彼女は高校を卒業した。
師である己己己己は幼い頃から今までずっと彼女の面倒を見ていたが、彼女の父は困ったように彼にこう言った。
「いや~、なんかね、あの子、よその大学に行くって言ってきかないんですよ」
父の言うことを聞く子供でないのは昔からだが、今回の拘りようはいつにないレベルのものらしい。
自分一人で荷物をまとめ、最近ではあまり口も開かないという。
理由も話そうとしない、と父親は寂しそうに呟いた。
そして彼女は、彼のところに挨拶に来た。
いつまでも側にいるのだろうと思っていた彼女が別れを告げにくることに、妙な気がした。
「今までありがとうございました、師匠」
まるで今生の別れのように、彼女は深々と頭を下げる。
修行は怠らないように、身体には気を付けるように、などとそれらしいことを話した後、彼は気になっていたことを彼女に尋ねた。
「何で、こっちの大学には進まなかった?」
一瞬だが彼女の表情が崩れたのを、彼は見逃さなかった。
「苦しいからです」
間を置いてぽつりと彼女は言った。
思案の果てに出した、そんな真実が見える。
何時だって彼女は嘘を言わない。
誠実であろうとするその態度を、彼は昔から好もしく思っていた。
「何が?」
本当は、聞いてはならないことかもしれない。
彼が彼女に深く何かを聞こうとすることは、基本的にないことだ。
「師匠の隣にいるのが、辛いのです」
返ってきた答えは、想像よりも柔らかな痛みを伴っていた。
「中学の時、私は師匠にちゃんとお慕いしている旨をお伝えしました。
師匠はそれに応えて下さいませんでした。
それに、何もなかったような師匠の態度も有難い……ものでした」
事実そう思っていたかどうかは、彼女も半信半疑なのだろう。
自らの感情を吐露するのが罪であるかのように、苦悶の表情が見え隠れしていた。
彼女の悲しい顔を見るのは何処か辛く、彼も顔をしかめてしまいそうになる。
「でも」
息をつき、彼女は静かに言った。
「師匠の『僕には見えない』が、とても……とても悲しかったのです」
何処にも置けず誰にも言えない気持ちを、彼女はずっと抱えていた。
そしてその感情は、存在を唯一知っている彼にもなかったことにされ、行き場をなくして閉じ込められていた。
その心の悲鳴に気付かず、あるいは気付かない振りを出来るほど、彼女は残酷でも鈍感でもなかった。
純粋故の苦しみを、彼の隣で常に感じていた。
初めて、自らの行為が間違っていたのかという考えが彼の頭をよぎる。
しかしすべてが遅すぎた。
「だから私は、戻ってきません。
師匠にもお会いしません」
感情を越えるほどの悲しみを、彼女は知ってしまっていた。
切なく笑うと、彼女は口をゆっくりと甘美に開いた。
「ありがとうございました」
彼女の声は、遠かった。
「さようなら、師匠」
苦しみをなお抱いていこうとする彼女の姿を、己己己己は今でも忘れることはない。
ドイツ下旬です。
師匠攻略失敗からかなり後のお話。
あっさりと何もないことに出来る師とは異なり繊細な気持ちを抱えて懊悩する彼女。
朝の登校前30分程度で書いたものです。
師匠視点だと何だか新鮮にして、『彼女』シリーズらしくなくなることが判明しました。
『卒業』は高校と師匠との二つをかけて。