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着剣されたM14の銃口が、発射炎、銃声、排莢と共に跳ね上がった。これが曲銃床を持ったライフルの悪い点だと、射手は思った。
的を外すことは無いし、押さえているからそこまで跳ね上がるということはないのだが、跳ね上がりが無ければいいのは当然のことだ。
といっても、直銃床に改造するような余裕は今の射手には無かった。というのも、それは、立場上は上官となっている人物から受ける、
初めて会った時より続いている性的な悪戯と、そうではないが性質の悪い悪戯の多さと、部下の手の掛かりようが想像以上だったからだ。
別隊の兵士を模擬戦闘時に「誤射」する事件は、誰の努力にも関わらず最近に至っても何件も何件も続いていたし、部下たちは射手に、
必要以上の親愛感を感じているらしく、上官と部下の関係に相応しからぬ行為に敢えて及ぼうとする者も少なくなかった。多かった。
例えば、ある部下は櫛を片手に射手の艶やかな髪の毛を梳こうとしたし、それを黙認すれば他の部下が櫛を片手にそれぞれ迫ってきた。
あまつさえ、返礼として射手も最初の一人の髪を梳いたりしたものだから、残りの連中が後に求めることなど分かり切ったことだった。
他にも娯楽が無い為に艦内射撃場を全て占拠し、他のギルド兵が使おうとしても使えないようにしたり、彼らが文句を言えば無視するか、
しつこく言い下がって来た者に対しては実力行使さえ厭わず、その上に何処かの馬鹿が射手の上官に部下たちへの処罰を求めたせいで、
もっと面倒なことになった。射手はその問題と責任をどうにかすることに奔走させられたことに加えて、自分たちを守ろうとしたのだと、
恐らくは上官による誤った情報の伝達により、部下たちの射手に対する好感情がますます上がり、よって扱い難さもついでに上がった。
射手は所属する組織の需品部に頼んでみることも考えたが、それは出来れば取りたくない手段だった。需品部の連中は嫌な奴ら揃いで、
彼らのテリトリーではちょっとした動き一つするのにも疲れを感じさせられる。そうでなくても射手は自隊の隊員以外とは話もせず、
隊員とさえそう長くは話さないことで、その立場にそぐわない行動ではないかと影で噂されている存在だった。射手は隊長職にあった。
本来ならそれは悪戯好きの上官の仕事だったが、本当に情けのないことにそいつは職務を全て放棄し、お気に入りの隊員一人を連れて、
いつも好き勝手に振舞っている。これでも抑えているのだというのは二人から別々に聞いた言で、抑えていなかった場合を思うと、
代理で隊長になった副隊長はいつも頭が痛くなるのだった。M14の弾倉が空になるまで撃ち尽くし、再装填レコードの更新を試みる。
マガジンキャッチを押して弾倉を外し、落ちる空弾倉には気を向けず、左手で新たな弾倉を掴み、持ち上げて、背後の気配に気付く。
射手は普段通り悪戯がやって来たのだと理解した。歩く災難、悪意の無い脅威、本来あるべき愛情表現とは掛け離れた愛情表現をする女。
それがペトルッツィ隷下の粛清部隊に所属するアンドロイド隊隊長であり、個人レベルでは最強に限りなく近い戦闘力の持ち主であり、
マダム・マルチアーノの粛清の為、粛清部隊長の富と出世の為、金に糸目を付けない方針と、節約出来るところは節約する理念の合体で、
作り上げられた新型アンドロイド、開発コードはニグリティア・アイオーン、彼女の被害者曰くどうしようもない色情魔の褐色女だった。
彼女が彼女の部下として日々真面目一辺倒気味に働く相手の場所に来る理由は幾つかある。一つは業務連絡。一つは暇潰し。一つは悪戯。
そして毎日毎日悪戯をされ続けた相手は、いつの間にか彼女のやりたいことを見抜く能力がその身に備わってしまった。射手は確信した。
これは悪戯をしに来た時の雰囲気で、だから彼女はこれからほぼ予想通りの行動を行うのだろうと。思ったことは違われなかった。
右手が射手の上半身、左手が下半身へ向かう。これまで立場に遠慮して大した反撃をして来なかった被害者は、レコード更新を邪魔され、
今度こそ許してやらないと決意した。スリングで体に引っ掛けていたM14のハンドガードを左手で掴み、右手で銃床のくびれを持ち、
ニグリティアの両手が射手の軍服の下からそれなりの自己主張を行う乳房と安産型ではないかと評価されたことのある尻に到達する前に、
彼女の胸を強打してやった。上官の着込む改造軍服の胸部で止まる銃床。ニグリティアは銃床をちらと見て、更には部下の顔を見ると、
しなを作ろうとして腹部に再打撃を食らい、身を折ったところに膝蹴りを数発、堪らず顔を上げた途端襲い掛かって来た頭突きを受けて、
案外に呆気無くノックアウトされた。どうせお気に入りの部下が何処かに体を持ち去って行くだろうと思い、部下は銃を片付ける。
それもこれまでの経験からだったが、大抵四十五秒の間にニグリティアの体は何処かへ連れ去られるのが常だった。それは彼女の選んだ、
たった一人の相棒に任されている務めであり、悪戯から解放してくれるのはつまりいつだってそのお気に入りの部下の手足と銃だった。
ところが、今日は違った。銃を整備し、ラックに片付けて射撃場に戻ってみると、粛清部隊兵が二、三人たむろっていた。
その横を通り過ぎようとして呼び止められ、倒れたままの上官を見せられる。頭痛の種は増え続けるばかりであった。部下としての務め、
と言い聞かせ、彼女の軽くない体を抱え上げる。そうして彼女の部屋に行こうとしたが、カードキーが無ければ入れないことを思い出す。
非常事態時には全ドアロックが解除されるが、今は違うのだ。起きればいいのにと感じながらも、カードキーを求め上官の服の中を探る。
無かった。一体全体どういう理由で持っていないのかは知らなかったが、持っていなかった。鎖で首に下げているのかもと触るが、無い。
放置していってやろうか迷っている内に、彼女は代案の『自室に運ぶ』を選択した場合に備え向かっていた、自室までやって来ていた。
ここから移動するのは面倒臭いし、起きるまでベッドに転がしておこうと考え、自分のカードキーでドアを開く。明かりを付けて、
簡素なベッド上に、時々撃ち殺したくなる上官を寝かせる。時計を見ると、一般に夜と呼ばれる時間帯だった。十分訓練は出来たようだ。
夕方少し前から始めて夜に終わったのであれば、体が鈍ることは防げる。最低限そうであれば良かった。ニグリティアさえ来なければ、
もっと長く訓練に明け暮れていただろうことは彼女自身も分かっていたが、最低限の目標は達成出来たので怒りまではしなかった。
但し、彼女が起きたら上官としてあるべき姿というものを再三繰り返した言葉ながらも説明し、謝るまで叱る覚悟はあった。
溜息を吐く。自分は副隊長だ。隊長を補佐する為に隊に配属されたのに、どうしてこう悪戯好きの子供を持った母親のようなことを?
ベッドの上で気持ち良さそうに眠るニグリティアを見て苛つく。近づく。良く眠っているようだ。何人か部下を呼び、運ばせよう。
あの『お気に入り』なら、彼女のカードキーの在り処を知っているかもしれない。くるりと向きを変え戸口に行こうとして、後ろに転ぶ。
彼女の体を電撃が走った。しまった、とも思った。これは罠だったのだ! 自室で気を緩めたのを捕食するつもりだったのに違いない。
現にニグリティアは彼女の部下の四肢を拘束、簡素ながら柔らかなベッドに押し付けて自由を奪い、己の軍服の第一ボタンを外している。
通信で部下たちを呼び寄せようとしたが、位置を確認すると、どれも遠くにいた。その上、通信自体が遮断されてしまった。上官権限だ。
とんでもないことに使うものだとある意味感心したが、それどころではない。部下は必死で抗った。生理的に受け付けないものがあった。
思いっきり首を後ろに曲げて、後頭部で頭突きする。拘束が緩んだ。右手を抜き、肘で側頭部を打つ。ニグリティアがベッドから落ちる。
その隙にドアに駆け寄ろうとして、後ろからタックルを受けた。床に倒れ込む。形勢は大して変わっていなかったが、興奮の度合いは、
より上がっていた。被害者は自分の選択が態々相手を興奮させただけだったと知る。右手で両手を押さえ、圧し掛かって足の動きを殺し、
左手で軍服のボタンを外していこうとするニグリティア。彼女の変態的試みがボタン三つ目を外すに到った時、ドアが音も無く開いた。
その時、今しも性犯罪の被害に会おうとしていた彼女は見た。ぽきぽきと指の関節を鳴らして、首を回し、スカートを揺らして近づく、
褐色レズビアンのお気に入り、隊員番号九十九番の姿を。彼女の行動には躊躇が無く、そこにはある種の慣れを感じさせるものがあった。
横から首を蹴り飛ばし、倒れたところに強烈な数打。それだけでいつものニグリティアは動かなくなるが、この日は違う。動こうとした。
が、そんなことはお構い無しに、彼女は上官の筈のニグリティアを蹴りまくり、観念して口しか動かなくなった彼女を引き摺っていく。
何か喚き立てながら引き摺られていくニグリティアを見送って、その部下にして気苦労多く休みも満足に取れないアンドロイド隊副隊長、
開発コードR“リヴァイバル”9、公式愛称ノネット、非公式愛称ニセプ、実質アンドロイド隊隊長はベッドに潜り込んだ。

*  *  *

ノネットは夢を見ない。彼女の上官のような野心も無い。それは単純に、自分の未来に何らかの目標を持たないということでもあったし、
夜、昼、朝、眠っている間に多くの人間とアンドロイドが見る筈の夢を見ないということでもあった。彼女は隊の誰より軍人らしかった。
彼女がすることには無駄が入り込む余地など無く、するべきことはするべきところまで確実に処理され、融通が利かず、規律を大切にし、
そして部下に対して厳しくも優しい。彼女は一度だけ、自分が夢を見ないのはその為ではないか、などとと思ったこともあった。
夢を見ることを無意識下で必要なしと切り捨てている為に、見ていないのではと。しかしそれは彼女にとってどうでもいいことだった。
今日もまた、彼女は夢の無い眠りから目を覚ます。彼女にとって眠りは必要最低限の休息を取る為の手段でしかなく、ニグリティアや、
ノネットの部下たちのように眠るということに付き物の快楽を味わう手段ではなかった。枕から首を起こし二三度回して、起き上がる。
ベッドの中に何かいないか確認。時折、明らかに所有者が分かる銀色の長い髪の毛が、何故か中に数本落ちていることがある為だ。
酷い時には、朝から悪戯の被害を受けることさえある。そういう時、彼女の一日はロクなものになった試しが無い。中に誰もいないのを、
ちゃんと確認する。自分の髪の毛以外何も無いことも。抜け落ちたそれを摘み、ベッドサイドのゴミ箱に捨てる。その時、傍の棚の上、
置いた目覚まし時計が落ちてしまった。ノネットに時計は必要無かったが、規則正しく時を数える音を聞くことは彼女にとって安心と、
心の平穏を呼び起こさせる、発見された中で一番有効な方法だった。それを拾おうとベッドから出てしゃがみ、ベッド下の何かに気付く。
昨日、ニグリティアのお気に入りがノネットの部屋に入れたのは、どうやらニグリティアのカードを彼女が持っていたかららしかった。
立場が上の者のカードキーは、立場が下の者の部屋へ立ち入ることを可能にする。それで彼女は、上官の部屋に入ることが出来たのだ。
それはいい。問題はそのカードキーがその後、どうなったのかということだ。ノネットは彼女たち二人の関係のことを頭に巡らせた。
お互い相手に厳しくやっているつもりなのだろうが、傍から見れば仲のいい姉妹にしか見えない。厳しそうなのは見かけだけで甘いのだ。
その甘い二人のことだろうから、カードキーを没収してそのまま、ということは無いだろうし、ならカードキーは所有者の元へと戻り、
所有者は今までして来なかったような大胆な手段に出たのだろう。彼女が推測する理由は、昨日いいところで邪魔されて部屋に連行され、
そのまま泣き寝入りするのが余程気に食わなかったのだ、というものだった。ベッドの下に潜む女を少しずつ引き摺りだし、体を探り、
カードキーを手に入れる。それから自分のカードキーを首に下げて、ノネットはさっさと部屋を出た……きちんとドアに施錠してから。
そんなことをすればどうなるか、彼女はもう少し深く考えるべきだったのだろう。目覚めたニグリティアが次に何をするかを、特に。
ノネットが部屋を出て、数十メートル歩いた頃、彼女の部屋の眠り姫が覚醒した。自分が昨日何をやっていたのか知っている彼女は、
ベッドの下から引き出されていることに驚き、何故だというのに何もされて無いのだろうと訝しみ、体中チェックしてみてやっと、
カードキーを取られたことに気付いた。流石に焦りを顔に浮かべるニグリティア。でも、彼女の相棒には連絡出来なかった。すれば来る。
来るが、来られたら困るのだ。それにこの艦の施錠ドアは、内側から開けるにもキーが必要という、無意味に厳重な仕様にしてある。
どっちにしろニグリティアはこの部屋の主が機嫌を直して出しに来てくれるか、それを待っていられないなら、自分で出るしかなかった。
ノネットはその時既に射撃場で耳当てを嵌めてしまっていた為、音は聞こえなかった──判明を先延ばしにしただけとは言えそのことは、
彼女の一日が面白くないものになるのを僅かな間防いだと言ってもいいだろう。ニグリティアは、ドアをぶち破った。音は彼女の相棒や、
部下たちや、一般のギルド兵にも聞こえるほど大きなものだった。真っ先に飛んで来るのは部屋の主か相棒だと考えて、脱走者は逃げる。
果たしてそれは正しかった。相棒はノネットの部屋に最初に辿り着くや否や誰がこんなことをしたのかを瞬時に悟り、位置を割り出した。
間抜けなことにニグリティアは彼女との接続を解除していなかった。位置情報が共有されている以上、何処に逃げても無駄なのである。
結局、脱走者は逃げ出して数分としない内に、その相棒の手によって発見、十数人の部下掛かりで取り押さえられることになった。
報告を受けやって来たノネットの顔がぴくぴく動いているのを見て、相棒は感嘆する。彼女にもそういう風に怒ることがあったのか、と。
彼女の怒りと言えば静かなものばかりで、注意していないと怒っていないのではないかと思ってしまうようなところがその特徴だった。
声を荒げて、このドアをどうするつもりか、この部屋をどうするつもりか、ニグリティアに尋ねる。その語気の強さに涙目になる彼女は、
だけれども同情を得ることは叶わなかった。普段の恨みが積み重なったのだろう、ノネットはもっと強い口調で言い立て、咎め立てる。
ニグリティアは布とテープを用意して即席のカーテンを作ることを約束したが、それでも彼女は引っ込まない。一度とことんやり込めて、
最悪でも当分はこの悪戯好きが何もして来ないようにしたかったのだった。けれども、彼女は相手を見誤っていたという他、無いだろう。
彼女の相手はどうかしていると有名な女で、言い出すと人の話など聞かないところがあり、都合のいいように物事を解釈する癖も有り、
この場合に限定してしまって簡単に言うなら、窮地を脱するのに長けている人物だった。彼女はノネットを自分の部屋で眠らせると言い、
引き攣り具合を高めて案を却下し遅れた彼女の隙に付け込み、それ以降一言だって彼女に喋らせず、とうとう願いを叶えてしまったのだ。
で、十数分後。ニグリティアの有無を言わせぬ強引さと不覚のせいで、ノネットは彼女にとって危険地帯も危険地帯の場所に無防備、
かつ不機嫌な状態で入ることになっていた。上官の相棒は良く出来た奴で、彼女たちが言い争っている間に、書類を整えてしまったのだ。
酷くなる頭痛を我慢しながら、射撃場で日課となっているM14の射撃訓練をする。指切射撃で三点射し、再装填し、狙撃し、また装填。
着剣して人形を突き刺したりもしたし、人質たちの間に隠れた敵を撃ち抜いたりもした。M14を片付けて、拳銃の訓練に入ろうとする。
照星を目標を重ね、照門の溝にそれを持って来る。最初の一発は良く狙うことにしていた。それ以降は一々狙いなどつけないで撃つ。
元より、拳銃などそこまで慎重に狙って撃つものではない。適当に狙って適当に当たればそれでいい。彼女の敵は上官と違い人間であり、
過剰な破壊力も必要とはしていないのだ。装甲服と内部の人間を撃ち抜ければ、それで事足りる。何と言っても彼女は粛清部隊所属だ。
ノネットの良く狙うという言葉は、二とコンマ数秒狙うということを意味していた。三秒を越えると狙いが却って不正確になってしまう。
引金を引く指の強さは、荒野に霜の降る如く、だっただろうか? そんなことを考えながら引金を真っ直ぐに引く。それは大事なことだ。
斜めに引けば、銃の保持が不安定になって反動を余計に受け、すると弾丸が逸れる。弾丸が逸れれば敵には当たらない。大問題である。
無論、彼女は何に関してもミスしなかった。当然弾丸は逸れなかった。弾が外れたのは仕方の無いことで、誰が撃ってもそうなったろう。
轟音が響く。耳当てをして音を防いでいても明瞭に聞こえて来るような、取り敢えずは拳銃の銃声でないことは分かる、砲声もどきが。
ノネットが狙っていたマンターゲットは、腰辺りから千切れて飛んだ。構えたまま、落ちて行くマンターゲットを見つめる。振り返った。
ガッツポーズを取って、ノネットの後方で発射煙に咽る一時的ルームメイト。それからその横にいる、もう一人のルームメイト。
拳銃を見もせずに的に向かって撃ちまくり弾倉を空にして射撃台のボックスに突っ込むと、ノネットは右手でそのライフルを払い除けて、
その手の甲で横っ面を張り飛ばした。けれど全然それをダメージと捉えていないのを見て、怒る気も失せる。彼女は時間を確認した。
アンドロイド隊隊員には数少ないながらも娯楽があるが、今に到るまで一般隊員には許されておらず未来においても無いだろうそれに、
食事というものがある。重ねて、指揮官職を除いて個人に対する給料が出ないこの隊では、何かを食べる娯楽は定着しなかった。
よって食べるということを知っているのは、隊が成立して間もない頃に、真面目な粛清部隊の副官に誘われた幾人かのアンドロイド兵と、
持ち前の性格で食堂の一区画を確保してしまったニグリティアと、よりにもよって、食事など何とも、娯楽とさえ思っていないノネット、
それにニグリティアの権限で許可を取り付けた彼女の小さな相棒だけだった。ノネットは逃げる口実として食事に行くと言い、二人には、
訓練でもしていろと残して、訓練場を出た。銃を手早く片付けて、ぴったりとくっついて来る二人。最近、ノネットは頭痛のみならず、
肩凝りも感じるようになって来た。理由は見えていた。食堂に入る。前述の理由で混雑していない空席ばかりの一区画を避けて動き、
食券を購入し、料理を貰うと、敢えて一般ギルド兵の辺りに座る。ニグリティアたちはいつもの席からこちらを見ているが、不安だった。
こっちに来たらどうするか、考えておいた方がいいだろうと思って、カレーライスを口に運びながら、対処法をあれこれ模索する。
そんなことを頭の中に食事中浮かべていれば顔が浮かないものになったりするのは物の理という奴であり、彼女は気付いていなかったが、
彼女の顔は──まあ、食べ物を口にしている時に浮かべる表情をしていなかった。それが周りの不興を、ただでも嫌われているのに、
より沢山買うことになると思わなかったのは、偏にニグリティアのせいだろう。彼女は珍しく悩んでいた。皿の上にスプーンを置いて、
ナプキンで口を拭う。口の端に付いたルーを拭き取り、水を一口飲んで、三分の一も食べていない皿を持って立ち上がろうとして、
両肩に掛かった太い手に、席へと押し戻された。ニグリティアのいる場所でこんなことをして来るとは、と考えて彼女のいた方を見ると、
姿が消えている。なるほど、それでだなと理解した。ノネットは両脇の屈強な男たちに冷めた眼をやる。彼らは彼女の食事態度に対し、
甚く気に食わないものを感じている様子だった。が、そこに単純な、アンドロイド隊への真っ当な理由が無い蔑視や、侮辱、それに加え、
周りの幾人かは誰か、主に女性がいたぶられることに性的興奮を感じる性格らしく、彼らのその気質を見抜き、ノネットは小さく嘆いた。
彼らの殆どは、過去にニグリティアをからかったり、言い寄ったりして、散々酷い目に遭わされた同情すべき人々で、だからこそ、
その彼女が御執心のノネットに興味と不快を感じたのだろう。スプーンを何の気なしに見せかけて握り、体の向きを変え男の一人を見る。
敵性の存在は背後の一人、前の一人、それに彼ら二人の仲間たちが四、五人ずつで、多く見積もっても十二、三人といったところだった。
始末に困ることは無いけれど、一般ギルド兵を叩きのめしたことで周りの無関係な兵士たちがこちらに向かってくれば、多勢に無勢、
負けることは無いにしろ今後に大きな面倒を残すことになる。可能なら穏便に収めてしまいたかった。ニグリティアと違って強力も無く、
それでも人間など比にならない力を持っているが、この食堂の人間全員に加え騒ぎで駆けつけて来るだろう保安隊員や喧嘩好きの馬鹿、
他にもやって来る暴徒たちを相手にして、完全な勝利を収められるとは思わなかった。冷たい視線を敵から離さず、後ろにも注意を払う。
ノネットはこれまでの生涯に無いほど理性的に、落ち着いて、優しく、分かり易く話した。二人の行動は自由を侵害していること、
自分は指揮系統の違いはあれども、階級としては彼らの何段も上であるということ、自分としてはこの皿を残して行くことは忍びなく、
食堂での基本的ルールに則って自分の皿は自分で片付けたいということ、その為にこの席を立ち上がり、適切な場所まで移動したいこと。
話したいことはまだまだあったが、ノネットは最後まで話すことが出来なかった。彼女の言葉に被せるように、目前の男は言った。
「食堂の食事は旨いか?」
悪くない、と答える。彼女はここ以外での食事を多く知らなかったので、味の良し悪しが良く分からなかった。当たり障りの無い答えで、
誤魔化そうとしたが、失敗だったようだ。鼻を鳴らして男は、彼女の表情のことを言う。悪くない食事をしている時の顔ではないそうだ。
何を食べるのもその時にどんな顔をするのも、自由というものではないかとノネットは思ったが、彼女は未だに平和的解決を望んでいた。
席を立とうとする。再び両肩を押さえられる。今度は二人ではなく、四人ほどから。溜息を吐くと、そのことについても文句を言われる。
テーブルの方を向き、右手でスプーンを握って温い食事を口に入れて飲み込み、左手でコップを持って水を口に含む。これは冷えている。
右の男は右手を長いテーブルの上に置き、左手をポケットに突っ込んでいた。マナーのなってない男だった。コップの水を飲み干す。
両手に物を持ったまま、彼の方に体を回転させた。彼の左手はポケットから出て、拳を作っている。暴力的解決がすぐそこに迫っていた。
何か口を開きかけたその男の右小指にコップの口を叩きつける。底で打たれるより痛さは上だが、骨を折ったりしないよう加減している。
背後の男の顎に右肘を打ち込み、椅子から落とす。小指を押さえた最初の被害者を裏拳で殴り、床に沈ませる。上官権限だと言ったが、
指揮系統が違う兵士たちは従わなかった。後ろから椅子を持ち上げて殴り掛かって来た男をかわし、足を引っ掛ける。彼は転んだ。
その股間を蹴りつけて、戦闘能力を奪う。ついでに生殖能力も奪ったかもしれない。右から飛んで来る大振りパンチ。腕で逸らして、
下膊で首を刈る。彼が細腕が首に迫るのを見てどう思ったかは知らないが、周りの人間は驚いたことだろう。肘から手首の間での攻撃が、
それも女の腕で行われた攻撃が、大の男を容易く戦闘不能に追いやったのだ。ニグリティアはパワー型だったから、まだ納得出来た。
でもノネットはそうではなく、そうではないアンドロイドさえこれほどの力を持つのだと知った無知な男たちの内、一部は恐れを抱いた。
それが二十パーセントくらいで、後は皆、何とも思わなかった。驚いただけだった。八十パーセントが彼女に襲い掛かる。左から来た。
右手に握ったスプーンの柄で喉を突く。足を上げて胸を蹴り、人垣に吹き飛ばす。常に手加減をしなければならないのが面倒だった。
コップを投げつけ、振り下ろされた丸椅子の足を掴む。捻って奪い取り、引っくり返し、それで顔面殴打。倒れた彼の上に椅子を投げる。
後ろから羽交い絞め。映画宜しく、前に来た男の胸を蹴って倒し、身を反らせて弾みを付け、背後の敵を振り解く。左手が先に外れた。
その左の手刀で目を叩き、拘束から完全に抜け出る。飛び蹴りをバックステップで回避し、自分のカレーライスの皿を持って、
敵の顔にぶつける。視界を失って敵は慌てたが、皿を除ける前に膝で股間を潰された。次の男の相手をしようとして、彼女は止まる。
群集の後ろに見慣れた上官の姿があったからだ。隙と思って殴ろうとした男の手首を取り、捻りながら彼の背中の方に押しやって倒す。
手首は離さないままだった。掴んだまま、右足を上げて、腹を踏みつける。離すと手は力なく落ちた。ニグリティアがやって来る。
彼女は男たちが倒れている中ずかずか入り込んで行き、群衆の意見には耳を貸さず、ノネットの言葉だけを求めた。彼女は真実を語った。
いい加減に痛みは引いているだろうに、小指を押さえて文句を言う男の頬を二度三度引っ叩き、艦長への報告をする旨を告げる。
正しくはあったが公平ではないその処置に、群集は口々に声を上げる。一人の若い男が出て来てニグリティアの肩を掴んで振り向かせた。
声が静まる。彼はへらへらと笑いながら、ニグリティアに、言わなくてもいいような、余計な一言を態々このタイミングで口にした。
「なあ、今は関係ない話で、いつかあんたに聞こうと思ってたんだが──黒くても赤面したりすることがあるのか?」
ノネットがニグリティアの次の行動を予測出来たことは必然の結果だったが、それを防げたのは偶然の結果だった。ノネットは考えず、
その若い男の胸を蹴飛ばした。彼は短く声を上げて腰までの高さほどしかないテーブルに激突し、向こう側へと落ちて行った。
だが彼は命を未だに落としていないという点で、ノネットに感謝しなければならないだろう。ニグリティアの右手は彼女の頭上右にあり、
その手中に握るのは、彼女のお気に入りの武器で、多くの非好意的人間から言わせれば「時代遅れの」武器、サーベルだったからだ。
もしノネットが彼を救おうと思わないか、正しい行動を取らなかったら、彼は死んでいた。褐色の如何なる侮辱も許さないものは、
ノネットに困った目を向けた。無言で追撃を却下し、ニグリティアは刃を収める。途端、先程までよりも酷くなって、乱闘が再開された。
途中からはノネットの懸念通り保安隊も乱闘に加わり鎮圧どころか加熱させてしまうし、九十九人の仲間たちは殴りあいを見るとすぐに、
模擬白兵戦だと声を上げ突撃、場を滅茶苦茶に引っ掻き回すしで、食堂の惨状を見て、彼女は始末書のことを考えずにはいられなかった。

*  *  *

叱責は誰の予想をも裏切って、簡潔で短いものだった。ニグリティアには隊長職にあることから、十数分長めの叱責を与えられたが、
保安隊八名とその他のギルド兵を五十名投げ飛ばし、二十三名の気絶者を出したにしては、犯人も首を捻るほど短い言葉だった。
艦長は喧嘩くらいで兵士を怒っていられないほど忙しいのか、副官と部屋から出て来ないので、副艦長が叱責を担当したのだが、
彼が人を叱るのが苦手な人物だったのも影響したのかもしれない。あっさり解放され、ノネットとニグリティア、それに彼女の相棒は、
乱闘で不調など起こしていないか診察を受けて来いという命令に従って、アンドロイド隊専用の診察室に向かうことにした。
向かうことにした。したのだが、辿り着くには長く時間が掛かりそうだった。それはノネットが、またもニグリティアの良く回る舌で、
アンドロイド隊の英雄に仕立て上げられてしまったからだった。自分に比較的忠実な相棒に片棒を担がせて、事実の根本的な改変と、
副隊長の英雄化を始めた彼女を止められる存在など何処にも無かったし、ノネットが否定すれば、それを謙遜と言い換えることによって、
部下たちの憧憬と尊敬の視線をますます増大させた。ニグリティアはまた、乱闘を再開した理由である一人の若い愚かな男とのことを、
ノネットが自分、つまりニグリティアへの侮辱は許さないとばかりに蹴りつけたのだ、と部下たちに吹き込んだりもした。彼女の相棒は、
あたかもそれが真実であるかのようにそのシーンを滔々と脚色たっぷりに喋るので、気をつけないと否定を忘れそうになるほどだった。
自分に纏わりついてくる部下たちを無下に押しやることも出来ず、眉を動かして困った素振りを見せるノネット。珍しい表情だった。
調子に乗って、ニグリティアはノネットを抱え上げようとする。通路を通って行く一般ギルド兵。その顔がぎょっとしているのを見て、
部下たちの手によってニグリティアの私室まで勝手に運ばれそうになっているノネットは、自隊と一般兵の隊との軋轢が増大したと、
嘆かざるを得なかった。部下たちは場の雰囲気と熱狂でノネットをもみくちゃにしてしまうところだったが、やっとペースを取り戻し、
彼女らの手から何とか逃れてニグリティアを締め上げることにより、ノネットは自由を再びその手とその足とその身に取り戻した。
診察室に向かう。褐色女の私室は診察室の反対側にあり、余計に歩かねばならなかった。そのせいではないけれど、気分は良くなかった。
アンドロイド隊の百二名の構成者の中で、一人だってこの診察室が好きだとか、何らかの好感情を持つと口にするものはいないだろう。
ドアを開けるのを躊躇うほど、彼女たちはその部屋とその部屋で為されることが嫌いだった。その部屋の主たちは彼女らを物扱いする。
彼らはアンドロイド隊隊員が何を言っても、何をやっても、眉一つ動かさない。彼らは自分たちをアンドロイドの上に位置付けていて、
余り逆らうような隊員がいれば、修正プログラムの一つでもぶち込んでやるか、廃棄処分にして予備ボディに戦闘データを移植し、
人格の再構成を始めればいいのだと本気で考えている。彼らにはアンドロイド隊の隊員たちは玩具人形で、気に入らねば破壊対象になる。
ニグリティアだけが彼らにいつも抗うことが出来た。それは彼女が新型であるのと、不思議なことに彼女にはあらゆる修正プログラムが、
無効化されてしまう。ノネットは何度も診察室のドアを開き、戻って来たニグリティアを見た。彼女は一向に性格を変化させなかった。
相変わらず診察室の研究者たちを上品にこき下ろし、彼らに残した置き土産の悪戯のトリックを教え、結果発生する出来事を嘲笑した。
診察室に入る。薬品の臭いはしない。するのはもっと嫌な臭いだが、今に到るまで部隊の誰も、この臭いの発生源が何かを知らなかった。
どんなに上品な言葉を使っても、この臭いは綺麗に表すことは出来まい。一回だけ、ニグリティアが挑戦したが、見事に挫折を味わった。
よくも我慢出来るものだ、と相棒は思う。ノネットも思う。ニグリティアは口に出して言う。慣れのせいか研究者たちは無反応だったが、
それでも彼女には何人かの顔を見ていると、彼らの表情に苛つきの存在を見て取ることが出来た。胸を少しすっきりとさせる。
ベッドに座った。横になるように言われ、そうする。彼女の右ベッドには相棒が、左ベッドにはニグリティアがいる。検査は服の上から、
簡易なものだが通常発生する類の不調はこれで十分に発見することが出来る。耐え難い悪臭と視線を我慢して、ノネットは数分を待った。
検査が終わり、一切の異常が無いことを保証される。何も言わず、足早に部屋を出た。時間を見る。カレーライスを昼食に食べてから、
そうは経っていないものと考えていたが、結構な時間殴り合っていたらしい。既に数時間が経過し、日課の格闘訓練の時間が迫っていた。
ノネットは部下を付き合せるかどうか思案したが、傍にいる相手のことを思えばそれは止めておいた方がいいだろうと考え直して、
真面目に戦えばアンドロイド隊最強の女に格闘訓練の相手を頼んだ。ニグリティアはノネットから物事を頼まれたことがそれまで全く、
一度だって無かったので、とても喜んでその頼みを引き受けてくれた。それまでに喜ぶ理由が良く分からないのでノネットは戸惑ったが、
どうせ彼女のことだからと変な理由で納得して、訓練場に向かった。ペトルッツィ隷下粛清部隊に編成されたアンドロイド隊は、
一般ギルド兵とは扱いが全然違う。主に訓練と私生活の面でだ。訓練は厳しく、私生活は無味乾燥としたものを強制されている。
ノネットを除き、戦うのが夢である彼女たちには前者は苦ではなかったし、後者に関してはそもそも無味乾燥と思うことさえも無かった。
彼女たちは暇を訓練で潰し、人工筋肉の調整時や休まなければならない時、映画を見ることだけが楽しみで、それだけで良かったのだ。
……最近それが崩れつつあることにノネットは薄々気付き始めてはいたものの、それは、彼女にはどうすることも出来ない問題であった。
という訳で、日々、人間なら潰れてしまう過酷な訓練を繰り返す彼女たちの為に、艦にはほぼ専用の訓練場が、幾つも作られた。
元々この艦には空き部屋などが多かったらしく、それらを上手く利用して改修、作ったそうだ。射撃訓練場、格闘訓練場、戦術訓練場、
種類はこれだけだが数はどれも二つずつある。彼女たちは格闘訓練場に入った。武装を選ぶ。ノネットは模擬銃剣着用のゴム製ライフル。
相棒はやりたくないと言ったので見ているだけで、ニグリティアはゴム製の五十口径ライフルなど無かったので、仕方なく木材みたいな、
何を想定して作ったのか分からないゴム製の棒を選んだ。太さ、長さ共に彼女の五十口径に近い。ノネットは格闘訓練場の片隅で構えた。
ニグリティアはそこから十歩離れたところに、自然な立ち方で立って、ゴム棒を構えもせずに持ち、不敵に笑いながら出方を見ている。
それから数度の決着と数度のやり直しとを見て、ニグリティアの忠実な相棒が思ったのは、自分の仕える対象の格闘能力は低く、
猛烈な訓練の必要があるだろうということだった。彼女は厳しく言えば臆病で、格闘戦の本質を知らず、前に進まなければ死ぬところで、
どうしてか一歩退いてしまう。それは彼女も自分のこと、分かっているらしく直そうとする素振りは見えるが、如何せん変わっていない。
だが稀有なことにニグリティアは散々叩きのめされても訓練を止めなかった。ノネットも彼女の熱意と向上心に気付き、すぐ倒さずに、
彼女の悪いところを直しやすいよう、彼女が自分の悪い点に注意を払って戦えるよう、手加減を加えたりということを始める。
結局、この時ニグリティアは格闘では全く彼女に敵わなかった。パワー型の特長である力も、そもそも相手を捉えられなければ無意味だ。
「もう止めたら如何ですか、お姉様?」
数十数回投げ倒されたり打ち倒されたりしてからやっと、もう見ていられないと言った風で、ニグリティアに声を掛ける相棒。
ノネットは、彼女が覚束ない足取りであることも考え、ここで訓練を終えることにした。その旨伝えるが、彼女は頑として続けると言う。
「銃なんか捨てておいでなさいノネット!」
つかつかと近寄り、無造作に額を一撃する。ばたりと倒れる。困って、ノネットは観客の方に目を向けた。彼女は肩を竦めた。
うつ伏せの彼女を蹴って転がし、頬をぺちぺちゴム製ライフルの銃剣部分で叩く。呻き声が漏れる。転がることで少しは休められたのか、
目を閉じたまま、ニグリティアはライフルを手で受け止めてその殴打が不必要であることを示し、彼女の相棒の名前を呼んだ。
「アル、アルヴィス! 近くの椅子まで引っ張って行ってくれないかしら。出来れば優しくして欲しいわね」
「その名前が恥ずかしいので嫌です」
隊員番号九十九番、イコール百引く一、そこから『白』を連想し、自分勝手で我侭な褐色女ニグリティアの相棒として相応しい名前をと、
宇宙各国あらゆる言語から『白』ばかり探して来て、結局、何処かの言語の一つから持ってきたのが、アルヴィスという名前だった。
愛称アル。ノネットはある神話で出て来る小人の名前がアルヴィスだったことを思い出し、なるほど小人だと妙な感心をしたものだった。
本人は凄く嫌がった。こんな名前をつけられたのは九十九人いる彼女の同型機には他にいない。彼女だけが名前を持ち、番号ではなく、
識別コードでもなく、彼女だけのことを表す言葉で呼ばれるのだ。恥ずかしがるアルヴィスだったが、勿論ニグリティアは止めなかった。
目を開けて、ノネットを見るニグリティア。何も思わずに見つめ返すノネット。何か言いたいのなら早く言えと思っていると、口を開く。
「ねえ、ベネット」
「ノネットだ」
「あら、これは失礼をしましたわね」
彼女の中には椅子に座る気も座らせて貰う気もゼロの様子なので、ノネットとアルは彼女を置いて訓練場を後にすることにした。
出て数メートル歩かない内に、脇を潜って現れる両手。体を捻って、ニグリティアがその意を遂げる前に肘を打ち込む。悲鳴が上がる。
クリーンヒットで倒れた彼女が立ち上がるのに手を貸し、日に日に態度が荒っぽくなっているとの指摘を受け流しながら、歩いた。
目的地はニグリティアの自室。今日の分の書類仕事を片付けてしまおうと思ったのだ。この分ではどうせ訓練などいつまでも出来ないと、
ノネットは思っていた。彼女の上官ということになっている女は強い。格闘戦のことは戦い方を理解していないだけで、訓練次第では、
きっと克服出来るだろうというのがノネットの評価だった。そうなれば彼女は真実、最強になる。無敵ではないにしてもだ。
だが彼女にその気があるかどうかが問題だった。彼女の訓練方針は、得意なものを伸ばして苦手なことをしなくても済むようにしよう、
というもので、自分より格下の相手ならそれでも良かったが、ニグリティアが相手にするのは経験豊富な十二姉妹であり、決して、
油断して戦っていいような相手ではなかった。ノネットは現時点の評価で、十二姉妹と比較した場合ニグリティアが格下であるとさえ、
その心中において位置づけていた。ニグリティアは強いし、柔軟性のある思考も持っている。が、まだまだ甘いところも多い。
ドアをニグリティアに開けて貰う。先に入り、運び込んだ自分の机の上に、必要な書類を全部出す。アルとニグリティアはそれをじっと、
面白い見世物を見るかのように眺めている。十分と数秒が経過しても今尚見つめ続ける彼女たちの視線に耐えかねて、ノネットは言った。
「見ているなら手伝え」
あっさり了承して、二人が机の周りに集まって来た。二人を自分の右に、椅子に座らせ、よりノネットに近い方に座ったニグリティアに、
判子を渡す。書類を分けて入れる為の引き出しが幾つかついた箱を三つ四つアルヴィスに渡して、仕事内容の説明に取り掛かろうとする。
そこで一つ小さな質問を、ノネットはニグリティアに投げ掛けた。別段仕事に関係がある訳ではないが、ほんのちょっと気になったのだ。
「どうして眼鏡を掛けている?」
「仕事モードですわ」
そうか、と返して、この一人でやるには何かと面倒極まるところの書類仕事について、大雑把ながらも必要十分な量の説明を始める。
簡単なことだ。ノネットは書類にサイン。ニグリティアはそれに判子を押す。後はアルヴィスに渡し、彼女は適切な引き出しに入れる。
至極簡単で単調な作業であり、だから彼女たち二人にも出来るだろうとノネットは思った。彼女もニグリティアに負けず劣らず甘かった。
十枚辺りから、ニグリティアは飽き始めたのである。判子押しは片手でも出来るので、彼女は左手でノネットを構うことにした。
部屋に入って当分出ないから、ということで脱いだ軍服の下、体にぴったりの黒のタンクトップを見る。悪戯に適した部位を探す。
一、胸。判子を押しながらニグリティアはこれを却下した。警戒されている。手を伸ばした瞬間、椅子から転げ落ちることになるだろう。
それではお尻は? これも駄目。椅子に腰掛けている相手の尻をどうやって触る気だ。アルヴィスに判子を押した書類を渡す。
良く観察してみた。集中しているのか、考え事でもしているのか、ニグリティアの不穏な視線にノネットが気付く気配は一向に見えない。
突然、ニグリティアの頭の中に神託が降りて来た。背中だ。背中を狙おう。今までやったことがあっただろうか、と思い出してみる。
……幾度と無くやったせいで、最早一つずつを全て覚えることは出来ていなかった。ではこれを最初ということにしておこう、と考える。
判子を押し、アルヴィスに渡す。左手を自分の首に持っていき、退屈している様子を見せる。それから体をちょっと曲げている彼女の、
背筋を爪と指でなぞった。恐らく、ニグリティアとアルヴィスは記念すべき今日という日を、死んでも忘れないことだろう。
普段なら絶対に聞けないような、ただの女が上げるような悲鳴に似た声を、ノネットの口から聞けるだなんて、誰が考えたことだろうか。
但し対価は大きかった。ニグリティアは案の定椅子から転がり落ちることになったし、アルヴィスも八つ当たりを受けるところだった。
二、三発の本気が篭ったパンチを頭頂部に受けて、反省した素振りを見せるニグリティア。信じずに、ノネットは軍服の上着を羽織る。
反省は本当だったのか、悪戯は止まり、仕事は普段の倍以上のスピードで、半分まで片付いた。やはり人手があると違うな、と感じる。
休憩を入れ、ニグリティアの部屋にある冷蔵庫から、飲み物を出して来た。選び、持って来たのは部屋の主だ。ノネットは遠慮したが、
無理矢理さでは彼女はニグリティアより格下だ。押し切られた。洒落たグラスに入れられたのはワインで、遠慮した彼女は眉を上げる。
アルも同じものを所望したが、オレンジジュースで済まされた。ニグリティアは文句を言う彼女の頭をぽんぽんと手の平で優しく叩いて、
大人ボディに換装してから言えと跳ねつける。ノネットはワインの出自を尋ねた。ニグリティアがそんな金を持っているとは思えず、
だが隊の金に辻褄が合わないところは無い。だとすると、真っ当な品ではない可能性が高かった。盗んだか、強奪したか、貰い物か。
ノネットの勘では盗品だった。あの艦長の私室にでもあった品を盗って来たのだろう。まあ、ノネットも責め立てる気にはならなかった。
瓶を貸して貰い、ラベルを見る。『ビアンコ・ヴェルジーネ・ヴァルディキアーナ』と読めた。彼女にはワインの良し悪しは分からない。
ワインを飲んだのはこれでやっとの三度目だ。だけれども、自分にとって美味しいかどうかの判別は出来る。悪くなかった。良かった。
椅子に深く腰掛け、ゆったりした気分でワインを口に運んでいると、ニグリティアの無駄な余裕さが、自分にも発生したような気がした。
それもまた悪くないと評価し、ちびちび飲む。アルヴィスは開き直ってオレンジジュースのお代わりの記録を更新しに掛かったらしい。
ニグリティアは右手でグラスを持ちながら、ああだこうだ文句を言いつつジュースを飲み続ける妹の頭を、左手で撫でている。
仲のいい姉妹のようだと、過去に自分が彼女たちを形容したことを、ノネットは唐突に思い出した。そして、彼女はそれを否定して、
訂正した。二人は仲のいい姉妹だ。良すぎるきらいはあるが、悪いよりはマシというものだろう。願わくば姉が自制してくれればと思う。
「そういえば」
不意にニグリティアが左手を止めて口を開いた。目をやって、そういえば何なのかを問う。アルはベレー帽をくるくる回して遊んでいる。
にやっと、話者は不吉な笑みを浮かべた。思わずグラスを置いて、ノネットは逃げ場を探す。ニグリティアは微笑を消さずに続けた。
「ノネットが軍服以外を着ているところを見たことって、ありませんわね?」
「先に言う。勤務中の私服は禁止されている。罰則は注意と数時間の追加労働、反省が見えなければ更に……おい、待て、何だそれは」
人の話を一言も聞かずに、ニグリティアはクローゼットの奥から、一着の服を取り出して来る。それを見て、ノネットは逃走を決意した。
それより早くアルヴィスが退路を塞ぐ。歯軋りをして、ニグリティアに向き直った。今や、彼女は自分の意思を微塵も隠していなかった。
手に持っているのはマルチアーノ十二姉妹の一人、セプの服と、カラーリング以外同じものだ。またもノネットはその出自に疑問を抱く。
ニグリティアは需品部に対する脅迫を一切否定したし、何処かの店から個人で取り寄せたということも否定した。マルチアーノ邸から、
ということも考えたが、それも彼女は否定した。ノネットは目の前の真実を受け入れることが出来る女性だった。であるならば、
これは彼女が自分で作ったのだろう。そう言うとニグリティアは胸を張った。作るのには長い時間が掛かったと言う。ノネットは呆れた。
ヘッドドレスまで作って、手に持っている。サイズは、ノネットに合わせてあるようだ。遅かれ早かれ、着せようとして来ただろう。
「絶対似合いますわよ。だから、さあ、着替えますわよね?」
そりゃ似合うだろうと、ノネットは心の中でこぼした。姿形だけは同じなのだから。しかし、着る気は無かった。弱味を握られれば、
今後の隊長職としての職務において、多大な問題が出ることは疑いの無いところだからだ。絶対に、あの服を、着せられては、ならない。
「アル!」
「させませんよ、お姉様!」
アルヴィスのガードを抜けようとしたノネットは、床に引き倒される。こうなってしまえば後はもう抵抗など無意味な行為だった。
足掻くノネットの両腕を左手一本で押さえる。アルヴィスは足を押さえては蹴飛ばされて涙目だが、そんなことはお構いなしだ。
軍服が肩から落ち、広がる。その上でもがくノネットの、タンクトップの内側に、指を入れる。焦りが彼女の顔に広がるのが分かった。
対照的に、ニグリティアは興奮を露にしている。最早着替えが目的ではなくなっているのではと、さっきから蹴られ続けるアルは思った。
遂にタンクトップが上へとずらされる。ノネットの堪忍袋の緒が切れた。更に運の悪いことに、ニグリティアは興奮し過ぎて、
左手で押さえていたノネットの両腕の内一本が、抜け出すことに成功したのに気付くのが遅れた。手に当たった何かを掴む。
ごつごつした重そうな感触。それをニグリティアの、ノネットの腹部に頬ずりしていたせいで無防備だった後頭部に振り下ろした。
声が漏れ、倒れて、動かなくなる。アルヴィスは何事も無かったかのように立ち上がり、反転カラーのセプの服を元通りにしまうと、
服をぱんぱんと叩くように払って、オレンジジュースに戻ろうとした。ニグリティアは倒れたままだ。ノネットは彼女を隅に押しやり、
彼女の昏倒を招いた凶器を見た。それは傍目には岩に見えたし、ノネットが良く良く調べて見ても、やっぱり岩にしか見えなかった。
何でこんなものがあるのだろうと思い、アルヴィスに出所を尋ねてみる。アルはオレンジジュースを一気に飲み干してから、喋った。
「ご存知のように、現在生命が存在する多くの星は数十億年前、混沌の灼熱地獄でしたが、原因不明の冷却が発生、一般に岩と呼ばれる、
 火山性の殻を形成しました。お姉様の持っているそれはその一部で──」
「話にならん」
変なテレビでも見たのだろう、アルの言っていることは訳が分からなかった。持ち主に聞くのがいいと考え、ニグリティアを起こす。
頭を振り、焦点の合わない目をどうにかノネットに合わせた彼女の目前に岩を出し、出所を尋ねる。彼女は服を着替えさせようとした時、
机の上に置いたグラスを取り、中のワインを飲み干してそこに更に一杯のワインを注ぎ、それで唇を湿らせてから言った。
「つまりノネットも知っているように現在生命が存在する多くの……」
もう一発殴ると、彼女は再度眠りに戻った。アルヴィスに岩を掲げ持って尋ねると、それはグレイスランドの岩であることが判明した。
十二姉妹縁の地だからだそうだ。ノネットには分からない行為だった。

*  *  *

ある夕方、ニグリティア・アイオーンが何か気がかりな夢から目を覚ますと、自分が寝床の中で巨大な虫に変わっていることを発見した。
彼女は鎧以上に固い背を下にして、仰向けに横たわっていた。頭を少し持ち上げると、アーチのように膨らんだ白い腹が見える。
端的に言えば、彼女は布団で簀巻きにされているのだった。犯人は分かっていた。ノネットがこんなことをする筈が無い。アルヴィスだ。
声を荒げても返答は無い。くすくす笑いが聞こえるだけだ。全力を出さずとも拘束は解けるのだが、幾ら何でもそこまで浅慮ではない。
しかし屈辱ではあった。ニグリティアは我を失わない程度に激怒した。必ず、かの邪知暴虐の輩を除かねばならぬと決意した。
まず顔が登場する。彼女の目のピントは狂っていた。が、すぐに犯人の顔に合わせられて、復讐心と嗜虐心に目を輝かせ始めた。
右腕で加減して布団を殴り、身を縛る紐を緩める。左腕が出て来る。にやにやしているアルヴィス。流れよ我が怒り、と殺し屋は言った。
左腕が出てしまったならばもう、右腕が出るのは容易く、よって身を出すのにも苦労しなかった。這いずり出て、ベッドから落ちる。
そうして怒りをぶちまけようとした彼女の肩をノネットが掴んだ。怒りが霧散する。起きたのなら残りの仕事を手伝えということだった。
並んで腰掛け、判子を押し、アルに渡す作業を再開するニグリティア。簀巻きがそんなに面白かったのか、アルヴィスはまだ笑っている。
まさか顔に落書きでもされたかと考え机の上に置いていた鏡で顔をチェック。一向に問題は見られない。箸が転げても面白い年頃なのか。
何だか面白くないのでまた左手でノネットに悪戯をしようとしたが、すぐ彼女の手に取れる位置にある岩を見て止めた。本来の場所、
出入り口の近くにある棚の一番下を見る。あんな場所に置いてなければ、とニグリティアは後悔した。だが立ち直りの早さが彼女の長所、
数秒としない内に過去は過去のことと切り捨て、これからのことに目を向けることにする。目下の関心はアルへの報復行動にあった。
どうするか考える。同じことをやり返すのは芸が無い。面白味も無い。暫く反抗して来ないくらいの、手酷い行為が必要だろうと考える。
その状態を解除することが避け切れなくなるまで、達磨状態にしてやるのはどうだろう。手と足を外し、何をするにも誰かの手を……と、
そこでニグリティアは思考を止めた。書類に判子を押す場所が分からなかった為が一つと、それは余りに悪趣味な仕返しだったからだ。
やるなら生首IN鳥籠くらいの、精神的にも明るさを保てるものにしなければなるまい。だがこの案は二番煎じ、流用案なので没だ。
靴に目をやる。一週間ほど幼児用の歩くと音が鳴る靴を履かせるのもいいと考えた。適度な辱めになる。三ヶ月は何もして来ないだろう。
が、これは靴が酒保で手に入らないので無理だったから、想像だけで我慢した。想像力は偉大だ、とニグリティアはつくづく思う。
「後十枚だ」
短くノネットが告げて、それでニグリティアは冷たい脳の中で構成された非現実の世界から帰還した。要するに妄想を終わらせた。
右でアルヴィスが両腕を上げて背伸びをする。今だと、彼女の中で何かが叫んだ。判子を投げて左手でキャッチし、即座に押す。
狙いが違われたかどうかには関心が向かなかった。どうせちゃんと押せているに決まっていると思っていたからだ。右手は貫手を取り、
隙だらけの脇を狙う。到達まで残り十センチ。目を閉じているせいか気付いていない。ニグリティアは到達までの短い時間の中で、
アルをくすぐったことがあったかどうかを考えた。無かった。ではこれも初体験ということなのだ。到達。電撃が走ったかのような硬直、
引き攣る顔と締まる左脇。勝利の笑み。右手に持った書類を慌てて引き出しの中に突っ込むアル。指をわきわき動かす彼女の姉。
立ち上がって妹の背後に回る姉。無関心のノネット。書類入れと机の上に置かれた判子を引き寄せて、自分だけで黙々と作業を続ける。
ニグリティアは手を蠢かせて、アルヴィスの体中をくすぐる。二三度その手は胸に向かったが、面白い反応が得られなかったので戻った。
「後十枚」を一人で片付け、書類入れを机の規定位置に置く。それから岩も以前の位置に直して、「目が疲れた」から外された、
ニグリティアの赤縁眼鏡を隅に置き、アルが気分で外したベレー帽もその近くにやって、机上の整理を終える。ノネットはすっきりした。
机の上もすっきりした。後は近くで破廉恥な行為に及ぼうとしているか、及びそうな雰囲気を漂わしている二人がいなくなるか黙って、
部屋がすっきりすれば完璧だった。ノネットは腰にいつもぶら下げている拳銃を握る。いい加減にしないと銃把で殴るぞ、と言った。
二人の世界に入り込んでしまったようで、ニグリティアとアルヴィスは耳を貸さない。冷静に考えて、落ち着くまで我慢することにした。
十数分ほどじゃれ合ってから、彼女たちはお互い疲れた様子で身を離す。それを見計らって声を掛けた。拳銃はすぐ取れるよう、
ホルスターから抜いて、机の上に置いた。それは失敗だった。同性愛者気質の二人は並んでノネットを見ている。訝しい空気。
疑問がはっきりとした形を取る前に、アルヴィスが動いた。動くのはニグリティアからだと思っていたノネットは反応が遅れて、
拳銃を手に取るのに間に合わなかった。アルの姉の手に渡る。それを悔しそうに見つめながら、ノネットは今日何度目かの拘束を受けた。
ベッドに連行される。拘束者二人は顔を見合わせて良く似た笑みを浮かべた。ノネットは二人を仲のいい姉妹と評したのを思い出して、
二度目の訂正を加えた。彼女たち二人は、本当に仲のいい姉妹なのだ。二人掛かりで取り押さえられて、おまけに下が柔らかいベッドだ。
ノネットが抜け出せる確率は、ゼロに等しかった。何をしようというのかは、二人の手の動きで分かった。ノネットの仏頂面を、
どうにかして笑わせてやろうというのだ。そう分かってからというもの、彼女の心には壮絶な反逆心が巻き起こった。耐えると決めた。
脇腹が、脇が、首が手に襲われる。彼女はそれに良く耐え、体を振って抵抗する。アルヴィスは結果に満足を抱いていなかったけれど、
真っ赤になっているノネットの顔を見て少し心に得るものがあった。ニグリティアも、それ以上の何かを心の中に感じた。
その「それ以上」が行動に影響を及ぼしそうになる兆候をアルヴィスが見て取る。左手を伸ばして、ニグリティアの脇腹を突いた。
身を竦ませて反応し、彼女は行いを正す。乱れた気持ちを整調する為に、くすぐりの手を止める。アルヴィスはノネットの顔を見つめた。
頬は上気し、じっとりと汗ばんだ首元、荒い息。目尻に光るもの。整える筈なのに昂ぶる感情を、姉も貫手で沈静化させた。
しかしそれはそれとして、と、二人はまじまじとノネットの肢体を観察する。特にアルヴィスは自分についていない二つの塊を見る。
恐る恐る手を伸ばし、指先でつついた。揺れる。弱めに弾く。揺れる。鷲掴みにするのは怖かったので、さわさわと、手を丸めて、
曲線に沿わせて撫でる。体を捻って、触られないようにしようとするが、ニグリティアの力はノネットのそれを遥かに越えている。
過去の如何なる場合にも似ず、拘束は緩まずに続けられており、力での脱出は難しそうだった。それならと、被拘束者は手立てを考える。
視覚心理戦に出ることとする。視覚心理戦、平たく言えば、色仕掛けだ。必ずしもそれだけでないのだが、代表的なものはそれだ。
「ニグリティア」
右胸ばかり集中的に弄られながら、ノネットは口にした。囁くような声だ。彼女にだけ向けられた言葉であるという言外の意味が、
真偽を別として、そこに篭もる。ニグリティアは耳と顔を近づけた。そこに勝機があったが、未だ機は熟せずにあったので、仕掛けない。
「くすぐってどうするつもりなんだ? 私の笑顔が見たいのか?」
中指の腹で胸の頂点部を擦られる刺激は不愉快なものだったが、ノネットは顔に出さないようにした。しおらしい顔を装った。
そうですわね、と指を顎に当てて考え込み、ノネットの意見の大体にその通りだとの回答を返す。それなら、とノネットは口にした。
「見せてやる」
ニグリティア以下の所業に励むようになったアルヴィスは放っておいて、ノネットはこの歩く拘束具を処理しなければならなかった。
ノネットの言葉に眉を動かす彼女。顔を近づけたままの彼女に、ノネットも顔を近づける。ニグリティアの顔に戸惑いが浮かぶ。
こつんと額がぶつかった。目と目が合わさる。あちらが閉じる。彼女の体から力が抜かれる。ノネットは首を引いた。ニグリティアの、
死地を潜り抜ける過程で身についた危険の予知能力も、役には立たなかった。首を振る力を使ってほんの少し、顔をより前に出す。
口が開かれる。それが笑いの形を取っていたかどうかは、ニグリティアには分からなかった。目を閉じていたのが原因だった。
彼女は鼻に噛み付かれるという稀有な経験をすることになった。そこから先はいつもと同じく、アルヴィスは軽く投げ飛ばされ、
ニグリティアは逃げ回り、既に投げ飛ばされたアルヴィスを盾にして殴打刺突を防ぎ、でも最終的に床に這いつくばってしまっていた。
ぱたぱたと服で身の内を扇ぎ、シャワーを浴びて来ると言い捨て、ノネットは部屋内の脱衣場に向かう。鍵を掛け、それでも安心出来ず、
そこいらにあったハンガーや籠でドアを固定すると、服を脱いだ。着替えのことに気付き、脱衣場の棚を調べる。軍服が揃えてあった。
胸を撫で下ろし、サイズが合っているものを探す。あった。どうしてあるのかと思ったが、今日からしばらく泊まることを考えて、
予め入れておいたのだろう、ニグリティアも気が利いていると思って、それを受け入れた。下着を脱ぎ、タオルを持って浴室へ入る。
タオル掛けに掛けて、回転式レバーを回した。温度設定は適当だ。がたがたドアの向こう側で音が鳴っている。入って来るなと釘を刺す。
髪留めを外すのを忘れていたと思い出し、外して、脱衣場の竹で出来た棚の上に置く。もうこの浴槽にお湯は入っているのだろうか?
めくる。湯気がノネットの顔を包む。湯の温度は適切。入れるようなので、それならば入るとしようと考える。ボディソープを手に取り、
泡立てる。体に泡を塗り広げていると、ばたん、と音がした。のみならず浴室のドアが開いた。ノネットはげんなりした気分になった。
というのも、彼女の前には、どうどうと一糸纏わぬ姿、生まれて来た時のままの姿、タオル一枚の防護も無い素っ裸のニグリティアが、
何を恥ずかしがることがあろうかという態度でどっかと構えていたからだ。ノネットは右手をシャワーで洗い流して、タオルを向けた。
受け取らない。これで胸と幾らかの隠すべき場所を隠すなり何なりしろと言ったが、ニグリティアは首を振ってそれらのものを退けた。
こいつは……と、ノネットは嘆く。というかどうやって入って来たのだろう。バリケードは崩れていたが、崩れたにしては綺麗過ぎる。
「この肌も、この顔も、この胸も、この腕も、この腰も、この足も、どれもこれも十二姉妹、お姉様たちに見せられるようにと思い、
 ここまで大切にして来たつもりですわ。あなたたちに見られて恥ずかしく思うようなものなど、私は持ち合わせていませんわよ?」
「いいから隠せ」
ノネットは相手にしなかった。この一日で彼女は、ニグリティアを上手く扱うコツを数個掴んでいた。代償は性犯罪未遂三、四回の被害。
彼女はどうしてああも容易く自分が押し倒されてしまうのか興味を持ってしまうほどだったが、上官を扱う術を新たに知ったのは、
とても大きなプラスだった。彼女はニグリティアの扱いに困っていたからだ。形だけはアンドロイド隊の隊長なので権限も上であるし、
両頭の蛇は共倒れになると昔から決まっている。ノネットはニグリティアにタオルを無理矢理押し付けて、下半身を隠させた。
入って来る彼女を鏡で確認しながら、体の泡を洗い流す。ノネットは、髪の毛を体を湯の中に沈めた後に洗うことにした。
新しいタオルを取ろうとすると、さっと横から差し出される。誰かは考えるまでも無い。アルヴィスの健康的な赤い頬、白い肌が見えた。
彼女は姉とは違い、慎み深く、淑女らしく己の体を隠すことを知っている。ニグリティアは常日頃からあれほど自らを淑女と呼ぶ癖に、
こういう時はやたらと明け透けとした態度を取り、布で隠すことの無意味さを説く。ノネットはどちらが淑女かの選択を、迷わなかった。
アルからタオルを受け取って、浴槽に浸かる。マナーはきちんと守る方なので、タオルは体には巻かず、頭に巻いた。浴槽の端に移動し、
その広さを体感する。ノネットの部屋にも副隊長だけあって、彼女の為の浴室があった。部下たちは部下たちで専用の浴室があった。
が、ニグリティアの浴室はそれとは大きく違っていた。主に広さの点において。ノネットが腕を目一杯遠くに届くまで伸ばしても、
浴槽の縦の長さにも届かない。横の長さには到底到達せず、ニグリティア一人の為としては大き過ぎるのではと思わせるほどだった。
アルヴィスがいても、それは変わらないだろう。ニグリティアが浴槽の中に座っている。その太腿の上に腰掛け、両足を開いている。
タオルは浴槽の端にある二段ほど高くなった場所へ。そこなら湯が掛かることも少ない。体は隠せなくなるけれど、一人は気にしないし、
もう一人も湯の中に入ればそこまで気にしなくなったので、誰も恥ずかしがる素振りを見せるものはいなかった。ニグリティアは、
太腿の上の相棒を抱きかかえ、左手を彼女の顎に添え、右手はアルの左肩を掴み、己の顎を右手と首の付け根の間の空間に乗せていた。
ノネットが見ていられなくなって髪を洗おうと思った丁度その時、アルヴィスが立ち上がる。それから彼女はニグリティアに手を貸して、
浴槽外に連れ出した。椅子を持って来てちょこんと座るアル。持って来られるシャンプーとボディソープ、それにボディソープ用タオル。
移動して、二人に近づく。アルヴィスの髪の毛を、ニグリティアが洗う気なのは分かった。それが、ノネットには興味深かった。
凡そノネットと同じ色の髪が、白い泡で覆われていく。特別なものなのか、良く泡立った。容器の中に入っているのが、通常の支給品や、
研究室や開発部の人間が作ったような、何で出来ているのかも分からないアンドロイド用洗髪剤ではないことだけは、確かであった。
泡立て続けるニグリティアに、どうやって脱衣場に入ったのか聞く。タオルを取ろうとした時に見た限り、ドアは壊れていなかった。
「上ですわ」
「上?」
「脱衣場と部屋はダクトで繋がってるんですのよ。そこにアルが入って、バリケードを取り払ったという訳ですわ」
頭を下げて泡立てられ続けていたアルがいきなり頭を上げる。こんもりと積もった泡がぼろと落ちて、浴室の床に小高い丘を作る。
「酷い話なんですよ、ノネットお姉様! そのせいで私の服がとても汚れてしまって、新しいのを下ろさなくちゃならなく──わぷっ!」
ぐいっと頭を強制的に下げられ、乱暴にわしわしと髪の毛を掻き混ぜられる。その際に、前髪についていた泡が目に入ってしまって、
アルヴィスは悲鳴を上げた。可愛らしい悲鳴だった。ニグリティアはくすくす笑いながら、掻き混ぜる手を止めようとはしなかった。
一段落つけてからばしゃと湯を風呂桶で掛け、目の泡を取り、シャワーを使って残りの泡を落としていく。綺麗さっぱり落としてから、
アルは首を軽く振った。湯の中に戻ろうとするニグリティアを止めて、背中を流してくれるように頼むアルヴィス。自分だけでは、
上手く洗えないそうだ。これはノネットにも経験があるので分かった。ニグリティアは普通に洗ってやろうとして何かを思いつくと、
豊かな胸の狭間に、ボディソープを垂らした。それから、胸を押し付けて、背中を洗う。ノネットはつくづく愛想を尽かしそうになった。
本人曰く「何だか変な気分になってしまいそう」な方法を強制的に中止させて、持ってきたボディソープ用タオルを使わせる。
前を洗おうとした手を止め、そこからはアルヴィスにやらせた。いつもはこうではないのに、という不満の声を聞かなかったことにして、
洗い終わったアルヴィスの体を湯で流してやる。彼女は浴槽に戻ろうとして、ノネットにぴたり引っ付いていたニグリティアを立たせた。
椅子に座らせる。頭に湯を流すと、把握出来ていなかった彼女は、シャンプーの泡がアルの目に入った時と似た悲鳴を上げた。
濡れた銀髪を撫でながら、アルは手に上質のシャンプーを取る。これが所謂ところの洗いっこという奴なのだろうとノネットは解釈した。
ニグリティアはすぐにアルヴィスのやろうとすることを理解して協力したが、アルは彼女の非常に長い銀髪に、四苦八苦していた。
やれやれ、とノネットは腰を上げる。振り向いたアルヴィスの目が一点を見る。その頭を片手で捻って正しい位置に戻してから、
もう一つ椅子を持って来て腰掛けた。アルヴィスは膝を突いて一心に姉の銀髪を、優しく、傷つけないよう、痛めないよう、洗っている。
ノネットはそんな彼女を手伝うことにした。手際良く、銀の髪を泡で覆い、頭を揉み解して、ニグリティアの目を快楽に細めさせる。
余りにノネットが手際良くやるので、アルは自分は体を担当しようと考えた。ボディソープを持って来る。手に取り、下を見る。
すとんと落ちていて、これでは無理だと思った。顔を上げる。その目前に、姉の白い手があった。それが握るのはボディソープ用タオル。
アルは無理なこととそうでないことの見極めが出来る存在だった。そして無理な時は諦めるしかないのだと、物事を正しく把握していた。
だから彼女が素直にタオルを使い始めたのは、別に驚くようなことではなく、そもそもそれが当然なのだからして、褐色の姉の頭が、
どんなイカレ具合かというのをよりはっきりさせたに過ぎなかった……勿論のこと、アルヴィスにはそんな気は無かったのだけれども。
洗い終わると、ニグリティアはアルヴィスを抱き寄せて撫でた。ノネットは素早く身を引いたので、次の目標になるのを逃れられた。
目を閉じて一息ついていると、水中から引き上げられる感触と音がした。目を開ける。褐色の両手がノネットを引きずり出していた。
抵抗の前に両手は外れ、椅子に座らされる。ノネットは振り返って肘を入れ、逃げ出すかと思ったが、どうやら髪を洗うだけらしくて、
そこまでの危害は加えられそうに無かったので、彼女に任せることにした。鏡で後ろを確認。にこにこ笑って両手にシャンプー液を取り、
ノネットの髪に伸ばす。ニグリティアほどではないが、彼女も髪が長い方だ。初めて触るニグリティアは、その髪の一本一本を、
注意深く取り扱った。彼女は髪が女性にとってどれほどの意味を持つのか、どれほどの価値を持つのかを正しく把握していたのである。
尤もそれは一般的な論であり、ノネットのような存在に対して適用を許される類の認識かどうかと言ったならば、心許ないところだった。
アルヴィスはさっきのノネットがそうだったように、浴槽の縁に腕を掛けて眺めている。ニグリティアの指が髪と髪を掻き分けて、
頭を触る度に、微妙に表情が変化するのを、観察して楽しんでいるのだ。だが今度ばかりは、ニグリティアもふざけた真似はしなかった。
実にさっぱりしたノネットは、礼を忘れなかった。彼女は慇懃無礼と形容されることが多い。だが、実際の彼女は必ずしもそうではない。
褐色肌の上官は、礼を頷いて受け、立ち上がろうとするノネットの腰に抱きついて座り直させた。髪も洗ったのだから体も、と言い寄る。
「体は洗った。二度洗う必要性は感じない。そこまで汚れは多くない」
手を振り払って、浴槽に戻った。渋々と言った風に、ニグリティアも浴槽に入る。アルヴィスは好奇心から、何となく姉に聞いてみた。
「ノネットお姉様は、こういう風に誰かとお風呂に入るのは初めてなんですか?」
「初めてだ」
すいと水中を泳ぐようにして、ノネットの隣にアルが移動する。不貞腐れるニグリティアは何にでも手を出すので、避難して来たのだ。
横に並び、見上げる。ノネットはアルのもう一人の姉を監視していて暫くその視線に気付かなかったが、目だけをちらと動かして尋ねた。
特に意味も無く見ていたので、彼女は何か言わなければならないと焦り、湯の上に浮かぶ毛髪に気付く。丁度良い会話材料だった。
「お姉様って髪が綺麗ですよね」
一考もせず、目をこちらを狙って爛々と光らせるニグリティアから外さずに、ノネットはそれが自分だけのことではないことを告げた。
「私とお前は同じ材質を使って頭髪を構成している。分子構造、耐弾性、放熱性、見た目の綺麗さ、どれをとってもほぼ同じだ」
アルヴィスは溜息を吐く。上官が上官なら彼女も彼女だった。そういうことは言わないものですよと教えると、ぶっきらぼうに返される。
「そうか」
ざばりと音を立てて立ち上がった。タオルを取り、体を隠して浴室を出る。アルヴィスは付いて行こうとして、浴槽に引き込まれた。

*  *  *

「私、風呂上がりにはマッサージをすることに決めていますの」
「嘘をつけ」
あっさり見抜かれて、ニグリティアはベッドに倒れ込んだ。足をぱたぱたとベッドを叩くように動かして、不満を明らかにする。
そんなことに不満を感じられても、としかアルヴィスは思わなかった。ノネットは何も感じなかった。その元気さは羨ましかったが。
やることが本当になくなってしまい、軍服の上着を脱ぎ捨てた上官は退屈を表明した。隊内報告を書くノネットに後ろから圧し掛かる。
敢えなく打ち払われた。相棒が笑うと、きっと睨みつけ、二三発の拳骨を与えたが、そうしたところで暇が潰れる訳ではなかった。
仕方が無いので、ペンと日記を寄越すように彼女に言う。ニグリティアは自分の机の引き出しから相棒が取ってきたそれを受け取ると、
開いた。びっしり書かれた字に興味を持って、アルが覗き込もうとする。背表紙で叩かれた。存外に痛かったので引っ込んでおく。
静かな部屋になってしまったなあ、とアルヴィスは思った。時間を確かめると、一体どれほどの長い間風呂に入っていたことか、夜だ。
人間ならとうに夕食を取っている時間だと考えた。食堂に行くか? いや、前の件でアンドロイドと人間の間に溝が出来たことは事実だ。
掘られて新しい溝は、新たな問題の発生を誘う。諍いを起こすのは面倒だったので、冷蔵庫を漁った。何か食べ物は無いだろうか?
リンゴが数個とジュース類、それにワイン。発泡酒。ビール。段々アルヴィスは自分の主が淑女とは思えなくなっていることに気付いた。
結局冷蔵庫にある食物と言えば酒保で買える冷凍食品ばかりで、娯楽として食を知っているアルからすると、楽しめない味のものだった。
艦内にあるお菓子専用自動販売機まで行き、ドーナツを大量購入して来るかと考える。それと紅茶かコーヒー。とある同僚に言わせれば、
ドーナツにコーヒーこそが、古来よりの伝統的スタイルなのだとか。左手にドーナツ、右手に紙コップのコーヒーが伝統的スタイルだと?
アルヴィスは聞いた時は一笑に付したし、今もそうまで重く彼女の言葉を信じていないが、一度試すのを止める理由にまではしなかった。
が、それも中止した。面倒だった。動きたくなかった。風呂に入って火照った体を冷まそうと、ニグリティアの机の引き出しから、
団扇を取り出し、扇ぐ。それに姉が目をつけた。寄越すように言う。アルヴィスは寝言は寝て言えと切り返した。そうしたなら、姉は、
自分の方に構う筈と考えてのことだった。予想通り取っ組み合いになる。互いに互いのことを気遣いながらも、まともに当たれば危険な、
半ば本気でのニグリティアのストレートや、払い除けられる軌道を取るアルの目潰しなどが、二人の間を飛び交った。ノネットは無視。
彼女たちに一々かかずらっていては自らの仕事も満足に出来ないことがこの一日で、否定しようの無いほどに証明されてしまったからだ。
放っておけばこちらに手を出して来ることも無いのだから、蜂の巣を突いて被害を態々受けに行く必要もあるまい。それが彼女の考えだ。
但し問題なのは、その蜂がノネットをどうやら妙に好いているらしく、しつこく襲って来るところだった。今日、眠れるか、憂鬱になる。
机に向かい、報告書の作成を続ける。ノネットはこれが、率直に言って、大嫌いだった。彼女は人間が自分たちに向ける目を知っている。
その人間たちから隊員を守る為に、彼女は最大限の力を尽くし続けた。権限の増大、指揮系統の分離、ほぼ独立部隊に近い構成に変え、
時には艦長さえ立ち入ることの出来ない領域さえ作った。どれもノネットが、時に顔色を伺い、時に恫喝を駆使し、懐柔したりして、
手に入れた特権ばかりだった。正直な話、ニグリティアはどの特権を得ることにも関与していない。彼女のカードは名前と立場だけだ。
その気になればノネットは、彼女を追い落として部隊を自分の手中に収めることも出来るだろう。だがノネットにはその気は無かった。
理由は二つ。一つは、そうしたところで何の意味も無いからだ。現在、ノネットは隊長代理をあらゆる局面において務めている。
それはつまり、実際には彼女が隊長であるということで、名を手に入れることは実を手に入れることよりも優先されることではなかった。
後者が手に入れば、前者は無くてもいいのだ。特に、名を持つ者が、ニグリティアのような性格の場合は。彼女は権力に執着しない。
もう一つ。彼女は──ニグリティアとアルヴィスには厳しく接するが──この部隊が気に入っていた。他にどの隊に所属したことも無い。
が、こここそ自分のいるべき部隊だと彼女は信じていた。その為の特権確保だったし、彼女が言う「この部隊」というのは、隊長が、
褐色肌のイカレ女で、副官は隊長と姉妹仲のいいその妹アルヴィスであり、副隊長が自分、ノネットで、九十九人の部下たちが在籍する、
ペトルッツィ粛清部隊所属アンドロイド隊のことだったからだ。隊長が変われば、自分がいたいと思った部隊でなくなってしまう。
それはノネットにとって、最も回避すべき事態だった。起こる時は起こるだろうと知っていた。十二姉妹たちに負ければ隊は壊滅する。
壊滅するまで戦うのが彼女らだからだ。ノネットやニグリティアが命じれば違うだろうが、両者は死ぬまで戦うことを自らに課していた。
だが、避けられるなら避けたい。起こらないで済むなら起こらせたくない。ノネットはそれを明らかにしなかったが、隊を愛していた。
そうして彼女が報告書を嫌う理由に回帰する。彼女は報告書を嫌っていた。それは、報告書において、部下たちのことを書く時に、
物扱いされているのが一番に嫌う理由だった。アンドロイド隊の誰もが物扱いを厭っている。人間とは思わないが、決して物ではない。
彼女らの主張はそういうものだったが、それがそのまま通用させられるほどノネットの力は強くなかった。仕方なく、彼女の報告は、
部下たちを駒扱い、物扱いにしたものになり、書いていると嫌気が差すことも多々あった。後は細々した理由で、大したものではない。
それと、今日は追加で、嫌に思う理由があった。始末書を二つの件に関して書かなければならなかったからだ。彼女の部屋のことと、
食堂での大騒ぎに関してである。前者にしろ後者にしろ、非はノネットには無いが、立場が立場であるから、書かなければならなかった。
ベッドでの騒ぎが収まっているのに気付く。書類は書き終えられそうだ。後ろをちらと振り向くと、二人は抱き合って眠っていた。
勝手な予想で、アルは毎夜鯖折に似た技を受けていると思っていたノネットは、眉を動かして小さな驚きを表した。さっさと書き上げる。
良く眠っている二人は起こさないようにして、部屋を出た。カードキーは書き換えて、ニグリティアの部屋も出入り自由にしてあった。
粛清部隊の幹部連中が部屋を並んで取っている廊下、通称「キャリア大通り」を通る。といっても、分隊長程度でもここにいる者もある。
ノネットは、艦長の副官の部屋を探していた。この時間ならここにいることが多いからだ。後は訓練室か、艦長室しかない。
彼にもう少し忍耐があれば、とノネットは思った。彼はアンドロイド隊と他の人間を繋ぐ架け橋になったかもしれない人間だった。
彼の性格を確かめている間に、彼は機嫌を損ね、去った。過ぎたことだし、いなくても案外上手くやっているので、問題は無かったが。
ドアにはめられた札を一枚一枚確かめて、求める部屋を探す。「ヴィート・C・ロレンツィ」違う。これは分隊長を務める男の部屋だ。
「マックス・アルバレス」これも違う。ノネットは彼の名前をデータベースで検索し、ヴィート分隊の構成員であることを知った。
最近聞いた話を思い出す。空室争いのくじ引きで、とある分隊員が見事個室部屋を手に入れたという話だ。偶然もあるものだと思った。
「パスクアーレ・グウィード・ペトルッツィ」行き過ぎた。艦長室だ。名前の横にあるスペースに、艦長を意味する言葉が入っている。
数部屋戻り、望んでいた、「ヴェルナー・パウル・ボルツマン」との名前がある部屋を見つける。ノックし、出て来た艦長の副官に敬礼。
彼はくつろいでいた様子だったが、だらしないところは一切無く、元軍人らしく格好の決まった返礼をしてみせた。報告書を渡す。
彼とノネットは良く似た境遇にあった。即ち、どうしようもない上官と、それを補佐する副官、副隊長。ボルツマンはアンドロイド隊を、
嫌わないとしても好まなかったが、ノネットに関してはある程度の理解を持ち、彼女が特権を得ようとする時は大抵、彼の助力もあった。
敬礼を再度行い、回れ右してニグリティアの部屋に戻る。仕事を全て終わらせて気付いたが、ノネットはこれまでにないほど疲れていた。
その原因は考えなくてもいい。考えることがまた、疲れを誘発させるからだ。今はただ、部下に頼んで運び込んで貰った自分のベッドに、
入って眠ってしまいたかった。それだけを考えて歩いていると、後ろから足音が付いて来る。この足音の間隔と音には聞き覚えがあった。
彼女の上官、眠った筈の褐色女だ。足を止めて、肩を並べる。付いてきた理由を聞こうかと思ったが、やめた。彼女に求めても無意味だ。
ニグリティアはやりたいからやるだけだ。そうしたいからそうするだけなのだ。今回もそうだろう。ノネットはそう納得することにした。
が、彼女は彼女の方から話を切り出した。ノネットには意外な行動で、普段と違うな、と思ったが、そういうこともあるだろうと考える。
「大変ですのね、隊長職というのは。あなたがどんな一日を送るのか知りたくて、今日は一日中付き纏ったりしてみましたけれど」
「だからドアを壊したのか?」
彼女は笑ったがノネットは仏頂面になった。余り面白くない。笑うところではないのだ。人の部屋より自室の方がいいに決まっている。
「それは閉じ込められたからですわ。ただ、結果としてはそうなってしまったかもしれませんわね」
そこで、ニグリティアは足を止めた。ノネットも合わせて足を止める。恥ずかしそうにニグリティアは笑った。それから、言った。
「ありがとう、ノネット。あなたには迷惑を掛けていますわね。本当に、ありがとう」
「そう思うなら働け」
「絶対に嫌ですわね」
そう言いながら両腕を広げた。ノネットは疑わしげに目を細める。手を振って、隊長からの褒賞を与える旨を厳かに伝えるニグリティア。
馬鹿馬鹿しいと突っぱねて、副隊長は歩き出そうとした。その背中を抱き締めて、気持ちの篭もった礼を一言口にする。ノネットは、
その手を振り払った。それでもノネットの上官は満足だった。彼女はしたいことをした。それに対しての相手の反応には然程興味が無い。
部屋に戻り服を脱ぎ捨て、ニグリティアは相変わらず良く眠っているアルの隣に入った。抱きついてくるアル。彼女はその頭を撫でつつ、
机の上を軽く片付けておこうとしていたノネットを呼んだ。片付けを中断し、近づいて来るノネットに、お休みのキスは? と聞く。
彼女は黙って人差し指をアルヴィスの唇に向けただけだった。それではいつもと変わらないではないか、と文句をいい、腕を伸ばす。
払うより早く、胸倉を掴みノネットの顔を引き寄せた。起き上がるようにして唇を重ねようとするが、咄嗟に割り込ませた右の手の甲が、
彼女の唇を防いだ。あっ、というより早く、ノネットが自分から顔を動かして、ニグリティアの額に口付ける。それで寝ろ、と言った。
素直に頷いて、アルヴィスを抱き締める。彼女も大概変わってますわよね、と呟くと、寝ていた筈のアルヴィスがそうでしょうよ、と、
微妙に棘のある口調で返して来た。ふふ、と笑い、彼女にも寝る前の儀式を済ませる。それで気が済んだのか、今度こそ彼女は眠った。
ニグリティアは彼女を胸の中に抱えながら眠りに落ちていく。彼女の中には一つの願いがあった。明後日か、明々後日か、全部終わって、
まだ二人の顔が見られたら、という願いだった。彼女は知っていた。彼女たちは知っていた。誰もが全てのことを知っていた。
ペトルッツィ粛清部隊に存在するただ一隻の艦、十二姉妹に代わりギルド最強となったろう隊を乗せた艦は、目的地に近づきつつあった。
だが、到着するのは次の日の夜頃。だから、ニグリティアはそう願う。彼女たちに勝利を。彼女たちに生還を。自分は死んでも良かった。
ニグリティアが死ぬということは十二姉妹に殺されたということだから、どちらにしても本望に違いは無い。生死両方が目的だった。
但し自分が死んだ場合は二人の顔が見られないので、どちらかと言えば自分が生きている方の未来が訪れることを彼女は望んでいたが。
「お休みなさい、ノネット。お休みなさい、アルヴィス」
その挨拶を忘れそうになっていたニグリティアは、礼儀正しくも、眠さの篭もる声でそう言った。彼女は薄く目を開いてノネットを見る。
ノネットは小さく、口の端を動かすくらいの微笑を浮かべて、すぐ消し、お休み、とニグリティアに言った。それで、彼女は眠った。
眠りに落ちた二人を見ながら、ノネットは机を片付ける。明日が初陣だ。死ぬことも考えられた。彼女はその可能性を否定しなかった。
だから身辺整理はしておこうと思っていた。といっても整理するほど自分のものは無く、どちらかと言えば彼女の上官の身辺整理だった。
終えて、ベッドに向かう。隣の二人は眠っている。表情は幸せそうというには固かったが、辛そうには見えなかったので良しとした。
そのままベッドへと入る前に、彼女たちの頬を撫でる。お休み、と一言だけ言う。静かな声だったので、二人が目を覚ますことは無い。
彼女は落ち着いた気分で寝床に入った。目を閉じ、眠る。ノネットは夢を見なかった。それは彼女が不要と思っていたからかもしれない。
十二姉妹のいるクーロンが迫り、血と鉄と鉛が全ての世界を目前にして、初めて──今日、初めて、彼女は、夢を、見ていた。
部屋に持って来られたアナログ時計の短針が、十二時を指す。

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最終更新:2008年09月03日 21:55