【趣味が高じて……】
魔法の森に店舗を構える香霖堂。
大抵の客は商品の代価を払わないこの店にも、まともな客がこないわけではない。
この日香霖堂に訪れたのは、そんなまともな客の一人、アリス=マーガトロイドだった。
「いらっしゃい」
相も変わらず来客に一言だけ発して手元に目を落とす霖之助。
「毎回思うんだけど、もう少し丁寧に応対したら?
お客さんとして言わせてもらえば、品揃えが同じでも店員の態度がいい店を選びたいものよ」
「僕はそうした応対が苦手でね。この店は半ば僕の趣味であり、趣味とは楽しむものだ。
ここに苦手なことを無理やり組み込めば、店を続けること自体が苦痛になっていくかもしれない。
その結果店を閉めることになれば、それこそお客さんに迷惑だろう。
よって僕は僕の思うがままに応対させてもらう」
何を言っても無駄か……。そう思ったアリスがふと霖之助の手元に目をやると
「霖之助さん……裁縫できたの?」
普段本を読んでばかりいる店主の手元には、珍しく針と糸が握られていた。
霖之助といえば家事か商品の仕入れか読書しかしないものだと思っていたアリスにとって、これはかなり意外だった。
実際のところ霖之助は裁縫もするしマジックアイテムも作れるなかなか多芸な男であり、
まれにしか店に訪れないアリスが今日までそれを目にすることがなかっただけなのだが。
「魔理沙や霊夢が弾幕ごっこで破れた服の修繕を押し付けてくるからね……。
霊夢の服を一から仕上げることも度々あるし、今ではそれなりの腕だと自負しているよ」
対価をもらったことは一度としてないけどね……と愚痴る霖之助に苦笑いで応えるアリス。
ここでふと思い当たる。洋服の仕立てに必要な事を。
「霖之助さん……霊夢の採寸したの?」
「……」
アリスの頭では早くも霊夢の服を脱がせてサイズを測る霖之助の図が展開されている。
視線から軽く軽蔑の念を感じた霖之助は、いらぬ誤解を避けるために口を開くことにした。
「君は洋裁を基準として考えているようだが、霊夢の服は和服を基本とした物だ。
そして、和服は基本的に着る者に合わせてサイズを変えることはほとんどないんだよ。
和服には基本的に子供用、女性用、男性用があるだけ。細かい調節は着付けの段階でやることなんだ。
だから霊夢の身長さえわかっていればあとは何とでもなる」
「随分いい加減ね……。服を作るなら着る人に最適なものを作るのが誠意というものだと思うけど」
「確かにそうかもしれないが、そうすると本人しか着れなくなるだろう?
特に女性は出産で体型が変わることもあるし、この方法なら親から子に高価な服を受け継いでいくこともできる。
君に言わせれば、大切な人間に送る服は相手に合わせて仕立てるべきなんだろうが、
日本人は金に任せて新しく作ったものよりも、自分が長い間大事にしていたものを与えることにより大きな意義を見出し
ている。
自分がそれほど大事にしてきたものを授けるくらいに、相手を愛しているということだからね」
そう言われると、アリスも否定する気にはならない。
むしろ和裁というものに俄然興味が湧いてきた。
今までの自分とは異なる発想。その発想に基づいて積み重ねられた技術なら、何か人形作りに活かせるかもしれない。
それに、この店主は他にもいろいろ知っていそうだ。
「霖之助さん、和服と洋服の違いについてもう少し聞かせてくれる?」
霖之助としては正直めんどうくさいのだが、この少女は上客だし、機嫌を損ねるのは得策ではない。
それに和服に興味を持ってくれれば、さらに売り上げが期待できるかもしれない。リスクがタダ話なら安いものだ。
「いいだろう。まず……」
これが全ての始まりだった。
「ふう……なかなか上手くはいかないものね……」
ここは魔法の森、七色の人形遣いことアリス=マーガトロイドの自宅である。
あれから数週間、アリスはひたすら日本人形の作成に勤しんでいた。
コンセプトが違うとはいえ基本は同じ人形、すぐに完成させてみせると意気込んだアリスだったが、現実はそんなに甘くはなかったようだ。
「おかしいわねえ。この前聞いたとおりにやってるはずなんだけど。ちょっと確認してもらったほうがいいのかしら?」
日本人形の作成を始めて以来、アリスが香霖堂に足を運ぶ頻度は右肩上がりに上昇している。
人形作りとなると驚異的な集中力とこだわりを見せるアリス。
最初に和裁への興味を植えつけたこともあって、わからないことがあれば霖之助に相談することになっている。
「よし、善は急げ。試行錯誤も大事だけど、素直に助けを求めるのも大事よね!」
そう結論付けたアリスはいそいそと荷造りを始めた。
所変わって香霖堂。
アリスの人形を見た霖之助はその問題点を把握、早速アリスに講義を開始した。
「おそらくここの縫い合わせがその後の作業に微妙な狂いを起こしたんだろう。ここの工程は非常に複雑だから無理も
ないが……」
普段は買い物目的以外の訪問者を好まない霖之助だが、趣味が近いこともあってアリスの来訪はわりと歓迎しているようだった。
なにしろ人形作りの知識になるからということで、霖之助の薀蓄を真剣に聞いてくれる。
おまけに物覚えもよく、指導したことはすぐに吸収し、必要になれば布や糸まで買ってくれる。霖之助にとっては理想の客と言えた。
「なるほど……これはもっともっと頑張らないといけないかしらね」
「まあ、この前始めたにしては十分すぎるほど上達しているよ。流石という他ないね。
これはそのうち僕が君に教わることになりそうだ」
「ふふ、ありがとう霖之助さん」
その後もたわいない会話が続き、気付けば夕日が差し込む時間。
「あら、もうこんな時間? 今日はこのあたりにしておきましょうか?」
「そうだね。若い女性の一人歩きはよろしくない。暗くなる前に帰ったほうがいいだろう」
その言葉に少し悪戯っぽい笑みで返すアリス。
「なに? 心配してくれるの?」
「当然だろう? 君がいくら強くても万が一ということもある。
折角できた趣味の合う友人を、心配するなと言うほうが無理というものさ」
まさかここまで大真面目に心配されているとは思わず、アリスの思考が一瞬停止する。
「……どうかしたかい?」
「う、ううん、ないでもないの! それじゃあ暗くなるといけないから帰るわね!」
「そうかい? じゃあ気をつけて。またいつでも来てくれたまえ」
家に戻るころには多少落ち着きを取り戻していた。
アリスは今日教わったことを忘れぬようにと、すぐ人形作りを再開。
順調に手が進む。やはり霖之助に相談に行って正解だったようだ。
それにしてもあの店主とここまで話をするようになるとは、ついこの前まで思ってもいなかった。
接客もせずに本ばかり読んでいる偏屈物。そんなかつての評価は跡形もない。
「……ふふ」
今日のやり取りを思い出すと自然に笑みが浮かぶ。
今度は人形作りとか、買い物とか、そういうのは抜きで香霖堂に行くのも良いかもしれない。
そんなことを考えながら、アリスの1日は過ぎていった。
そしてまた数日が過ぎたある日、
「で・・・できたーっ!」
魔法の森にアリスの声が響き渡った。
声の主、アリスは先ほど完成した人形を頭上に掲げ、どこぞの厄神の如くくるくると回っている。
今回作成した人形は、今まで作ってきたものとは作り方がかなり異なる日本人形である。
基本となる人形の体は何とかなったが、慣れていないせいか和服の作成に苦労した。
その分、喜びもひとしおと言うわけだ。
「今日はお祝いね! 久しぶりにフルコースでも作ろうかしら? あーうれしー!」
たっぷり30分は喜び続けたアリス。そろそろ料理に取り掛かろうと考えたところでふと気付いた。
「霖之助さんにも見てもらわないとね……!」
新しい人形を嬉しそうに抱きしめつつ、つぶやくアリス。
実際、今回の人形作りでは霖之助に随分と世話になった。霖之助のアドバイスがなければ到底完成しなかっただろう。
「見てもらうだけっていうのもなんだし、お礼もしないとね……よし!」
「こんにちわ、霖之助さん!」
「ああ、いらっしゃい。人形作りは順調かい?」
「ふっふっふ……これを見なさい!」
アリスの差し出した人形を手に取り、目を丸くする霖之助。
「すごいな……とても初めて作ったとは思えないよ」
「でしょう? 我ながら上手くできたと思ったのよ!」
えっへん! と胸を張るアリス。
「ふむ……いやたいしたものだよ。よく頑張ったねアリス。おめでとう」
そう言って体を乗り出し、アリスの頭を撫でる。
「あ……ありがとう……」
さっきまでの勢いはどこへやら、アリスは顔を赤らめて俯いてしまう。しかしその顔は照れ笑いで本当に嬉しそうだ。
「わざわざ見せに来てくれたのかい?」
「ええ、霖之助さんがいなかったら完成しなかったもの。霖之助さんに見せないなんてありえないわ!」
本当に嬉しいのであろう、いつもよりテンションの高いアリスを見て霖之助も顔を綻ばせる。
「そういうわけで、今日はお礼とお祝いをかねて夕御飯をご馳走するわね!」
「僕は自分の知識を自慢しただけで、大したことはしていないよ。
と言っても、折角作ってくれるというのを断るのも失礼だ。お願いするとしよう」
「任せて! といっても、作るのはほとんど人形だけどね」
と、軽く舌を出すアリス。
(初めて会ったときはこんな表情をする子だとは思わなかったな……)
そう思う霖之助だが、口から出たのは違う言葉だった。
「そういえば君は家事を人形にさせているんだったね。折角だし、人形たちが料理するところを見ててもいいかい?」
「……霖之助さんらしいわね。別に見られて困るものでもないし、いくらでもどうぞ。私は代わりに店番をしておくから」
本当は料理を人形に任せて霖之助と話がしたかったアリスだが、お礼をしに来た手前そんな我侭は言えない。
話すのは料理を食べながらでもできるか、とここは引き下がることにした。
「いいのかい? 別に店は閉めても構わないんだが・・・」
「お礼をしに来て店に迷惑をかけるわけにもいかないでしょう? いいから今日は私に任せなさい!」
胸を張るアリス。
そこまで言われては無理に断るのも悪い、という結論に達し、霖之助は人形たちとともに台所に引っ込んでいった。
「ああは言ったけど……お客さんなんて来ないじゃない……」
張り切って店番を始めたアリスだったが、店内には見事なまでに閑古鳥が鳴き続けていた。
こんなことなら店を閉めてもらってもよかったかな……。いやいや、まだお客さんが来ないと決まったわけじゃない。
そんなことを考えていると、店の扉が開く音が聞こえた。
正直待ちくたびれていたが、店番を引き受けた以上疲れを見せるわけにはいかない。
「いらっしゃいまs「おーっす香霖!」」
渾身のいらっしゃいませをさえぎって入ってきたのは、自称普通の魔法使い、霧雨魔理沙だった。
「あれ? 何でアリスが店番してるんだ? 香霖はどこ行った?」
「……まあいいわ。説明してあげる」
どっと疲れが出たのを感じつつ、律儀にこれまでの経緯を説明するアリス。
「と言うわけで、今は代わりに店番してるの」
「なんだなんだ、人が研究で篭ってる隙にこそこそと。そういう時は一言教えてくれるのが人情ってもんだぜ」
「あんたが来なかったんでしょうが……」
「で、いま気合の入った料理作ってんだろ? こりゃ晩飯が楽しみだ」
「話聞きなさいよ……。ていうか、あんたの分まで作ってるわけないでしょうが」
「薄情なやつだな全く。まあいい、今日は退散しとくぜ」
「珍しいわね……。強引に奪ってでも食べそうなものなのに」
「お前は私を何だと思ってんだ? 今日は仕入れに来たんだよ。まだ研究の目途がたってないからな」
そう言って店内を漁りだす魔理沙。
「じゃ、香霖とよろしくやってな」
「ちょっと待ちなさい」
そのまま出て行こうとする魔理沙を引き止める。
「お、ご馳走してくれる気になったのか?」
「んなわけないでしょうが。あんた商品持っていくならお金払いなさいよ」
「香霖から聞いてないのか? 私は借りてるだけだから代金はいらないんだぜ?」
「あんた私や紅魔館だけじゃなくてここでもそんなことしてたの!?
とにかく今は私が店番してるんだから、きっちり代金は請求するわよ!」
「よう、香霖。邪魔してるぜ」
「ああ、霖之助さん? 今ちょっと魔理沙と売買の神聖さについて話してるから……」
と言いつつ台所のほうを振り合えるが、霖之助の姿など影も形もない。
「引っかかったな! 甘いぜアリスーーーーぅぅぅぅ……」
その隙を突いて箒で飛び出す魔理沙。あっけにとられたアリスが我に帰ったときには、その姿は遥か彼方に消え去っていた。
「まったく魔理沙ときたら! 霖之助さんももっと厳しく言わないと駄目よ!?」
「言って聞くような相手なら苦労はしないんだけどね」
さっきから憤りっぱなしのアリスに対し、霖之助は既に諦めているらしく、苦笑しながら料理を食べ続ける。
結局店番を放りだしてまで魔理沙を追いかけるわけにもいかず、見逃す結果となってしまった。
アリスとしては憤懣やるかたないが、店主がこれではアリスが怒っていても仕方ない。
「それにしても美味しい料理だ。洋食はよくわからないが、人形に遠隔操作させてこれなら君自身の手料理はもっと
美味しいんだろうね」
「まあ、自分で作れないものを人形を介して作れはしないわね」
「それはいいことを聞いた。是非君自身が作った料理を食べてさせて欲しいね」
一瞬、『僕のために味噌汁を……』という台詞が頭に浮かんで顔が熱くなる。
(まあ実際は好奇心で言っているんだろうけど・・・)
かと思えば、そう思った途端に顔の熱は消え、少し寂しさを感じる。
(……参ったわね)
どうやら自分は、自分が思っている以上にこの男に好意を抱いているようだ。
「ご馳走様。実に美味しかったよ」
「はい、お粗末さまでした」
食事が終わった後も2人の会話は途切れることはない。話題は主に今日完成した人形について。
どこどこが大変だった、あそこは割りとスムーズに行ったとアリスが語り、
その割には良くできていた、流石高名な人形遣いだと霖之助がほめる。
会話は収まる所を知らず、むしろさらにヒートアップしていく。
霖之助が人形を手に取って、細かい箇所を指で示しながら語り出し、アリスも霖之助の真横に腰を下ろして手元を覗き込む。
その状態で霖之助の講釈を聞いているうち、いつのまにか霖之助にしなだれかかるような体勢になっていることに気付く。
そのときアリスが感じたのは、拒絶でも喜びでもなく、驚きだった。
話に夢中だったとはいえ、自分がここまで無防備に他人に近寄っていることに。そしてその相手が男性であることに。
しかしその変化は忌避する類のものではない。むしろなんとなく心地よさを感じる変化と言えた。
こうなると気になるのは霖之助がどう思っているのかである。
こっそり様子を伺うが、霖之助のほうは気にした様子もなく口を動かし続けている。
別に霖之助を誘惑するつもりはない。
好意を抱いていることに間違いはないが、まだ積極的にどうこうなりたいというほどに強いものでもない。
それでも自分は女性で、彼は男性だ。こんなに近くに居るというのに、本当になんとも思っていないのだろうか。
そもそも自分から通っていたとはいえ、ここ数週間の間に何度も2人きりになることがあった。それなのに、一度も自分はそういう目で見られなかったのか。
自分もついさっきまでそういう目で見ていなかったことを完全に棚に上げているが、まあそこはご愛嬌。
とにかく、ちょっとだけ女としてのプライドが傷ついたアリスだった。
「おや、もうこんな時間か」
気付けば日はすっかり落ち、辺りはすっかり闇の帳が落ちていた。
「普段なら帰るよう促すところだが……」
そう言いつつ立ち上がった霖之助は、ちょっと待っていたまえと言い残して奥に引っ込む。
戻ってきた霖之助の手には酒瓶とお猪口が2つ握られていた。
「これは霊夢の略奪から運よく逃れた一品でね。折角のお祝いだし、今日飲んでしまおう」
霖之助としても、完成した人形を褒めるだけでは物足りない。
優秀な弟子を労うべく、縁側に出て月見酒と洒落込むことになった。
「僕はこうして月を肴にちびちびとやるのが好きでね。
魔理沙なんかは『酒は豪快に飲んで豪快に酔うもんだぜ』などと言って風情を楽しむということをしない。
その点、君は繊細さで言うと魔理沙とは比べ物にならないし、きっと理解してくれると思うんだが」
乾杯、と杯を軽く合わせ、注がれた酒を少し口に含む。
普段余り酒を飲まないアリスでも、なんとなく良い酒なのだろうとわかった。
「これって結構いいお酒じゃないの? 私より他にお酒の事がよくわかる相手がいると思うんだけど」
「構わないさ。君は僕にとっていわば弟子のようなものだ。頑張った弟子にご褒美を上げるのも師匠の義務というものだよ」
「そう、そこまで言われちゃ断るのも失礼ね。ありがたく頂くわ」
先ほどまでとは打って変わってほとんど会話はなかったが、アリスも霖之助もこの雰囲気を楽しんでいた。
杯を開けては互いに酒を注ぐ。月を眺め、風の音を聞き、ちびりちびりと酒を味わう。
たしかにこれは良い。じんわりとなんともいえない心地よさが広がっていく。
「霖之助さん」
「うん?」
「ありがとう。今日は最高の一日だわ」
月を眺めながらそうささやく。
白い肌は酒のせいかうっすらと上気し、月明かりを受けて神秘的なまでに美しい。
そして何よりも、その微笑みがとても綺麗で、思わず我を忘れて見とれていた。
(参ったな・・・)
自分は当の昔に枯れ果てている。そう思っていたが、
(僕の中にも、まだ男としての感性が残っていたとはね・・・)
そんなことは、自分の勝手な思い込みに過ぎなかったようだ。
ここ最近、アリス=マーガトロイドの生活は非常に充実していた。
新しい技術に出会った。
習得するために努力を続けた。
その成果は自分の予想をずっと上回るものとなった。
まだまだ反復し体に覚えさせなくてはならないが、自分を成長させるためならそれすらも喜びと言える。
なのに、
「はぁ……」
口から漏れるのはため息ばかりだった。
数日前に日本人形を完成させたアリス。
生まれて初めて作ったそれは、商品として見ても申し分のない完成度であり、アリスにとって師といえる霖之助も太鼓判を押してくれた。
とはいえ、まだまだ基本を修めたばかり。和と洋の技術を融合させるには至らない。
今は続いて2体目の製作に取り掛かっているところである。
1体目に比べ作業は順調そのもの。
不満などあるはずがないのだが、気がつけば手を止めて物思いにふけっている。
「……私がこんなに寂しがりやだとは思ってなかったわね」
所変わってここは香霖堂。
今日も今日とて、店主の霖之助は読書に没頭……してはいなかった。
なにかやることがある訳ではない。いつもどおりに椅子に腰掛け、いつもの姿勢で本を開く。
後はいつものとおりに本の世界にのめり込むだけなのだが、気がつけば店の扉に目をやり、本をめくる手は止まっている。
「いったい何を期待しているんだろうね……僕は」
ここ最近、
森近霖之助の生活は非常に充実していた。
同じ趣味を持つ仲間に出会った。
自分の持つものを惜しげもなく伝授した。
教え子は全幅の信頼を寄せてくれるばかりか、想像以上の成長を見せてくれた。
すぐに自分など追い抜いていくだろうが、それすらも楽しみにしている自分がいる。
なのに、
「ふぅ……」
口から漏れるのはため息ばかりだった。
最初の人形が完成して以来、アリスは1度も香霖堂に訪れていない。
自分ひとりの力で2体目を完成させたい。いつもいつも霖之助を頼るわけにはいかない。
純粋な向上心から霖之助にそう言ったアリスだが、すぐにどうにも落ち着かない自分に気付いた。
霖之助に助言を請い、そのまま香霖堂で人形を作っていたときを思い出す。
会話こそほとんどなかったが、どこか暖かさと安らぎを感じていた。
別に毎日香霖堂で過ごしたわけではない。自宅で人形を作る時間も決して短くはなかった。
それなのに、たった数日霖之助に会っていないだけなのに、心に穴が開いたように感じられてならない。
今まで普通に生活してきた家の中がやけに広かった。
「うー……」
テーブルに頬を押し付けて唸ってみるが、そんなことで気が紛れるわけもない。
香霖堂に行きたい。それは間違いないのだがどうにも踏み出せない。
霖之助に呆れられるのが怖いのだ。
―――君はもう少し意志が強いと思っていたんだけどね―――
そんな台詞が頭をよぎるだけで全身が凍りついたような錯覚すら覚える。
実際には彼がそんなことを言うはずはないとわかっているのだが、万が一を考えると二の足を踏んでしまうのである。
ここ2日ほどそんな葛藤を繰り返していたのだが、
「あーもうやめやめ! 自力で頑張るったって、こんなんじゃいい人形ができっこないわ!」
ついに限界がきたようだ。
霖之助がどうこう言い出しても押し切ってやろう。
そもそも自分がこんなことで悩むようになったのは霖之助の責任だ。
責任がある以上霖之助にはこのもやもやを取り払う義務がある。
理不尽なようだが、ぐるぐると考えることに疲れたアリスはそのことに気付かない。
「見てなさい! 私だって我侭言いたいときくらいあるんだから!」
「……着いた」
勢いのままに香霖堂の前まで来てしまったが、ここまで来ると多少冷静にもなる。
大丈夫よアリス。この前まで普通に話していたじゃない。拒絶されることなんてありえないからそんなに心臓バクバク言わせてんじゃないわよ。
大きく深呼吸を2回。よし、少なくとも顔には出さなくてすむだろう。あとは淡々と、しかし強気で押し切るのみ。
バタン
店の戸を開く音が来客を知らせてきた。だが今回の訪問者は自分の望んでいる人ではないだろう。
何しろ、彼女はもうしばらくは家から出てこないと言ったのだから。
そんなことを考えつつ顔を上げた霖之助が見たものは、
「いらっしゃ・……い……?」
「お久しぶりね、霖之助さん」
来るはずのない、されど待ち焦がれた人形遣いの姿だった。
完全に意表を衝かれ、動かなくなる霖之助。
アリスはアリスで、さっきまでの強気はどこへやら。
「何で来たんだい?」
とか言われやしないかと気が気ではない。
2人の間に沈黙が降りる。
真顔で行われるにらめっこに、先に耐えられなくなったのはアリスだった。
先手必勝とばかりに言葉がつむがれていく。
「その、まだ2体目は完成したわけじゃないんだけどね。なんていうか今まで事あるごとに相談してたから一人で
篭ってるとしっくり来なくて。そりゃ私も『自力で完成させるまで助言は請わないから!』なんていった手前ここに
来るのはちょっと気が進まなかったんだけど、そもそも私の目的は人形作りの技術を身につけることであって、
一人で人形を完成させるのはその手段に過ぎないわけ。
だから調子が出ないのに意地張って作業を停滞させるくらいなら、当初の方針を少しくらい曲げてでも、目的を
達成するために有効な手段をとるのは悪いことではないでしょ?
言っとくけど別に霖之助さんがいなくて寂しいなとかそういうんじゃないから。
環境を変えたせいで調子が出なかったのを何とかしようと思ってここに来ただけだから。
あとここのほうが家よりはかどるなら家で作業する必要はないわよね。
これから毎日朝から夕暮れまで通わせてもらうわ。言っとくけどあくまで作業効率のためよ。
本当は夕方とは言わず夜まで居たいところだけど、前に霖之助さんが心配してくれたし、
暗くなる前には帰ることにしておくから。
もちろんただとは言わないわ。家事は人形たちにさせるし、料理は私が作ってあげる。
霖之助さんも読書に集中できるし、私は魔理沙や紫や霊夢と違って霖之助さんの邪魔はしないから悪い条件じゃない
でしょ? というかもうそのつもりで用意してきたから空いてる部屋に荷物置かせてもらうわよ」
本人はいたって冷静なつもりだが、誰がどう見てもいつものアリスには見えない。おまけにごまかそうとして逆に本音がちらほら漏れている。
そもそも普段自分がこんなにまくし立てたりはしないことに気付いていないあたり、アリスもかなりテンパっているようだ。
そんなアリスを呆然と眺める霖之助。
反応が返ってこないことで再び不安になるアリス。
なんで何も言ってこないのよ。
唐突過ぎて驚いているのかしら?
それとも呆れられた?
自分から来ないと言い出して連絡もしなかったくせに今度は毎日来るとか言い出したのは拙かったかな。
でも理屈としてはおかしいところはないはずよね……いやでも……。
ええい! なんでも良いから早く何とか言いなさいよ!
緊張のあまりすでに足元の感覚すらなくなっている。
ほんの数秒が永遠のように感じられて気が遠くなりそうだ。
一方の霖之助はというと、普段と違うアリスに戸惑ってはいたものの、要はまた足しげく通ってくれるのだなと結論付けることにした。
「わかった。そういうことなら協力することもやぶさかじゃないよ。
奥に入って突き当たりを左の部屋が空いているから好きにしたまえ」
一瞬その言葉が理解できずに固まるアリス。頭の中で霖之助の言葉がゆっくりと翻訳されていく。
好きにしたまえ→ 部屋を使っても構わない→ 毎日通ってきてもいい!
そこまで理解した瞬間、アリスの頭の中で数万人のミニアリスが一斉に諸手を天に向かって突き上げ、大歓声が響き渡った。
おもわず自分まで叫びそうになるが、ここまで喜んでいるのを気取られるのも恥ずかしい。
落ち着け。声を上ずらせるな。後一言、一言だけ返せば部屋で思い切り喜べる。
「そそ、そう? よかった。じゃあ勝手に使わせてもら、もらうわね」
多少噛んでしまったが問題ない。この心境でここまで抑えられれば上出来だ。さあ早く部屋に。もう平静を装うのは限界だ。
だがここで奥に上がろうとするアリスに霖之助が声をかける。
「ああ、アリス」
ビクッと肩が震える。
いったいこれ以上何があると言うのか。話なら後でするからもう開放してほしい。
それともやっぱりダメと言われるのだろうか。
いい加減爆発しそうな心臓の鼓動を感じながら振り返ったアリスが見たものは、
「ありがとう。また来てくれて嬉しいよ」
心の底から嬉しくたまらない、そんな霖之助の笑顔だった。
スー……、パタン。
霖之助にあてがわれた部屋に荷物を置きにあがったアリス。
廊下から見えないように襖を閉めると、糸が切れた人形のように崩れ落ちる。
「はぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
畳に腰を下ろして両手を突き、大きく息を吐く。
本来陶磁器のように白い肌は首まで真っ赤に染まっていた。
心臓はここで一生分働きつくしてやると言わんばかりに回転数を上げ、手足はいまだに軽く震えている。
(あれは反則にも程があるわよ……!)
叫びだしたくなるほどに昂ぶる感情を抑え、アリスは先ほどのことを思い出す。
『ありがとう。また来てくれて嬉しいよ』
ただでさえ受け入れられたことが嬉しくて頭が煮立っている所だというのに、そんなことを言われた日にはもう声も出せなくなってしまう。
真っ白な頭の中とは正反対の真っ赤な顔で、カク……カク……と壊れた人形のように首を縦に振り、転びそうになるのを何とかこらえて部屋に辿り着いた。
訝しがられたかも知れないが、取り繕うことなど不可能だ。
スキマと閻魔と花の妖怪と亡霊の姫に同時に喧嘩を売って無傷で生還するくらい無理だ。
霖之助の笑顔が頭から、言葉が耳から離れない。
上海と蓬莱を呼び寄せて力いっぱい抱きしめる。
「~~~~~~~っ」
声にならない叫びと共に畳の上を転げ回るアリス。その顔はこれ以上ないほどにやけまくっている。
来てくれて嬉しい。
来てくれて嬉しい。
来 て く れ て 嬉 し い!
それはつまり、霖之助もアリスに会いたかったということだ。
それもあの朴念仁がわざわざ口に出して思いを伝えるほどに。
期待しすぎてはいけないと理性が警鐘を鳴らそうとするが、このくらい自惚れたって構わないだろうと黙らせる。
いつまでも悶え続けるアリスが再び霖之助と顔を合わせられる程に落ち着くのは、相当後になりそうだった。
一方の霖之助は、部屋から聞こえてくる妙な音に首をひねっていた。
アリスが毎日香霖堂へ通いつめるようになって数日、そろそろ生活のリズムも定まってきた。
朝は夜明けともに起床。サンドイッチなど簡単な朝食を作ってバスケットに押し込み、身だしなみを整えて香霖堂へ。
霖之助も朝は早いのでアリスが来るころには起きている。挨拶を交わしつつ奥の座敷にあがりこむ。
持ってきた朝食を2人で平らげ、食後はのんびりと霖之助が淹れてくれた紅茶を味わう。
本当は自分が淹れてあげたいのだが、『このくらいはさせてくれ』と言われては無碍に断るわけにもいかない。
使った食器を仲良く台所で並んで片付け、霖之助が店の部分を、アリスが住居部分の掃除を行う。
このとき服が汚れてはいけないからと割烹着に三角巾を借りるのだが、日本人離れした顔の割りに良く似合う。
一段落したら霖之助は店番。アリスは客の邪魔にならない場所に椅子を置いて人形作りに取り掛かる。
紅白の巫女や瀟洒なメイド、竹林の師弟に白玉楼の庭師などが来店するが、
これら頻繁に訪れる客にはすでにアリスが霖之助に師事していることを説明済みのため、特にどうこう言われることはない。
日が西に傾き始めれば夕食の用意を始める。
アリスの専門は洋食だが、霖之助が和食を好むため教わりながら作ることも多い。
かつてアリスが語った通り、彼女の腕前は人形たちより数段上だった。夜雀のように店でも開けば大盛況間違いないだろう。
2人で存分に舌鼓を打つと暗くならないうちに自宅に戻る。
人形作りの道具は全て香霖堂に置いてあるため、帰宅してからはスペルカードや人形の操作について研究し、早めに就寝する。
何の不満もない幸福な生活。強いて言えばいっそ香霖堂に住み込んでしまいたいが、それはまだ早いだろう。
自分も霖之助も人間に比べてずっと長く生きる。焦らなくて良い。むしろ親密になっていく過程をじっくり味わおう。
自分の人生はいまから絶頂期に入るのだ。
……そう、思っていた。
最終更新:2008年08月27日 19:48