酢昆布

勉強に没頭していた佳奈多は重大なことに気付いた。

「酢昆布切らしてるわ……困ったわね」

机の上にある目覚まし時計で時間を確認すると、午後十時半を回っている。

「こんな時間じゃ門限は過ぎてるし、外出するわけにもいかない……寮長の私が規則を破るわけにはいかないじゃない」

すっかり集中力を切らした佳奈多はベッドにドサッと倒れ込む。

「もっと早く気付いて買い込んでおくべきだったわね、不覚だわ……」



「夜だってのに蒸し暑いな、アイス食いてえ……」

勇平は部屋の壁掛け時計に目を向ける。

「十時半か、門限過ぎてるから買いに出らんねーしなー」

諦める気にもなれず、気分転換という名目で勇平は自室のドアを開け、校門へ向かって一人歩き始めた。



勇平が男子寮を離れ校門まであと一歩というとき、街灯にうっすらと照らされた人影を見つけた。

「あら?」

人影の正体は佳奈多だった。

「ん? なんでニッキがこんな所にいるんだ?」

自分のことは棚に上げ、勇平は疑問をぶつける。

「勉強してたら集中力が切れたから、休憩がてらパトロールに来ただけよ」

寮長としては真っ当な理由だ。校門がなぜか開いているなんてことを期待してここまで来た、なんて言えるわけがない。勇平は心のなかで舌打ちをした。



何かの間違いで校門が開いていれば、買い出しくらい行けたのに。ましてや勇平と鉢合わせしてしまったのだ、仮に開いていたとしても外に出るのは不可能だろう。

「校門はちゃんと閉まっているわね」

佳奈多は平静を装いつつ、寮長としての責務を全うする振りをして場を誤魔化そうとする。

「当たり前だろ、警備員さんがちゃんと閉めてるんだから」
「分かってるわよ、でも万が一っていう場合もあるでしょう?」
「ま、確かにな」

うまく誤魔化せたことに安心しつつ、佳奈多は呆れたように思った。
──勇平は真面目ね。



──ニッキは真面目だよな。
校門がしっかり施錠されていることを確認する佳奈多を見ながら、勇平は苦笑する。
その刹那、校門の外から突然声が聞こえてきた。

「あーん、やっぱり締まってるし、どうしようかなぁ……」

すかさず佳奈多が声の主に問いかける。

「そこに誰かいるの?」
「きゃっ、わ、私は別に悪いことしてませんよ。ちゃんと外出許可証も貰ってますから!」

勇平にはその声に聞き覚えがあった。

「その声、サキサキか?」

校門に近寄ると、門の向こうには締め出されて困り果てた咲子の姿があった。佳奈多も勇平の隣に駆け寄ってくる。

「およ、ゆっぺーセンパイ、寮長も」
「校門の外で何やってんだお前?」
「実家に呼び出されて今戻ってきたところなのよ」
「門限は過ぎてるのだからもう帰ってきてるものだと思っていたわ、連絡してくれれば開けておいてあげたのに」

咲子はポケットから携帯電話を取り出すと電源ボタンを押してみせる──全く反応しない。

「すみません、携帯の電池切れちゃってまして」

その言葉に佳奈多はひとつ溜息をつく。一歩間違えば朝まで締め出されていたのだ。

「まったく、気を付けなさいよ。たまたま私たちが居たから良かったものを」

軽い叱責に咲子は「すみませんでした」と頭を下げた。このまま佳奈多の説教タイムに入るのはまっぴらごめんだ、勇平は「まあまあ」と間に入り、咲子に向き直る。

「それよりサキサキ、お前いま原付だよな?」
「え? うん、そうだけど」

キョトンとする咲子に対し、何かを企むような笑顔で勇平は続けた。

「鍵取ってくる間に、コンビニでアイス買ってきてくんね? いま無性に食べたいんだよ!」

今度は佳奈多がキョトンとする番だった。

「ちょっと、勇平?」
「買ってくるのは別に構わないけど、ちゃんとあとでお金払ってよね」
「そんなの分かってるって」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」

すかさず佳奈多が割って入る。バツが悪そうに押し黙る勇平と対照的に、軽い口調で咲子が問い掛けた。

「あ、やっぱりダメですか?」

佳奈多は再び溜息をつくと、咲子に微笑みかける。

「今日は目を瞑っておくわ。一応まだ帰ってきてないのだし」

許可が下りたことを知るなり、緊張の糸がほぐれた勇平が口を開いた。

「ぜってー怒られると思った……」

すると佳奈多は自嘲的な笑みを浮かべて勇平に顔を向ける。

「私だって鬼じゃないわよ」
「えっ?」

勇平が冗談交じりに聞き返すと、今度は冷徹な表情に変わり「鬼になろうかしら」と佳奈多が低く呟く。

「すいませんでした、佳奈多様」
「決着ついたみたいね。アイスだけでいいの? 二木寮長も何か買ってきましょうか」

咲子からの提案に佳奈多は少し思案する──振りをした。

「私は、酢昆布買ってきてもらおうかしら」

意外なリクエストに咲子は戸惑う。

「箱買いで」
「箱!?」

予想の遥か斜め上を行くリクエストに素っ頓狂な声を上げる咲子に、勇平が助け舟を出す。

「こいつめちゃくちゃ酢昆布好きなんだよ」
「へぇー、そうだったんだ……」

佳奈多が「別にいいじゃない」と不貞腐れながら校門に背を向ける。

「鍵取ってくるから、渡辺さんもさっさと行ってこないと締め出されるわよ」
「あっ、はい! ありがとうございます」

咲子は佳奈多に感謝の言葉を告げるとヘルメットを頭に付け、原付にまたがる。カブ特有のエンジン音が静かな夜の学校に響いた。エンジン音に負けじと勇平は咲子に叫んだ。

「気をつけて行けよ」
「分かってるってー」

その一言を残し、咲子を乗せた原付が走り去っていく。再び静寂が訪れ、鍵を取りに戻る佳奈多を追いかけた。

「なあ、ニッキ」
「何?」
「お前、もしかしてコンビニ行こうとしてたのか?」

勇平は敢えて疑問をぶつけてみた。佳奈多は一瞬ピタリと止まり、何事もなかったかのようにまた歩き始めた。

「そんなわけないじゃない」
「はは、だよなー」

勇平は佳奈多に合わせて乾いた笑い声を上げる。



二人とも、思っていることは同じだった。
──危なかった。
最終更新:2013年10月09日 23:24