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セプが復活した。
その知らせを聞いて躍り上がって喜び、お互いの頬にキスしあって神とニルソン様を賞賛しなかった直属兵は居なかっただろう。
いや、断言出来る。居なかったことは間違いない。
何せ僕たちセプ直属兵員全員が、ニルソン様の手術が始まってから終わるまでの十一時間、
ただただひたすら心から成功を祈り続けていたのであるから、
成功に終わったと聞いて喜ばないようなどうかしてるイカれ野郎は居ない筈だ。
で、そんな背景があったから、僕らは大いに肩を落とす破目になった訳だ。つまり、記憶喪失とやらの話で。
ニルソン様に食って掛かる何人何十人もの仲間を止めるのは大変だった。
止められたのはお互い疲れ切っていたからだ。ニルソン様も、僕たちも、文句を言おうとした奴らも。
セプは復活したとはいえ、再起動に耐えられる状況ではないらしく、
さっきも言ったように疲労が酷かった僕たちは素直に解散して、部屋で泥のように眠った。
十二姉妹のリーダーの提案で始められた、
起床時就寝時点呼などクソ食らえだ──罰則は敷地を十週? そいつは結構なことだな、ええ? ついでに腕立て百回もどうだ?
翌日になって、悲しい癖で早朝に起き、いい加減諦めも入っていた僕は、ニルソン様に会いに出掛けた。
でも多分その時、僕はやっぱり怒っていたんだと思う。
諦念もあっただろうけれど、もし他の仲間みたく完全に諦めていたら、怒りが既に消え失せていたなら、
疲れていると想像に難くない彼のことを考えてこんな朝早くには行かなかっただろうから。
だから、僕は確定出来ない予測ではあるけれども、やりきれない憤怒を抱いていたんだろう。
セプに会いたくて、それは叶うというのに、彼女は僕たちのことを覚えていないということに。
僕たちは最早思い出されることはないのだ。かつて過ごしたあの時間はなくなってしまったんだ。
戦場で、酒場で、兵舎やその他ロクでもない土地の数々で過ごした、
彼女と共に居た者にとって不変の価値を誇るあの記憶は、もう彼女の記憶中枢には存在し得ないのだ。
笑って、泣いて、怒って、そんな感情の記憶さえも、今の彼女は持たない。
正直な話をすると、僕はそれに思いを至らせた時、みっともないことに危うく声を出して泣きそうになり、
必死で歯を食い縛ってやっと、涙を一滴落とすか落とさないかに留まらせることが出来た。
ニルソン様はセプのところに居るだろう。十二姉妹専用の医務室に向かう。
予想通り中からは機械を操作する音が聞こえて来た。僕はドアを少々乱暴にノックして入室する。
椅子に座って機械に向かっていて僕に背中を向けていた博士は、くるりと回転してこちらを向いた。
仕草でそんなことはしなくてもいい、と表す。彼は頷いて再度機械と睨み合いを始め、時たま弄ることを続けた。
適当に近くから椅子を引っ張って来て、それに腰掛ける。ぎい、と軋む音に顔をしかめた。
どちらから話し始めたのか、良く覚えていない。多分、ニルソン様の方からだったと思う。
覚えている限りでは、彼は僕に謝り、他の仲間全員にも謝罪の意を示したいという意思を告げた。
僕はそれを聞いて、出せる限り冷たい声で却下した。そんなことをして何になるというんだ、と。
仲間たちがどう判断するか、僕は決める立場には到底なかったが、大方の予想ぐらいはついた。
ニルソン様は項垂れてしまい、機械の音も止まる。解決策はなさそうか、と聞いた。
彼は首を振りかけて、止める。もう希望など持つまいと思っていた僕の心に、僅かに火が灯った。
身を乗り出して、問い質す。あるのかどうか、あるならばどうすればいいのか。
初老の男性は言った。
バグによる記憶障害は『読み取れない』というものであって、『消え去った』というものではないと。
それが意味をするのは要するにこういうことだ。
『セプの方で問題を解決出来れば、再び彼女に記憶が戻るだろう』
多少は端折ったが、何、問題はない。重要なのはこのことだ。
まだ希望は残っているということが、今現在で最も重要なことなのだ。
そうとも、認めるものか。決して認めるものか。大した理由もなく記憶なんてものが失われていい筈がないのだ。
僕はその日、その時、その瞬間に、セプの記憶を取り戻してみせると決意した。何があっても、だ。
直後から僕たち二人は散々話し合い、物理的ショック療法をする気はない点ではまず、お互いすんなり合意出来た。
そして四時間か五時間かもっと長くかは知らないが、時間を忘れて話し合い、僕とニルソン様は治療の方向性を決定した。
生憎というかどう言うべきか分からなかったけど、バグは原因不明らしい。
故に僕らは人間と同じやり方で(もう二度とこんな表現は使いたくない!)、彼女に対応することにした。それが一番だろう。
セプを起こし、彼女の過去に関する様々なもの、例えば場所、物品、人間などと触れ合わせ、
刺激を与えてバグを解消出来ないか、確認してみるところから始めた。
まず僕がショックを受けたのは彼女が起きた時だ。彼女はすっかり、そう、すっかり、子供になっていた。
起きると同時に体をぱっと起こし、周りをぐるりと見渡す。
静謐な美しさは失われ、代わりに無邪気な魅力を多分に含んだ表情だ。
まるで第三世代のような状態で、彼女が喋りだすまでは信じられなかった。
彼女は様々なことを聞いた。ここは何処か、私は誰で、あなたたちは誰なのか、お腹が空いたが食べ物はないか、などと、
一々一々僕に衝撃をもたらす一言を選んでいるかのように。
頑張って、泣き出さないように顔を引き締める。
オクト、ノヴェ、ディッセに接する時を思い出し、優しく、明瞭に、一つ一つ答えていく。
但し僕については言葉を濁しておいた。余計なことを言ってしまうと記憶回復に支障が出るかもしれないからだ。
ニルソン様に許可を得て、彼女を着替えさせ、連れ出すことにした。
一人で着替えが出来るか聞いたが、答えはNO。
仕方ないので僕が着替えさせたけど、この記憶が残っていたら記憶回復時にどうしようか。
ヘッドドレスを頻りに弄りながら、彼女は僕と一緒に外へ出た。
迷子にならないように手を繋いでだ。こんな時じゃなけりゃ、舞い上がっていただろうに。
右手を握ると、彼女は子供特有の、はにかんだ笑顔をしてこちらを見た。
僕も微笑を返し、歩く。何処に行こうか。最初に他の姉妹に伝えるべきかもしれないな、と思った。
足を屋敷の居間に向ける。居間に居なかった姉妹は私室や射撃場、訓練場を回ってみよう。
居間に居たのは十一人中五人だった。ジャニアリー、ジューン、オクト、ノヴェ、ディッセである。
僕は手を引いて彼女らのところまで進んだ。
真っ先にジャニアリーが気付き、次に桃缶を開けようとしていたジューンが気付く。
オクトたちはジューンが教えるまでその素振りも見せなかった。
ジャニアリーが飛びつく。そんなことは考えていなかったセプは押し倒されて床に尻餅をついた。
彼女は頬を擦り付けてお帰りなさい、お帰りなさいと涙声で言う。
「……だぁれ?」
だがセプの声に、ぴたりと親友の動きは止まった。顔を離し、セプを見て、僕に視線を移す。
「どういうことですの?」
彼女の思考は乱れなかったようだ。クソったれめ、僕が知るか。
こっちだって教えて欲しいくらいなんだ、何だってこんなことになったのかをね。
そうは思ったものの口には出せない。ジャニアリーの言葉は至極真っ当なものだ。答えるしかない。
僕は簡単に、必要なことだけ、彼女に伝えた。
彼女は一つ二つの頷きで答えると、セプの肩を掴んで目と目を合わせる。
何をするのかと思っていると、恐らくもしも僕が最初の数単語を聞き逃し、されるがままにしていれば、
セプの記憶に重大な欠陥を残すことになっただろう行動を開始した。
一部彼女に都合のいい偽記憶を埋め込もうとしたのだ。
気付いて慌てて引き離す。ジャニアリーは不満げにこちらをみる。
どうしてそんなことが出来るんだ、と声を漏らしてしまった。こんな時にふざけるな、という言葉は喉元で塞き止める。
すると彼女はふっと表情を変え、少し悲しげな顔になるとこう言った。
「だってあの出撃前に、ちゃんと帰って来るって言ったんですのよ? これくらいのペナルティは当然ですわ」
僕は黙り込む。こっちなんかよりショックが大きいのだ、彼女には。
セプは暫くジャニアリーに抱き締められ、優しく撫でられていたが、僕の方を向いて言った。
「お腹空いたー」
「あら、それなら私が炒飯でも作りますわ」
失礼にならない程度に手で遮って、僕が適当に何か作ってくる旨を伝える。
例え記憶が失われていても、彼女たち二人は姉妹だ。少しでも失った時間を取り戻させたい。
キッチンに向かい、冷蔵庫の材料をざっと検める。駄目だ、どれもこれも時間の掛かりそうなものばかり。
缶詰その他もっと簡単に出来そうなものがないか探してみた。パスタが作れそうだ。
後ろから声が掛かる。ジューンだ。
「どうするんだ?」
食事のことかと思って、答える。そうじゃない、と否定されたので、首を傾げた。
「セプの記憶。このままには出来ない」
さっき説明したことを繰り返す。
更に、僕は何も隠していないし、言えることも少ないが、出来ることは何でもやっておきたい。
直接に姉妹のサポートがあるなら、ありがたいことこの上ないし。
本当は親友のジャニアリーのサポートが望ましいのだが、今の状態の彼女にそれを頼むのも酷だ。
そのようなことを言うと、彼女は頷いて了承してくれた。
「手伝えることがあったら何でも言って欲しい。セプは大切な家族だ」
勿論、と答え、調理を始める。横にジューンが立った。手伝ってくれるようだ。
三つ子のことを尋ねると、桃缶を三つほど開けておけば当分は持つらしいことが分かった。
手伝いもあって調理は素早く進み、ミートソースのスパゲティが二人分出来た。
僕もそう言えば朝から何も食べていないので、幾分図々しいがここで食事させて貰おう。
皿に盛り、持って行く。匂いで察知したセプは既にフォークを握ってテーブルについて待っていた。
彼女を待たせてはなるまい、僕は自分のフォークを用意する前に皿を置く。
待ってましたとばかりに、頂きますも言わず食べ始める。
フォークの扱いは稚拙で子供っぽく雑で、食べ方もマナーが良いとは言えない。
口の周りにべたべたとミートソースをつけているし……ああ、もう見ていられない。
ポケットからハンカチを出して手を伸ばし、口周りを拭う。
彼女はこちらを見て、笑った。ハンカチを畳み、ポケットへ戻す。
食事後、ジャニアリーにセプの相手をして貰って、キッチンでジューンと話した。
当たり前だがこんな事態は彼女だって他の姉妹だって初体験だ。
何らかの経験に基づく有用な方策は立てられない。全てが初めてのことなのだから。
だが姉妹だからこそ気付く方法もあるかもしれない。それが僕の考えだった。
そしてジューンは、姉妹の誰とでも仲が良く、十分に思いつく可能性があった。
「うーん、思いつかないな」
あ、あれ? 即答でそれはないだろう。
「やっぱり、記憶を呼び起こさせる何かを探すとかがいいんじゃないか?」
それは僕やニルソン様が前から考えていたことだ。
彼女と深く関わっていた物、人、場所。例を挙げるなら彼女の銃や部下たち、訓練場や私室だろう。
これからの方針を決定した。まずは場所から回って行こう。今の状態のセプは人に会わせられない。
決まったそれを詳しく言って、ジューンには引き続き案を考えていて貰うことにする。
僕は居間に戻って、今や第三世代と変わらぬ少女に移動を告げた。彼女は素直について来る。
どうやら僕と僕のスパゲティは気に入られたようだ。
懐かれてしまって、セプは移動する時ずっとべったりとくっついていた。
バグによって記憶が読み取れなくなった結果、記憶から形成される人格をも変貌させてしまったから仕方ないのだが、
そいつは体までは変えてくれないのだ。
従って僕は大人の体に大抵(そう、大抵)つきものである二つの柔らかな物体と、
彼女の体温を常に何処かの部位に感じることになった。背中とか。
やりにくさを感じながら移動した先は彼女の部屋だった。何はともあれ、彼女に最も近い場所だろう。
ここがセプ自身の部屋であることを伝え、色々と見せて回る。
と言っても僕が知っていることなんて僅かなものだ。
隊で副官の次に面倒で危険と言われる伝令兵の任に僕が就いていた時には報告する毎にこの部屋に足を運んだが、
恐れ多くていつもいつも足早に退室していたのだから。今になって考えると馬鹿なことをしたものだ。
セプは好奇心丸出しで色々と探って回った。執務室のソファー、机の中身、掃除用具入れのロッカー、
現在身につけている服と同じ服ばかりあるクローゼット、ヘッドドレスばかり大量に収納されたケース、
寝室のベッド、ベッドサイドの小型の机、寝る時に読む為の本、これまで遂行してきた全ての任務に関するファイル、
淑女の嗜みなのかポケットサイズの酒瓶数本を無造作に放り込んだ木箱、それからまた執務室に戻り本棚。
その中からセプは一冊の本を手に取った。赤革の表紙で、題名は記されていない。
ペンを入れるビニール製の筒が付いていたところからすると日記か何かだろう。
彼女はソファーでそれを読み始め、当分離す気配を見せなかった。
僕は寝室の酒瓶を一本頂戴し、ちびちびとやりながら待つ。
突然にセプは本を閉じて、それを棚に戻した。顔色が優れていない。瓶を置いて近寄った。
彼女は小さな声で何やら呟いている。耳を澄ませると、それが何か分かり、分かった瞬間の感動は言い表し難かった。
言葉は無線の交信記録だったのだ。三ヶ月前の交信記録だ。
何故分かったかと言えば、送信者が僕で、受信者がセプだったからである。
あの時、僕は運悪く市街地で戦闘中一人だけで隊から逸れ、
おまけに直前の銃撃戦で装甲服ごと無線機と拳銃以外の装備を捨ててしまっていた。
無様にもパニックになっていたので、もしも無線機で連絡したのが彼女でなければ、今頃僕は芝生の下で眠っていただろう。
セプは落ち着くように僕を諭し、位置を確認させ、即刻救出チームを組織して助けに来てくれた。
その日の交信記録だ。惨めに僕が喚き立て、セプが一喝して黙らせて諭し、という内容の。忘れる訳がない。
そして彼女は思い出したのだ。記憶は戻るのだ。無駄などではないのだ。
口の中で小さく畜生、と悪態を吐いた。このクソ状況を打開する手段があるんだ。ニルソン様に改めて万歳。
感慨に浸っている間に彼女は調子を取り戻した。僕は彼女の手を握り、部屋を出る。
次はそうだ、銃器保管庫に行こう。セプがいるから鍵がなくても通れるだろう。
ドアの網膜認証を十二姉妹の瞳というフリーパスで通り抜け、目当ての銃器を探す。
彼女の銃はM14だ。見せれば何か思い出すかもしれない。
十二姉妹の銃器ロッカーを開け、セプ専用のM14を取る。
弾倉は収納した状態では外れているので、ストックに付けられた空弾倉を入れておく。
渡すと、彼女は嬉々とした様子で操作を始めた。ここから先はもうパターンだ。
ふと顔色を変え、何か思い出し始める。この時、何事か呟いている。
呟いていることはこの場合は銃に関する操作や薀蓄だった。
言葉が止まり、徐々に体調を復調させて行く。
完全に調子を取り戻してから、次の場所、次の物を見せていく。
その度に彼女は記憶の欠片を取り戻し、僕を狂喜させた。
けれどそれも三時間後になると、失われ始めていた。
もとよりそこまで見せるものなどなかった。
大分記憶を補完した頃──その頃には口調も戻り始め、子供らしさもある程度は失われていた──に仲間に会わせたり、
射撃場のメイや屋内訓練場のジュライ、爆発物取扱室のオーガストにも会わせて、何とか三時間持たせた。
で、いよいよ見せるものがなくなり、それでも未だに完全な記憶を有さないセプを見て、僕は涙目になっていた。
瞬間。瞬間だ。セプがジューンからの通信を受け取り、内容を僕に伝えたのである。
実にそれは盲点であり、灯台下暗しにもほどがあるものであった。
僕の部屋だ。僕の部屋にだって何かあるかもしれないじゃないか。
こいつは賭けだった。賭けるものはセプの記憶。取り戻せるかどうかは僕の持ち物次第だったが、自信はあった。
手を掴んで走る。兵舎には僕の部屋がある。
伝令兵時代に特典として貰った部屋を、未だに占拠し続けているのだ。
ドアを蹴り開ける。自信の源を探す。いや、探すまでもなく見つかったが。
オルゴールだ。小さなオルゴール。手回し式木製外箱のオルゴール。
僕の思い出の品で、彼女の思い出の品でもあった。
これを貰ったのは何年前だったか、僕の誕生日だった。
セプは部下の誕生日を全て覚えていて(ここまでは大して不思議でもないのだが)、
彼らの誕生日には決して贈り物を欠かさなかった。それも、実用的な上に誰の贈り物とも被らないのだ。
そんな彼女が僕の誕生日を偶然祝えなかった。それは別に彼女が悪いのではなく、任務の都合上だったのだが、
贈り物を考える暇がなかった為に、僕にプレゼント出来ないことと、僕がプレゼントを受け取れないことを嫌がって、
大昔彼女が町に出かけた際に購入した、値の張るこのオルゴールを渡してくれたのだった。
セプがどれほどこれを大切にしていたのか僕は良く知っていたから拒もうとしたが、
遂には折れて受け取ったのだ。それ以来、大切に扱ってこまめな整備も忘れていない。
見た途端変わった表情に僕は心の中でガッツポーズを取る。
ゆっくりとオルゴールを手に取り、小さなクランクを回した。
優しい音色の楽曲が流れる。僕もセプも、何と言う曲なのか知らなかったから、
この曲について話をする時は『あのオルゴールの曲』で通していた。
記憶の読み取りが終わるまで待ち、尋ねる。
……途端彼女が倒れた。
二十分後、僕はニルソン様に起こったこと全てを話し、僕の行動が誤っていたのかどうかを聞いた。
彼は強くそれを否定し、どんな行動よりも正しかったろうと僕を励ましてくれた。
十分が更に立つ。
ニルソン様の試算ではもう起きている筈、いつ起きてもおかしくない筈なのに、一向に閉じられた目は開こうとしない。
当てにならない結果だが、診断プログラムがセプの記憶は全て戻っていると教えてくれているというのに、目を覚まそうとしない。
博士は席を外すよ、と言って、先程まではコーヒーの入っていたポットを片手に出て行く。
僕とセプだけが部屋にいる状態だ。
足を震えさせながら近づく。傍らに立ち、彼女の顔に手をやり、口を耳元に近づけて色んなことを囁いた。
彼女が起きている間に思い出さなかった記憶。復活までの間にあった様々な事件。
最後に、僕の名前。言っていなかった僕の名前。本当に思い出してくれたのかも分からない、僕の名前を告げようとする。
まだ言ってませんでしたね、と前置きして、こう続ける。
僕の名前は。
そこから先を言うことは諦めに近いような気がした。彼女が起きた時に聞くべきことである気がした。
下を向く。だから見えなかった。彼女の動きが。もっと言うなら、下を向いたまま言おうとしたから、見えなかった。
この僕の名前は──「としあきさん」
今まで理性の鉄仮面で感情を押し殺してきたが本当は壊れそうだった僕は大声で泣き出してしまった。

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最終更新:2008年11月25日 22:17