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本サイトは、閉鎖中。削除もしくは移転します

本Wikiを運営する会社において、原因は不明ですが、言論、表現の自由が保証が出来なくなっている様なので移転先がみつかるまで、表示できなくします。

記録の自由と言論・表現の自由が、本サイト維持の唯一の条件。


本Wikiと似た内容を扱っているサイトでは、一部を削除して運営を続行しているサイトもあるようですが、本Wikiを運営する会社からは、どの部分が問題かの指摘すら無いので対応できません。このWiki、日記全ての記事に対してイチャモンは付けられます。その場合、確かにそう言う考え方もありますが、もう少し言論・表現の自由を尊重する気は無いのですか?以上の回答はできません。その上で、あなたの記事は、規約違反なので掲載できませんとなれば移転しか手はありません(調べた限りでは、規約違反の警告も説明もすらなく、いきなりアカウント停止され、バックアップも取れなくしたのです。)果たして、表現にたいして恣意的運用をする国や会社を信用する事ができるでしょうか?

日韓問題(歴史、政治、文化)と言う、非常にセンシティブな問題は、サヨクの極楽デモと違って、昔から恣意的な圧力に悩んでいます。圧力が少ない時期もあるしキツい時期もある。ここ最近はかなりキツいです。恣意的な圧力の大元は、、韓国政府だったり、人権団体であったり、朝日、毎日、神奈川新聞であったり、9条団体だったり、日本共産党だったりと・・・いろいろ変わりますしね。

※嫌韓流の時代に左派系出版社から露骨に圧力かけられた事があったなぁ。

以前このwikiはlivedoor wikiを利用していましたが、新たに親会社になったNAVERが韓国企業であるがゆえに予測しうる韓国政府からの圧力による曲筆は避けたいと言う判断により移転しています。実際にNAVERのサービスであるBLOGOSから右派ブロガーの記事が削除される事態が起きていますし、過去にはNAVERの運営するEnjoyKoreaが李明博による圧力により閉鎖されたと噂されています。

しかも産経新聞ソウル支局長軟禁事件に至っては、サービスが日本国内にあり日本語で日本人に向けたサービスで逮捕されています。このサイトは全く安全ではないのです。ある程度の資金力と影響力のある団体であればそこで活動することも出来ましょうが、資金も影響力もない個人の場合、ネット上で曲筆するぐらいならネットからアクセス出来ない紙と鉛筆で対抗するのも手段の一つだと考えます。

本サイトの目的は、あくまでも記録とその解説をする事なので、後世に伝える方法が何かしらあればそれで良いのです。ただ、それを保存する方法でのトラブルは好みません。広めて貰うのではなくバックアップを取って貰うのが本Wikiで記事を公開してきた目的ですので。

言論弾圧は、ジェノサイドの最短距離にある


ありとあらゆる記録を蓄積する事で、どうやってその思想・思考に至ったかを考える事で問題解決をはかるべきであり、頭ごなしに思想を弾圧し、言葉狩りを続けても再びヒトラーの様な扇動政治家がやってくる事態が発生するだけで、結局何も変わらないと思います。ヨーロッパにおけるユダヤ人に対する偏見が、古代ローマ時代から全く解決していないのもその証拠でしょう。

なぜなら異教、邪教、政府の都合が悪いと言った目的で焚書し、記録が残って居ない時代の歴史は偽造し放題ですもの。

韓国政府は、済州島4・3事件や光州事件をそうしておこしましたし、日本のサヨクは戦後のテロリズムを隠蔽しようとしています。どちらも世界平和の敵にすぎません。

連絡先などを隠しているのは、別件ですが、実際にハラスメント受けているからです。オフ会の待ち合わせ場所をわざわざ調べて、乗り込んできて拉致されかけたとかそんな経験がいくつかあります。インターネットが普及する以前の時代に1件。他にもあったかな?ネットで出来うる事は、ほぼ無制限にやっていた事があるけど、どのジャンルでもそう言うことは起きます。言論関係が一番ひどいけど。

まぁ水車だけは残すか

水車


亀山殿の御池に大井川の水をまかせられんとて、大井の土民に仰せて、水車を作らせられけり。多くの銭を給ひて、数日に営み出だして、掛けたりけるに、大方廻らざりければ、とかく直しけれども、終に廻らで、いたずらに立てりけり。

さて、宇治の里人を召して、こしらへさせられければ、やすらかに結ひて参らせたりけるが、思ふやうに廻りて、水を汲み入るる事めでたかりけり。

万に、その道を知れる者は、やんごとなきものなり。

徒然草 第五十一段
日本(1255)

※亀山殿(後嵯峨上皇)が、庭の池に水引き込むために、大井の住民に水車を作らせたがうまくいかないので、宇治より職人を呼び寄せたら、見事に動いた。やはり餅は餅屋である。と言う内容

水車を何百年もかけて結局、普及出来なかった国のお話。
農業技術は中国と日本から何度も移入しているのだがいつまでたっても追いつかなかった。

※皆様にお詫びしなければならないことがあります。何百年は間違いでした。
※1000年です。高麗時代も水車の導入に失敗していた。
1342 恭愍王11年 白文宝の上奏「江南の人民が農事に水旱の心配をしないのは水車の働きによる。(以下略)」→ 黙殺

1429 世宗11年12月3日 日本の水車が凄いと報告。
1430 世宗12年9月27日 水車を造ろうとする
1431 世宗13年5月17日 中国も日本も水車の利を得ているが我が国(朝鮮)にはそれがない。
1431 世宗13年11月18日 日本と中国の水車の研究の記述がちらほら。
1431 世宗13年12月25日 水車導入を試みる。
1451 文宗元年11月18日 どうやら水車の導入に失敗。
1488 成宗19年6月24年 水車導入の試みがあります(そして音沙汰無し・・・。)
1502 燕山君8年3月4日 水車導入の試みが書かれています(そして音沙汰無し・・・。)
1546 明宗元年2月1日 水車導入の試みが書かれています。琉球(沖縄)と中国で教わった福建式の水車の様です。
 ここから100年間水車の記述が有りません。消滅したようです。
1607 第一次朝鮮通信使の記録『海槎録』に日本の水車の記録あり、後の通信使の記録にもたびたび出てくる
1650 孝宗元年5月15日 水車導入の試み
 そして30年記述無し。
1679 肅宗5年3月3日 水車を造らせたと記述。 そして70年記述無し。
1740 英祖16年4月5日 水車など無くなりました。『孝宗大王嘗頒遼瀋水車之制於外方, 今無見存者』
1740 英祖16年11月20日 また水車を造らせたと記述。一向に普及する様子が有りません。
1764 1763-1764年 の朝鮮通信使の「日東壮遊歌」に(淀城の水汲み水車の感想)「その仕組みの巧妙さ見習って作りたいくらいだ」と記述有り。
1795 正祖19年2月18日 水車之制について盛んに出てくる。普及している感じはしない。
1811 純祖11年3月30日 ここの記述でも水車が居るのか?と書かれており全く普及していない事が書かれている。
後は記述がない・・・。

あった・・・導入されていない記録が
1881 朝鮮から日本に派遣された「紳士遊覧団」が「日東壮遊歌」とほぼ同じ水車を視察している記録あり

''1908 日本による灌水車の導入''

によってようやく朝鮮に水車が普及します(人力で動かす足踏み水車なるものがあったようですが、これも江戸時代中期の新田開発で水回りの悪い土地に水を流すために発明されたモノみたい。)
http://www.tobunken-archives.jp/DigitalArchives/record/5897543D-2790-2603-54C0-4D4E95C523FD.html

※補足、イザベラ・バードの「朝鮮紀行」には粉挽き水車が出てきています(19世紀末)、しかし、イザベラ・バードの時代(開化期)と言うと既に、中国人や日本人が釜山やソウルで、広く商売を始めている時代です。それでも、当時、小麦粉を売っている場所が、そもそもソウルに2-3カ所しか無かったとか(従来朝鮮の小麦粉は、まともな石臼も無く、手挽きで量が作れなかった為、両班の高級食だった)。
また、水車は、高麗の国(高句麗)から曇徴がもたしたと日本書紀に記録がありますが、動力水車=粉挽き水車であり、その後、日本で広く普及した潅漑用水車ではありません。日本における粉挽き水車は、三輪地方が古くからあったと言われていますが、一般的に広まるのは粉食が一般化する江戸時代とされます。曇徴は、他にもももたらしたものがありますが、そのほぼ全てが李朝・高麗に存在しません。では曇徴はどこの人でしょう、満州か河北かな?

世宗11年12月3日(1429)
一。 日本農人, 有設水車, 斡水灌田者, 使學生金愼, 審其造車之法。其車爲水所乘, 自能回轉, 挹而注之, 與我國昔年所造之車因人力, 而注之者異矣, 但可置於急水, 不可置於漫水也。 水砧亦然。 臣竊料之, 雖漫水, 使人踏而升之, 則亦可灌注矣。 今略造其形以獻, 乞於各官可置之處, 依此造作, 以助灌漑之利。

世宗12年9月27日(1430)
本國人民, 但知堤堰之利, 不知水車灌漑之益, 遇旱失農, 誠可憐憫。 其令各道監司, 放可置水車之處, 以今所頒水車, 依樣製造, 監司以時考察, 每當殿最, 幷錄勤慢, 以憑黜陟。

世宗13年5月17日(1431)
上自中國, 下至倭邦, 皆受水車之利, 豈於我國, 獨不能行, 予之拳拳於此, 匪棘其欲, 視民利耳。

世宗13年6月3日(1431)
凡此諸術, 只就其地, 相水之强弱, 而爲之(栽)〔裁〕制, 不可以臆度, 而預爲之也。 自斡之車, 在漫流固不可施, 日本人, 有築川通溝, 而設之者矣。 今於漫流, 小加防築, 通一小溝而設之, 則可以爲急流而自斡矣。 今奉使者, 亦不知其術而妄作, 有乖於殿下愛民重農之至意, 故仰陳所懷, 伏望殿下, 以此下諭諸道, 仍命金愼, 校正於一方, 示之以易, 而使諸造者取法焉, 則庶幾水車正, 而灌漑之利成矣。

世宗13年10月30日(1431)
○判書安純啓: “今以倭水車與吳致善所造水車, 激水試之, 倭水車可用於灌漑, 致善水車可汲井, 不可灌漑。 倭水車於農事甚便益, 請分送工匠于諸道, 造而用之。” 上曰: “一人造之, 而可及明年之農事乎? 令諸道見樣以造可矣。

世宗13年11月18日(1431)
戶曹啓: “水車監造官手本內, 倭水車, 若於田未盡乾時用之, 則二人一日之役, 可灌數畝之田, 宜移文各道, 預備造車之材, 令匠人指導造作, 竝就陂澤, 習激水之狀, 使農民樂用。 唐水車, 亦竝造作, 外方匠人有能傳習, 利於灌漑者, 令監司考其實效, 啓聞賞功。”

世宗13年12月25日(1431)
○工曹啓: “倭水車及唐水車造作匠人, 請於京畿、忠淸道幷一名, 全羅、慶尙道幷一名發遣。” 從之。

世宗15年4月8日(1433)
○初, 朴瑞生奉使日本回還, 極言水車之利, 上信之, 都承旨安崇善亦獻議以爲可行, 上顧左承旨金宗瑞曰: “爾意何如?” 對曰: “前此禹希烈多作水車, 行之數年, 竟不見其利而罷之, 臣意恐未可也。” 上曰: “中國及倭邦皆利其用, 我國介在其間, 安有不可用之理? 但行之者不用力, 或未得其要耳。” 對曰: “本國土(姓)〔性〕麤疎, 泉水汚下, 雖百倍其功, 一日所灌, 不過一畝, 而功輟則滲漏, 臣親見其狀。” 上曰: “大抵人情, 憚於新作。” 卽分遣敬差官于各道, 多置水車, 久無其效, 上疑之。 至是, 令宦寺田吉洪, 置水車於行宮近處, 役百人激之, 一日所灌, 止一畝, 而亦盡滲漏。 又令崇善往觀之, 崇善啓曰: “宗瑞終始皆言不可用, 請與俱行, 詰其利害。” 命許之。 俱往, 役八十餘人終日激之, 所灌不及一畝, 而皆滲漏。 崇善等回啓其狀, 命扈從宰相議之, 皆曰: “不可用。” 卽命還各道敬差官, 其水車藉人力者皆罷之, 唯自激水車不罷。

文宗元年11月18日(1451)
予聞, 中國盛用灌漑, 多以水車爲功。 又聞, 倭邦亦利灌漑, 以故雖小有水旱, 鮮有失農, 民食恒足。 我國自來, 亦多有川防貯水, 而遺利之處多, 故若遇水旱, 民散流亡。 先王念此, 立水車之法。 然本國土性浮踈, 不能載水, 故水車之法, 終不見利。

成宗19年6月24年(1488)
○下書全羅道觀察使李諿曰: “聞崔溥到中國得見水車制度而來。 其令巧性木工, 聽溥指揮, 造作上送。”
燕山君8年3月4日(1502)
○承旨張順孫啓: “江原道地多險阻, 無水田, 黃海道居民鮮小, 水車行用爲難。 請於京畿、忠淸道試之何如?” 傳曰: “可。”

明宗元年2月1日(1546)
朴孫見福建道水車, 詳習其制, 還本國, 敎匠人造作, 其用甚利於農作

明宗元年4月23日(1546)
侍讀官尹仁恕曰: “濟州漂流人到琉球國, 刷還到上國時, 見福建道水車之制而傳習之, 今若制作, 激水甚便。
明宗元年4月29日(1546)
○戶曹判書沈連源啓曰: “水車遇旱, 激水甚便, 民多蒙利, 作小制水車, 頒布八道何如?” 傳曰: “可。”

孝宗元年5月15日(1650)
○上自內召匠, 造水車一具, 出付備局, 下敎曰: “昔於燕、瀋之路, 諦觀治水田之具, 灌漑之用, 莫如水車, 而我國則全昧此制, 咫尺雖有袞袞之流, 地勢暫高, 則立視其枯涸, 而末如之何, 良可歎也。 農者, 國之大本, 而其器之不利, 又如此, 深以爲憂。 今令工匠, 造出其制, 廟堂審其便否, 如其可用, 則傳布外方, 以爲勸農之一助。” 回啓曰: “聖上當此旱乾, 特軫民事, 自禁中造水車, 制度甚巧, 轉斡如神。 誠能家置戶設, 則有益於備旱, 必不淺淺。 亟令有司, 依樣造十箇, 分送八道及開城、江都。” 從之。

肅宗5年3月3日(1679)
○戊戌/命李敏哲造水車。

英祖16年4月5日(1740)
孝宗大王嘗頒遼瀋水車之制於外方, 今無見存者, 而獨於備局有之, 請令戶曹依樣造成, 分送三南, 使試用。” 上從之。

英祖16年11月20日(1740)
○作水車。 初, 孝廟在瀋館, 見水車引水注畦, 取其制以來, 令戶曹製之, 將以頒下諸道, 爲田農引水之具, 而其遺制尙在戶曹。

正祖19年2月18日(1795)
批曰: “水車之制, 其利可勝言哉? 古人以興水利爲利用厚生之本, 鄭鑿、史引亦豈有別術? 去冬綸音, 水原山城外, 開墾曠土於約播百包之地, 導光敎水以漑之者, 亦出於興水利。 才不見用, 莫今時若, 爾能開口言之, 許令度支之臣, 面詰於爾, 又使巧思者, 造出試之, 咸以爲便, 則可爲生民一大蒙利之端。”

純祖11年3月30日(1811)
其一, 本邑穀貴民貧, 連阡旱田, 引水開畓事也。 歲之豐歉, 專係水田之有水與否, 桔槹灌漑, 其力也小, 不如水車遠矣。 第以我國民俗, 狃於素習, 忽於初見, 雖有水車, 亦必不知爲
最終更新:2014年10月31日 08:08