
つけてオゴタイのもとに派遣、報告し、オゴタイは金の王帥を取り逃したことを
責めたが、部下がいないところでトゥルイを慰労、迅速に京師・官山に引き上げた。




799 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/11(水) 21:20:00 ID:6rx9YgF50
トゥルイ続き
漢水にとどまったトゥルイは金の大将・合達と鄧州で交戦、金軍の伏兵二十万を
見抜き隘路に拠して敵を待つ。このときトゥルイの兵は四万だったが、
間諜の報告によると金軍も二十万全員が兵士というわけではなく、かなりの
数の輜重部隊が存在することを知って強気の攻めに出る。十二月、禹山で
金軍と交戦、わざと逃げて見せて北に引き寄せる策を使うがこれは失敗。
それならと今度は火計を仕掛け、これが大当たり。合達らは鄧州に奔走し、
トゥルイは三日間の猛攻でこれを撃滅。北に追い立てて部下に三千騎を
与えて追撃させるも、翌朝の霧で視界を遮られた蒙古軍は金軍の奇襲を
受け、珍しい敗戦を経験する。トゥルイは敗戦の部下(札刺)を罷免して
野里知給歹(読めん)に替えた。まもなく金軍を破る。

壬辰(やからそれじゃ分からんのよ)春、トゥルイは陝西・四川・河南の
難路を強行突破して着実に版図を広げる。北に還りつつあるトゥルイに一矢を
報いようと金の合達は歩・騎兵合わせて十五万の大軍で追撃に出た(二十万で三千に負けたくせに)。
このときトゥルイの軍は1万3千。総軍馬から下りて塹壕を掘り、金軍の攻勢を
しのぎにしのいで持久戦に持ち込んだ。日暮れ、軍中に「敵の休息したところを撃つ。
夜、鼓を騒がしく鳴らすのがこれだ」と命令。時にオゴタイが黄河を渡り、親王クオンブカら
万騎をつれてやってきた。空に大寒波到来、大雪も降り、金人は凍えて動けず、
顔色も青ざめて到底戦うどころの話ではなくなる。そこを好機と見たトゥルイ(およびオゴタイの援軍)が
襲撃をかけ、曰く「機を失うべからず。やつらは城内に逃げ込んだ。未だ囲むは易からず。
大敵を前に、況や敢えて父君のごとくあれ!!」奮撃して三峰山を抜き、大いに金軍を破る。
さらに十里に渡って追撃し、流血が道を染めざるは無し。金の精鋭はここにおいて尽く失われた。
予衆を狩って雎州まで走り、伏兵が立っても逆に是を潰滅させる。
鈞州に逃げた合達に従うは数百騎。蒲阿は汴に逃走し望京橋に至ったが、蒙古に擒らわれる。まもなくオゴタイが到着、
戦地にとどまって視察し、トゥルイに「はたして汝でなかったなら、この大勝利はなかったであろう」と賞賛した。
諸侯王がオゴタイに進言して曰く「誠に聖愉(?)です。しかるにトゥルイの功、社稷に著しいかと」
それはオゴタイとトゥルイの後継者争い(争ってないけど)でトゥルイを支持したものの言だった。
トゥルイは従容として曰く、「臣に何の功がありましょうや。この天の威、皇帝の福なり」その言には
聞いたものすべてを佩腹させるものがあった。トゥルイはオゴタイに従い、鈞州を抜き、宿敵合達を
殺し移刺蒲阿、完顔陳和尚をも屠る。更に許州を攻め、これも抜く。
オゴタイの先鋒として河南諸郡平定に奔走し、四月、半渡から真定に入り、
中都を過ぎて北口に出る。夏の官山に還った。

五月、オゴタイが身体に変調をきたし、六月、いよいよ病篤くなる。
トゥルイは天地の神々に祈りを捧げ、代われるものならオゴタイと自分の身を代えよと叫んだ。
怪しげなシャーマンを呼びつけて病気治癒の祭祀を執り行わせたりとかなり
必死で兄を心配する。数日が経過してオゴタイがやや回復すると、トゥルイは一緒に北に還り、
阿刺合的思の地にいたる。そこでトゥルイのほうが病魔にやられ、逝去。
本当にオゴタイの代わりに死んだ。享年四十余歳。英武皇帝と諡号を贈られた。廟号は睿宗。
チンギス時代の武功、オゴタイ時代の河北計略における活躍などから人望頗る厚く、
それゆえ以後蒙古の嫡流はトゥルイ家から選出されることとなった。


800 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/11(水) 22:45:06 ID:oZd1YRNi0
速不台の華々しい戦績は西方遠征ってイメージがあったんで、
>>777の定義からすると資格なしかと思ってた・・・対金戦でもけっこう功績があるのかな?
◆oOLAqFKRB.さんの推薦文が楽しみですね。


801 ○ sage 2007/04/11(水) 22:46:03 ID:t4yNDFjl0
◆oOLAqFKRBさん 乙です
すいません劉?の?の部分は本来、何となっているのですか?
自分のボロPCでは劉 になっちゃってるもので・・・orz
それと韓世忠はなんか嫁さんとセット扱いされてる様な気がしますが…
自分はですね張弘範を推します。あと阿里海牙(アリハイヤ)の評価はどんな感じですか?

>最も得意とする時代やね。
いやいや自分の中のイメージでは十分、超が付きますよ。
前々スレから得意な時代と言ってましたし。
あとですね>>788で
>中国統一政権下における外征で活躍した武将もカウントする。
>唐の李靖の突厥討伐、清の策稜らのジュンガル討伐を認める、ということで。と仰ってますが
郭侃はフラグの西方遠征に従い、ペルシア、バクダード、アッバース朝のカリフを降伏させ、
シリアへ侵入して十字軍と戦った功績も審議の範疇に入れるのでしょうか?
中国統一政権下における外征は東アジア(ベトナムを含む)に限定するにしてはどうかなと個人的には思っています。
諸兄、◆oOLAqFKRBさんいかがでしょうか?



802 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/11(水) 22:55:10 ID:oZd1YRNi0
>>801
脇からですいません。劉キ[金奇]になってます。


803 ○ sage 2007/04/11(水) 23:04:49 ID:t4yNDFjl0
>>802
なるほど劉キ[金奇]ですか。
>>802さんご親切にありがとうごさいました。


804 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/11(水) 23:42:42 ID:soE3kzWL0
貼っておきます

南宋・金~元
【確定組】
 宗沢、岳飛、完顔宗望(オリブ) 、孟[王共]、 拡廓帖木児(ココテムル)、
【候補】
 李庭芝、忽必烈(フビライ) 、完顔宗弼(ウジュ) 、伯顔(バヤン) 、
 阿朮(アジュ) 、韓世忠、杜杲、張弘範、范仲淹、チュウ師道
 張俊、呉?、呉リン、劉錡、虞允文、李顕忠、楊存中、僕散忠義
 徒単合喜、宗翰(ネメガ)、耶律斜軫、史天沢、兀良合台(ウリャンハタイ)
 劉整、張弘範、脱脱(トクト)、呂文煥

>>796
自分もココムテルは、この次の時代のリストに並べる人物だと思う
時代で区分してるしね



805 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/11(水) 23:50:29 ID:Bvy9586Q0
李庭芝、候補にも入れなかったっけ?別にいいけど


806 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/11(水) 23:51:02 ID:3jvERdIMO
郭侃は元の武将でしょ。だったらOKでない?
10選入り確定ですな


807 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/11(水) 23:55:30 ID:R5Kxdx8b0
速不台
 通称スブタイ・バアトル。兄貴・フルコンとともにやたら勇猛、頑強で騎射
を善くした。少年時代、強盗を槍で刺し殺しその一族郎党を遁走させたという
逸話を持つ。

 兄貴が将となったので人質の意味でチンギスの傍仕えとなる。壬申(?)年、
金伐戦に参加。恒州攻めで真っ先に城壁を登り、城を落とす。まもなく投降者
滅吉里を部下に加え、蟾河の戦いで一戦にして二将を擒らえる。さらに欽察部
と玉峪で戦いこれを破る。

 イスラム討伐から還るとまた欽察討伐を上奏、許される。太和嶺のどてっ原
に工兵を動員して穴を開けさせ、欽察部の予想を超える場所から突撃をかける。
縦横に奮戦するスブタイ軍の前に欽察の軍は潰滅、遁走した。現地の余衆を
ことごとく降し、これらの土地を占領下に置き、阿里吉河で斡羅思部の大、小
密赤思老と戦い、一撃のもとに彼らを投降させる。阿速部を獲って帰還。

 征西前に東伐戦に参加、撒里畏吾特勤、赤閔ら諸部を倒し、徳順、鎮戎、
蘭州、会州、洮州、河州を抜いて母馬五千を獲て朝廷に献ずる。チンギス
逝去のため第二次征西は一事見合せとなった。

 オゴタイが即位すると公主を娶わせられ、皇室の一員に連なる。潼関攻撃
に従軍、利なく、オゴタイが怒った時、勝敗は兵家の常、功を立てて埋め合
わせすればよろしい、とトゥルイに救われた。トゥルイの節度下に入り河南
経営を任される。牛頭関で金将・完顔合達の軍数十万とはちあわせるも、軍
を三峰山に集合させて持久戦の構えを見せる。おりからの大雪と大寒波に乗
じて猛攻をかけ、敵のほとんどを殺しつくすという大戦果をあげる。つーか
ここはトゥルイ伝に同じ、でいいんやが。これにより金の対北方戦はまったく
振るわなくなる。翌年夏、トゥルイが官山に帰還するとスブタイが統帥権を
譲渡され、黄河北方に逃れる金主を黄龍岡に追撃、撃破して首級万余を挙げる。
最終的に金軍を蔡州に追い詰め、汴を降し、后妃および珍宝の数々を手に入れ
オゴタイに献上、1234年の蔡州の戦いを見届けてのち、バトゥの副将として
征西に出る。これ以降はヨーロッパ戦線での戦いやから必要ないかと。


808 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/12(木) 00:19:59 ID:KgSsk+G50
>>801
すんません。確かにヨーロッパ遠征組のことを忘れとりました。
征西はモンゴルの仕事やから無視していいか、とか思っとったら郭侃おったし。
>>788
の定義やと確かにヨーロッパでの戦功も込みになりますわな。
そーすっと郭侃が確定確実に昇格、郭侃を落としたいわけとは違うけど、
やっぱりヨーロッパは違和感あるしなぁ。
○さんの言うとおり東アジア圏に収めとくほうが無難か。
そこらへん、諸兄の意見はどんな感じなんやろ。


809 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 00:51:14 ID:gfCpSYNA0
1曹操=後漢末
2李克用=唐末
3拡廓帖木児=元末or北元≠明初
4呉三桂=明末or清初


810 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 00:59:00 ID:HyfEY1CkO
東アジア圏に収めるとか枠を決めてしまう方が違和感ある。
強すぎてヨーロッパまで届いちゃったってだけで基本的には歴代王朝が行ってきた外征と同じように考えていいのでは。


811 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 01:09:11 ID:PdOk3TRp0
というか、南宋滅ぼす前、フビライによる元朝の成立前のモンゴル帝国は
世界帝国ではあっても中国統一政権という枠には当てはまらないんでは?
元朝以前のモンゴルは>>777でいうところの「征服王朝の先行政権」にあたると思われるので、
>・征服王朝の先行政権における武将の場合、中国本土に攻め入って領土を攻め取るか橋頭堡を作り、
> そのうえでのちに来る征服王朝の樹立に貢献した武将を資格ありとする。
に適合する、金もしくは南宋攻略での功績に限って評価すべきでは?

あと拡廓帖木児について、徐達の遠征を撃退したのって既に北方に逃亡した後ですし、>>777の
>・異民族武将に関しては守勢(中国からの侵略に対する防衛戦)で高名な武将であっても除外
にあたって候補外になるんではないのでしょうか?詳しい業績まではわかってないんで見当外れかもしれませんが・・・


812 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 01:36:49 ID:gfCpSYNA0
周 BC1046~BC256
↓ ●
秦 BC256~BC206
↓ ●
楚 BC206~BC202
↓ ●
漢 BC202~8
↓ ○
新 8~23
↓ ●
漢 25~220
↓ ○
魏 220~265
↓ ○
晋 265~420
↓ ○
宋 420~479
↓ ○
斉 479~502
↓ ○
梁 502~557
↓ ○
陳 558~589
↓ ●
隋 589~618

○禅譲による交代 ●放伐による交代


813 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 01:38:08 ID:gfCpSYNA0
隋 589~618
↓ ○
唐 618~907
↓ ○
梁 907~923
↓ ○
唐 923~936
↓ ○
晋 936~946
↓ ○
漢 947~950
↓ ○
周 951~960
↓ ○
宋 960~1279
↓ ●
元 1279~1368
↓ ●
明 1368~1644
↓ ●
清 1644~1912

○禅譲による交代 ●放伐による交代


814 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 08:40:10 ID:DNpsFED/O
>>811
それでもモンゴルは東西両方で活躍してる奴多いしなぁ


815 ○ sage 2007/04/12(木) 09:27:23 ID:9MPvgVfh0
【確定組】
 宗沢、岳飛、完顔宗望(オリブ) 、孟[王共]、郭侃
【候補】
 李庭芝、忽必烈(フビライ) 、完顔宗弼(ウジュ) 、伯顔(バヤン)
 阿朮(アジュ) 、韓世忠、杜杲、張弘範
張俊、呉?、呉リン、劉キ[金奇] 、虞允文、李顕忠、楊存中、僕散忠義
 徒単合喜、宗翰(ネメガ)、史天沢、兀良合台(ウリャンハタイ)
 劉整、脱脱(トクト)、呂文煥、 孟sル、完顔陳和尚、
bヨ雷(トゥルイ) 速不台(スブタイ)、木華黎(ムカリ)
 
もし候補から抜けてる人物がいる場合は補修お願いします

>>814
取り敢えずは推薦文挙げて貰ってからアレコレ議論してみては?


816 ○ sage 2007/04/12(木) 09:30:56 ID:9MPvgVfh0
連投ですいません

五代~北宋・遼
李存勗、柴栄、趙匡胤、楊師厚、狄青、李存審、狆師道、楊延昭、李継遷
(契丹枠として)耶律徳光
楊延昭より潘美を入れたほうがいいように思うと言う意見もありますが
取り敢えず以上の十名を確定でということで宜しいですか?



817 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 10:44:17 ID:6PWL2b6B0
バヤンは確定に入っていいと思うんだけどなあ。


818 ○ sage 2007/04/12(木) 14:35:33 ID:9MPvgVfh0
すいません自分が>>801で
中国統一政権下における外征は東アジア(ベトナムを含む)に限定するにしてはどうかな?
と提案しましたがまだ結論が出ていないのに>>815で勝手に
郭侃を確定入りにしちゃってますがよかったのかな?

>>817さんの仰る様に伯顔(バヤン)は確定入りでいいと思います。



819 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 17:04:33 ID:LWmQ/ydr0
郭侃はオゴタイ時代に百戸長として対金戦争に従事しているし
晩年でもフビライの下で南宋戦に従事しているので
中国の名将扱いにしてもいいと思う。
中近東での戦果は別モノとして考えればいいし。


820 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 17:51:13 ID:DNpsFED/O
>>815
あまり詳しい訳じゃないからなんとも言えないけど、チンギスが居ないのは何故?
彼の頃のモンゴルも>>777の「征服王朝の先行政権」として良いんだよね
チンギスの中華方面の戦績だと他のモンゴル武将に見劣りするから?

>>819
郭侃は「征服王朝の先行政権」の「漢人武将」だから、
西方の戦績が考慮されて確定にいたのだと思ったんだが、無しにするの?


821 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/12(木) 20:53:48 ID:agTVIqMpO
>>820

せめて>>784-785、>>788を読んでもらえませんか?

その上での話なら、それはそれで話し合いをしますが…


822 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/12(木) 21:19:22 ID:40NYG0oU0
確定枠の人やけど、孟〔王共〕の紹介文落としていいかいな。
今更いらんなら控えるけども、好きなんでどーせなら開陳したいなーと。


823 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 21:24:02 ID:oljSW7kuO
ぜひお願いしやす!!
あとチンギスハーンは候補入り可能なの?


824 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/12(木) 21:34:08 ID:40NYG0oU0
そんじゃ孟珙の1
曽祖父・孟安、祖父・孟林は岳家軍の将帥として功績を挙げ、父・孟宗政は
制置使・趙方麾下の有力な将帥という武門の家に育つ。若くして優れた才覚
を見せ、團山の戦いで父とはぐれたとき、それを見つけるや単騎金軍の重囲
に突撃、これを破って父を救った。翌日の敵の動きを予測して父に献策、これ
を見事的中させて金軍を破るという戦術眼も備える。制置使趙方に謁見し、
一見して只者で無いと直感した趙方より異例の抜擢を受けた。

父が唐・鄧・蔡三州の壮士二万を募って編成した“忠順軍”を受け継ぐ。6年、
金の武仙と5回にわたって交戦、ことごとく捷ち、将校452名、兵士33万余
を俘虜とし、44万の民衆を解放した。功績により顎州江陵府副都統制となる。

端平元年、元軍と連携しての蔡州の役にあたって、元の総帥タチャルのもとに
兵糧2万石を届け、意気投合してタチャルと義兄弟の契りを交わした。忠順軍
を率いて戦役に参加、元の漢人諸侯・張柔が流れ矢に当たって落馬しそうになると
二度に渡ってこれを救った。金軍が老人や稚児を殺して絞った油で放つ“人油砲”
を使うと道士を派遣してこれを諭し、人油砲の使用をやめさせた(やめるんかい)。
端平元年正月、蔡州の役で金を滅ぼす。金主・完顔守緒は自ら火をつけて自殺
したので、遺骨をタチャルと分かち、帰国した。功により建康府都統制兼権侍衛馬行事職司。

制置使趙方(この時期は趙葵か?)により襄陽兼鎮北軍の都統制に任命される。
鎮北軍で壮士を募り、兵士一万五千人を獲て隟北、樊城、新野、唐、鄧に配備する。
まもなく枢密院より武器を授かる。

翌年、皇帝に謁見。「卿は名将の子、忠勤に励み国に礼を尽くし、蔡州に金を
滅ぼす。功績昭著なり」との褒め殺しに「これは宗廟社稷の威霊、陛下の聖徳と
三軍の将士の労によるところ。臣はなにほどのこともしておりません。臣、
陛下に願わくは民衆に寛容であり、人材を蓄え、機会を待たれますよう。臣は
所詮武辺の士、戦を望み和議を望まず」と答え、厚い賞与を下賜される。

端平三年、元軍が薪州を攻めると呂文徳とともに現地に急行、囲みを解く。
さらに逆撃して襄陽を攻めるも、江陵の形勢が危急を告げたのでそちらに向かい、
元の寨24個を一夜のうちに覆滅して大勝する。嘉熙元年、顎州諸軍都統制となる。



825 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/12(木) 21:36:35 ID:40NYG0oU0
元の大将テモチエ(?)が漢陽から、大将クオンブカが淮甸から南宋領に侵入、
現地の将士は逃亡し、投降し、あるいは敗北する。孟〔王共〕が現地に到着する
と民衆は「わが父きたれり」と喜んだ。孟〔王共〕は楼上に帷幕を構え、防衛戦の
指揮をとり、失われた諸州を取り戻した。将士は毎月の苦戦に苦しみ、病人、
けが人が後を断たず。孟〔王共〕は彼らに医師を遣わし、その厚遇に将士は感涙した。

嘉熙二年春、枢密副都承旨、京西湖北路安撫制置使を授かる。郢州、荊門軍を回復し、
十二月、冢頭、樊城、郎神山を攻撃、ことごとく捷つ。翌年正月信陽軍、樊城、
襄陽を回復し、枢密都承旨、制置使となる。光化軍、息州、蔡州を降す。降ったものの
中から百余人を選抜、忠衛軍を創建する。

襄陽がどれだけ重要な地であるかを説明、兵士十万の常駐を請うも認められず。
とりあえず先鋒軍を置く。元のタハイが80万の大軍を擁して蜀土に攻め入ると、
孟〔王共〕は塞を増設し戦艦を分布して防衛ラインを築き上げる。結果元軍は
侵攻できずに撤退、翌年、子爵に封ぜられた。防衛ラインを三層に分けてそれぞれ
の州郡に千~一万の精兵を置くことを上奏するも、やはり認められず。王堅、
劉整らを派遣して元の造船所に焼き討ちをかけ、船材と食糧を焼く。淮以下五県から
精兵を359人を募り、“寧武軍”と名付ける。

その後江陵にあって各地の防衛ラインに増援を送ったりいろいろと活躍するも、
孟〔王共〕自身が具体的に戦争の描写があるのはここまで。あとは元軍が攻めて
きても孟〔王共〕が守りに出ると向こうから逃げ去るのでほとんど交戦してない。
とにかく上奏するはしから潰されて、武勲の割に相当不遇やった人。死後忠襄と
謚され、吉国公を追贈された。廟号は威愛。
・・・だいぶ省略、割愛しました。
特に後半の先頭描写がない部分はガリッと削ったけどまあ、いいでしょ。
で、
チンギスは入らんと思う。
「先行政権の武将で、かつ中国本土の領土を切り取るか橋頭堡を作る」
かしてないと資格なしやから。
領土を一時的に取っても引き上げるとまた中国側に取り戻される、を繰り返しよった
チンギス時代の蒙古は資格なしっちゅーことになるかなと。


826 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/12(木) 21:40:05 ID:40NYG0oU0
>>825
変換ミス。先頭描写ってなんや、俺。
戦闘描写です、すんません。


827 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/12(木) 21:43:29 ID:agTVIqMpO
基本的には自分自身が、その人物が中国の武将であると確信し、
名将であると考えるのであれば、推薦するべきだと思います。

鉄木真が中国の名将であると考えるのであれば、推薦文を書き込んで下さい。
その意見が通る、通らないは別問題ですから。


828 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 21:57:32 ID:gfCpSYNA0
冒頓単于
拓跋珪
社崙可汗
木杆可汗
耶律阿保機
完顔阿骨打
鉄木真
努爾哈赤

全部outで。
あと、三衒の決めた定義が気に入らないなら終わるまで待つことだな。


829 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 22:12:51 ID:DNpsFED/O
>>821
失敬
となると、>>788の定義で郭侃の西方の戦績は考慮外という事になるのですかね
彼が参加した西方遠征はモンゴルの中華統一(≒南宋滅亡)以前のことだし


830 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 22:35:49 ID:oljSW7kuO
>>824-825
◆oOLAqFKRB氏ありが㌧
やっぱチンギスハーンは資格無しですか



831 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 22:48:57 ID:6PWL2b6B0
チンギスはあんまし中国支配に熱心じゃなかった感じだしなあ。
ムカリならともかく。


832 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/12(木) 23:02:33 ID:agTVIqMpO
>>830
ですから、鉄木真が中国の名将であると考えるなら、推薦文を書き込んで下さい。

モンゴル統一の為の戦いは入らない、中国本土内の戦闘なら入るも、
その地域を複数年支配し続けてる(短期間ではなく、次の代まで支配する)
その条件をクリアしていれば、説得力がますと思いますよ。


833 ○ sage 2007/04/12(木) 23:04:34 ID:9MPvgVfh0
>>820
テムジン時代のタタル、ケレイト、ナイマン、メルキトの諸部族を破り、
モンゴル高原全体を支配や
金、ホラズム・シャー朝を征服やジャラールッディーンを撃破など
功績はすごいのですが、定義に適合しないと思いましたので候補に入れませんでした。


孟[王共]= 孟sルなんだあまり詳しくないのですいません…


834 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 23:10:35 ID:uB3PX48c0
チンギス・カン
第一次対金戦 内蒙古で金軍を破る
第二次    黄河以北の全域を蹂躙。免れたのは中都を含む十一の
       都市のみ。講和成立後、内蒙古に撤退。
第三次    軍を派遣し中都を攻略。

西へ出かける前にかつての燕雲十六州に相当する地域は確保しているから
「中国本土を切り取り橋頭堡を築いた」ことにはなると思うが。


835 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 23:11:47 ID:oljSW7kuO
>>832
???
俺はチンギスハーンを推薦するつもりも中国の名将として
扱うつもりも端からないんだけど…
なんか勘違いしてない?


836 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 23:13:29 ID:CZs6aAA10
こら
他人が考えて書いたことを自分が考えたように書くもんじゃない
前にも何度かあったね みっともない


837 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 23:14:40 ID:CZs6aAA10
836は>833


838 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 23:18:18 ID:JPGjroiF0
>>821
郭侃は最終的に元にいたんだよね?
名将か否か判断するのに○○時はのぞくなんておかしい。途中どこにいようが関係ない、
趙亡命時の楽毅だけをみて燕時代を無視するのと同じだろ
全体を見て判断しないといけないと思う



839 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 23:24:08 ID:DNpsFED/O
>>833
まあ、あの定義だとチンギスもありにはなるはずでは、と思っただけでして
確かに完全に遊牧民だし西征で有名だけど、統一王朝の先行政権を開いて中華地域で戦っているのは事実なんで


840 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/12(木) 23:29:26 ID:agTVIqMpO
>>835
ならばスレ違いですね。ここは中国の名将を選ぶスレなんですから。


841 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/13(金) 20:38:52 ID:eTh9VGg00
人がおらんよーなので、人寄せの意味も含めて紹介文落とします。
張弘範(字は仲疇。○さんが推すゆった名将やね)
 張柔の第9子。よく馬槊を使い、かつ詩文の才にも長けた。二十歳のとき、
兄が順天路をはなれることになると代行を任され、民吏の諸問題をたちどころ
に採決して人々を感服させる。蒙古の軍がやってきて暴力を振るうと弘範は
杖刑をもって彼らを痛めつけた。順天路に彼がいる間、蒙古と言えども非道な
真似はできなかった。
 中統三年、行軍総管とされる。合必赤親王が済南の李壇討伐に向かうと副将
として従軍、弘範が城の西に野営地を置くと、李壇が兵を発した。諸将が色めき
立つ中弘範は一人冷静で、「我、険地に営す。壇すなわち我に弱を見せ、必ず
奇兵をもって襲い来る。我の謂わざれども悟るものなり」として準備を進める。
弘範の策を知らずに攻め寄せた李壇の軍はあるものは壕に埋まり、あるものは
伏兵にやられて全滅した。弘範の勝報を聞き、張柔は「真にわが子なり」と喜んだ。
 至元元年、兄が出世したことで順天路の守りを任されることとなった。翌年、
洪水で家は流され、到底租税が納められる状態ではない。しかしそれを言って
聞くような朝廷の文人どもでもない。弘範は直接京師に赴き、フビライに面と
向かって説教。フビライも話の分かる人で、「それを問うなかれ」と謝罪した。
 至元六年、南宋の襄陽(せっかく孟珙が必死こいて取り戻した要地)を囲む。
万山に回回砲を据え付け、試し撃ちをしようとした瞬間、南宋軍が攻め寄せた。
部下たちは弘範を置いて城に逃げ込む体たらく。「敵を前にしてあえて退くと
いうものには死を!!」との叫びに偏将・李庭が飛び出し、他の将がそれに続く。
弘範は二百騎を長く布陣させ、「我の鼓を聞く、すなわち進め。鼓なかりせば
動く勿れ」南宋軍が突出してくるが、弘範の軍は動かず、南宋軍は再び進んだ
かと思えば退却した。南宋軍の士気が低下していることを見抜いた弘範は鼓を
鳴らし、弘範の軍千人が一斉に襄陽を襲う。南宋軍は奔潰した。
 面倒なので、こっからアジア歴史事典の丸写し。
 南宋討伐に参加し、各地に転戦したが、とくに張世傑の水軍を焦山に破り、
戦艦80艘を奪った功が大きい。毫州万戸に任ぜられ、抜都(英雄)の名を
下賜される。南宋の首都、杭州臨安府陥落ののち軍を還すが、翌1278年、張
世傑、陸秀夫らが衛王を立てて皇帝とし、元朝に反抗したので討伐軍の総帥
となり、水陸二万の軍を率いて南進し、まず文天祥を擒らえ、つづいて張世
傑らの水軍を崖山に破った。こうして輝かしい武功を立てて79年凱旋した
が、まもなく病没した。謚は献武。


842 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/13(金) 21:44:40 ID:PpLGyfJ60
孟[王共]は全時代の十人でも入るなあ


843 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/13(金) 21:48:39 ID:GvRJnFDj0
>>842
入るでしょうねぇ。
彼に皇帝たるの地位があれば、かなり強固な国家体制を作れたことでしょう。
前線の一司令官は戦略的な視野や構想力より、戦術的な手腕が必要だけど
孟珙はその両方を兼ね備えた稀有な人物といえるから。


844 ○ sage 2007/04/13(金) 23:26:01 ID:yKT0Xcnd0
◆oOLAqFKRBさん 乙です
>>843
◆RQdk7scN8sさん古巣での活躍ぶり(?)拝見してますよ。
(もし別人ならごめんなさい)
張弘範は、阿朮(アジュ)、伯顔(バヤン)の元で華々しい活躍を見せ、
更に南宋を滅亡に追いやったのは彼の力に因るものが大きいかと思います。
あと阿里海牙(アリハイヤ)なんかも自分は推したいですね。



845 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/13(金) 23:31:58 ID:+sNzR0sV0
この時代区分は、全世界全時代の十人に入るようなのがうろついてますよね


846 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/14(土) 00:47:00 ID:VTU7cCbT0
>>842さん、◆RQdk7scN8sさん、
孟珙を高く評価してくれて中国史で一番孟珙が好きな俺としては
嬉しい限りです。本当に、彼が構想しある程度までは完成させた防衛
ライン(完成しなかったのは朝廷の援助を受けられなかったから)が
機能している間は、孟珙死後までモンゴル、元朝も南宋に手を出せん
かったわけやし、完全に自由な権限さえ与えられれば南宋長久の策が
実現したかも知れんのですよ。長期戦になったとしたら攻めあぐねる
元朝と対等以上の講和が結べたかも知れんし、後任が軍事の分からん
賈似道のバカでなかったら、と心から思うところです。ちなみに俺の中
で中華史上名将ベスト3は孟珙、李靖、韓信の三人で、奥ゆかしい性格
と優れた教養から孟珙を一位に押し上げたいところ。まぁ俺の中での
ランクづけやからそうではない、という意見の諸兄も多々おるやろーけど。

○さん
アリハイヤですか。
彼もアジュの副将格でいろいろ活躍してますね。アジュが襄陽・樊城の
要地を陥として一旦帰還した後も南征を続け、東西58州(56州?)
を切り取ったつわもの。しかも性格は温厚で戦場でも無闇な殺戮を戒め、
占領した土地の人々をいたわって租税を軽くして人々から賛美された
広義での名将。張弘範もやけど○さんは人民をいたわる名将が好きなん
かなーと個人的に思ったりしますが、どーなんでしょか。


847 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/14(土) 02:44:23 ID:h02UpDZjO
で、郭侃は確定でいいのかね?


848 ○ sage 2007/04/14(土) 03:22:05 ID:YWuWyns60
>>846
◆oOLAqFKRBさん レス㌧あんた領土切り取り杉やろ、なんて思っていますアリハイヤ。
>>845さんのご指摘通り凄いのがゴロゴロし杉なんですけどねw
自分の名将ベスト3は韓信、孫武、岳飛というところですかね。
韓信は頭の中が普通じゃないし、孫武はマルチ杉、岳飛は戦上手なだけでなく忠義の塊ってとこに魅力を感じます。
それに孟sルもかなりのやり手で狄青みたいに上司さえに恵まれていれば
良かったのにそこら辺が悔やまれてならないっていうのが自分の印象です。
>人民をいたわる名将が好きなんかなーと個人的に思ったり~
はいそうです。
自分の場合は基本的に農民など下層出身で尚且つ義理人情に厚いか忠義の人で、
そのくせ戦争には滅法強い(奇策を得意としたり、読書家なら尚良い)という人物が好みのタイプですね。
岳飛、狄青、薛仁貴とか、あと楽毅、徐達なんかも好きです。


849 ○ sage 2007/04/14(土) 03:29:36 ID:YWuWyns60
>>847
諸兄が郭侃の西征での功績を含めるべきというなら確定でいいと思います。



850 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/14(土) 07:12:11 ID:9iDv5RQB0
「誰某が名将としてどの程度か」と問うならば、
全ての手柄を斟酌してその手腕を量るべきだろう。
一部だけ切り抜いて量ることなど不可能だし意味がない。

そもそも漢人でも戦歴をぶつ切りにされるというのはおかしな話である。
蒙古帝国が中国ではない、というのは判る。
だが彼を選外とするのは「漢人が中国人ではない」と言ってることと同じだ。これはおかしい。
民族の一個人として見れば、その手柄の立てた場所とか相手を区別して云々する必要はない。

それに1127年の靖康の変で宋は南北支那の統一王朝としての面目を完全に失っている。
燕雲十六州を支配したのみの遼を北朝と呼ぶことは難しいかもしれないが、
中原を完全に支配した金はそう呼んで差し支えないだろう。
支那史のお約束通りに考えるならば、
その金は1234年に蒙古の攻撃で滅んでいるので、北朝としての天命は蒙古勢力に移行したのだ。
以後の西征は紛れもなく北半分の統一王朝の遠征であるので除外する必要はない。
その論理は無茶だと言うならば、五胡の蛮兵や、統一した隋以前の北朝の指揮官、唐の外国人の客将は全て除いて頂きたい。
最終更新:2007年07月15日 17:30