憂鬱な気分を外に出すまいと、雪浅緋は最大限の努力をしていた。
前回の魔の出張でいささか落ち込んでいたところに、またその事態が繰り返されようとしている。
そう、出張のパートナとして選ばれたのはあの黝織であった。
あのときに散々浅緋を弄んだ挙句、今なおにこやかに話しかけてくる。
浅緋は牽制したり距離を取ったりと工夫していたが、黝織には全く通用しない。
寧ろその反応を楽しんでいるようですらある。
「どっか調子悪いん?」
黝織が尋ねてくる。
貴方と同じ部屋に泊まりたくないだけです、という一言を浅緋は飲み込んだ。
ホテルへ向かうタクシーの中で、浅緋は沈黙を保っていた。
浅緋が総気立つことに、同室だった。
先にお風呂でゆっくりすればという黝織の発言に疲労感を覚えつつも、シャワーを済ます。
本当にゆっくりしたのはせめてもの嫌がらせだ。
上がってきた浅緋を迎えたのは黝織の何ともいえない妖しい視線であった。
同性に対するものではないようなそれに、浅緋は一瞬腰が引ける。
何も言わないまま黝織は浴室へと入っていった。
黝織が入浴している間、浅緋はいたたまれないような心持ちだった。
新婚時代の妻でもあるまいしと浅緋は思うが、実際に自分の妻、雪李乃はそうではなかったと思い出す。
……どころか、新婚旅行から帰ってしばらくまで、浅緋は妻の手を取ることさえ出来なかったのだった。
大事にし過ぎたのと気恥ずかしさが先に立っていたのだが、あれは誤解されなかっただろうか……。
睡魔と猫と妻には弱いのだ、と浅緋は自覚していた。
黝織のことを考えるより妻のことを考えて脳内麻薬を大量に分泌しようとした浅緋だが、がちゃりという音が聞こえて黝織が出てくる。
おまたせとか何とか言いながら、浅緋の腰掛けているベッドに黝織は座り込んだ。
待っていない! と叫びたくなるのを堪えて、浅緋はよそを向いた。
「連れへんねえ」
言うが早いか、黝織の腕が浅緋に伸びる。
甘い香水の匂いが届いた。
浅緋は李乃の、石鹸の優しい香りを懐かしく思う。
抵抗しようと差し出した手を柔らかく握られ、そこにある唯一の装飾品――もちろん結婚指輪だ――に黝織は唇を落とした。
妻が穢されたような感じがして声を上げようとするも、その台詞は口を封じられて永遠に消え去る。
李乃さんは、気付いているのだろうか……。
出張から帰ってきたら、どんなに心と気合いのこもった料理をふるまってくれるのだろう……。
愛する妻のことを遠く考えながら――ほぼ無意識のうちに、浅緋はその銀の指輪を外した。
後書き
書きたかったのは「人様の結婚指輪に口付ける黝織」「結婚指輪を外す浅緋」でした。
浅緋、巻き込まれ不倫決定。
これで吹き矢、基、包丁で一撃なんだから報われない。