柔らかく殺される。
凍てつく指先に体温が蕩ける。その手は冷たいのに、翻弄されている内に熱いようにも思えてしまう。指だけが意志を持っているように感じるのは何故だろう。温度差はどんどん広がって、そうしてなにに行き着くのだろう。体温の差があるのに、距離は灼き殺されるほどにも熱く近い。
「人は死んだらどこへ行くのでしょうか」
薄明るくなっているのは、太陽のためではない。間接照明が柔らかくすべてに濃淡を与え、問いかけた浅緋にも問われた黝織にも暖かな色を落としていた。ホテルの一室は音も音楽もなく、怠惰な気配とただれた余韻ばかりが濃厚に残っている。朝は遠く、その呟きは夜を堪えるためのものにも聞こえた。
「さあ。忘れていたよ」
目をぱちぱちさせた彼は、どこか子供のような顔つきでそう答えた。日焼けした肌に指輪の跡はない。彼は指輪を着けない。それらにある種のイノセンスを感じながら、浅緋はすべてを冒涜し尽くすその人間を眺めた。
「なんですか、それ」
亡くなった人をなんとも思わないのですか、と彼は責めるように言う。忘れてしまう態度にではなく、死人に鞭打つような忘却という道具に、浅緋は神経を逆撫でされたのだ。妙に人情の厚い彼は、黝織が自分にする仕打ちよりも周りの人へ与える害の方が憂慮すべきものだと考えているのだろう。心優しいと言ってしまえば美徳になるが、自らを後に回すその姿勢は懺悔のような祈りにも似て見るものを切なくさせた。黝織にはそれはない。が、逆に浅緋の態度を楽しむ残酷性は持ち合わせている。
「目を閉じて」
離れた場所から、彼は浅緋に促した。素直に浅緋は従う。瞼に触れられるのではないか、とも思ったが、それはなかった。見えない状態で優しくされれば好きになるのだろうか。誰にも許されなくて構わないから、それだけは避けたいと強く考える。だがなにも起こらない。なにも。
「祈って」
言葉だけが降ってきた。こっちを見ろ、と言われるよりは良い。しかし。
「なにをですか」
「なんでもいい」
彼は祈った。愛する人の幸せ。自分の身の無事。両親や祖母を初めとする、もう会えない人達へのはっきりしない感情。祈りよりもそれは愛情に似た。
「開けて良いよ」
思考の腰を折られたのに、不機嫌になりもせず浅緋は目を開けた。黝織は笑っていたが、その瞳は冷たい。彼の指のように、感情を見せない微笑。誰がその奥を覗けるというのか。
「それで、なにが変わった?」
したことは、浅緋が目を閉じて開けたこと。瞬きを引き延ばすようなそれだけのこと。部屋の中で起こったのはそれだけだった。後はただ、黝織の目。
「なにも救ってはくれないよ」
神様も、同僚も、妻も、誰も。黝織の指がまた浅緋を寝台に横たえる。冷たい手が布越しに触れた。永遠のぬるま湯の中で氷が流れるような、この呼吸さえ指に封じられてしまいそうな。触れられる度に転生を繰り返すこの不思議な指が、太陽が燃え尽きるまで触れているのだとしたら。夢であれば、心地良いのかもしれない。
触れられると思考が濁る。電流の走る、生ぬるい感情に気付く瞬間。意識すれば儚く消え、てのひらで受け止めれば溶けていく。触れるなと言えたなら良いのに、指は抵抗も言葉もほぐし、そうしている内に夜が降りてくる。黝織の舌が落りてきて、浅緋は中空を見ながら呟いた。
「汚い」
胸元で黝織の動く感触がした。胸に濡らしたタオルを置いておけば、この空調の中、肺炎で死ねるのだろうか。本当ならば、布を乗せるだけで良い。脳内麻薬が見せる甘い誘惑は、けれども死に限られたことではなく。
「知ってしまった罪だよ」
知らなければ良かったと、そう思うようなことも罪になってしまうのだろうか。知りたくもなかったことを、強いて覚えさせられたことが。話したがる人差し指が浅緋の言葉を拒み、幸運を思う筈の親指を黝織は舌で確かめる。あの人との誓いをした薬指は既に二度目で絡め取られ、彼の同じ指もとっくに厳粛な制約からは解放されていた。感触ばかりが甘美で冷たい。
「なんて、」
なんて、いやらしい。口に出したと信じていたが、黝織の反応はない。彼の言葉だったのかもしれない。どちらもそんな台詞がなかったかのようにしているから、その存在は疑われる。死んだ人どころか、生きている人間さえどうでも良くなっていることに浅緋は気付いているのだろうか。自らの非難したことを、いま率先して行っているのは浅緋なのだ。それに気付かないのは、黝織の中指が貶めているからか。それぞれの役割を持って、すべてが共謀して浅緋を堕落させているという証拠なのだろうか。
「このままでいてね、浅緋」
意識を手放したかどうか分からない暁に、浅緋は微かな小指の摩擦と囁く声を聴いた。その接触は神秘的にも感じられて、何処か安心しながら彼は躊躇うことなく頷くと眠りに落ちた。
私はもう、貴方を殺せない。
指編A。前後編だけれどもそれぞれ独立しています。
後編から先に書きました。あちらは現実味が後回しになっているので別物として。
こちらはとりとめのない浮遊感に任せて。沢山のテーマを入れるとこうなります。