路頭に迷って途方に暮れて

 彼を初めて見たとき、何て素直そうな青年なんだろうと思った。真っ直ぐな、爽やかな夏の香りがした。だがそれは正しくもあり間違いでもある。それに気付くにはそれ相応の時間を要した。
 浪人もせず留年もせず、優秀な成績で大学を出たばかりの青年だ、失敗を知らない甘さを持っている、そう私は考えていた。だが彼は私の想像よりも遥かに険しい道を歩いてきていたし、また遥かに優秀だった。今でも勿論そのままである。上司に当たる私は彼に仕事を指導したが、飲み込みは誰よりも早かった。そして、決して失敗をすることもなかった。自らの義務に向かう姿は常に真摯だったし、その目つきは彼の持つどこかぴりぴりとした雰囲気に似つかわしいものだった。夏を連想したのはその目のせいかもしれない。彼が成功していく様を見るのは心地良かったし、私も鼻が高かった。他の社員に比べると多少関わることが多かったというだけなのだけれど、それでも彼を見るのは面白かった。いつか崩れていくんじゃないかと不安になるような姿勢が、大好きだった。
 どうして過去形になっているかというと、彼は別の部署に移ってしまったからだ。物凄い勢いで頭角を現した彼はいつしか私を抜き、係長を抜き、あっさりと課長になった。彼は決して驕るような真似はしなかったが、その目は最初に見たときよりも高いところを捉えていた。あの目で見ていた。決して折れたり曲がったりしない、けれども見ていると悲しくなるような、あの目で。伸ばした背や機敏に書類を捌く手や、柔らかいのに虚無的だと感じてしまうような微笑。もうそれらを見られなくなるのかと、私は残念に思った。私の声の届かないところに行くのだ。彼は。
 それ以来、彼の存在を感じるためのデータは手に入らなくなった。活躍や出世については嫌というほど耳に入ってきたものだが、あの優しさや不思議な存在感はもう身近に体験することがなくなった。彼と、もう一人国内課で有名な男の話が国際部でもよく話題になっていたものだ。その男は彼とは似ていないらしく、女性についての悪い噂の方が多く流れていた。事実かどうかはどうだっていい。それよりも私は彼を気にしていた。彼は恐らく私のことなど覚えていないのだろうが、あれほどの人間は忘れがたい。私達の間に何か特筆すべきことがプライベートであったという訳では全くもってないのだが、それでもだ。こちらの課でも彼は女性に優しかったし、それでいて公正だった。そのバランスを極めて難しいところで保っているということは男性にも女性にも成しがたい。こういったことを軽々と日常的に行っていた彼は、様々な意味で珍しいのだ。
 そんな彼を見掛けたのは、日曜のことだった。デパートに足を運んだ私は彼を見た。表情は嘘のように明るく、彼の周囲に漂っていた翳りが減少していると感じた。声を掛けよう。そう考え、一歩彼に踏み出したとき。
「李乃さん、これはどうですか」
 なめらかに、彼は女性に近付いた。その声は私の知るものではなかった。柔らかく温かい声。呼び掛けられた、彼よりも背の高い女性は着物を着ている。彼女はゆっくりと呼び掛けに応えて、彼を振り返った。
 そこから彼らが何を話していたかなど、私は知らない。ただ覚えているのは、幸せそうに笑い合う二人があまりに私から遠いところで温かさを共有しているのだ、ということだけ。私はそんなことをつゆ知らず、以前の彼を勝手に想像していた。想像する間は自由だ。誰にも言わなければ責められることもない。だが現実との差を自ら目撃して、想像を抱き続けることなど出来よう筈もない。現実というオリジナルがある限り、それから逃げ出すことは出来ないのだ。知ってしまった以上。
 幸せそうだな、と思った。それだけだった。それだけしか思ってはならなかった。
 それ以上のことが自分を惨めにさせることなど、私の目にも明らかだったのだから。

 気が付けば私は非常階段の横にいた。壁に手をつき吐き気を堪える姿は自分でも何処か滑稽だった。髪が額から一筋落ちていて不快だ。ハンドバッグを持つ手はおかしな力が入っていたらしく、掌に爪の跡がくっきり浮かんでいる。駄目だ。ここから離れなければ。そう、なるべく早く。私は髪を整え姿勢を正す。無理があったが、しないよりずっと良かった。こんな姿で歩くことなど出来ない。
 荒く呼吸してじわじわと体勢を直す。誰も私を見ていない。それを確認してから落ち着くよう全身に指令を出し歩きだした。いつも足を運ぶ売り場にだって行きたいとは思わなかった。何も見たくない。何も見ないように、足元に視線を落として、ただ出口に向かって歩けば良い。ただそれだけ出来れば良い。それだけで良い。
 呼び止められた。声に反応して私のすべてが止まる。聞き覚えのある声。恋していた訳ではないけれど、好きだった声。今なお好きな声。身体がそちらを向く。気持ちなんてものともせず弾き飛ばして、私はそちらを向かざるを得ない。私の声は届かないくせに、どうして彼の声は私に真っ直ぐ入ってくるのだろう。
「お久し振りです」
 人懐こい表情で彼が笑い掛けてくる。部署移動の時に見せた笑みと何ら変わりがない。彼の言葉のように、一体どれくらい会っていないのだろうか。ぎこちなくこちらも微笑もうとするが巧くいかない。疲れていると思われているかもしれない。
 彼が私を食事に誘う。断れる筈がなかった。
 彼の傍らにあの女性がいたとしても。

 彼は私と女性をオフィスから少し離れたところにある喫茶店へと連れて行った。こんなところにこんなものがあったのか、と思わせるようなひっそりとした店だ。まるで彼の連れた女性のように。感じが良く落ち着いているそこに入ると、お気に入りのお店ですから、内緒ですよ、と彼は笑ってみせた。
 女性は李乃といい、少し前に彼と見合いをしたそうだ。それ以上のことは彼も彼女も言わなかった。私としても尋ねる流れではないので、何も言えない。それぞれが簡単な軽食と飲み物を注文して、表面的な会話を交わす。これが成長か、と私は思う。付き合いというものはこういうことだ。文句はない。表面的には。
 彼女は悪い人間ではなさそうだったが、受動的なその態度は私の気に食わなかった。自ら話を振ることはこの会話においては皆無で、彼に促されてやっと発言する、といった印象なのだ。消極的な敵。そんな相手だろうと私は直感する。私が女である以上、彼女もそうである以上、敵か味方かのどちらかしかない。そして殆どすべての女は敵対するのだ。最初から、彼女は私の味方などではなかった。敵なのだ。
 彼が手を汚しご不浄に立った時、私は彼女と二人きりになった。彼に早く戻ってきて欲しいと考えているのは私だけではなかったろう。几帳面な彼は恐らく緑色の液体石鹸で丁寧に手を洗っている。その泡を思いながら私は彼女をじっくり見た。
「貴方が彼に愛される筈、ないと思うけどね」
 彼女は初めてまともに私を見た。微笑は変わらない。だが先までとは違った顔。何も言われなくとも判断出来た。この女は私を哀れんでいる、と確信する。刹那、私の手は上がっていた。フォークが飛ぶ。グラスが割れる音。目の裏にちらつく赤。
 何が起きたか分からなかった。着物を着た相手に戸惑っていた私は彼女の顔を狙い鋭く爪を武器にした筈だ。結果は彼女の首に小さな蚯蚓脹れを残しただけで、そして私のブラウスに血が滲んでいた。傷付いたのは私の腕の方だったのだ。頭に血が昇り、弾けようと沸騰する。
「貴方こそ、その筈はありません」
 断定的な口調だった。静かでいてはっきり言う声は、染みるように私の脳を侵食する。

 ガラスの音を聞き付けた彼が戻ってくるまでに、そう何分もかからなかっただろう。私にとってはあの女と向かい合う、針の筵に座らされたような時間、ずっと長いような、そんな感覚。ハンカチをポケットに収めることもしないなんて、やはり何処か子供じみている。頭の一部がぼんやりしているのだろう、ブラウスを赤く染めながら私は思っていた。
「李乃さん!」
 第一声はそれだった。走ってきた彼には彼女しか目に入らないらしい。怪我はないですか、ええ大丈夫です、慌てたような彼の声とおっとりと答える彼女の声。出ない私の声は届く筈もなかった。誰にも届く筈なんてなかった。
 やっと私の存在を思い出した彼は気まずそうに、大丈夫ですかと尋ねてきた。彼は簡単に手当てもしてくれたけれど、その手も声も気配さえも優しかったけれど、それであってどこか遠かった。彼に自覚がなかろうと私は知っていた。何故なら彼の目が私を見ていないということに、彼自身は気付いていないからだ。自分の目の先に誰がいるか、それさえ分かっていないなんて。やっぱり甘ちゃんだ。そう考えながら、この傷が一生残ればいいのに、そうすればいつでも手当てしてくれるのに、と思ってみる。その度に空しくなるのは分かっているのだけれど。彼はそんなこと、気付こうともしないのだろうけれど。
 ねえ。貴方の目には私が見えますか。

最終更新:2009年01月23日 22:42