父の事もあります、

小学生の初盤ぐらいから学用品を買い与えてくれなかった事を覚えてます。
習字道具 体操服 ペンケース ノートなど
周りの子は持ってる物が持ってない。
貸出の鉛筆 真っ白の紙を1枚貰っては移す。
恥ずかしくてたまらないのが覚えてます。
僕はある日、学年が上がるに連れて
勉強をするのが嫌になりました
理由はたった一つで、恥ずかしいからです。
馬鹿と思われてもいい、恥ずかしさを紛らわすなら学習放棄は出来る
そんな思い出いっぱいでした。

よく放課後に呼び出され
親に「給食費を出すように」と封筒を何回も渡された事も鮮明に覚えてます。
何回も説明されたのが理由で、給食を食べたくなかった日も沢山ありました。
それをきっかけにお昼から登校したりしてた日もあります。
日が重なるにつれて自分が惨めにも見えてくるもんです。
登校しない日もありました。

ある日は兄ちゃんの友達が僕らの家に居候していた時でした
父はあまりにお金がないと言い
いろいろな過程を経て(うろ覚えです)
最終的には僕と兄ちゃんと友達で食品を盗ることを任命しました。
僕は豆腐とうどんなど、兄ちゃんと友達はお米やビール(父が飲む)を盗んでは
家に持ち帰り、「これぐらい盗ったよ!!」と自慢をしていた日々が何日か続きました。
当時は窃盗団みたいにカッコよく見えてた自分も居ました
褒められて気分が良くなり、さらに励む自分たちも居ました。

とても記憶に刻まれてるのはラーメンの話です
僕が小学校高学年の時でした
インスタントラーメンを作っていてラーメンを焦がしてしまいました。
父はとてつもなく怒りました。
僕は間違ったことをした この事は悪い事だと当時から想い続けてます。
嫌だった思い出と思うのは僕は食べれないと判断し
ビニール袋に捨てたのがきっかけです。
父が僕の顔を踏みつけました。
そしてゴミ袋からラーメンを取り出し、「もったいないから食え」と言われました。
自分なりのプライド、そんなものはもう無かったです。
泣きじゃくりながら一生懸命焦げたラーメンを吐きそうになりながら食べました。
涙が畳に染み込んだ事さえ覚えてます。
今でもこの話をすると涙目になるぐらい嫌でした。


兄ちゃんが働き出した時、父にお金をあげる目的で働いてると言いました
親たちは褒めに褒めてました。
僕もそんなお兄ちゃんをカッコイイと思いました。
15歳を過ぎ、働きました。
ただ、普通に勉強する憧れもなかったわけではありません。
ですが、小学校でさえ学習用具をかってもらえなかったので、
いきたいっていってもいかせてもらえないと思い、
そして兄のようにほめられたく 働き出すと急に優しくなりました。
なので僕も三万円をおさまえました
毎月毎月働いてはあげてました
異変に気づいたのは働いて1年半年ぐらいです。
いつのまにか義務付けられてる事に気づきました
働いてはお金をあげる
それとは別の件でお金を貸す
そして返され数日後貸すことを要求されました
結局アルバイト代ほぼ 父に預けているようなものになっていってると薄々感づき
次第にでかくなってく金額に戸惑いを隠せず、
ついお金がない と言い張ってみました。
すると「お前らご飯が食べれなくなってもいいんか?知らんぞ?」と言われました。
びっくりしました、つい数ヶ月前の話です。
ビールは箱を買う タバコを買う 競輪を辞めない いろいろおかしい点はあります。
がどうでも言い出せません。
怖いんです。

結構前ですが、
水道が止まった時がありました
そんな状況を一部始終見届けていましたが。
「殺す気か?」など電話越しで大きく怒鳴りつけ、無理やり水道を繋げさせていました。
中学校の頃には僕やお兄ちゃんの弁当が作られませんでした。
次第には担任の先生が危機感を覚え、弁当代をお子さんに預けるよう机上で土下座をしたそうです。
最初の頃はお金をもらってましたが、やはり数日後にはもう貰えませんでした。

このように 父は話し合いでなんとかなるというより その場で職員の人に対応しても
そのあとは放り投げるように捨てます。
僕が通報したことがばれて、もし 保護されなかったら
僕はもう通報できないくらいの仕打ちを受けると思います
だから僕は、保護してもらえるという確信がもてるまで 怖くて名前や住所をいえないんです

昔お父さんお母さんは弟が児童相談所に通報されそうになったとき
ネットで調べて対策をとったりして必死に庇ったり
僕の表彰を飾ってアピールをしたりしていました。
今後児童相談所の方がきてもそういうごまかしをすることもあると思います
最終更新:2013年04月19日 00:46