だから側にいてください

 雪浅緋は幸せをかみしめていた。
 空は晴れ。隣には愛妻。
それだけで何の不満があるというのだろうか。否、ない。
公園のベンチに二人で座っているというこの状況だけで、もう何もいらなかった。
「…………はあ」
 思わず息になってしまったのも、咎められることではないだろう。
妻がこちらを見ているのに気付いた彼は、優しく微笑んだ。
「……幸せです」
 李乃は浅緋よりもごく控えめに、けれど確かに笑う。
浅緋はその表情も気に入っていた。
自分が他人に拘らず生きてきたのも、今彼女を愛するためなのではないかと馬鹿げたことも考える。
 会話が必要なのではない。
接触も、いらなかった。
ただ側にいるだけで幸福を感じられるなんて、贅沢にもほどがある、浅緋はしみじみと感じていた。
それは日に必ず飲む珈琲よりも深い味があるように思えた。
勿論、その珈琲も妻が淹れるから意味があるのだが、彼は幸せにやられてそこまで意識しない。
 しかしここで座っているだけでデートと称することは、自他共に認める愛妻家の浅緋には出来なかった。
妻の為を思うからこそ、色々と考えようものだ。
「行きましょうか、李乃さん」
 そう言ってベンチから立ち上がる。
李乃も静かに、それに倣った。

 

 公園を出る二人。
その後ろで、一人の青年が彼らを見ていたことには誰も気付かなかった。

          ◆

 二人は街を歩いていく。
浅緋の顔が緩んでいるのと李乃の背が高いことを除けば、二人は似合いの夫婦だと傍目には見えるだろう。
如何せん今の状態では、嬉しげにした成人男子とそれにしずしずと付き従う女性といった様子なので多少おかしく見えるかもしれない。
しかもその男性は笑っているのに一言も言葉を発しようとしないのだから少々不気味だ。
 映画を見よう。
内容は、勿論李乃さんが前々から見たいと言っていたもので。
それから、食事に行って。
今日の為にお小遣いを節約したのだと、浅緋は心中で拳を握りしめた。
李乃は夫の様子をすべて見た上で、落ち着いて微笑んでいる。
彼女はいつであったとしても、隣に立つ男性をさりげなく支えるだけの気概も余裕も残してあるのだった。
浅緋は浅緋でそんな妻のことを理解しており、そして流石だと心から信じ込んでいた。
 言うならば、平和な昼下がりであった。
おとぎ話にでも出てきそうなくらい、晴れやかだ。
「映画にはまだ時間がありますね」
「そうですね……あっ」
 李乃の言葉に相槌を打った浅緋は、にわかに走り出した。
「浅緋さん?」
 彼女も足を速めて、夫を追った。
李乃が追いついたときには、浅緋はかがみ込んでいた。
その辺りには雑草が生い茂っている。
「あった……」
 浅緋は立ち上がり妻に摘んだものを差し出す。
それは四つ葉のクローバだった。
「差し上げます、李乃さん」
 彼の愛しい妻は、白詰草のように微笑んだ。
「有難う御座います、浅緋さん」
 李乃は黙っていたが、四つ葉のクローバの花言葉を知っていた。
きっと浅緋は知らないで、それを差し出したのだろうけれど。

「誰ですか?」
 浅緋の表情が警戒するそれへと変わった。
李乃が振り返ると、眼鏡を掛けた痩身の男性が佇んでいる。
「私達に用でもあるんですか」
 妻を庇うように浅緋は位置を変えた。
それでも彼の背が低いので、李乃からは青年がよく見える。
男性は近付いてきた。
微かに浅緋の緊張が高まる。
「これです。先程、公園で落とされたようなので」
 冷静さを崩さない天性の表情と声で、彼は浅緋にハンカチを見せた。
それは浅緋が妻に貰った大事なハンカチだった。
「これは……!」
 考えるよりも先に浅緋はそのハンカチを手にした。
そうしてから手の中のものを見つめ、おずおずと顔を上げる。
「有難う御座います。これはとても大切なものなのです」
 はにかみながら浅緋は微笑んだ。
それを見た青年は無表情を和らげる。
「勝也ー」
「今行く」
 呼んだ女性に答えると、彼は浅緋と李乃に一礼した。
「それでは、失礼します」
「有難う御座います」
 浅緋も礼を返すと、青年の姿を見送った。
真っ直ぐに前を見る若いカップルに笑いかけて、浅緋は妻を見た。
「それじゃあ、私達も行きましょうか」
「ええ」
 浅緋はそっと手を出した。
李乃は黙ってそれを取る。
 クローバは、本の間に挟まれ、栞になった。

 四つ葉のクローバの花言葉は、「BE MINE.」。

 

 15000ヒット、朱野氏からのリクエストです。
「浅緋と李乃さんのおデート風景。浅緋勘違い。ゲストで鬼いやん」
ラブいです。あまりにあまりで、途中で放置されていたのです。
クローバの話をしたところ、「つ、強いなぁあさひん。天然パワー?」と言われ、
「李乃さんツッコミ無しなんだ…さすが」とも言われました。
「私の側にいてください」が正しいあさひんの言い方だろうけれど、
訳しようによっては「俺の女になれ。」になるんですよね。

最終更新:2009年01月23日 22:32