抵抗するだけの気力は残されていなかった。
私は灰色の壁を見ながらぼんやり感じていた。
何故私は出張に来ているだけなのに、いつもこの男と同室なのだろう。
何故私は妻を愛しているのに、この男の要求を呑んでいるのだろう。
「もう少しだから待ってて、浅緋」
私から言うことは何もない。
普段呼んでいる『雪君』が『浅緋』になっていることも、もうどうだっていい。
あれほど妻以外の人間に名前で呼ばれることに抵抗を感じていたのに、
今となってはそれも遠い昔のことのように思えた。
壊れた人形のように、パジャマを着た私はベッドに座っている。
寝ていても叩き起こされることは分かっていた。
だから起きている、それだけだ。
薬指には銀色の結婚指輪。
愛おしく思う銀の柔らかい輝きを、二度と届かないものと私は知っていた。
内側に妻の名が彫られたその指輪を指先まで外し、文字を指で辿る。
決して冷たくない感触が私の心にしみ通って、そして影を落とした。
「おまたせ。偉いね、起きてて」
くすくすと笑いながらバスルームから出てきた
春夏秋冬黝織さんは真っ直ぐにベッドへと歩み寄ってきた。
彼は私の髪を撫でると、ご褒美とでもいうように頬に触れ、そして唇を重ねた。
わき上がる嫌悪感も何処か希薄で、私が生きているという事実までが遠く感じられる。
「嬉しいよ、素直に育ってくれて」
違う。
そうさせたのは貴方に他ならない。
考えながらも、それを口に出すことはない。
私は観念して目を閉じた。
彼が微笑する気配だけが、濃厚に漂っていた。
◆
いつからこんなことになってしまったのだろう。
時折、分かり切ったそんなことを考える。
李乃さんはソファに座り、電源のオンになったテレビを前にしながら
静かに本のページをめくっていた。
紙の音。
その調子は初めて聞いたときから変わらなくて、
変わってしまっただろう自分に改めて嫌気がさす。
唯一幸せを感じられる、妻の側でさえ
こんなことを考えてしまうことにも気付いていた。
「李乃さん」
ソファの後ろに佇んでいた私は、妻が振り向く前に彼女の首に腕を回した。
気配を乱さずに、李乃さんがこちらを顧みる。見なくても分かっていた。
彼女はなにも言わなかったが、私に説明を求めている。
しかし、私は答えることが出来ない。
答えることで彼女の耳を、そして彼女自身を穢してしまうのが怖かった。
軽蔑されて、嫌われることも恐ろしくてたまらなかった。
だから。
「好きです、李乃さん」
問われる前に、言いたいこととはかけ離れた、
しかし限りなく正直なその想いを、そっと。
聡明な彼女が何かに気付かない筈はないと知っていながらも、
それくらいしか他に伝えられるものはなかった。
そう考えていることさえ理解されているのだろうか、
李乃さんは雪のように静かに、私の腕に触れてくれた。
◆
「やつれたんじゃないか」
上司でもある鴨脚紫檀さんは、久し振りに一対一で話した際にこう言った。
「そうでしょうか」
曖昧な返事しか出来ず、ますます嫌気を感じた。(でも何に?)
「雪君、最近顔色悪いですよね。早退させてもいいんじゃないですか?」
同級生だった、そして今では同僚でもある遊馬菜種さんが、
心配そうに紫檀さんに言った。(目立ちたくないのに!)
紫檀さんが頷くのと菜種さんが私の腕を引っ張るのとがほぼ同時だった。(ああ、でも苦しいのです)
ふと後ろを見やると、黝織さんが私を眺めているのがすぐに知れた。(やめろ!)
菜種さんに引きずられるようにしてオフィスを出ながら、
私は黝織さんの表情を忘れることは出来ないと感じていた。
(そのときの、彼の笑顔といったら!)
◆
「ねえ、浅緋」
その声は残酷なくせに甘くて、愛情を喚起させそうなほどに優しく。
「俺は君の中で何番目?」
少なくとも、一番なんかじゃない。
「俺は、一番じゃないと嫌なんだ」
一番は李乃さんだ。これだけは譲らない。
「ねえ……二番でもいいけど、二番じゃ駄目なんだ」
その考えはまるで恋する乙女のように理不尽で、
けれどもそうでないことも私は確信していた。
黝織さんは私の愛が欲しいのではなく、彼に首っ丈な私が欲しいだけなのだ。
都合が良くなった私を利用し、世にも酷い仕打ちをしたいだけだ。
彼の残酷性は身にしみて分かっていた。
「浅緋、おいで」
彼の手が伸びてくる。
「嫌です」
正直なところをはっきり言ったつもりだったが、声は小さく、震えていた。
悪魔のような男を何とかしてかわそうとするも、黝織さんは後ろにもいた。
「浅緋」
手から逃れられない。
飛び退こうとした先にも、彼がいる。
何処を見ても、伸ばされた手が。
「――――――!」
何かを叫んで、私は飛び起きた。
実際には声になっておらず、隣では李乃さんが眠っている。
そうだ、ここは彼女の部屋だった。
冷たい汗が流れていることに気付かない振りをして、
落ち着くために李乃さんの髪に触れた。
硬い手触りが、夢から現実へと引き戻してくれるようにさえ思える。
震える手が、それでも優しく動くことに安心する。
何があっても、この人だけは守らなければいけない。
あの彼のことだ、何だってするだろう。
私が害を被るのはどうだって良いが、絶対に。
この人だけは。
そうやってまた、私は眠れぬ夜を過ごした。
◆
こんな生活に何の意味があるのだろうか。
今までの幸福は一体何処へ逃げていってしまったのだろうか。
あの男からは逃げられない、しかし周りも気付かない、
私は何も言えない、李乃さんは何も聞いてこない。
死んだ方がマシだ、そう思いながら目の前の男に視線を投げていた。
「逃げちゃ駄目だよ、浅緋」
囁いたその声はぞっとするほど美しかったが、
同時に負の感情が私を刺すように痛めつけた。
笑顔には有無を言わさぬ何かが込められている。
「駄目だからね」
確かめるように念を押すように、私を壊したがる彼は繰り返した。
私は答えない。答えることも出来ない。
「約束だよ」
鮮やかに踵を返し、春夏秋冬さんは去っていった。
彼がいなくなるときは、通り魔に刺されたかのような感じがする。
いっそ死んでしまえたなら、解放されるのだろうか。
◆
早く家に帰らなくては。
私は家へと急ぎ歩いていた。
一人で夕食を取るのは嫌だった。
そんなことをするくらいなら、お茶漬けでもカップ麺でもいいから、
李乃さんの側で食べたかった。
辺りは夕闇に侵食されていて、如何にも不気味であった。
それは彼を思い出させるように、深刻に私に襲いかかる。
先程別れた黝織さんのことなど忘れて、一秒でも早く一刻も長く、妻の隣にいたかった。
「ただいま帰りました」
戸を開けて、家の中に入る。
あまり広くはないが、何よりも大切な場所だ。
しかし、彼女の声は返ってこない。
「李乃さん?」
顔を上げた瞬間に、細身長身のシルエットが目に入る。
李乃さんだ。見間違える筈もない。
その影はためらいも音もなく、すぐに私のパーソナルスペースにまで入ってきた。
直後、急激な熱が私の腹部に襲いかかった。
一瞬の後、吐き気と温かいものが口から流れる。
何が起こったのか理解出来ず、私は自分よりも背の高い妻を見上げた。
飛び込んでくるのは笑顔。
引きつってそうなっているのかもしれないと何となく考えたが、
それを差し引いても彼女はやはり穏やかに笑っていた。
ああ、刺されたんだ。
どれくらい見つめ合っていたのかは分からない。
さして長くはなかったのだろうが、私にとっては正に永遠に等しい間。
痺れるような痛みが広がり、血を吐いても私は何処か優しい気持ちになっていた。
刺されたって、仕方ないな。
望まないとはいえ、あんな酷いことをしていたのは私だから。
責められたって、当然なんだ。
寧ろ私は彼女の仕打ちを喜んでいたのかもしれない。
彼女はこうして意思を表示しているのだし、私は誰かによる断罪を待っていた。
有難う李乃さん。貴方は素晴らしい人だ。
ただ頂けなかったのは、既に腕が上がらなくなっていたことだ。
これでは、もう李乃さんに触れられないではないか……。
そう、それに少しでも明るいところで彼女を見たかったのに。
「お帰りなさい」
平常と変わらない、愛しい声で李乃さんは言った。
(ただいま帰りました)
声にならない声で答えて、私は目を閉じた。