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例えば、あなたが私と親しくはないにしろ、私に嫌われておらず、かつ私のやたら多い姉、妹の誰にも嫌われていない、少なくとも、
殺意を覚えさせるほどには嫌われていないというならば、まずはあなたは居住区に入ることが出来るだろう。そこでもしも、姉妹でなく、
私を含んで十二人いる姉妹を慕う男と女たちに見咎められずに済んだならば、無機質だが清潔で機能的な通路を歩くか、さもなくば、
走ることによって、歩きなら別段疑われることもなく、走りなら少々人の目を引くことはあるだろうが、幾つかの階段を上がって行くか、
所謂ところの昇降機などを用いることによって、どんなに遅くとも、そう、十分以上は掛かることなく、特別な区域に入ることも出来る。
特別な、と言っても、私や私の姉がそこを特別であり神聖な領域であると宣言したのではない。雑多な用事のある時、近道として使うも、
また良からぬこととはされないだろう。単に、十二人のとある女性たちが、そこに揃って私室を並べているからこそ、その一区画が、
奇妙なまでの神聖視を受けているだけに過ぎないのである。兎にも角にも、その区域に入ってすぐ、厳重な個人認証機器がつけられた、
通路と同じくらい無機質な扉が、左右合わせて確かに十あることを、あなたは見ることが出来る筈だ。もし一つ多くて、十一あったり、
むしろ一つ少なくて九しかなかったら、あなたは恐らく階段を一つ上がり過ぎたか、でなければもう一つ上がるべきだったのだろう。
さて、十の扉を前にしたなら、左側を見て欲しい。そこには十、十一、十二を意味する、算用数字というものがはっきりとあると思う。
左になかったら、手数を掛けることは申し訳ないが探して頂きたい。何せそれを起点に説明することに慣れているので、今更考えるのが、
至極面倒なのである。見つけたら、その部屋があるとは逆の側の部屋をずっと数えて行き、四つ目の扉の前で止まると、きっとその扉に、
札が掛かっているのを発見出来るのではないだろうか。そしてそれには、「来客中」と、気張ることのなく、親しみ易い、流れるような、
つまり適当に書き崩したミミズののたくったようなひっどい字が、読めるギリギリのラインを何とか保って書かれているのに違いない。
そこであなたはその扉を開けたく思うとする。思ってくれないとどうしようもない。素通りする気ならそもそも最初から立ち止まるな。
で、扉を開けたいと言って、指紋認証と網膜認証と声紋照合が、許可パターンと一致しないあなたには、能動的に開ける手段は一切ない。
そういう訳で、開けたいならチャイムを押してくれればいい。そうすれば折角の防犯やプライバシー保護用のシステムを泣かせることに、
中の女が確認もせず開錠してくれる。その時にはその時に相応しい音がするので、あなたはその音がするのをちゃんと聞いておくように。
扉を開ける前に、息を大きく吸っては吐いて、精神を落ち着けた方がいいかもしれない。場合によってはその部屋は酷い衛生状況であり、
現存する種の他に、新しい種の害虫等が発生していることも、その最悪の時には有り得るのではと噂されるほどのものだからだ。但し、
三十秒を超えて扉を開けなかった場合、扉は自動的に施錠されてしまう。その場合、当該部屋の女は一切関知しないのでそのつもりで。
扉を開けたら、中に入ることを伝えつつ、玄関先で靴を脱ぐ構造になっているので、嫌でも我慢して脱いでから奥に入って行って欲しい。
中に入ることが出来たなら、誰もいないということはないから、心配する必要はない。大抵の場合、何らかの電子音がする方向に行けば、
一人ないしは二人の女性を見ることが出来る。年や背格好は似たようなものだが、髪の毛が緑色をしていて、ツインテールである方は、
一旦忘れてしまえ。栗色の髪を持ち、それを蛍光ピンクのリボン……ではなくて黒いリボンで結び、大画面テレビとゲーム機の前という、
時間重力異常地帯と呼ばれる、一方通行のタイムマシンに乗っている女。それが失望されるかしれないが私であり、フェブラリーである。
ここで思い出して欲しいのが、私の隣にいるか、私の膝の上にいて、何にせよだらけた格好をしているだろう、私の親愛なる友人であり、
緑の髪とツインテールを持った少女マーチのことだ。彼女は暇であると感じた時には、大抵の場合、私の部屋に何の通達もなしに来る。
それを忌避したり拒否することはない。単に私が暇だと思うのが早いか、彼女がそう思うのが早いかということなのだ。今日のところは、
彼女が早かった。明日は私が彼女の部屋でだらだらだらだらだらだらだらだらゲームしているかもしれない。仕事がなければ暇なのは、
誰だって同じだ。マルチアーノの十二姉妹は、職種は自由業として分類されるのだろうか、定かではないが、ここのところ全体的に、
暇だった。何せ壊し屋なものだから、壊すものがないと依頼が来ない。どうせだからついでに言ってしまえば、こっちの食指も伸びない。
加えてギルドから独立してしまったから、これまでの仕事の依頼者を丸ごと失った。独立闘争を繰り広げてはいるが、最近は戦闘もない。
あ、そうでもないかもしれない。マーチはこの前、諜報員養成施設の襲撃作戦への参加を打診されていた。私はそれに余り関わらないで、
別の作戦に協力しているので、簡単な情報の収集や、作戦計画に無理がないかのチェックをするぐらいで、詳細な話は聞いてないのだが。
で、まあ何というか、長姉みたく責任ある立場でない姉妹は、永遠に続くのではないかと思われるような、この長い休暇を謳歌していた。
私たちは私たちが宇宙を移動する間、普通住まう艦の中から何処に行くことも出来ないが、何もしないで、何処にも特には行かないで、
自室と親友の部屋を行き来し、その他の親しい人間と親しい間柄なりの付き合いを持つことは、それはそれで楽しく思われることだった。
そう考えていたので、私とマーチは、今日も昨日や一昨日と同じように、部屋にこもって二人でゲームをするのである。これはやがて、
飽きたどちらかが終了を宣するに至るまで続くのが常であり、今日の宣言者は私であった。突如として私はやる気を喪失してしまった。
不思議なことにマーチも、何処かしら似た気持ちである風を匂わせる顔をしており、それが理由で私は宣言者となるに躊躇いはなかった。
電源を落とし、ぼーっとする。何をやるでもなく、何をしないでもなく、考えているのでもなくて、ただ呆けているのともまた違った。
それから、どちらからともなく、肩を預けあった。隣に座っていた少女の頬と私の頬が、ほんの数ミリ程度の空間を間に挟むだけになる。
私はそのままそうしていても良かったが、彼女は数分もすれば、私の上に圧し掛かるようにして抱き付いて来たので、関係は変わった。
お互い髪留めを外すこともせずに、私が下、マーチが上でぐったりと床の上に延びる。そう言うと彼女は余りいい顔をしないのだが、
マーチの体は華奢な感じだ。私が抱きすくめると折れてしまいそうなほど。実際に本気で抱き合えば、折られるのは私の脊柱だろうが。
そんな体なので、彼女の重みは私にとって重圧ではなかった。毛布や布団の下に入った時みたいな、実に心地良く適度な圧力であった。
私たちはそのような位置関係を保ったまま、昼寝を楽しんだ。私たちは淫猥な行為に及んだことはなかったが、過ごした長い時間は、
いやはや、倒錯的で退廃的な時間だったという他あるまい。目を覚ますと、時間は夜だった。マーチは私の上にいなかったが、代わりに、
私の横に座っていた。彼女を知る者がいつも見ている、感情を包み隠したポーカーフェイスのまま、目だけをちらと動かして私を見る。
体を起こして、背伸びをした。マーチが近くにあったコーラのボトルを掴んだのを見て、彼女の後で私もそれを分けて貰おうとふと思う。
それから、起き抜けに何か彼女と話そうとして、呆然とした頭でお互いに興味を持って楽しく話せそうなテーマを探し、私は口を開いた。
「そう言えば私、恋をしたかもしれません」
私はコーラを分けて欲しかったが、口移しして欲しいとは思わなかったし、まして吹き掛けて貰おうと思ったことなど欠片ほどもない。
マーチは咳き込んでむせながら、私が何と言ったのかもう一度繰り返すようにと促した。私は彼女に乞われるがままに言葉を繰り返して、
更にコーラをぶっ掛けられた。私の服はコーラまみれになったが、部屋で怠惰な時間を過ごす時、普段のゴスロリ服なんて着やしない。
眼鏡は水洗い後、眼鏡拭きで拭かなくてはならなかったし、頭はマーチが汚れた床を掃除する間に手早く洗わなければならなかったが、
服に関しては問題は起こらなかった。服を着替え、頭を清潔にし、眼鏡を掛けて、彼女のところに戻る。彼女はばっちり聞く気満々で、
私の帰りを待っていた。あれこれと色々な質問が浴びせられる。髪型、年、背の高さ、童顔かそれとも老け顔なのか。誰に似ているか。
所作はどうか。体つきはどうか。態度はどうで、言葉遣いはどうか。彼の仲間内で、彼はどのように評価されている様子であるのか。
それから、やっと思い出したかのように付け足し気味に、名前のことを。だから私は、まずは名前から彼女に答えてあげることにした。
「彼の名前は──」

*  *  *

「おい、としあき!」
呼び止められて、僕は振り返った。すると、そこには珍しい人がいた。十二姉妹の第一世代の一人、メイ。ここで僕が彼女を様付けで、
もしくはそれに類する敬称を使って呼ばないのは、つまり彼女だからだ。メイは様だの何だのと仰々しく形式ばった尊敬の形を厭って、
遂にある時、部下たちに敬語を使うのを止めさせたのである。そして彼女は部下たちを皆名前で呼ぶようになった。彼女の親友であり、
規律と秩序と上下関係を重んじるエイプリル様は、これを嬉しくない事件だと見做していたが、無理に止めさせようとまではしなかった。
「ああ、メイ。どうしたんだ? ここに来るなんて珍しいじゃないか。まさかと思うけど、僕に何かやらせようっていうんじゃないよな」
僕は今正に、『酒蔵』と呼ばれている小さな倉庫の警備任務を終え、休憩に入ろうとしていたところだった。このトイレよりも小さな、
薄暗い部屋はしかし、多くの人々を魅了して止まない美酒の数々が収められており、これを飲む機会は滅多にないものの、年に一、二回、
エイプリル様の許可が出た場合にのみ、部隊でここの酒を引っ張り出してきて飲み、食って後は精々踊るだけのパーティを行うのである。
ところで僕は理由なく、誤解を招くような表現をした。トイレよりも小さいとこの倉庫を表したが、大勢の人間が居住する艦のトイレは、
かなり大きくなるのである。ということで、酒蔵が本当に小ぢんまりした倉庫だと思ったなら、すぐにそのイメージは訂正して欲しい。
「それこそまさか、だ。アタシは単に、知り合いが暇してるかもしれないと思って、その暇を潰す手伝いをしに来ただけさ」
「ありがたくて泣くだろうね、僕の後にここに来る奴がさ。もう五分もすれば来るだろうから、彼に宜しく言っておいてくれよ」
「何だとしあき、用事でもあるのか? それとも、遠回しにアタシの暇潰しになれよって言ってるのが分からなかったのか?」
用事があるんだ、と答えて、そうか、という返答に頷き、そこを後にする。メイは決して自分の勝手を人に押し付けたりはしない女だ。
もし、メイがそうしているように見えたことがあったとしたら、それは彼女が余程必死に頼み込んでいるのが、そう見えるだけだろう。
さておき、僕は彼女に罪悪感の欠片だけでもいいから持つべきだろうと思う。僕に用事なんか、一つだって有りはしなかったのである。
ただ、前日訳あって徹夜し、一睡もしていなかった僕としては、ぐっすりと眠りたいだけなのだった。そう話せば彼女はすぐに納得し、
きっと解放してくれただろう。だが僕は説明することすら億劫になるほどに、深く酷く疲れていたのだ。こんなに疲れたのは何年ぶりか、
記憶に問い合わせてみるが、眠気にノックアウトされる寸前の僕の頭は、精々、眠ってないのは昨日からではなく、一昨昨日からである、
ということを教えてくれただけだった。そうだ、僕はその頃から、睡眠らしい睡眠を取っていないのだ。これにはフェブにまつわる、
ちょっとした理由があるのだが、まずここで注目すべきは、僕が、フェブラリー様と呼ぶべきところを、フェブと気安く呼んでいる点、
それに尽きる。彼女はメイほどには、他者との関わりを持ちたがる類の性格でないし、敬語で呼ばれてくすぐったがる性質でもない。
だから彼女をフェブと呼ぶのは彼女の姉である四人と、同世代の三人の女性たちだけだ。後は敬称をつける。『お姉様』か、『様』を。
妹たちがフェブという呼び名を使うことは滅多にない。それなのに部下に過ぎない僕がどうして彼女を馴れ馴れしくもそう呼べるのか。
それは僕がそれを要求されたからだ。要求、そう、それは要求されたことだった。僕がフェブに直接渡すように言われた書類の束を持ち、
彼女の私室に向かい、扉の開いたその向こう側に、Tシャツにジャージという、余りにあんまりな格好のフェブを見た時には既に、
そうなることは必定であったのだろう。彼女は自分の格好に気付くと物凄い力で僕を中に引きずり込み、あれよあれよと言う間に、
僕は身の安全と引き換えに、幾つかの事実を一生秘匿していくことを誓わされた。言うまでもなく、言われるまでもなく、僕は一切、
このことを口外する気はなかったのだが、フェブは納得しなかったのである。彼女はまた、様々の注意事項を僕に言い含めている内に、
部下の中に、対面を取り繕わずに話せる相手の一人でも持つことを考えたらしかった。その結果が、僕の彼女への態度が、他者がいない、
という限定された状況下においてのみであるにしろ、変わったという事実であり、これを機に僕と彼女は定期的に二人だけで会って、
本当に取りとめもないようなことを話したり、彼女が気にする数々のことに関わる質問に、答えたり答えなかったりするようになった。
それがつい、先日のことである。それでは、ここらで僕の不眠の原因を話そう。それは一言で言えば、フェブに起因する。ここまでの、
論展開で、予測がついていたかもしれないが、叙述トリックを使っても仕方あるまい。彼女の生活サイクルと僕のそれは一致しなかった。
まあ、これが一番端的な説明だ。結果は、僕が寝たいなあと考え出す頃に、彼女のお呼び出しということになり、彼女はとても話すから、
寝る時間が削られる。そうすると、寝ると起きられないくらいの時間しか残らないので、僕はうとうとしたりするだけしか出来なくって、
体力も一緒に削られる。それを連日連夜やられたのだ。言えば、彼女は呼び出しの時間を変えてくれるだろうか? 仮にも部下である、
この僕が、上に立つ彼女に対してそんなことを言ってしまっていいのだろうか? こっちの都合に合わせてくれ、だなんて、傲慢では?
しかし、このままでは栄誉ある任を果たすことが難しくなり、いずれ僕は最悪の形で破滅するだろうというのも、目に見えた未来である。
義務と責任を考えれば、無礼も許されることだろう。よし、今日はもう寝る。それから目が覚めたら、僕は彼女に言うべきことを纏めて、
次に会った時か、可能ならそれよりも早い内に、こちらの意志を伝えよう。何も僕は彼女と話したくないんじゃない。ただ時間を考えて、
僕が過労で死なないように、ほんの少し気を使ってくれればいいだけなのだ。切実極まりない僕のこの思いを、望み過ぎだとは思わない。
今日は何故かフェブの呼び出しはなかった。これが彼女の気遣いでなければいいが。もしそうだったら、僕はもうちょっと休みをくれ、
と彼女に言うだろう。そしてそれは、間違いなく彼女を自省させてしまい、折角僕と話してくれているのに、遠慮させてしまうだろう。
それだけは、避けておきたかった。どうせいずれは、僕は彼女と永遠の別れをしなくてはならなくなるのだろうから、今だけは。

*  *  *

時計を見ると、朝九時だった。寝た時間を考えると起きるには早い気もしたが、それ以上ベッドの中にいるのは面白いことではなかった。
昨日のフェブの話を思い出しつつ、私は布団を除け、背伸びをする。抑えられない声が出た。聞いていて自分でも色っぽいな、と思う。
そうか……恋か。これはいいことを聞いた、という考えもあったが、私個人としては、彼女の恋路を邪魔する理由は今のところなかった。
それにしても、凡そ恋とは縁遠い女性ナンバーワンであろうフェブが、恋をするとは。親友の私は、彼女のことが気がかりだった。
何かしてやりたい。いや、邪魔するとかからかうとかじゃなく。純粋に、彼女を手助けしてやりたい。友の幸せは私の幸せでもある。
ま、そんなことはおくびにだって出す気はないが、彼女が直接頼まないからと言って、私が勝手に動くことが出来ない訳があるまい。
名前を聞けたのは運が良かった。個人名さえ明らかになれば、その人柄などを知ることは難しくない。履歴書を持って来て調査すれば、
間もなく私は格好の暇潰し道具を手に入れることになるだろう。何につけてもだ、フェブが色恋を知ることになったのはとても感慨深い。
それが彼女の直属の部下で良かった、とも思う。もしもこれがジュライや私の部下だったり、ましてやオクトの部隊だったりしていたら、
私は彼女に諦めた方がいいんじゃないか、と遠回しに言っていただろう。いや、私の部下ならまだいいが、ジュライの部下だったならば、
ジュライと比べてフェブには足りないものが多過ぎるし、オクトと比べると、フェブは色々持ち過ぎている。身長や胸の大きさとかだ。
さてと。恋を進展させるには切欠が必要だという。それは例えば、この場合だと、フェブからのアプローチなどがそれに当たるだろう。
でもフェブには生憎そんな度胸がない。あれは根っからのチキンなので、そうせざるを得ない状況になるか、それとも余程お膳立てされ、
あちらから接近されない限りは、何も出来ないのである。やれやれ。ここは私が一肌二肌脱ぐしかない。やるとすれば以下の二つである。
一、あえて私からその男に接近してみる。フェブには私が本気であるように思わせておき、彼女が私の行為に発奮することを期待する。
これは彼女向きじゃない。彼女はどっちかというと、そんなことになれば身を引くタイプの女だ。前述の通り、度胸が一欠片もないから。
なけなしの勇気を振り絞ってくれることに賭けるのは、もう少しどうでもいいような事柄にしないと、取り返しがつかなくなると困る。
二、さっき言ったお膳立てをしてやる。彼女と彼が同じ場所に二人だけで居合わせるように仕向けたり、それとなく彼女の抱いた好意を、
彼に伝えてやったりする。あくまでそれとなく、だ。彼が意識するようになれば成功。一度意識してしまえば、元から嫌うことはないし、
横から他の女に奪われることもないから、亀の歩みにしろ、間柄は進展を見せる筈である。その男がやたら鈍感でなければこれがいい。
けれど思うのは、彼女たちが恋仲になることは、長姉の不興を買うのではないだろうか。個人的な付き合いはせぬように、と言いそうな、
長姉の性格は、今回の作戦で最も大きな障害となるだろう。彼女にバレてはマズい。だから、オーガストにもバラさない方が良さそうだ。
同じ第二世代連中には、何の問題もなく伝達可能だろう。ジュライは難色を示すかもしれないが、ジューンなら彼女を丸め込めると思う。
私の頭は悪巧みのことになると高速で回転を始めることで有名だが、今回は珍しく人助けの一面も持っていた。何せフェブの色恋沙汰だ。
頭の固い一部第一世代に邪魔させるのは忍びないし、手出ししないで一向に進まない関係を眺めるのは余りに退廃的な趣味でしかない。
無論、これが私の時間を潰すことを目的としているのを否定するつもりはないが、フェブを助けたい気持ちも、同じくらいあるのだ。
まずは、フェブの意中の男──彼の名を、としあき、とフェブは教えてくれた──とコンタクトしなくてはならない。彼の様子如何では、
私は彼女を彼から遠ざけなければならない。部下としては優秀でも、恋人とするには屑以下の最低男だったりするかもしれないのだから。
彼が暴力を振るうだとか、そういう危険を考えているのではないが、正しい時に正しいことが出来る男なのかどうかを見極めておきたい。
それはかなり難しいことだから、ある程度審査を甘くする必要はあるだろうが、フェブと仲良くするということは必然、彼女の秘密や、
彼女と親しくない者が知るべきでないことを知り、立場が変わるということである。私は、フェブの親友として、彼女を傷つけかねない、
あらゆる存在を許しておきはしない。彼女がそれを望まなくとも、必要なら排除だってしてみせる。彼女が私をそれで恨んだとしても、
私はそれをやらねばならないとする十二分な覚悟と事情がある。としあき、という男が、フェブを任せることが出来る男なのか、否か。
そうであってくれれば、との感情と、そうあってくれるな、との感情が、私の中でせめぎ合う。彼女を幸せにしてやりたいのは真実だが、
男に彼女を取られそうになっている気持ちもあることはある。そのとしあきが本当にいい男なら、或いは諦められる可能性もあるけれど、
それは望めないだろう。何だかんだ言って、私はぶつくさ不貞腐れるに違いない。自分のことだから、良く分かっているつもりである。
やることがない男たちは、大抵の場合訓練をするか、宿舎で読書したり、映画を観たり、TVゲーム、カードゲームをするのが常だ。
TVゲームでカードゲームをしている者もあるというが、としあきはどれに当てはまるだろうか。自分を鍛えるのは結構なことだけれど、
訓練ばかりの男はつまらない。と言って読書や映画、ゲームばかりしているのも良くない。この際、自分たちのことは捨て置いて考える。
履歴書を見る為に、私は情報端末にアクセスした。フェブがブロックしたりしてなければ、彼がどんな思想を持ち、ギルドに入る前に、
何処で何をしていたか(どんな人間でも、変わり映えはしないが)、もし彼に家があったら、その家の隣の家族が犬を飼っているかさえ、
それを見るだけで分かるのである、最後のは言い過ぎだろうが。フェブの部下にいるとしあきという名前の男を、端末で検索してみる。
すぐに出て来た。多分、彼の名前が珍しい類の名前だからだろう。履歴書によれば、彼の血を辿っていくと、人類発祥の惑星に存在する、
ある島国に至るそうだ。その国の名前は、私やフェブにも親しみがあった。何せ、ある種のゲームの製作では、そこが最大手なのだから。
……彼のルーツはどうでもいい。履歴書には、当たり障りない言葉が連ねてあった。多かれ少なかれ、ギルドなどにいるような連中は、
人間としての大きな欠陥を抱えているものだ。人の気持ちが分からない者もあれば、善悪の観念がすっぽり抜け落ちている類の者もある。
どんなに取り繕ったとしても、我々は犯罪者なのだ、ということを忘れてはならない。名誉、誇り、そんなものも結構なことであるが、
私の手も、フェブの手も、としあきの手も、多くの『罪なき』『善良な』人の血で汚れているということを、覚えておかねばならない。
そういう観点に立って、かの男の情報を読み解くと、妙なことに、彼がここにいることに首を捻らねばならなくなるのだ。学歴に関して、
彼におかしいところはない。大学を中退している。良くある話だ。家族は彼のことをもう気にしていない様子で、それぞれの人生を、
それぞれのやり方で生きている。これも、ありえない話ではない。本来は拠り所であるべき家族から、拒否される。犯罪者を作る為の、
最も近道と言われることが、それだ。他者の愛情を知らずに育った者は、それ故に他者を愛することを知らないからだ。哀れにも。
それと、故郷に建っていたツインタワーにいた時、彼は崩落事故に巻き込まれたということになっているが、これにも怪しい点があった。
そこに、フェブがいたのだ。それと、セプもいた。当時二人は、そこを暗殺任務の狙撃ポイントの一つとして選び、観測手と狙撃手は、
下調べの為に訪れていたのである。妙な符合だ。しかし偶然ということもある。誰もが失念しがちなことだが、どんなに低い確率でも、
その確率というのが依然として存在していることは、れっきとした事実なのだ。が、他にも不可解な点はあった。その崩落事故の直後、
彼はギルドに入り訓練を受けた。この訓練所での彼がどんな人間だったかは、別の添付資料を見なければ分からない。後で見るとしよう。
訓練後、通常は、ギルドに構成員として編入されるか、戦闘員として編入されるかのどちらかになる。構成員扱いなら、マフィア映画の、
下っ端連中と同じ仕事をやることになるが、戦闘員になるのならば、私たちと同じ壊し屋、殺し屋として、装甲服を身に纏うこととなる。
彼は、そのどちらでもなかった。少なくとも四年の間は、訓練所を出た後、何処の部隊にいたのか、何もかもが、ようとしてしれない。
これは極めて異常なことだった。私は段々と、焦りが生じて来ることに気付いた。私たちの隊の中に、一体何者が潜んでいるのだろうか?
この男は本当に我々の部下であり、味方なのか? でもすぐさま、考え過ぎだ、と内省する。幾ら何でも、映画と現実とは違うのだから。
だが彼の名前が私の心に不愉快な形で残ったのは確かであった。──としあき。日系人の、謎めいた男。我が親友フェブの、意中の男。
……調査を続けよう。

*  *  *

としあきは既にすっかり元気になっていたので、私はやっと安心出来た。彼が疲れているのも、その理由が私にあるのも分かっていたが、
私は彼とそれでも話していたかったのだ。馬鹿だ、と思う。彼をあんなにも疲れさせておいて、好きだなどと言う資格が、私にあるのか。
ない。明らかにない。だが私は彼を好いていた。だから、二度と同じ轍を踏むことはするまいと考え、昨日は彼とは話をしなかった。
辛かったのも事実だ。マーチとゲームをして暇を紛らわせたり、彼女にとしあきのことを遂に打ち明けたりして、時間を潰したけれども、
彼と話が出来ないことは本当に残念だった。私は彼の顔を見て込み上げたその感情を、ぐっと押し戻した。彼は私に、まだ笑ってくれた。
「昨日はきっとお呼びが掛かるだろうと思って、待っていたのに、どうして“今日はナシだ”って、教えてくれなかったんだ?」
この言葉も悪戯っぽい笑顔で言われたので、そこまでぐさりとは来なかったが、確かにそうだ。私は自分の浅はかさを再認識した。
彼のいいところは、人のことを気遣うことが出来る点だ。簡単でいて、難しい。誰もが自分のことは自然に気遣うが、対象が変わると、
途端に何ら分からなくなることがままある。彼はそうではなかった。隊でも、備品の数や置き場が知りたければ彼に聞けば良い、とされ、
実際に何度も、細々した事務仕事を手伝ったりしている。彼はまた、誰が最近誰と喧嘩したか、どんな本を読んだか、何を考えているか、
どんな悩みを持っているのか、ということに、驚くほど精通していた。彼は他人と話し、その中で相手の人間性を発見し、注意深く、
それを観察するのだと言った。その話を初めて聞いた時、彼は私をからかっているのだと、確信したものだ。それが体験してみると、
百八十度転換された。彼には人のことを、部分的にであったとしても理解することが出来る、天賦、天性の才を持っていたのである。
これは真似出来るものではなかった。学術的判断から相手の悩みや考えを凡そ予測することは、私にも可能だ。だが彼ほどの正確性も、
具体性もない。なので、彼と話すことは実に楽しかった。彼の持つ物の見方を、彼なりの哲学を、価値観を、私は垣間見たかったのだ。
言を俟たず、垣間見るだけでなくずっと見ていたいのが、私の正直な気持ちだった。としあきは、つまり私にとって、楽しい男だった。
あの時はどうだった、この時はこうだった、と、私たち二人が駆け抜けた戦場の話をする。そこで死んだ友人のことになると我々は、
より一層楽しそうに彼や彼女の想い出を語るようにするのだった。縁のあった死者が我々を今見ているとしたら、その人は怒るだろう。
私ととしあきは、どんな死に方をしたにしても、彼ら彼女らが天国に行っていないことだけは確実であるとするところで、意見一致した。
彼と私は一時、口をつぐんだ。お互いの仲間たちを悼み、過去を振り返る為だ。多くの戦友が死んだ。従容として受け入れた者もあれば、
最後まで罵り通しで、喚き立てた挙句死んだ者もあった。そのどちらもする時間を許されず死んだ者も。彼らを見苦しいとは思わない。
私たちはその点でも、同じ意見を持っていた。私は一旦席を立ち、飲み物を取りに冷蔵庫に向かった。ここは私の部屋の中だったから、
としあきへの態度も、彼が私に取る態度も、ラフなもので良かった。服をちゃんと着ていたのは、敢えて言うまでもないことだろう。
第一、あれは彼とこうして話す機会を作る為の、私なりの作戦だったのだ。捨て身であるのは分かっていたが、あれくらいしなければ、
私のことだから進展など望めないだろうと分かっていたのである。結果は上々といったところだった。今のように彼と話していられるし、
マーチでもなく、メイでもない、新しい心の拠り所が出来たのだから、決して悪いことではないだろう。二人分の飲み物を手に戻ると、
彼はふと忘れがたい話を出した。それは過去の記憶として埃をかぶせおくには、私にも彼にも多大なショックを与えた出来事の話だった。
「二年前、七月二十日のことを覚えてるかな。ほら、小規模な部隊で工作中に、第三勢力がやって来て、しっちゃかめっちゃかにされた」
「生き残ったのは四人だけ。その内の二人は自力で脱出。行動の遅れの為に正規ルートを塞がれた私たちは本部に連絡回収ポイントで、
 信号弾で連絡して拾って貰った、と記憶していますわ。あの時の信号弾の色は、多分一生、忘れようとしても忘れられませんわね」
然り、といった顔で彼は頷いた。信号弾の、夜空に咲いた赤い輝きが、脳裏に蘇る。ヘリの中に迎え入れられた時は、涙が出そうだった。
もっと言えば、ヘリの中で待っていたマーチを見た時は、何粒か血ではない液体が目から零れたものだ。そう昔の話でもないことなので、
当時の記憶がまざまざと思い出され、目頭に微熱を感じる。あの日、私は生きて帰られるかどうかを疑った。助けが来るかどうかすらも。
としあきは何も喋らなかったが、今なら分かる。彼は私を生きて帰そうと努力していたし、喋らなかったのは励ましの言葉が思いつかず、
口を開くことが出来なかっただけだったのだ、と。本人からそう聞いたのでもなく、誰かからそう聞いたのでもない。私の考え過ぎだ、
と断じられても、言い返すのは難しい。それでも、私はそう考えていたのだ。彼の行動や、その時の私には分からなかった微妙な表情が、
私に教えてくれたことだ。説明するのは限りなく不可能だろう。私は論理を愛し、数式を莫逆の友として生きてきたが、その私が、
感情で、心で、精神で、フィーリングで、どう表現したって構わないが感覚的な何かによって、これを事実と認めたのであるからには、
説明など出来よう筈もない。私のこの考えが正しいのかどうか、はっきりと彼に尋ねたこともあるが、彼は聞いても笑って答えなかった。
故に、私は説明を求めない。真実を求めようとは思わない。きっとそうだったのだ、と思っている方が気持ちがいい。知らない方がいい、
という類の真実だってあるものだ。多分彼は、私が思った通りのことを考えていたのだ、だから彼はあんなに懸命だったのに違いないと、
私は信じている。共有する数多い記憶の中で、最も湿っぽい一つを語り合った私たちは、押し黙ることによって、深い懐旧の念を表した。
こくり、と音を立てて、彼は私の運んで来た飲み物を、嚥下する。その割に、透明なガラスコップに注がれた液体の量は、減っていない。
静かな環境だから、私の耳が鋭敏になっているのだろう。私も彼に倣って、一口分のみを口に含み、喉を通して体内に取り込んだ。
その様子を、彼は優しく見ている。不意に猛烈な恥ずかしさに襲われて、私は驚いた。幸いだったのは、恥ずかしかったからと言って、
赤面することがなかった点だ。私は自らを偽ることに慣れていた。余裕を持った微笑と共に、私は彼の視線の意味を問うことが出来た。
すると今度は、彼が面映さを感じる番だった。調子に乗って、私は彼をいじめる。私の顔に見とれでもしていたのではないか、なんて。
そうだ、と答えてくれたら、どんなに嬉しい気持ちになるだろうか。それとも、恥ずかしくって喜んでなどいられない、かもしれない。
彼は、困った時にいつも浮かべるアルカイック・スマイルで以て、私の問いをはぐらかした。彼の年齢をより若く見せるその表情を、
剥ぎとってしまえれば。好意の裏で、思う。彼が考えていることの全てを知ることが出来たなら。こころという一個の要塞の設計図を、
彼の手の中からそっと取り上げて、目前で精査することが出来たなら。胸中奥深くに秘めた、誰かへの悪意までも暴いてしまえたならば。
としあき──この奇妙な、私の心を捕らえて、よもや離そうとしない、青年。私は彼のことについて、誰よりも知っているつもりだった。
でも、足りない。私はもっと、彼のことを知りたい。彼に私のことを、今より更に知って欲しい。一緒にいたい。単に、それだけでいい。
私は、新しい話題を口にしようとして、親友からの、一本の通信に気付いた。

*  *  *

僕は彼女に会うまでは、今日こそがつんと一言を口にすべきであるという決心に燃えていたのだ。言い訳したくないから多くは言わない。
が、今述べたように、『彼女に会うまでは』本当にそう思っていたのである。彼女の顔を見ると、疲労などすっかり掻き消えてしまった。
昨日、フェブに会わなかった為に、睡眠時間を削られることなく済んだことで、僕の疲れが取れて、彼女に対して態度が軟化したのか、
と考えたが、そうではなかった。一日休んだ程度じゃ、僕の疲れは完全には回復しなかったのだ。勿論のこと、休めたことは良かった。
僕の体の為にもなった。でも疲れがなくなったのではなかったのである。すると、僕が彼女に対して抱いていた考えが、余りに呆気なく、
失せてしまったことは、どうしても説明出来ない。つまり僕はこう言うしかないのである。そうなったんだから、仕方ないじゃないか。
「昨日はきっとお呼びが掛かるだろうと思って、待っていたのに、どうして“今日はナシだ”って、教えてくれなかったんだ?」
彼女に笑い掛けつつそう言った。と、僕は失敗に気付いた。女性と男性では物の捉え方が違うってことを、僕は忘れるべきじゃなかった。
フェブは隠そうとしたし、隠したけれど。もしも僕がその瞬間、顔を背けたりしていたら、分からなかっただろうけれど。僕は知った。
自分の言葉が、彼女を多少なりとも傷つけてしまったことを。胸を、冷気が突き刺す。誰だって、大切な人を傷つけてしまえば同じ類の、
精神的な痛みを得ることだろう。僕は彼女が好きだったし、それにこうして何故か、この僕は、彼女の友人として存在することが出来る、
稀な幸福を享受しているからこそ、他の人にないものを一度だけでも持ったからこそ、それを失うかも、と、恐怖を感じてしまうのだ。
喪失とは、僕の憎み嫌い忌避するものだ。世界中にあるものの中で唯一、僕が最大限の、持てる限りの嫌悪を以て接し、根絶せんと願い、
やがてその願いを果たさんと誓うものだ。何かを愛し、それを得ることの次に良いことは、何かを愛し、失うことだと言った人がある。
僕はそれを全身全霊で否定する。何故なら、かの理論は、得ることが出来ないものに恋焦がれたならば、最善は有り得ないとするからだ。
そんな結末を認めることは許されなかった。確かに、僕は、フェブを得ることを望んではいない。これは明瞭である。だけれども僕は、
彼女を好いていた。想い報われぬことなど分かっているが、しかし否定などさせはしない。誰にも、誰にも、僕や僕以外の、彼女や、
フェブ以外の十二姉妹を愛した男を、その想いを、否定させなどしない。大体なんだというのだ。自分の考えをさも世界に共通する、
普遍にして不変の法則であるかのように述べるなど、許し難いことだ。まして、法則もどきを適用など、させられる訳がないではないか。
彼女を傷つけただけ、彼女を楽しませたい、と思って、盛り上がりそうな話をする。一緒に戦った、数々の戦場の話。まだ生きている、
既にこの世に亡き、我らが戦友たちの武勇伝、僕が無様でもいいから生き延びようとして、頑張った話、フェブの立場から見た戦場、
こっそりと、特定の戦場で僕たちが戦わなくてはならなかった、裏の理由も聞いた。中には、明らかに回避出来た戦闘もあったからだ。
間もなく、僕らは口を閉ざし、沈黙によって、死んだ友人たちへの哀悼の意とした。散々、彼ら彼女らをネタにして楽しんだんだから、
それくらいのことはしなくては、悪い気がした。終わって、僕は、僕とフェブがいた戦場の話なら、しないでいられない話を思い出した。
切り出そうとすると、フェブは飲み物を取る為に立ち上がった。出鼻を挫かれたなあ。小さく唸る。仕切り直すと、何だか具合が悪い。
彼女はすぐに戻って来て、ガラスコップを渡してくれた。その中に満たされた液体が何なのか、僕には興味がなかった。彼女にはもう、
僕の飲み物の好みは余さず伝わっているからだ。それならば、嫌いなものが出て来ることは、まずないと言っても過言ではなかった。
「二年前、七月二十日のことを覚えてるかな。ほら、小規模な部隊で工作中に、第三勢力がやって来て、しっちゃかめっちゃかにされた」
思い出した、ということは、忘れていたのだが。フェブは覚えていたので、何となく内心で気まずく感じるが、それを感づかれてはない。
「生き残ったのは四人だけ。その内の二人は自力で脱出。行動の遅れの為に正規ルートを塞がれた私たちは本部に連絡回収ポイントで、
 信号弾で連絡して拾って貰った、と記憶していますわ。あの時の信号弾の色は、多分一生、忘れようとしても忘れられませんわね」
僕は頷いた。鮮烈な赤。泥と埃だらけのフェブの顔……ヘルメットに弾が当たって以来、霞んでいた視界。焦燥と、強く絶え間ない祈願。
フェブが助かりますように。彼女が無事に戻れますように。他の奴らが死んだりしてませんように。後、出来れば僕が助かりますように。
今になっても、僕の願いがこの順番であったことは、理解不可能である。僕は自分を前面に押し出すことを嫌う性格であるのだけれども、
その状況でも自分の命を二の次にしてしまうとは、微塵も思っていなかったからだ。随分後になってからそのことに思い到った時には、
びっくりしたものである。撃たれたこともあって、死ぬものだと思っていたのかもしれない。悲劇の主人公っぽい自分に酔っていたのだ、
とも説明出来るが、したくないな。自分の命に価値を感じていなかった? いやいや。生きてるって、それだけでもかなり価値がある。
長い付き合いになりそうな謎を抱えて、フェブと話す気にはならなかった。なので分からないことは、取り敢えずうっちゃっておいて、
持って来て貰った飲み物を胃へと流し入れた。これで、精神的に一区切りつけたのである。フェブもコップを上げた。僕はそれを見る。
優雅な振る舞い。色っぽいところはないが、魅力的だ。洗練されていて、気取ったところがない。その動きは自然かつ、流麗である。
僕は、余り彼女の姿に見惚れていたからか、視線を偽装するのをすっかり忘れていた。気付かれて、彼女は恥ずかしく感じたようだ。
しかも、自分ではそれを隠し通せていると思っているようだから、いやはや、こちらとしてもやりづらい。そういうところが可愛いから、
今度は僕が恥ずかしくなってしまうのだ。彼女の的を射た質問に恥じている様子に見せかけておいて、この場をやり過ごすことにする。
彼女は自分の仕事のこととなると、どんなに小さな点も見逃さないのに、プライベートとなるととんと鈍感なのである。僕はそのお陰で、
何度も一線を越えずに済んでいるのだ。そういった、何だかうっかりなところも、僕にとっては限りなく愛おしくてたまらないのだった。
フェブラリー──僕の、今となっては唯一の、愛しい人。僕に生きる理由をくれた人。願わくば、一生彼女を愛し続けていたいものだが。

*  *  *

調べれば調べるほど、その男の疑わしさは強調される。私は頭を抱えて、資料室で唸り声を上げた。偏頭痛がするような気さえ、した。
今のところ、としあきは限りなく黒に染まっている。彼の素性をエイプリルに伝え、彼に見張りを一人か二人はつけられるようにするか?
いや、それは出来ない。フェブのことを考えろ。彼が彼女をたらし込んでいることまで知られてしまえば、隊での彼女の立場は零落する。
そんなことは、彼女の親友として、見過ごせない。としあきの狡猾さにほぞを噛みながら、私は考えた。彼を始末する方法には何がある?
問答無用で射殺、も不可能ではない。彼を部屋に呼び出しておいて射殺し、機密文書を盗もうとしていたと言えば、バレないだろうか。
一考し、無理だと結論する。そんなことが起これば、まず私の記憶を調べて、真実の裏づけを取ろうとするだろう。長姉エイプリルとは、
そういう女だ。あれを騙すことは考えるだけ無駄か、でないにしろ危険である。証拠がもっと必要だ。彼女をして処刑の他に手はないと、
思わせしめるほどの証拠が。そうでないなら、私をして彼を超法規的行為を以って排除するしかないと、思わせしめるほどの、証拠が。
私が神経質になっているのは分かっていた。最悪の数日間──母と姉妹一人を失った数日間──の記憶が、まだ残っているせいだと思う。
もしかするとジャニアリーよりも、私は、セプを失った痛みを感じているのかもしれなかった。彼女は誤解されがちな私をフォローして、
姉妹間での円滑なやり取りを可能にしてくれたし、フェブに相談しづらいこと、例えばフェブ本人とのことなどを、話させてもくれた。
日頃から誰かの相談役になることが多かった彼女は、私の相談にも親身になってくれたものだ。私は彼女を好いていた。皮肉なものだ。
冷笑家にして性格の悪い、最大限の考慮をしても良くはない女として知られるこの私が、最も性格の良いとされる女性に、好意を抱いた。
ジャニアリーがいつも付き纏っていた、というのは彼女にとってフェアじゃない表現だが、かなりの時間、セプと一緒にいたことから、
私がセプに相談を出来る時間は長いものではなかったけれど、彼女にはきっと、誰かの信頼と友愛の情を引き出す才能があったのだろう。
その、私の第二の親友となれたかもしれなかった人を失った日。暗黒の日だった。あんな思いをもうしたくはないし、フェブを失えば、
あの日以上の絶望が私を襲うだろう。私はそれを絶対に避ける。避けたい、ではなく、避けるのだ。避けられぬ時は、私も失われる時だ。
フェブだけで逝かせはしない。としあきが本性を現し、フェブを殺したならば、私は彼を殺す。惨たらしく傷つけ、尊厳を完全に奪い、
それからじわじわと殺してやる。終わったら、私は自分の目の中に五十口径弾を撃ち込むか、その前にギルドを壊滅させてしまうだろう。
彼女を守らなければいけない。私の親友を。私の最愛の友を。私の近くに彼女がない世界などは、私には存在が耐えられない寂しさだ。
差し当たって、私は当面、警戒するべき敵の顔を目に焼きつけ、彼の保存されている経歴を覚え込んでおくことにした。そうしておけば、
彼が万一うっかりボロを出した時、すぐさま彼の矛盾したことを提示可能だからだ。彼は四・二・三制の教育方式を採用した国で生まれ、
小学校を四年、中学校を二年、高校を三年、きっちりと停学や休学することなく、させられることなく通った。大学は短期大学を受験し、
一流校ではないが、三流というほどでもない、普通の大学に入り、そこで情報心理学を一年とちょっと学んだ。ある日彼は家から少し、
十キロほど離れたビルにいる時、崩落事故に巻き込まれ、救出され、入院した病院を出た後、その足で家に戻ることなく、ギルドへ加入。
訓練期間後、四年の空白にして疑惑の期間をおいて、十二姉妹隊、フェブ隊へ入隊。更に現在に到るまでの四年を、一兵士として活動。
勤務成績、極めて優秀。判断力、生存能力、士気、忠誠心、問題なし。入隊してから現在まで、負傷二十三回。右足薬指を戦闘中に喪失。
衛生兵資格はないが、ある程度の治療技術を持つ。これは入隊後、学んだもの。従軍経験なし。無宗教を標榜するが、無神論者ではない。
家族は父母と兄が一人。父母は熱狂的な一神教信者であり、異常な厳格さで、弟としあきには接したという。だが兄は溺愛されたようだ。
典型的なマス・マーダラーや猟奇殺人者の製造過程か。ならギルドに入って来たのも、分からないではない。私は一つの謎を解決して、
気分を良くした。ギルド加入後、訓練所では上位成績を叩き出し、所長じきじきの視察時、射撃訓練の実演を担当させられたこともある。
これ以降、何かと所長は彼に便宜を図っているようだから、気に入られたのだろう。実戦を潜り抜けて来た部隊との模擬戦闘時には、
分隊指揮官として参加。突破された戦線の穴を補填し、作戦目標である、建造物の一定時間保護を成し遂げるのに、実に大きく貢献した。
反面、他の訓練生とは余り仲が良くなく、食堂で食事をする時、彼の周りに人がいることはなかったという。性格は実直にして、誠実。
数学は苦手だが、火砲の弾道計算は得意。背丈は日系人の例に漏れず、多少小さめであるが、それは彼にとってハンデにはならない、
とのことだった。少人数指揮に才あるものの、犠牲を恐れる点があり、分隊長補佐の役に向いている。これらが彼の大体のところだった。
訓練所の所長の写真があったので、そちらも見ておく。何が彼の有罪を示すものになるか分からない今、彼に関係する全てを知るべきだ。
一目見て、としあきとの共通性を見つける。としあきと同じ、日系人だった。珍しいこともあるものだ。彼のことを調べることにする。
あっと言う間に、問題が見つかった。名前はどうでも良かった。問題は彼が、訓練所所長をやっていた頃から、クリミナル・ギルドの、
諜報畑にいた人間であったということだ。今も、現役なのだが。私が彼の立場なら、少人数指揮に長け、自らも至極優秀な戦闘員である、
としあきを逃すことを考えるだろうか。答えは否である。手元で育て、工作員にするだろう。いずれ、ゆくゆくは、子飼いの部下にする。
特筆すべき点はもう一つあった。彼は私が参加している作戦のターゲットであり、正に明日、その襲撃は実行されるという点だ。危険か?
詳しい話をとしあきが知っていたら、そうでなくともターゲットが誰か知っていれば、私たちの襲撃からターゲットは逃れ出るだろう。
これに関しては、フェブを信じよう。彼女の口は固い。としあきがそれについて知りたがっても、情報を教えることは、考えられない。
さて、空白の四年間も納得がいった。諜報畑出身なら、こちらに情報がないのも頷ける。そして、彼はそうだったのだ。諜報畑の出身者。
こうしてはいられない。フェブに彼から離れるように言わなくてはいけない。だが真実は伝えられないのだ。伝えても、彼女は拒否する。
彼女は、としあきを信じ込んでいるからだ。なら、理由を敢えて伏せる方が、彼女の心を動かすには有効だ。私は彼女に通信を行った。
正に、離れていて欲しいその男と、話し込んでいるところだ、という。丁度いいから私も来たらどうかと誘われて、著しく気分を害した。
親友を守ろうとしている時、その親友が自ら死の罠の中へと飛び込んでしまっているとは! 私は彼女との通信を、切りはしなかった。
繋いでおけば、どんなことが起こっても、彼女の状態を把握していられる。それに位置は彼女の自室と知れた。なら、安全性は高まる。
──フェブラリー、聞いて。これからとても大事な話をするけど、はっきり言って、いい話じゃない、いえ、言うなら、悪い話だから。
──何ですの、マーチ、そんな大仰な言い方なんかして。これこそはっきり言って、ですけれども、あなたらしくありませんわよ?
──なら、平常通りに言う……としあきから離れて。二度と二人きりにならないで。部屋に連れ込んだりしないで。お願いだから。
これには彼女も驚きを隠さなかったし、私もそれは予想していた。彼女は怒らなかったが、怒らなかったとは正しい表現ではなくて、
怒れなかったのだろう。何がどうなってどんな作用で私をこのような言動に走らせたか、彼女は無駄だと思いつつも彼女なりに考えて、
訳が分からない、との結果に到った。私への説明を求める言葉を、拒絶する。にべもなく。取りつく島もなく。彼女はこれにも驚いた。
なるほど、考えてみればそれもそうだ。私は彼女に何かを頼んだりする時には、常にその理由を伝えていた。これは私が理由を伝えずに、
一方的にあれをしろ、これをしろと言われるのが好きではなかったからだが、その私がフェブに理由を言わずにものを頼んだことには、
いかに彼女が冷静であっても、首を捻らずにはいられなかっただろう。ここまでは私の予想した反応だった。ここからが、予想外だった。
──どういうことですの、マーチ。怒りますわよ。突然連絡して来たと思ったら、そんなことを言うなんて。どうかしてるんじゃなくて?
かちん、と来たのは嘘じゃない。でも、押し込める。現実に起こるとは予想してなかったが、これも考えられない反応ではなかったから。
フェブは見えていない。としあきの、人当たりの良い表層に隠れた、薄汚い表情が、見えていない。隊で見えているのは、恐らく私だけ。
それが意味するのは、フェブを救えるのは私だけだということだ。私も語気を強めた。常の彼女なら、私がそうすれば怯むものだった。
卑怯な計算だった。私は彼女を脅そうとしたのだ。彼女に言葉を伝えながら、私は己の精神が汚染されて行く気がした。気分が悪かった。
ここまでしたのだから、フェブは、と思う。通信の向こう側は無言。彼女は私の言葉を吟味してくれているのだと信じて、時間を待つ。
──マーチ。
待ち望んだ声。その声が伝えるのは──?
──暫く、頭を、冷やした方がいい……と、思いますわ。
ぶつり。そこで終わりだった。フェブは回線を切断し、私が繋ごうとしても、以降、応答はしなかった。私は恐慌する心を抑え留めた。
冷静になる必要がある時とは、いつか。今こそ、その時だ。フェブが私の提案を拒絶するなら、私を拒絶するなら、としあきを取るなら、
私は尚、努力を続けなければならない。としあきの有罪を証明し、その真実をフェブに突きつけ、としあきの死に顔を晒さねばならない。
フェブが誤っていたことを証明することにもなってしまうが、それが私のしなければならぬことならば、私は迷わずそれをしてやるのだ。
そうとも、当の本人、フェブの為にもなるというなら、余計に私はやり切らなくてはならない。としあきは最早韜晦叶わぬ反逆者であり、
私の殺意の対象であり、十二姉妹隊の内患であり、ああだこうだと御託を並べるよりも定義してしまうと、敵であることを、暴いてやる。

*  *  *

僕は部屋を出て、顔を真っ青にしたまま、暫くの間、佇んでいた。吐き気がした。眩暈も。立っていられなかった。僕は膝を地に突いた。
ここでは駄目だ、と理性を働かせ、体を持ち上げる。体の全部が鉛で出来ているような気分だった。食べたものも重金属かもしれない。
よたよたと壁に縋って歩いて、トイレに向かい、便器に顔を向け、重金属を吐き出す。何も出なくなるまで出した後、胃液も枯渇させた。
口周りをトイレットペーパーで拭く。それも、手が震えて上手く出来ない。握力が失われているのか、しばしば紙が落ちそうになる為、
畳んだ紙を両手で持って拭かなければならなかった。吐き出したものが周りに飛び散らなかったのだけが幸いだ。僕は吐瀉物と紙を流し、
手洗い場で何度もうがいをして、臭いを除いてから、来た時とさして変わらない調子でトイレを出た。壁がこんなに心強く感じたのは、
一年前の市街戦以来だ。関係ないことを考えて気を散らそうとするが、失敗した。僕の頭の中にぐるぐると、フェブの最後の一言が回る。
「愛している」と彼女は言った。色々な修飾はついていたが、それらを外すと、彼女はそういう意味のことを言った。「愛している」と。
それだけが、彼女の言うべきでなかった言葉だった。僕以外に言うのなら、まだ良かっただろう。僕は自分で自分のことを知っていた。
自分の異常さのことも知っていた。愛するということがどういうことかも知っていた。僕の父も母も僕に「愛している」と言ったからだ。
だから彼らは何度も僕を殺しそうになったし──彼らがそんなことを言う時は、決まって死ぬよりも酷い目に遭わされる前兆だったのだ。
分かっている。フェブは僕の両親じゃないし、勿論、僕はフェブの息子じゃあない。だけど「愛している」という言葉は、その言葉は、
つまりは所有欲と嗜虐欲に起因する言葉だったのだ。だから、僕には彼女に愛して欲しくなどなかった。愛されたくなど微塵もなかった。
僕への愛と、他人への愛は違う形を持っていたようだったから。フェブには、ずっと女神であって欲しかった。僕などより高次の存在で、
愛されこそすれ、愛することは絶対にない、崇拝の対象であって欲しかった。僕は、それで十分だったのだ。それで、幸せだったのだ。
ならば、フェブラリーが「愛している」と口にするのは、僕には耐え難いことだった。どうか僕の親のところにやって来ないでくれ、と、
僕の心は彼女に叫んでいた。自分勝手な想いだが、僕にとっての真実はそれだ。愛など。僕から彼女へ向けられているものだけで十分だ。
失われていく。彼女が。フェブラリーが。泣きたくなったが、涙も出ない。足を止めて、へたりこむ。トイレから、殆ど進んでいない。
こんなところに倒れていてはいけないと分かっていても、体が動かないのだ。近くに拳銃でもあれば、僕はそれを迷いなく掴んだろうが。
「昼寝にしても仮眠にしても、なんだ、妙なところで寝てる奴がいると思ったら。おい、としあき、ご禁制のアルコールでも飲んだか?」
懐かしく思えるメイの声がして、僕は流石に首をもたげた。彼女は呆れた顔をしていたが、僕の表情を見ると、真剣な顔つきになった。
本気で心配している時の声をしている。迷惑を掛けているな、と思って、体に力を入れてみた。立ち上がれないこともなさそうだった。
やってみよう。感づかれないぐらいに壁に頼りつつ、立ち上がろうとする。思ったよりも簡単に、姿勢を整えることが出来た。良かった。
僕は微笑みを形作ろうとしたが、メイの目に映ったのは、唇を引きつらせている姿だけだったろう。彼女は僕の体調についてを訊問した。
問題などない、このところ徹夜続きだった為、限界が来ただけのようだ、と言った。それを問題って言うんだろ、と切り返されて、黙る。
彼女は僕の黙秘を快く思わなかった。強引に担ぎ上げられる。驚きで元気が僅かに戻った。それを活用して逃げようとするも、叶わない。
僕が彼女の部屋に投げ込まれるのには、時間は掛からなかった。その性格を反映して、ごちゃごちゃしている部屋を想像していたのだが、
そうでもないようだ。本棚はすっきりと整理されているし、書類がばら撒かれているってこともない。洗わずに使い回しているコップも、
一つだって見つからなかった。あれこれ見ていると、メイは僕を小突いた。淑女の部屋を詮索するなかれ、だ。彼女に理が十割あった為、
頷いて詮索を止める。彼女は僕に椅子を勧め、僕はそれを受け入れて腰掛けた。彼女も続いて腰掛け、僕に向き合った。彼女の長所には、
ストレートで歯に衣着せぬところがある。今回も彼女の長所は遺憾なく発揮された。彼女は腰掛けるなり、お茶も茶菓子も抜きで言った。
「何があったか言え」
これだけだ。僕が十分前と同じくらい元気なら、笑ってしまっていただろう。が、長姉補佐役だけあって、有無を言わせぬ響きがあった。
彼女は何をしてでも聞き出すつもりらしかった。観念するしかないだろう。彼女はそういう性格だ。抗ったって、抗えるもんじゃあない。
僕はぽつりぽつりと喋りだした。フェブラリーに言われたことは伏せて、僕の過去の話からすることにした。古い話からしておいた方が、
後から過去に遡るよりも、相手に分かり易いだろうと思ったのだ。メイは何点かで僕の話を止めさせ、聞きたいことを聞き、僕は答えた。
メイはいい質問を何度も行ったが、それを一々述べて行っても面倒で億劫なだけなので、すっぱりと削ぎ落として簡略化することにする。
昔、男がいた。あらゆる面から考えても幸福なことに、その男には、自分で自分のことを不幸だと思ったためしが、一度だってなかった。
その男には父があり、母があり、双子の兄があって、家があった。それだけが、彼にとって必要に思えた全てであり、そうである以上は、
彼には不幸というものを感じる理由がなかった。彼は、両親を愛した。彼は、両親も自分を愛していると思っていたが、結局のところ、
彼には父母の愛は苦痛でしかなかった。彼は、兄に憧れた。両親が、兄を自分と別のやり方で接しているようだったからだ。そうならば、
苦痛ではない愛というものを知っているかもしれないと──はっきりそう考えた訳ではなかったが、心の奥底で感じでもしたのだろう。
しかし兄は彼を蔑み、憐憫の念を抱いた。男は誰かに大切にされることを知らずに育った。成長するにつれその男は、自分の持つ愛情は、
他者の持つ愛情とは違い、他者の愛情とは征服欲と暴力であるという結論に行き着き、それはそれでそれなりに満足して受け止めた。
彼はまた、彼をとても愛した両親から、彼を憎むことなど決してなかった両親から、求めるのは貪欲であり、大罪であると教えられた。
故に彼は求めることを捨て、持てる愛の全てを、捧げるべきと思った相手に捧げた。やがて彼は更に成長し、短期大学への進学を決めた。
両親は神学の外許さないと言ったが、奇妙にも男はそれを守らなかった。男は後から、それは自分の狂気の兆候だったのだろうとしたが、
兎にも角にも彼は半殺しの目に遭いつつも、その意を通した。男は必死で学び、奨学金を勝ち取り、働いて自分で学費を捻出しながらも、
学校に通った。一年間、彼には最も幸福な日々だった。けれどある日、稼いだ学費が不浄だとされ、最愛の人々により火にくべられた時、
男は最早正常であることが出来なかった。それでも家族を殺すことは考えず、彼は何処かすっきりした気分で家を飛び出ると、その足で、
彼の家から十キロ近く離れたビルへ歩き出した。彼は死ぬつもりだった。自殺は、両親が教えた大罪の中でも飛び切りのものだったので、
彼はそれを以って両親へのささやかな復讐とする腹積もりだったのである。両親がどんな顔をするのか見られないのが男は残念だったが。
ビルに着くと、彼はそのビルの入り口にいる守衛に、にこやかに微笑みながら、中へと入った。すぐにそのビルの最上階に向かって行き、
レストランになっているのを知り、彼は一つ階を下りることを決めた。食事中の人々を余り酷く邪魔するべきではない、と思ったのだ。
さて、彼は後に知ったが、ビルには設計上のミスがあり、強風に長時間晒されていると、部分的に崩壊してしまう可能性があった。
そうして、その日は風が強かった。彼が階段を下りようとした瞬間、崩落の揺れに押されたその身は宙を舞い、落ちた。彼は身を打ち、
ガラス片が体中に突き刺さり、苦痛に喘いだ。もとより死ぬ気だったのに、死の恐怖を感じた。自分の身の変わりようを責め、嘆いたが、
彼の覚悟は生ぬるく、死に到るまでの痛みを知り呆気なく砕け散っていた。そこに誰かが通る気配がした。彼は大声で叫び、助けてくれ、
と願い、乞うた。神よ、とも祈った。自分でも驚くぐらいに、懸命に。するとその人は、一度は通り過ぎたものの、間もなく戻って来て、
彼を救い出してくれたのである。その後、搬送された病院で、彼はとくと考え込んだものである。その人は、一体全体、誰だったのか?
ガラス片が目に入っており、不確かな視界だったので、その彼の救い手が女だ、とか、ぼんやりとした風体しか分からなかったのである。
薄い膜を通しているような視界の記憶からでは、答えは出なかったが、入院二日目にして彼はあっさりその女神が誰だったのかを知った。
それこそ男、僕の愛する人であり、それこそ正しく戦乙女、電子の女王であり、それこそが愛するフェブラリー、その人だったのである。
僕は治療費を払える訳がないと分かっていたので、退院の日を待ってなどいなかった。その前々日に僕は病院を脱走し、ギルドに入った。
病院側は患者が脱走して行方不明になった責任を何とかする為に、僕の退院の日を脱走の日であると偽り、退院後失踪したのだ、とした、
ということを数ヵ月後に知った時に、それはいい手だなと思ったものだが、それは一旦置いておく。僕は訓練所で、猛烈な訓練を積んだ。
射撃も格闘技もやったことがなかったし、運動も人並み以上ではなかった僕には酷な訓練だったが、骨折にだけは気をつけて訓練する内、
僕はタフになり、成績も上がった。仲間は出来なかったが、別段欲しくもなかった。十二姉妹隊に入るにはどうしたらいいのかだけ考え、
何にせよ精鋭であることが条件ならば、必死で訓練するしかないと、毎日毎日、訓練中毒気味の訓練を行ったのである。教官は驚き呆れ、
やり過ぎるのも馬鹿だなどと言われたものだ。しかし甲斐はあった。訓練所の所長が僕に目を掛けてくれた。彼は僕と同じ血の持ち主で、
久しぶりに僕も母国語で喋ることが出来た。彼は僕の訓練への熱意の訳を知り、興味を持ってくれ、可能なら何とか捻じ込んでみるから、
とまで言ってくれた。僕は彼のことが凄く好きになった。何と言えばいいか、浅はかだったのだ。僕は訓練所を上位で出ることになった。
首位が取れなかったのは、僕が最後まで格闘を苦手としていたからだ。まぐれで、体が勝手に動いて、一番強い男を投げ飛ばしたことも、
なかった訳じゃなかったが、まぐれで一回勝ったくらいじゃ成績は動かない。訓練後、僕が配属されたのは、所長直属の諜報部隊だった。
彼は、欠員がなくて駄目だった、と言って、だけれども次の補充や次の次の補充で欠員があれば、君をきっと姉妹隊に入れてあげるから、
とも言ってくれた。僕はますます彼に恩義を感じ、精力的に働いた。彼が諜報部隊の指揮官だったことには面食らったが、働いてみると、
僕が大学で学んだことが活かせる場であったこともあって、そこは魅力的な部隊だった。そこで、ギルドに入って初めての友達も出来た。
そいつは僕と一緒に入って来た奴で、同じ仕事をすることになっていたが、少しして彼が僕よりも知識実力に劣ることが明らかになって、
僕の補佐役をやった方が気が楽だから、させてくれとあっちから言ってきたのである。僕も、所長もそれを認めた。僕の補佐役は優秀で、
教えたことは二度と忘れなかった。ちゃんと学校に通っていれば、彼ではなく僕が補佐することになっていただろう。彼はいい奴だった。
ところで、諜報部隊と言ったが、僕らの仕事は潜入したり、工作したりするんじゃなくて、工作員たちのカバー……偽装身分を作ったり、
諜報員たちが取り付けた交渉に臨んだ時、心理学的見地から、相手の出方やこちらの取るべき態度について助言する、という仕事だった。
最初、カバーを作るのは面倒で面白くもなかったが、一年する頃には、僕たちは僕たちなりの楽しみ方を決めていた。名前と仕事を決め、
彼のバックストーリーを小説風に考えるのである。後は要点を纏めて、工作員たちに渡してやる。これは好評だった。覚え易いのだとか。
覚え易い上に記憶にも残るので、咄嗟に出て来ないことがなく、何度も命を救われた、と、引退してデスクワークをすることになった、
工作員の一人がわざわざ僕たちにお礼を言いに来た時は、感動したものだった。工作員の死亡率は高いので、僕も命を救えて嬉しかった。
ただ、僕が姉妹隊に入る夢を捨ててしまったかと言われると、無論違った。僕は一年ごとに所長、というより隊長に会いに行き、訊ねた。
彼の答えは三度が駄目だった、というもので、四度目にして、本当にここを出たいのか? という質問が出た。僕は考えもせずに答えた。
この部隊を出たいのではなく、十二姉妹隊に入りたいのです、と。隊長はその答えに、残念さを満腔に表しながら、書類を見せてくれた。
入隊試験の受験許可証だった。デスクは残しておくから、駄目だったら戻って来ていいんだぞ、と隊長は、寛大にも言ってくれたが、
僕は戻って来ませんから、デスクは僕の最初の友達にくれてやって下さい、と言っておいた。彼は常日頃から僕のデスクを羨ましがって、
取引を持ちかけていたのだ。彼のがガタガタな上、金属剥き出しなのに対して、僕のは自費で買ったそれなりに高級なものだったからだ。
隊長は僕を激励し、僕は荷物を纏めた。途中、僕のデスクを貰うことになった友人が抱きついてお礼を言ってくれたが、僕としては、だ、
二十九にもなったそろそろいいおっさんという年頃が、抱きついて来ても、何ら感じるものはないのだ。僕らはまた会おうぜと言い合い、
デスクは大切に使うよ、と言われ、そうとも大切に使わないとこっちに送らせるからな、と言った。隊の仲間たちは餞別の品をくれたが、
その品は今でも僕の部屋にある。皆と撮った写真が入った、オルゴール付の写真入れだ。写真立てだが、立ててると常時音楽が鳴るので、
立てることが難しいのである。因みに入っている写真というのは、火を近づけるだけでもすぐに燃え出して灰になる、特別な写真である。
というのも、諜報部隊の連中の顔は機密だから、何かの拍子にバレちゃあマズいのだ。写真入れ本体には隊の連中のサインが書いてあり、
円状に書かれたサイン群の中心に、隊の名が刻んである。このサインに実名を入れるとこれまたかなりマズいので、コールサインである。
閑話休題し、姉妹隊に入った僕の話をしよう……としたが、話すことは特になかった。僕はフェブ隊に入り、戦い、フェブと仲良くなり、
「愛している」と言われ、答えを保留し、吐いた。最低の男に聞こえるのは本意じゃないが、手短に言うとこうなるのだから、詮方ない。
長い間、メイは何も、何も言わなかった。彼女は僕を責めるだろうか。フェブを責めるだろうか。僕を責めるのはいいが、フェブには、
責が及ばないようにして欲しい、と思う。これも、独りよがりな愛情の思わせることだが、しかしフェブが苦しんだり傷つくのは嫌だ。
メイは黙っていた。僕は彼女の言葉を待っていたが、彼女は何も言わないまま、僕を僕の部屋、共同部屋だが、そこに送り、去った。
……何も言わないという展開は予想していなかったので、僕はどうしたらいいのだろうと思ったが、ふと、僕の気分が少しマシになった、
そう気付いて、僕が彼女に有りっ丈の隠していたことを打ち明けた為、気が楽になったのだろうかと考え、まずは一休みすることにした。

*  *  *

言った。遂に言った。言ってしまった。取り返しがつかないことをやった。吉と出るか凶と出るかはまだ分からないが、私はやったのだ。
としあきが、好きだと。愛している、と。私は彼に言った。言う前からずっと俯いていたので、彼の顔を見ることが出来なかったのは、
痛恨のミスだったが、それだってまあ、私がより可愛らしく見えるだろうから、上手く行けばだが、怪我の功名になってくれるだろう。
彼は言葉に迷った末に、返事は後でいい、という私の言葉を受諾して、考える為にだろう、部屋を去って行った。私はベッドに飛び込み、
枕を一分間に百回のペースで叩きまくり、ごろごろごろごろと転がった。調子に乗って転がり過ぎてしまった為、ベッドから二回落ちた。
奇声を上げなかっただけ褒めて欲しいくらいだ。恥ずかしいったらなかった。マーチ相手に、「好きよ」と言うのは全然恥ずかしくない。
「愛してる」もイケると思う。倒錯が過ぎるとも思うが。でも、としあき相手に愛を告げるのはかなり勇気が要った。今でも頬が赤らむ。
これで成功すれば私は、十二姉妹の中で一番早く愛する異性を見つけた女に、一番幸せな女になる。彼と初めて会った時を、思い出す。
そんなにタフであるようには見えないのに、入隊試験を余裕綽綽で受けている男がいる、と聞いて、私はそれを見物しに向かったのだ。
彼の試験の様子が手に取るように見えるモニター室で、私は彼を見た。確かに、タフっぽくは見えなかったが、実際にはタフだったのだ。
それもかなりの。それが私の初めて見たとしあきだった。次に会ったのは入隊式。小学校の入学式じゃないんだから大したものじゃない。
じゃないけど、私はちゃんと、補充兵たちの一人一人を、確認することにしていた。マーチのやり方と比べると相当良心的なものである。
彼女は彼女が指揮を執る訓練の時、纏めて入隊式まで済ませてしまうのである。最初の点呼が入隊式代わりなのだ。いいのか、それで、
との意見はちらほらあるが、そういうところも彼女の魅力だと言われてしまえば、それっきりなので、改善された話は一向に聞かない。
彼の話に戻る。彼は私を熱烈な視線で見ていたが、新兵全員がそんな視線を持っていたので、私は特に気を留めることなく、式を終えた。
ああ、訓示もしたが、それこそ大したことは喋っていない。皆頑張ってね、程度のことを、仰々しく飾った言葉を使って言っただけだ。
一年の間は、私はとしあきに特に注意を払った記憶はないと思う。私が彼に興味を持ったのは、彼が私の隊に入ってから一年と半年後だ。
私はその前の戦闘で撮影された、部下たちの戦闘記録映像を見ていた。戦果報告は正確に、が私の考えだからだ。中には部下の言葉を、
鵜呑みにしている者もあるが、部下の方は殺したと思っていても、映像で見ると、明らかに負傷で済んでいる、ということがあるのだ。
部下の兵士を信頼していないのではない。正確を期したいだけなのだ。で、私は映像を見ていて、としあきの戦闘記録に差し掛かった。
何倍速かで見ないと、とても部下全員分は見られないので、最初は飛ばして見ていたが、半分と少し行ったところで、何となく不自然な、
奇妙な感じ、違和感を抱いた。私はそういうことを放っておかないタイプだ。仕事中なら、輪を掛けてそうなる。私は映像を見直して、
四回目でやっと知った。彼は『誰一人殺していない』のである。彼は銃を撃ち、敵を倒す。だが当たるのは非致死性の部位だ。腕だとか、
足の、動脈がない辺りとか、顔面なら顎とかの、腹でも重要な臓器からは遠いところを狙っているのだ。にわかには、信じられなかった。
命を懸けた争いの中で、瞬間で生死が決まる戦闘の渦中で、彼は殺人を忌避しているのだ。彼が、自分の運を試しているのか、と思って、
過去の記録を参照する。過去、一と半年。としあきは、誰も殺そうとしていなかった。結果として、その撃たれた者が死ぬことはあろう。
だが助かるチャンスを、としあきは決して奪わなかった。時にはそのせいで、としあきは死にそうになっていた。私は愕然としたものだ。
この男は馬鹿なのかと感じた。何の理由があって、敵を生かすのか。もし彼が殺さなくとも、彼の戦友が敵の負傷者を見つけたならば、
止めを刺すのは分かっていることなのに。私たち十二姉妹は軍隊じゃない。敵を傷つける方が、殺すより敵を疲労させられるのは正しい。
が、私たちは戦争をしているのでなく、なら敵を生かす公的な理由は明らかに一つだってないのだ。私的な理由で彼は自身を縛っている。
それ以外に彼の行為を説明することが出来る考えはなかった。私は彼に、直接聞くべきかを迷った挙句、敢えて、黙っていることにした。
言うべきだとは分かっていたが、一度だって人を、直接殺さなかった彼の手は、何人も直接殺した私の手よりも、綺麗に見えたのである。
五十歩百歩なのも分かっていた。傷つけることと殺すこと、差があるのは事実でも、手が汚れているという点では、彼と私に差異はない。
ないが、程度の問題だと知っていたが、守りたかった。少しでも綺麗なものを見ていたかったのだ。彼の姿が、私には綺麗に思えたのだ。
その日を起点にして、私は彼にどんどん興味を持ち、どんどん惹かれて行く。決定的に好きになった瞬間などはなかった。いつのまにか、
私は今の如く彼を愛するようになっていた。感情は突如として高まるものでなければならぬ、という法はない。こういう愛もあるだろう。
そして今日、私は彼への想いを伝えた。愛しい人への想いの、一割にもならないものだが、決定的な一言であるのは疑いない事実である。
どうしたものか。私は今日、眠れるのだろうか。再び精神が高揚し、ベッドの上で性懲りもなくごろごろ転がる。チャイムが鳴ったので、
転がるのを止めた。マーチだろうか? 妙なことを言っていたから、もしかすると謝りにでも来たのかもしれない。それともとしあきが?
決を下したのだろうか。彼は私を愛してくれるのだろうか。期待に胸を高まらせ、ドアに近づく。開けるのが怖い。チャイムがまた鳴る。
私はドアを開けた。

*  *  *

資料室には誰も来なかったようだ。私が床の上に寝転がったまま、翌日の朝を迎えたってことは、そういう意味だろう。違ってもいい。
時間は適当だった。今から身嗜みを整えている時間はないが、見苦しくない最低限にまでは持っていけるだろう。後は、武装の準備だ。
フェブの傍を離れるのは気に入らなかったが、フェブをたぶらかしている裏切り者、としあきの叛意の証を、今日、見つけ出せるのだ。
私は迅速にやるべきことをこなした。髪の毛をまあまあ整え、服を着替えた。銃も用意し、弾帯もたっぷり持った。これで、行ける。
作戦はきわめて簡単なものだった。諜報部隊が隠れている都市がある。彼らはコンピュータ会社に偽装し、日々の仕事を行っているのだ。
例えるならコヨーテ号のような、小型船を用いて、市に直接降下、諜報部隊の面々を皆殺しにして、警察が来る前にまた、小型船で逃走。
ヒット&ランということだ。反ギルド・コミュニティを作ろうとしている我々だが、それを作るまでは、こうして地味な行動しかない。
いつの日になるかは知らないが、いつかは、我々はギルドに、全面的闘争を挑むことが出来るようになることだろうが、しかし今は、
出来ることをやるしかないのだ。私はそれで意気を喪失したり、腐ったりすることはない。やれることをやる、何のおかしな点があろう。
格納庫に行くと、作戦への同行者たち、私の兵士たちが、集まって来る。私は、この作戦がスパイ連中を叩き潰す為だけにあるのでなく、
敵の諜報網を暴くことにもあるのだ、ということを、強調して伝えておいた。エイプリルには既に、限界ギリギリまで、敵の持つ情報を、
掻き集める許可を得ている。何をするにしても必要なのが情報だ。彼女はそれを分かっている。私が選んだ二十五名の精鋭兵士たちは、
意気軒昂の様子を、短い雄叫びで以って表現した。私は彼らに乗船指示を下し、自らも乗り込んだ。小型船三隻に、私を入れるならば、
二十六人が乗り込む。監視と護衛の為に、船一隻につき二人を残さないといけないので、戦闘することになるのは十九人の兵士だけだが、
それでも五・五・五・四で分ければ、四班作れる。その四に私が入れば、数も合う。オペレーターの兵士が、幸運を祈る言葉を放った。
合図はそれだ。私たちは宇宙に射ち出され、予定されたコースを取って、大気圏への突入を果たした。突破後は、速度・機体の安定と、
目的地へ船を運ぶことが目標になる。私の兵士たちは難なく目標を果たした。目的地までは三分。その間に、銃のチェックを済ませる。
敵を撃つ時になって、弾が詰まったら、命取りになることもある。私のじゃなくても、別の命と言えば、失いたくはない戦友たちの命だ。
ならこうして、万全の状態に保つことも、敵との戦いの一環なのである。卑劣にして敗北許されざる敵との。チェックが終わる頃に、声。
「到着二十秒前。突入用意。戦闘記録映像の録画開始。降下まで、十、九、八……」
小型船の後部、ハッチが開き始める。我々が降り立とうとしているこの星は今、夜だ。早く開け、とハッチに思うのは、いつものことだ。
「五、四、三、二、一、突入!」
私を先頭に、小型船から飛び出していく。目標は、三階建てという、背の低いビルの中だ。地下施設がある可能性も否定しきれないので、
精査することが求められる。フェブがここにいてくれればと思うが、彼女は彼女で任務に従事しているので、借りられなかったのである。
締め切られたドアを爆薬で吹き飛ばし、内部に突入する。監視カメラや赤外線探知機は、即座に銃撃され、潰された。十人を一階の確保、
それに地階の有無を調べることに回し、残りの九人と上に向かう。昼夜問わず働く勤勉なギルド諜報員諸君を、一人ずつ殺していった。
彼らは突撃銃と装甲服で武装しており、危険な敵だったが、私たちは何とかやってのけた。二人が負傷したが、死者はなし。いい成果だ。
だがこれは、二階での戦闘の話だった。三階ではより堅固な陣地を築いた優勢な敵と交戦することとなり、私たちは慌てて下の十人から、
半分をこちらに引き抜かなければならなかった。それでも拮抗していたのだから、敵の優秀さが分かる。下の五人から地階なしと聞いて、
その五人が戦闘に加入し、どうにかこうにか、敵の防衛線を突破、室内ごとの掃討戦に移ることが出来た。この間、負傷者が九名と、
死者が一名出たのは残念だった。衛生兵は手を尽くして止血しようとしたが、止まらなかった。私たちは悲しむより任務を先に果たして、
敵を片っ端から撃った。殲滅した頃になってから、情報が取り出せそうな端末を探すことを始めた。大半はデータを完全に消されており、
がらくたになっていたが、一部は残っていた。私がそれを抽出していると、後ろから頭を撃たれた。つんのめって、モニターで顔を打つ。
振り返ると、六発を撃ち込まれた。それで弾切れ。血まみれの男が、使えなくなった拳銃を片手に、上等なデスクで、ゆったりしていた。
どうやら彼の血ではないらしいが。私は銃を向けた。彼は抵抗しようともしない。デスクの上の煙草を手に取ると、優雅に一服を始めた。
捕虜に取るべきか? 私は一考した。有益な情報を知っていることも考えられる。彼は煙をふう、と吐き出すと、おもむろに口を開いた。
「なあ、あんたに伝言を頼みたいんだが」
銃でしゃくって、続きを促す。私を使い走りにするとは不愉快な男だが、聞くだけ聞くのも良いだろう。
「フェブラリー隊にいる、俺の友達に言っといてくれ。折角貰ったデスクを血なんかで汚しちまって、ホントすまねえ、ってさ」
胸をぎゅっと掴まれたみたいな気持ちになる。フェブラリー隊。元諜報部隊。二つの言葉が繋がる。私は、その友達の名前を尋ねた。
「日系人だから、名前を言わなくても分かるだろ。あいつ、親がつけた名前で呼ばれるのを嫌ってたからな。あ、今は、どうなんだ?」
「今は抵抗はないみたいだけど、どうかしら」
そうか、そりゃ良かった。と彼は言った。日系人、という言葉も加わって、証拠らしさが強調される。私は負傷しているのか、と聞いた。
彼は頷き、腰と足に弾を受けて、足の方は動脈が破れてしまっている、と言った。顔色が悪くなっているところを見ると、嘘ではない。
捕虜には取れないだろう。私は、きっと伝言を伝えると言った。彼は心底から礼を言うと、私が撃つまでもなく、デスクから拳銃を出し、
自分の頭を撃ち抜いた。データの転送が終わったことを知らせる電子音が、静寂を取り戻したばかりの部屋に響く。私はそこを後にした。
集められるデータは、どんなつまらないものも取って来た。ここで直接データを出せなくても、母艦で時間を掛ければ出せそうな類の、
端末の記憶装置も、引っぺがして持って来てやった。これらの中に、彼を殺害することを私に決意させるものがあれば、私には幸いだ。
ところで──これが一番気に食わないことだが、襲撃中、ターゲットを殺害した、という報告がなかった。彼はあの場にいなかったのだ。
……言うまでもなく……誰が原因なのかは、凡そ見当がついているのだが。私は艦に戻ると、入手したデータの解析に自ら取り掛かった。
記憶装置の方は私よりも腕の立つサルベージ屋に任せるとして、消されていなかったデータの暗号を解読するのは、私にも出来ることだ。
私はそれに掛かりっきりになった。エイプリルたちは、ターゲットを捕捉し直し、改めて暗殺する計画を練っているらしかったけれども、
今の私にはそれは大切なことではなかったのである。襲撃から三日が経過した頃になってやっと、私は暗号を解いた。彼らの暗号化には、
私も相当手間取ったという訳だ。彼らは戦闘員としても優秀だったが、諜報員としても優秀だったのである。でなければ殺す意味がない。
エイプリルの呼び出しと出頭命令の回数がいい加減二桁を超えたので、彼女のところに行く。長姉は怒っていたが、私は上機嫌だった。
今度こそ、私はとしあきを有罪に出来る。私は見つけたのだ。暗号を解いた後、データを探った私は、彼らの諜報計画のデータ中から、
十二姉妹隊へのスパイ潜入を目的とする作戦計画書を。その提案日付は、としあきの謎めいた四年間の空白期間と一致した。具体的な、
誰が潜入するのか、といったことは書いてなかったが、彼がかつて諜報畑にいて、訓練所長であり私たちの標的となった諜報部隊長の、
育て上げた人間であり、その出身部隊からこのようなものが見つかった以上は、彼を疑う他ないだろう。彼は見事にやってのけたのだ。
今の今までは、彼は伝説に残る名スパイであり、その偉業は闇の世界に轟いただろう人物だったのだ。だが、彼は、無様にも、転落した。
私は初めて、彼の有罪を自信を持って肯定することが出来た。これほどの証拠があって、彼への疑いを確信に変えない者はいないだろう。
長姉のところを去り、フェブの許へ向かう。彼女は都合良く一人だった。前回は、私は理由を明かさず、彼女へとしあきから離れるよう、
言い含めようとして、失敗した。今回は、証拠もある。彼女を納得させられる。傷つくだろう。愛した人が、自分を愛してはいなかった。
尚かつ、のみならず、彼は裏切り者であった。フェブの心には、深い爪痕が残されるだろう。だが私は彼女を助けよう。傷つけてでも、
私は彼女を想うが故に、彼女の心を傷つけるのだ。そうして傷つけた後は、私が責任を持って、彼女の心を癒してみせるつもりである。
部屋の前まで来た。一週間前なら入るのに心構えなんていらなかった。今は、少し必要だ。チャイムを押す。彼女はドアを開けてくれた。
顔が綻ぶのを感じる。やはり、気の合う友人と会うことほど、心安らぐ時はない。彼女も微笑んで、迎え入れてくれた。その笑顔を私は、
今から壊さねばならないのだ。私は彼女がお茶を勧めるのを断って、ゲームでもするか、という誘いも断って、テーブルに引っ張った。
彼女は自分のお茶を注いで、私の話を聞こうとした。人が飲んでいるのを見ると、欲しくなるが、ここはぐぐっと我慢して、話を始める。
持っている情報、証拠を、見解を添えて、彼女に渡す。こういう時、アンドロイドは便利だ。現物がなくても、データをその場で渡せる。
フェブは目に見えて、不機嫌になった。私をじっと睨みつけてくる。その迫力には、私もたじろぎそうになったが、気を取り直して言う。
彼は危険だ。彼はフェブの味方じゃない。私たちの味方じゃない。彼は、フェブに何も与えない。奪うだけだ。頼むから私に任せてくれ。
簡単に始末をつけられるから。そういうことを言った。フェブの返答は、熱い紅茶だった。彼女は本気で怒っていた。私が本気で彼女を、
助けようとしているのと同じように、彼女はとしあきを本気でかばい、本気で彼のことを守ろうとしていた。私には、それが分かった。
これ以上言っても無駄だろう。長い付き合いの親友のことは、手に取るように分かる。私は顔を拭い、冷たい言葉一つ寄越さない親友に、
別れを告げてから、部屋を出た。自室に戻り、着替えながら考える。フェブはもう駄目だ。彼女の心を変えるのは不可能。ならば、私は。
……としあきを、殺そう。

*  *  *

マーチと入れ替わりになるようにメイがやって来たので、表情を整える時間がなかった。彼女は、私の顔を見て、愉快ではなかったろう。
彼女が持って来たのはエイプリルからの連絡だった。私を呼び出して直接説明したがっていたそうだが、他にも彼女を必要とする仕事が、
山積の状態らしい。メイはそんな長姉の代理人として、私を訪れたのだった。だが、私には彼女がその為だけにここに来たのではないと、
彼女が来た時から分かっていた。まず、義務を果たす為に、メイは資料を取り出して、私が参加すべき次の任務についてを教えてくれた。
私がこれまで携わって来た任務は一時凍結し、マーチが先日行った敵諜報部隊襲撃を完遂する、暗殺任務班に異動させられるとのことだ。
聞けば、最大目標であった部隊指揮官を取り逃してしまったとか。これはマーチや他の兵士に責があるのでなく、偶然いなかっただけで、
このことでマーチたちが何らかの戒告を受けることはないそうだ。私は彼女への怒りの矛を収めてはいなかったが、これには安心した。
話は戻ってメイが言うには、敵の通信を傍受した結果、標的は襲撃された都市に未だ留まり、別区域のギルドの部隊が救出に来るのを、
市内を転々としながら待ち続けているとのことだった。救出地点とその日付はと聞けば、それも凡そ明らかになっていると教えてくれる。
後は、確実に仕留められる腕のある狙撃兵と、観測手が欲しいそうだ。なるほどそれなら、私が声を掛けられるのも納得が行くところだ。
私のセンサーで調べれば、狙撃兵と二人で双眼鏡やスコープを用いて勘を頼りに探すより、早く正確に目標を見つけることが可能である。
セプが生きていた頃は、良く彼女と組んだものだ。今もしも彼女が生きていたなら、迷わず私は彼女と一緒に出かけたものだったろうが、
彼女は死んだ。代わりと言うのは酷だが、姉妹兵を一人連れて来るのがいいだろう。十二姉妹で狙撃が出来るのは、後はエイプリルのみ。
けれども、総指揮官を現場に連れて行くことは出来ない。まして銃の引き金を引く役目なんてものは、指揮官の仕事の内には含まれない。
作戦の詳しい話を聞くことにする。メイから転送された資料を参照すると、標的の救出は、夕方前に行われるというので、首を傾げた。
狙撃し易い時刻を選ぶのはどういう訳があってなのか? これは資料を読み進めると分かった。救出の日、救出地点付近では祭事があり、
出し物や屋台や観光客で都市全体が一日中賑わうのである。民衆の中に姿を隠し、人を盾に使って狙撃を難しくする気なのであろうか。
自動車爆弾や問答無用の航空機からの爆撃を受けることは、考えなかったようだ。まあ、私たちもそんな手段を使うことは考えなかった。
そんなことをすれば反ギルド闘争へのプラスになるどころか、大幅なマイナスになる。十二姉妹は悪だ。しかし巨悪ではないと思わせて、
ギルドに対抗する偽悪、義悪であると思わせねばならない。今回の暗殺ではそれは難しそうだが、何の理があっても無差別攻撃は却下だ。
救出地点を一望出来る建物を探す。メイは幾つかの候補を探しておいてくれたが、こういうことは自分でやらないと気が済まない性格だ。
どの建物がいいのか。逃走経路も考えて設定しなければ。救出に来たギルドの部隊に発見されて死ぬことになるのは、真っ平御免である。
悩んだ末、救出地点から八百メートル離れた教会の鐘楼から狙うことにした。一発で仕留めたいので、五十口径を持っていく許可が要る。
二度目の失敗をしたくないエイプリルは、認可してくれるだろう。メイは、私が撃つのはどうか、と言ったが、狙撃には自信がなかった。
コリオリの力の計算や風の計算は私の方が正確だろうが、最後に成功と失敗を分けるのは、射手の、発砲タイミングを計る能力である。
セプと違い、私にはそれがなかった。狙撃用のプログラムを作ればそれなりには可能だろうが、セプや部下の中の狙撃兵には及ばない。
様々な点で人間より便利なアンドロイドも、万能でないということだ。私は狙撃地点の設定のついでにメイに、緊急な回収の必要な時や、
標的への狙撃が失敗した場合、ヘリで脱出すると思われる彼を逃さないよう、小型船かギルドヘリを待機させておいてくれ、とも言った。
そうすれば、私たちが逃げる時、救出部隊が思いの外素早くこちらの位置を特定、接近して来ても、また、狙撃自体に失敗して、標的が、
狙い通りヘリで舞い上がっても、メイは私たちを助けることも出来るし、大空に上がったターゲットを天国まで押し上げることも出来る。
メイは、必ず手配しよう、と言ってくれた。それから、同行させる兵士のことを訊いた。狙撃手と、教会から離れたところで敵の動向を、
隠れて見張る連中のことだ。マーチがこれに志願していると聞いて、彼女らしくないな、と思う。こういう土埃の付く任務は彼女が嫌い、
避けたがる種類の任務の一つだ。私は、四人の兵士を選んだ。命令伝達を簡単にし、姉妹間での軋轢を生まぬよう、全員自分の隊からだ。
ジャニアリーの隊やジュライの隊から連れて行くと、不興を買いかねない。誰だって、自分の部下が他の誰かに使われているのを見て、
いい気持ちにはなれないものだ。それに例えばジャニアリーと私では、第一世代と第二世代という埋まらない差がある。これも面倒だ。
妹が姉の部下を引き抜いて使う? 喧嘩をしたいのでもない限り、止めておくことだと私は助言しよう。部下は同じ十二姉妹だからと、
誠心誠意、尽くしてくれるだろうが、その上に立っている者は、気に入らないと感じること、請け合いである。私は喧嘩が好きじゃない。
選んだ四人の中にとしあきを入れた為か、メイは眉をひそめた。私心を介入させるのはご法度だぞ、と目が語っているが、そうではない。
彼は一見、犯罪者には見えない温厚そうな外見を持っている。雰囲気も、精兵っぽくはない。ミッション・スクールにいたとしたって、
私が彼を不自然に感じることはないだろう。良くも悪くも、まあ普通なのである。中身ばかりは、どうしようもないことになっているが。
四人の武装に関しては、非武装でいいだろう、と二人の間で意見は合致した。拳銃を持たせたせいでバレてしまうことも有り得るのだ。
ホルスターは目立つし、ズボンのベルトに挟んで上から服を被せると、特徴的な形が浮き出る。新米警官や一般人は気付かなくたって、
経験を積んだ警官や、高度な訓練を受けた軍人や、死線を潜り抜けて来た連中は敏感に反応する。私たちだってそうなのだから、分かる。
でもナイフだけは持たせておこう。ナイフの有無で、人の戦闘能力は格段に変わる。訓練されていれば、だが。訓練されていない者が、
幾ら刀や剣やマチェットやナイフを振り回したって、何も恐れることはない。しかし一度良く訓練された者の手にそれが握られたならば、
どんな安物の刃物でも有能な凶器となる。ジューンを見れば、理解出来るだろう。彼女が持っている刃物は必ずしも上等ではなけれども、
その近接戦闘術の中で、刃物自体の性能は大きな役割を果たしてはいない。刺さるか切れるかすればいい、とは彼女の言葉だったと思う。
これは一つの真理である。メイは、これにも許諾を貰えるだろう、との見方を示した。他に考えることがあるだろうか? 思い巡らせる。
と、メイが言葉を発した。それは私への呼びかけの言葉だった。ちゃんと聞いていなかったが、おい、とか、なあ、だったろうと思う。
「としあきのことは──考えた、か。その、あれから、さ」
言い難い話を、何とかしようとしているのが見て取れた。メイの日常の様子を知っている者なら、一言一言をぽつりぽつり言うやり方に、
目を丸くしただろう。私は二度目なのでそうもならなかった。一度目は、この間、としあきに愛を告げた後だ。あの時ドアの向こう側で、
立っていたのは、メイだったのである。そうして彼女は語った。彼女がとしあきに語られたことを。私は彼のことを知っていたつもりが、
知らなかったことは余りにも多く、衝撃もまた大きかった。メイは、これで私の愛が揺らぐかどうかを確かめたかったのだろうと、今、
私は思う。であるけれども私の気持ちは、彼女の懸念を裏切った。私の気持ちは変わらなかった。愛を知らない青年。歪んだ理解を持ち、
故に愛されることを恐れる男。相手にとって不足ない。恋や愛に障害は付き物だという。私の愛にも、障害があったとて、何がおかしい?
それに、愛した男を救えるだなんて、女冥利に尽きるというものではないか。これは個々人の考えが影響して来ることが予想出来るので、
断言したとしても普遍の真理とまで言い切る気はないが、私の考えでは、愛する人の救いになることは、何より気持ちのいいことである。
メイはこれら私の思想を丸々聞きはしなかった。というか、私が恥ずかし過ぎて言えなかったのだ。でも私がとしあきを未だ愛していて、
私の気持ちがこれからも変わることはないだろうと知って、彼女は大層喜んでくれた。こっちが居心地悪くなるぐらいの喜びようだった。
その出来事が、二日前である。今、私は鐘楼にいた。横には信頼出来る狙撃手が伏せて、固定した五十口径ライフルに、身を寄せている。
銃は放置して逃げることを許されたので、ライフルは殆ど完全に固定されていた。射撃に移る前に、より完全に近い固定状態にされる。
そろそろだ、と、ヘリで待機中のメイが通信を寄越した。彼女は自分が操縦すると言って聞かず、エイプリルから許可をもぎ取ったのだ。
何故そうしたのか理由を聞くと、何となくだと言われた。私には彼女の言葉の意味が、その時には理解出来なかったので、放っておいた。
姉が身近にいるのは心強いものだし、敢えて彼女を降ろす理由も権限もないからだ。私は、ここから見える一帯の人間の中からただ一人、
ターゲットを絞り込む為に、全力を集中した。私の能力は一瞬でこの作業を終えるほど高くはなかった。懐かしいサンドヴィル刑務所で、
ミスターを探し出そうとした時だって、私は時間が掛かった上に、見つけるより先に彼の方から現れた気がする。今回はそうは行かない。
だって、あの時のミスターと違って、今回の標的はこそこそと逃げようとしているのだから。焦りは禁物だ、と言い聞かせ、探査を続行。
メイは私の能力のことを把握してくれているので、何も言わない。集中の邪魔になるからだ。全く、彼女は、頼りになる姉なのである。
その期待に応えるべく、ターゲットの位置を割り出した。狙える距離だが、狙える位置ではない。民間人に当てることは、極力避けたい。
最悪の場合には一人二人巻き込んででも撃つことになるが、それをするくらいならメイに出動して貰い、脱出用ヘリを撃墜した方がいい。
位置を指示して、発砲を待たせる。私は伏せたままずりずりと前に体を出して、標的を追跡する。彼は極めて悠然としていた。狙われて、
尻尾を巻いて逃げ帰るところとは思えない。どころか、これから反撃に転ずる者の余裕すら感じる。何か策があるのか? 脱出時刻が、
危険な夕方であることも、そういう理由? ならばまさか敵のスナイパーが──そこまで考えた時、視界の端で、銃口炎が煌いた。叫ぶ。
「発砲!」
目の奥に衝撃。

*  *  *

僕は今になってさえも、フェブの言葉を心の奥底で反芻して、思い出していた。喜びの記憶としてではなく、重く冷たく強固な枷として。
最初には、彼女が自然に想いを失うことを願った。そうすれば僕は、例え彼女に嫌われてしまっても、今まで通りにやっていけるからだ。
彼女を愛する僕と、僕に愛される彼女。一方通行の愛情。向こうからの愛情なんてものはナシだ。誰しもが、苦痛を憎み、嫌って、忌む。
なら僕への愛は誰からも向けられたくなかった。なかったのに。なのに、フェブラリーが、僕の愛した人が、僕を愛そうとしているのだ。
いや、僕を愛していると、もう彼女は言った。思い返すのは、僕と他人の感情が、決定的に異なっているものだと気付いたある日の記憶。
あの日以来、僕は誰かを愛しても、誰かに愛されることのないように生きて来た。友達はいた。友情と愛情は違うものだと知っていた為、
僕は友達を作ることには恐怖を感じなかった。だけど、愛情だけは避けたものだ。対決するべきだったのか? 僕は自問して、天を仰ぐ。
空は赤く、哀愁を感じさせた。赤くなる理由は何だったか、ということが、ふっと頭を過ぎったが、過ぎっただけで、それはすぐ消えた。
首の角度を元に戻して、耳から流れ込んでくる無線に精神を集中させる。これは、フェブたち狙撃班が聞いているのとは別の周波数だ。
僕の他に選ばれた三人が、現状をひっきりなしに報告し、軽口を叩き、これが終わったら何をするかとか言っているのである。そんな話、
これから長距離狙撃する連中に聞かせられる訳がない。中身のないお喋りなんて聞いてると兎角気が散るし。でもそんなお喋りの合間に、
きちんと自分の仕事をやる辺りが、彼らがプロフェッショナルたる所以であろう。僕が彼らと比べてどうかとなると、アマもいいとこだ。
こんな状態で大丈夫か、自分でも分からない。任せてくれた愛する人の為に、精一杯やろうとは思うが、思いだけではどうしようもない。
メイは心配して、何ならフェブに言って変えさせようか、とまで言ってくれたが、僕が彼女と親しいからって、その特権を利用するのは、
いささか卑怯が過ぎるように思われた。僕にだって、自尊心とか矜持とか、プライドってものがあるのだ。三つともが、同じ意味だけど。
呆、としてばかりはいられない。人混みに目をやり、気を配り、祭りではしゃいで疲れたような顔をして、冷静冷徹な観察眼を働かせる。
今頃、狙撃班は何をやっているだろう。大体のところは予想が付くが、僕たちは直接は連絡が取れないので、あくまで、予想でしかない。
もしも何か言わなければならないことがあったなら、それはマーチ様に言って、彼女からフェブに伝えて貰うことになっていたのである。
じゃあマーチ様に言ってみるか。「やあ、どうです、調子は。ターゲットは見つかりましたか?」って。ターゲットって誰か知らないが。
……止めとこう。マーチ様にそんな口を利けるほど、僕は度胸がある男じゃないし、懇意にさせて貰っているって間柄でもないんだから。
それはそうと、発砲はいつだろう? 日が落ちてしまう前に救出部隊が来るから、それより早く射殺するとのことだったのに。遅くない?
思っても、他の三人の監視係が高速でお喋りしてる中に混じることも出来ず、僕は悶々としていた。あ、ヤバい、気分悪くなってきた。
吐きそうになったらどうしよう。周囲三百六十度を見渡して、公衆トイレを見つける。今の内に個室が空いてますようにと祈っておこう。
常日頃から特定の神を信じているのでもないのに、都合が悪くなったら白々しく殊勝な態度で神頼みをするのは、血の為せる業だろうか。
脳裏に浮かぶ神仏に片っ端から祈りを捧げておく。祈られた方もこんなことで力を貸せと言われたんじゃ、呆れて口も塞がらないだろう。
『発砲!』
そこに、無線から、フェブの声が飛び込んで来た。彼女、こっちの周波数にも流してくれたんだな。成功したのかどうか聞こうと思って、
待っていると、狙撃手もこっちの周波数を使って、とんでもないことをしゃべくり始めた。フェブが撃たれて死んだ、と言う。吐き気が、
倍増した。堪える。任務がある。僕には責任がある。死んだって言ったのが本当かどうか、分かったもんじゃない。狙撃手の馬鹿男が、
勘違いしただけだろう。フェブはしぶとい女の子だ。こちとら二年前の戦闘で、それを良く分かっているのだ。心配することはないさ。
フェブの声から暫くして、マーチ様の声で、敵狙撃手の逃走経路が伝えられる。僕はそれを頭の中の地図に反映させて、びっくりした。
こっちに来る! こっちと言ったって、方角的にはこっち、というレベルだ。でも、僕がその狙撃手を捕まえないと、逃げられかねない。
ナイフを確認した。そいつを使うことになるのは勘弁願いたい状況だったが、今はそういう状況なのだ。刺してでも捕らえて、連行する。
マーチ様の分析した経路で待ち伏せる。彼女が正しいとを信じるしかない。それと、敵に相棒がいないことを。二対一では勝ち目がない。
何せ僕にはナイフしかないのに、敵は拳銃を持っているかもしれないし、突撃銃や短機関銃を隠し持っていることだって、考えられる。
二十五口径でも二十二口径でもいいから、拳銃が欲しかった。飛び道具が欲しかった。ナイフを投げるのは問題にならない。避けられて、
拾われでもしたら泣くに泣けないことになるだろうし、十二姉妹隊史上最も情けない死に方をした隊員には、なりたくないじゃないか。
足音を耳にする。ここは人通りの少ない裏路地。お祭りで人は増えていても、ここを通る人は少なくなっている。現に今は皆無の状態だ。
僕はナイフを抜いた。自殺に失敗して以来、僕は命を大切にするようになった。人の命もだ。可能な限り、救いたいと思っているのだ。
なので急所を避けて相手を撃つようにしている。ナイフでも同じことが出来るといいが、出来なかったら、やはり殺すしかないだろうか。
足音が近づいて来る。カウント四、三、二、一、タックル! 当たった感触。マーチ様が逃走経路と一緒に伝えていた、狙撃手の格好。
こいつだ。こいつが、フェブを撃った男だ。倒れ込みながら僕は確信した。ナイフを握ったまま地面を転がり、立ち上がる。だが相手は、
僕よりも早かった。膝を突いて立ち上がろうとしたところ、右手首を蹴られ、刃物が何処かに飛んで行く。引き戻された足がまた襲来し、
僕の顎を蹴り上げる。身を引くのに成功したから生きているが、失敗していたら死んでいたかもしれない。けれど成功したとは言っても、
動けなくなっては無意味だった。僕は、死ぬかな、と思った。その狙撃手が拳銃を持っていることは想像に難くなかったから。だが彼は、
どんな理由があってか、僕を撃ち殺しはしなかった。遠ざかっていく足音。僕は咳き込み、うずくまりながらマーチ様に連絡し、伝えた。
狙撃手と交戦したが、逃してしまった、と。それに対する彼女の返答は、そこで待っていろ、というものだった。僕は、少し驚いた。
待っていても何にもならないではないか。それとも、僕に用事があるっていうんだろうか? それこそ驚きの新展開ってものだけれど。
僕は彼女の命令を放っといて、狙撃手が消えた方向に駆け出そうとした。と、後ろから呼び止められた。マーチ様の声だった。そうか。
彼女はすぐ傍まで来ていたのか。だから待っていろと言ったのか。腑に落ちて、驚きの新展開とか考えた自分のことを恥じながら、僕は、
狙撃手の男がどっちに行ったのかを伝えようとして片手を上げ、向けられた拳銃に目を……え。ああ……えっと……くそっ、撃たれたぞ。

*  *  *

無線が飛び交い、私はどれが正しい情報なのか分からなかった。狙撃手は狙撃の成功を伝えたが、同時にフェブの死亡を叫び立てている。
彼は動転し、こちらの呼びかけに応えようとしない。フェブが生きているなら、彼女は彼を落ち着かせ、正しい情報を口にしてくれる筈。
どういうことだ。私には彼女が死ぬことが想像出来なかった。第一、どうして死ぬのか? 誰が殺す? 狙撃手に何度も何度も詰問する。
彼は私の堪忍袋の緒が切れる直前になってから、銃口炎を見た建物を教えてくれた。そこからの逃走ルートを考慮する。大衆の中に紛れ、
特にこの祭りの観光客になりすますなら、どう進路を取るのがいいか。狙撃手はお手柄なことに、狙撃直後、スコープで敵狙撃手の姿を、
はっきりと捉えていた。その服装や概ねの身長も分かっていた。これなら、私たちは彼を捕らえることが出来るかもしれない。私はすぐ、
メイに連絡し、フェブを回収してくれるよう頼んだ。私は彼女が死んだとは思っていなかったが、メイも同感だと言ってくれ、安心する。
やはり、同じ考えを持つ者がいると違う。狙撃手が見た敵の予想される逃走経路等を、四人の監視者らに送る。送りながら、私は走った。
目指すはとしあきのところ。この喧騒の中でならば、彼を殺すことも不可能ではない。私は前々からの疑いを理由に彼を殺したと言おう。
何を言われたとしても、殺してしまえばこっちのものだ。失われた命は戻らない。たかが、間諜の疑いを掛けられた兵一人の命を理由に、
私を厳罰に処すことは出来ない。そんなことをすれば、フェブラリー隊とマーチ隊の兵士の間に、要らぬ確執を生むことになってしまう。
本当はそうでなかったとしても、としあきはスパイであったと虚偽の発表をする他、エイプリルは八方を丸く収められる手段を持たない。
嫌な計算だ、というのは認めよう。誇り高く、正統な、ギルド原初の姿からは、遠く懸け離れていると言われても、致し方がない思考だ。
それでも、守りたいものがある。その身を汚し、手を汚し、心を汚し、名を汚し、顔を汚し、私の持つもの全てを泥濘に投げ込んででも、
尚、傷つけたくないものがある。失いたくないものがある。独善だと言われることは承知の上だ。フェブが、自分の信じる愛の為に死に、
としあきが生き長らえる未来だったとしても、愛に殉ずるのであれば幸せだと言っても、私は許さない。フェブ個人の意思とは無関係に、
彼女を傷つける者を生かしておく気はない。それは例え、彼女が傷つけられたいと思っていたとしても、そうだ。そんなのは、間違いだ。
これも、歪曲された愛なのかもしれなかった。私の愛情は、酷く歪んで、捻じ曲がって、屈折して、受け入れ難くなってしまったのかも。
されど捨て難く、想いのみが募り続ける。なれば貫く以外、選択があろうか。歪んでいたとしても。私のやり方がおかしいのだとしても。
私はもう、としあきへの殺意を心奥だけに留めておこうとも思わなかった。大腿に隠した自動拳銃は、いつでも撃てる状態になっている。
目は苛立ちを湛え、さっきから、私がねめつける方向にいる人々は、一様に、私を見ようとしない。私が十二姉妹の一人だとは知るまい。
髪を下ろし、服もこういう時の為の一般的なものを着た。下は拳銃を携行する為に、長めのスカートを履いているが、これだって普通だ。
奇抜な点は一つも見当たらない。にも拘らず人は私を避ける。目は口ほどに物を言うということなのだろう。私はフェブの周波数に繋ぎ、
彼女が何か喋ってないか聞き耳を立てた。能動的な暗殺阻止行動に出て来る部隊がいても、おかしくない。夕方に脱出するような連中は、
往々にして何か企んでいるものだ。自分の命をチップにしてまで、誘き出すに値する標的とは何か? 十二姉妹に他ならないのは明瞭だ。
故に、気をつけねばならない。フェブならそのくらい、しっかり理解しているのだろうが──『発砲!』──フェブの声と雑音──何だ?
頭を振る。情けなさが押し寄せる。記憶の混濁だ。ショックが大きかったのか、フェブが撃たれたことのショックが? 落ち着けばいい。
彼女は、こんなことではびくともしない頑丈さを持ち備えている。それは私が良く知っていることだ。知っていなければならないことだ。
過去の記憶を蘇らせている間にも足は動いていたので、私はとしあきに大分接近していた。彼から通信があり、狙撃手を逃した、と言う。
逃してしまった、と。私は、やっぱりそうか、程度には思ったが、全然意外には思わなかったし、証拠だ何だと高揚することもなかった。
彼は逃してしまったのではなく、逃したのだろう。交戦した結果、ノックダウンされた、とも彼は言った。本当にそうなら殺された筈だ。
だが生きている。それは不自然の極みであった。お粗末なことだ。私は彼に失望めいたものを感じもしたが、もう、どうでも良かった。
殺すことを決めたなら、もう証拠のことは考えず、行動すればいいだけなのだ。待機しているように言う。彼は不愉快、不満そうな声で、
私の待機命令を受諾した。逃げる気か、と、焦る。諜報員には勘の良さも要されるものだ。としあきがそれを持っていないとは限らない。
エイプリルからの通信が来て、独断で行動していることへの質問をされる。私は無視して、通信を封鎖した。全員からの通信を、だ。
雑音は無視して、私は彼を殺す。何を聞き、何を答えるにしても、その後からで十分間に合う。フェブの声も、今だけは、必要ではない。
ギルドヘリのローター音がして、私は空を見た。メイ? いや、違う。救出隊のヘリだ。対象を殺害され、遺体を収容して飛び立ったか。
任務は遂行された。これで、としあきの後ろ盾はことごとく消えた。最後の仕上げをするのが、私に課せられた、たった一つだけの義務。
としあきが見えて来る。彼は私に背を向けていたが、振り向いた。彼は何を意味するのか片手を上げながらこちらを振り返り、凍りつき、
私の銃で撃たれた。掌に伝わった感触から、二発は撃っただろう。両方が命中していたらいいが、少なくとも一発は命中したようだった。
三発目を撃とうとして、がちり、と音がしただけに終わる。不発だ! としあきが逃げようとする。スライドを引いて不発の弾薬を除き、
背中に向けて引き金を引く──彼は小道に入り、曲がり角の壁を削るだけに終わった。追いかけなければならない。一発は、当てたのだ。
走る速度も落ちようし、彼はここに不慣れだろう。私も慣れている訳ではないが、私には、作戦前にフェブが作ってくれた地図があった。
追いついてみせる。私は地図を頼りに何度も近道をし、回り込もうとした。だがその度、彼はすんでのところで、私の死の鉄槌を避けて、
別の道へ逃げ込んでいくのだった。遂に私は彼を見失った。にや、と笑う。追い立ててやる。どちらが狐でどちらが猟犬か、教えてやる。
空は夕方から、夜へと変わりつつあった。

*  *  *

私が起きたのはもう夜、日付が変わる僅か前だった。身の毛もよだつような恐怖と共に、飛び上がるようにして、ヘリの中で目覚めた。
そんな私を励まし、一緒にいてくれたのがメイだ。彼女はまた、マーチが何をやったのかも、教えてくれた。としあきを、撃ったのだ。
これはとしあき本人が、通信で他の監視員たちに言ったことだそうだ。その後、無線機が壊れてしまったのか連絡は不通になってしまい、
マーチとの通信も取れないという。私も試してみたが、駄目だった。視界が狭いことに気付き、目を触る。包帯でぐるぐる巻きにされて、
窮屈なほどだった。敵の狙撃手はいい腕だったのだ。彼は(彼女かもしれないが)、私の目を撃ち抜いたのである。幸運なのは目の奥の、
装甲板が、銃弾を止めていてくれたことだ。致命傷を防いでくれたのは、それだった。文字通り生死の境にいたのか。私は今更ながらも、
途轍もない慄然に体をおののかせた。狙撃は成功したのかを聞く。帰って来たのは嬉しい答え。自分の義務を果たすことは、喜びである。
私の横にいた狙撃兵はどうしているかも訊ねた。いきなり横で十二姉妹の一人が目を撃たれれば、パニックになっても責められはしない。
彼は回収後、鎮静剤を打たれて、ヘリの助手席で休んでいるとか。良かった。敵が彼をも撃っていたら、彼は帰らぬ人となっていたろう。
メイが、マーチがとしあきを撃った理由について私に尋ねた。親友の私なら、そしてとしあきと関わりある私なら、という考えだそうだ。
それは正しい考察だった。私は、マーチがとしあきをスパイとする証拠を見つけたと言って、何度も私に忠告したことを話して聞かせた。
彼女が渡して来た『証拠』の数々も、一緒に渡した。メイはそれを見て考えていたが、やがて、マーチには理がないと、きっぱり断じた。
こちらとしては、反対証拠が早く見つかることを祈るだけだ。私はマーチが持って帰って来て、サルベージを私や他数名に任せた品から、
反対証拠が見つかることを期待していた。が、情報のサルベージは簡単ではない。それに暗号化もされている。マーチが既に解いた種の、
暗号であったなら、早く終わるだろう。上手い具合に、私に都合がいいように話が進めば、暗号鍵が一致することもありえる。だけれど、
もし種類が違っていれば二日は掛かるだろう。どんなに早くとも一日以上掛かるのは分かる。その間に、としあきがマーチに殺されれば、
何もかも無駄になる。私が恋したことも、愛したことも、愛し続けようと思ったことも、一発の鉛弾で、粉々に打ち砕かれてしまうのだ。
私は、目覚めた時より鮮烈で心を抉る恐怖と、その時対峙した。としあきの命が、失われるという恐怖。私はもう戦えないかもしれない。
彼と一緒の戦場には立てないかもしれない。彼が死ぬことを考えると、単にそれだけで、私の心は真っ二つに引き裂かれそうになるのだ。
殺させてはならない。私はマーチをハッキングすることにした。通信を回復させるのだ。彼女が無線を封鎖しても、ネットからの介入は、
彼女が無線を封鎖しただけなら、可能な筈だ。それなら、一度だけ、彼女と話せる。彼女がネットのことを思い出して私の力から逃れて、
完全に私の手が届かないところに行ってしまう前に、一度だけ。その一度を話に使わずに、強制的に機能をストップさせることも考えた。
でも、それは彼女の機能に重大な損傷を与えることになりかねない。私は、愛した人を助ける為と言って、親友を殺すつもりはなかった。
マーチも生かす。としあきも殺させない。両方の命を守りながら、誰も傷つかないように、これ以上誰も傷つかないように何とかしよう。
メイは、それは難しいことだと言ったけれど、難しくてもやらなければならないことだというのは、彼女にも私にも分かっていることだ。
多分、もう一度、メイにヘリで飛んで貰うことになる。そう言って、マーチへのハッキングを開始する。彼女が止めるとは思えなかった。
これは足止め。会話する間、彼女はとしあきを追うのを中断してくれるかもしれないという、淡い期待と、彼女と話したい私の想いが、
私に行わせること。メイが、前部の操縦席に向かって行く。彼女は私よりも立場が上なのに、私の頼みにいつも応じてくれる。嬉しくて、
ありがたくて、涙が出そうになる。いいや、泣くのは駄目だ。それはとしあきが私を愛していると言ってくれた時にでも、取っておこう。
それか、彼が私を愛していないと言った時の為に取っておくのだ。そのどちらも、私が涙を落とすのに十分な理由になってくれるだろう。
ハッキングの傍ら、街で敵の狙撃手を探している、他の兵たちの無線にも気をやっておく。もし彼らがマーチを見つけたら、私に通報し、
絶対に彼らの力で説得しようとはしないこと、としている。マーチがとしあきだけでなく、他の兵士たちまで撃とうとしないように、だ。
こんなことになってしまったのは残念だった。私は、好きな人がいて、私がその人を本当に愛しているのだというのを彼女に知って貰い、
喜んで欲しかっただけだったのに。こんなことになるなら、黙っておけば良かった。私は……私のせいなのだ。としあきが撃たれたのも、
マーチがこうして追われているのも、どれもこれも私のせいなのだ。自責の念が、胸を刺す。広い街からマーチを探すのを邪魔する感傷。
抑え込む。責めも咎も私が後で全てを背負おう。十字架を背負い、ゴルゴダの丘に上がるのは、そうだ、私だけでなくてはならないのだ。
今は、やることをやる。マーチを止め、としあきを助け、二人を揃って生きたままで連れ帰る。私のやること、私がやることとはそれだ。
マーチを見つける。思った通りだ。封鎖したのは無線だけ。これなら、彼女のハッキング対策に引っかからなければ、私は彼女と話せる。
ゲームみたいなものじゃないか。気楽にやれ。私の心の中で、何処か落ち着いた部分が、そう囁いた。そうだ、尤もな話だ。気楽にやれ。
落ち着いてやることだ。手を抜いたり気を抜いたりするんじゃなくって、リラックスしてやるってことだ。過度の緊張は失敗を招くだけ。
私はもぐもぐと口の中でそんなことを唱えながら、注意深く、彼女、マーチの防壁をかいくぐり、無線の封鎖を解いた。私の回線だけだ。
エイプリルたちのものまで解いてしまうと、私と彼女が話し合うことが出来なくなってしまう。親友マーチは、すぐには気付かなかった。
私が話しかけると、彼女はいぶかしみ、走りながら、辺りを見回した。二度目に話しかけてやっと、私が無線の封鎖を解かせたのだと、
その方法を含め合点した。彼女は、私が何か話したいことがあることを分かってくれたのだろう。喋る暇もなく再封鎖はしないでくれた。
──メイから、あなたがとしあきを撃ったと聞きましたわ……マーチ、あなた、自分が一体何をしているのか、分かってますの?
マーチは短い間、考えるように黙っていたが、私にはその時間が長いように感じられた。一秒一秒が、私には千年のように思えたのだ。
彼女は優しい口調で、しかし断固とした口調で、それと同時に、自分の誤りを認めず、いや、考えもしていない口調で、ゆっくり喋った。
──お互い、色々なことを間違えてきた……だけどその度に、片方が訂正した。今回も、それと、同じ。今回は、私がフェブを訂正する。
──自分が間違っているとは考えませんの、マーチ! いえ、あなたは明らかに間違っているんですのよ、お願いだから、今すぐ止めて。
彼女は、今度も長く黙っていた。十五秒から二十秒。マーチが私の言葉に返答するまでに掛かった時間だ。彼女はそうして、こう言った。
──……だったとしても、この男が現れる前に戻るだけ。失うのは単なる一個の命よ、フェブラリー? 躊躇われるとは、言わせないわ。
通信を切られる。ネットからの介入も、数秒して不可能になった。今やマーチは、完全な独立状態にある。止めるには、どうすればいい?
私は考えを変えることにした。としあきを保護し、その後マーチだ。としあきという脆弱な一人の男を助け出せば、マーチは何とかなる。
メイにマーチの位置を転送する。リアルタイムで更新するようにもしておいた。これでマーチのことは一旦いい。としあきを探し出そう。
彼を呼び出す手。無線は先の情報から駄目だと分かる。通じないのだから打つ手なしだ。私は黙り、精神を集中させた。耳に届く爆発音。
花火の音。私の中に閃く赤。私は、ヘリに備え付けてあるサバイバルキットを乱暴にぶちまけて、キットに収められた九ミリの拳銃を、
手に取った。十五発の九ミリ弾丸。これでは足りない。私は操縦席に行き、いつでも出発出来るよう準備しているメイに、何か銃をくれ、
と頼んだ。彼女は何に使うのかも聞かず、ごそごそと探すと、ヘリ搭乗者の護身用の短機関銃をくれた。三十発弾倉二本と一緒にだ。
彼女はそれに加え、閃光音響手榴弾も持っていた。狙撃対象の救出隊と交戦し、撤退する時、使うかもと思って、持っていたものらしい。
三本あったのを残らず貰い、花火の射出源近くに下ろしてくれるよう頼む。彼女は承諾してくれた。ヘリが浮き上がり、目的地へと動く。
私は後部に戻り、拳銃と非殺傷性手榴弾を、服の適当なところに突っ込んでおいた。短機関銃はそうも行かないので、手に持ったけれど。
数分でメイから、花火の射出源の広場へ近づいたことを告げられる。下降していくヘリ。覗き窓から下を見ると、ギルドヘリだと知った、
多くの一般市民が、何か良からぬことが起こるに相違ないと考えてか、逃げていくところだった。ハッチが開く。タラップを待たずに、
飛び降りる。着地。勘の鈍い連中や見ていなかった人々が、まだ残っている。安堵した。彼らがいなければ、持って来た銃が無駄になる。
私はずんずんと花火を上げている最中のところに近づいていき、制止する関係者に短機関銃を向けた。髪の毛一房を、撃ち飛ばしてやる。
そして、私は手榴弾三つのピンを抜き、適当に投げ飛ばした。三秒後には、人々は叫び慌しく逃げ出していた。これで人払いは済んだ。
ヘリから持ち出していた信号弾を宙に向けて、発射用の紐を引く。赤い、思い出の中に鮮明にその色を残す、あの光が、空高く上がった。
一発では気付かないかもしれないので、私は、持ってきた信号弾を一つも余さず撃ち尽くす気だった。二本目に手を伸ばしたところで、
メイから通信が入る。予想外のものだった。燃料が危険だ、と言う。母艦に帰って給油しなければならない、と。私はそれを渋ったが、
現実問題、燃料がなければどうしようもないのは、動かせぬ事実なのだ。すぐに帰って来る、とメイは言って、母艦の方へ消えていった。
マーチは、この広場から相当離れた場所にいる。としあきが彼女より私に近ければいいが。マーチが気付かなければいいが。望みは薄い。
誰もいなくなったこの場所で、私は祈った。神ではない何かに。二人の間にあると信じる愛情に。としあき。どうか、お願い。気付いて。

*  *  *

血の出方からすると、芳しくない状況なのは見えていた。走る体力も、今は殆どないに等しい。祭りのせいか、無用心にも鍵を掛けずに、
そのまま放置されたビルの中で、僕はぐったりとしていた。窓から外の景色を眺めるのはそれ以外に見るものがないからで、マーチ様や、
ヘリに乗ったフェブかメイが現れることを考えてではない。止血には成功したが、それまでにヤバいくらいの量を取られた。マーチ様に、
追いかけられて、走り回ったのも良くなかった。傷口が裂けて、広がったのだ。このビルに薬局があって良かった。それがなかったなら、
僕は圧迫式止血法だけで乗り切らなくっちゃならなかったところだったんだから。そうすると、僕は今頃失血死しているか、でなくとも、
今よりもっとマズい体調になっていただろう。今だって死ぬ手前なんだけど、不思議と、そんなことはどうでもいいような気がしている。
むしろ殺されるべきなのだろうとも思う。僕が僕の幸福を追い求めるのならば、フェブラリーに愛されない為に、死ぬのが手っ取り早い。
でも、僕は自分の喉笛を自分で掻っ切ることが出来るほど、勇敢ではなかった。それを勇敢と形容するのが正しいかどうかは置いといて。
無線の周波数を変えて、フェブや他の連中の無線電波を傍受しようとするが、駄目だ。発信機能だけでなく、受信機能も壊れてしまった。
降れば土砂降り、ってことだろう。悪いことは重なるものだ。僕がこうやってくたばりかけているのも、悪いことと考えられなくもない。
ああ、くそっ。僕はそう呟いた。喉奥から何かが上がって来る。飲み下さずに吐き出す。血の塊かと思ったが、良く分からない塊だった。
取り敢えず、まじまじと見つめる必要があるものじゃないだろう。僕はそいつから目を逸らした。見ていて気分の良くなるものじゃない。
マーチ様が僕を撃った理由が分からなかった。撃たれるようなことをしたのか? 敵の狙撃手を逃がしたことで、撃たれたのだろうか?
そこまでする必要性を感じられない。よって、違うだろう、と結論する。マーチ様が何をするにせよ、彼女なりに理由と動機がある筈だ。
彼女はああ見えて、秩序と論理を求めるタイプの性格をしている。度々、その秩序と論理は、彼女以外の者には理解されないが、しかし、
マーチ様なりにルールを持ってるのは分かる。ああいう人が動く時は、それなりの事情があるのだ。だから彼女が殺しに掛かってきたら、
理屈の上では、素直に殺されてやれば良いのである。とはいえ、僕も一人の人間だ。死にたくはない。もっと言うと、殺されたくはない。
せめて殺される理由ぐらい瞭然な状態にしてから、殺して欲しい。今みたく、何だか訳が分からない内に射殺されそうになるのは御免だ。
疑問が心を駆け巡る。僕が何をしたというのか。フェブと仲がいいのが気に食わないから殺そうとかじゃないだろうな。僕はあくまで、
他人事のようにそう考えた。撃たれて死にそうになっている自分というのが、どうしても、現実視出来なかったのである。映画みたいだ。
映画なら、自分の頭を撃つんだろうが、僕は拳銃を持っていないし、ナイフも落とした。ガラス窓を割って、即席ナイフを作るしかない。
痛みが体を走って、無意味な思考を止める。出血は止まったが、痛みは止まらない。身じろぎするだけで、杭を打ち込まれたような痛み、
想像を絶する刺激が、僕のか細い神経を焼灼するのである。意思の力のお陰で叫び出さずにいるが、それが尽きれば僕は泣き叫ぶだろう。
痛い。こんなに痛いのは三年前に撃たれた時以来だ。その時は、左手の小指と薬指が付け根からなくなるところだった。最新の医学は、
僕の指を元通りくっつけてくれたが、激痛の記憶は覚えている。ロクなことを思い出さないものだ。自分の愚かさに呆れ果て、少し嘆く。
楽しい記憶も嬉しい記憶も、一つとして出て来ない。出て来るのはどれもこれも、僕が死に掛けたか、痛い目にあった記憶ばっかりだ。
再び、空を眺める。花火が上がっている。青、緑、黄、明るい紫色という変り種も、黒い空の中で光輝を放っていた。綺麗だ。突然に、
そんな言葉が胸に浮かんだ。死ぬ死なないの瀬戸際で考えることにしては、気が利いているように思えて、楽しくなる。消える光に、
自分の命のことを重ね合わせでもしたのだろうか。僕の命に光なんてあるとすれば、そいつは絶対に、ドブみたいな色してると思うけど。
上官に撃たれて死にそうになってる時点で、明るく輝くことは期待出来ない。いっそ真っ暗だ。光りなんてしてないんじゃないだろうか。
朧げになる意識を、取り戻す。僕に色々な知識を教えてくれた衛生兵が言っていた。意識の有無で負傷者の生還率は大きく変わるんだと。
僕は彼の言葉を丸ごと信じることにしていた。彼が間違っていたことは今のところなかったからだ。なので、意識を手放す訳にはいかず、
傷口付近をちょんとつついて、僕は何とか人事不省にならずに済んでいた。傷口付近をつつくのは、効果覿面なのだ。まあ下手をすると、
傷口が開いてしまって死ぬことになったり、痛すぎて気絶してしまうことも有り得るが、背に腹は変えられないと言ったところだった。
ヘリのローター音が聞こえた気がして、体勢を変え、窓から顔を出して、空を探してみる。ギルドヘリのローター音だった、と思う。
幻聴かもしれないから、それ以上動くのは止めておいた。止血に使った薬品に幻覚作用があったのかも。疲労のせい、という説もある。
これからどうしよう。僕はぼんやり考えた。死なないと仮定して、人が来るまで耐えるか、自分から移動するか。ここにいる限りは、
マーチ様に見つかることはまずないと言える。だが僕が死ぬ前に人が来るかどうか、それが分からない。自分から移動すれば或いは、
死ぬより早く助けて貰えるかもしれない。でも、マーチ様に出くわせば、その時点でゲームオーバー、デッドエンドを迎えることになる。
素直に認めるなら、どう転んでもデッドエンドしかなさそうだった。ここでゆっくり死ぬか、マーチ様に会ってあっさり死ぬかの違いだ。
どっちもどっちなら、長生き出来る方を選んでしまうのが、僕という人の悲しい性だった。誰も責めはしないと思うけれど、無様だった。
でも、僕というその無様な生き物が、無様でなくなる瞬間が、その時、訪れた。何故か止まっていた花火の代わりに、あの赤い忘れ難い、
信号弾が打ち上げられたのだ。僕は、傷口の痛みも、疲労も倦怠も忘れ果てて、窓に飛びついた。一発だけじゃ駄目だ。確信出来ない。
どうか二発目を、三発目を、四発目を、撃ってくれ。僕はそう願い、願いは叶った。僕は幻覚ではないと決め付けた。幻覚じゃない方が、
僕の心に優しいからだ。僕はすっかり、マーチ様に会って死んでもいい気持ちになっていた。最後にフェブに会えるかもしれないという、
不確かな可能性でさえ、マーチ様によってもたらされる確実な死を軽んじるに足りた。僕は足を引きずりながら最初歩いたが、じきに、
そんなのろのろ歩くのが我慢ならなくなり、走るとまでは行かないにしろ、早歩きぐらいの速度で歩きだした。傷口は痛かったけれど、
フェブに会うことと、自分の命の長さのことを考えると、足はどんどん速められていくのだった。フェブ、フェブ、僕の唯一の愛しい人。
願わくばもう一目だけ、その姿を目にすることを許されたい。フェブラリー。彼女の姿が、瞼の裏に浮かぶ。胸が、締め付けられる。
歩行と走行の中間の速度で移動する僕の足元には、血のラインが付いている。周りを歩く人々は、それを見てぎょっとする。仕方ない。
僕だっていきなりそんな男が現れたら、びっくりして距離を取ろうと思うだろう。警察に通報されても何処にも言って行くところがない。
向こう側、僕が目指す側から走って来る人の量が増えるにつれ、僕はフェブに近づくのを感じた。彼女は乱暴な人払いをやったんだろう。
だから軽度のパニックに陥った群集が走って来る。僕にタックルかまして去っていくのは止めて欲しいが、フェブに近づいているのなら、
その証であるなら、僕は耐えられる。確実に僕は近づいているのだ。マーチ様が先に到着していたら、と思うと足が鈍りそうになるけど、
フェブに会った後は考えていないんだし、マーチ様に殺されるのもアリなんだから、困ることはないだろう。問題はマーチ様が、僕を、
一切フェブと話させたりせずに撃ち殺すんじゃないか、ってことだ。どうせ会ったんだから一つ二つの話をしてもいいだろうと思うが、
マーチ様は問答無用で撃って来そうだ。撃たなかったらそれは弾切れか、また装填不良をおこしたかのどちらかではないかと推測する。
広場が見えてきた。フェブの姿は見えない。何の姿も見えない。マーチ様の姿も。ああ……あれはやっぱり、僕の幻覚だったのか?
僕は失望を味わい、立ち尽くした。倒れなかったのではなく、倒れることも出来なかったのだ。でも失望は僕にはちょっと早かった。
後ろから声が掛かる。マーチ様に撃たれた時と同じように。だが声はマーチ様のものではなかった。フェブ! 僕は振り返ろうとして、
体勢を崩した。足から力が抜ける。フェブが咄嗟に支えてくれなかったら、僕は地面とハグしてただろう。彼女の顔が近くにある。
吐息が──僕の吐息も、彼女のも──お互いの顔に掛かる距離だ。僕は彼女と会う時には、笑っていることを自分に義務付けていた。
にっこり笑う。血みどろの笑みだろう。ハンカチを使えばいいものを、持っていないのか、フェブは服の袖で僕の顔を何度もこすった。
あんまり強くこするので、何度も擦られた鼻の頭が痛くなるぐらいだった。フェブの白かった袖を見て、げんなりする。乾いた血の赤。
汚してしまって申し訳なかった。僕は喋ろうとしたが、言葉が出なかった。なんて言えばいいのか分からなかった。だからもう一回、
出来るだけ綺麗に笑った。フェブも笑った。それを見て、僕の体から力が抜ける。フェブに会いたい一心で動いていた体だったので、
それが叶った以上は、糸が切れた操り人形のようになるしかなかったのだ。フェブが、ぎゅっと抱きしめて支えていてくれるから、
僕は立っていられた。僕は彼女の体温を体に感じたが、僕の血の温かさですぐに分からなくなってしまった。だが力強いその両腕が、
僕を抱きしめてくれている。抱きしめられるのは、初めての体験だった。そうだ、二十年以上生きて来た中で、初めての体験だった。
「答えを聞きに来ましたわ、としあき」
抱きしめたまま、首をもたげることによって顔をこちらに向けて、彼女は言った。僕は情けなくも、惚けたような顔をしていた。
彼女が初めて僕を「としあき」と、そう呼んだのは、いつのことだったか。「としあきさん」ではなくて、「としあき」と呼んだ日だ。
告白の日だったと思う。その日が遠く思えた。僕は答えを出さなければならないのだ。彼女を傷つける答えになるとしても、それをだ。
僕は口を開こうとした。何を言うべきか、分かっていた。フェブは僕の目を見て、唇に右手の人差し指をそっと置いた。それだけで、
僕の唇は、彼女の短い魔法のステッキで、即座に石にされたように、動かなくなってしまった。彼女は次に、僕の瞼を下ろさせた。
闇。暗闇。フェブの匂い、体に伝わる体温と、背中と脇と胸に伝わる不明確な感触が、僕の全て。そこに、もう一つの感触が加わった。
石化された唇が、途端瑞々しさを取り戻した。それは瞬間の出来事だった。だが瞬間のまま終わる出来事ではなかった。それは続いた。
フェブの上唇と下唇は、今、僕のそれと組み合わされていた。僕は何が起こっているのかを知っていたが、理解してはいなかった。
二人の唇が離れそうになる。フェブの息が顎をくすぐる。伝えたい言葉が漏れる。「愛している」と、フェブラリーが言った……ああ。
そうだ。「愛している」と。僕の体が硬直し、強張り、心臓が脈打ち、総毛立つ。恐怖が満ちた。他者の愛。それは僕にとって──。
「としあき……としあき」
二度、名を呼ばれる。切なげに、嬉しそうに、悲しそうに、僕の感じたことのない、何か温かいものを内包した声。そんな声で僕の名、
僕なんかの名が呼ばれることが、信じられなかった。僕はフェブにされるがままになっていた。フェブはそうは言わなかったけれども、
その行為は言っていた。怖がらないで、と。彼女が僕を大切にしてくれていることを、その行為が、言葉が、彼女の体が持つ温かさが、
僕の体の、全てに伝わり、凍りついた全てのものを、緩やかに溶解させていくのだった。氷づけの僕が、消えていく。僕は……彼女の、
フェブラリーの、温かさで、融けていく。過去の記憶も。恐怖も。彼女の中に。吐息が、合わせられた唇の狭間から、自然に漏れた。
僕は、何を考えていたんだろう。これはなんだ。他人の愛が恐怖であるというのなら、これはなんだというのだ。この温かさはなんだ。
この安堵はなんだ。この安楽はなんだ。この安心はなんだ。この平穏は、この平安は、この平和は、なんだ。僕は何を考えていたんだ。
何なんだ……僕が愛している、と誰かに言い、その誰かにキス出来るなら、その誰かが僕に愛していると言い、僕にキスするのだって、
あってもおかしくないことじゃないか。僕は。僕は、一体何を。そんな簡単なことに気付きもしないで。こんな、ただの馬鹿みたいに。
今、僕は、他者の愛を信じることが出来た。真実の愛だ。誰かを傷つけることがない、誰かを癒す為の、誰かの平和の為にある想いだ。
そうだ。そうなのだ。少なくとも、僕の愛とフェブラリーの愛とは同じ形をしているのだ。僕は愛しい人と愛し合うことが出来るのだ。
長い長い口づけが、終わろうとしていた。彼女は愛していると僕に言ってくれた。僕は、言わなかった。今だって、されるだけだった。
だから僕は待たせた分だけ大声で、彼女に言わなくてはならないのだ。愛しい人。僕を救ってくれた、本当の女神。その人の名は──。
フェブラリー。僕は言ったと思った。愛していると続けようとした。この二つは、大声で言うべきところだった。愛の告白は情熱的に。
それが不変のトレンドというものだからだ。繰り返そう。僕は言ったと思った。出て来たものはなかった。僕の声は声にならなかった。
原因は、フェブラリーが僕を強く締め付け過ぎて、肺を圧迫してしまったから、じゃない。メイがヘリでやって来た時のローター音が、
僕の声を抹消してしまったから、じゃない。マーチ様が、僕の名前を殺意の宿った震え上がりそうな大声で叫び立てたから、じゃない。
とても簡単なことだ。僕は限界だった。血が流れ過ぎていた。止血は不十分だった。僕は人が失っても生命維持に支障ない血液の量を、
上回る量の血液を、失いつつあった。着陸したヘリから、衛生兵が走ってやって来る。ずるりとフェブの腕から抜け落ちた僕の肉体を、
彼が叩く。酷い奴だ、と思った。目が合う。そいつは僕に、笑っていることと、意識を失わないことの大切さを教えてくれた男だった。
やれやれ。だけど、今回ばかりは、僕は寝る。大体、フェブに付き合わされて不足していた睡眠を、まだ取り戻しちゃいないんだから。
それくらいは、鑑みて貰ったっていい筈だ。

*  *  *

「サルベージ班がスパイ潜入計画の凍結指示命令を発掘したんだって? 後、としあきの履歴書もより正確に差し換わったんだってな。
 エイプリルの指示で、部隊内での感情に配慮して、諜報部隊出身だってことを隠してんだ、って聞いたが……なあ、どう思う、え?」
「……」
「諜報部隊の指揮官も、元からあの日にはいない予定だったそうじゃないか。偶然ってのは怖いものだな、いやあ、怖い怖い」
「……」
「九ミリって正直豆鉄砲な気がするだろ。知ってるか? 人間って九ミリで撃ったらな、死ぬんだと。二十二口径でもそうなんだとさ」
「……」
「想像力ってのは人が授かった最高の武器、とか昔からそんな感じのこと言うけど、武器ってのはやたら振り回しちゃいけないんだぜ」
「……」
「どうせお前、お母様がいた頃も、ああいうことやって気を惹こうとしてたんだろ?」
「……」
「そうそう、フェブの目を撃ち抜いた狙撃手が捕まった時のボディチェックの結果聞いたか? ナイフ一本持ってなかったんだよ。
 としあきが殺されずに済んだ理由も分かるよなー?」
「……」
「何か言えよホラ。いつもは反論してくるのに、今日は随分殊勝な態度取ってるのはどうしてかなー?」
「──いや、あのさぁ、メイ。やめてよ、そういうの。僕の心が痛んで辛くって仕方ないよ」
僕はいたたまれなくなって、遂に口を挟んだ。マーチ様に絡んでいた彼女が、こちらを向く。不満そうだが、いい加減勘弁して欲しい。
どう見てもイジメのレベルに達している。それをまた、マーチ様が律儀にも言い返さないで全部受け止めているのが、心配でならない。
フェブの腕の中で倒れた後、僕はメイが連れて来た衛生兵たちの応急手当と輸血、艦に戻っての緊急手術により、命までは落とさずに、
まあそれはつまり別のものが落ちた訳だが、済んだ。代わりに落ちたのは僕の部隊内での評判と、給料である。隊内のいざこざで、
緊急手術や輸血などをするような結果になったので、その治療費を給料からちょっとずつ引くらしい。マーチ様他十二姉妹の面々は、
給料を貰うということがないので、彼女たちには経済面でのお咎めはなかった。マーチ様は、一定期間の自室謹慎を命じられた。
それも僕が医務室で日々を送っている内、昨日の夜のことだが、解除が下達され、翌日こうして彼女とメイは、僕のところに来た訳だ。
メイは前から何度も何度も来ては仕事してるんだろうなと心配になるほど長い間騒いでいたが、マーチ様が来るのは、初めてだった。
自然、僕も緊張する。何せ、僕をスパイと疑い、拳銃弾を撃ち込みまでした相手に、どんな態度を取ればいいのか、僕にはさっぱりだ。
僕の友達にも、そんな奇特な経験をした奴らはいなかった。自分を殺しかけた相手への接し方を聞くと、彼らは百倍にしてやり返せ、
とかそんなことばかり言うのだ。マーチ様相手にやり返そうとするなら、僕もサイボーグか何かになる必要があるだろう。なっても、
勝てないだろうけど。僕はホントとんでもない人を真っ向から敵に回していたんだなあ、と思う今日この頃でもある。殺されなくって、
何よりであるとしか言いようがない。ここは怒ったり喚いたり責め立てたりするところなのかもしれないが、僕はそうとしか思わない。
生きてて良かった。愛しい人と愛し合える生活を手に入れたんだから。彼女は僕を後方勤務にさせようと手を回しているようだけれど、
僕は最前線から消える気はない。愛しい女性を守って、戦うことが出来るのだ。男として最高の喜びであるのは疑いない。反論は却下。
横にいるその人に目配せをする。彼女は微笑む。キスは二人だけの時が訪れるまでお預けだ。僕らは二人とも、恥ずかしがり屋だから。
……昔、男がいた。その男は、自分の持つ愛情は他者の持つ愛情とは違い、他者の愛情とは征服欲と暴力であるという結論に行き着き、
それはそれでそれなりに満足して受け止めていた。だが、その考えに到るまでの過程には問題があった。大体からしておかしなことに、
その男は真実愛されたことなど一度もなかったのである。それにも関わらず愛というものを定義しようと試みてしまったことは、男が、
男の脆弱な、愛されずにいることに耐えられない精神が、愛を故意に誤解させた故の悲劇だった。またその悲劇の誕生の理由には、
彼に深く関わった相手が、彼の家族以外にいなかったという点にもあった。家族以外の人々が深く関わらないでいる中、男は、家族が、
自分に向ける感情や行為こそ、愛情に他ならぬと思うしかなかったのである。そうでなければ彼は、少年にして狂人となり果てて、
その生を監獄で送ったであろう。しかし彼は今や、満ち足りていた。そう、僕は、愛しい人を見つけ、真実の愛を知り、満足していた。
「そう言えば、まだ『愛してる』と言って貰ってませんわね、としあき?」
「お、もしかしてこれは、初物が聞ける、ってことか? 言わないなんて口が裂けても言わないよな、としあき」
僕は余裕を持って言い返せた。愛する人に愛していると言うのが、どうして恥ずかしいことであるだろうか。キスする訳じゃなし。
「勿論、言うとも……愛してるよ」
僕の愛しい人。その人の名は──。
「フェブラリー!」

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最終更新:2010年03月09日 07:59