ル・マン24時間耐久レース 決勝
[初] Part1(386)
P.ルヴェー ***死亡事故***
6月11日の午後4時、レースはスタート。
J.マニュエル・ファンジオ (Mercedes-Benz・300SLR) と M.ホーソン (Juger・D-Type)は激しく渡り合い、両者は互角であった。
事故は夕刻6時28分頃に起きた。
この時点でリードする、M.ホーソンをJ.マニュエル・ファンジオが猛追していた。
M.ホーソンは、前を走る周回遅れの L.マクリン(オースティン・ヒーリー)を追い抜いた直後に、ピットに戻ろうと急減速、前をブロックされた L.マクリンは、事故を避けようと左へステアリングを切る。
そこへP.ルヴェーの 300SLR が通りかかった。
P.ルヴェーの 300SLR は、L.マクリンのヒーリーをカタパルトのようにして舞い上がり、グランドスタンド側壁に衝突した。
車体は分解し炎上、衝撃でエンジンとサスペンションがそのままの勢いで観客席に飛び込んだ。
この事故でP.ルヴェーは即死、観客81名が犠牲になった。
P.ルヴェーは直前に、後続のファンジオに手で信号を送り事故を知らせた為に、ファンジオは無事に事態を避けて事なきを得ている。
大事故にも関わらずレースは続けられた。
その後、300SLRはトップに立つが、事故発生の7時間後にメルセデス・レース監督(アルフレート・ノイバウアー)はチームを撤退させた。
皮肉にも、優勝は大惨事のきっかけとなったM.ホーソン (Juger・D-Type) であった。
メルセデスは1955年シーズン終了以降、30年以上に渡りレースの場から姿を消した。
スイスでは今もなおレースそのものが禁止されている。
M.ホーソンは事故後に取り調べを受けているが、責任なしとされている。
彼は、F1を引退した翌年の1959年1月、特別製のジャガー3.4サルーンでの公道走行中に、事故死した。
最終更新:2009年05月06日 15:13