僕は笑うと君が言う

 7月下旬の暑いその日、浅緋と李乃は空港にいた。
外では厳しい日差しが待ち構えているが、
建物の中はクーラがきいていて涼しいばかりだ。
 二人の脇にはそこそこのサイズのスーツケースが置かれている。

 そう、二人はこれから新婚旅行へ行くのだ。

          ◆

「楽しみですね」
 そんな当たり前のことを言いながら、笑みを交わす。
何せ浅緋の仕事は出版関係であるため、
籍を入れてから一ヶ月ほど経つ今まで旅行はお預けだったのだ。
直属の上司が義父の鴨脚紫檀であれば問題はなかったのだが、
運悪く独身で常に忙しい人間であった。
何時にもまして仕事、仕事。
粉骨砕身により浅緋はこの一ヶ月、働きづめにして過労気味だった。
 それが今こうやって、並んで空港に立っている。
疲れは取れていないが、最愛の妻が隣にいる。
浅緋はそれを意識するだけで頬が緩んでいた。
李乃は日頃着ている着物のまま、それを見て少しだけ笑う。
 そう、一ヶ月。
またその単語を思い出す。
夫浅緋にとってはとても長いその時間。
しかしそれだけの時間を共有したことは、まったくもって無駄ではなかった。
李乃がどういった人間か知るのには丁度良いくらいだ。

 例えば、李乃の作る料理は薄味で、
濃い味を好む浅緋はしばしば調味料を片手に食卓に着いた。
多少なら薄味にも慣れてはきたが、まだまだ適応するには時間がかかりそうだ。
 他にも、浅緋は古い洋楽を聴くのを好んだが、
李乃は全く音楽を聴かない。
CDをかけるのにも浅緋は恐る恐るといった感で、
妻がそれを気にしないということを知るまでは気が休まらなかった。
 李乃の家族と同居することは前々から知っていたが、
これまた浅緋にとっては悩みの種となっていたのである。
仲が悪いということは決してない。
義母の飛和は何かあれば気遣ってくれたし、
上司でもある紫檀は夫としての例を見せてくれている。
後者は、僅かに常から外れているような気もしたが……。
 何がいけないかというと。
 濃いのである。
 両親を早くに亡くしている浅緋には、
親というものは実に憧れの対象そのものだった。
 ただ、濃い。
 飛和は李乃に似て生真面目なのかと思いきや、
手を抜けるところは惜しみなく手を抜くというスーパ良妻賢母で、
紫檀は紫檀で問題が起こると「僕には見えない」と言い切り責任を逃れてしまう。
それを娘李乃は無言の笑顔で見ている。
浅緋はその状況に、未だに慣れていなかった。
ひょっとしてこんなにも人柄の良い李乃が結婚出来ていなかったのは、
この家族のせいではないかと疑いたくもなる。

「大丈夫ですか」
 斜め上から声がした。
見上げると、李乃が心配そうにこちらを見下ろしている。
李乃は浅緋よりも背が高いのだ。
「大丈夫ですよ。少し、この状況について考えていただけです」
 浅緋は微笑みを返した。
「状況?」
 童のように小首を傾げる李乃。
浅緋は微かに笑った。
「ええ。李乃さんと結婚出来て、幸せだなって」
 李乃はきょとんとした顔になったが、まもなく口の端を上げた。
「それは良かった」

 この結婚は契約結婚ということになっている。
見合いに近いそれは、現代社会において大いなる普遍性を持っていた。
3年、5年、10年のケースがあり、どう組み合わせて更新しようと、
契約を破棄しようとその夫婦の自由である。
更新の半年前には葉書が届くので、それを持って役所へ行けば良い。
超少子化社会の現在、子供が生まれることはめっきり少なくなったが、
そうなれば出生届を出す際に自動的に15年契約となり、
その期間が過ぎれば子供を交えて家族会議を開くこととなる。
破棄は離婚に当たらず、少々ややこしいが普通の結婚とさほど変わらない。
 浅緋と李乃の場合、まずは一番短い3年契約だ。
これは堅実なる主婦、飛和が提案したことで浅緋は納得してそれを受け入れている。
条件は鴨脚一家との同居と、契約年数をその内延ばしていくということだけ。
条件を提示されたのは最初の内だったので、覚悟も出来ていた。
 それに、初めて会った席で、浅緋はすっかり李乃に参ってしまっていた。
会って5分後には結婚を考えていたのだから、どうかしている。
帰る頃にはすっかり李乃を娶る気でいた。
ここまでくると、上司であり親馬鹿人間でもある遊馬菜種を笑ってもいられなくなる。
 気付けばうまくいき、この状態である。
幸せなのに違いはないので、浅緋は諸々の問題を即座に投げ捨てた。
にへら~と締まりのない笑みが自然と浮かんでくる。
だが妻の視線を受けるかもしれないと考え、浅緋は慌てて顔を引き締めた。
 李乃は天然テイストだがなかなか鋭いところがあり、
しかも何かを知っていても積極的に口に出すタイプではない。
こんなつまらないことで離婚に持ち込まれないとも限らない、
と浅緋は真剣に思い悩んでいた。
最早浅緋に、人を笑うだけの余裕も虚勢も残されてはいない。
以前、親馬鹿をからかっていた菜種辺りにも、
「雪君、愛妻弁当? いいねえ」
などと報復を受けている始末である。
慌ててそれを風呂敷で隠す自分にも問題がある、と浅緋は思い当たった。
そうか、だから上司兼妻の同級生の春夏秋冬黝織にも笑われていたのだ。

「パソコンは持ってこなくて良かったの」
 不意に李乃が尋ねてくる。
妻の方から話し掛けてくることは珍しいので、浅緋は驚いた。
「パソコン?」
「仕事に使うんじゃないかと思って」
 李乃の声は小さく、喧噪にかき消されそうだ。
しかし浅緋は愛情を発揮してそれを聞き取る。
「ああ、いりませんよ。
だって、折角の新婚旅行なのに
仕事の道具なんて持っていったら興ざめでしょう?」
 それに、国外へ飛ぶのだから日本と繋がるはずもない。
 浅緋は自分の言った『新婚旅行』の一言で赤くなる。
ああ、新婚なんだなあ、と浅緋は何処か感動していた。
「でも、どうしてそんなことを聞かれるんですか?」
 初対面の時からの口調で浅緋は質問する。
実質的には同い年なのだが、
何故か浅緋は李乃に対し敬語を使わなくてはならないと信じ込んでいた。
惚れた弱みなのかもしれない。
「お仕事、忙しそうだから」
「否、あれは単に休みを取るって言ったら上司が……」
 言いかけて、自分の発言が
『お前と旅行に行くために俺は苦労してるんだよ、分かれよ』
と聞こえないだろうかと浅緋は不安になり、口ごもった。
真面目一辺倒な人間が恋に走ると、
ろくなことがないという典型パターンである。
「あ、搭乗しないと」
 タイミング良くアナウンスが流れ、李乃は荷物に手をやった。
浅緋はそれをそっと押しとどめ、自分がスーツケースを手にする。
 ゲートに向かって、二人は歩き出した。
 7年後に何が起きるかなど、考えてもいない軽い足取りで。

最終更新:2009年01月23日 22:31