東京都港区台場。
通称「お台場」と呼ばれるこの地域は、東京都の臨海副都心開発によって13号埋立地に成立した。
主要な交通路のひとつであるレインボーブリッジやフジテレビ本社移転などで一躍有名になったこの街は、
多くの企業が流入し文化の発信地として急速な発展を遂げ、数年前まではほとんど更地同然だったにもかかわらず、
現在では東京の一大観光スポットとして広く認知されている。
大型休暇に入れば、周辺都市のみならず日本各地から噂のアクアシティやヴィーナスフォートといった
ショッピングテーマパークや、大江戸温泉物語や大観覧車などのレジャー施設を堪能しようと大勢の観光客が訪れる。
だが、それらの人間がすべて善良な市民とは限らない。人が集まればそこには必ず負の側面が生じるものだ。
日が西の空に沈みかけ、名残惜しげに赤光を投げかけるお台場レインボー公園。常ならば遊んでいた
子供たちも帰宅し、静寂に包まれているはずの空間は、ただならぬ喧騒と無数のパトライトに埋め尽くされていた。
公園前の歩道にガードレールを突き破ったバスが乗り上げ、停止している。その周囲を
何台ものパトカーが取り囲み、バスの動きを封じていた。さらにその周りを盾を構えた機動隊員が固め、
私服制服を問わず多くの警官が駆け回り怒号を飛ばす。
バス車内の乗客からバスジャックの通報があったのは今から30分ほど前。通報の内容によれば
犯人は二人組で拳銃で武装。パトカーで包囲したものの人質を取られ、手が出せないまま膠着状態が現在まで続いている。
「SATは! 交渉人はまだ到着しないのか!?」
包囲の後方で指揮を取っていた捜査員が叫ぶ。
打開策が見出せないまま無為に時間が過ぎていき、マスコミと野次馬ばかりが増えていく。
このままでは人質の身に危険が及ぶかもしれない。さらに悪いことにこの公園は小学校とマンションに挟まれているのだ。
下校時刻を過ぎているため、子供たちが残っていないのが唯一の救いだが、市民が危険なことに変わりはない。
上からの指示ではSATと交渉人の到着まで現状を維持せよとのことだったが――
「それが、付近で行われたイベントの帰宅混雑に巻き込まれ身動きが取れないそうです!」
「なんだそりゃ!? どうなってんだこの街は!?」
捜査員の怒りは無理もない。以前、湾岸署の篭城事件の際にもアニメイベントのせいでSATの到着が
遅れたことがあるのだ。ただの偶然なのだが、同じ街で同じことがこう続くと毒づきたくもなる。
「さっさと金とヘリを用意しろぉ! 人質ブッ殺すぞぉ!」
こちらが手を出せないのをいいことに好き勝手な要求をわめく犯人。上に問い合わせても、
依然SATと交渉人を待ての一点張りだ。何一つ好転しない事態に捜査員の苛立ちがさらに募る。
「所轄の連中は何をやってる!? とっとと住人を避難させろ!」
「もうやってるっつーの」
マンション三階の通路から現場を見下ろしながら、無線越しの怒声に恩田すみれはぼやいた。
眼下では、犯人を包囲する無数の赤い光の乱舞と、大勢の人質を乗せたままのバスが互いに動けぬまま膠着している。
犯人の声はすみれのところにも届いていた。節度が感じられない粗暴で上ずった叫び声。
おそらく犯人は場慣れしていないただのチンピラレベルの相手だろう。そんないつ暴発するかもわからないような
手合いが銃を持って暴れているのだ、バスの中の人質の不安と疲労はもう限界に近いだろう。
自分の胸の辺りがじくり、と痛んだような気がした。銃の恐ろしさは身をもってよく知っている。
『台場会社役員連続殺人事件』の際に犯人から子供をかばって撃たれた傷。完治したはずの銃創が疼く。
今すぐ現場に下りたい、バスに乗り込んで犯人を引き摺り出して人質を解放してあげたい。
そんな逸る気持ちをすみれは押さえ込む。
どれだけ息巻いたところで彼女は一介の所轄の刑事でしかない。現場に行ったところで『本店』の人間に追い払われるのがオチだろう。
それよりもまずは目の前の仕事を片付けることが最優先だ、そう気持ちを切り替える。
幸い公園に隣接したマンションの住民の避難はあらかた済んでいる。後は同僚である柏木雪乃の担当区域が
終われば完了するはずだが――
「すみれさん! こっちの避難も終わりました!」
「ん、ご苦労さん。それじゃ次、交通整理の応援行こ」
タイミング良く雪乃が避難完了を知らせに来る。
初めてすみれと会ったときは父を殺され失意の底にいた彼女だが、今では刑事課の一員としてアクティブに活躍している。
アクティブすぎてたまに青島ばりの無茶をするのが難点といえば難点だが。
と、そこでふとすみれは青島のことを思い出した。
「青島君まだ帰ってきてないの? この大変な時にどこほっつき歩いてんのよまったく!」
別の発砲事件で聴き込みに出ていた青島の姿がどこにも見当たらないことに気づいたのだ。
「青島さんなら一時間くらい前に連絡がありましたよ。乗っていった車がSUVにぶつけられて動けなくなっちゃって、
別の方法で帰るって言ってました」
「よりによってこんな時に……、真下君もまだ来れないっていうし、こんな時のためのネゴシエーターでしょうに」
ため息が漏れた。どうにも巡り合わせが悪すぎる。
「まー文句を言ってもしゃーないわね、やれることをやってかないとね」
「はい。……あの、大丈夫ですか? まだ退院したばっかりなのに……課長に頼んで内勤にしてもらったほうが
良かったんじゃないですか?」
「へーきへーき、イスの上でじっとしてるより現場で体を動かしてた方がいいリハビリになるわよ。
ほら、次の仕事行かないと本店にどやされるわよ」
笑い飛ばして雪乃の肩を叩き移動を促そうとしたところでふと、再度現場を見下ろす。
青島が言っていたという『別の方法』というフレーズがなぜかひっかかる。まさかとは思うが――
「あのバスに青島君が乗ってる、なんてことないわよね?」
バスの内部は悲痛な空気に包まれていた。乗客は怯え時折すすり泣く声が聞こえる。
だが不安なのは乗客だけではないようだった。
「やべぇよノボル、すげぇ囲まれてるよ……俺ら撃ち殺されるんじゃねぇの……どうするよ……?」
「うるせえんだよタカシ! てめぇは黙って人質見張ってろ!」
ヒステリックに叫んで銃を振り回す高橋ノボルには、なぜこんな状態になっているのかまったく理解できなかった。
くだらない日常に飽き飽きしていたある日、おかしな外人から銃を手に入れたノボルは確信した。
これはチャンスだと、銃があれば自分にはでかい事ができる、その才能が自分にはあると。
連れの小形タカシを誘い、手始めにコンビニを襲うことにした。
犯罪で失敗するやつは大抵計画を複雑にしすぎるせいだ、三億円事件のように出鱈目な証拠を残して
逃げまくれば馬鹿な警察には捕まらない、そう考えて襲撃計画自体は店員を脅して金を奪い、外を通った
車を奪って逃げるというシンプルなものにした。
襲うコンビニは足が着かないよう地元から離れたお台場にする。この時点で計画は完璧だった。
ノボルは完璧な計画を練った自分の才能に惚れ惚れさえしていた。
だが実行の段階ですべてが狂った。目出し帽をかぶり銃を構えコンビニに押し入り店員を脅したが、
「へ? え?」
店員は理解できずに呆けていた。店員が強盗だと理解する前に奥の棚の影にいて見えなかった小さなババアが悲鳴を上げて
大騒ぎを始めた。店員が遅まきながらレジの金を出そうともたついている頃には、悲鳴に気づいた通行人が携帯で
警察に通報を始めていた。ほとんど金を盗れないまま外に飛び出し車を奪おうとしたが表には一台も車が通っていなかった。
そうこうしているうちに遠くからパトカーのサイレンが聞こえ、あわてて土地勘のないお台場を逃げ回りながら、
たまたま目に付いたバス停に止まっていたバスをジャックし現在に至る。
相方のタカシは腰が引けているが、ここまでやっておいていまさら引き下がれない。なんとしても警察から
金を巻き上げてやる。こちらには人質がいるし、なにより銃があるのだ。これさえあればなんとでもなる。
「オラァ! 金どうしたぁ!? チンタラやってんじゃねーぞぉ! 人質殺すぞぉ!」
「もう少し待ってくれ! 準備に時間がかかるんだ!」
案の定、警察の連中は何もできない。今の主導権は間違いなく自分たちにあるのだ。
にもかかわらず警察の連中はさっきから時間稼ぎばかりしている。明らかにこちらをナメている。
人質を殺す度胸など無いとたかをくくっているに違いない。
(ふざけやがって……!)
あんな数だけの能無しどもになめられてたまるか、あのパトカーの群れのど真ん中に一発撃ち込んでやれば
連中もきっと思い知るだろう。自分が本気になったらどれだけ恐ろしいかを。いや、それよりも人質の死体を
やつらの目の前にぶら下げてやったほうが面白いかもしれない。奴らは自身の無力さと間抜けさ加減を見せ付けられ、
屈辱に悶えるに違いない。その無様さはきっと笑えるだろう。でもそれはすべて警察の自業自得だ、
連中が自分を甘く見ているのが悪いんだ――
完全に頭に血が上った状態で、妄想だけが加速していく。感情が昂ぶるままに任せノボルはタカシに声をかけた。
「なぁタカシ」
「な、なんだよ?」
タカシ自身パニックになりかけていて声をかけられるまで気がつかなかったが、さっきまでわめき散らしていた
はずのノボルがいつの間にか不気味なまでに静かになっていた。唐突な相方の変貌に嫌な予感を感じ、
思わず後ずさるタカシ。その退路をふさぐように致命的な言葉がかけられた。
「見せしめだ。そこのババアを殺れ」
銃口で指し示された老婆が短く悲鳴を上げた。
「は、はあ!? なんでだよ!? それになんで俺が――」
「見せしめだっつってんだろうが! このままサツにナメられっぱなしでいいと思ってんのか!?」
「や、やだよ俺! それに最初の話じゃ殺しをやるなんて聞いてねえよ!? これじゃ話がちげぇえ!?」
反発の言葉は銃口でさえぎられた。
「お前、おれの味方か? 敵か? いまさら自分だけ逃げようなんて考えてないよな? あ?」
タカシは顔面に突きつけられた銃口の向こうに血走ったノボルの眼を見て、全てが手遅れであることを悟った。
こいつは本当に殺る気だ、逆らったら自分も殺されかねない。何か落ち着かせる方法は無いのか、慌しく考えをめぐらせる。
殺しなどやれば本当に人生お終いだ、それだけは避けなければ。そう考える反面、自分の銃を持つ手はのろのろと
老婆のほうへと向いていった。もとより自分の命と赤の他人の命では比較にならない、そう精神は完全に屈服していたのだ。
「や、やめてください……殺さないで……」
震えながら命乞いをする老婆。引きつったノボルの嘲笑が車内に響く。
今や誰の眼にも老婆の命は風前の灯であるように思われた。だが――
「おい、待て」
低い声が今まさに行われんとしていた凶行を妨げた。クライマックスを邪魔され激昂したノボルが振り向きざまにわめく。
「ンだテメェ! お前から殺し――」
怒声は最後まで発する前に窄んで消えた。ノボルの目の前に立っていたのは彼よりも頭半分は背の高い巨漢だった。
厳つい顔立ち、熊のように分厚い胸板とがっしりとした肩幅、派手なワインレッドのシャツに真っ白なジャケットとズボン、
足には派手な革靴、明らかに『その筋』の人間にしか見えない。ノボルはその男の顔に見覚えがあった。最後尾の座席に
子供に囲まれて座っていた中年の男。子連れの中年=ただのおっさん=弱いと勝手な先入観で脅威ではないと思い込んでいた。
男は自分に向けられた銃口にもまったく動じる様子を見せぬまま、傲然とノボルを見下ろすと口を開いた。
「お前らが頭を冷やしておとなしく自首すりゃそれにこしたこたぁ無いと思って黙ってたんだがな、
さすがに限界だ、やりすぎだぜガキども」
突然の上からの物言いに、最初唖然としていたノボルは、一拍おいて先ほど以上の怒りに顔を真っ赤に染めた。
今このバスで一番力があるのは自分のはずだ、その証拠に自分の手には銃がある。その自分をまるで格下のように扱う
白ジャケットの男がどうにも許せなかった。
「カッコつけんじゃねぇよおっさん! 出しゃばってるとテメェから殺すぞ!?」
怒りに任せて男のわき腹に銃口をねじ込む。余裕面が恐怖にゆがみみっともなく命乞いを始める光景を想像し、
暗い笑いを漏らす。もちろん命乞いしたところで助けてやるつもりなど無い。徹底的にビビらせたうえで殺してやる。
その邪な期待は、男の小揺るぎもしない巌の表情によって打ち砕かれた。それどころか、
「そこじゃねぇよ馬鹿」
「!?」
「そんなとこ撃ったって人間は死なねえって言ってるんだ。狙うんならココを狙え」
あまつさえトントンと己の眉間を指で叩く白ジャケットの男。繰り返される侮辱にノボルの我慢は限界を超えた。
男の望みどおりに眉間に銃を突きつける。身長差の関係から銃がやや上のほうに向けられる形だ。
「じょ、上等だよ、その脳天に大穴ブチ開けて――」
「ああそれとな」
突然男の体躯が膨れ上がったようにノボルには見えた。拳銃越しに貫くような鋭い視線がノボルを射抜く。
「殺すんなら一発で殺れよ。もしその引き金を引いて俺がまだ生きていたら――俺がお前を殺すぞ」
予想だにしていなかった剥き出しの殺気を叩きつけられ思わず後ずさりそうになる。この場で優位に立っているのは
自分であって、その自分が殺される側に回るなどということはまったく想定していなかった。
怒りと恐れがない交ぜになった感情に襲われ頭が混乱する。ただ一つ分かっていたのは、
この男をこのまま
生かしておくわけにはいかないということだけだった。こいつは自分を脅かす存在だ。だがこっちには銃がある。
今のうちに殺してしまえば問題ない。
男の放つ威圧感に圧倒されそうになりながら、弱気を押し隠して銃を握る手に力をこめる、が――
「あの~、ちょっといいですか?」
再度水を差す声が上がった。白ジャケットの男とは正反対の弛緩しきった声。その声の主は前方の座席に
座っていた男だった。
長身痩躯を黒のスーツに赤いネクタイで包み、その上からモスグリーンの軍用コートを羽織っている。コートは
長年使っているのか大分ヨレヨレになっていた。顔立ちは端整といってもよいが、今はその顔に卑屈な愛想笑いを浮かべている。
ジャケットの男と対峙したままのノボルは、その及び腰の態度に多少安堵した。こっちの男は脅威にはなりそうに無い。
首だけ後ろにひねり怒鳴りつける。
「なんなんだよお前は!?」
「あ、すいません。今ちょっと名刺切らしちゃってて……」
「誰が自己紹介しろっつったよ! 何の用だっつってんだ!」
「いや~、あのですねぇ」
コートの男はオドオドと周囲の様子を伺いながら立ち上がる。
「こういう狭い場所で銃を使うのって実はすごく危険なんですよね。映画とかで聞いたことありません?
跳弾ってやつ。銃弾って至近距離で撃つと簡単に人間の体を貫通しちゃうんですよね。その弾が壁や何かに
ぶつかって跳ね返ったら、撃ったあなた達まで当たっちゃうかもしれないんですよ。それはまずいんじゃないかな~なんて」
卑屈な笑顔のままノボルたちに忠告めいた発言をする新たな男。その様子は犯人に媚を売り、あわよくば
自分だけは助かろうとする小物のような態度にノボルの眼には映った。
しかし、一見遠慮がちに振舞うコートの男が、その実じりじりと自分たちとの距離を詰めていること、
一瞬だけ白ジャケットの男と視線を合わせたことには気づいていない。
「それに今、外にいる警察がすごくピリピリしてるじゃないですか。ここで銃声が響いたら、それをきっかけに
警官が一斉に突入してくるかもしれませんし」
コートの男は従順そうな態度を見せているが、ノボルの苛立ちはまったく収まらなかった。もともと誰かに
説教や指図をされるのが嫌いなのだ。その発言に聞くべき部分が有る無しは関係ない、自分に行動に
横槍を入れてきたこの男はそれだけで不愉快だった。
「いちいちウゼーんだよお前! タカシ、やっぱこいつから殺せ」
「ええっ、そんなぁ」
突然の指名に大仰にのけぞって動揺して見せるコートの男。悲鳴もどこか棒読みだったが、精神的に余裕の無い
ノボルたちは不審に思うことができない。
「結局俺が殺るのかよ……」
タカシは憂鬱な表情でコートの男へ向きなおる。自分は不本意であるということをせめて周囲にアピール
しようとしているのか、ノロノロと銃を持つ右手を持ち上げた。
瞬間、コートの男が動いた。さりげなく接近していた場所からさらに踏み込むと、タカシの右手に手刀を振り下ろす。
予想外の衝撃に拳銃を取り落とすタカシ。何が起きたのか理解できず床を滑っていく銃を呆然と見やる。
卑屈だった男の表情が鋭い闘志を湛えたものへと一変していた。タカシの動揺した隙を見逃さず、顔面を裏拳で打ち据える。
「ぶげっ!?」
怯んで後ろへ逃げようとするが、男の追撃はそれを許さない。泳いだタカシの右腕を掴み、脛へ蹴りを見舞う。
弁慶の泣き所を強打され、痛みにバランスを崩して前傾姿勢になる。掴みかかろうとした腕を男は難なく捌き
右腕の関節を捻りながら床へと引きずり倒した。そのまま腕を左脇に挟みながら上方へ捻り上げ体重をかける。
柔道の脇固めの体勢。関節の痛みにタカシの動きは完全に封じられた。
手刀から続く一連の流れるような捕縛術、それは男が一般人とは違う何らかの訓練を受けたプロであることを示していた。
ノボルはただ黙ってその光景を見ているほか無かった。無害だと思っていたコートの男が突然牙を剥いたことに
呆気にとられ反応できなかったというのもある。だがノボルが我に帰った時には、銃を持つ右手を
白ジャケットの男に凄まじい握力で掴まれていたのだ。
「いっだあああああ!?」
激痛に耐えかね手を振り払おうともがくが、万力で挟まれたように右手はまったく動かせない。
空いた手で男を殴りつけても、大木を殴ったような硬く重い手ごたえが帰ってくるばかりで力が弱まる気配すらなかった。
男は痛みに緩んだ手から銃をひったくると、慣れた手つきで弾倉を捨て、薬室から銃弾を排出、さらには
スライド部分まで解体してしまうと、それらをすべて背後へ投げ捨てた。
「ガキの遊びに付き合うのはここまでだ」
男の威圧感に満ちた視線にノボルは完全にパニックに陥った。自分の自信のよりどころだった銃は奪われ、
丸腰の状態で大勢の警察と得体の知れない男と向き合う状況にいまさらながら恐怖した。
「うあああああああああっ!」
恐慌状態に陥ったノボルはただ闇雲に突進した。勝算も何も無いまま、元凶である目の前の男の首を絞めようと手を伸ばす。
だが男の動きのほうが早かった。ノボルの胸倉を掴みあげると、その顔面に頭突きを叩き込む。
衝撃と痛みに目の前に火花が散り、たたらを踏むノボル。男はさらにその後頭部を掴むと大きく反動をつけて
後部昇降ドアへと叩きつけた。たまらず倒れこんだノボルの目に、止めを刺そうと足を振り上げる男の姿が映った。
『俺がお前を殺すぞ』
男の言葉がよみがえる。
(死にたくない、死にたくないイヤだ――!)
必死に命乞いをしようとするが、痛みで舌が回らない。ノボルは何もできぬまま無情にも振り下ろされる靴底を眺め続けるしかなかった。
「やりすぎたか……?」
気絶した犯人を見下ろし、白ジャケットの男――桐生一馬は呟いた。足をどけると鼻が完全に潰れている。
最近まで腹の傷の療養に専念して荒事からは遠ざかっていたため、久しぶりの喧嘩に加減が分からなかったのだ。
それに相手が銃を持っていたために、こちらも多少気が立っていたというのもある。他の乗客に当たらないよう
銃を上のほうに向けさせ、『古牧流短筒崩し』で一人目をしとめるつもりだったが、二人目を動き出す前に倒せるかどうかは
危険な賭けだった。コートの男が現れ、もう一人を取り押さえてくれたことは僥倖というほか無い。
「おじさん! 大丈夫!?」
後ろの座席から、遥を先頭に子供たちが駆け寄ってくる。全員、桐生が沖縄で経営している養護施設「アサガオ」で
一つ屋根の下で暮らす家族同然の子達だ
「俺なら大丈夫だ。皆も怪我は無いか?」
「うん、私たちも平気だよ。気分が悪くなった子とかもいないみたいだし」
「やっぱおじさんつえーな!」
「こわかったー」
「やっと降りられる~」
口々に騒ぎ出す子供達。それにつられるかのように車内の張り詰めた空気が解けていった。見事犯人たちを
取り押さえた桐生とコートの男に向けて拍手が起きる。桐生がコートの男のほうを見ると、抵抗を止めた犯人を床にうつ伏せにさせ
手錠をかけているところだった。
立ち上がろうとした男に手を貸して引き上げてやる。
「いやーご協力ありがとうございます。相手が2人いたもんでなかなか手が出せなかったんですが、あなたの
おかげで助かりました。お強いですね」
そう笑う男は刑事というよりもどこか営業サラリーマンのような愛想の良さがあった。少なくともこれまで
桐生が出会った刑事にはいなかったタイプだ。
「あんたもな。あのタイミングで立ち上がった以上只者じゃないとは思ってたんだが、やはり刑事だったか」
「ええ、このバスに乗ってたのは偶然なんですけどね。ああそうだ、後で犯人を取り押さえた経緯について
調書をとることになると思います。あ、私、湾岸署の青島といいます。そちらのお名前伺ってもよろしいですか?」
「俺は――」
『確保―――――!!』
桐生が名乗ろうとした矢先、拡声器からの叫びとともに前後のドアがこじ開けられ、車内に警官たちがどっと雪崩れ込んでくる。
あっという間にバス内部はごった返し、自己紹介は中断せざるを得なくなってしまった。
初春にもかかわらず寒気が肌を刺すお台場にて、これが元東城会四代目会長、桐生一馬と、
警視庁湾岸署捜査課強行犯係巡査部長、青島俊作の出会いだった。
お台場のバスジャック事件が解決してから数時間後
東京赤坂の某高級料亭の裏手に、ある政財界の大物との会談を終え帰路に着こうとする男の姿が会った。
堂々とした体躯ながら黒の高級スーツを着こなし、その胸元には『東』の文字を崩したバッジをつけている。
男の名は堂島大吾、若くして東日本最大の暴力団「東城会」を束ねる第六代目会長である。
大吾が外へ出ると、リムジンの脇で待機していた側近の一人が近づいてきた。
「お疲れ様でした、会長。首尾の方はいかがでしたか?」
「話はまとまった、これで神室町ヒルズの建設を本格的に進められる。首の皮一枚、どうにか繋がった」
東城会の現状はお世辞にも順調とはいえない。近年連続して起きた内部抗争や、関西の近江連合の襲撃により、
組織は疲弊しきっている。特に東城会の経済的基盤を支えていた白峯会が崩壊したことで、
いつ組織が空中分解しても
おかしくない状況に追い込まれてしまった。この苦境を打開すべく大吾は日々奔走している。今回の会談を成功させたことで
東城会が生き残る目がやっと見えてきたのだ。
「それではこのまま本部に戻りますか?」
「いや、その前に何か腹に入れたい。病み上がりにここの飯はいまいち合わなくてな――」
「おい! 止まれ!」
大吾がリムジンに乗り込もうとした矢先周囲を見張っていた護衛の一人が怒声を上げた。見ると、暗灰色のコートに
帽子を目深にかぶった一人の老人が近づいてくる。
「会長、危険かもしれません。お早く車に――」
促す側近を手で制する。大吾はその老人にどこか見覚えがあったのだ。一方老人は殺気立つ護衛を気にした風も無く
飄々と声を上げる。
「おいおい、こんな年寄りにそういきり立つこたあないだろう。俺はよ、ただ昔の知り合いを偶然見かけて
挨拶しようと思っただけなんだからよ。なあ、大吾?」
そういって老人は帽子を取る。その素顔に大悟の予感は確信へと変わった。
「和久さん……」
「いよぉ、久しぶりだなぁ」
護衛たちの向こうで、まるで旧知の友人に会ったように軽く手を振る老人、その皺深い顔がニッと笑った。
数刻後、大悟と和久は小さな屋台へと移動していた。大吾はもっと高級な店へ案内しようとしたが、
和久が「その手の堅苦しい所は苦手だ」と断ったため、ここに落ち着いたのだ。
「しかし、俺が神室署にいたころは手のつけられねえ悪ガキだったお前が、今や押しも押されぬ東城会の六代目か。
俺の知り合いん中じゃお前が一、二を争う出世頭だなぁこりゃ」
「あの頃は和久さんには本当にご迷惑をおかけしました」
「ははっ、お前さんからそんな殊勝な言葉が聞けるとはねぇ、俺が年を取るわけだ。ほれ」
「頂きます」
和久から熱燗を注いでもらいながら、改めてその顔を見る。記憶の中にある姿より皺が増えているのは当然だが、
背も少し縮んでいるように思えた。和久が神室署にいた頃はすでにそれなりの歳だったから、今では六十をとっくに超えているはずだ。
昔、大吾がまだ東城会に所属せずただのチンピラだった頃、喧嘩で神室署へしょっ引かれるたびに和久の世話になった。
当時の和久は、大吾の顔を見ると「またお前か」と苦笑して茶を勧めてきた。説教をするでもなく雑談をして、
適当に時間が過ぎれば釈放するというのがいつもの流れだった。
ただ帰り際にいつも
「あまりつまんねぇ喧嘩はよせ、そんなんで怪我したり命落としたりしても何も面白いことなんてねぇぞ。
それと無関係なカタギは絶対に巻き込むな。もし巻き込んだ時は容赦はしねぇからな」
と、戒められてきたものだ。結局喧嘩のほうは止めることがなく、和久に迷惑をかけ続けることになってしまったが。
大吾にとっては数少ない頭の上がらない存在の一人である。
「和久さんは今は何を?」
「俺か? 俺はもう引退したよ。娘も結婚したし身の回りの問題は全部片付けた。今は一日中好きなだけ
盆栽をいじってられる。悠々自適の生活ってやつだ。あ、オヤジ、つくねとねぎま頼む」
そう語る和久の横顔に、確かに往時の鋭さはなくなったように見えた。警察官になって以来ヒラの巡査として
現場をずっと駆け回り続けてきた男だ、引退して肩の荷を降ろしたことで張り詰めていたものが切れたのかもしれない。
大吾にとってはそれが少し寂しくもあった。
「お前さんのほうはどうなんだい? 風の噂じゃ随分とゴタついてるって話だが」
「ええ、ですがどうにか再起の目処は立ちました。これ以上揉めて世間に迷惑をかけることはないはずです」
「ふーん、そうかい。ま、そいつはなによりだな。……ん?」
和久の手が止まる。どこか遠くの方でパトカーのサイレンが鳴っていた。
「最近増えたなぁ。知ってるか? 近頃銃を振り回すガキが急に増えたって話。ほんの何時間か前にもお台場で
銃持った奴のバスジャックがあったんだとよ」
そう語る和久の表情は苦渋に満ちたものになっていた。この1ヶ月で都内の銃犯罪の件数は3倍以上に激増している。
何者かが意図的に銃を闇ル-トで流していることは明白で、実は大吾も自分の意に反したその実態を把握しようと
調べさせているのだが、海外の組織が関わっているということが分かったのみで、未だ全容は見えていない。
かつて八王子署にいた頃、相棒が銃で殺されたことのある和久にとって銃犯罪の多発は許しがたい状況だろう。
「さっきは悠々自適なんて言ったが、今でも夜中にパトカーのサイレンを聞くと目が覚めちまう。捜査で何かあったときに
真っ先に死ぬのは現場の刑事だ。若い連中が無事でいるのか、そればっかり気になってしょうがねえ」
言うと和久は熱燗を一息にあおる。
「そうだ、いい機会だからひとつ聞いておくか。なあ大吾」
「はい」
和久の問いかけに向き直る大吾。その体が固まった。
視線の先、和久の表情、和久の眼が一切の身じろぎを許さなかった。今までの好々爺めいた顔から、
いつ変化したのか大吾が気づかないほど、自然に表情が一変していた。
相手の欺瞞や韜晦を許すまいとする、現役の刑事の表情へと。
「ここ最近、銃をばら撒いて回ってるのは、まさか東城会じゃねぇだろうな?」
大吾は悟った。今日和久が自分と出会ったのは偶然などではない、この件を問い質すために自分を探していたのだ。
すでに退職してもなお犯罪を許すまいとするその意地、この老人は根っからの刑事なのだろう。
その精神に敬意を払い、大吾は誠意を持って答えた。
「それはありません」
和久の突き刺さるような視線に怯むことなく大吾の視線が交差する。
「少なくとも、俺の眼の黒い内はカタギに銃を売るような真似はさせません。絶対に」
お互いに視線を決して外すことなく、ただ静かににらみ合う。
数秒か、数十秒か、2人にとっては長い長い時間の果てに、和久の視線の圧力が、ふっ、と緩んだ。
「……そうかい、それならいいんだ。お前さんの口から直にその台詞が聞きたかった」
和久は酒を飲もうとして自分のコップが空であることに気づいた。大吾が黙ってそのコップに酒を注ぐ。
「ありがとよ。銃って奴は本当におっかねぇ。あれがあれば子供でも簡単に人が殺せちまう。俺が湾岸署にいた頃も
2人刑事が撃たれて重体になった。今じゃ2人とも元気になって職場復帰してるが、一歩間違えばあいつらは2度と
陽の目が見られなくなってたかも知れねえんだ。それだってのに巷じゃ考えなしの連中が玩具みてぇに銃を振り回してやがる。
俺にはそれが堪らねぇ」
「分かりますよ。俺もこの間まで撃たれて入院していたクチですから。その一件で部下も失ってしまった」
「そういやそうだったな……」
大吾自身、先日まで国際的な武器密売組織『ブラックマンデー』の首領、リチャードソンに撃たれた傷により
入院生活を余儀なくされていた。さらに信頼していた部下、峯義孝が自身のけじめをつけるために
リチャードソンもろとも自決していた。
和久は重くなりすぎた空気を振り払うように大吾のコップにも新しい酒を注ぐ。
「年寄りの愚痴につき合わせて悪かったな。ほれ、お前も飲め」
「はい」
またどこかから別のパトカーのサイレンが聞こえてくる。新しい事件が発生し、危険な現場へ刑事たちが
駆り出されているのだろう。
突如吹いた寒風に和久は身をすくめる。もうすぐ春だというのに気温は一向に上がる兆しを見せない。
それも何かの凶兆の前触れなのだろうか。
初春らしからぬ空気の中、和久と大吾はただ黙して酒をあおった。
続く
最終更新:2010年04月27日 23:34