サッコ・ヴァンゼッティ事件

英語:Sacco and Vanzetti

アメリカで発生した未解決強盗事件。

時系列

1919年12月24日

マサチューセッツ州プリマス郡ブリッジウォーターで、L.Q.ホワイト製靴会社の従業員の給料を積載した現金輸送車が銀行から会社に向かう途中で強盗犯グループの襲撃を受ける。この事件では、強盗犯は輸送車への発砲後に自動車で逃走し、死傷者を出すことなく強盗は未遂に終わった。

1920年04月15日

マサチューセッツ州ノーフォーク郡サウス・ブレイントリーで、スレーター・アンド・モリル製靴会社の従業員の給料を輸送中の車が襲撃された。この事件で会計係のフレデリック・A・パーメンターと警備員のアレクサンドロ・ベラルデリが強盗犯により銃殺された。

1920年04月17日

サウス・ブレイントリーでの事件の目撃者から強盗犯グループが使用したとされる車の車種が特定された。同日、ウエストブリッジウォーターに近い森林から乗り捨てられた同種の車両が発見された(車両は1919年12月22日にニーダムで盗まれた車両)。警察は発見された車両を逃走車両と認定した。

1920年05月05日

容疑者として、製靴工場の職だったフェルディナンド・ニコラ・サッコと魚屋の商人であるバルトロメオ・ヴァンゼッティが逮捕された。彼らはどちらもイタリア系アメリカ人で、アナーキストだった。

1920年06月11日

ヴァンゼッティが起訴される。

1920年06月22日

ブリッジウォーターでの事件の裁判がプリマスで行われる。この裁判で、事件当時トラックに乗っていた会社の護衛と護衛、通りがかった自動車修理工場の従業員三名による証言が行われたが、事件翌日にピンカートン探偵事務所で行われた事情聴取の内容と齟齬が生じていた。この食い違いについて、検察側は証人たちが英語を殆ど理解できなかったことで「信憑性に欠ける」と判断した。

1920年08月16日

ヴァンゼッティが12~15年の不定期懲役刑を言い渡される。

1920年09月11日

サッコとヴァンゼッティの両名がサウス・ブレイントリーでの事件の容疑で起訴される。

1921年05月31日

マサチューセッツ州デッダムで裁判が開かれた。そこでの供述にもまた多数の証言の齟齬が確認された。剣士の結果ベラルデリに致命傷を負わせた弾がサッコの所有していた拳銃と同タイプのものであったため、検察と鑑定人が共謀しサッコに訊問を行った。この時点で両名にはアリバイがあることが確認されていたがそれらは無視され、アナーキストであるという人物像と証拠によって検察に犯人に仕立て上げられる。

1921年07月14日

サッコは主犯、ヴァンゼッティは共犯であるとされ両名に死刑判決が言い渡される。

1924年10月

デッダムでの裁判に疑問を抱いた弁護団らが検察官及び陪審員長の偏見による不当な判決を改めるべく、証人の偽証や鑑定人の供述書に基づき裁判のやり直しを求めるも、セイヤー裁判官により却下される。

1925年11月18日

銀行強盗の殺人容疑で逮捕されていたセレスティーノ・F・マデイロスがサウス・ブレイントリーでの事件に関与していたことを認める。弁護団はマデイロスの供述をもとに新たな証拠をつかみ、再度裁判のやり直しを求めるも再びセイヤー裁判官により却下される。

1927年04月09日

セイヤー裁判官により、サッコとヴァンゼッティ両名に同年7月に死刑を執行すると言い渡される。これに対し、アメリカのみならず世界各国から、この裁判の結果について州知事のアルヴァン・T・フラーのもとに要請文が殺到する。

1927年06月01日

死刑執行日が08月10日に延期されたことを受け、フラーが諮問委員会を設置し調査を始める。

1927年08月03日

フラーが委員会の報告を受け、裁判の公正性と死刑判決が妥当であると支持する立場を表明し、請願を拒否した。このころからこの事件に対し、世界各地で爆弾騒動や同情ストが展開された。日本でも関東黒色青年連盟や関東労働組合自由連合会等が加盟している国際弾圧防衛委員会によって演説会が行われる予定だったが、警察の解散命令を受け反発した関東黒色青年連盟のメンバーが20名以上拘束された。これらの影響からフラーは死刑の執行日を08月22日に延期する発表をするも、活動は更に過激化していった。

1927年08月22日

数千人にわたるドイツの民衆が死刑に対する抗議活動を行い、警察と衝突した。ジュネーブでも5000人以上の市民がアメリカ人経営の店を襲うなど抗議活動を行った。抗議活動にはアインシュタインなどの著名人も参加していた。

1927年08月23日

サッコ、ヴァンゼッティらが電気椅子により死刑に処される。

補足

当時の「赤狩り」が盛んだったという時代背景もあり発生した冤罪事件。
1959年04月にボストンの司法委員会が再審請求を取り上げ、無罪が立証された。
1977年07月19日、マサチューセッツ州知事により事件に関する一連の裁判が公正でなかったことを認める宣言を出した。

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最終更新:2021年10月07日 15:46