雪浅緋は疲れきった状態で帰ってきた。妻はすぐに食事を用意してくれる。
「すみません、遅くなって」
彼は疲労した表情を更に暗くさせて李乃に謝る。入社するものも多い時期だ。事情があるのだろうと予想していた彼女は微笑して食事を夫に勧めた。
「新しく入ってきたバイトの子が、どうも手間取ってしまって。少し覚えるのが遅いのと、あるいは私の教え方が悪いのかもしれませんが、それで……すみません」
まとまらないことを言い訳がましく連ねるが、自分の不手際を持ち出す辺りが彼をいまひとつ姑息にしきれていない。それが彼の美点でもある。
李乃は相槌を打って、「明日は、きっと大丈夫ですよ」と言った。
事実、翌日は『大丈夫』だった。
学生の姿はなく、その日の仕事は他の人に回されたのだ。以来その人材を目にすることはなかった。
ある日浅緋が帰宅しようと歩いていると、桜の大木のある角でぽとりと首筋に何かが落ちてきたのを知った。
不思議な軽さと家までの距離を考えると彼は家へ急いだ。
スーツよりも内側の、肌よりも上、すなわちブラウスの襟元には毛虫がついており、李乃が箸で取ってくれた。
「これで大丈夫ですよ」
「毛虫はどこにやったんですか」
彼女は非の打ちどころのない笑みだけを返した。
外に放り出しでもしたのだろうと、浅緋は追及せずにおく。
「大丈夫ですよ」
彼女はもう一度言った。
浅緋は何故か納得して、安らかな気分で眠りについた。
翌日、仕事から帰ってきた浅緋は夜桜を目にしなかった。
「角の桜の木、どうしたんでしょうか」
「伐ったみたいですよ」
夕食のお茶を注ぐことに専念しているのだろう、振り向かず李乃は答える。
「そうですか。綺麗だったのに、惜しいことをしましたね」
浅緋の言葉に、彼女も確かに頷いた。
またある日、浅緋は帰宅した。
何かを思い悩む彼の様子を見かねて、李乃が声を掛ける。
浅緋はようやっと顔を上げた。
彼が考えているのは取引先の人間についてだ。その人物がいなければ潤滑に契約も出来るのだが、偏屈振りが酷いのである。
「大丈夫ですよ」
浅緋が話すより前に、李乃はにっこりと笑った。
彼が話し始めるのを辛抱強く待つといった目だ。
浅緋は口を開きかけて――声を出せなかった。
促されるままに事実を言えば、明日には相手先のあの人はいなくなっているだろう。妻の笑みを見ながらぼんやりと彼は考える。
話すか、話さないか。
彼女の蠱惑的な微笑に誘われるように、浅緋は唇を湿らせ再び口を開いた。